第66話 孤島にて
日が沈み、空気がしんと冷えてくる。アルヴィーはとりあえず、先ほど自分がこしらえた大穴に、その辺の木々をぶった斬って作った薪を運び込んだ。伐採したての生木は水分を含んで瑞々しいが、何しろこちとら火竜の炎持ちである。一旦火を点ければ多少の水分などものともせず、薪は良く燃え始めた。
だがその炎を背に、アルヴィーは大穴の縁から、山中の巨大な空洞――正確にはその水底に沈む、竜の骨を見つめる。
「……何でこんなところで、竜が骨になってんだ? 《上位竜》なのか《下位竜》なのかは知らねーけどさ」
『さてな。どこを死に場所に選ぶかなど、個体それぞれで違う。我ら火竜は気性の荒い者が少なくないゆえ、死に場所を戦場にすることも多いが、水竜や地竜はどちらかといえば穏やかな気性だ。終の住処に静かな場所をと望むことも少なくないという』
「そっか、何となく分かるな……けど火竜って、死に場所“を”戦場に“する”なのか……」
ニュアンスが微妙に物騒に聞こえるのは気のせいだろうか。何だか、“戦場が結果的に死に場所になってしまう”というより、“死に場所で最期に一暴れしてそこが戦場になってしまう”というように聞こえたのだが。
『何か問題でもあるのか?』
「…………いや」
だが結局疑問には蓋をして、アルヴィーはかぶりを振った。ただでさえ現在進行形で、どことも知れぬ島に飛ばされ絶賛遭難中なのだ。これ以上悩みの種を増やしたくはない。
見下ろす先、竜の骨はただ静謐に、水中にたゆたっている。そこでふと、別の疑問が頭を掠めた。
「……ところでさ、どうやってここ入ったんだ、あの竜」
『おそらく、底の辺りにでも道があるのだろうさ。外の海に繋がっているのやもしれんな』
「うーん……でもそれにしちゃ、匂いが違わないか?」
すんすんと鼻をうごめかせ、アルヴィーは首を傾げた。
「この島の周りの海と、全然匂いが違うぜ。こっちはあんな“潮”って感じの匂いしねーもん」
どちらかといえば、澄んだ川や泉のような匂いがする――と、彼が思った、その時。
『――ほう、客かえ。よくもまあ、あの霧を掻い潜って入り込めたものよ』
アルマヴルカンのそれと同じく、耳元に直接響くような、声。しかしアルマヴルカンのそれとは違い、どこか高貴な女性を思わせる涼やかな声だった。
「っ、誰だ!?」
鋭く振り返るが、そこには誰の姿もない。そこへ、今度はアルマヴルカンの声が響いた。
『主殿、下を見ろ』
「下……?」
再び水面を覗き込み、アルヴィーは目を見張る。今までただ暗いだけだった水の中に、明るい水色の光がゆらゆらと揺れていた。
『なるほど。あれは《竜玉》だ。あの骨の主の魂が、まだあの中に残っている』
「《竜玉》って、じゃああの骨、《上位竜》なのか」
アルヴィーは改めて、まじまじと水に沈む骨を見やった。言われてみれば確かに、水中だというのに朽ちもせず、それはすぐさま竜と分かる見事な姿を保っている。そのちょうど胸に当たる辺りで、水色の光がまるでそれだけは生きているかのように、ほろほろと輝いているのだ。
その光の美しさに感嘆していると、
『ふふふ、人の子にしては物怖じせぬな。それに、身の裡にいるのは火竜か。よもや、死んでから後にこのような面白き者を見るとは』
またしても、声。アルヴィーが何と答えようかと思っている間に、アルマヴルカンがさっさと返答してしまう。
『ふむ。邪魔をしたか』
『そうでもないがの。むしろ良い暇潰しじゃ。何しろここには誰も来ぬゆえな。――ほれ、何をしている、人の子。もっと近う寄らぬか』
「は、ええ!?」
いきなりのご指名に面食らったが、さすがに無視するわけにはいかない。魔法障壁の足場を使って、水面近くまで下りていく。
「……うわ……」
上から見下ろした時には分からなかったが、山中の空洞は下に行くほど広がっており、水面の辺りでは地底湖といっても良いほどの広さだった。水深は十数メイルほどはあろうか。《竜玉》の光で水中の光景が蒼く浮かび上がり、その水の透明度が良く分かる。アルヴィーの強化された視力だと、湖底に降り積もるように散らばった、薄蒼の鱗までもはっきりと見えた。
その幻想的な光景に見惚れていると、《竜玉》の光が笑うようにふるふると揺れた。
『ふふ、骸のあらかたは水に還ったが、鱗と骨はどうしても残ってしもうての。人の目には美しいものかえ?』
「うん、綺麗だと思う」
アルヴィーは素直にそう頷く。実際、その光景は例えようもないほど美しかった。
「これ、ここの上が空いてたら日光とか当たって、余計綺麗なんだろうな」
その光景を思い浮かべてそう呟けば、竜は小さく笑った。
『さて、それは難しいであろうな。――上が見えるかえ』
「上?」
見上げたが、天井は相当高いようで、アルヴィーの炎をもってしても照らしきれず、黒々とした闇が蟠っている。
「暗くて俺の目でもよく見えないけど……ずいぶんでっかい空洞だな、ここ」
だが、竜の答えは予想外のものだった。
『今では想像も付かぬであろうが、ここは元々山ではなかった』
「へ?」
『ここはそもそも、さほど高低差のない平坦な島であった。この湖も、元は岩盤の低い部分に雨水が溜まったもの。ゆえに、潮の匂いもせぬであろ』
「あ、それでか」
この湖の匂いの違いにも、それで納得が行く。
「けど何でそれが、山の中に閉じ込められてんだ?」
そう言うと、竜はおかしげに笑った。
『閉じ込められたとはよう言うたもの。――然りよ。妾は戦いの末、ここに閉じ込められた』
「ふーん……何でまた」
『さてな。狂った精霊の考えることなど分からぬ』
ゆらり、と《竜玉》の光が揺れる。
『……もうどれほど前になるか……海を渡っていた妾がこの島に立ち寄った時、狂った地の精霊が襲い掛かってきた。おそらく何処か、あるいは何者かを呪ったのであろうな。精霊は強力な呪いを掛けることができるが、その代償に自身も狂うゆえ』
「……狂う、か……」
アルヴィーはかつての僚友たちを思い出す。彼らもまた、自らの中に埋め込まれた竜の血肉、その魂の欠片の力に耐えきれず狂った。記憶も自我さえも狂気に呑まれ、業火と狂笑を撒き散らした末に散った彼らを思い出すたび、苦い思いが胸を満たす。
そんなアルヴィーの内心などもちろん知る由もなく、竜は話を続けた。
『妾も身を守るため戦いはしたが、その精霊も高位精霊ででもあったのか、なかなか力があっての。しかも狂っておるがゆえ、自分の存在が危うくなろうともお構いなしと来たものよ。――結局、ほとんど相討ちとなってしもうたわ』
「……それで、ここに?」
『妾は水竜であるゆえな。せめて水辺で死にたいと思うたまでだが……あの精霊は何を思うたか、妾が沈んだ湖の上に蓋をしおった。おそらく、逃がすまいと思うたのであろうな。その力すら、すでになかったというに』
ふるる、と小さく光が揺れたのは、苦笑だったのだろうか。
「じゃあ、その蓋っていうのが……この山?」
『自身の力のほぼすべてを使って、あれはこの山に身を変えた。力も使い果たし、もはや目覚めることもなかろう――と思っておったが、の』
「……ん?」
何となく話の雲行きがおかしくなった気がして、アルヴィーは眉を寄せた。
「……それってさ、何かその精霊がまた目を覚ましそう、みたいな言い方に聞こえるんだけど」
『然り』
水竜がゆったりと答える――まさにその瞬間、地響きのような音と共に“山”全体が揺れた。
「げ!? 何だ!?」
頭上から剥落して降ってくる岩の欠片に、アルヴィーは慌てて《竜の障壁》を発動させる。何しろ、欠片といえど人の握り拳、下手をしたら赤ん坊の頭ほどの大きさのものもあるのだ。いくら超人的な回復力があろうと、当たれば痛いどころの話ではない。あくまで痛覚は人並みなので。
障壁に跳ね返っては派手に水飛沫を上げて沈んでいく岩に、ひっそり肝を冷やしていると、
『――主殿、上だ!』
アルマヴルカンの声に、はっと頭上を振り仰ぐ。これまでの比ではない巨大な岩塊が、見る間にアルヴィーを押し潰さんばかりに迫ってきた。
「くそっ――!」
避けること自体はできなくもなかったが、そうするとこの岩塊が、水中の竜の骨を直撃することになる。アルヴィーはもう一度《竜の障壁》を展開した。障壁に当たった岩塊が軌道を変え、盛大な水飛沫をあげながら水中に没する。その余波をまともに食らい、アルヴィーは足場の上でわずかによろめいた。
「わっ……!」
その時。
『――跳べ!』
アルマヴルカンの声が脳裏に響き、考えるより先に足場を蹴る。一瞬の後、今までアルヴィーがいた空間を、鋭く尖った岩の針が貫いていた。それは湖底から次々と生え、水面を突き破ってアルヴィーに追い縋ってくる。そればかりか、頭上からも岩の欠片に混じって同じものがばら撒かれてきたのだ。
「何なんだこれ!?」
『そなた、この山を魔法で突き破ったであろ。その刺激で、精霊が目を覚ましたのじゃな』
「ざけんなああああ!!」
つまりは、この山にぶち込んだ《竜の咆哮》がきっかけというわけだ。唆したアルマヴルカンに魂の叫びをぶつけたアルヴィーだったが、今はとりあえず、この攻撃を何とかする方が先決である。
「……ここまで攻撃されてりゃ、今さら――か!」
足場を飛び移り、岩の針の攻撃を躱しながら、アルヴィーは右腕を戦闘形態に変え、《竜爪》を伸ばした。朱金の炎が剣身を包み、生まれた熱が飛び散る飛沫を一瞬で蒸発させる。
そして、一閃。
振り抜かれた《竜爪》は、襲い来る岩の針を易々と斬り飛ばした。赤熱した切り口がジュッ、と小さな音と湯気を立て、水の中に沈んでいく。《竜爪》を彩る炎と水中で蒼く輝く《竜玉》が、激しく波立つ水面を鮮やかにきらめかせた。
「――本体どこだ!?」
『上だ、主殿』
振り仰げば、先ほどとは打って変わって闇の中に一つ、光の点を見つけた。ややくすんだ色合いのその光――それに《竜爪》の切っ先を向ける。
「《竜の咆哮》!!」
次の瞬間――迸った光芒が闇を貫き、山肌を内側から吹き飛ばした。
◇◇◇◇◇
ヴィペルラート帝国帝都・ヴィンペルン上空。彼方に見えてきた《夜光宮》の威容に、ユーリ・クレーネは飛竜の背で小さく息をついた。
「……結構遅くなったね」
「例のクレメンタイン帝国とやらの関係で、情報収集をしておりましたから、やむなしかと。陛下にもご了解はいただいておりますし」
「そうだけど」
ファルレアン王国王都・ソーマで行われた、国主催のオークションに参加したまでは良かったが、そこでクレメンタイン帝国継承者を名乗る女の襲撃に居合わせるわ(ユーリは自分から首を突っ込みに行ったが)、唐突な帝国再興宣言や三公国の主権放棄宣言はあるわで、ユーリたちの帰国は遅れに遅れていたのだった。とはいえ、それに乗じて《擬竜騎士》との会談の場が持てたのは幸いだったが。
飛竜の一団は、《夜光宮》の前庭に向かって降下していく。予め連絡を入れてあったため、前庭にはすでに出迎えの者たちが顔を揃えていた。
「――お帰りなさいませ、ユーリ様」
「此度の一件、陛下も大変憂慮なさっておいででございます。ユーリ様がお戻りになられましたら、すぐにお会いになりたいとの仰せで」
「分かった。先に回っとく」
ユーリはひょいと飛竜の背から飛び下りると、旅装を解くのも後回しに、皇帝ロドルフ・レグナ・ヴィペルラートのいる玉座の間へと向かった。
彼は玉座の間への自由な立ち入りが許されている、《夜光宮》でも一握りの存在だ。無論、途中で制止されることも一切なく、彼は玉座の間へと足を踏み入れた。
「ただいま、陛下。ちょっと遅くなった」
「構わん。話は聞いた。無事で何よりだ」
相変わらず敬意の欠片も感じられない口調で、ユーリは帰還の挨拶――ともいえないようなものだが――を告げる。ロドルフも彼の性格はよくよく知っているので、苦笑一つでそれを受け入れたが。
しかし次の瞬間には、その表情も引き締まった。
「……報告は受けている。おまえ、例のクレメンタイン帝国継承者を名乗る女と、やり合ったらしいな」
「軽くね。ファルレアンの騎士とも共闘だったけど、どの道遊んでたようなもんだよ、あの女」
ユーリは肩を竦めた。
「ほう? それほどか」
「うん。――あ、それと、そのお付きの侍女っぽいのが、国境守備部隊壊滅させた犯人だった」
あっさり落とされた爆弾発言に、その場に居合わせた人々はどよめいた。
「何ですと!」
「それでは国境守備部隊の一件はやはり、クレメンタイン帝国を名乗る者の仕業ということか」
「しかし、何のために……」
「やはり領土ではないか? あの一帯はかつて、クレメンタイン帝国の領土であったと聞き及んでいる」
「だが、もう百年も前の話ではないか……」
ざわめく臣下たちを、その時ただの一声が黙らせる。
「静まれ」
皇帝ロドルフの言の威力は、一言といえども絶大だった。あっという間に静まり返った空間の中、ロドルフの声だけが響く。
「……それで、ユーリ。おまえなら、その二人に勝てるか?」
問われ、ユーリは首を傾げた。
「直接やり合った方は、どっちも全力出してなかったし、分からない。けど、守備部隊壊滅させた犯人の方は、《下位竜》と同じくらいの強さだって話だから、そっちだったら目はあると思う」
彼女とも全力で戦ったわけではないが、“同じ存在”である《擬竜騎士》の話だ。信憑性は高い。
そう告げると、ロドルフの顔に理解の色が浮かんだ。
「……そういえば、《擬竜騎士》と話をしたそうだな」
「うん。ファルレアンの騎士団を手伝ったからね」
その件に関しても、護衛として随行した武官から報告を受けている。クレメンタイン帝国継承者を名乗る女がファルレアンの王城を襲撃した際、ユーリが(どさくさ紛れにではあったが)騎士団に助力する形で参戦したため、その見返りに《擬竜騎士》との会談が実現したのだ。もちろん、他国の人間としては初の快挙だった。
それを達成したユーリは、だがその価値を知ってか知らずか、淡々と話を進める。
「《擬竜騎士》の話だと、あいつもレクレウスが進めてたナントカ計画っていうのの被験者だったんだって。おんなじ手術受けて、生き残りは全部で四人いたけど、《擬竜騎士》以外はレドナとかいうとこで死んでるって言ってた」
その言葉に、またしても座がざわめく。
「死んだ……? しかし、現に」
「まさか、幽霊が国境守備部隊を壊滅させたわけではあるまい」
「死んだけど生き返ったらしいって、《擬竜騎士》は言ってたよ」
あっさりとそう言ったユーリに、ロドルフも難しい顔になった。
「……しかし、一度死んだ人間が生き返るなど……そんなことがあり得るのか?」
「難しいことは分かんないよ。けど、実際に生きて暴れてるんだから、あり得るとかあり得ないとか言っててもしょうがないでしょ。どうやって倒すかの方が大事だよ」
現実的きわまるその一言に、ロドルフが破顔した。
「――はははっ、確かにその通りだな。で? 何か手はあるのか?」
「《擬竜騎士》に聞いた話だと、あいつ、魔法が得意で接近戦が苦手みたい。だから俺より、接近戦が得意なので隊を作ってそれを当てて、俺は援護に回った方が良くないかな。《擬竜騎士》もそうだけど、あいつ周りの魔力を集めて使えるみたいなんだ。だから、魔法勝負だとこっちの分が悪いって」
ユーリの意見に、ロドルフは頷いた。
「なるほどな。まあその辺りは、武官の方が専門だろう。任せよう」
「はっ!」
恭しく一礼する将軍を一瞥し、ロドルフはユーリに視線を戻す。
「……とはいえ、すぐに仕掛けるわけにはいかんがな」
「何で?」
「先にレクレウスに仕掛けて、領土を多少なりとも奪う。そのために、兵力はそちらに割かねばならん」
「……戦争するの?」
ユーリの双眸が鋭く細まった。
「レクレウスは先の紛争で、国力が大きく下がっている。狙い目だろう」
「理屈は分かるけど。――何かそういうの、やだな。弱いもの虐めみたいな感じで」
「そう言うな。我が国としては、少しでも多く領土を得なければならんのだ。あの忌々しいエンダーバレン砂漠がある限りはな」
鼻を鳴らし、ロドルフは不機嫌に目をすがめる。彼とて、好き好んで他国に戦争を仕掛けたいわけではないのだ。
だが、国を背負って立つ以上、自身の感情よりも民の生活を優先せねばならなかった。
「……陛下も大変だね。自分が生まれる何百年も前の、馬鹿貴族の後始末なんて」
ロドルフが背負うものの重みは、ユーリには分からない。彼もまた、この帝都ヴィンペルンや、その周辺の領地の民たちの生活を支える存在ではあるが、彼はただ、自身が望む通りに水精霊たちと交流しているだけだ。単にその結果が、人間たちの都合にも合致するものであるに過ぎない。
だから、ユーリはロドルフを少し哀れに思う。大国の皇帝として玉座に君臨していようとも、ユーリにとって彼は、自由を失い重責を課せられ、雁字搦めに縛られた人間でしかないのだ。
ユーリは少しだけ聞いたことのある、エンダーバレン砂漠の成り立ちを思い返した。
――遥か昔、この国が“帝国”を名乗り始めたばかりの頃。
一人の貴族の男が、地の高位精霊の加護を受けた。
だが男は、それをきっかけに増長し始め、どんどん高慢になっていった。彼はやがて、自身が皇帝になり替わるという夢を抱き、ついにはその妄執を現実のものとするため、自身に加護を与えた精霊に、帝国を支配するための更なる力を与えるよう望んだのだ。
だが、精霊はそれを拒んだ。憤った貴族の男は、自身の権力を使い、領地内の鉱山から鉱毒を集めると、精霊が守る地にそれをばら撒いて汚染し始めた。
その仕打ちに耐えかねた精霊は、かつて加護を与えた男とその領地を呪い、その代償に自らも狂って、そのままどこへともなく姿を消したという。後に残された土地は、もはや草木も生えないほどに荒れ果て、荒涼とした砂漠と化した。
それからおよそ三百年余り。その地は今も回復の兆しすらなく、わずかずつながらその面積を増し続けている。そして呪われた地には戒めのため、その愚かな貴族の名が冠され、人々の間で長く語り継がれることとなった――。
(……精霊の呪いは、俺じゃ解けないし)
精霊がその正気と引き替えに掛けた呪いは、下手に解呪しようとすれば、その術者をすら蝕む。ロドルフに伴われて帝国の中枢に足を踏み入れた際、乞われて一度エンダーバレン砂漠に赴いたが、それが自分の手に負えるものでないことはすぐに分かった。手を出せばユーリはもとより、彼を通して育ての親である精霊にまで悪影響を与えかねない。そう告げられ、帝国はエンダーバレン砂漠の解呪を諦めた。帝国にとっては、じわじわと広がる砂漠の呪いの解呪より、帝都に水の恵みを与えるユーリの方が重要だったのだ。
もはや、エンダーバレン砂漠に掛けられた呪いを解くには、砂漠よりもむしろ、大元の精霊をどうにかするしかないというのが、砂漠の呪いを研究する魔法士や学者たちの総意だった。だが、肝心の精霊は三百年も前に行方不明。打つ手がない、というのが現在の状況なのだ。
そんな土地を国内に抱えるがゆえ、代々の皇帝は外に領土を求めざるを得なかった。周辺の国々にその野心を警戒され、時に強引に領土を分捕るやり口に眉をひそめられようとも、帝国の領土拡大路線が揺らいだことはない。そうしなければ、帝国の領土はわずかずつながら確実に減っていくのだから。草木一つ生えず人も住めないような土地を、領土とは呼べない。
自国民を養う土地を得るために、他国から領土を奪う――それが、この国の皇帝に課せられた役目の一つであった。
百年ほど前、ヴィペルラート帝国はクレメンタイン帝国との戦争で、ある程度まとまった広さの領土を得た。だが今、その地は国境守備部隊の壊滅という余禄と共に、ヴィペルラートの支配下から奪われている。それを補うために、ヴィペルラートはまた、新たな領土を得なければならないのだ。
それを知るがゆえ、ユーリも最終的には、他国への侵攻を許容せざるを得ない。彼もまた、この国の民の一人であるのだから。
(……俺が、呪いを解ければ良かったのかな)
もしくは、何か奇跡でも起こって、精霊の呪いが解けたなら。
この世界にすでに神などいないことを、育ての親から聞いてはいるけれど。
それは確かに、“祈り”と呼べるものだった。
◇◇◇◇◇
《薔薇宮》の回廊、そこでベアトリスは、煌々と輝く月を見上げていた。
――彼女を補佐するべく育成されていた侍女見習いのミイカは、主たるレティーシャの命を受け、兄オルセルやゼーヴハヤルと共に、《薔薇宮》を後にしていた。行き先はファルレアン王国王都・ソーマ。
ベアトリスがいずれ足を踏み入れたいと望み、そして未だに叶わぬ地だった。
(……今はまだ復讐の時ではないと、陛下は仰りたいのかもしれない。だけど……)
彼女の父は国家反逆罪に問われ処刑された。家族もベアトリスを除いた全員が、父に連座させられる形で命を落としたのだ。使用人の機転に救われたベアトリスだけが、寸前で難を逃れたが、その使用人も彼女を逃がすために死んだ。彼女自身もまた、ファルレアン王国ではお尋ね者だ。
ベアトリスの胸の中では今も、家族と名誉を奪われた怒りと憎しみが息づいている。それは静かに、だが確かな強さで、ふとした拍子に彼女の胸を焼くのだ。
だが、この城で侍女頭として立ち働く日々の積み重ねは、彼女のその憎しみの炎に雪のように降り積もっていった。炎を掻き消すほどに大きなものではない、しかし少しずつ降り積もるそれは、いつかこの胸に宿る業火を弱めるかもしれない。それが、彼女には恐ろしかった。
――いつか必ず、家族の仇を討つと誓ったのに。
それを忘れるなど、家族に対する裏切りに他ならない――。
ベアトリスの青灰色の瞳から、一筋の涙が滑り落ちる。それをそっと拭った時、こちらに近付いて来る足音が聞こえた。
「――ベアトリス」
「ダンテ様!?」
かけられた声に、彼女は弾かれたように振り返ると、慌てて淑女らしく一礼した。
「申し訳ありません、つい時間を忘れてしまいまして。すぐに仕事に――」
「いや、構わないよ。君はいつも、良く働いてくれているじゃないか。我が君も、君の献身的な働きにはお喜びだ」
「……身に余るお言葉です」
顔を伏せ、胸元で両手を握り締める。仕事ぶりを認められるのは確かに誇らしい。だが――この胸の中には、それだけでは満足できない思いが、いつしか生まれていた。
そんな彼女の胸中など余所に、ダンテは並び立つように、すぐ傍に歩み寄って共に空を見上げる。
「……自分ではなくあの子たちが、ファルレアンでの情報収集役に選ばれたことが、悔しいかい?」
投げかけられた問いに、ベアトリスは唇を引き結び、かぶりを振った。
「いいえ……分かっています。わたしはファルレアンでは罪人として、今も捜索されているでしょう。たとえ顔を変えて潜入したところで、どんなところから露見するかも分からない……ですから、あの子たちがそのお役目を賜ったこと自体には、納得しています。――でも」
胸にせり上がるものがある。それは涙となって、ついさっき拭ったばかりの目元から再び零れ落ちた。
「わたしは……怖いんです。――ここで侍女頭としてのお役目をいただいて、陛下のために働くことは誇らしいことです。でも……そうしている内に、いつか家族の仇を討つことさえ忘れそうで、それが怖いんです……! そんなの、お父様たちへの裏切りだわ……!」
震える声は、いつしか絞り出すような叫びになっていた。足の力が抜けて、その場にくずおれそうになる。だがそれは、しなやかながら強い腕に支えられて阻まれた。
ベアトリスを抱き留めたダンテは、その翠緑の瞳を優しく細める。
「分かるよ。――だけど、だからこそ。時を待つことも必要なんだ。本当に心に決めたことは、いくら時を重ねても、埋もれたり忘れたりはしない。むしろ時が経つほど、硬くて強い、揺るぎないものになる」
自分を見つめる彼の双眸が、エメラルドの輝きを帯びたように見えて、ベアトリスは息を呑む。
彼女よりも遥かに長く、主たるレティーシャに付き従い続けた彼の中にも、自分と同じく胸に抱く、何か強い思いがあるのだと――その輝きだけで、ベアトリスは理解できてしまったから。
揺れる瞳で彼を見上げ、そしてふと現在の状態に思い至ったベアトリスは、小さく声をあげると慌てて離れた。
「わ、わたしっ――失礼します!」
紅潮した頬を隠す余裕もなく、彼女は身を翻すと小走りに走り去って行く。それを見送る形となったダンテは、不意に振り返った。
「覗き見かい?」
「馬鹿にしないで。あたしが通り掛かったところで、そっちが勝手に始めたのよ。あたしの知ったことじゃないわ」
ブーツの踵が床を打つ、独特の硬い音。榛色の長い髪をなびかせて姿を現したメリエは、ダンテの眼前で足を止めると腕を組み、菫色の瞳で傲然と彼を見上げた。
「上手いこと言い包めたじゃない」
「言い包めた? ベアトリスをかい?」
きょとんという擬音が似合いそうな顔でこちらを見る彼に、メリエは舌打ちでもしそうに顔をしかめる。
「自覚ないとか……性質悪っ」
「そう言われてもね。僕はただ、彼女とたまたま会って、少し話をしただけだ」
「ふうん」
胡乱げな目付きで鼻を鳴らすと、メリエはダンテから視線を外し、空に浮かぶ月に目をやる。
「……ま、いいけど。せいぜい、あのお嬢様に後ろから刺されないように気を付ければ?」
「それはないさ。彼女は僕や、何より我が君に忠実だ」
「そうやって何もかも見透かした気になってるの、イラつくわ。あんたも、シアも」
吐き捨てて、メリエは床を蹴り、身を捻って回廊の手摺に腰掛けた。少し勢いが付けば背後の十メイルほど下の地面に真っ逆様だが、彼女の行動にそういった懸念は感じられない。
子供のように両足をぶらつかせながら、メリエは月明かりを背に、エメラルドの双眸を見据える。
「……気持ち悪いのよね。あんたたち、何がしたいのかさっぱり分かんない。あたしは、シアのお遊びに付き合わされるために生き返らされたの?」
「そんな無駄なことを、我が君がなさるとでも?」
「だったら! あたしをこんなところで飼い殺してないで、ちゃんと使いなさいよ! アルヴィーのことだって!」
ぎり、と奥歯を噛み締める。ようやく、この手が届くところに彼が来た、そう思っていたのに。
「せっかく捕まえたのに、逃げられてさ!」
「分かってる。そのために、オルセルたちをソーマに潜入させたんじゃないか。《擬竜騎士》は必ず、ファルレアンに戻ろうとするはずだ。彼は目立つし、王都に戻れば噂くらいにはなるだろう。国としては彼の失踪は隠すだろうけど、帰還すればその存在を殊更に喧伝しようとするはずだからね」
「……何でそんな回りくどいことするのよ」
「今の段階では、僕たちにさえ彼の行方が掴めないからだ。さすがに、火竜アルマヴルカンが手を貸しただけはある。見事に足どりが消えたよ」
肩を竦め、ダンテは目を細めた。それはベアトリスに見せたような優しげなものではない。彼が少なからず、不快に思っている証左だった。
そのことにわずかに溜飲を下げ、メリエは手摺から飛び下りる。もちろん回廊側へだ。
「……ま、いいわ。アルヴィーの居場所が分かったら、あたしにも教えてよね。また捕まえに行くから。――それと」
ブーツの踵を鳴らして歩き出しながら、言い置く。
「あたし含め、あんまり女を舐めないでよね」
猫のように瞳を光らせ、メリエはほんの一瞬ダンテを睨むと、そのまま歩き去って行った。その姿は回廊の影に紛れ、すぐに見えなくなる。ダンテはふと笑みを零すと、夜空に輝く月を一瞥し、自らも別の方向へと歩を進め始めた。
◇◇◇◇◇
降り注いだ轟音と粉塵に塞いでいた目と耳を、アルヴィーはそっと開いた。
「……うわあ……」
頭上には見事に大穴が開いていた。そこから射し込む月明かりが、地底湖――山に穴は開いたが、大部分はまだ山中に隠れているのでそう呼んでも構うまい――の水面を幻想的にきらめかせる。が、よくよく水中に目を凝らせば、そこかしこに大小の岩塊が散らばり、幻想的とは程遠い光景を創り出していた。おそらくあと数十年もすれば、それらも自然に馴染むのかもしれないが。
しかし呆れたことに、その崩壊の真っ只中に置かれていたはずの水竜の骨は、さしたる被害もないようだった。
『ふふふ、派手にやったものじゃのう。愉快愉快』
あまつさえそうころころと笑う始末である。
『長らくここで変わり映えもせぬ時を過ごしておったが、これほどに気分が浮き立つのはいつぶりかの』
水竜は楽しそうだが、アルヴィーは生憎それどころではなかった。
「……どこ行った?」
おそらく先ほどの攻撃の主であろう、狂った地の精霊――《竜の咆哮》はその至近を貫いたはずだった。
『なぜ外した、主殿』
責める風でもなく、アルマヴルカンが尋ねてくる。アルヴィーは頭上を見上げたまま、目をすがめる。
「外そうとは思ってなかったんだ。けど、撃つ瞬間――もしかしたら、って思っちまって」
呪いの代償として、狂ってしまった精霊。
――それを、かつての僚友たちと重ねてしまった。
そして、考えてしまったのだ。
人間より遥かに強いであろう魂を持つ精霊ならば、もしかして、狂気から引き上げることができるかもしれないと。
「俺はあいつらを助けられなかった。止めを刺す手伝いしかできなかったけど……精霊なら、って。――だって、狂うってさ。自分が自分じゃなくなるってことだろ」
思い出す。
アルマヴルカンに“喰われ”かけた、あの時のことを。
右腕から少しずつ喰われて、自分が徐々に霞んでいくような、あの感覚と恐怖。レドナで狂った僚友たちはきっと、それに打ち勝てなかった。
耳を刺すような彼らの狂笑が蘇り、自分の腕の中でその身体が崩れ去った感触を思い出した瞬間、精霊に向けていた《竜爪》の切っ先がわずかに逸れたのだ。
『……まあ、懸けるのは主殿自身の命だ。好きにやれば良い……が、救える保証などどこにもないぞ』
「分かってる。――そもそもこんなの、俺の勝手だ。向こうがそうしてくれって言ったわけでもないしな。俺が勝手に、あいつらと同じように狂ったままでいさせたくないって思っただけの、ただの自己満足ってやつだ」
止められなかった、救えなかった僚友たちの代わりに――など、傲慢なのだろう。だが“それでも”、そう思ってしまったこの心は止められない。
知らず拳を握り締めると、右手の爪が鱗と擦れて小さく鳴った。
『――主殿、来るぞ』
アルマヴルカンの警告に、アルヴィーはすぐさま新しい足場を構築して飛び退く。湖底から突き出した岩の針を躱し、飛び移った足場の上で両膝を撓めた。
『ほう』
感心したような水竜の声を置き去りに――翔ぶ。
朱金の光を零す片翼を背に、アルヴィーは頭上の大穴を目指した。いくら広いとはいえ、山中の空洞の中では動きが制限される。それに、相手は狂っているとはいえ地の精霊だ。ここに留まっていては、相手の手の内にいるも同然である。
(――まずは、外に出ないとな!)
だが、それを阻むように細長い岩の欠片が弾丸となり、アルヴィー目掛けて殺到する。それを《竜の障壁》で叩き落としながら、周囲の岩壁に目を凝らした。
(……いた!)
岩壁に浮かび上がる、くすんだ黄白色の光。それはアルヴィーに追従するように、岩壁を高速で移動していた。その光の軌跡に沿って岩壁が弾け、その欠片が弾丸となってアルヴィーに襲い掛かる。
それを叩き落とし、アルヴィーは右腕を振り抜いた。放たれた《竜の咆哮》が光の鼻先を薙ぎ、赤く熱された軌跡がその進路を阻む。
その間に、彼は大穴を抜け、外の空間に飛び出していた。
外はもうとうに日が沈み、冴え冴えとした光を放つ月が、冷ややかに地上を睥睨している。しかしその光も、島の周囲を取り巻く霧を通し、やや柔らかくなって島のほぼ全域を照らしていた。アルヴィーの視力なら星明かりだけでも辺りは見えるが、明るいに越したことはない。
だが――外に逃れたアルヴィーを再び叩き落とそうとでもいうように、地表が大きく弾けてその飛礫が空へと放たれる。アルヴィーは《竜の障壁》で防御しながら、地上の一点を見つめた。
いつの間にかそこには、くすんだ黄白色の光を帯びた人影が立っている。距離があるため表情などは分からないが、その姿を見た瞬間、アルヴィーの背をぞくりと冷たいものが滑り下りた。
(――“狂ってる”って、こういうことかよ……!)
彼は一度、風の大精霊シルフィアと顔を合わせたことがある。いかにも自由な風を具現化したような存在だった彼女は、さすがに大精霊だけあって強大な力を内包していたが、纏う空気はどこか柔らかかった。
しかしあの地の精霊は、生きとし生けるものに恵みを与える大地の化身でありながら、そうした大らかな優しさなど欠片も感じさせない。荒れ狂い軋む地割れのような、虚無を湛えた洞穴のような、そういった生命を拒むものばかりを連想させる、そんな空気を纏っていた。
その足元がばきりとひび割れ、波打ち始める。盛り上がる大地が精霊を包み込み、何かを形作り始めた。とりあえず何発か《竜の咆哮》を撃ち込んでみたが、それは一瞬の遅滞を生み出すことすら叶わない。
そして――“それ”は地を蹴った。
小山のような体躯と逞しい四肢を持つ、鋼色の獅子。その鬣は逆立ち、双眸は煮え滾る溶岩でも封じ込めたように、禍々しい光を放つ。皮肉なことにその色は、アルヴィーの瞳とよく似通っていた。
鋼の獅子は見えない坂を駆け上るように空を蹴り、アルヴィーに肉薄する。大きく鋭い牙と爪が、彼を引き裂かんとばかりにぎらりと光った。
「させるか――よっ!!」
振り抜いた《竜爪》が牙を打ち、甲高い音が響く。振り下ろされた爪を見切って躱し、アルヴィーは翼にさらに魔力を集めた。朱金の光が強まり、生まれた炎が《竜爪》に吸い込まれて眩く輝く。
「はぁぁぁぁっ!!」
裂帛の気合と共に、空気を貫く剣戟の音が無人の孤島に響き渡る。
白々と輝く月だけが、それを聞いていた。




