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片翼のドラグーン  作者: 八月 あやの
第十一章 傀儡の国
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第82話 南へ

 ジェラルドの執務室に出頭したアルヴィーは、そこで意外な話を聞かされた。

「――長距離転移陣での転移実験?」

「ああ。おまえらが《魔の大森林》から回収して来た、あれだ。魔法技術研究所が、あの陣と術具の解析をほぼ終わらせて、短距離での転移実験も成功させた。そんなわけで、今度は長距離での転移実験をしたいそうだ。その実験に、おまえの所有になった例の島を使いたいって話が来てる」

「あの島を?」

「ポーション製造の規模拡大も視野に入れて、材料の水の運搬にその転移陣を使いたいらしいな。王都からそれなりに距離もあるし、実験候補地としては確かに申し分ない」

「そう、か……」

 アルヴィーにとって、くだんの転移陣はあまり良い思い出がない。レドナ郊外で魔物を召喚するために使われていたし(しかも自分自身を魔石代わりにされた)、そもそも自分の故郷が魔物に滅ぼされたのも、その転移陣の稼働実験のせいだった。

 その何とも複雑な顔に、ジェラルドもそれらの経緯いきさつを思い出したのだろう。

「……まあ、おまえにとっちゃ嫌な記憶しかないだろうがな。それでも、その転移陣が実用化できれば、国にとってはとてつもない利益になる」

「うん。――分かる」

 アルヴィーは頷いた。何しろ、ほとんど国土を横断するほどの距離を転移できる転移陣だ。実用化されれば国内のモノ・人の移動が一気に楽になる。流通が活発になれば商業も盛り上がり、それはやがて税という形で国に返ってくるだろう。


「あれは、馬鹿が馬鹿な使い方しただけ。――だろ?」

 アルヴィーが肩をすくめてそう言うと、ジェラルドも小さく笑った。

「違いない」


 実際は、そう簡単に割り切れるものではないだろう。“あれさえなければ”――そんな思いは、今でもその心の片隅にくすぶっているに違いない。

 それでもアルヴィーがその思いを呑み込んだのは、今回の転移実験がほぼ国策であること、そしてその技術がいずれは、友に利をもたらすものになるであろうからだ。

 親友であるルシエルがクローネル伯爵領を引き継ぐのは、現時点でほぼ確定事項。一方、長距離転移陣は実用化されれば将来的に、国内の有力貴族の領地から設置されていくことになるだろう。クローネル伯爵領がその候補に上がる可能性は高い。


「……ただ、あの島はシュリヴとマナンティアルの島だから。向こうが駄目だって言えば、俺も無理強むりじいはできない」


 島がアルヴィーの所有ということになっているのは、あくまで便宜べんぎ上。実際の島の主は地精霊シュリヴと水竜マナンティアルなのだ。

 その辺りはジェラルドも分かっているので、軽く頷いた。

「そりゃそうだ。せいぜい説得してくれ」

「丸投げかよ!」

 思わず突っ込んだが、確かにあの二人(?)に話を通せるとしたらアルヴィーだけだろう。

 アルヴィーはため息をつき、そしてふと思い出した。


(……そういえば、あの島の周りに沈んでる船を引き揚げられるように、シュリヴかマナンティアルに頼めないかな)


 下手に船が近付けば沈むという物騒な防御機能のせいで、騎士団の船舶でさえ島には近付けない。島の周辺に沈む難破船の引き揚げなど言わずもがなである。島に行く機会があったら、防御機能の一時解除を頼もうと思っていたのだが、予想より早く実現しそうだ。頭の中にそれをしっかり書き留める。

 ともあれ任務を受領し、彼は支度のため一旦帰宅することにした。

 ――使用人の選定を終え、彼らを屋敷に迎え入れるにあたって、アルヴィーも屋敷の方で暮らすようになっていた。主に家妖精ブラウニーが掃除をしておいてくれたため、家具の搬入がとどこおりなく終わったのは有難い。とりあえずアルヴィーは一階の一室を寝室とし、使用人たちは地階にそれぞれ部屋を持つこととなった。使用人が最低限しかいないので、職種が被らない彼らも全員個室だ。というかむしろ、部屋はまだ余っている。

 玄関の扉を開けて中に入ると、


「――お帰りなさいませ、旦那様」

「うぉ!?」


 待ち構えていたかのようなタイミングで声をかけられ、アルヴィーは飛び上がりそうになった。

「……あのさ、その“旦那様”っての、どうにかなんないかな。俺、貴族なりたてでまだ二十歳にもなってないし、」

「これは異なことを。旦那様はわたしどもの主人であられるのですから、そうお呼びするのは当然のことです」

 クイ、と眼鏡を直しつつ、ロイ男爵家執事であるルーカス・グローバーはキリッとした顔でそうのたまった。一分の隙もなく整えられた焦げ茶色の髪、眼鏡の奥の少し明るい茶色の瞳がきらりと光る。

 以前の主家である男爵家で煙たがられた挙句に暇を出された彼は、以前とは一転、屋敷の采配さいはいのほぼすべてを任された現在に、非常な満足を覚えているようだった。何しろ、以前の屋敷では嫌がらせで、雑用のような仕事しか与えられなかったというのだ。それがここでは対照的に、金の管理まで任されることになったのだから、その決して低くない矜持プライドを満足させるには充分であろう。もっとも、金勘定がお世辞にも得意とはいえないアルヴィーの方も、それらを丸投げできるのだから有難い話だった。

 ともあれ、“旦那様”などというむずがゆくなるような呼び方を、ルーカスが改めてくれる気配は欠片もなかったので、アルヴィーも早々に諦めて話を変える。

「……それはそうと、俺ちょっとミトレアまで行くことになりそうだから。ここのことよろしく」

「承知致しました。では、お支度の方は」

「それは大丈夫。これに適当に詰めりゃいいから」

 魔法式収納庫ストレージを軽く叩いてみせる。《下位竜ドレイク》素材やら金やらを金融ギルドに預けたおかげで、容量が大分戻ったので、旅の荷物程度は余裕で入るだろう。

 ルーカスに留守を丸投げ――もとい任せ、アルヴィーは寝室に向かう。


「――きゅーっ!」


 扉を開けた瞬間に飛びついてきた金茶色の毛玉を、彼は慌てず騒がずキャッチした。

「……おまえはどうすっかなあ……世話してくれる人はいるから、留守番でもいいんだけど」

「きゅっ!」

 イヤイヤとでも言うように、フラムはがっちりとアルヴィーにしがみ付いた。大きな緑の瞳が、訴えかけるように飼いアルヴィーを見る。うるうる。

「……ちゃんとおとなしくしてろよ」

「きゅっ!」

 小動物のうるうる攻撃に勝てる飼い主など、滅多に存在しないのである。

 フラムを纏わり付かせたまま、アルヴィーはさくさくと旅支度を済ませた。同時に足りないもの、残り少ないものをリストアップ。結果、筆記用具が少々心細かった。

 補充しに行こうと部屋を出れば、女中頭ハウスキーパーのホリー・バンクスと鉢合わせる。茶色がかった金髪にくすんだ若草色の目をした、女性にしては体格の良い人物だ。

「あらまあ、旦那様。いつの間にかお帰りになったと思ったら、またお出掛けなんですか」

「ちょっと足りないものを買いに行くだけだし。すぐ戻るよ。今度ミトレアに行くことになったから、その準備でさ」

「ええ、存じておりますよ。ルーカスさんからうかがいましたもの。大変だこと。あたしたち庶民にとっちゃ、ミトレアまで足を伸ばすなんてそれこそ夢みたいなもんですからねえ」

 うっとりとまさに夢見るような顔でそう言ったホリーは、ふと気が付いたように、

「……あら、じゃあその、フラムの方は」

「連れてくよ。こいつ俺から離れたがらないし」

「あらまあ。本当に旦那様がお好きですねえ、その子は」

「きゅ?」

 もはや標準装備のごとくアルヴィーの左肩に乗っかるフラムは、きょるんと小首を傾げた。ホリーの目尻が途端に下がる。どうやら彼女は、ユナと同類の動物好きのようだ。

 そんなホリーと別れ、アルヴィーはもうすっかり行きつけとなった感のある文具店に向かった。


 ――文具店に行きついでに、他の店も覗いてみたりして、アルヴィーが屋敷に戻ったのはもうすぐ日が落ちようかという頃だった。瀟洒しょうしゃ門扉もんぴを開けるのが面倒臭かったので、適当に塀を飛び越え――誰かに見られたら大騒ぎだっただろうが、幸い時間帯のせいで人通りはなかった――玄関の扉を開ける。本来は従僕フットマンの仕事だが、この屋敷に従僕フットマンはいないし、そもそも玄関の扉を開けるくらい自力でできるのだから、そのために人を雇う必要性をアルヴィーは感じない。

 玄関エントランスホールに入ると、食欲をそそる良い匂いが、地下から漂ってくるのに気付いた。こうした貴族の館の厨房キッチンは、まさにこうした調理の際の匂いや熱を建物内に撒き散らさないよう、地階や外の別棟にもうけられる。だが、残念ながらアルヴィーの人間を超越した嗅覚の前には、その設計も無意味なようだった。

「ああ、旦那様、お帰りなさいまし。もうすぐお夕食の支度もできますよ」

 取り込んだ洗濯物を片付けていたのか、畳んだ布を抱えたホリーが声をかけてくる。洗濯を担当するランドリー・メイドがいないので、ここでは洗濯もホリーの仕事だ。掃除を家妖精ブラウニーがやってしまうのでちょうど良いと彼女は言っているが。

 屋敷の食堂ダイニングルーム玄関エントランスホールの隣に位置する。が、直接の行き来はできず、一旦広間(サルーン)を通らないと入れない。ここも元は壁に絵画などが飾られていたのだろうが、今はすべて取り払われているため、目を引くものといえば暖炉や、壁に据え付けの燭台しょくだいくらいだった。テーブルや椅子、床に敷かれた絨毯じゅうたんなどは、アルヴィーに全権委任まるなげされたルーカスが買い揃えたものである。何しろアルヴィーでは、“男爵家にちょうど良いランク”の家具など分からないので。

 やがて、扉を開けてルーカスが入室して来た。

「お帰りなさいませ。今、支度を致します」

 皿やカトラリーをたずさえた彼は、テーブルの上にそれらを並べ始める。主人の食事の給仕も、執事である彼の役目だ。アルヴィーとしては食事くらい一人でできると言いたいところだが、貴族社会ではそれは通用しない。数日にして諦めの境地に至った。それにテーブルマナーの練習にもなる。恥をかかないために、“給仕を受けながら食事をする”ことにも慣れなければならない。

 テーブルのセットが終わると、ルーカスは着席したアルヴィーの傍に控えた。

 それを見計らったように、地階の厨房キッチンから料理が運ばれてくる。運んで来たのは、ホリーと料理人のネイト・ワッツだった。短く刈った黒髪、灰色の瞳をした彼は、ホリーと共に黙々と料理をテーブルに並べていった。別に他の面々と仲が悪いというわけではなく、喋りながら仕事をする性質ではないというだけだ。ちなみにフラムは、テーブルの下に置かれた籠の中で、新鮮な野菜を貰ってご満悦である。

 今夜のメニューは野菜と肉の包み焼き、潰した根菜を練り込んだパイ、スープに果物。飲み物は軽めのワインだ。ルーカスの給仕を受けながら、まずは包み焼きに手を付ける。じわりと染み出す肉汁、柔らかい肉と野菜の歯応えに、アルヴィーは頬を緩めた。

「美味いなこれ!」

「……恐れ入ります」

 ネイトが表情をほころばせて一礼し、ホリーともども退室して行く。顔の火傷のせいで屋敷への奉公もなかなか叶わなかった彼は、そんなことは些事さじとばかりにきちんと料理の腕を評価して雇ってくれたこの若き主人に、大層感謝していた。その上自分の作った料理を美味いと平らげてくれるのだから、それはもう料理人冥利に尽きるというものである。

「……そういえば」

 そんな彼らを見送り、ルーカスがふと思い出したように呟いた。


「ミトレアでは上質の塩や、多種多様な香辛料の類が安く手に入るそうですが……ネイトが聞いたら喜びそうな話ですな」

「え、そうなのか? ならちょっと買ってこようかな。あ、みんなの分の料理にも使って良いから」

「勿体無いお言葉です」


 そんな会話を交わしながら、アルヴィーは食事を進めていく。

 慣れないテーブルマナーに時折ルーカスの指導ツッコミを受けながら、いずれこれにも慣れるのだろうかと、彼はぼんやりと思った。



 ◇◇◇◇◇



 大陸環状貿易路グレート・ロード――その名の通り、大陸内のすべての国の都を環状に結ぶこの街道は、各国を巡る陸路の代表格であり、気が遠くなるほどの長い時間を掛けて開拓・整備されてきた道だ。

 各国の人々の暮らしになくてはならないこの街道には、総称である“大陸環状貿易路グレート・ロード”とは別に、各国の国民が付けた部分ごとの名称もある。ファルレアン王国王都・ソーマからそれぞれの隣国の王都へと伸びる道にもまた、それぞれ固有の名称があった。ソーマから西のレクレウスに伸びるイル=シュメイラ街道、北のサングリアムに伸びるアズレア街道、そして東のソルナート王国に伸びるカタフニア街道。もう一つの隣国であるリシュアーヌ王国には、サングリアムからそのままアズレア街道を北上する。

 そして東のカタフニア街道からは、港町ミトレアに向かって分岐する街道がある。この街道は主にミトレアからもたらされる異国の珍しい産物、そして何より沿岸部からの塩の運搬に使われるため、“塩の街道”と呼ばれていた。


「――飛竜ワイバーンで飛べば一瞬なのに、街道歩くとやっぱ長いなー」


 馬の手綱を取りながら、アルヴィーは慨嘆がいたんする。だが今回は一刻を争うような急ぎの任務ではないし、そもそも単騎でもない。転移陣の設置要員である魔法技術研究所の研究員たちとも足並みを揃えなければならないのだから、必然的に陸路一択となるのだ。

 そんなわけで、アルヴィーたちはカタフニア街道から塩の街道に入り、ミトレアへと向かっているわけだった。

「しょうがないよ。飛竜はそんなに数がいないからね。イムルーダ山で捕獲してきた幼体も、まだ成長途上だし」

 アルヴィーとくつわを並べる形で馬を操るルシエルは、そう言って小さく肩を竦める。彼らはアルヴィーの“護衛”という名目で、今回の任務に同行しているのだ。

 正直、アルヴィーの戦闘力なら護衛などまったく必要ないのだが、今の彼は曲がりなりにも爵位持ちの貴族である。騎士団としては体裁だけでも取り繕う必要があるということで、気心の知れた第一二一魔法騎士小隊が付けられることとなった。隊の面々としても、普段は内陸の王都に居住しているので海など滅多に見ない。今回の任務にも乗り気だった。

 塩の街道はさほど長くなく、また天候にも恵まれ、一行がミトレアに到着したのは、カタフニア街道から塩の街道に入って三日目のことだった。


「さすがに国随一の港町ってとこだな。栄えてんなー」

「やっぱり、王都とは雰囲気が違いますね」


 カイルが感嘆の声をあげ、シャーロットが色鮮やかな街並みを見渡す。他の面々も、一度訪れたことのあるルシエル以外は、物珍しげに周囲を眺めていた。

「ここからは、ミトレア支部のふねを借りるんだっけ」

「魔石で動く駆動機関積んでるんだろ? 見てみたいよなあ」

 予定を確認するユフィオの声に、自他共に認める魔動機器愛好家(マニア)のクロリッドが心からの願望を述べる。

「……とりあえず、支部に向かおう。本部の方から話は通っているはずだ」

 ルシエルが話を纏め、一行は南方騎士団ミトレア支部へと向かった。


「――おお、これはこれは! ようこそ、ミトレアへ。話は伺っております」


 ミトレア支部で出迎えてくれたのは、見覚えのない壮年の騎士だった。素性を尋ねると、ミトレア支部の副支部長だという。アルヴィーは首を傾げた。

「あれ? 支部長は?」

「そ、それが本日は、どうしても抜けられない所用が別にありまして……何か御用でも」

 尋ねられた途端に騎士の顔に冷や汗が伝い、歯切れも悪くなったが、アルヴィーはそのことに気付かずかぶりを振った。

「いや、そういうわけじゃないですけど」

 まあ支部のトップともなれば忙しいのだろう。そう思ってアルヴィー自身は気にも留めずに流したが、一二一小隊の面々はあからさまにおかしい副支部長の様子を訝しく思い、ひそひそとルシエルに尋ねた。


「……隊長、アルヴィーってここで何かやらかしたんすか?」

「いや、むしろやらかされたというか……倒したクラーケンの魔石を、ここの支部長にだまし取られかけて。もちろん、後でちゃんと相応の対価はふんだくってきたけどね」

「隊長がですね、分かります」

「それは……ここの支部長、今頃生きた心地がしないでしょうねえ。そんな相手が叙爵じょしゃくされて、自分より上の立場になって戻って来るなんて」


 しみじみそう言うシャーロットに、小隊の面々もうんうんと頷いた。だが自業自得としか言いようのない経緯なので、特に同情はしない。変に欲を掻いた支部長が悪いのだ。

 ともあれ、ふねに乗り込むため、一行は港へと向かう。それを見送り、副支部長は大きく息をついた。


 ちなみにその頃、ミトレア支部の建物内では。


「……ほ、本当に《擬竜騎士ドラグーン》はすぐに港に向かうのだな!?」

「は、はい。こちらには顔見せ程度の挨拶で、本部から話が通っていることを確認したらすみやかに港の方へと――」

「良いか、できる限り早めに港に行かせろ!――それにしても、まさかあの小僧が叙爵されるとは! こんなことなら、あの時もう少し上手く丸め込んでおくのだった……!」


 某支部長がそう慨嘆しながら頭を抱えていたのだが、それはアルヴィーたちの知るよしもない話である。



 ◇◇◇◇◇



 ミトレアから遠く離れた北の地、《薔薇宮ローズ・パレス》で、ベアトリスは一人庭園にたたずんでいた。

 主たるレティーシャの命でおもむいたサングリアム公国。そこで彼女は他国の密偵らしき男と交戦し――おそらくは彼を殺害した。自衛のための戦闘は許可されていたため、彼女がレティーシャにとがめられることはなく、むしろ所持品を持ち帰ったことを褒められたのだが、その賞賛をもってしても、ベアトリスの胸の内は晴れない。

 彼女は、自分の白い手を見つめる。


(……わたしは、人を殺した……)


 そう思うだけで、ベアトリスの両手は小さく震え始める。

 貴族令嬢として生まれ、人生の多くを大切にいつくしまれて育ってきた彼女は、このクレメティーラに来るまで、良くも悪くも自分の手で何かを為すということがなかった。大抵のことはベルを鳴らしてメイドを呼べば、彼女たちがやってくれたからだ。

 ここに来て初めて、ベアトリスは他者に仕える立場となり、自分の手でやることも増えた。戦闘したことも、これが初めてではない。《神樹の森》で樹木の精霊(ドライアド)を倒したこともある。


 だが――今回はあの時とは違う。


 ドライアドは宿る木を刈り倒すだけで良かった。彼女は“人間ではなかった”から。

 人間ベアトリスとは“違うもの”だったから。

 だが今回ベアトリスが手に掛けたのは、同じ“人間”だった。

 苦悶くもんうめき、飛び散る血飛沫ちしぶき。それを忘れることができない。


「――ベアトリス様?」


 不意に声をかけられ、彼女はびくりと大きく肩を震わせた。

「……あの、すみません。驚かせてしまって……」

 振り返った先にいたのは、黒髪に深い青の瞳の少年――オルセルだ。妹のミイカの方は毎日のように顔を合わせるが、地下の研究施設を管理する彼の方は、正直ベアトリスにとっては馴染みがない。しかも彼は、敬愛するレティーシャの指導を受け、重要な地下研究施設を任されているのだ。そのことに関して、少々羨望と嫉妬めいた思いもある。

「……何か用かしら」

 そんな彼に今の乱れる気持ちをさらけ出すのは憚られ、つとめて平静な声を出す。オルセルは慌てたようにかぶりを振った。

「いえ! そうではないんですけど……」

「あなたこそ、ここで何をしているの? 陛下に地下研究施設の管理のお役目をいただいているはずでしょう」

「ああ……実はこの間、人型合成獣(キマイラ)の子たちを覚醒させたので。今日は、外の様子を見せようと思って地上に連れて来たんです」

 彼が目をやる先、確かに白っぽい人影が複数、庭園を歩き回っているようだった。皆、わずかな色味の違いはあれ基本的に銀色の髪と、金色の瞳を持つという。そして生成きなりの簡素な衣服も合わされば、遠くから見れば白一色にしか見えない。

 彼らの姿に、ベアトリスはふと、この宮殿の使用人たちを思い起こした。似通にかよった顔立ちをして、人間らしい感情の起伏が感じられない、彼ら。


 ――彼らは“人間”なのか、そうでないのか。

 人間でないならば、彼らを手に掛けても、自分は――。


「……ベアトリス様、顔色があまり良くないみたいですけど……少し、休まれた方が良くないですか?」


 オルセルの声に、ベアトリスははっと我に返る。そして慄然りつぜんとした。

(わたし……何を)

 ぞっとして、彼女は両手で顔を覆った。

「ベ、ベアトリス様!?」

 泣き出したと思い、オルセルはあたふたと服を探る。しかし貴族として身分も高い彼女に、自分のハンカチなど差し出すのも失礼かと、渡すに渡せず立ち尽くした。

 だがベアトリスは泣いてなどいなかった。


「……わたし、人を殺したわ」


 上げられたその顔に、涙の痕はない。だが泣き顔よりももっと絶望に満ちた顔で、彼女はそう呟いた。

「え……?」

「サングリアムで、わたしは人を殺したの。――この手に、掛けたのよ」

 見つめる両手は、一見白くしなやかだ。だがきっともう、見えない血で汚れている。

 それを見たくなくて、強く両手を握り締める――その時、オルセルがぽつりと言った。


「……僕も、同じですよ」


「え……」

 意外な言葉に、ベアトリスは目を見張る。眼前の、虫も殺せなさそうな温和な雰囲気の少年は、同じように自分の両手を見つめた。

「もっとも、相手が死んだかどうかは分かりません。確かめる前に、僕も殺されそうになりましたから」

「……それ、は……」

「僕の住んでた村を、盗賊が襲ってきたんです。きっと、珍しいことじゃないんですけど。――村の人たちはほとんど殺されて、女の人や子供は隠れてたけど見つかって、連れて行かれそうになって……その時、ミイカを連れて行こうとしてた盗賊の背中を、僕は鎌で刺しました。結構深く刺さったと思います。――その手応えを、まだ覚えてる」

 呟いて、オルセルは顔を上げた。

「でも僕は、後悔してないし悪いとも思いません。――そうしないと、僕はもっと後悔したと思いますから」

 向けられた双眸の揺るぎなさに、ベアトリスは思わず息を呑む。遠慮がちで控えめな、ともすれば気弱とも思えるいつもの少年の姿は、そこにはなかった。


「大事なものをなくしたり、傷付けられたりするくらいなら……たとえ誰かを手に掛けてでも、僕は」


 自分に言い聞かせるようにつむぎ出されたその言葉を、ベアトリスはほとんど呆然と聞く。だが、最後まで言い切る前に、オルセルははたと我に返ったように言葉を切った。

「……す、すみません! 失礼しました」

 あたふたとうろたえながら頭を下げるオルセルに、ベアトリスはふと微笑んだ。残念ながらその微笑は、頭を下げっ放しのオルセルの目には入らなかったが。

「いいえ。――少し、気が晴れたわ」

「え……」

 驚いたオルセルが顔を上げようとした時、その服の裾がくいくいと引っ張られた。


「ねえ。なにしてるの?」

「……ひま」


 いつの間にかそこに立っていたのは、オルセルよりいくらか年下と見える少年と少女だ。少年はさらさらの髪をショートカットに、少女はふわふわの髪を肩に掛かる程度に。どちらも少し青みがかった銀髪と、黄金色の瞳をしていた。

「オルセル、あっちいこ」

「あ、ちょっと――」

 切れ長の目をした少年に引っ張られ、オルセルは挨拶もそこそこに行ってしまう。残った少女も、ベアトリスを一瞥いちべつすると、二人を追って小走りに去って行った。


(……人型合成獣(キマイラ)……)


 ベアトリスはその名を胸中で呟く。人造人間ホムンクルスをベースにし、より高い戦闘力を持つよう“調整”された存在。彼らもまた、“ヒト”というべきか否か、微妙な存在であるのだ。

 彼女の視線の先で、その子供たちがオルセルに纏わり付くように、周囲に集まっている。オルセルは丁寧に、庭園の植物について彼らに教えているようだった。

 その光景をしばし眺め、やがてベアトリスは身をひるがえすと、宮殿の中へと戻って行く。

 彼女の手は、もう震えてはいなかった。



 ◇◇◇◇◇



 ざん、と船首が波を蹴立て、きらめく飛沫を上げる。紺碧の海を滑るように、沖へと向かう一隻の艦。

 その甲板で、アルヴィーと第一二一魔法騎士小隊の面々は、一部を除き、大海原に見入っていた。


「やっぱいいよなあ、海!」


 マストの横支柱ヤードに腰掛け、アルヴィーは目をきらきらと輝かせる。その肩で、フラムも同じように目を輝かせていた。そんな彼らを、信じ難いものを見る目で見上げる人間が一人。

「……あり得ない……何であんなに揺れるとこで、あんな楽しそうなのさ……うぐっ」

「ほらクロリッド、水飲んで。いっそ回復魔法掛ける?」

 ユフィオに介抱されながら、クロリッドは船酔いに苦しんでいた。馬に乗るのは平気でも、どうやら船の揺れとは相性が悪いらしい。早くも顔がげっそりしている。

「あ、大きな魚……」

 船縁から海面を見下ろしていたユナが、海中を泳ぎ去る大魚の群れを見つけて楽しそうな声をあげた。そんな年下組を、微笑ましく眺める年長組。

 ――彼らは二時間ほど前、ミトレアを出発して船上の人となっていた。風の精霊が味方してくれたのか否か、程良い風が帆を膨らませてくれている。

 今回彼らのために用意されたのは、前回も借り受けた戦艦《アンバー号》だった。一度島に到達しているため、縁起が良いとされたのかもしれない。勝手知ったる、というやつで、アルヴィーは乗組むが早いかひょいひょいとマストに登って、景色を楽しむことにしたのだ。


「……今はこの辺りかな。まだ島までは遠いな」

「まあ、景色も良いですし、良い風が吹いてますから。骨休めだと思って、のんびり行きましょう」


 一方、隊長であるルシエルと補佐役のシャーロットは船室キャビンにいた。ふねの位置を大まかにチェックしてしまうと、広げていた海図を魔法式収納庫ストレージに仕舞い込む。そして甲板に出ると、潮風に目を細めた。

「――ルシィ! 航路のチェックはもういいのか?」

 親友の姿を見つけたアルヴィーが、フラムを抱きかかえて横支柱ヤードから飛び下りる。誰もが一瞬ぎょっとしたが、彼は魔法障壁の足場を展開して涼しい顔で甲板に着地。さすがに甲板を踏み抜かない程度の分別はあるのだ。

「アル……何てとこから」

 ルシエルはため息をついた。

「いや、景色良いし、見張りもできるからさあ。揺れるけど」

「……で、何か見つかった?」

「特には。クラーケンもいなさそうだしな」

 その答えに、一同ほっと胸を撫で下ろす。まあ、仮に出て来たところで、アルヴィーの《竜の咆哮( ドラグ・ブレス)》で一瞬にして消し炭だろうが。

 そして航海は順調に進み、出航から数時間。目的の島が見えてきた。


「うわあ……本当に、“霧の海域”に島があったんだ……」


 ユフィオが感嘆の声をあげる。彼の実家は商会だというし、船での貿易もあるのだろう。船の墓場と悪名高かった“霧の海域”のまさかの真実に、興味もひとしおなのかもしれなかった。

「へー、結構でかい島だな。あの山は、何か変な形してっけど」

「崩落か? 新しそうだな」

 カイルとディラークの会話に、山の一部を吹っ飛ばした張本人のアルヴィーはだらだらと冷や汗を垂らすが、幸い島に目を奪われていた隊員たちは気付かなかった。

 と、その胸元でシュリヴの水晶が光を放ち始める。同時に、海底からもほのかな光が見えた。


『――ちょっとー! また他の人間連れて来たの?』


 海面を突き破って現れた黄白色の光が、あっという間に少年の姿となってアルヴィーの眼前に下り立つ。息を呑む周囲を余所に、地精霊シュリヴはため息をついた。

『……まあ、船に乗らないとここまで来れないんだっけ? 人間ってほんと不便だよね』

「船も結構面白いぞ?――そうだ、紹介するよ。俺の親友と、仲間」

『親友、ねえ……』

 シュリヴは胡乱うろんな目つきで、値踏みするようにルシエルたちを見やる。やがて小さく鼻を鳴らした。

『……ま、しばらく島に上がるくらいは許してやってもいいよ。アルヴィーが責任持つんでしょ?』

「ああ」

『その言葉、覚えといて貰うからね』

 どこか満足気にそう言って、シュリヴは一同を睥睨へいげいする。


『で? 今回は何なの? また島を調べに来たの?』

「いや……ちょっとな。島に転移の陣を置かせて欲しいんだけど」

『転移の?』


 シュリヴが少し眉をひそめた。

『そんなもの、どうするのさ』

「長距離転移ができるかどうか、実験するんだってさ。ここで実験して成功したら、多分国内で使われ出すんだと思う。あと――ここの湖の水を運ぶのにも、使いたいみたいだ」

『ふうん……』

 小さく唸ったと思うと、シュリヴはどこへともなく声を投げる。


『――だってさ。そっちはどうなの?』


 すると、


『ふむ。人間ひとの魔法もなかなか進んだものよな』

 水竜マナンティアルの声が、たおやかに響いた。


「マナンティアル、久しぶり」

『ふふ、わらわにしてみればわずかな間に過ぎぬがの。――その転移陣とやらで湖の水を運ぶのは構わぬが、妾は騒がしい者は好かぬ。妾の微睡まどろみをさまたげるようなことは、してくれるでないぞ』

「ああ、よく言っとく。ありがとな」

『なに、その転移陣とやら、妾も少々興味があるゆえの』

 マナンティアルが小さく笑うのに合わせてか、ざざ、と細波さざなみが立つ。

 《アンバー号》はその波に導かれるように、前回も船を着けた入り江へと向かい始めた。


 ――そうして島に上陸した一行は、早速仕事を開始した。


 魔法技術研究所の研究員たちは、転移陣設置のために術具一式を持って地底湖に向かう。厳重に“注意”したので、マナンティアルの逆鱗に触れることはないだろう。彼らも専門職プロだ。

 彼らが陣を設置している間、アルヴィーは手持ち無沙汰なので、海岸に向かった。一二一小隊も、ディラークと術具に興味津々なクロリッド、彼の体調を心配したユフィオを研究員たちの護衛として同行させ、残りはアルヴィーと共に海岸へ。

「……そういや、シャーロットはあっち残んなくていいのか? 最初に見た時、すげー興味ありそうだったけど」

 ふと思い出し、アルヴィーはシャーロットに尋ねる。

「ああ、良いんですよ。実用化されればいくらでも見られますし」

「それもそっか」

 もっともな答えに納得して、アルヴィーは海に目を向ける。シャーロットもそれにならったが、ふと後ろを振り返った。


「……何で皆さん、そんなに距離を取ってるんですか?」

「気にしない気にしない」

「そーそー。ほら、滅多に来れない海だし、楽しもうぜ」

「ロット、頑張って」


 何だかやけに二人から距離を取った一二一小隊の面々が、にやにやとこちらを見やっていた。ルシエルは何か言いたそうだったが、どうやら諦めたようだ。

 そんな彼に会釈して、シャーロットは前に向き直った。


 ――静かだ。


 寄せては返す波の音。それはまるで鼓動のように一定のリズムで、耳にするりと滑り込んでくる。

 彼方まで続く海の青と空の蒼に、シャーロットは知らず目を細めた。

「……綺麗なところですね。ユフィオさんじゃありませんけど、“霧の海域”にこんなところがあったなんて、思いもしませんでした」

「うん。――俺が来るまで、シュリヴもマナンティアルも、ずっとここで眠ってた」

 朱金の瞳で遠くを見ながら、アルヴィーはぽつぽつと言葉を零す。シャーロットは頷いた。

「分かる気がします。――ここは、静かですから」


 ざざん、ざざん、と。

 決して耳障りではないその音に、二人は耳を傾ける。


 世界から切り取られたような、その空間で。

 彼らはしばらく、そうして佇んでいた。


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