第78話 世界の裏側で
「――あーっ、もぉぉぉ!!」
《薔薇宮》中庭。いきなり現れたと思ったらいきなり叫び出したメリエに、休憩のため偶然そこに居合わせたベアトリスは、ぎょっとして身を竦ませた。
「……何を騒いでいるの?」
「せっかくアルヴィーに会えたのにーっ! もーっ、あの時足下が崩れなきゃ!」
苛立たしげに地面を蹴ると、小さな光の波紋が弾ける。ベアトリスは眉をひそめた。
「それは陛下からお借りしているマジックアイテムでしょう? 扱いがぞんざい過ぎなくて?」
「うるっさいなあ! シアはあたしにそんな口煩いこと言わないし!」
ふん、と顔を背けたメリエは、靴音も高らかに歩き去って行く。ベアトリスは気分が壊れたとため息をついたが、まだ休憩時間は残っているのでここに留まることにした。
(……陛下は、あの娘を自由にさせ過ぎていらっしゃるわ)
決して口にはできない愚痴を、心の中だけで零す。確かに彼女は、ベアトリスなど及びも付かない強大な力を持っているのだろうが、それにしても自由が過ぎると、ベアトリスの顔も渋いものになった。それでも不満を述べないでいるのは、ひとえにレティーシャへの忠誠あってこそだ。
(陛下には何かお考えあってのことかもしれないし……わたしごときが口を挟むことではないのだろうけど)
もう一度ため息をついて、ベアトリスは空を見上げた。
太陽はすでに空から姿を消し、その端にわずかな明るさを残すのみ。代わりに星が瞬き始め、銀砂のごとき輝きが刻一刻と数を増していく。その下に佇めば、まるで自分もその小さな星の一粒になっていくかのようだ。
「――ベアトリス?」
しかしその時かけられた声に、彼女ははっと我に返った。
「ダ、ダンテ様!?」
「休憩かい?」
「は、はい。少ししたらまた、仕事の方に戻ります」
慌てて居住まいを正すベアトリスに、ダンテは柔らかく微笑みながら、
「君はいつも仕事熱心だし、少しくらい長めに休憩しても良いんじゃないかな」
「いえ……この宮殿の生活の差配が、陛下から賜ったわたしの役目ですから」
罪人の娘として祖国を追われ、寄る辺なくさまようしかなかったこの身。それを救い上げ、身分と役目を与えてくれた恩を忘れることはない。
「それに、今はミイカもおりますし、仕事にもそれなりに慣れました」
「そう。それなら良かった」
「っ、では、そろそろ仕事に戻りますので」
ベアトリスは努めて平静を装うと、優雅に一礼してその場を後にする。
仕事場である宮殿内に戻ると、ミイカがぱたぱたと駆け寄って来た。
「ベアトリス様!」
「ミイカ、そのように走るものではないわ。はしたなくてよ」
「す、すみませんっ」
ぴょこんと頭を下げる姿は、小動物のようで怒るに怒れなかった。まあ、彼女はもともと礼儀作法などさほど必要もない小村で育ったのだし、ここに来てまだ日も浅い。目くじらを立てるほどのこともないと、ベアトリスは頷いた。
「これから気を付けてくれれば良いわ。――それで、どうかして?」
「あ、あの、わたし、陛下からお仕事をいただいて……」
「ああ……聞いているわ。人造人間とやらの教育を手伝うそうね?」
「はい。それでしばらくの間、宮殿でのお仕事を早めに上がるように、陛下のお言い付けなんです」
ミイカの上司であるということで、ベアトリスにも多少の事情は伝わっている。人造人間というのはそこで初めて聞いた言葉だったが、ベアトリスは何となく薄気味悪いものを感じていた。
(この宮殿の使用人も、ほとんどがそうだというし……普通の人間ではいけないのかしら?)
そう思いはしたが、口には出さない。自分の内心を押し隠して微笑むことは、貴族の娘として幼い頃から躾けられてきたことだった。
「陛下からお役目を賜るなんて、名誉なことよ。頑張りなさい」
「はいっ! ありがとうございますっ」
もう一度ぺこんとお辞儀をして、ミイカは仕事に戻って行く。
もとより、ミイカが来る前はベアトリスが一人で回していた仕事だ。ミイカに仕事を教えているのは、あくまでベアトリスがこの宮殿を空けることになった場合、彼女に役目を代行させるためなのである。
もっとも、ミイカは少々気が小さいところがあり、他人に何かを命じるということに慣れていない。ベアトリスのように貴族として生まれ育てば、もっと早く馴染めるのだろうが。
そんなことを考えていた時だった。
――りぃん。
まるで耳元でベルを振られたかのような、涼しげな音。それは主たるレティーシャが、ベアトリスを呼んでいるということだった。レティーシャが使う小さな銀のベルはマジックアイテムであり、軽く鳴らしただけで宮殿内のどこにいても使用人の耳にその音を届けるのだ。それは音量によるものではないので、騒音などの問題もない。
その音を聞くや、ベアトリスは取り急ぎ、主のもとへと向かった。
「――お呼びでしょうか、陛下」
「ええ、ベアトリス。あなたに一つ、お願いしたい仕事ができましたの。少し、三公国の様子を見て来ていただきたくて」
にこやかにベアトリスを迎えたレティーシャは、少し物憂げにため息をつく。
「本来ならわたくしが直に向かいたいところなのですけれど……ちょうど今、研究で手が離せませんの。オルセルたちにはわたくしの研究を手伝って貰わなければなりませんし、ダンテも別件で少しここを離れます。メリエやラドヴァンはこういった様子見のような仕事には向きません。その点ベアトリス、あなたでしたら安心して任せられますわ」
「は、はい! お任せくださいませ、陛下!」
湧き上がる歓喜を何とか抑えながら、ベアトリスは優雅に一礼する。レティーシャは満足げに微笑んだ。
「では、すぐに準備を始めてくださいな。――三公国が我が帝国の傘下に戻った件を受けて、現地には各国の諜報員が入り込もうとしているでしょう。身辺には充分に気を付けてくださいませね。自衛のための戦闘も許可します」
「ご心配ありがとうございます。ですがわたしには陛下より賜った“力”と魔法武器もございますし、その辺の相手に後れを取るつもりはございません」
ベアトリスは自身の胸元に手をやる。そこにはレティーシャより与えられた魔力集積器官が埋め込まれているのだ。それにより、彼女は並の魔法士を遥かに凌ぐ魔力を得た。同じく与えられた、見えざる刃を放つ魔法武器の扇もある。戦闘力という点では充分だろう。
「頼もしいですわね。――では、よろしくお願い致しますわ」
「承りました、陛下。それでは準備のため、御前失礼させていただきます」
ベアトリスは一礼して主のもとを辞す。それを見送り、レティーシャは立ち上がると、窓辺を振り返った。
「いつまでもそんなところにいないで、入っていらっしゃいな、メリエ」
すると。
「……何だ。分かってたの」
まるで猫が入り込むように、窓が半ば開くと、メリエがするりと滑り込んで来る。大方、窓の外の空中に佇み、話を聞いていたのだろう。彼女に与えたマジックアイテムは、魔力を流すことで足下に小型の魔法障壁を展開、同時に空間座標を固定して空中に即席の足場を作り出すものだ。アルヴィーが使う魔法障壁の足場と、理屈はそっくり同じだった。
ブーツの踵を鳴らしながら、歩み寄って来るメリエにレティーシャが尋ねる。
「いかがでした? それの使い勝手は」
「悪くないわ。――でも、アルヴィーは空も飛べるんでしょ? あたしはダメなの?」
「あれは、彼の翼あってのものですわ。あなたの翼は魔力集積器官としての機能しかありませんけれど、彼のそれは魔法出力機関としての機能も備えています。魔法制御にはおそらく、彼の中の火竜も力を貸しているはずですわ」
「火竜が?」
「“彼”はどうやら、アルヴィーがお気に入りのようですわね」
レティーシャは小さく笑いを零した。
「……本来、人間は空など飛べません。そういう生物ではないのですから。――生物というものは、自らの持つ能力を本能的に理解し、それを十全に発揮するための過程を無意識に組み立てます。ですが、自身の生まれ持たない能力に関するそれを持つことはありません。持っていても無駄ですもの。けれど、“持つ者”が“持たざる者”を補佐することで、本来持ち得ない能力を扱うことはできますわ」
「それが、アルヴィーと火竜ってことなの?」
「ええ。竜種――特に《上位竜》は、魔法制御にかけては図抜けています。彼らの生態は、魔法なしでは成り立ちませんもの。彼らの翼では本来、彼らの自重を支えて飛翔することはできませんし、無意識下の魔法での保護がなければ、体内に蓄えたブレスのためのエネルギーで、自らを傷付けることになります。高い回復能力も、魔法によって自己治癒力を飛躍的に高めているからですわね」
まるで生徒に教えを垂れる教師のように、レティーシャは淀みなく解説を続ける。もっとも、生徒の方はあまり理解する気がないようだったが。
「……そういう難しい話はいいけど。要するに、あたしの中には火竜の魂がないから、アルヴィーみたいなことはできないっていうのね?」
「その拍車のように、アイテムで再現できる能力もありますけれど、彼のように自然に多種の能力を扱うことは難しいですわね。今の彼は、火竜の補佐を受けた擬似的なものではあっても、自身の意思でそれらの能力を使えるのですもの」
レティーシャは何か眩しいものを見るように、わずかに目を細めた。
「――異なる種が一個体として共存し、新たな能力を獲得する……これも、一種の進化といえるのかもしれませんわね」
生物はその命がある限り、ごくわずかずつ、だが確実に変化していく。変わりゆく周囲の環境により適合するように、あるいは新たな世界に飛び込んでいくために。
そして今、“違う種と混ざり合う”ことで、アルヴィー・ロイという少年は通常の“ヒト”とは少し違った存在へと進もうとしている。
「そもそも進化というものは、変化なくしては起こり得ません。火竜との融合という変化を経て、彼がどうなっていくのか……わたくしとしても、非常に興味深いところですわ」
「ふーん……」
メリエは何となく、自分の左手を眺めた。少女のたおやかさなど微塵も残っていない、筋張った異形の手。だが、彼女はそれを醜いとは思わない。この手は、彼女の“力”の象徴なのだから。
(……“あたし”って、じゃあ何なんだろ)
アルヴィーと同じく火竜の細胞を取り込んだ、だがその魂は持たないメリエは、果たして“火竜と混ざり合った”といえるのか。
この身体すら、もう彼女が生まれ持ったそれではない。レティーシャの持つ人造人間製造技術、そしてラドヴァンの死霊術。その結晶が、今の彼女だ。
普通の人間と同じく体温を持ち、食事もし、心臓が確かに脈打っていたとしても――メリエが一度その生を終え、その身すら塵となった事実は動かないのだ。他でもないメリエ自身の魂に、その記憶はすでに刻まれてしまっている。
だからあの時、炎に巻かれたあの瞬間、メリエはとっさに転移アイテムを使い、あの場から逃れたのだ。
火竜の細胞を取り込み、炎に対して高い耐性を得たといっても、それは絶対ではない。この身が耐えうる温度を超えた熱に曝されれば、命を落とすことになるのは普通の人間と変わらないのだ。
ましてや彼女は一度、それによって死んでいるのだから。
“死”を経験したからこそ、メリエは自身の命に執着を覚えた。そして、“一度目”で叶わなかった想いにも。
(せっかく生き返れたんだもん。今度こそ、欲しいものは全部手に入れなくちゃ)
命も、未来も、そして彼も。
それらを掴むように、メリエは異形の左手を強く握り締めた。
◇◇◇◇◇
リシュアーヌ王国の王都フィエリーデは、ファルレアン王国王都・ソーマとはまた違った、華やかな魅力に溢れた街である。家々の窓辺には草花の鉢が並び、中心部に佇む王城はファルレアンの《雪華城》に劣らぬ壮麗さを誇っていた。ミルク色の外壁は、気が遠くなりそうなほどの膨大な数の石材を緻密に積み上げたものだそうで、その石材を組み合わせて飾り線がところどころに入っている。屋根は落ち着いた色合いの青緑色。尖塔には国旗がはためき、中でも主塔に造られた巨大な窓を飾る、鮮やかなステンドグラスは圧巻だ。
左肩にフラムを乗っけたまま、アルヴィーは半ば呆然と、その威容を眺めた。
「……すっげえ……」
「きゅー……」
「ははは、噂に高い《擬竜騎士》殿にそう仰っていただけるとは、光栄ですね」
その隣で快活な笑い声をあげたのは、アルヴィーをこの国に連れて来た外交官の秘書官だ。名をベルナール・ドゥ・ラファルグ。秘書官といっても、まだ若い。柔らかい色合いの茶髪に黄緑色の瞳を持ち、薄く散ったそばかすが特徴的な青年である。リシュアーヌの下級貴族の三男坊だそうで、父の縁故で秘書官として滑り込んだ――とは本人の談だ。
彼はリシュアーヌ王国の交渉団の一員として、外交官と共に国王の親書を携えてファルレアンに赴き、首尾良くアルヴィーを“借り受ける”ことに成功したのだった。無論、ファルレアン側にも思惑はあろうが、まずは自国に降りかかったとんでもない災難を切り抜ける方が先決である。
そして《擬竜騎士》はその期待通りに、死の砦と化したポルトーア砦を死者たちから奪還したのだ。もっとも、その際に砦は丸焼けになったので“奪還”と言って良いものかは疑問だが、国としては痛手でも何でもない。
「おかげさまで、我が方の被害はかなり抑えられましたよ。砦の方も破却が決まっていますので、燃えたところで今さらですしね。かえって、こちらで焼き清める手間が省けたというものです」
アンデッドの巣窟となっていた砦など、いくら何でもそのまま使い続けるわけにはいかなかったので、国は現場の部隊からの報告を受けて早々に砦の破却、及び再建を決定した。本来ならば病などの発生・蔓延を防ぐため、砦を全体的に焼き払う必要があったのだが、アルヴィーとメリエの戦闘の余波で期せずしてそれが成され、砦の始末に関してもずいぶん出費が抑えられたことになる。何しろ、焼却に要する燃料や人件費などの経費が丸々浮いたのだ。
しかも火竜の炎とくれば、通常の炎より遥かに強い力を帯びる。アンデッドの痕跡を焼き清めるにはうってつけだった。それを無料で振る舞ってくれたのだから、リシュアーヌ側としては大歓迎である。
「後は石材の冷却を待って、資材の選別と砦の再建といったところでしょうか」
「……材料、そのまま使うんですか?」
アンデッドが闊歩していたという精神的理由もさることながら、高温で炙られた石材など再利用できるのだろうかと、アルヴィーは首を傾げる。だが、ベルナールはその懸念を笑い飛ばした。
「砕けば基礎くらいには使えますのでね。あの辺りは大雨が降ると、水はけが悪くなるんですよ。砕石として敷き込めば、多少はマシになります」
なるほど、魔法か何かで砕いて、地盤を改良するための基礎砕石として使うらしい。確かにそういう使い道は有りだろう。
「――まあ、仕事の話はここまでにしましょう。せっかく王都にいらしたんです、観光でもして行かれますか」
ベルナールがさらりと話題を変え、街の方を身振りで指し示す。彼は今回、アルヴィーの世話役のような役目を任されているようで、色々と気を使ってくれていた。平民とはいえ他国の上級騎士、しかも高位元素魔法士と来れば、リシュアーヌ側としても下手な扱いはできないということであろう。
「このフィエリーデは、旧い建造物も多く残っていましてね。クレメンタイン帝国の影響を受けたものもありますし、なかなか見応えがありますよ。他にも、観劇や歌……ああ、何なら、今この王都で一番人気の歌姫でも呼びましょうか」
「……いや、そういうのはいいです……」
一応任務で来ているのだから、呑気に観光というわけにもいかないだろう。というか、観劇などに連れて行かれても、鑑賞している内に寝てしまいそうな気がしてならない。歌も以下同文。
(歌なんて、村でみんなが農作業とかの時に歌ってたようなのしか知らないしな……)
単調な作業の退屈さを紛らわすためか、あるいは一定のリズムを取るためか、村で何か作業をする時には、何かしら歌を口ずさむ者が多かった。昔から受け継がれてきたのであろうその歌は、作業によって歌詞が変わったり、そもそも曲からして歌い手の気分で変わるようないい加減な代物ではあったが、それでも村では数少ない娯楽だったのだ。
しんみりとかつての故郷のことなど思い返していると、ベルナールは少し困ったような顔になって、
「そうですか。しかしそうなると、大したおもてなしもできませんが」
「ええと、これ一応任務なんで……」
過剰な接待などされる方が困る。
脈がないと見て取ったのか、ベルナールは軽く肩を竦めた。
「そうですか……では、部屋のご案内でも?」
「あ、そっちの方が助かります……」
というわけで、逗留するための部屋を案内して貰うこととなった。
――宛がわれたのは、城内の一画にある建物の一室だ。城内には迎賓館もあるのだが、アルヴィーは平民であるので別棟になったらしい。正直そっちの方が有難いアルヴィーだった。
平民も使える施設とはいえ、調度品はさすがに趣味が良い。寝具類も清潔で、床には埃一つなかった。ベルナールによれば、ここは外遊などで他国の王族や高位貴族が城に滞在する際、随行する文官や武官のための部屋だそうだ。そのせいか、すぐ近くに貴族用の迎賓館があるという。
「はるばるファルレアンから足を運んでいただいて、国境の砦でとんぼ返りなどという失礼な真似はできませんのでね。砦では相当の激戦だったと聞き及びますし、どうぞここで身体を休めてください」
「あ、ありがとうございます……」
気遣いが怖い、と密かに慄きつつ、アルヴィーは早速部屋に引きこもることにした。正直、他国の貴族にあれほど丁寧に接されると、居心地が悪くて仕方がない。
部屋に一人(と一匹)になると、アルヴィーは大きく息をついた。
「……何か、凄いことになっちゃったな」
「きゅ?」
なあに? とでも言うように小首を傾げたフラムを抱っこして撫でつつ、書き物用と思しき小さな机の前にある肘掛け椅子に腰を下ろす。さすがに文官が使うという部屋だけあって、机があるのは有難い。後で報告書もここで書こうと思いながら、窓の外に見える空をぼんやりと眺めた。
(元はただの猟師の俺が、こんなとこまで来るなんてなあ……)
もし村が滅びたりせず、今でも一猟師であったなら、夢にさえ見ることのなかった世界だった。人生とは本当に何が起こるか分からないものだと、ちょっと深いことなど考えてみる。
(……でもきっと、ルシィに会いにファルレアンには行ったかな)
一度手を離した時の、あの約束だけは、何を置いても守るつもりだった。だからそのために、多少の無理は押してでもファルレアンを訪れることはあっただろう。もっともその場合はかなり高い確率で、その再会は短いものに終わり、後はそれぞれが別の場所で違う人生を歩むことになったに違いないが。ルシエルの母・ロエナのおかげで字は学べたので、手紙のやり取り程度はできたかもしれないが、それが限界だっただろう。
少なくとも、今のように同じ国に属し、隣に立って生きる未来はなかったはずだ。
――だからといって、“どちらが良い”と選べるものでもないのだが。
歴史や人生で“もしも”を考えたところで、起こったことを変えられるわけではないのだ。過去を受け止めた上で、未来に向かって進むしかない。
だからアルヴィーは、“もしも”を望まない。望んでも手に入らない夢想より、今この手にあるものを守ることの方が大事だと、分かっているから。
「……きゅっ」
物思いに沈む飼い主の様子に、フラムが慰めるように身を寄せてくる。左肩に駆け上がり、ぐいぐいと左頬に頭を擦り付けてくるフラムに、アルヴィーは小さく笑ってその頭を撫でてやった。砦の前線で負傷兵たちを“慰問”していた時も、その仕草の愛くるしさで場を大いに和ませていたらしい。
「きゅきゅっ」
と、フラムが肩から膝を経由して床に飛び下り、ちょこちょこと扉の方に駆け寄る。どうやら外に出たいようだ。
「こら、あんまうろちょろすんなよ。迷子になるぞ」
「きゅっ!」
そんなことないもん! と言わんばかりにキリッとした顔をするフラムだが、まあ確かにアルヴィーにべったりなので、そう離れたところには行かないだろう。しかし仮にも余所様で小動物を放し飼いにするわけにもいかず、結局アルヴィーも付き合うことにした。
戻る時に間違わないよう、部屋の位置を頭に叩き込み――もっとも、廊下の突き当たりという分かりやすい場所なので、階さえ間違わなければ大丈夫だろう――アルヴィーはフラムを連れて部屋を後にする。王城内は立ち入って良い区画とそうでない区画があると、ベルナールから予め説明を受けたが、この建物の周辺をうろうろする程度ならまず問題はないはずだ。
この辺りはわざと地形に起伏を持たせ、自然に近い庭園を設えてあった。色鮮やかな花は少なく、いかにも人の手が入ったと思われる形の植え込みなどもない。だがわざわざ水を引いて、小さな滝が造られていたので、アルヴィーはそこでしばし涼を楽しんだ。
「すげーなあ……何か、鹿とかいそうだな」
元猟師の血が少し騒いだが、実際に動物がいたところで、まさか他国の王城内で狩りなどできない。そもそも王城内にいる動物など、小鳥か鼠くらいのものだろう。なので元猟師の血には静まって貰うことにして、足下をちょろちょろするフラムを時折構いつつ、水のせせらぎと小鳥の囀りに耳を傾ける。
……そんなアルヴィーの背後から、こっそりと忍び寄る人影が、一つ。
「…………」
もちろん、アルヴィーはとうに気付いていたが、特に害意などは感じなかったのでそのままにしていた。アルヴィーの中のアルマヴルカンも何も言わない。本当に危険な時は警告してくれるので、背後から忍び寄っているのは別に暗殺者などではないのだろう。
背後の人物は、なかなか器用に足音を殺して、そろそろとアルヴィーに忍び寄り――。
「――つかまえたっ!」
「きゅっ!?」
アルヴィーではなく、その足下のフラムを急襲した。
「うわあっ、ふかふかでつやつやだ! 可愛いなあ!」
「きゅーっ!? きゅきゅーっ!?」
いきなり鷲掴みにされたかと思えば全身をもみくちゃに撫でられ、フラムはパニックになってばたばたと暴れる。さすがに相手に怪我をさせてはまずいと、アルヴィーはやんわりフラムを奪還した。
「あっ!?」
「いきなり捕まえたらびっくりするだろ?――ほらフラム、おまえももう暴れんな。大丈夫だから」
「うー……」
あっという間に奪還されたフラムを名残惜しげに見つめるのは、まだ一桁年齢であろう子供だ。柔らかそうな金髪は鮮やかに光を弾き、丁寧に梳られて結われていた。若草色の瞳は、きらきらと輝いて闊達な気性を物語る。一見して性別の判断に迷う可愛らしい子供だったが、着衣からして男の子だろう。上質そうなその服装に、アルヴィーは内心ちょっと引きつった。
(ええー……もしかして、結構いいとこの坊ちゃんなんじゃないのか、この子供……)
アルヴィーがやや引いているのにも気付かず、子供は羨ましそうにその手の中のフラムを見つめている。根負けして、アルヴィーは尋ねてみた。
「……動物、好きなのか?」
「うん! ふわふわで可愛いし、額の宝石もきらきらしてきれい!」
満面の笑みで答えた子供は、うずうずとこちら――というかフラムを見上げてきた。触りたい撫でたいと顔に大書きしてあるその様子に、アルヴィーはまあいいかとフラムを差し出してやる。フラムも大分落ち着いたようなので、暴れたり噛み付いたりということもないだろう。
「ほら。――いきなりぐしゃぐしゃに撫でたら駄目だぞ? 背中の方から、そーっとな」
「うん!」
子供はぱあっと顔を輝かせ、言われた通りにそっとフラムの背中を撫でた。ぴこぴこと長い耳が動き、緑の瞳を細める様子に、感動したようにうわあ、と小さな声を漏らす。
「これ、うれしいのかな?」
「そうだな、撫でられて気持ち良い時は、大体こんな顔するな」
「やったあ!」
子供は飛び上がって喜ぶ。どうやら、こうして動物と触れ合う機会があまりないらしい。
何とも微笑ましい光景――だが、両者ともうっかり失念していたことがあった。
ここは自然に近付けて造られた庭園の水辺。当然、足下は悪い。
そんな場所で文字通り飛び上がって喜んだ結果――子供は見事につるりと足を滑らせた。
「――うわあっ!?」
「ちょ、危ねっ!」
一瞬身体が浮くほど勢い良く足を滑らせた子供は、そのまま背中から倒れ込みかける。アルヴィーはとっさに、子供を抱き込むようにして庇った。しかしその代償に、今度は彼の足下がふらつく。
そして一瞬の後、彼は子供ともども、目の前の水面目掛けてダイブしていた。
「……あー……大丈夫か?」
障壁を張る余裕もなく、ばしゃん、と派手な水飛沫を上げて水中に突っ込んでしまったが、幸い水深はごく浅かった。子供でさえ立てば膝辺りに水面が来る。ただその分水で勢いが殺されず、アルヴィーは水底の地面でしたたかに肩や背中を打った。もっとも、桁外れの回復力でもれなく数秒で痛みも消えたが。
頭からずぶ濡れになったので、まあいいかとばかりにそのまま水中に腰を下ろして、アルヴィーは子供の怪我の有無を確かめる。どうやら身体を張って庇った甲斐はあって、子供に怪我はない。フラムは落ちる寸前に放り出したので、現在は岸辺できゅーきゅーと騒いでいた。
「うう……ごめんなさぁい」
さすがに自分が巻き込んだ自覚はあるのか、子供はへにょりと眉を下げて謝ってきた。こちらもまんべんなく濡れ鼠だ。
「気にしなくて良いよ、濡れただけだしな。――とりあえず、上がろう。風邪ひいちまう」
左腕一本で子供を抱き上げ、濡れて纏わり付く衣服に辟易しながら岸に上がると、フラムが走り寄って来た。落ちる前に放り出したはずなのになぜか濡れているのは、おそらくアルヴィーたちが飛ばした水飛沫を被ってしまったのだろう。
「あーあ、全員見事にずぶ濡れだな。よしフラム、こっち来い。乾かすぞ。おとなしくしてろよ」
フラムの足を一応水で洗って左肩に乗せると、子供を目の前に立たせる。そしてアルヴィーは、その右手に炎を生み出した。それは瞬く間に大きくなり、彼らの周囲を渦巻く。
「うわあっ!?」
目を見張る子供の髪や服があっという間に乾き、熱を帯びた風に翻った。水気が飛んだのを確認し、アルヴィーは炎を消す。
「……よっし、乾いたな。けどその服、後でちゃんと洗った方が良いぞ」
零れ落ちそうなほどに大きく目を見開いた子供の頭を、軽く撫でてやる。と、
「――セルジュ様! セルジュ様、どちらにおいでですか!」
「セルジュ殿下!」
そんな呼び声が、風に乗って聞こえてきた。子供がぴくりと反応を示す。もしかして、とアルヴィーが嫌な予感を覚えると同時に、数人の女性がその場に現れ、悲鳴のような声をあげて駆け寄って来た。
「セルジュ様! ご無事で!」
「こちらの方においでになってはいけませんと、いつも申し上げておりますでしょう?」
「急にお姿が見えなくなったので、皆心配しておりますよ! さ、お戻りくださいませ」
「えー……」
不満げに口を尖らせる子供に、やっぱり、とアルヴィーは天を仰ぎたい気分になった。だが悲しいかな、彼の災難はこれからが本番だったのだ。
さてどうやってこの場を抜け出して戻ろうかと思案する彼の上着の裾を、その時子供ががっちりと握った。ぎょっと見下ろすアルヴィーに、子供は輝かんばかりの笑顔で爆弾投下。
「じゃあ、このお兄ちゃんといっしょに帰る!」
……一瞬の空白。
そして響き渡る女性たちの驚愕の絶叫に、アルヴィーは今度こそ本当に天を仰いだ。
◇◇◇◇◇
オルロワナ公爵襲撃とその失敗の知らせは、極秘ながらすぐにレクレウス王国王都・レクレガンに飛んだ。
その情報を受けた数少ない人間の一人――そして今回の一件を裏で仕組んだ一人ともいえるナイジェルは、待っていたとばかりに動き出した。水面下で密かに集めた証拠を携え、登城して貴族議会を召集する。
そして彼は数日に渡る議会でこの一件を議題とすると、前王ライネリオと旧強硬派貴族たちの告発を決定した。
「――これは由々しき事態です。前王陛下は旧強硬派貴族と共謀し、王家の貴き血を引かれるオルロワナ公爵を暗殺せしめようとしたのです!」
証拠から実行犯までしっかりと押さえたナイジェルの告発に、ライネリオも旧強硬派貴族たちも言い訳のしようがなかった。暗殺未遂の現場は遠く国境地帯だが、実行犯の素性やその背後の依頼人などは一部の隙もなく調べ上げられ、報告書となって天馬よりさらに速い飛竜で、早々に王都に届けられていたのだ。そこにはしっかりと、今回の事件に関わった実行犯の暗殺者の身元やその供述、彼を呼び寄せた貴族の素性が記されていた。ついでに彼らがヴィペルラートと密かに接触しようとしていたことも。
「何と……ヴィペルラートの侵攻に乗じて政権を奪い返そうとしていたとは」
「しかもこれでは、必要とあらば国をも売るつもりだったとも取れる」
「レクレウス貴族の風上にも置けませんな……」
貴族議会の構成員たちはそう囁き合い、そして畏怖を帯びた目で壇上のナイジェルを見やる。
――彼らもまた、気付いていたのだ。
今回の一件が、すべてナイジェルの掌の上で操られていたのであろうことに。
文句の付けようもないほどに揃った証拠、ユフレイアに密かに付けられた凄腕の護衛、何より流れるような手際で行われた貴族議会の召集と、旧強硬派貴族たちへの告発。ナイジェルは周到に準備を進め、今ついにその札を切ったのだ。
すべては、前王ライネリオを政治的に完全に抹殺するため、そして未だにしぶとく生き残っていた、旧強硬派貴族たちを今度こそ一掃するために。
ナイジェルに半ば誘導されたとはいえ、ライネリオと旧強硬派貴族が共謀し、ユフレイアの暗殺を謀った事実は確固たるものであり、どうあっても覆せるものではない。しかも、彼らがヴィペルラートのレクレウス侵攻に乗じて政権奪還を企み、暗殺者を国内に引き込んで暗殺未遂事件を起こした証拠はいくらでもあるが、その裏でナイジェルが糸を引いていたという証拠はどこにもないのだ。彼がやったことといえば不正の証拠を集めたことと噂を流したこと、そしてライネリオと貴族たち自身の心理を利用したことだけなのだから。
その彼の指示で王都中を歩き回り、数々の証拠を集めて回った従者たる少女たちは、今まさに議会が開かれている議場の出入口を固めていた。
「……来るかな?」
「旦那様はそう言ってたよ」
いつものようにローブを纏い、目元にベールを垂らしたブランとニエラは、議場の扉の前でひそひそと囁き合う。そんな彼女たちの足下に、ふと影が差した。
顔を上げると、そこには武装した男たちが立っている。その内の一人が、少女たちの鼻先に抜身の剣を突き付けた。
「中にクィンラム公爵がいるな? そこを通して貰おう。おとなしく道を開けるならば危害は加えん」
だが――少女たちは互いの顔を見合わせ、そしてクスクスと笑い始めた。
「ほんとに来た!」
「やっぱり、旦那様の仰った通りだね」
「じゃあ、わたしたちの仕事をしようか」
「そうだね、せっかく貰った仕事だもんね!」
肌の色が違うだけで、服装も髪型もまったく同じ少女たちは、鏡写しのように男たちに向き直ると、同時にその両手を引き絞るように握り締める。
すると、男たちの手足が突然、彼ら自身の意思を無視して動き始めた。
「――何っ!?」
驚愕の表情を顔に張り付けながら、男たちは互いに同士討ちを始める。
「や、止めろ!」
「違う、俺じゃない! 手、手が勝手に――!」
「うわあああ!!」
あっという間に混乱に陥った男たちを、少女たちは笑いながらベール越しに眺める。しかしその手指は小刻みに動き、そこから伸びて密かに男たちの手足を戒めていた魔力の糸を操っていた。《人形遣い》の面目躍如というところである。さすがに自前の人形は大き過ぎるため城内には持ち込めないが、彼女たちは糸さえあれば大抵のものを操れるのだ。今回はそれが敵の身体そのものだっただけの話である。
ひとしきり男たちを同士討ちさせると、彼女たちは魔力の糸で男たちを縛り上げた。仕上げに首をちょっと締め上げて意識を落とし、完全に抵抗を封じることも忘れない。
(……く、くそ……だが、この議場にはもう一つ出入口がある。今頃、そちらから別動隊が……)
少女たちの詰めの甘さを嘲笑いながら、男の意識は遠退いていった。
……一方、もう一つの出入口にも、武装した男たちが迫っていた。
「よし、では速やかに議場に突入、議会を制圧する。総員、抜剣」
すると。
「いや、それは困るな」
聞き覚えのない声に、男たちはぎょっと視線を走らせた。
「な、誰だ!」
「名乗る義理はないが、一つ忠告はしてやろう。味方の人数はきちんと把握しておくことだ」
いつの間にか彼らの中に、見知らぬ顔の男が紛れ込んでいたのだ。黒髪に細い黒目、暗い色合いの服に身を包んだ、ごく平凡な顔の男だった。あまりに特徴がなさ過ぎて、一目見ただけでは数秒で忘れ去ってしまいそうだ。
だが、そんな平凡きわまる男は、やおら大振りのナイフを抜くと、目にも留まらぬ早業で男たちに斬り掛かった。
「なっ」
「き、貴様……!」
たちまちの内に二人が斬り伏せられ、何とか剣で防御した男は、その剣を一息で斬り飛ばされ目を見張った。とんでもない技量だ。
「な、何者――!」
絞り出した声は、だが首筋に一撃食らったせいで途切れた。
「――ふう。まあ、こんなものか」
あっという間に男たちを全員叩き伏せ、黒髪の男――イグナシオ・セサルは息をつく。愛用する竜素材のククリナイフを鞘に納め、代わりに縄を取り出して、手際良く全員を縛り上げた。何しろ王城を血で汚すわけにはいかない。多少の怪我は負わせたが、息の根までは止めていないのだ。彼は元暗殺者であるが、それだけに人体の急所には精通していた。致命傷を“負わせない”技量もあるのだ。
(……閣下が仰るには、こいつらは王太后陛下が差し向けた可能性が高いそうだが。わざわざご自分から証人を増やしてくださるとは、ご親切なことだ)
前王ライネリオの母である王太后は、だが現王の生母でもあるがため、今回唯一訴追を免れている。だが彼女は、長男であるライネリオを溺愛し、彼が幽閉された後も何かと援助を惜しまなかった。今回のユフレイア暗殺未遂に関しても、経済的な支援をしたのは王太后だと、ナイジェルは睨んでいる。できれば、彼女の権勢も衰えさせたかった。
そのためにナイジェルは、わざと議会での告発と議決に数日を掛けたのだ。
王太后を心理的に追い詰め、ナイジェルを排除しようと行動を起こさせるために。
(まったく……怖いお方だ。――だがそれでこそ、仕える甲斐もある)
これを足掛かりに、ナイジェルは王太后の権力も容赦なく削りに掛かるだろう。敵に妙な情けを一切掛けないのが彼だ。時に手ぬるいように見えても、それはあくまで“次”を見据えた布石に過ぎない。
その冷徹なまでの怜悧さは、磨き上げられた刃のようにイグナシオを魅了した。
(さて……議会が片付くまで、まだ時間がある。多少の尋問はしておくか)
新たな主を手助けするため、イグナシオは手近な空き部屋を見繕うと、男たちを引きずって歩き出したのだった。




