第67話 月光と閃火
振り抜いた《竜爪》が迫る爪を弾き、うねる炎が鋼の毛並みを焼く。だが鋼色の獅子はそれらをものともせず、ただ愚直にアルヴィーを狙っていた。
「ちっ……キリねーぞ、これ」
舌打ちし、アルヴィーは翼を使って大きく飛び退くと、空中に足場を作ってそこに着地した。何しろ相手は地の精霊だ。狂ってはいても大地を自在に操る力は健在。そんな存在を相手に地上戦など自殺行為でしかないので、翼と足場を駆使しての空中戦に持ち込んだのである。
しかしさすが精霊、あんな図体になっても空を飛ぶ程度は軽いものらしい。
「……あんな金属の塊みたいなのが普通に空飛ぶとか、理不尽だよな」
アルヴィーはそうぼやいたが、自分もたいがい理不尽な存在であることは遠くの棚に放り上げてのこの台詞である。騎士団の面々がこの場にいれば、嵐のようなツッコミが殺到したことだろう。
だがひとまず今は、この場に響くのは仲間たちのツッコミではなく、狂った精霊の咆哮だった。
さてどうするかと、アルヴィーは鋼色の獅子を見やる。
「……なあ、あれどうやったら攻撃通ると思う?」
『あの魔動巨人の時のように、攻撃を叩き込み続けて身体ごと壊してしまえば良いのではないか?』
「うーん、それだとなあ……精霊本体がどうなるか分かんねーし」
『そもそも、狂った精霊をどうにかしようというのが無謀なのだ』
「そ、そうかもだけど!」
もっともなツッコミに怯むが、それでも今さら考えを翻す気はなかった。
「……あ」
距離を取ったアルヴィーに業を煮やしたのか、鋼色の獅子は地上に向かって空を駆け下り、地響きのような足音を立てながら地上を爆走した。太い爪が地面に食い込み、大地の欠片を巻き上げる――それは地面に戻らず、獅子の周囲に付き従うがごとく滞空し始めた。それらを纏い、獅子は再び宙に駆け上がる。
そして次の瞬間、纏ったそれらは数多の鋭く尖った飛礫となって、アルヴィーに襲い掛かった。
とっさに《竜の障壁》で弾き飛ばすが、それを目晦ましに、獅子はアルヴィーに肉薄、その勢いのまま体当たりをかます。アルヴィーは《竜爪》を盾にそれを受けた。
「ぐっ――!」
勢いと質量に負け、そのまま弾き飛ばされる。そこへ駄目押しとでもいうように、獅子は上空からアルヴィー目掛けて飛び掛かった。そのまま踏み潰すか、あるいは地上に叩き落としてやろうとでもいうのか。
「食らうか――よっ!!」
もちろん素直に食らう義理はない。アルヴィーの翼が輝き、弾き飛ばされての滞空がそのまま飛行に転じる。それを追って、獅子も空を蹴った。
と、獅子が咆哮。一瞬の後、地表が爆ぜた。硬く尖った土の槍がアルヴィーを追うように次々と生まれ、空へと撃ち放たれる。それを迎え撃つアルヴィーは右手を打ち振り、《竜の咆哮》で早々に消し飛ばした。
「……やっぱ、本体攻撃しないと埒が明かねーか!」
『いっそのこと脚の四、五本も吹き飛ばしてしまうが良い。身体を削れば、それだけ奴の力も削れる。それに脚ならば、誤って奴の本体を消し飛ばしてしまう恐れもあるまい』
「やっぱそうなるか……けど脚は五本ねーからな? あいつ」
些細なことだが一応突っ込んでおいて、アルヴィーは右腕を伸ばした。
「――《竜の咆哮》!!」
撃ち放たれた光芒が空を薙ぎ、回避しようと飛び退いた獅子の左側の脚を二本とも焼き斬る。斬り落とされた脚は地面に激突して砕けた。
「あれ。見た目金属っぽいのに、強度はそれほどでもないのか」
『あの精霊の力で、一時的に組成が変わっていたのやもしれんな』
「ふーん……難しい話は良く分かんねーけど、つまり地道に手足削ってけばいいってことか?」
『そうなるな。ともあれ、まずは力を削って捻じ伏せねば始まらん』
「……力技だなー」
『まずは力を示さねば、対話などできん。大抵の種族はそんなものだ』
「…………」
人外種族の徹底した実力主義に慄きながらも、アルヴィーは再び《竜の咆哮》を撃ち放つ。だが今度は、獅子の方も即座に飛び離れて躱した。脚を二本落とされて、その威力を学んだのだろう。
ならばとアルヴィーは、《竜爪》に炎を纏わせる。朱金に輝く剣を携え、獅子に向かって突き進んだ。
待ち受ける獅子が吼え、こちらも右脚だけで空を蹴って飛び出す。飛び掛かって来る獅子の右前脚の一撃を、アルヴィーは辛くも躱した。そして躱しざま、振るった《竜爪》をその脚に叩き込む!
「こっ……のぉっ!」
剣を振り切ると、思ったより軽い手応えと共に右前脚が落ちた。獅子が苦しげに唸り、そのまま地上へと墜ちていく。
「――やったか!?」
『いや……』
アルヴィーが思わず声を弾ませたが、アルマヴルカンは慎重にそれを諌める。轟音を伴い地上に墜落した獅子の周囲の地面が、激しく波打って蠢き始めた。その中に身を沈めていた獅子は、ややあって立ち上がる。
“四本”の脚で。
「……あれ? 俺今さっき脚落としたよな?」
『ふむ、さすがに地精というところか。地上で“材料”を補充すれば、いくらでも身体を直せるのだな』
「げ、何だそれ!」
理不尽! と慨嘆するアルヴィーだが、自分も似たようなことができる事実はまたしても棚上げである。
ともかく、地上で欠損部分を補充して回復を果たした獅子は、一声咆哮すると再度空に駆け上がり始めた。
「……マジでキリがねーな! 地面ある限りダメなやつじゃん、これ!」
アルヴィーが吠えながら、《竜の咆哮》を連射して獅子を牽制する。その時、“それ”は聞こえた。
『――ふふふ、ならば妾も少しばかり、手を貸してやろうぞ』
耳に響いた、アルマヴルカンのそれではない柔らかな声に、思わず目を瞬く。
「あれ? さっきの水竜の? 何で?」
『ここの周りは海であろ。肉体は滅ぼうとも《竜玉》に魂がある限り、妾の力はまだ及ぶ。――その精霊には妾も少々、思うところがあるゆえの』
そういえばあの水竜はこの精霊との戦いで命を落としたのだと、アルヴィーは思い出した。
「……復讐……なのか?」
そう尋ねれば、ころころと軽い笑い声が返ってきた。
『ふふ、そうではない。言うなれば戯れじゃ』
「……戯れ?」
『妾のように長く生き過ぎれば、自らの命になどそう執着もなくなってくる。精霊を恨んでなどおらぬよ。――ただ、狂った精霊を正気に戻そうなどという、そなたの無謀さが面白うての。一つ乗ってやろうと思うたまでじゃ。このような機は、おそらく二度とないゆえな』
水竜の声に、偽りの響きはなかった。
(……この竜も、そうなのか)
自らの命の有無さえ些細なことだと言いたげな、その言葉。人のように言葉を偽る必要など感じない彼らの言は、すべて彼らにとっての真実なのだろう。彼らが生きた永い時は、逆に彼らにとっての命の価値をすり減らしてしまったのかもしれない。
人間であるアルヴィーには決して分からない、その思い。それが、彼には哀しい。
しかしそれが彼らの在り方だというのなら、アルヴィーが何かを言えるものでもなかった。
「――どうすればいい?」
尋ねると、すぐに答えが返る。
『あれを海に叩き込め。さすれば、妾が動きを止めてやろう。ただ、ある程度深さがなければ、海底の地面に届いてしまうゆえな。完全に地面と切り離せる程度に深い場所を見極めねばならぬが』
「分かった」
確かに、あの精霊は地面に触れさえすれば、いくらでも復活できる。アルヴィーは頷いて、右肩の翼を輝かせた。
足場を構築し、それを蹴って獅子へと突撃する。獅子も咆哮一つ、それを迎え撃った。炎を纏わせた《竜爪》と獅子の左前脚が交錯し、前脚を深々と斬り裂く。だがアルヴィーは追撃せず、剣を引いて海の方へと逃れた。手傷を負わされた獅子も、それに釣られたように追いかける。
アルヴィーは時折《竜の咆哮》で牽制、獅子を引き付けながら、砂浜を抜けて海上へ。眼下の海は月明かりを反射してきらきらときらめき、その暗さを覆い隠しているが、やがてそれも霧によりぼやけ始めた。
「……この霧、何なんだろうな」
『これもあの水竜の仕業だな。同じ力を感じる……どういうつもりかは知らんが』
『なに、静かに休みたかったゆえ、この島に無遠慮に踏み入られぬように、霧で覆い隠したまでのこと。――そこまで行けば、そこそこの水深はあろう。その辺りで仕掛けるが良い』
「ああ」
アルヴィーは後方を見やる。獅子は彼を追うことしか頭にないのか、躊躇なく海上の空に踏み入った。それを待ち受けるため、アルヴィーは構築した足場に下り立つ。
動きを止めた彼に、獅子が唸りながら躍り掛かる――!
まさにその時。
アルヴィーが構えた《竜爪》から炎が噴き出し、それは見る間に身の丈を大きく超える朱金の光の刃となった。
「――食らえこのぉぉぉっ!!」
全力の一振り。
獅子の突進を躱しながら振り抜いた朱金の長大な刃は、まるで粘土でも斬り裂くように易々と、獅子の脚を四本すべて斬り落とした。
そして――仕上げの一撃。
「落ちやがれぇぇっ!!」
すぐに上空に舞い上がってからの、久々の直滑降。
砲弾と化したアルヴィーの足からの体当たりが、獅子の背中を直撃した。
「……痛ってぇぇぇっ!!」
全身金属の塊のような相手に加速付きでぶつかったのだから、足からといえどその衝撃はなかなかにきつい。だがその甲斐はあって、脚を失った獅子の体躯は宙を踏むことが叶わず、海面へと落ちていく。
そして獅子が海面を突き破った瞬間――海が激しく渦巻いた。
「うわ……」
アルヴィーが見守る中、渦は竜巻となり、獅子の巨体を巻き込んで伸び上がる。獅子は何とかもがいて脱出しようとするが、それも許さぬとばかりに、竜巻が突如凍り付き始めた。白く凍り付いた部分は見る間にその面積を増し、竜巻部分をすべて氷と化したばかりか、果ては海面にまでその猛威を振るう。
あっという間に出来上がった巨大な氷の柱を、アルヴィーは唖然として眺めた。
「……すげー……」
『あの水竜は力ある《上位竜》だからな。魂のみとなっても、この程度の芸当はできるのだろう』
氷の中に閉じ込められた獅子は、さすがにこの状態では身動きが取れないようだ。さてどうしたものかと考えていると――。
「……あ!」
氷漬けの鋼の獅子から、くすんだ黄白色の光が飛び出したのを、アルヴィーは見つけた。それはどうやら、動けなくなった獅子の身に見切りを付けたらしく、アルヴィーの脇をすり抜けるように島を目掛けて飛んで行く。
「待てこらっ……!」
アルヴィーはとっさに右手を伸ばし、その光を掴んだ。
――瞬間。
そこから朱金の炎が噴き上がり、渦を巻いて彼を包み込んだ。
◇◇◇◇◇
――出会った頃の彼は、ただの気の良い青年だった。
『……何、してるんだい?』
『これかい? 畑を耕しているのさ。この土地は痩せているからね。領主の子とはいえ、こうして畑仕事に精を出さないと、家の者の口を賄うだけの作物が実らないのさ。――それはそうと、君はどこの子だい? 見慣れない顔だけど』
懸命に畑を耕し、実りを得ようとしているその姿になぜか惹かれ、時折彼の顔を見に訪れるようになった。彼はいつも暖かく迎え、土地の地質やそこに根付く作物について教えてくれた。
『ここは土の色が黒っぽいだろう? いい土なんだ。作物が良く育つ。これはポルジャといって、この辺りでは良く食べられる芋でね』
『……この辺りはもっと、痩せた土だったと思ったけど』
『ああ、余所から土を持って来たり、草や動物の糞なんかを鋤き込んだりしてね。土を少しずつ変えたんだ』
『へえ……人間って、そういうこともできるんだね』
自分では思いもよらなかったことを考え付き、それを実行する人間という生き物に、次第に肩入れする自分に戸惑いながらも、彼に会いに行くことは止めなかった。彼の生活を豊かにするために、土を少しずつ肥沃にしてやったり、土地に鉱脈を作ってやったり。それを見つけて喜ぶ彼の姿に、その時は確かに満足を覚えていたのだ。
そして。
『――君に、加護をあげるよ』
土地だけでなく彼自身にも何かを与えてやりたいと、自身の加護を彼に授けた。地の高位精霊の加護ならば、きっと喜ぶに違いないと。
果たして、彼は非常に喜んだ。
――だがその時から、彼は歪み始めてしまったのだ。
『もっと、もっとだ。この土地はもっと豊かになれる。精霊の加護を受けたわたしの領地なんだ、この程度で終わるはずがない!』
『でも……』
『そうだ、この豊かな土地と富があれば、いずれは皇帝だって超えられる。いや、精霊の加護を受けて国土を豊かにできるわたしこそが、この国を統治して然るべきだろう!』
『……そんなことのために、君に加護を与えたわけじゃないのに』
『何を言っているんだ! おまえはわたしにもっと力を与えれば良いんだ! そうすれば国の民だっておまえを崇める!』
『そんなもの要らないよ!』
肥大する欲望に絡め取られ、人が変わってしまった彼。出会った頃の一生懸命な青年は、もうどこにもいない。そこにいたのは、際限なく力と富を求める強欲な男に過ぎなかった。
そのことに失望し、自身が腰を据える山に閉じ篭もった。別人のように成り果ててしまった、その姿を見るに堪えず。
しかし人間の欲望の強さは、自分の想像を遥かに超えていたのだ。
――男は領民を動員し、領地内の鉱山から出た鉱毒を集めさせると、それを精霊の宿る山に捨てさせた。
皮肉にもそれは、精霊が男のために作り出してやった鉱山から出たものだった。
『……やめて、やめてよ! 土が汚れてしまう、何十年も何百年も汚れたままになってしまうんだよ! 生き物だって住めなくなる!』
『ならばもっと力を寄越せ! この国の皇帝に成り代われる力を!』
『そんな……』
失望は、絶望に変わった。
“加護など与えなければ”――そんな思いが膨れ上がり、あの気の良い青年だった頃の“彼”の思い出を消していく。
畑を前に語り合ったあたたかな記憶も、やがて砕け散り。
――裏返った加護は、解く術のない呪詛となる。
『――おまえを呪ってやる。この土地ごとすべて!!』
高位精霊の呪いは、かつて慈しんだ男を即座に死に至らしめ、彼のために豊かにした土地を荒れ果てた不毛の地と変えた。
だがその代償とでもいうように、荒れ狂った呪いは精霊自身をも蝕み、その正気を食い潰していく。
……そして何もかもを失くした精霊は、確かに愛していたはずの土地を捨て、流れ流れてある孤島に辿り着いた。
もはや、命あるものすべてが厭わしく、何もかもを壊してしまいたかった。その心に従い、島を訪れた水の《上位竜》にも襲い掛かった。自身の存在そのものが揺らごうと、ただその命を断ち切ってしまいたかったのだ。
そしてすべてが終わった後、精霊は小山に姿を変えた。大地そのものとなってしまえば、もう何を見聞きすることも、感じることもない。人の気配など欠片もないこの孤島で、ずっと眠っていたかった。
……それがずっと続くはずだったのに。
◇◇◇◇◇
噴き上がり渦巻いた炎に、一瞬目を細めたアルヴィーは、いつしか自分が誰かの手を握っていることに気付いた。
それは、十をいくつか過ぎたばかりに見える、一人の少年だった。
柔らかな黄白色の光を帯びたその少年は、だが黒々とした靄のようなものにその身を締め上げられている。それはゆらりと揺らぎ、アルヴィーへも伸びてきた。
しかしアルヴィーの右手に触れた瞬間、それは朱金のきらめきを残して燃え尽きる。
『……なるほど。呪詛のようなものか』
アルマヴルカンの言葉に、アルヴィーが思い出したのはやるせない記憶。復讐に生きた末にその命を散らした、アルヴィーがその炎で弔うことしかできなかった女性だった。
「呪詛なら……この火で燃やせるかな」
『人の操る呪詛とは比べ物にならぬほど強いが……今の主殿が使える炎は、あの時よりも強い』
「ああ」
アルヴィーは少年の手を左手で掴み変えると、その手を離さないように、強く握り締める。そして、《竜爪》を戻した右手で、黒い靄に触れた。
ざわり、と不吉にざわめき、アルヴィーをも喰らおうと押し寄せる靄――それを斬り裂かんばかりに、睨み据える。
「――うるせえ! カビてそうな大昔の呪いなんぞ、いっそさっぱり燃えちまえ!!」
咆哮。
その瞬間、黒い靄を喰い返す勢いで、炎が噴き上がった。
「ぐ……っ」
朱金の炎と、どす黒い靄がせめぎ合う。ぞわぞわと右腕を這い上ってくる靄に、何ともいえない気持ち悪さを感じ、アルヴィーは舌打ちした。
「気色悪ィ……!」
吐き捨てると、炎が強まって靄を焼き尽くす。それでも靄は尽きることなく、少年の裡から生み出されるのだ。
『――あ』
と、少年の口からか細い声が漏れる。
金を帯びた、透き通った茶色の瞳がアルヴィーを射た。その瞳が泣きそうに歪み、黒い靄が勢いを増す。
『あ、あ゛ぁあ゛ああぁぁぁ!!』
慟哭にも聞こえる絶叫。迸った靄は、アルヴィーをも呑み込まんばかりに膨れ上がった。
――それを斬り裂きなお燃え盛る、朱金の炎。
「……いい加減……っ、消し飛びやがれぇぇぇっ!!」
少年の絶叫を掻き消すほどの、一喝。
それが形を成すように、炎が渦巻き膨れ上がると、天地を貫くような火柱が生まれ――そして、どこかに吸い込まれるように消えた。
……ざざん、と。
一際大きな波が、砂浜に打ち寄せる。
それが引いた後には、二人の少年が浜に打ち上げられていた。
異形の右腕を持つ少年と、ほろほろと黄白色の輝きを零す少年。
『……ばかじゃないの』
「おー。馬鹿で結構」
『精霊の呪いを焼き消すなんて、力技にも程があるよ』
「これが初めてじゃねーからな」
『……そればっかりに力使い過ぎて、諸共に海に落ちるとか、ほんとに馬鹿じゃないの』
「う゛っ」
『…………人間なんて』
「ん?」
『人間なんて、欲張りで歪みやすくて、我侭で、世界を汚しても平気な顔して』
「……まあ、いるよな、そんな奴も」
『だから、っ……だいっきらい、で……!』
「うん。――それはまあ、どう思おうとそっちの勝手だしな」
『……ほんとにっ、ばかじゃないの……!』
先ほどまでの戦いが嘘のように、白い月明かりに照らされた静かな砂浜で。
少年たちはただ、波の音を聞いていた。
◇◇◇◇◇
ヴィペルラート帝国北西部に位置する、エンダーバレン砂漠。
一面砂礫に覆われたこの荒涼とした大地は、雑草の一本すら生えることを許されない、まさに不毛の地だった。ただ、周辺部にはその禍々しい気配に惹かれてか、そこそこ強い魔物たちがうろつくため、時折討伐隊が派遣されている。
このため平時から、エンダーバレン砂漠周辺の数ヶ所には監視所が設けられ、兵士たちが交代で監視に当たっていた。
「……うん?」
皓々たる月明かりの下、変わり映えのしない光景を眺めていた兵士の一人が、ふと目をすがめて声を漏らした。
「どうした?」
聞きとがめたもう一人の兵士に、彼は振り返って砂漠の方を指差した。
「いや、気のせいかもしれないんだが、今向こうで何か光ったような――」
瞬間。
地平線の果てから立ち昇った朱金の炎が、一瞬にして砂漠を覆い尽くすと激しく燃え上がった。
「な、何だあれは……!」
「炎……か……?」
兵士たちは呆然とその光景を見つめる。通常の炎とはどこか違う、黄金を帯びたその輝きは、天空の月明かりをも掻き消しそうな明るさで、周辺を昼間のように照らし出した。不思議なことに、火勢はすぐ傍まで迫っているというのに、兵士たちは少しも熱さを感じない。
月下の炎の海は、しばしその神秘的ですらある光景を兵士たちに見せ付け、唐突に掻き消えた。
「……は、そ、そうだ。帝都に連絡を……!」
炎が消え去っても、魅入られたようにその場に立ち尽くしていた兵士たちだったが、はっと我に返って建物の中に駆け込む。彼らが慌てて帝都に飛ばした連絡は、程なく《夜光宮》にも届けられた。
「――エンダーバレン砂漠で異変、だと?」
「は、複数の監視所から同様の報告が寄せられております。どれも同様で、砂漠の中から炎が巻き起こってしばらく燃え続けた、と」
「ふむ……」
軍務を預かる将軍は、その報告に小さく唸ったが、少々どころではない異変だ。放っておくわけにもいかない。
「……よし、すぐに調査のための人員を向かわせよ。砂漠について研究している魔法士や学者もだ。――これまでにない現象だ、慎重に調査を進めよと伝えよ」
「はっ」
「儂は陛下にご報告に上がる」
部下を返すと、将軍は皇帝ロドルフのもとに向かった。
――その日の執務を終え、居住部である奥の宮で寛いでいたロドルフだったが、その一報を聞いてすぐさま身支度を整えた。将軍を待たせている謁見の間へと向かう。
姿を見せたロドルフに、将軍は礼をもって迎えた。
「陛下、夜分お寛ぎのところをまことに申し訳ございません」
「構わん。――エンダーバレン砂漠で、何か異変があったそうだな?」
「は……砂漠周辺の複数の監視所より、同様の連絡が参りました。砂漠から炎が巻き起こり、しばらくの間燃え続けたとのことでございます」
「炎? 枯草はおろか、新芽すら生えんあの砂漠でか?」
「左様にございます。おそらく、通常の炎ではございますまい」
「だろうな……だが、炎か。あそこを呪っていたのは、地の精霊だろう?」
首を捻るロドルフだったが、ここで考えていても仕方がない。
「……ともかく、調べてみないことには何とも言えんな。調査のための人員は?」
「すでに派遣を申し渡してございます。数日中には現地に到着致しますかと」
「飛竜を使って構わん、急がせろ。――ユーリにも、飛んで貰わねばならんかな」
「よろしいのですか」
「無論、安全は確保させるさ。だが精霊絡みなら、あれに見せるのが一番確実だ」
ユーリは以前にも、エンダーバレン砂漠を視察している。何か変化があれば、誰よりも敏感にそれを感じ取れるはずだった。
将軍が退出すると、ロドルフは息をついて天を仰いだ。
(……あの一帯が呪われて三百年。俺の代でも、変化などあるまいと思っていたが……)
三百年の間、何の進展もなかった砂漠についての問題。まさかそれが、自分の代で動きを見せようとは思わなかった。
だが――どんな形にせよ、あの呪われた地が何らかの変化を見せるというのなら。
(それは、この国にも無関係では済まん)
現在のヴィペルラート帝国の姿勢には、かの砂漠が大きく関係しているのだ。それが揺らぐとなれば、場合によっては国そのものの在り方が変わることにもなりかねない。
ロドルフ、そしてもしかしたらユーリも、その中心に立たねばならないのかもしれなかった。
「……俺はともかく、あいつはな……」
彼はふと視線を巡らせる。そちらには、ユーリに与えた居室があるはずだった。もう夜といって差し支えない時間帯なので、とうに寝床に潜り込んで夢の国に赴いていることだろうが。
ロドルフはもう一つだけ息をつくと、奥に戻るため従者たちを呼び集める鈴を鳴らした。
◇◇◇◇◇
遠く西で異変が起こった、その翌日。
《雪華城》内の一角に位置する王立魔法技術研究所――その中でもさらに隔離された薬学部に、その日、ジェラルドはセリオを伴い足を運んでいた。
「――師匠、どうです? ポーションの解析の方は」
「ああ、そこそこ進んだがね。やっぱりファルレアンで入手できる材料だと、サングリアム産より効果は大分落ちるねえ」
手持ちの資料を纏めながら、薬学部主任にしてセリオの養い親でもあるスーザン・キルドナは、器用に肩を竦めてみせた。
「元々、クレメンタイン帝国がサングリアムにポーション製造拠点を造ったのは、材料の生産地に近かったからだからね」
「その材料ってのは?」
ジェラルドが興味深げに室内を見回しながら尋ねた。大体薬学部に用事がある時はセリオを寄越すので、ジェラルド自身がこの場に足を運ぶことはあまりない。そのため見慣れないものが多く物珍しいのだろう。
そんな姿に微笑ましいものを感じつつ、スーザンは纏めていた資料の中から二枚の紙を抜き出す。
「詳しいレシピや製法は、サングリアムががっちり抱え込んで公開してないもんで、推測にはなりますがね。効能を見れば見当が付くものも少なくはないんですよ。これは身体修復のポーションの解析結果になりますがね、こっちはまず間違いないと見たものです。もう片方は、確実ではないけれど可能性のあるもの」
二枚の紙にはそれぞれ、薬草やその他もろもろの名前が並んでいた。効能はもちろん、物によっては主な生産地まで記載された、なかなか詳細なものだ。その生産地欄に頻出する名前に、ジェラルドは目をすがめる。
「《神樹の森》か……」
「あそこは薬草や稀少植物の宝庫ですからねえ。あの森でしか採れないものも多いですし、そこからの材料の輸送が楽だってんで、サングリアムにポーション製造拠点が置かれたようなもんなんですよ」
「なるほどな。百年前まではあの森も、クレメンタイン帝国の領土内だったから、ポーション製造の面でも帝国の一人勝ちだったわけか」
「ええ。ただ、百年前の大戦で帝国が無くなっちまったもんですから、《神樹の森》の領有権もあやふやになって、一時期各国が競って森に分け入ろうとしたそうですがね。どうも森自体に何か仕掛けでもしてあったのか、それとも最初からそういうものなのか、元から材料採取のために森に入ってたサングリアムの人間以外は、遭難したりして散々だったそうですよ。そんなこともあって、何となくサングリアムがポーション製造と流通を引き継いだ感じになったってわけです」
「……でも師匠、いやにそこんとこ詳しいですよね」
セリオが口を挟むと、スーザンはふんと鼻を鳴らす。
「あたしは調査や研究のために、何度も北に行ってるからね。旧帝国領は魔物がうろつく無法地帯だけど、《神樹の森》は端も端にあるから、ファルレアン側から入ればそう苦労もしなくて済む。この研究所でも、あたしほどあの森に行ってる人間はいないよ。――もっともさすがに深部までは入れなくて、外周や浅いところを回って調査する程度しかできなかったがね」
「……いや、各国の調査団がことごとく遭難したって悪名高い森に何度も行って、あまつさえ浅いとはいえ中に入るとか、命が惜しくないんですか……」
セリオが何ともいえない表情で突っ込んだ。だがスーザンは涼しい顔で、
「行きゃあ何とかなるもんさ」
「…………」
もう何も言うまい、という顔で、セリオは黙った。この養い親に口で勝てたことなどそうそうないのだ。
「――ま、少しずつでも解析が進んでるってんならめでたい話だ。何せ、ポーションの流通がどんどん先細ってるからな」
「あたしに言わせりゃ、そんな重要物資の流通を今まで一国の手に握らせといた方がおかしいんですがね」
「違いない」
スーザンのもっともな意見に、ジェラルドも首肯した。
「そもそも、今までが異常だったんだろうがな。あれだけ高性能なポーションが、それなり程度の値段で流れてたんだ。原料生産地に近いって地の利があったとはいえ、よっぽどの技術がないとあの値段では出せねえだろ。――もっとも、それにかこつけてファルレアン含め各国が、ポーション研究を怠ってたことに変わりはないが」
「お言葉ですが、薬学部は細々とはいえ研究はしてましたよ」
「おっと、そりゃ失礼」
「……とはいっても、再現が難しいって時点で、結果を出せたとは言えませんがねえ」
スーザンは肩を竦める。
「やっぱり、効果の高いポーションを作るには、薬効の高い材料が必要ですんでね。ファルレアン国内だけで賄うのは、なかなか難しいんですよ」
「多少効果は落ちるにしても、サングリアムがあんな状態じゃ、流通の回復は当分期待できそうにないからな。何とか自国内で生産できる状態に持って行って貰いたいんだが。ポーションが心細いんじゃ、おちおち作戦行動もできん」
各種ポーションは、騎士団の活動の命綱だ。医療系魔法の使い手もいるとはいえ、彼らにばかり負担を強いるわけにもいかない。
だが、サングリアム公国の主権放棄宣言以降、ポーションの流通価格はじりじりと上がり始めていた。ファルレアンの騎士団や他国の軍、果ては民間の傭兵団なども、上がり続けるポーション価格に苦慮している。それを解決するためにも、ポーションの自国製造は必要だった。
「……おそらく、クレメンタイン側がサングリアムを押さえたのは、ポーションの収益が目当てだ。サングリアム産ポーションへの依存が長ければ長いほど、向こうに金が流れていく。つまり、向こうの軍資金が増えるわけだ。――難しい案件ではあるだろうが、できる限り早急に代替ポーションの開発を頼みたい」
「心得てますよ。実を言えば、いくつか案はあるんですがね。材料さえ何とかなれば……」
最後の方は独り言のように、スーザンはぼやいた。
彼女たち薬学部の面々に代替ポーション開発を託し、二人は研究所の方に向かう。本来はそちらの方がメインの用事だったのだが、ジェラルドがポーション解析の進捗が気になると言うので、せっかくだからと覗いてみたのである。
研究所の建物に入ると、二人はある部屋に通された。そこには様々な試料らしきものが並べられ、研究員たちが行き交っている。その中の一人が、ジェラルドたちに歩み寄って来て数枚の書面を渡した。
「――これが、この間の襲撃の際に収容された、《擬竜騎士》にそっくりだったという少年の遺体の検分調書です」
あの時、《竜の咆哮》の直撃を食らって命を落とした少年――その遺体はほぼ焼き尽くされたが、わずかに焼け残った部分が回収され、研究所で解析されていたのだ。
ジェラルドは頷いて調書を受け取ると、ぺらぺらとめくる。そして眉を寄せた。
「……“成長を促進した形跡が見受けられる”? どういうことだ、これは?」
「言葉の通りです。本来はもっと幼かったはずの人間を、何らかの方法で急激に成長させたとしか……」
「そんなことが分かるのか」
「焼け残った部分も高熱でかなりやられていましたが、それらしき痕跡が何とか判別できました。血液などもほとんど採取できませんでしたが……わずかな試料を調べたところ、以前《擬竜騎士》本人から採取したものに良く似ているという結果が出ています」
「けれど、本人じゃない……」
セリオが呟いた。その顔は明らかに嫌悪に歪められている。
「……話を聞いていると、何だか気持ち悪くなってきますね」
「まあな。なかなかエグい話だぜ」
さもありなんと嘆息し、ジェラルドはその調書を折り畳んで仕舞った。
「とにかく、早い話がこいつは、《擬竜騎士》に似て非なる奴、ってわけか」
「そうなりますね」
研究員は頷き、思案するように宙に目をさまよわせる。
「……“血液”と聞いて、ふと思い当たったことがあるにはあるんですが」
「何だ?」
「いや、でもこれはあまりにも荒唐無稽ですし……」
「安心しろ、騎士団にはそれが服を着て歩いてるような奴が在籍してる」
「隊長のことですか」
「何で俺なんだよ。アルヴィーに決まってるだろうが」
不本意そうにそう訂正したジェラルドだったが、セリオに言わせれば、不意討ちしたとはいえ《擬竜兵》を独力で仕留めた経験のある彼も、充分に荒唐無稽な存在である。
「まあそれはともかく、今となりゃ何が起こってもおかしくないだろう。何せ、滅亡したはずの国が復活宣言までしたんだからな。どんな奇抜な考えも、絶対にあり得んとは言い切れん」
ジェラルドに促され、研究員は口を開いた。
「では申し上げますが……わたしはクレメンタイン帝国時代の魔法技術にも興味があって、研究テーマとしているんですが、その中に血液を使うものがあったのを思い出しまして」
「ほう?」
ジェラルドが興味深げに眉を上げると、それに勇気づけられたように研究員の口も滑らかになる。
「これは魔法技術というか錬金術の領分になるんですが――“人造人間”というものをご存知ですか?」
ジェラルドが眉をひそめ、セリオはわずかに目を見開いた。
「……いや、知らんな。セリオ、おまえはどうだ?」
「聞いたことは――あります。ですが確か、それはフラスコに入る程度の小さいものだと……」
「ええ、ですが人造人間を“作る”際には血液を必要としますし、他の技術と組み合わせることで、人間並みの身体を得ることも不可能ではないのではと。何しろ、クレメンタイン帝国の魔法技術は群を抜いていましたし、それがすべて公表されていたわけではありませんので、表に出ていなかった最先端技術が存在していてもおかしくはないと思います」
「確かにあの国なら、そういう表に出ない技術を山ほど隠し持ってたかもしれんな」
納得の面持ちで頷き、ジェラルドは話を切り上げる。
「とにかく、その辺りは俺は門外漢だからな。専門家のおたくらに任せるさ。――セリオ、行くぞ。北に行かせる部隊の編成もしなきゃならん」
「あ、はい」
部屋を後にし、二人は執務室への道を辿る。執務室では今頃、留守居を任せたパトリシアが、小隊ごとの稼働状態を纏めてくれているはずだった。
歩きながら、ジェラルドがやれやれと嘆息する。
「まったく、今頃になって百年前の国にぞろ出て来られてもな」
「そうですね……」
答えながらも、セリオは微妙にジェラルドから視線を外している。わずかに伏せられた金の瞳が、何かを睨むようにすがめられたことに、ジェラルドは気付かなかった。




