第65話 残されしものたち
とある晴れた日に、レクレウス王国を長く支えた元宰相、ロドヴィック・フラン・オールトの葬儀が執り行われた。
オールト家は戦争の責任の一部を問われはしたものの、ロドヴィックが穏健派であり、降伏を進言したため宰相職を罷免されたという事実も後押しして、処罰は務めた役職の重要性に比してもきわめて軽いものだった。だが、ロドヴィックはすべての責は自分一人に帰するものであり、家や領民に累が及ぶことのないよう願う旨をしたためた遺書を残し、毒杯を呷って自害したという。
訃報はすぐに王都にも届けられ、現在の為政者たる貴族議会は哀悼の意を表すると共に、代表であるナイジェル・アラド・クィンラム公爵が葬儀に参列するため、領地のオールト邸へと赴いた。また、ファルレアン側にも連絡が飛び、対レクレウス窓口ともいえるヨシュア・ヴァン・ラファティー伯爵を通じて、逝去を悼む旨のメッセージが届けられた。
葬儀には近隣の領民たちも訪れ、館の周囲を取り囲んで、彼らにとっても良き領主であったかの人の死を悲しんだ。
その様子を、館の窓の一つから密かに眺める人影。今まさに弔われているはずの、ロドヴィックその人であった。
「――妙な気分じゃな。自分の葬式を傍から眺めるなど」
そう呟いて、彼は室内を振り返る。肘掛け椅子に身を預け、優雅に紅茶で一服と洒落込んでいたナイジェルは、カップを揺らして紅茶の芳醇な香りを楽しみながら、小さく笑った。
「なかなかできない経験ですよ。それに、ご自分の人徳を確認できる、良い機会になったでしょう」
「人徳……か。ここに集まってくれた者たちのほとんどを、こうして謀っておるというに」
「御家のためです。ひいてはご家族や、領地領民のためでもある」
「分かっておる。そうでなくば、話には乗っておらん」
一つ息をついて、ロドヴィックは窓辺から離れた。ナイジェルと対面する形で椅子に腰を下ろす。
と、どこからか物悲しい調べが流れてきた。
「……これは?」
「ああ、末の娘の竪琴じゃ。親の儂が言うのも何だが、あの子は音楽に才があってな」
ロドヴィックの表情が和んだ。
「ほう、ご令嬢ですか。――しかし、こうして漏れ聞こえるだけでも、見事なものですな」
ナイジェルは目を軽く閉じ、遠い音色に耳を傾ける。弦を爪弾いて生まれる音色は、水面に落ちる水滴を思わせた。それが幾重にも連なり、高く低く響き合って、一つの調べを形作っていく。輝きながら水面を跳ねる雫が、瞼の裏に見えるようだった。
「年を取ってから生まれた娘でな。年甲斐もなく可愛がってしまって、社交界に出すのも少々遅くなってしまったが……こうなると、それは正しかったのかもしれんな」
聞けば、かの令嬢が社交界に出たのは、ほんの数ヶ月ほど前だという。本来ならばそこで国内の貴族の子弟、家柄からすればあるいは王家に縁付くこともあったかもしれなかったが、そうなる前に国は敗戦の憂き目を見、貴族たちの勢力図も大きく変わった。下手に婚約など結んでいれば、今以上に複雑な立場に置かれていたかもしれない。そう考えれば確かに、社交界へのデビューが遅れたのは幸いかもしれなかった。
「……もっとも、儂がこの体たらくではな。良い縁談が来るかどうか……」
愛娘の行く末を案じ、ロドヴィックは浮かぬ顔になった。
「それではご令嬢のためにも、ご当家の処遇については尽力致しましょう」
「そう言ってくれると有難い……くれぐれも、よろしく頼む」
ナイジェルの手を強く握り、ロドヴィックは真摯に頼み込む。ナイジェルは未だ独り身だが、自分も子を持てばこうなるのだろうかと思いながら、彼は頷いた。
その後は、今後の段取りについて打ち合わせる。そんな話をしている内に、音色はいつしか聞こえなくなっていた。
そうしてとりあえず必要な打ち合わせを済ませ、ナイジェルは部屋を後にした。
(ひとまずは王都に移っていただくとして……後は生き残った強硬派がどう動くか、だな。目当てのオールト公が“死んだ”となれば、連中がここにこだわる意味はなくなるが……)
王都で密かに蠢いている強硬派貴族たちは、前王ライネリオを担ぎ上げ、以前の絶対王政の世にこの国を引き戻そうとしている。仮にも一度は為政者と国民に認められた前王ならば、権力基盤さえどうにかして取り戻せば、再び君臨できる――そう考えたのだろう。また、そうでもしないと強硬派貴族たちが復権できないという事情もあろうが。何しろ強硬派貴族の中でも特に大きな権勢を振るった者たちは、軒並み没落の憂き目を見たのだから。
そして、現在の為政者たる貴族議会にも弱みがないわけではない。その最たるものが、国政への参加経験に乏しいというものだった。
ナイジェルなどはまだ軍議などにも参加していたが、それも名目だけの相談役としてだ。軍事や財政、内政などの重要な役職は、王家に近しい大貴族に割り当てられていた。そういった大貴族は同時に大多数が、王家ともども継戦を主張した強硬派貴族でもある。戦後、そうした貴族たちのほとんどは戦争責任を問われ処罰されたが、中には辛うじて生き残った者もいるのだ。
そのような者たちにとって、穏健派の重鎮でありながら、宰相として国を支えた経歴を持ち、そして貴族議会に協力する可能性のあるロドヴィックは、邪魔者でしかなかった。
彼を暗殺するべく、強硬派貴族は暗殺者を密かにこの地に送り込んでいたが、それはナイジェルがこれまた密かに派遣した暗殺者上がりの部下、イグナシオによって処理されている。そしてロドヴィックが“死んだ”今、その理由さえも消え去ることとなった。
とはいえ、やはり即座にイグナシオを引き揚げさせるわけにもいかないだろう。オールト家そのものを乗っ取るため、家を継ぐ嫡子のローレンスが狙われる可能性も、そう多くないとはいえあり得るのだから。
どうしたものかと考えを巡らせながら、ナイジェルは広間に足を向ける。葬儀が行われている広間には、領内の有力者なども顔を出していた。ナイジェルはそこそこ長い間中座していたことになるが、まあ知った相手もさほどいないのだから、気付かれることもないだろう。
だが、そんな彼の行く手から、従僕やメイドを従えた、一人の少女が歩いて来るのが目に入った。
彼女はナイジェルの姿を見るとすっと道を開け、淑女らしく優雅に礼を取る。豊かな黒髪を結い上げた、十代後半ほどの少女だ。年齢にはやや不釣り合いなほどに成熟した肢体を黒いドレスに包み、黒のベールの下に透けて見える瞳は蒼い。彼女に付き従う従僕が竪琴を抱えているところを見ると、彼女が先ほどの物悲しい調べを奏でていた、ロドヴィックの末娘なのだろう。
「――この度は、父のためにわざわざ王都よりお越しいただき、ありがとうございます。わたしはロドヴィック・フラン・オールトが娘、オフィーリア・マイア・オールトと申します」
細い声が、ナイジェルの耳に届いた。彼も会釈を返す。
「いえ、お父上より受けたご恩を考えれば当然のこと。わたしは公爵位をいただいている、ナイジェル・アラド・クィンラムと申します、レディ。――それはそうと、先ほどの演奏、お見事だった」
「恐れ入ります。先ほどの曲は、父が好きな曲ですの」
「ほう……それで、葬儀の席で?」
「はい。――最後に、と思いまして」
オフィーリアは伏せ気味だった蒼い双眸を上げ、ナイジェルを見上げた。
「……たとえ実際がどうであろうと、“父”は今日を最後に、この世から消えてしまうのですもの。ですから、せめてもの手向けですわ」
「なるほど」
どうやら彼女は、今回の一件の裏事情を知っている。父親から聞いたのだろうが、あのロドヴィックがまだ二十歳にもなっていない娘に、事情を包み隠さず話しているということに、ナイジェルは内心驚いた。
それを知ってか知らずか、オフィーリアは自身に付き従う使用人たちを一瞥する。
「もちろん、この者たちを含め、館の者たちは事情を呑み込んでいますわ。ただ、もう家を出て他家に縁付いている兄や姉は、本当のことは知りませんの。その方が良いと、わたしが進言致しました」
「ほう?」
ナイジェルが眉を上げると、オフィーリアはその身に纏った喪服には不釣り合いににこりと笑う。
「一番上の兄とわたし以外は、腹芸が不得手ですの。きっと、母に似たのですわ。人が好くて、嘘などつけない女性でしたもの。でも、長兄のローレンスとわたしは、中身が父にそっくりだと」
ということは、政治家向きということだ。ナイジェルは頷いた。
「それは、お父上も頼もしいことだろう」
「閣下は、賢しい女はお嫌いですか?」
「まさか。あなたのように聡明な女性は好ましいと思うがね」
「そう仰っていただけて嬉しく思いますわ」
オフィーリアの蒼い瞳が、猫のようにきらめいた。
「では、わたしはそろそろ失礼しよう。葬儀を中座したままでは失礼なのでね」
「お引き留めして申し訳ありません。どうぞ、いらしてくださいませ」
オフィーリアに見送られ、ナイジェルは葬儀の席に戻った。
(公がなかなか社交界に出せなかったというから、どれだけ箱入りかと思いきや……)
相当な美少女であるし、貴族社会でも上手く立ち回れそうな令嬢だ。頭が切れるというのは、これまでの貴族令嬢にとっては必ずしも美点とはいえなかったが、男を上手に“立てられる”頭の良さはあって困るものではない。そしてかのオフィーリア嬢は、そういう類の聡明さを多分に持ち合わせていそうに思えた。ただ、彼女を妻に迎える男は、その聡明さを生かしきれるほどに優秀か、さもなくば妻の手の内で転がされるを良しとする呑気者でなくてはならないだろうが。
オールト家の処遇がどう落ち着こうと、その点を踏まえねばどの道彼女の縁談は上手く行くまい――内心そう思いながら、ナイジェルはしめやかな雰囲気に溶け込むように瞳を伏せた。
◇◇◇◇◇
「――《虚無領域》への捜索部隊派遣?」
ルシエルの耳にシャーロット経由でその話が入ってきたのは、親友の行方が杳として掴めず焦っていた時だった。
「はい。王都で事件を起こしたのは“クレメンタイン帝国”関係者ですし、彼らがアルヴィーさんを連れ去ったのなら、その潜伏先はかつて帝国が存在したその一帯が、最も可能性が高いだろうと。カルヴァート大隊長が、上層部に部隊の派遣を提案したようです」
王都の捜索も空振りに終わり、もはや手掛かりはないだろうと半ば諦めに近い気分を抱えつつ、帰還した本部。部下たちは早々に解散し、報告を済ませたルシエルとシャーロットだけが、正面玄関近くに設けられたちょっとした休憩スペースのような場所で、一時の休息を取っていた。その時、シャーロットがその話題を口にしたのだ。それを聞き、ルシエルは納得の頷きを返す。
「確かに……だが、あの一帯は強力な魔物があちこちにうろついていると聞くぞ」
「その通りです。――なので、捜索部隊には腕の立つ隊が選抜されることになるだろうと」
「そうか」
ルシエルの双眸に、鋭い光が宿った。無論、捜索部隊に名乗りを上げるつもりである。
「……悪いが、付き合ってくれるか」
「それはまあ、わたしたちも隊長の部下ですし」
にこりとシャーロットが微笑み、ぽんと魔法式収納庫を叩いた。
「……それに、アルヴィーさんに貰った《下位竜》素材を今、新しいバルディッシュに仕込んで貰っていますので。戦闘力は上がると思います」
「ああ……そうだな」
そういえば、ルシエルも《下位竜》の皮で鞘を仕立てて貰っていたのだった。彼らだけでなく、小隊の他の面々も、アルヴィーから譲られた《下位竜》素材で、武器や装備を強化・新調している最中である。
「……まさか、この状況が分かってたわけじゃないんだろうけど」
ルシエルのため息に、シャーロットは顔を曇らせた。
『戦友が死ぬのは、もう嫌だからさ』
彼の言葉を思い出す。
人間を遥かに凌駕する力を持とうとも、彼はただ、自身の大切な者たちを守るためにその力を揮おうとしていた。今まで手に掛けてきた命たちをその背に負い、懸命に道を切り拓きながら。
ならば彼は、きっと今も諦めず、ファルレアンに――親友の傍らに帰る術を探しているだろう。彼の力をもってすれば、それが叶う可能性は決して低くない。
(……だけどそれは、わたしたちがここで手をこまねいている理由にはならない)
静かに心を決めて、シャーロットは顔を上げた。
「ひとまず、情報収集と行きましょう。わたしは、王城の図書室で《虚無領域》についての書物を探してみようと思います。いざ現地に行くとなれば、情報は多い方が良いですから」
「そうだな。僕も――」
ルシエルがそう言いかけた時、その場におずおずと、本部で雑用を担当している下働きの少年が顔を出した。
「お寛ぎ中失礼します……その、クローネル二級魔法騎士に、このような手紙が」
「手紙? 返事は必要だと言っていたか?」
「いえ、お渡しするだけで良いと……それでは、失礼します」
「ああ、ありがとう」
ルシエルは、少年が差し出したそれを受け取り、退出する少年に礼を言いつつさっさと封を切った。取り出した手紙の文面に素早く目を走らせ、わずかに眉をひそめる。
「……隊長?」
「どうやら、アルの行方不明で“向こう”にも動きがありそうだ」
ルシエルは手紙を畳んで仕舞うと、立ち上がった。
「悪いが、図書室での情報収集の方は頼む。僕も付き合うつもりだったが……野暮用ができた」
「いえ、お気になさらず。面倒なことは早めに済ませておくに限りますし」
「まったくだな。――じゃあ、僕は先に出る」
短い一言で“野暮用”の中身を察してくれたらしい、優秀な補佐役に情報収集を任せて、ルシエルは本部を出た。
そのまま街に出て、貴族の邸宅が建ち並ぶ界隈に入る。しばらく歩いていると、ふと背後に気配が増えた。
「――お久しぶりでございます、ルシエル様」
かけられた声に、ルシエルは振り返ることもなく返した。
「この状況で呼び出しなど掛けてきたということは、アルの関係だな」
「仰る通りでございます。我が主が是非とも、ルシエル様と話し合いを持ちたいと」
「いいだろう。案内して貰おうか」
「畏まりました。では、その角を右へ」
背後の声の指示通りに、ルシエルはすぐ先の角を右折。その道の先に、見覚えのある馬車が停まっているのを、彼は見つけた。また無駄にこの一帯をしばらく走り回らされるのかと、少々うんざりしたが、《保守派》貴族の懐に潜り込めるチャンスを逃すわけにもいかない。
相変わらず薄暗く外も見えない客車にルシエルが乗り込むと、馬車はごとりと一揺れして動き出した。
――そして、十数分ほど走った後、馬車は速度を落とし始める。下り立った先は、やはりあの空き家になっている元子爵邸だった。
「やはりここか」
「何分、ゆっくりと気兼ねなく話ができる場所となると、どうしても限られまして」
とはいえ、彼らがこの屋敷しかそういった場所を持っていないとは、ルシエルも思っていないが。むしろ複数の拠点を持っていると考えた方が自然だ。今はまだ自分が“彼ら”の信用に足るという確証がないため、一ヶ所の情報しか開示されていないのだと、ルシエルは考えている。
この前のように通用門から邸内に入り、大きな円卓のある部屋に通される。元は遊戯室か何かだったのだろうと、ルシエルはぼんやり思った。貴族の館にはよくある部屋だが、“遊戯”と名が付けど、本当に純粋に遊戯に興じるための部屋ではない。カードゲームなどで親睦を図りつつ、さり気なく情報を交換するための部屋だ。ただ、こうした部屋は主に男性のためのものであり、貴婦人が足を踏み入れることは滅多にないため、下世話な情報交換――主に夜の話――に使われることもあったが。
飲み物なども振る舞われ(またワインだったので手は付けなかったが)、しばらく待っていると、部屋の扉が再び開いた。
「よく来てくれた、ルシエル殿」
声からして、この間の男だろう。やはり前回同様、ローブとフードでほぼ全身を隠した、怪しげこの上ない風体だが。
彼はルシエルの対面に座ると、おもむろに口を開く。
「……用件は、分かっておるのであろうな」
「アルが行方不明という件についてですか」
即答したルシエルに、ローブの人物は頷いた。
「左様。――《擬竜騎士》が行方不明となれば、我々も攻め手を変えねばならん。そこで、彼の無二の親友と聞く、貴殿の意見を聞きたくてな」
一呼吸置いて、彼は問う。
「――《擬竜騎士》は、再びこの国に戻って来るであろうか」
「もちろんです」
即答。
間髪入れず、というにも程があるような即時回答に、ローブの人物は一瞬黙った。
「……それは確かか?」
探るような問いかけ。
「高位元素魔法士を派閥に取り込めるかどうかは大きい。それが《下位竜》を単騎で倒した《擬竜騎士》であればなおさらだ。――だが彼は一度、祖国に背を向け我が国に膝を折った身。加えて現在は行方知れずと来ておる。国外に連れ去られた可能性が高いという情報も入っておるが、何にせよ《擬竜騎士》の力目当てであることは間違いなかろう。引き抜くために対価は惜しむまい。それらの誘いを振り切り、必ずこの国に戻って来ると言うか」
ローブの人物が並べ立てる懸念は、だがルシエルにとっては笑い出したくなるほど的外れなものだ。彼が損得で動くような人間であれば、そもそも自分たちは親友になどなり得なかったというのに。
その思いが漏れ出たのか、ルシエルの唇が知らず笑みを形作った。
「アルはファルレアンの騎士であり、僕の親友です。僕たちは互いの隣に立つために、力を求めてきた。アルは必ず、ここに戻って来ますよ。――まあその前に、僕が迎えに行きますが」
当然のように断言され、ローブの人物はいっそ鼻白んだようだった。
「ほう……若いな。そこまで他人を信じられるとは」
「今はまだ、それが許される年代だと思っていますので。それに、そちらが僕に接触してきたのは、そもそもそれを目当てにしているものと思っておりましたが?」
そう嘯いたルシエルに、ローブの人物は鼻を鳴らした。
「ふん……さすがに、その程度の察しは付くか。――良かろう、竜の鎖がなまじでは切れぬほど、強固であることが分かればな」
満足したのか、ローブの人物は立ち上がると、そのまま退室した。ルシエルはそれを、わずかに目をすがめて見送る。
(僕を本当に“取り込む価値あり”と見たか……とりあえず、あの連中をしばらく、僕に引き付けておくことはできそうだ)
一旦繋がりを持てば、多少なりとも情報は手に入る。ルシエルの場合は上司であるジェラルド公認の下での接触なので、心置きなく《保守派》側に近付けるのが有難い。そうして情報を集め、例の魔剣騒ぎで糸を引いていた相手を証明でもできれば、それが最上である。
これで“野暮用”も済んだので、ルシエルも屋敷を辞去することにした。馬車に乗り込み、元の場所へと連れて行かれる。
「――そういえば、アルの捜索で国外に出ることになった場合、しばらく戻って来れない可能性が高い。呼び出す時はそれを気に留めておいて貰いたいと、伝えておいてくれ」
「畏まりました」
案内役の男にそう言い置いて、ルシエルは馬車を降り歩き出す。
(……そういえば、そろそろ鞘も出来上がってもいい頃か。ちょっと覗いてみよう)
馴染みの武具店に少し寄り道をすることに決めて、彼は少しばかり足を早めるのだった。
◇◇◇◇◇
かつん、と水音に混じり足音が響く。
オルセルは規則的に並べられた水槽の間を、ゆっくりと歩いていた。
(……あの炎、何だったんだろう)
この地下研究施設を埋め尽くす勢いでほんの数瞬広がった、幻の炎。黄金の輝きを帯びたあの炎は、だが熱を持たず、何を焼くわけでもなく、ただ光だけをばら撒いて消えた。だが、その光は美しかった。まともに炎に巻かれたオルセルが、恐怖より先に感動を覚えたほどに。
(きれいだったな……)
見惚れている内に消えてしまったあの幻の炎は、この地下研究施設の最奥から迸ったと、オルセルは記憶している。
ふらりと吸い寄せられるように、いつもは足を向けない奥の一角に赴いたオルセルは、しかし行く手から聞こえてきた声に、思わず足音を忍ばせて息を殺した。
「――どういうつもりですの? 火竜アルマヴルカン」
(レティーシャ様――陛下? いつの間に……)
水槽に流れ落ちる水の跳ねる音をも貫くような、穏やかながら鋭い声。レティーシャのものだ。口調こそいつもと変わらないが、その声を聞いた途端、オルセルはなぜか身が竦むような冷たさを感じた。
だがそれさえも可愛いものだったと、彼は一瞬の後に思い知ることになる。
『どういうつもり、とは?』
「…………!」
オルセルは思わず、口を覆って悲鳴を堪えた。周囲の空気が一気に重さを持ち、心臓を鷲掴みにされるような恐怖が、彼に襲い掛かる。近くの壁に縋り付くようにへたり込んだ。
(何だ……あれ……っ!)
がたがたと身体が震え出すが、何とか呻き声一つ漏らすことはなかった。彼がか細く必死に呼吸を繰り返す間にも、話は続いている。
「アルヴィー・ロイが転移陣に入った瞬間、干渉しましたでしょう? 彼をどこに飛ばしましたの?」
『知らんな。まあ、少し術式を弄った程度だ、この世界から出てはいまい』
「……おかげで転移陣ごと再構築する破目になりましてよ」
レティーシャの声は、忌々しいとでも言いたげに苦いものだった。常の彼女からは信じられないような声音だ。
「このようなところに閉じ込められても我関せずのあなたが、たかだか人の子一人のために、わざわざ手出しをなさるなんて。情でも湧きまして?」
彼女の言葉に、だが、竜の返答はなかった。そのまま沈黙を決め込む竜に、レティーシャも匙を投げたらしい。
「……良いでしょう。ですがこれ以上、わたくしの邪魔はしないでいただきたいものですわね。では、御機嫌よう」
切り口上のようにそう言って、レティーシャは部屋を後にしたようだった。
靴音を響かせ、彼女は歩き去って行く。オルセルは、震える膝を叱咤しながら、何とか立ち上がった。幸い彼がいる辺りは薄暗く、レティーシャはオルセルの存在に気付いてはいないようだ。
彼女の足音が完全に聞こえなくなった頃、オルセルはようやく、詰めていた息を吐き出した。気が付けば、あれほど彼を苛んでいた締め付けるような空気も、どこかに消え去っている。
それでも、あの空気を忘れることなどとてもできなかったが。
オルセルはそっと足を踏み出した。入口へ戻る方ではなく、さらに奥へと。
そうして静かに歩みを進めてすぐ、彼は一つの扉に突き当たった。
「……これは……?」
扉の表面には魔法陣が描かれ、淡い光を放っていた。そのあまりに精緻な意匠に、オルセルは思わず見入る。試しに軽く扉を押してみたが、扉はまったく開く気配がなかった。
(やっぱりこの魔法陣、この扉を封印でもしてるのかな……でも、さっき陛下が言ってたことが本当なら、この向こうにいるのは――)
そこまで考え、先ほどの恐怖を思い出して、オルセルは身震いした。慌ててそこを離れ、元来た道を引き返す。
半ば小走りに、彼は施設の入口付近、自分のいつもの定位置にまで戻って来た。慣れた空気に、ほっと息を吐き出す。そこへ、
「――オルセル!」
「うわああああ!?」
いきなりがばりと飛び付かれ、オルセルは飛び上がらんばかりに絶叫した。その絶叫に相手もびくりと身じろぎする。
「な、何だ!? どうしたオルセル!?」
「……ゼルか……」
自分に飛び付いてきたのが小柄な友人だと気付き、オルセルは胸を撫で下ろす。ゼーヴハヤルはきょとんと首を傾げた。
「いきなり叫ぶからびっくりしたぞ」
「ああ、ごめん……」
「……何かあったのか?」
勘の良いゼーヴハヤルは、その黄金色の双眸をきらりと光らせる。オルセルはかぶりを振った。
「いや、ちょっとびっくりしただけだ。――それより、どうしたんだ?」
「あ、そうだった」
本題を思い出し、ゼーヴハヤルはぽんと手を叩く。
「何か知らないけど、俺たち呼ばれてるぞ。レティ、じゃなかった、えーと、ヘーカが、謁見の間に来るようにってだって」
「陛下に……?」
否が応でも先ほどのことを思い出し、オルセルは息を詰めたが、それでも主の呼び出しを拒否するわけにもいかない。
「……分かった、行こう」
頷いて、オルセルは先に立って歩き出した。レティーシャに呼び出されている間、地下研究施設は管理者不在になるが、そもそもオルセルがここに来てからというもの、脱走事件など一件も起きていない。ゼーヴハヤルのような事例がレアなのだから、多少空けたところで問題はないだろう。それでも一応出入口の戸締りはきちんとして、二人は地上への階段を上って行った。
だが、彼らが謁見の間に向かう途中で、ぱたぱたと軽い足音が追いかけて来た。振り返り、オルセルはわずかに目を見張る。
「……ミイカ?」
彼らに追いついて来たのは、侍女見習いとして仕事をしているはずのミイカだ。近頃はお仕着せがだんだん身に馴染み、髪も伸びてきた彼女は、足を早めて二人に並んだ。
「どうしたんだ?」
「えっと、陛下がお呼びだからすぐに参上しなさい、って、ベアトリス様が」
「ミイカも?」
「俺たちも呼ばれてるんだ」
「え?」
男性陣が口々にそう言ったので、彼女はきょとんと目を瞬かせる。
「……何でかな?」
「さあ。とりあえず、行ったら分かるんじゃないか?」
至極もっともな意見をゼーヴハヤルが呈したので、それもそうだと彼らは謁見の間に急ぐことにした。
……だがそこで彼らを待っていたのは、主の予想外の言葉だった。
「あなた方三人に、ファルレアンの王都ソーマに潜入していただきたいのですわ」
三人を呼び集め、にこりと微笑むレティーシャに、三人は当惑して顔を見合わせた。
「訊きたいことがあれば、遠慮なく質問して構いませんのよ?」
そう言われても、オルセルやミイカは気後れしてしまうのだが、さすがの強心臓なゼーヴハヤルはあっさりと、
「じゃあ訊くけど、俺たちそんなことしたことないぞ? どうやればいいんだ?」
「難しいことではありませんわ。ただソーマの街中で過ごして、《擬竜騎士》の情報が入れば、わたくしに報告して貰えればよろしいのですもの。――せっかくつい先日、彼をこの《薔薇宮》に招きましたのに、出て行ってしまって。ですが、彼は必ずファルレアンに戻るはずですわ。ですから、あなたたちにはそれを確かめていただきたいのです」
「……わ、わたしたち、そんなことできるかなあ……」
不安になってきたらしいミイカが、不敬にならない程度にそっと尋ねてくる。オルセルも負けず劣らず不安だったが、ゼーヴハヤルはふむふむと頷いた。
「ならやれそうだな」
「で、でもゼル、僕たち街でなんか暮らしたことないぞ。王都っていうくらいだから、相当大きな街だろうし……」
「心配は要りませんわ。王都であろうが村であろうが、民の暮らしぶりにそう大きな差はありません」
そこまで言われた以上、いつまでも尻込みしてなどいられなかった。そもそもオルセルたちの立場と身分では、どんな無茶振りをされようと謹んで拝命する以外の選択肢などないのだが。
ソーマ潜入の命を受け、三人は準備のために謁見の間を後にしようとする。と、レティーシャがオルセルを呼び止めた。
「オルセル」
「は、はい」
「先ほど、地下研究施設に足を運びましたが、姿が見えませんでしたわね」
オルセルは小さく息を呑んだが、何とか答えた。
「す、すみません。施設の中を見回っていたものですから……」
「あら、そうでしたの。仕事熱心ですわね。その調子で勉学の方にも励んでくださいませね」
「はい、精一杯努めます」
その答えに満足したようにレティーシャが頷いたので、オルセルはそっと息をつくと、一礼して今度こそ謁見の間を後にした。
――地下に眠るもののことを、記憶の底に押し込めて。
◇◇◇◇◇
ざくり、と足の下で砂が鳴る。
レティーシャのもとから逃げ出したはいいが、その対価のようにまったく見知らぬ場所に放り出されたアルヴィーは、とりあえず現在地の把握から始めることにした。
「そもそも、ファルレアンかどうかすら分かんねーもんなあ……どこだよここ」
ぶつくさとぼやきつつも、アルヴィーは右腕を戦闘形態に変える。まずは高所から、周辺の状況を把握しようという腹積もりだ。近くに人里があればしめたもの、なくとも大まかな地形は分かる。これからどう動くにしても、周辺の情報は必要だった。
両足に力を込め、踏み切る。
「――どわあああああ!?」
途端に凄まじい速度で空に放り上げられ、アルヴィーは自分でやっておきながら悲鳴をあげた。
「な、何だこれ、今までより飛んでんぞ!?」
『ふむ、なるほど。新たにわたしの血肉を植え付けられたことで、翼の力も上がったか』
「早く言えよそんなことはぁぁ!?」
アルマヴルカンに突っ込みながら、今までより段違いの高度まで舞い上がったアルヴィーは、その時視界に飛び込んできた景色に息を呑む。
「……うわ……!」
遥かな眼下、地を覆う深い緑と灰色の砂、そこに打ち寄せる波と鈍青の海。
そして少しの間隔を置いてそれを囲むように、深い霧が四方に広がっていた。
「島……なのか、ここ」
アルヴィーは半ば呆然と、眼下の光景を見下ろした。何しろ生まれてこの方ずっと内陸育ち、海を見るのさえ今回が初めてなのだ。当然“島”なるものに足を踏み入れたことなど、これまでの人生で一度もない。
「何か、海に浮かんでるみたいだな……沈まないのか」
『別に本当に浮かんでいるわけではないからな。海の底で陸地に繋がっている。嵐になったとて、波に煽られて引っくり返ったりはせんぞ?』
「そ、そっか、そりゃそうか……」
ほっとして、アルヴィーはこくこくと頷いた。
それにしても、と彼は自身の足下を見やる。地面は遠く眼下にあり、正直少し下りる角度を間違えれば、そのまま海に突っ込みそうだ。魔法障壁の足場を習得しておいて本当に良かったと、アルヴィーは心から安堵を覚えた。この高度から直滑降など冗談ではない。現在の高度は、これまでの限界高度の軽く数倍はあるのだ。
「……高いな……」
思わずそう呟くと、アルマヴルカンがしれっと、
『翼の力が増したのだから、当然そうなる。我々竜も、それで飛んでいるのだからな』
「理屈は分かるけどさ……まあ、そろそろ下りるか」
魔法障壁の足場を作ってそれを経由しながら、つつがなく地面に下り立った時には、思わず大きく息をついた。だが安堵もそこそこに、とりあえず先ほど見たものを確認する。
「えーと、大体こんな形してたよな、この島。――けど、見たとこ人家っぽいものはなかったよな……」
適当に拾った木の枝で砂に大まかな地図――細かい地形まですべては覚えていられないので仕方ない――を描き、アルヴィーはげんなりした気分で顔をしかめた。上空から見た限りここは人家はおろか、開けた土地すらほぼ無しという、未開にも程があるような島だ。無人島にしても人が立ち寄るような島ならば、何らかの痕跡があっても良さそうなものなので、それが一切見当たらないということは、つまり人跡未踏の孤島ということだろう。
「…………」
がくりと項垂れたが、“人が訪れた形跡がない”というのも立派な情報ではある。アルヴィーは気を取り直し、拠点となり得る場所を探すことにした。この際贅沢は言わないが、せめて雨風くらいは凌げる拠点が欲しい。
(すぐにここを出られるかも、まだ分かんねーしな)
とはいえ、上空からは森しか見えなかったので、拠点探しは地道に足を使うしかないのだが。早くもうんざりしながら、アルヴィーは歩き始めた。
(……こうなると、魔法式収納庫取り戻せたのはでかかったな……とりあえず、毛布なんかはイムルーダ山の時に使ったのがあるし)
騎士団に所属している以上、任務の突発や延長など珍しくもない。そういった場合に備えた物資を魔法式収納庫に常備するのは、ファルレアンの騎士の常識のようなものだった。アルヴィーも、一通りの装備は持ち合わせている。携帯食料などはもって数日分というところだが、そこは元猟師。この島にも鳥や獣くらいはいるだろうし、前職の本領発揮といきたいところである。
《竜爪》でバサバサと低木や下草を薙ぎ払いながら、アルヴィーはひとまず、島の中央部に向かった。この島は中央部が最も標高が高く、周囲に行くにつれなだらかな斜面となっているようだ。もし洞窟のような場所があれば拠点には最適だが、そうなると山の方がまだ可能性がありそうだった。
道なき道を切り拓いて進みながら、自らの裡に棲む竜に問う。
「なあ。――さっきの記憶、あれ、おまえのか?」
今はもうおぼろげな、長い生と倦怠の記憶。孤独に空を舞っていた竜が、若き同族に出会ったことでそれを脱し、だがその同族を失ってしまったことで、再び孤独に還った過去。
アルヴィーの問いに、アルマヴルカンはしばし沈黙したが、
『……さてな。昔のことだ』
「今まであんなの、見たことなかったけど……やっぱ、あの施術のせいか?」
今や、常に熾火のような光を湛える状態となった《竜爪》を、アルヴィーは見つめる。明らかに強くなった、彼の中の炎。それは同時に、アルヴィーとアルマヴルカンの繋がりがさらに深まった証ではないのか。
半ば確信に近いものを持っての問いに、やがて短く応えがあった。
『……わたしの血肉をさらに取り込んだことで、わたしと主殿との結び付きが強まったことは事実だろう。記憶の同調も、おそらくそれに伴うものだ。もっとも、主殿が“見た”記憶など、わたしの記憶のごく一部に過ぎんが。――しかし中には、人の脳では処理しきれんような記憶もある。深く詮索するのは勧めん』
「詮索も何も、不可抗力で見えちまうんだけど!」
さらりと怖いことを言われて、アルヴィーは顔を引きつらせた。
「どうにかなんないのかよ、それ」
『元々、主殿とわたしは相性が良いのだろうからな。その分記憶の同調も起きやすい。その点はわたしでも如何ともし難い』
そもそもアルヴィーとアルマヴルカンの相性が良かったからこそ、あの壮絶な経験を乗り越えてこうして生きていられるのだ。そうでなければ、レクレウスのあの地下施設で、他の訓練生と同じく無残な死を迎えていたのだろう。そう思うと、アルヴィーも口を噤むしかなかった。
しばし無言で藪を斬り払って道を作る作業に勤しんでいると、アルマヴルカンが不意に呟いた。
『……“あれ”と主殿は、似ている』
「“あれ”って」
『巣立ちたての火竜だったな。何度追い払っても懲りずに噛み付いてくる、躾のなっていない犬のような若造だったが』
「……おい」
身も蓋もない形容に、アルヴィーも思わず半眼になる。自分に似ているなどと言われた相手への言葉だけに、微妙な気分になるのは致し方あるまい。
だが、彼がそれに対して何かを言う前に、アルマヴルカンは続ける。
『……それでも、あれがいなくなってからだ。それまで以上に、この身の終わりを望むようになったのは』
ぽつりと落とされたその呟きに、アルヴィーは足を止めた。
「……それ」
『敵いもしないのに何かと突っ掛かってくる、無遠慮な若造だった。一息に焼き尽くしてやっても良かったのだがな。なぜかそうする気にもならなかった……もっとも、わたしがあしらっている間に、あれは人に殺されたが』
思いがけない言葉に息を呑んだが、その時アルヴィーの脳裏を掠めた記憶がある。
施術を受けた際、ほんの数瞬だけ垣間見た、あの記憶は。
「……ひょっとしてそれで、レクレウスを襲ったのか?」
問えば、“否”の答えが返ってきた。
『わたしはもう、生に飽いていた。それだけのこと』
「何でだよ」
『長くとも百年足らずの命である、主殿には分かるまいがな。千を超える年を数え、見知った者が欠け落ちるようにこの世を去り、変わらぬ時だけが降り積もっていく……そんな生ほど、空しさを感じさせるものもないのだ』
「……同族を殺した人間が、憎かったんじゃないのか?」
『そのようなものさえ湧かぬほど、わたしは何もかもに飽いていた。ただ、人が竜を殺せるほどの力を付けたならば、わたしのつまらぬ生も終わらせられるやもしれん――そう思っただけのことだ。そして人間どもは見事に、わたしを斃してみせた。ただ、何の因果か、こういうことになったわけだが』
アルヴィーの裡で、アルマヴルカンは小さく笑いを漏らす。
人の身に過ぎないアルヴィーには、気が遠くなるような長い時を生きることなど想像もつかないし、憎しみさえ湧かないほどに感情がすり減る空しさも理解できない。
だが逆に、人の身であるからこそ、分かることもあった。
「……そういうのはさ」
再び一歩踏み出し、瑞々しい木々を薙ぎ払いながら、アルヴィーは言葉を継ぐ。この身に宿り、今やその記憶すら垣間見える存在であろうとも、すべてを共有できるわけではない。言葉にしなければ、伝わらないこともあるのだから。
「誰かがいなくなって、生きるのが空しいとかつまんねーとか、そんな風に思うのはさ。――そういうのは多分、寂しいとか、悲しいっていうんだ」
父が魔物と相討ちになって命を落とした、まだ幼かったある日。かつてルシエルの手を離したあの日。村が魔物に蹂躙され、目の前で母や見知った村人たちを失った悪夢の日。そして自らの手で僚友たちの命を削ったレドナでの一戦。
大切な誰かを失うたびに、悲しみや喪失感がアルヴィーを打ちのめした。昨日まで当たり前に顔を合わせていた相手に、もう会えない。その事実は強く苦しく、胸を締め付ける。
それでも――。
「……それでもさ。その人に会わない方が良かったとか、大事に思わない方が良かったとか、俺は思わないよ」
去って行った大切なひとたちは、だがきっと自分の中に何かを残していくのだ。それを抱えて、アルヴィーはこれからも生きていく。そしていつか、アルヴィー自身も誰かに有形無形の“何か”を残していくのだろう。それは人のみならず、知性を持つ生き物ならば等しく紡いでいく営みではないかと、アルヴィーはふとそう思った。
自分の拙い言葉で、それがアルマヴルカンに伝わるかどうかは分からない。それでも、その生が空しさだけで埋め尽くされたものではなかったことを、忘れて欲しくはなかったのだ。
アルマヴルカンは、アルヴィーの言葉を吟味するようにしばらく黙っていたが、やがて小さく唸った。それが“笑い”であると分かるのは、この身の裡にそれなりの期間、竜の魂を抱えていたからだろうか。
『……やはり主殿は面白い』
「何だよ、それ」
それなりに真面目に語ったつもりだったのに、“面白い”の一言で済まされて、アルヴィーは憮然と返した。ばさばさと、藪を刈っていく手にも知らず力が入る。
と――笑いを含んでいたアルマヴルカンの声が、不意に硬さを帯びた。
『待て、主殿。――かすかだが、妙な気配を感じる』
アルヴィーは思わず足を止め、全身を緊張させた。
「妙な気配……? 何かいるのか?」
『まだ詳しくは分からんが……方角は分かる。このまま真っ直ぐだ』
「分かった」
アルヴィーはこれまでとは打って変わって慎重に、歩を進め始める。何しろ今は孤立無援なのだ。その気配とやらの正体が分からない以上、無思慮に動くわけにはいかない。
そうして歩いていると、いつの間にか足元が傾きつつあることに気付いた。中央部の山に辿り着いたのだ。
『ふむ……』
例の気配とやらを探っていたらしいアルマヴルカンが、小さく呟く。
『この辺りだな。――主殿』
「何か分かったのか?」
『この山の“中”に、何かあるようだ。だが、入口を探していては日が暮れる。適当にその辺を吹き飛ばせ』
「はあ!?」
相変わらず大雑把な指示に、アルヴィーは素っ頓狂な声をあげたが、山(あるいは森)の中で何の準備もなく日没を迎えることの危険性は、猟師であった頃に骨身に叩き込まれている。仕方がないと、《竜爪》を前方に向けた。
「――《竜の咆哮》!」
詠唱と共に、《竜爪》の切っ先から生まれた眩い光芒が、一直線に山肌を貫く。そして一瞬の後、山肌がわずかに膨張したかと思うと、爆音を響かせながら弾け飛んだ。
「どわあああ!?」
赤熱した石飛礫が吹っ飛んできて、アルヴィーは慌てて《竜の障壁》を展開する。次いでもうもうたる土煙が巻き起こり、咳込んだ彼は反射的に上空へと飛び上がっていた。やがて土煙が薄れ、俯瞰した現場の惨状に、アルヴィーは顔を引きつらせた。
「うわあ……」
山肌は大きく抉られ、黒々とした穴が生まれている。直径数メイルはあろうかという大穴を、地上に下り立ったアルヴィーはそっと覗き込んだ。
「……今さらだけど、ここ、どっかの貴族の持ち島なんてことねーだろうな……」
『そうだとしても、見たところ数十年は誰も訪れていないようだ。問題はあるまい』
「いやあるよ!? 人間の世界じゃ大有りだよ!」
余所の貴族の持ち島で山に大穴を開けたなど、洒落にならないにも程がある。まあ、この大陸はすこぶる広いそうなので、どの国も見つけていない島があってもおかしくはないだろうが。この島がそういったものの一部であることを願いながら、アルヴィーはランタン代わりに右手に炎を生み出し、穴の中に足を踏み入れた。
《竜の咆哮》で水平方向にぶち抜かれた山肌は、超高温により穴の内壁が融けたようになっていたが、中から冷涼な空気が吹き出してくるせいで、早くも固まり始めていた。その威力に引きつりながらも、アルヴィーは先へと進んで行く。
「――っと!」
十数メイルほど進んだところで、いきなり眼前の地面が途切れ、アルヴィーは慌てて立ち止まった。
「……広いな」
その先は広大な空間だった。炎が投げる明かりでも、そのごく一部しか照らし出すことができない。どうやら《竜の咆哮》で開けた大穴は、その広大な空間の中ほどに繋がったようだ。
とにかく、明かりがなくては何も分からない。アルヴィーは右手を掲げ、生み出した炎をさらに強めた。
そして――アルヴィーは見たのだ。
「――これって……!」
遥か下方、巨大な空洞の底に満ちるのは暗い水面。
その中に静かに沈む巨大な全身骨格――それは間違いなく、竜のそれだった。




