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片翼のドラグーン  作者: 八月 あやの
第九章 霧の向こうで
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第69話 帰路へ

web拍手を設置してみました。

メッセージへのレスは活動報告の方でさせて頂きます。

 一面蒼の中に、一際鮮やかな深紅。その体躯たいくに似合わぬ緩やかさで降下してきた火竜エルヴシルフトは、風を従えてでもいるような軽やかさで、アルヴィーの眼前に下り立った。

『この間が山かと思ったら、今度は海の上の孤島か。続けざまに、妙なところで会う』

 ぐるぐると笑いながら、エルヴシルフトはふと、アルヴィーの背後の小山に視線を向ける。

『……案ずるな。この人間には我が加護を与えてある。害する気はない』

 すると、水竜マナンティアルのたおやかな声が響いた。

『そう願いたいものよの。それはわらわの気に入りゆえ』

『ほう、水竜にも好かれたか。それに、精霊の気配もあるな。さっきからおまえの周りをうろうろと』

「え?」

 見下ろせば、地面に黄白色の光が浮かび上がり、くるくるとアルヴィーの周りを回っていた。

『この間雛を連れ帰ったばかりと記憶しているが。その雛やつがいを放ってうろついていて良いのか』

 さらにアルマヴルカンまで話に加わったものだから、アルヴィーはもう遠い目をするしかない。《上位竜( ドラゴン)》やら高位精霊やらの真ん中に、なぜただの(というといささか語弊ごへいはあるが)人間の自分が混ざっているのだろうか。

 彼がたそがれていると、エルヴシルフトはぐるぐると喉を鳴らした。

『ふん、心配は要らんさ。我が伴侶はんりょは上空で様子を見ている。雛は――』

 その時だった。


『――ぴゃーっ』


 仔猫のような甲高い声と共に、エルヴシルフトの背中から小さい影が二つころころと飛び出し、地上目掛けてダイブした。


「うわ、危ねえ!」

 とっさにアルヴィーが受け止めようと手を伸ばしたが、それより早くエルヴシルフトがフォローしたのだろう、影は落下の勢いを弱め、ふんわり降下してくる。

 それはどう見ても、ミニサイズな竜だった。

 深紅の鱗は親譲りだが、やはり色合いは一目で分かるほど明るい。身体に対して頭が大きく、翼や尻尾、四肢は子供らしくまだまだ小作りだ。金色の目は零れ落ちそうなほど大きく、ぴゃあぴゃあと鳴くたびに牙のほとんどない口内が見えた。申し訳程度に生えた角は先が丸っこく、腹の辺りがぽこりと膨れているのも相まって、全体的に丸々として柔らかい印象を与える。

 アルヴィーが抱えて持ち上げられそうなサイズの仔竜二頭は、そのまん丸い瞳で興味津々といった風にアルヴィーを見上げてきた。

『ほう、右の方はあの時の卵か』

 アルマヴルカンの言葉に、アルヴィーはしげしげと仔竜を見つめた。

「そっか、あの時のか……」

 どうやらつつがなく孵化ふかできたらしいその仔竜は、兄弟よりほんのわずかに小柄ながら、元気にすくすくと育っているようだ。アルヴィーを見上げるのにも満足したのか、今度は足下をまだ覚束おぼつかない足どりで回り始める。ぽてぽてと音でも出そうなその歩き方は、丸っこい体型も相まって非常に愛くるしい。

「うわー……何だこれすげー和む……」

 凄まじく癒された気がして、アルヴィーは表情を緩ませた。小さな翼をばたつかせ、お尻と短い尻尾をふりふりしながらの行進は、何だか鳥の雛のようだ。竜が子供に過保護になるのも分かる気がした。

『覚えのある魔力を感じて、懐いているのだろう。孵化する前のことであっても、雛は魔力の質を感じ取る。自らの生命に直結するからな。まして自分の命を繋いだ魔力だ、忘れ難きものであろうよ』

 アルヴィーの傍を離れようとしない仔竜に、アルマヴルカンがそう説明した。

「そっかー。大きくなれよー」

 そうは言いつつも、アルヴィーは仔竜に手を触れようとはしない。猟師であった頃、野性の獣の仔の扱いについて、先輩格の猟師に叩き込まれたからだ。

 野生の獣は、仔に人間の臭いが付くことを酷く嫌う。下手に触れてしまうと、親が子育てを放棄してしまうことも珍しくないと、アルヴィーは聞いた。仔のためを思うなら、いくら可愛らしかろうと手など触れずに、そのまま森に帰してやるのが一番だと、繰り返し言い聞かされたのだ。

 もちろん、竜は森の獣と比べれば段違いに知能が高いが、それでも野生の生き物であることには変わりない。変に刺激しないに越したことはなかった。さすがにあのイムルーダ山の時のように、手出ししなければ親の報復待ったなしの可能性大、などという場合は話が別だが。

 ひとしきりアルヴィーの周囲をぐるぐる回った仔竜は、満足したようにその金の両目をきらきら輝かせた。

『ぴゃあ』

『そうか、気に入ったか、アゼルアリア』

 それがこの仔竜の名前だろう。以前の言の通り、アルヴィーの名から一部音を取ったようだ。竜の性別など一見しただけでは分からないが、名前の響きは女性的だった。

『ぴゃーっ、ぴゃーっ』

 推定メスである仔竜は再びアルヴィーの顔を見上げて賑やかに鳴くと、小さな翼を懸命にぱたぱた動かし始める。さすがに生まれたてとはいえ竜というべきか、明らかに身体に見合わないサイズの翼だというのに、両足が宙に浮いた。

「おおお、すげー! 飛んだぞ! ほら頑張れ」

『ぴゃーっ!』

 アルヴィーの声援が分かったのか、仔竜はさらに声を張り上げ翼を羽ばたかせる。と、兄弟の方も負けじと、張り合うように翼をぱたぱたやり始めた。可愛らしい競争に、アルヴィーの頬も緩みっ放しだ。

『ほう、もう自力で飛び始めたか。さすが我が雛よ』

 エルヴシルフトの声も心なしか満足げだ。もしかしなくても竜というのは、大層親馬鹿なのではないだろうか。

『――ぴゃぅぅ……』

 だがしばらくすると飛び疲れたのか、仔竜たちはへちょりと地上に逆戻りした。エルヴシルフトが小さく唸ると、その身体がふわりと宙に浮く。遊ぶのはもうおしまい、というところか。

『ふむ、まあ初めてでこれだけ飛べれば上出来だろう。一度飛び方を覚えれば後は早い』

 仔竜たちを浮かせたまま、エルヴシルフトは目を細めた。そんな彼に、マナンティアルがまだ少し警戒をにじませて問う。

『――して、この島に何の用じゃ。ここには火竜が好む火の気はないが?』

『特段の用はない。ただ、居を移すために移動していたところ、こちらで妙な力が動く気配を感じたゆえ、様子を見に来たまでのことだ。だが、覚えのある人間がいたものでな。つい立ち寄ってしまった』

 “妙な力が動く”とは、おそらくマナンティアルが霧を晴らしてくれたことだろう。しかしアルヴィーは別の部分に引っ掛かった。

「居を移すって、引っ越しか?」

『今まで住処にしていた火山が冷えてしまったものでな。雛を育てるために、少々力を吸い上げ過ぎた。それゆえ、別大陸に渡ることにしたのだ』

「……別大陸って、他にも大陸があるのか?」

 子育てのために火山一つの活動を止めるとは何とも壮大な話だが、そこよりもさらに突っ込みどころを見つけてアルヴィーは尋ねる。初めて聞く話だったが、どうやら人間以外の面々にとっては周知の事実のようで、特に驚いている者はいなかった。

『あるよ? まあ、人間の船で大陸間移動できるかどうかは分かんないけどね。すっごく遠いらしいから』

 アルヴィーの足下で、黄白色の光がちかちかと瞬く。マナンティアルも同意した。

『それに、外洋には巨大な魔物がうろついておるゆえの。クラーケンやアスピドケロンなどに出くわした日には、人間の船など良い餌であろ』

「……なにそれ」

『海にむ魔物どもだ。まあ、水中に潜るところが厄介ではあるが、純粋な戦闘力では《下位竜( ドレイク)》と比べても数段劣る。主殿であれば、出くわしたところでどうとでもなろう。奴らは水の魔物だけに火に弱い。そのまま燃やしてしまえば済む』

「ふうん」

 何しろ海を見たのも今回が初めてなアルヴィーが、海の魔物など知っているわけもない。が、そこではたと気付いた。


「おい待て。――じゃあここ、俺がいたのと全然別の大陸の近くってこともあり得るのか?」


 魔物の話で危うく聞き流すところだったが、シュリヴが調べてくれた“この島の近くにある大陸”を、アルヴィーは何の疑いもなくファルレアン王国などがある大陸だと思っていた。“それ以外の大陸”というものを、彼自身がまったく知らなかったからだ。しかし別の大陸があるというのなら、その未知の大陸という可能性も否定できなくなる。そうなれば当然、ファルレアンへの帰国はぐっと遠のくだろう。

 マジかよ、と青くなるアルヴィーに、だがエルヴシルフトはあっさりと、

『心配せずとも、ここは人間たちの住む大陸に程近い。どういう経緯いきさつでここまで来たかは知らんが、幸いだったな。我らが向かう別大陸は、人間が住める環境ではない。あちらに渡っていれば、人の身では遠からず死んでいただろう。――まあ、おまえが“人の身”の範疇はんちゅうに入るかどうかはともかくとして』

「あっぶねええ! 一歩間違ってたら別大陸コースかよ! っていうか《上位竜( ドラゴン)》から人外疑惑掛けられる俺って一体……」

 喜ぶべきか困惑するべきか。いや、前半は間違いなく喜ばしいのだが。

 だがともかく、元いた大陸が近くにあると確証が取れただけでも有難い。数十ケイルほどの距離があるという話ではあったが、翼と魔法障壁の足場を上手く使えば何とか戻れるだろう。

 アルヴィーは心を決めると、振り返った。


「俺、帰るよ。――自分の国に」


 かつての敵国を“自分の国”と称することに、もうためらいはない。

 アルヴィーの守りたいものはすべて、あの国にある。


『そうか。ふふ、まあ戻りたいと言うておったし、いつまでもここで引き止めているわけにもいくまいよ。えにしも結んだし、気が向けばいつでも来るが良い』

 マナンティアルは相変わらず泰然たいぜんと笑い、アルヴィーに別れを告げる。と、その足元からシュリヴがひょこりと顔を出した。地面から飛び出した彼は、やや不満げにアルヴィーを半眼で見やる。

『……帰るんならさっさと帰んなよね、まあ僕には関係ないけどさ。――あとこれ!』

「ぶ」

 いきなり何かを顔面に押し付けられて、アルヴィーは思わずうめいた。シュリヴが手を離したため、落ちそうになったそれをすんでのところでキャッチ。

「……水晶?」

 それは片手で包めるほどの大きさの水晶の原石だった。だがその中には金色の光がちらちらと揺れ、まるで水晶の中に炎が閉じ込められているかのようだ。

『それ、鍵だから。それ持ってないと、次来たってこの島に入れてやんないからね!』

 シュリヴはびしりと指を突き付けてそう宣言すると、再び地面に吸い込まれるように姿を消した。もっとも、黄白色の光がアルヴィーの足元周辺をうろついているのだが。それを感じ取ったマナンティアルが、微笑ましげに笑いを零す。

「お、おう。ありがとな」

 とりあえず、その光に向けて礼を言い(光がやたらちかちかと瞬いたが、すぐに顔を上げた彼のあずかり知るところではない)、アルヴィーは翼を使うため、右腕を戦闘形態にしようとする。と、


『ふむ。――そういえば、空から人間の船をいくつか見た記憶があるな。良かろう、その内の一つまで運んでやろう』

「は!?」


 耳を疑ったその時には、すでにアルヴィーの足が宙に浮いていた。

「ちょ、え、おおおおい!?」

 当然慌ててじたばたもがくが、もちろん竜の干渉がその程度でどうにかなるわけがない。

『人間の船の航路からして、どの船もこの辺りには近寄らんようだぞ? どうせ寄り道の途中だ、おまえ一人を適当な船に下ろすくらいはさほど手間でもない。アゼルアリアもおまえを気に入ったようだしな』

『ぴゃーっ』

 仔竜は父の言葉を理解しているのか否か、嬉しそうに鳴いてぱたぱたと翼をばたつかせる。どうやらアルヴィーの方へ飛んで来ようとしているようだ。悲しいかな、まったくといっていいほど移動できていないが。

『では、行くぞ。邪魔をしたな』

 エルヴシルフトの巨体がふわりと浮き上がり、それに伴ってアルヴィーも仔竜たち共々上空へと連れて行かれる。空を飛ぶのはそこそこ慣れているが、自分の意思によらずの飛行はやはり感覚が掴めず、アルヴィーは思わず悲鳴をあげた。

「うわあああ!? あ、色々ありがとなー! じゃあなー!」

 それでも律儀に挨拶だけは忘れず、そのままエルヴシルフトに連れ去られてしまったアルヴィーを送り出し、地面の光が小さく瞬いた。

『……行っちゃった、か』

『何じゃ、気に入りが島を離れて寂しいか。精霊とはいえ、やはり子供よの』

『そ、そういうんじゃないけど!』

 気色ばんで否定しながらも、アルヴィーが再びこの島を訪れる前提でアイテムを渡している辺りが、マナンティアルには何とも微笑ましい。

『……さて、ではあの者がまたここを訪れるまで、妾はもう一眠りするとしようか』

 もとより、もはや肉体を持たないこの身は、本来なら睡眠など必要としない。だがあまりに長い時間を、意識を覚醒させたままで無為に過ごすのも気が進まなかった。半分微睡(まどろ)みながら待つくらいが、ちょうど良いのだ。

 同じ三百年を、だが狂気の中で過ごしたシュリヴには、それが分からない。もっとも彼は、ただぼんやりと待っているつもりもなかった。

『ふーん。まあいいんじゃない。僕は色々、やることがあるけどね!』

 そう言って、黄白色の淡い光が島全体に広がり始める。島の隅々、果ては海底の地面にまでその力が及んでいくのを感じながら、マナンティアルはしばしの浅い微睡みに沈んでいった。



 ◇◇◇◇◇



 レクレウス王国北部、オルロワナ北方領。その中心都市ラフトの領主館で、この地の主たるユフレイア・アシェル・オルロワナ公爵は、王都のナイジェルからの書簡を受け取ったところだった。

「――ヴィペルラートが動くか。厄介だな……」

 このオルロワナの地は直接ヴィペルラートと接してはいないが、遠いともいえない。もしヴィペルラート側が侵攻してくれば、多少なりとも影響は出ると思われた。何より――。


(向こうにも確か、高位元素魔法士ハイエレメンタラーがいたはずだ)


 ユフレイアもその存在については聞き及んでいる。過剰に政治中枢から遠ざけられていた以前ならいざ知らず、貴族議会にもそれなりの影響力を保持する立場となった今では、他国の情報に無関心ではいられない。情報の専門家であるナイジェルからの情報提供もあり、一通りの情報は頭に入れている。

 そしてその中には、各国がようする高位元素魔法士ハイエレメンタラーの情報もあった。

(ヴィペルラートの高位元素魔法士ハイエレメンタラーは、確か水系統。地系統わたしとは相性は悪くない、が……)

 敗戦したばかりのレクレウスでは、迎撃に充分な戦力を揃えられない。万が一ヴィペルラートの侵攻が確実なものとなった場合は、ユフレイアにも参陣を――と、ナイジェルからの書簡には記されていた。無論それに否やはない。だが、彼女は戦場などに出たことはもちろんなかった。そんな自分が役に立つのだろうかと、つい自問してしまう。

 せめてそういったことに長けた者が、傍にいてくれれば――。

 そんな考えが不意に頭をよぎり、そしてすぐに打ち消した。

(……ないものねだりをしてもしょうがない。それよりも、準備を進めておかなくては)

 ヴィペルラートの侵攻に備えて領地の守りを固め、物資の調達を済ませておかなければならない。侵攻が現実のものとなってからでは遅いのだ。

 補佐官を呼び、諸々(もろもろ)の準備についての手配を任せると、ユフレイアは部下たちに命じて一枚の鏡を用意させる。それは近頃めっきり出番の減ってきた、遠距離通信の魔法が込められた鏡だ。

 キーアイテムの宝珠を嵌め込み、ユフレイアは鏡の向こうに語りかけた。

「――鏡越しに失礼する、クィンラム公」

『お気になさらず、オルロワナ公。相変わらずお美しい』

 すぐさま返ってきた声に、ユフレイアは反応に困って眉を寄せた。

「……世辞は有難く受け取っておこう。それより、公からの書簡がこちらに届いた。――ヴィペルラートに動きがあったというのは、事実なのだな?」

『残念ながら。ヴィペルラートに潜入させていた、わたしの手の者が掴んで参りました』

「公はどこにでも耳を持っているな。まさか、宮廷にか?」

『さすがに、そこまで深くに潜り込ませることはできませんでしたが、帝都にいるだけでも分かることは多いのですよ。例えば、武器や食料、ポーションなどの動きを探れば』

「なるほど」

 戦争には膨大な物資が必要となる。それを調達するにはどうしても、大規模な商取引を行う必要があった。物流は大きく動き、分かる者にはそれだけで、戦争が近いことが感じ取れるのだ。無論ヴィペルラートも、できる限り国外にそれを隠蔽いんぺいしようとしたようだが、それでもすべてを隠しきれるものではないだろう。この大陸にある国々は、互いの国内に少なくない密偵を放ち合っているのだから。

『ヴィペルラートにとって、今回は新たな領土を得るまたとない機会ですからな。我が国は敗戦直後で軍の力も落ちている。それに我が国とヴィペルラートの国境は、ファルレアンとのそれよりも遥かに長い。もちろん、地形的に侵攻経路はいくつかに絞れましょうが、それでも防衛は容易たやすくはないでしょう』

「確かにな……」

 国境線の長さが、この場合(あだ)となる。侵攻経路を絞り込んでそこに戦力を集中しなければ、今のレクレウスの兵力では侵攻を阻むことは難しい。そしてそれはそのまま、ヴィペルラート側の利点となった。

『無論こちらでも、引き続き情報収集は進めておりますが』

「とはいえ、侵攻経路を漏らすほど、向こうの情報管理も甘くはなかろう」

『それはもちろんです。とはいっても、軍勢が動くのであれば、進路上の町や村落にはその旨、通達が届くでしょう。今はそれを探らせております』

 ナイジェルの言葉に、ユフレイアは頷く。どれだけ進軍を極秘裏に進めようとも、補給や兵員の休息のために、どうしても途中の町や村に立ち寄らざるを得ない。その準備をさせるため、進路上にある町や村には事前に通達が出されるはずだ。ナイジェルはそれを調べさせている。それが分かれば、大まかにではあるが侵攻経路の見当が付くはずだった。

『ひとまず、今は情報収集と準備、国境周辺の防備の強化程度しかできることはありません。我が国の方から手出しをするなどもってのほか。貴族議会からも改めて、その旨を通達は致しますが』

「そうだな、それしかないだろう。――だが場合によってはわたしも出よう」

 ユフレイアの言葉に、鏡の向こうでナイジェルは満足気に薄く笑んだ。

『そう仰っていただけると心強いですな』

「向こうにも高位元素魔法士ハイエレメンタラーがいるという話だからな。もし出てくれば、わたしでなければ相手はできまい。もっとも、わたしは戦に関してはずぶの素人だが」

『無論そうなれば、公の御身の安全は最大限図らせていただきます。どうぞご安心を』

 “最大限”という辺りが彼らしいと、ユフレイアは内心苦笑する。もっとも、“必ず”などと聞こえの良いことを言うよりは、そちらの方が好ましいと、彼女は思った。事実を事実として正確に伝えてくれるのが、結局のところ最も役に立つのだから。

「当てにしよう。――では、こちらも侵攻を前提として動く。すでに物資などの準備は始めさせているが、そちらで必要なものはあるか」

『それではお言葉に甘えまして、鉱物資源をいくらか融通していただきたく。ファルレアンとの戦争で、かなりの装備を失いましたのでね。それらを作り直すのに、どうしても大量の資源が必要となります』

「分かった。すぐに手配しよう」

『有難く存じます』

「その程度、どうということもない。ただし、西方の領主どもの手綱はそちらできっちり取ってくれ。先走られて開戦など、笑えんからな」

『同感ですな。――ところでオルロワナ公、最近御身の周囲で変わったことはございませんか』

「特にないが。何かありそうなのか?」

『いえ、念のためにお伺いしたまで。何しろ公は今や、国内でも五指に入る大貴族ですからな。ご自身のお立場を、くれぐれもお忘れなきよう』

「無論だ。では、この辺で失礼する」

 通信を終え、ユフレイアは鏡を片付けさせると、気分転換にと執務室のテラスに出た。

 ラフトの街を一望できるテラスで、大きく息をつく。頬を撫でていく風に目を細め、そして気付いた。

「……虫か……?」

 ふと耳を掠めた羽音。眉をひそめたが、その主らしい姿は見当たらなかった。気のせいかと納得して、ユフレイアはしばしの息抜きを楽しみ、また執務室に戻って行く。


 ――その背後を、人の拳ほどもある大きな蜂が一匹、羽音を低く響かせながら飛び去って行った。



 ◇◇◇◇◇



「……とりあえず、ご領主様の方には異常なし、と……にしても、あれから大して仕事もなくて暇だよねー」

「騒ぎがないに越したことはないだろ。それにまた刺客が来たって、接近戦になりゃ相手するのは大抵俺だろうし」

「あ、あはははは。まあその辺はそれとして」

 乾いた笑い声をあげつつ明後日の方向に視線を逸らすクリフを、フィランは胡乱うろんな目で見やった。

 ――ユフレイアを陰ながら護衛する役回りだというクリフ・ウィスに、成り行きで協力することになったフィランは、結局未だにラフトの街中に留まっていた。まあ、フィランとしても差し迫った予定があるわけでもなし、さしたる問題はない。

 彼らが現在逗留(とうりゅう)するのは、領主館が建つ小高い丘のふもとに広がる、高級住宅街の中にある屋敷の一つだ。どういう手管か知らないが、クリフの“上司”とやらが手を回し、彼らのためにその屋敷を確保してくれたのだという。確かに、領主館に程近いそこは、襲撃に備えて領主館に張り付かなければならない彼らの定宿じょうやどとして都合が良かった。何しろ、寝ていても有事の際には駆け付けなければならないのだ。幸いなことに、その機会はまだ巡って来ていなかったが。

 普段はクリフが虫の魔物を使って館を警護・監視し、もし襲撃があれば迎撃する。相手が虫魔物でも仕留めきれない腕利きの場合は、魔物が時間を稼いでいる間、必要に応じてフィランが現場に駆け付ける――そういう役割分担だが、今のところ二人が出会った時を除けば、フィランが出張ることはそうなかった。ただ、領主館への行き帰りついでに街中をぶらついている際、怪しげな気配を感じさせる者を何人か見つけて、引っ張って来たことはある。取り調べたところ、見事に刺客だけをピンポイントで引っ張って来ており、クリフを唖然とさせた。

 しかしそれらの刺客も、やはり重要な情報は持っておらず、二人は引き続き秘密裏に領主館の警護に当たっている。

「……けどさあ、相手方も何考えてんだかって話だよな。大して腕もないような刺客、だらだら送り込んで来てさあ」

 身体がなまらないようにほぐしながら、フィランがそうぼやくと、クリフは水筒に詰めて来た紅茶でティータイムと洒落込みつつしたり顔で、

「向こうも時間が経つほど、立場が弱くなってくし資金も減るからね。腕の良い奴を雇いたくても、なかなか無理なんでしょ」

「大体、何であの姫様狙うんだって話だよ。新しくできた貴族議会ってのにも入ってないんだろ?」

「ここのご領主様は、貴族議会にはわざと加わらなかったんだよ。元々王族だし、臣下にくだっても貴族議会に入っちゃったら、影響力が強くなり過ぎるからってさ。けどそもそも元の立場が悪過ぎたからね。今ぐらいでやっと、本来の身分に相応の権力持てたってところなんじゃない? ま、僕の“上司”の受け売りだけどさ、これ」

「ふーん……」

 一通り身体を解し終え、庭で素振りでもするかと思いながら、フィランは大して気のない声で、


「そういやひょっとしてさ、あんたらの“上司”って、クィンラムとかいう公爵様じゃない?」


 ぶほっ。

 クリフが飲みかけていた紅茶を噴いた。


「うわ、こっちに噴くなよ!?」

「げほっ、ちょ、何で!」

 紅茶の直撃を喰らいかけて慌てて飛び退いたフィランに、げほげほと咳込みながらクリフが詰め寄った。彼にしてみれば、努めて上司の名を出さないようにしていたのにこの不意討ちである。もっとも、その態度こそがフィランの問いに正解と答えているようなものだが。

 何とか紅茶の被害をまぬがれたフィランは、やれやれと肩を竦めた。

「やっぱりか。――まあ、俺もあんたらと組むちょっと前まで、あの姫様んとこで護衛やってて、色々聞いてたからな。ってか、俺があの姫様の護衛に引き込まれたのって、一回襲撃掛けられたの助けたからだし。ひょっとして、あん時の残党がまだ、あの姫様狙ってんの?」

「ええー……マジなのそれ?」

 羽織ったマントの惨状と、今しがた聞いた衝撃の事実に肩を落としながら、クリフはげんなりとぼやいた。

「そうならそうと言ってよー……せっかく隠そうとしてたのに、相手がもうその裏事情知ってるとか、僕がすっごい間抜けじゃん……」

「だって深く訊かれなかったし。それに考えてみりゃ、他にあの姫様に護衛なんか付けそうな相手、いないんじゃないかと思ってさ。貴族議会を立ち上げるために、姫様と組んでたんだろ?」

「えええ、そこまで知ってんの……」

 もはや諦めの境地で、クリフは惨状の後始末をしながらため息をついた。

「……そこまで知られてちゃもう誤魔化す意味もないか。はあ、良かったのか悪かったのか……」

「で、何でまだあの姫様狙われてんの? 王家ってもうお飾りになっちゃったし、対立してた派閥の連中もほとんど落ちぶれちゃったんだろ? 俺もあんま詳しくないけど」

 身も蓋もない言い様だが、まあ事実だ。そこまで知っている相手に隠し立てしても仕方ないと、クリフは頷く。

「そうだよ。けど、人間って一回絶好調の時代を経験しちゃうと、落ちぶれても諦めきれないんだよねえ」

「あー……何となく分かるような」

 フィランも頷いた。

「親父や祖父じいさんもぼやいてたもんなあ。最近は若い頃みたいに身体が動かないとか何とか」

「いや、そういうのとはまた話が違うというか……まあいいや」

 クリフは諦めてため息をついた。どこまでも恬淡てんたんとしたこの青年には、人間の権力欲などというものは理解できないのだろう。俗世の人間というより、どこか野生の獣にも似た空気を、クリフは時々彼から感じることがある。

「まあとにかくそういう感じで、貴族議会を引っ繰り返したい連中がまだいるってわけ。それには、貴族議会にお金とか物資とかの援助をしてる、ここのご領主様が邪魔なんだよ」

「ふぅん……なるほどな」

 フィランは目をすがめた。

「……とりあえず、そっちの事情は報告させて貰うからね。ウチの陣営、情報管理には厳しいからさ。新しいことが分かったら、すぐに報告しろって言われてるし」

「それは、俺の素性もってことか?」

「そうだよ。ついでに言っちゃえば、今も調べてるからね?」

「あー……じゃあ、後々面倒になる前に言っとくかあ」

 フィランは頭を掻くと、あっさりと爆弾を落とすことにした。


「俺の本名はフィラン・サイフォス。一応今代の《剣聖》だけど、継いだの最近だし、いちいち《剣聖》呼びされるのもこっ恥ずかしいから、これまで通り名前呼びでよろしく」


 一瞬の後。

「……えええええええ!?」

 クリフは、驚愕に満ちた小声の絶叫をあげたのだった。



 ◇◇◇◇◇



 その船はソルナート王国産の交易品を積み、ファルレアン王国への帰路の途中だった。

「もうすぐ“霧の海域”の近くだ、気を抜くなよ! うっかり潮の流れにでも捕まったら、終わりだぞ!」

「分かってまさぁ、あんな船の墓場、頼まれたって近付きゃしませんぜ!」

 荒くれ者揃いの海の男たちは、船長の指示に濁声だみごえで返すと、慎重に舵を操る。ファルレアン王国で悪名高い“霧の海域”は、彼らにとってすら恐怖の的だった。だが彼らが向かう港町・ミトレアに到着するためには、どうしてもその近海を通り抜けなければならない。もちろんたっぷり二十ケイル以上の距離を置くのだが、それでも良い気持ちがしないのは事実だ。

 ファルレアン王国南部、とりわけソルナート王国に近い東側には、ミトレアを擁するランドグレン伯爵領の他にも、伯爵領と侯爵領が位置する。むしろ、その二つの領地はソルナート王国領とランドグレン伯爵領に挟まれる形で存在するため、本来ならそちらの方に港町が栄えていてもおかしくはなかった。だがその二つの領地の沿岸部はいずれも遠浅で、貨物船のような大型船が入港できる港を造るには、膨大な投資と労力が必要だったのだ。一方、ミトレア周辺は地形に恵まれ、深い入り江が古くから存在した。また、国を縦断する大河・ルルナ川の河口でもあるため、そこから川を遡上そじょうしての水上貿易の中継点としても有用であり、結果、大規模な港町として発展したのである。


「――船長ーっ!」


 マストの上の物見台で、望遠鏡片手に海を監視していた船員が、大声で呼ばわる。船長は頭上を振り仰いだ。

「何だ!」

「後ろの方で、妙な泡混じりの波が立ってまさぁ! ひょっとしたら、クラーケンかもしれやせんぜぇ!」

「クラーケンだとぉ!? こんな近海にか!?」

 甲板上が騒然とした。通常クラーケンは、もっと遠洋の海に多く出没するらしいといわれる。だが、餌を求めてか縄張り争いの果てか、たまに大陸近くの近海に姿を見せることもあった。成体のクラーケンは大型船ですらオモチャにしか見えない、冗談のような巨大さを誇る。騎士団が所有する、強力な魔動兵装を搭載した戦艦ならともかく、自衛程度の装備しかない通常の貨物船では、逃げの一手しかなかった。

「くそっ、帆を張れ! 船足早めろ!」

「だ、駄目でさぁ! 逆に速度あしが落ちてきてる!」

 不自然に風が弱まり、船の速度は落ち始めていた。船長はほぞを噛む。

「クソったれが……! 凪の海に泡なんざ、ますますクラーケンがぞろ出て来る前兆じゃねえか……!」

「船長、どうしやすか!?」

「……しゃあねえ、やらねえよりはマシだ! 縦帆! 舵も切って砲に弾込めろ! それと騎士団にも連絡入れとけ!」

 クラーケン以外にも、海には危険が多い。代表的なものが海賊だ。さほど数は多くないが、厄介者であるには違いない彼らへの対抗策として、貨物船であるこの船にも、両舷にそれぞれ三門、計六門の大砲が備え付けられている。そして、各国の港に駐留する騎士団や軍への連絡手段として鱗皮鳥リドラバードを飼うのも、長距離を航行する船の常識だった。ファルレアンの騎士団でもよく使われているこの鳥型の魔物は、海辺に生息する猛禽類にも負けない気の強さと、長距離を難なく飛べる強靭きょうじんな翼を持っている。手に入れるには少々値は張るが、長距離の連絡用としてはうってつけだ。

 船員の一人が鱗皮鳥リドラバードを籠から出し、急いで書いた連絡文を持たせている間、船長は他の乗組員クルーたちと共に大砲の弾の入った箱を運んで来る。湿気を防ぐために厳重に密封したそれを開けていると、鱗皮鳥リドラバードを腕に止まらせた船員が、船縁ふなべりへと駆け寄った。

「――よし、行け! 頼んだぞ!」

 船員の懇願にも似た声に応えるように、鱗皮鳥リドラバードは一声鳴くと、一直線に空を翔け始める。その姿はみるみる小さくなり、やがて空の彼方に消えていった。その向こうには、ごくかすかではあるが陸地の影が見える。あの分なら程なく、鱗皮鳥リドラバードは仕事を果たしてくれるだろう。

 だが――事態はそれを待たずして、さらに悪い方向に進み始めた。


「――出たぞーっ!!」


 物見台の船員が、もはや絶叫に近い声をあげる。甲板にいた者たちが一斉に船尾の方を振り向くと、波間にうごめく何本もの触腕しょくわんが、彼らの目にも見えた。

「くそっ、もう出て来やがった……!」

 ここまで来れば、もう間違いなかった。クラーケンだ。

 船はほとんど動けなかったが、わずかな風を使って舵と縦帆で何とか旋回し、左舷の砲門をクラーケンの方へと向けることに成功した。クラーケンも船を獲物と定めたのだろう、こちらへと向かって来る。

「――撃てぇ!!」

 船長の号令一下、クラーケンに向けた三門の大砲が火を噴く。だが水面下に没したクラーケンには当たらず、空しく水柱を立てるだけに終わった。

「クソがっ、やっぱりあっちの方が速度あしが速ぇ!」

 そして次にクラーケンが水面から顔を出したのは、もう船から目と鼻の先の場所である。細長く丸い頭部と蠢く触腕がぬめぬめと気味悪く光り、大きな眼がぎょろりと乗組員クルーたちを睥睨へいげいした気がした。

「うわあああっ、もう駄目だぁっ!」

「……クソったれがぁ、今日はとんだ厄日だぜ!」

 船員たちが悲鳴をあげ、船長がせめてもと悪態を吐く中、クラーケンは船を絡め取るべく触腕を伸ばし――。


 そして、止まった。


「――――!?」

 同時に、船員たちもぴたりを悲鳴を止める。否、喉が動かなくなり、声そのものが出せなくなってしまったのだ。

 上空から突如襲い掛かった、強大な威圧感プレッシャー。もはや物理的な重さすら感じさせるほどのそれに、人間もクラーケンも関係なく圧倒され、指の先、触腕の一本も動かせなくなってしまった。

 ――何だこれは!

 船長が胸中だけで叫んだ、その時。


「……よっ、と」


 一人の少年が、空から降ってきた。


「あれがクラーケンか、初めて見た」

 船員たちからは、船縁に器用に下り立った少年の後ろ姿しか見えない。だが、それがまだ年若い少年であることは、声で分かる。張りのある黒髪、人とは思えない肌の色をした右腕が、彼らの目に焼き付いた。

 ……そして次の瞬間、彼らは見た。


 見る間に異形のものに変わっていく少年の右腕と、その右肩に美しく広がった、朱金の光をうちに抱く深紅の翼を――。


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