第83話 剣士、相対す
ざざん、と一際大きな波と共に、巨大な物体が海上に姿を現す。
それは朽ちかけた船だった。マストは折れ、帆もすでにない。船体に至っては船腹が大きく抉られて穴が開き、そこからどぼどぼと海水を吐き出している。
大波によって浅瀬に打ち上げられた船は、傾きながらも何とか倒れずにその体躯を落ち着けた。
『――これで良いかの』
聞こえた声に、アルヴィーは島の中心部、山の方を振り返りながら答えた。
「ああ、ありがとな! マナンティアル」
そして海の方へと向き直る。波打ち際、そしてそこから少し沖へ離れた、辛うじて人の背が立つ程度の浅瀬に掛けて、同じくボロボロになった何隻もの船が鎮座していた。
――事の起こりは、アルヴィーがシュリヴとマナンティアルに“頼みごと”をしたことだ。
島の周囲に沈む難破船を引き揚げて調査するため、一時的に島の周辺で騎士団の艦が活動できるようにして貰えないかと、アルヴィーは彼らに頼んでみた。何しろ、他の船が島に近付くが早いか、島周辺の防衛機能が作動して船を沈めてしまうので、これではいつまで経っても引き揚げ調査ができない。
そんなわけで、その物騒な防衛機能を一時止めてくれるよう頼んでみたのだが、彼らの返答はある意味、アルヴィーの予想を超えていた。
『人間がトロトロやってたんじゃ、いつまで経っても終わんないよ! しょうがないなあ!』
『何隻も船が来て、騒がしいのは好かぬゆえな』
と、シュリヴがそっぽを向きつつ海底の地形を一気に平らにし、マナンティアルが水を操って難破船を海底から引っ張り上げてしまったのである。
『底にはもう残っておらぬな』
海流でざっと海底を浚い、マナンティアルがそう言うと、シュリヴが再び海底を弄り、海中から光が漏れる。アルヴィーは前例があるためこの程度では動じないが、後ろで見守る第一二一魔法騎士小隊の面々は、唖然としてその引き揚げ作業を見守るしかない。
「これは……なかなか壮観ですねえ」
「つーか、地精霊と《上位竜》に沈没船の引き揚げ作業させた人間なんて、歴史上初めてじゃね……?」
人間たちがひそひそとそう囁き合っていると、一筋の光が海の方から地面を滑って来た。
『――どう? 人間がやるよりずっと速いだろ!』
「お、おお、すげーな……ありがとな」
アルヴィーの眼前で人型を取り、得意げに胸を反らしたシュリヴは、だがはたと気付いたように、
『……べ、別におまえのためにやったわけじゃないし! ただ、この島の周りに人間が来るのが鬱陶しかっただけなんだからな!』
そうまくし立てると、沈むように地中に消えてしまう。ちらちらと瞬きながら周囲をくるくる巡る黄白色の光を眺めていると、マナンティアルの楽しげな笑い声が聞こえてきた。
『変に言い訳なぞせずとも良かろうに……ときに、あの船を調べるのではないのかえ? 水中なればともかく、地上に上げてしまえば、あの朽ちようではそう長くはもたぬが』
「おっと、そりゃそうだよな」
マナンティアルの言うことももっともだったので、アルヴィーはフラムをユナに預け、魔法障壁の足場を伸ばして船に向かった。
「――うわあ……ひでえなこれ……」
近くで見るとより惨憺たる状態の船に、アルヴィーは顔を引きつらせる。海の上を突っ切るために創った足場だが、この分では船内でも必要になりそうだ。そのまま乗り込んだらその瞬間に床を踏み抜きそうな気がしてならない。
船腹に開いた大穴を覗き込むと、濃密な潮の匂いが押し寄せてきた。
中に入ってみる。正直、骸骨の一体二体は覚悟していたのだが、沈んでいる時にそれこそ船腹の穴辺りから流されでもしたのか、遺体らしきものは見当たらなかった。
どうやら、アルヴィーが入り込んだのは船倉か何かのようで、流失を免れた木箱や樽の類がまだいくつか残っている。試しに一つ、木箱の蓋を引っぺがして開けてみると、朽ちかけた布の塊のようなものが海水に浸かって入っていた。摘んでみるとあっさり破けてしまう。
そしてその中から、きらりと金色の輝きが覗いた。
「…………」
見なかったことにして、アルヴィーはそっと布を戻し、蓋を無理矢理に閉めた。
(あああああ、何かまた大事になりそうな気がする……!)
気は進まないながらも、他の木箱や樽もざっと確認。樽はまだ良かった。どうやらワインか何かが入っていたようだが、とうの昔に海水と混ざり合って“ワインだった何か”になっている。だが木箱は駄目だ。明らかに金だの銀だの宝石だのといった、厄介事しか生み出さなそうな代物が見え隠れしている。
一応その船の中をざっと確認し、アルヴィーは一旦浜辺に戻ることにした。
「どうだった、アル?」
「ああ……うん、とりあえず《アンバー号》から人呼ぼう。俺の手には負えない……」
げんなりした表情で戻って来たアルヴィーに、ルシエルも何かを悟ったような顔になった。
「……分かった。何か面倒なことになりそうなんだね?」
さすがに親友、即座に状況を掴んだようで、《伝令》を《アンバー号》へと飛ばしてくれた。
――《アンバー号》に乗り組んでいた騎士たちも動員し、改めて引き揚げた船を調べてみたところ、その内の二隻は、どういう理由かは分からないが金銀の像、貨幣、宝飾品などの品を積んでいた。ただ、船体の劣化が酷く、航海日誌などの類も見つからなかったので、船名などは分からない。それこそ積荷を手掛かりに手繰るしかなさそうだ。
思いがけなく見つかった財宝に、騎士たちはざわつきながらも、手掛かりとなりそうな積荷や船内の備品、比較的形を良く保つ船体の一部を《アンバー号》に積み込む。《アンバー号》が比較的大型の艦であったことが幸いし、一隻だけでもかなりの物品を積み込むことができた。その分喫水が多少深くなり、高速船の本領は発揮できなくなるが、後はミトレアに帰港するだけなので大した問題ではない。
「――にしても、凄いもんねえ……こうして引き揚げなきゃ、あんな財宝が未だに海の底で眠ってたってことなのよねえ」
ジーンがしみじみと、浅瀬に並ぶ船を見やる。
「あのお宝、どうなるんだ? やっぱ、引き揚げた奴の総取りって感じ?」
「でも、これだけのものとなると、国に報告しないわけにもいかないと思いますが」
「そうだな。この島がファルレアン領になってる以上、国への報告は必要だ。最終的な権利がどうなるにしてもね」
ルシエルがそう締めくくると、アルヴィーは嫌そうな顔になった。
「えー、めんどくせえ……」
「仕方ないよ。ものがあれじゃあね」
《アンバー号》に積み込まれた財宝を思い出し、ルシエルは遠い目をする。そう詳しく確認したわけではないが、今回発見された財宝はかなりのものだ。下手をすれば下級貴族の領地の数年分の収入に匹敵しかねない。
「まあ、他国がちょっかい掛けてこないだけマシってところか」
船が沈んでいた島周辺はファルレアン王国の領海内となるので、そこで見つかった財物に他国は口を出せない。まあ、ファルレアン領になる前は悪名高い“霧の海域”だったので、その頃だとそもそも船自体見つからなかったのだが。
そうこうしている内に、転移陣の設置を終えた研究所の面々も戻って来た。話を聞き、彼らも色めき立つ。
「おお! そ、それで、何かマジックアイテムのようなものはありましたか!?」
「い、いや、それはきちんと調べてみないと……」
「何かありましたら是非我々の方へ! 隅から隅まで解析してご覧に入れますよ!!」
「ふひひひひ、想像しただけで三徹はできますな!」
「あんたらいっぺんきちんと寝ろ! ホントに!」
徹夜が当然のような生態になっている彼らに戦慄しつつ、アルヴィーたちは《アンバー号》に乗り込む。今から出ると洋上で夜を迎えることになって危険なので、今夜はここで一泊する予定だ。《アンバー号》は洋上での長期作戦行動も考慮して設計されており、宿泊のための設備もある。一泊程度なら充分に対応できるのだ。
――その日の夕食後、アルヴィーは満腹になって爆睡し始めたフラムを船室に置き、ふらりと甲板に出た。
空には月が昇り、夜の海をきらめかせている。とぷん、とぷんと波が船体にぶつかる水音が、心地良く耳を打った。入り江の波は穏やかで、潮騒は遠い。海から吹く微風は熱くも冷たくもなく、帆を纏めたロープを時折揺らした。
「――アルヴィーさん」
こつん、と足音。木製甲板のせいかやや柔らかく響くその足音の主は、歩いて来て隣に並ぶ。
「シャーロット? どうかしたのか?」
「ええ、少し風に当たりに」
そう言って、彼女は月明かりに目を細めた。
「……そういえば」
不意に彼女が呟き、ぼんやり海を眺めていたアルヴィーはふと我に返った。
「え?」
「いえ、どうして沈没船を引き揚げたのかと思って。まさか、あんな財宝が積んであるなんて知ってたわけじゃないでしょう?」
「ああ……」
アルヴィーはきらめく海面に目を落とす。
「……船乗りだったら、海で死ぬのは本望だ、っていうのかもしれないけど。――でも、陸に帰りたい人もいるんじゃないかと思ってさ。だって人間って、やっぱどうしても、陸地の生き物だから」
どうしようもなく海に惹かれる人間というのも、確かにいるだろう。それでも人はやはり、大地の上で生まれて大地に還る生き物なのだ。
「ずっと昔のことだろうし、海で満足してる人もいるかもしんないけどさ。けどそういう人にも、陸で待ってた人はいると思うんだ。だから、そういう人たちに遺品だけでも返せれば、いいと思って」
遺体はもうすでに、海に還ってしまっている。だが彼らが使っていたであろう雑貨などの、身の回りの品と思しきものも、いくつか回収することができた。騎士団の方で遭難記録を調べてくれているので、それと照らし合わせれば、もしかしたら持ち主や遺族の特定ができるかもしれない。
それに――。
「……どこで死んだかさえ分かんないなんてさ。なんか、虚しいだろ」
少し寂しげなその声に、シャーロットは目を細める。
(……ほんと、難儀な人)
あれこれと抱え込んでしまうところは、彼の長所でもあり短所でもあるのだろう。たとえ両手が塞がってしまっても、自分が決めたことには手を伸ばす、傲慢と紙一重の懸命さ。
それでも――彼はそれでこそ、彼だ。
ふと微笑んで、シャーロットはアルヴィーに向き直った。
「……それって、一歩間違えばただの自己満足で終わると思うんですが」
「う……改めて言われるまでもねーけどさ……」
がくりと項垂れる彼に。
「――でもそういうの、良いと思いますよ、わたしは」
「え?」
きょとんとするアルヴィーを置いて、シャーロットは身を翻す。
「わたし、そろそろ戻りますので。アルヴィーさんも、冷えない内に戻った方が良いですよ」
「え、ああ、うん……」
そのままさっさと船内に戻って行く彼女を、アルヴィーはぽかんと見送るのだった。
◇◇◇◇◇
レクレウス王国、オルロワナ北方領の中心都市――ラフトの街は、ファルレアンとの戦争の影響も小さく、外から来た人間にも鷹揚だ。
そんなラフトの一角に、ダンテ・ケイヒルの姿はあった。
(……あれが領主館か)
街を一望できそうな小高い丘にそびえる館を確認し、そちらへと歩を進め始める。まるで長年この街に暮らしているような自然な足どりに、道行く人々も彼に彼に注視することなく通り過ぎて行った。
領主館の門前には、当然門番がいて人の出入りを監視している。ダンテが近付くと、二人の門番はさり気なく彼の行く手を遮る形で近付いて来た。
「――こんにちは。今日はどういった用件で?」
「失礼。一つお尋ねしますが、こちらではご領主様に直接お目に掛かることは叶いますか?」
「それはさすがに……公爵閣下に申し上げるような用件があるなら、まずは申請を出して貰わないと。それでも受け付けるのは担当の文官だがね」
「やっぱりそうですよねえ」
ダンテは微笑と共に頷き、
「――なので、ここは押し通らせていただきます。《シルフォニア》」
瞬間、銀の剣閃が空を切る。
しかしそれを門番たちが認識するより早く、彼らの喉元を見えない刃が斬り裂いた。
「かはっ……!」
喉を斬られたため悲鳴もあげられず、門番たちは為す術もなく地に伏せる。ヒュ、と魔剣《シルフォニア》を一振りし、ダンテは今しがた人を二人斬り殺したとは思えない柔和な表情のまま、地面に広がり始めた血溜まりを踏まないよう歩き始めた。
門扉もあっさりと斬り飛ばし、ダンテは領主館の敷地内に足を踏み入れる。門番が悲鳴をあげられなかったためか、まだ誰も事態には気付いていないようだ。
(好都合だな。今の内に領主のところに向かうか――)
そう思った時。
『――おぬし、何者だ?』
ボコボコと地面が波打ち、ダンテの足を絡め取ろうとする。彼は軽く範囲外に飛び退き、《シルフォニア》を振り抜いた。
『ぬうっ……!』
不可視の刃に地面が深く斬り裂かれ、呻き声が聞こえる。
「なるほど。地の妖精族は常に彼女を見守っている、というわけか」
ダンテは容赦なく、次々と見えざる斬撃を放った。それらは地を穿ち、そのたびに小さな悲鳴があがる。
『……ユフィ、にげて。あぶない』
囁くような声に、ユフレイアははっとして周囲を見回した。
(……何があった!?)
彼女は執務を放り出して立ち上がると、部屋を飛び出す。血相を変えて小走りに廊下を駆ける彼女に、すれ違った文官や侍女がぎょっとした。それもそのはず、元王女にして現公爵という立場の彼女が“走る”などということがまずあり得ないのだ。その様子は、周囲の人々にも危急を知らせて余りあるものだった。
(こんな時に限って、フィランは街に下りているし……!)
ユフレイア暗殺未遂の一件以来、また何となくこの領主館に居着いたフィランだったが、彼は今、ラフトの街に出掛けている。妖精族の計らいで魔剣を得たのはいいが、今までの鞘ではそれを納めるには不足と見て、新しく鞘を誂えていたのだ。そして彼はまさに今日、それを受け取りに行っていた。もう一人、《魔獣操士》のクリフは、主たるナイジェルからの指示でとうの昔に王都に戻っている。
ともかく、いない人間を当てにしても仕方がない。ユフレイアは領主館の広間に躍り込むが早いか、石造りの床に高らかに踵を打ち付ける。
「――杖よ!」
彼女が差し伸べた手の先に、床からするりと伸びて収まる銀色の杖。それを握り締め、ユフレイアは正面玄関の扉を蹴り開ける勢いで開いた。
開いた扉の向こう、前庭の中ほどに、一人の青年が立っている。彼はユフレイアの姿を認めると、恭しく一礼した。
「お初にお目に掛かります、オルロワナ公爵閣下。わたしはクレメンタイン帝国皇帝、レティーシャ・スーラ・クレメンタインが臣、ダンテ・ケイヒル。――我が主の望みにより、閣下をお迎えに参りました」
「迎え、だと……?」
ユフレイアは眉をひそめ、杖の石突きを地に突き立てる。
「……断る、と言ったら?」
“クレメンタイン帝国”については、彼女も耳にしていた。百年前に滅んだはずの帝室の皇女を名乗る者が再興を宣言し、サングリアム、モルニェッツ、ロワーナの三公国もその傘下に入ったという。
だが、ユフレイアがそれに倣う必要はない。
「わたしはこの地を治め、この地に骨を埋めると決めている。仕事も山積みだ。他国に足を伸ばしている暇はない」
ユフレイアのきっぱりとした拒絶に、だがダンテは笑みを崩さなかった。
「そうですか。――では、多少手荒になりますが、お許しを」
「…………!」
ざわり、とユフレイアの背に戦慄が走る。
その瞬間、確かに前方にいたはずのダンテの姿が掻き消えた。
「え……」
目を瞬く――その一瞬の間に、彼女を囲い込むように土の壁がそそり立った。
『友よ、あれは危険だ』
『すごくつよいの!』
怯えたような声に、ユフレイアは杖を強く握り締める。
その時、妖精族の悲鳴と共に、土の壁がバラバラに斬り飛ばされた。ダンテの斬撃だ。
「くっ……!」
ユフレイアは再び地に杖を突き立てる。
「――戒めろ! 《地鋭縛針》!」
彼女の足下に一瞬だけ輝く魔法陣。そして魔法が発動し、地面はあっという間に、人の背丈ほどもある鋭い針で埋め尽くされた。しかもその範囲が尋常ではない。効果範囲は前庭一面に及び、安全地帯はユフレイアの周囲だけだ。
「か、閣下、これは――!」
「来るな! 巻き込むぞ!」
駆け付けて来た護衛の兵たちも、うかつに庭に出られず足を止める。ユフレイアは目をすがめて辺りを見回した。
(消えた……どこに)
彼女のこめかみに汗が伝う。ダンテの姿は忽然と消え失せていた。だがこの程度で退いたとは思えない。神経を尖らせながら、その姿を見出そうと目を凝らした、その時。
「凄いな、これは。さすが妖精族の加護を受けた高位元素魔法士……というところですか」
「っ!?」
ユフレイアが息を呑むと同時に、彼女を掠めるような軌道で、見えない刃が駆け抜ける。針が消し飛び、強引に生み出された一筋の道の向こうでは、ダンテが悠然と微笑んでいた。どうやったのかは知らないが、一瞬で魔法の効果範囲の外にまで逃れたようだ。
「……さて。そろそろご同道いただきます」
彼は息すら乱さず、穏やかな笑みを浮かべたままゆっくりと歩み寄って来る。その様子がかえって恐ろしく、ユフレイアは立ち竦んだ。ダンテはまるでそれを知っているかのように、抜身の剣を構えもせずにぶら下げて平然と歩を進める。
やがて、彼はユフレイアの眼前に立ち、恭しく手を差し伸べた。彼女は凍り付いたようにそれを見つめる――。
「……てかさ、困るんだけど。勝手にここのご領主連れてくとか、やめてくんない?」
張り詰めた空気を断ち切るような、声。
それと同時に、ダンテの背後に現れたフィランが、真新しい鞘から愛剣を抜き放った。
「――《ディルヴァレア》」
フィランが銘を紡ぐ。彼の愛剣、決して折れずすべてを斬り裂く魔剣が、その銘を喜ぶようにきらりと刃をきらめかせた。
そして――二振りの魔剣が、甲高く澄みきった激突音を響かせる。
「……ふうん、あれ止めるんだ。やるね」
「そっちこそ。なかなか迅い」
唇の端に笑みを乗せ、双方跳び離れる。歯応えのありそうな相手を見つけた喜びが、その双眸には浮かんでいた。
静寂は一瞬、ダンテは《シルフォニア》を振るう。対するフィランも、無造作に《ディルヴァレア》を振り抜いた。傍目にはただ、虚空に剣を打ち振ったとしか見えない挙動。だが一瞬の後、フィランの左右後方の針山がそれぞれ数メイルに渡って消し飛ぶ。
何が起こったのか理解し、ダンテは唇の端を吊り上げた。
「なるほど……斬れるのか。《シルフォニア》の刃を」
「この剣、何でも斬れるからね」
フィランは呑気にそう言ったが、不可視の刃は剣の力だけで斬れるものではない。何しろ見えないのだ。それを正確に両断してのけるには、刃の軌道を割り出さなくてはならない。計算してどうこうなるようなものでもないので、もはや直感の領域である。
――手強い。
互いにそう直感し、そしてぞくりと身の裡に走った戦慄をも楽しむ。
彼らは獣のように獰猛な笑みを浮かべ、同時に地を蹴った。
剣閃。銀の刃が噛み合い、離れる。フィランがするりと踏み込み《ディルヴァレア》を振るえば、ダンテは《シルフォニア》で受け流す。ダンテが振るいかけた剣を、フィランは柔らかく受け止めるようにいなした。
ひゅ、と鋭い呼気はどちらのものか。二人の剣士はまるで踊るように剣を振るい、くるくると攻守を入れ替える。
そして、幾度目かの交錯。
――キシリ、と。
刃を噛み合わせた時、ほんのわずかに軋みをあげたのは、ダンテの《シルフォニア》だった。
(……これ以上は、剣を傷めるか)
そう判断し、ダンテは剣を引いて飛び退く。フィランから距離を取ると、《シルフォニア》を地面に突き刺した。
「おいで、《トニトゥルス》」
彼の呼び声に応え、地面に広がった魔法陣から飛び出してくる翼ある大蛇。その背に飛び乗ると、ダンテは剣を下ろしたフィランを見下ろした。
「――そういえば、名乗りを忘れていた。僕はダンテ・ケイヒル。君は?」
「フィラン・サイフォス」
あっさりと答えたフィランは、何かを思い出したように茶色の瞳をすがめる。
だがそれを口に出す前に、
「そう。楽しかったよ、また戦えるといいね」
その一言だけを残し、ダンテを乗せた大蛇は羽ばたき一つ、遥か上空に舞い上がっていった。
「……まあ、いっか」
ぽつりと呟き、フィランは剣を鞘に納める。そして振り返った。
「……でさ。とりあえず、この庭、どうにかした方がいいんじゃないかな」
一面針山と化した前庭を見渡し、フィランはいつもと変わらぬ調子で言う。呆然と立ち尽くしていたユフレイアは、はっと我に返った。杖で地面を軽く叩く。途端に、針山はするすると地中に引っ込み、まっさらな地面に戻った。
「フィラン……おまえ、いつの間に……」
「えーと、帰って来たのはほんとさっきなんだけど。帰ってみたら庭がえらいことになってるし、一部いきなり吹っ飛ぶし。で、まあ針が吹っ飛んだ跡を通って中に入ったら、さっきの兄ちゃんが何か世迷言言ってたからさ。腕も立ちそうだから、とりあえず斬り掛かってみた」
「とりあえず、って……」
ユフレイアは絶句した。物騒な“とりあえず”もあったものだ。だがフィランはけろりと、
「けど、実際強かっただろ、あいつ」
「……ああ、そうだな……」
笑いながら戦っていた彼らを思い出し、ユフレイアは何かを諦めたようなため息をついた。
「そろそろ《ディルヴァレア》を実戦で使ってみたかったし、身体が鈍るのも嫌だからね。良い機会だったんだよ。――じゃあ俺、こいつの手入れするから」
そう言い置いて、フィランは館に入って行く。入れ替わりに駆け付けた護衛や侍女たちに囲まれながら、ユフレイアはそれを見送った。
「……ダンテ・ケイヒル、か」
自身に与えられた部屋に向かって廊下を歩きながら、フィランは先ほど知った名を呟く。軽く頭を掻いて、ため息をついた。
「……まさか、本物……なわけないだろうけど」
庭を望める窓の前で、ふと立ち止まる。窓から見える空には、もちろんあの大蛇の姿はもはや見えない。
彼は肩を竦めると、止まっていた足を再び動かし始めた。
◇◇◇◇◇
サングリアム公国に潜入させていた諜報員からの連絡が途絶えたという報告に、ヴィペルラート帝国皇帝・ロドルフは眉を寄せた。
「それは事実か?」
「は、申し訳ございません。定期的に送られてきていた報告が、ここ数日途絶えております」
「ふむ……」
ロドルフは小さく唸った。諜報員の連絡途絶など、本来皇帝たる彼が直々に聞くような報告ではないが、彼は情報伝達の間に介在する人間が増えることを好ましく思わない性質だった。それは、かつて宮殿を飛び出して自由に生き、自らの見聞きしたものしか信じていなかった頃の名残かもしれない。
「その諜報員からの途絶以前の報告によれば、サングリアムでは特に内乱などが起きている様子はないとのことでございました。――ただ、住民たちの様子が少々おかしい部分があると」
「おかしい?」
「は。具体的な形容が難しいとのことでしたが――やけに静かだ、と」
「どういうことだ」
「はい。住民の数自体は決して少なくないのに、奇妙に静かに感じると……その報告を最後に、諜報員からの報告は途絶えております」
「ほう……奇妙に静か、か」
ロドルフは足を組み、その膝に片腕を置いて心持ち身を乗り出す。話に興味を抱いた時に、よく見せる仕草だ。
「それで? 無論その安否を確認するための人員は送り込んだのだろうな?」
「は、既定の報告日時に報告がなかった時点で、すでに」
「なら良い。――だがおそらく、生きてはいまいな」
「は……」
報告を持って来た将軍は目を伏せる。諜報員からの報告が途切れるというのは、つまりそういうことだ。そもそもそういった危険を承知の上で、彼らは任務に赴くのだから。
「ともあれ、結果が分かれば俺にも報告しろ」
「は、無論でございます」
将軍が恭しく頭を垂れる。それに頷き、ロドルフは話を変えた。
「――それにしても、だ。《擬竜騎士》の叙爵には驚いたな。ファルレアンの女王も思い切ったものだ。元敵国の、しかも平民を叙爵するとは」
ロドルフは面白がるように口元を笑みの形に吊り上げる。
「へえ、あいつ貴族になったんだ」
その傍らで、側近たる水の高位元素魔法士ユーリも、その大きな双眸を興味の色で光らせた。基本的に、人間世界のことにはあまり興味を持たない彼だが、《擬竜騎士》ことアルヴィーとは面識があるがゆえ、流さず聞く気になったのだろう。
「ファルレアンって、そんなに身分の境が緩いの?」
「まあ、レクレウスなどと比べれば、多少はな。だがあの国は、嫡子の一括相続という形を取って、貴族が増え過ぎないよう調整している。そこで平民からの叙爵となると、よほどファルレアンは《擬竜騎士》を手放したくないと見えるな」
「は、左様にございます。発表によりますと、《擬竜騎士》は戦場以外でも様々な手柄を挙げ、国に多大なる貢献をしたとのことで、それに報いる意味での叙爵であると。――しかし一点、気になる点がございまして」
「何だ?」
促され、将軍は口を開く。
「は……実は、《擬竜騎士》の動向について探っておりましたところ、彼が“地精霊”と関わったという話がございまして……何でも、狂った地精霊の呪いを焼き消したと」
「ほう?」
ロドルフが興味に眉を上げる。
「“狂った地精霊”……どこかで聞いたような話だな?」
「そういえば、エンダーバレン砂漠の呪いが消えた時、砂漠全体が燃えてたって話なかったっけ。あいつって、炎の高位元素魔法士だったよね」
ユーリが思い出したようにそう言った。
「その話、真実か」
「諜報員が城の文官から聞き出しました話ですので、信憑性はあると思われます」
「そうか。ふむ、そうなると……」
ロドルフは顎を一撫でし、にやりと笑った。
「――よし、すぐにその話の真偽を調べさせろ。その“地精霊”とやらが、三百年前我が国から出奔した精霊であるかどうかをな」
「それで確定したら、どうするの? もう一回ヴィペルラート(うち)に連れ戻すつもり?」
訝しげなユーリに、ロドルフは笑う。
「まさか。精霊の行動を制限などできんさ。また呪われるのも真っ平だしな。――だが、もしその精霊がエンダーバレン砂漠を呪っていた精霊と同一であるなら、《擬竜騎士》はその呪いを消してくれた恩人であるわけだ」
「……つまり?」
何となく察しが付いたような表情で、ユーリ。ロドルフは晴れやかに、
「俺は一度、その《擬竜騎士》と話がしてみたくてな」
「は……」
唖然とした将軍を余所に、ユーリは呆れた声で諌める。
「寝言言うくらい眠いなら、さっさと寝所に戻りなよ」
仮にも皇帝に対してあるまじきぞんざいさだが、そもそもこの二人はロドルフが帝位に就く前からの付き合いだ。非礼も何も今さらである。
「何を言う! 俺の目は充分覚めているぞ。――つまりだな、俺は皇帝である以上国から動けん。だからといって、話をしたいという理由で他国の高位元素魔法士を呼び付けるわけにもいかんだろう。だが、《擬竜騎士》がエンダーバレン砂漠の呪いを消したとなれば、礼を言うために呼ぶという言い訳も立つというものだ」
「……で、実際に顔を合わせて引き抜きでもするつもり? ファルレアンが黙ってないと思うけど」
「俺も別に戦争をするつもりはない。だが、例の国境守備部隊を壊滅させた小娘の件もある。《擬竜騎士》とは誼を結んでおきたい」
「ああ……あいつね」
得心が行ったように、ユーリは頷いた。
「知り合いだって言ってたしね」
「まあそれも理由の一つに過ぎんがな。――俺が帝位を継ぐ前にあちこち巡っていた頃のことだが、出会う人間の中に時々、他人を惹く人間というのがいた。普通に行動していても、やたら他の人間を惹き付ける“力”のようなものを持った人間がな。そういう人間とは、繋がりを持っておいた方が良い。いずれどこかで役に立つ」
「……《擬竜騎士》がそうだってこと?」
「俺の勘ではな」
「ふうん」
ユーリには良く分からなかったが、とりあえず頷いておいた。どの道、皇帝たるロドルフが“そうしろ”と言えばその通りにするのが、彼らの役割だ。
「――だってさ」
将軍に向き直って声を投げると、呆気に取られていた彼は慌てて居住まいを正す。
「は……では早急に調査させます」
「ああ、頼む」
「はっ」
鷹揚に頷くロドルフに敬礼し、将軍が退出すると、ユーリはロドルフを見やった。
「……ほんとに話するだけ?」
「無論だ!――まあ、軽く誘いを掛ける程度は礼儀だがな」
「そんな礼儀、俺知らないよ。戦争起こすのだけは止めてよね」
無意味に胸など張る皇帝に、ユーリは半眼になってため息をついた。
◇◇◇◇◇
「――申し訳ありません、我が君」
空を往く《トニトゥルス》の背の上、ダンテは通信機能を持つピアスで、主たるレティーシャに任務の失敗を報告していた。
彼の今回の任務は、レティーシャが所望した人間の身柄の奪取だ。ユフレイア・アシェル・オルロワナ公爵は、レティーシャが指定した内の一人だった。
『構いませんわ、ダンテ。彼女の方はあわよくば、という程度でしたし……それに、相手は《シルフォニア》に匹敵するほどの魔剣を持っていたのでしょう?』
「はい。《シルフォニア》が軋む音など、初めて聞きました」
『おそらくは、相手の魔剣も人間が鍛えたものではないでしょう』
「それに、使い手の腕もかなりのものでした」
『まあ』
レティーシャの声が、驚きの色を帯びる。
『あなたが認めるほどであれば、相当ですわね。――楽しかったでしょう、ダンテ?』
「はい、久しぶりに楽しく戦えました」
『剣士にとって、強敵は得難いものですものね』
レティーシャは小さく笑う。遊んで帰って来た息子を迎える母のような声音だった。
「では、次に向かいます」
『ええ、気を付けて』
「勿体無いお言葉です。では、失礼致します」
通信を終え、ダンテは前方に向き直った。
――飛竜に遜色ない速度で大蛇は空を翔け、日が落ちる頃には目的地に辿り着いた。
「……久しぶりだな、ここも」
呟いて、ダンテは目的地――レクレウス王国王都・レクレガンに向けて降下を始めた。
レクレガンの中枢である王城には、魔法防御が施されている。だが、転移対策を施して防御が強化されたファルレアンの《雪華城》に比べると、その防御はいかにも薄いものだった。
上空から一通り偵察し、ダンテは降下する地点を決める。
「僕が下りたら、おまえは戻るんだ。いいね?」
使い魔である《トニトゥルス》にそう指示し、ダンテは転移用アイテムである水晶を取り出すと、眼下の王城に向かって身を躍らせた。
(――人目はない、な)
転移術式が発動する際に生じる光も、どうやら見咎められなかったようだ。問題なく城内に転移したダンテは、先ほど頭に叩き込んだ城内の様子を頼りに歩き始める。
やがて彼は、奥まった一画に建てられた、一つの建物に辿り着いた。
(……うん、ここだな。入口に見張りが一人――か)
まあ、ダンテの目から見ればそう大した使い手でもない。先ほど楽しく“遊んで”来ただけに、余計にそう思えるのかもしれないが。
ダンテは音もなく、《シルフォニア》を鞘から抜いた。
――コンコン、と。
不意に聞こえたノックの音に、ライネリオ・ジルタス・レクレウスは顔を上げた。
(……何だ? 先ほど言い付けたワインか……?)
この建物で立ち働く使用人は口が利けないため、入室の許可を求める声がないのも不思議ではない。また、ライネリオは先ほど、新しいワインを持って来るよう使用人に言い付けている。そのため彼は、さして疑うこともなく入室を許す言葉を掛けた。
「入れ」
すると、
「――失礼致します」
入って来たのは、ライネリオも知らない、無論使用人でもあり得ない青年だった。
「な――」
思わず大声を出そうとしたところを、青年が制し、おもむろに跪いた。
「……夜分の上に先触れもなしの訪問を致しました無礼、心よりお詫び申し上げます」
「貴様……何者だ」
この間までよくここに忍んで来ていた貴族の端くれより、よほど堂々とした態度に、ライネリオは眉を寄せて問う。青年は頭を垂れたまま、丁重に名乗りを上げた。
「お初にお目に掛かります。わたしはクレメンタイン帝国皇帝、レティーシャ・スーラ・クレメンタインが臣、ダンテ・ケイヒルと申します。――この度は我が主の命を受け、ライネリオ陛下をお迎えに上がりました」
「迎え、だと……? それにクレメンタイン帝国など、百年前に滅んだ国ではないか」
一瞬呆気に取られたライネリオだったが、我に返って吐き捨てる。だが青年は小揺るぎもしなかった。
「このような場所に囚われの身となられた御身には、伝わりようもないことでございますが……我が主によってクレメンタイン帝国は再興を宣言し、すでにサングリアム、モルニェッツ、ロワーナの三公国が帝国に膝を折っております。ですがまだ、国を支える人材は不足している状態。――そのため我が主は、不遇の身にあられる御身を帝国にお連れするようにと、わたしに命じた所以にございます」
「なに……」
ライネリオの表情が変わった。
百年前に滅んだクレメンタイン帝国が、現在よりも進んだ魔法技術を多数保有していたのは、ライネリオも知っていた。そもそもレクレウスは、かの国の魔動機器技術の片鱗を得たがゆえに、魔動機器大国の名をほしいままにしているのだから。
そして、もし再興したというクレメンタイン帝国が、かつての技術を未だ保有しているというのなら……。
「……もし、それを受けたのなら。わたしに、何の得がある」
期待を押し殺し、努めて平静に問うた彼に、青年はいともあっさりと答えた。
「この国を思いのままにできるだけの、力を」
「…………!!」
ごくり、とライネリオの喉が鳴る。
それはまさに、ライネリオが望んでやまぬものだった。
(そうだ……どの道今のわたしは、朽ち果てるまでここに閉じ込められる身。ならばこれは、またとない機会ではないか……!)
ユフレイア暗殺未遂の一件で、ライネリオたちの企みは白日の下に晒され、わずかに残っていた旧強硬派貴族もほとんど処断された。ライネリオは処刑こそされなかったものの、もはやここで朽ちるのを待つばかりの身。母である王太后も弱みを握られ、こちらへの援助が難しくなった。今やライネリオは、羽をすべてもぎ取られて鳥籠に閉じ込められた小鳥に等しい。
だが――この青年の言が事実であれば、ライネリオは今一度、再起の機会を得ることになるのだ。
「は、ははははっ……! やはりわたしは、このような場所で終わるべき人間ではないのだ。――良いだろう、貴様の主のもとに案内せよ」
「畏まりました。陛下のご英断に感謝致します」
伏せられた青年のその顔に、冷たい笑みが浮かんだことなど、ライネリオは知る由もなかった。
そして翌日。
王城、そして貴族議会は、幽閉されていたはずの前王ライネリオが忽然と姿を消したという知らせに、驚愕することとなる――。




