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片翼のドラグーン  作者: 八月 あやの
第八章 よみがえる亡国
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第64話 火竜の記憶

 ――遠い悲鳴と、爆音が聞こえる。


 初めに知覚したのは、空だった。どこまでも澄み渡る、蒼い空。だがそこをけることに心躍らなくなったのは、いつからだっただろうか。

 下方へと目を転じれば、人の街が見えた。

 街中からこちらへと放たれる、数多の魔法や火線。それらをかわし、あるいはその体躯の強靭きょうじんさにものを言わせて正面から受け止めながら、“彼”はそのあぎとを開く。ほとばしったブレスが、建物も道も関係なく一直線に撫で斬りにし、一瞬の後爆炎を巻き起こした。

 恐怖と悲嘆にまみれた叫び、憤怒ふんぬの声。なぜだ、と誰かが叫ぶ。なぜこんな目に遭わなければならない、と。

 聴覚を掠める風の音より無意味なその声を、“彼”はすぐに忘れた。


 荒れ狂う嵐になぜ、と問うても意味などないように。

 人の子の嘆きの声など、この衝動には一滴の水すら差せはしない。

 千年を超える時の重みに耐えかね、ただ空をたゆたうことに飽き、この長過ぎる生の終わりを狂おしいほどに求める、その心には。


 ――あらがえ、戦え、そしてこの生を断ち切ってみせろ。

 それを成したならば、この身すべてを対価にくれてやる――!


「――――!」


 瞬間、鋭い痛みが意識を貫き、アルヴィーは覚醒した。


「っ、が、ぁっ……!」

 開けた視界は、だがぐらぐらと揺れて定まらない。水音が耳を乱打し、鼻を突くのは良く知る血の鉄臭さ。燃えるように熱く、そして何かに食い千切られでもしたかと思うほどの痛みが宿る右腕も、それ以外の身体のどこもかしこも、縫い止められてでもいるように動かせなかった。

(……何だ、これ……!)

 ひゅう、と喉が鳴る。事態が掴めない困惑、何より自分に“良くないこと”が起こっているという恐怖。それらが喉を締め付け、呼吸の邪魔をするのだ。


「――あらあら、目を覚ましてしまいましたのね。もう少しで済みましたのに」


 聞き覚えのある声と共に、たおやかな手が頬に触れた。冷たい――いな、自分の体温の方が熱いのだろうか。

 しかしその心地良い冷たさも、右腕から生まれ全身を駆け巡る熱に、すぐに掻き消された。

「ぐ、っ、あ゛ああぁぁぁっ」

 咆哮のごとき苦鳴くめいが、喉から迸る。右腕から何かに噛み砕かれているような、そしてそこからの熱で全身を内側から焼かれているような――そんな壮絶な苦痛と灼熱が身をさいなみ、覚醒した意識が再びぼやけていく。

 その感覚には、覚えがあった。


(……《擬竜兵ドラグーン》になった時の……最初の施術と、同じ……!)


 必死に目を開け、右腕を見る。剥き出しにされた右腕には、えぐられたような傷があった。そこに根を張るかのごとく癒着した、赤黒い物体。その正体に思い当たって戦慄した時、右腕がアルヴィーの意思によらず変形を始める。深紅の鱗が肌を覆い、右肩の魔力集積器官マナ・コレクタはねを広げた。そして右腕の傷口も塞がっていくが、アルヴィーの肉体は癒着した異物を拒絶することなく、体内に取り込みながらその侵食を許す。

 否、それはすでに異物ではないのだ。

 火竜の血肉は、かつてアルヴィーの身体の一部として、その身に取り込まれているのだから。

 心臓がどくどくと脈打ち、それに呼応して右腕もうずく。ずくずくと、まるでもう一つ心臓ができて暴れているような感覚に、アルヴィーはうめいた。熱い。この身を巡る全身の血が、すべて炎になってしまったのかと思うほどに。


「あなたの場合は、メリエのように魂の欠片を抜く処置はしていませんけれど……それでも、耐えられますでしょう? あなたなら」


 くすくすと涼やかに笑う女の声が、耳をすり抜けていく。熱に潤む視界に、群青の瞳が飛び込んできた。青白い光に照らされ、どこもかしこも冷ややかな色を纏いながら、どこか母親を思わせる慈愛を瞳に乗せて、アルヴィーを見つめる女。

 だがそれも一瞬で、すぐにまぶたが落ちていく。


『――来るぞ、主殿』


 不意に聞こえたアルマヴルカンの声に、アルヴィーの意識が再びはっきりと形を成した。

(……これは?)

 眼下には炎が渦巻いている。そして、アルヴィー自身の右腕にも。

『主殿がわたしを従えた時と同じだ。心象世界、とでもいうべきか。あの時は主殿の心の傷を突いたが、これはどちらかというと“わたし寄り”だな』

(どういうことだ、それ)

『なに、竜同士の喰い合いということさ。――このようにな』

 アルマヴルカンの声とほぼ同じくして、炎の一部が突如アルヴィーに襲い掛かる。それは、大きく顎を開いた竜の頭部をかたどっていた。とっさにかざした右腕から放たれた光は、馴染み深い《竜の咆哮( ドラグ・ブレス)》。光芒が炎の竜を貫き、炎は形を崩して大きく揺らめいたが、消えることはなく火柱となって周囲をく。

『あれも“わたし”だ。数多あまたに分かたれた魂の欠片。屈服させ取り込めば、主殿はさらなる力を得られるだろう。その代わり、人からはまた数歩、離れることになるがな』

 息を呑むアルヴィーに、アルマヴルカンはあっさりと続ける。

『だが、敗れれば主殿とわたしの魂は諸共、あれに喰われることになる。どちらでも、好きな方を選ぶが良いさ』

(……そんなの、決まってる)

 アルヴィーは右腕に力を込める。《竜の咆哮(ドラグ・ブレス)》が使えるなら――その考えを肯定するように、右腕から伸びる《竜爪( ドラグ・クロー)》。その剣身のうちに生まれた熾火おきびは、見る間に炎となって剣身から迸り、まばゆい朱金の輝きを帯びて身の丈を遥かに超える光の刃と化した。

 それをアルヴィーごと喰らおうとするがごとく、再び炎の中から姿を現す竜。自分を目掛けて喰らい掛かってくるそれを、アルヴィーは真正面から見据え、炎の剣を掲げた。


 ――選ぶ道など、決まっている。


「人から外れようがどうなろうが――こんなとこで死ねねえだろうがぁぁっ!!」


 一閃。

 真っ直ぐに振り下ろされた炎の剣は、竜の頭頂から顎までを一息に斬り下ろし、逆巻く炎と化したそれを獰猛どうもうに喰らい始めた。


「――きゃあっ!?」

 突如巻き上がった炎に、施術の様子を見ていたメリエが思わず声をあげる。炎には高い耐性を持つ彼女をして、一瞬怯えさせるほどの火勢だったのだ。数歩後ずさって炎に巻かれることをまぬがれたレティーシャは、満足げににこりと笑った。

「やはり、耐え切りましたわね」

 彼女が見つめる先、アルヴィーの右腕から噴き出した炎が周囲を焼き、ひとしきり荒れ狂うと収束していく。火の粉のような朱金の光をほろほろと零し、やがて炎が吸い込まれきっても、右肩に負う翅はその中心に柔らかい朱金の光を帯びたままだった。

 レティーシャは汗に濡れたアルヴィーの額に手を伸ばす。と、彼の双眸が開かれた。現れた瞳は、黄金。

『……どういうつもりだ』

 自分を睥睨へいげいする火竜に、メリエは息を呑んだが、レティーシャはおくすることもなく微笑んだ。

「あなたには初めてお目に掛かりますわね、“火竜アルマヴルカン”」

『まどろっこしい挨拶など不要だ。どの道、おまえたちと馴れ合うつもりなどない。取り込むために主殿にわたしの血肉を植え付けたのなら、無駄だったな』

「さあ……そうとも限りませんわ」

 ふふ、と小さく笑って、レティーシャは身をひるがえす。

「人と部屋を用意致します。あなたはともかく、アルヴィーには今しばらく休息が必要でしてよ。――あなたも、彼の身体が今どういう状態かはお分かりでしょう? すぐに動くような浅慮はお勧め致しませんわ」

 その言葉に、アルマヴルカンは不快げに眉を寄せたが、やがて仕方がないと言わんばかりに目を閉じた。それに呼応するように、右腕が通常の状態に戻っていく。

 寝台に沈み込むようにして深い眠りに落ちたアルヴィーを、レティーシャは満足げに見やると、その手足を戒めたバンドを解き始める。もっともそれは、先ほどの炎にさらされてほとんど千切れかけていたが。アルヴィーのために用意した、右肩の翼がつかえない造りの寝台も、もはや使い物にならない。ここが石造りの地下研究施設でなければ、周囲のダメージはもっと大きかっただろう。

 彼の身を拘束から解放すると、レティーシャは小さな銀の鈴を取り出し、軽く振る。りぃん、と澄んだ音が響き渡り、ややあって数人の従僕が姿を現した。

「彼を着替えさせて部屋へ。――メリエ、後をお願い致しますわ。わたくしは少し外します」

「え? どこ行くの?」

 メリエの疑問には答えずに、レティーシャはさらに奥へと足を進める。地下研究施設の最奥、魔法陣が刻まれた扉を潜ると、中央の台座に鎮座した巨大な玉石と、彼女は対峙たいじした。その裡に未だちらちらと光を瞬かせる、火竜アルマヴルカンの魂の大部分を抱える《竜玉》。

 レティーシャが姿を見せると、《竜玉》の中の光がわずかに強まったように思えた。

「――あなたの欠片に、何か思うところはおありかしら? 火竜アルマヴルカン」

 レティーシャの声に、《竜玉》は答えない。ただ、低く唸り声が――否。

(……笑っている……?)

 彼女が眉をひそめると、《竜玉》から声が響いた。

『――久しぶりに、昔を思い出した。“わたし”が気に入るわけだ』

「どういうことですの? それは――」

 レティーシャの疑問に、だが《竜玉》はもう答えを返さず、ただ沈黙を守るのみだった。


 アルヴィー・ロイはただ、運良く竜の魂の欠片に打ち勝ち、強大な力を手に入れた少年。

 ――そのはずだ。


(……それとも、何か理由があるというの……?)


 この手の中にいると思っていた存在が、急に得体の知れない不確定要素に変わったような違和感を感じ、レティーシャは鋭い目で深紅の玉石を見つめる。だが竜の魂はもちろん何も語ることなく、ただそこにるのみだった。



 ◇◇◇◇◇



 《擬竜騎士ドラグーン》が行方不明――その事実は、王国上層部を震撼しんかんさせた。

「そ、それはまことか!?」

 第一報を聞いた宰相のヒューバート・ヴァン・ディルアーグが顔色をなくす。その凶報をもたらした騎士団長ジャイルズ・ヴァン・ラウデールも、その表情は優れないものだった。

「は……面目次第もございません。現在も捜索させておりますが、未だ行方は掴めず……」

「馬鹿な……!」

 絶句するヒューバートを余所に、居並ぶ貴族たちの中には、女王アレクサンドラに期待の目を向ける者もいる。だがアレクサンドラは、そっとかぶりを振った。

「……事件当時、風の精霊たちはこの王都に立ち入れなかったそうよ。――おそらく、精霊避けの術か魔動機器が使われたわ」

「そんな……それでは、手掛かりがまるでないということでは……」

 暗澹あんたんたる空気が広がる中、アレクサンドラは手にした長杖スタッフを強く握り締めた。


「――それで、捜索の状況は?」


 アルヴィーが行方不明という報に揺れているのは、騎士団も同様だ。むしろ直接の所属先であり、彼の実力をより正確に知るからこそ、動揺の度合いは閣僚たちよりも大きいといえる。

 直接の上司というべきジェラルドが指揮を執り、王城はおろか王都全体にまで捜索範囲を広げて捜索したが、現在に至るまでアルヴィーの行方は掴めていない。

 情報を取りまとめるパトリシアに尋ねるも、彼女の答えもかんばしいものではなかった。

「依然として発見の連絡はありません」

「そうか……そういえば、王城外縁の近くで見つかった下働きの子供、あいつはどうだ? 少しはマシな状態になったか」

「いえ、残念ながら。研究所のキルドナ研究員の所見では、相当強力な作用を及ぼす薬物を飲まされた可能性が高いとのことです。薬学部の方で少年の症状から薬物のレシピを推測して、症状を緩和できる薬を作ろうと、現在模索中ということですが」

「そうか……にしても、えげつないことしやがるぜ」

 ジェラルドは表情を歪めて吐き捨てた。発見された時、少年は笑いとも呻きともつかない声を絶え間なく漏らし、虚ろな目をさまよわせるだけの存在と成り果てていたのだ。直ちに施療院に搬送されたものの、パトリシアの報告を聞く限りでは、状態は改善していないのだろう。

「記憶を消したいんなら、他にもやりようはあったろうに」

「やはり彼が、何かを見たと?」

「そうでもなきゃ、あそこまで念入りに“壊す”理由はないだろう。――それとも、“見た”だけじゃなく、“手伝った”のか」

「あの少年が、手引きしていたと?」

「自分の意思かどうかは知らんがな。暗示でも何でも、従わせる方法はいくらでもあるだろう。その上で口を封じられたんだとしたら、あんな状態にされたのも分かる。奴らの当初の目的としては、アルヴィーが自分から裏切って向こうに行ったように見せかけたかったんだろうしな」

 もっともその目論見もくろみは、アルヴィーの偽者とルシエルがかち合ってしまった時点で、粉微塵に砕け散ってしまったのだろうが。速攻で見抜いて鎌を掛け論破の挙句に、眉一つ動かさずに斬り付けたというから恐れ入る。

「そう考えると、クローネルが現場に居合わせたのは幸いか。そうでなきゃ、もっとややこしいことになったかもしれん」

 一番厄介なのは、噂だ。“《擬竜騎士アルヴィー》が裏切った”という噂が一旦立ってしまえば、それを収束させるのは至難の業である。何しろ噂というのは、一度火が点けば際限なく広がっていくし、抑えようとすれば余計に真実味を増してしまう厄介な特性があるのだ。ゆえに、今回の一件が噂になる暇もなく早々に沈静化したのは、不幸中の幸いといえただろう。何といってもルシエルが、火種にすらならない内に踏み潰す勢いで消火してしまったので。

 ちなみにそのルシエルは、現在部下を率いて捜索のため王都を駆けずり回っている最中である。無二の親友が行方不明とあって、それはもう鬼気迫るというのがぴったりの表情で飛び出して行った。

 だが――と、ジェラルドは目をすがめる。

「……やはり、人手が足りないな。ファレス砦に出した連中が、まだ戻って来てないのが痛い」

 ファレス砦へと向かわせた応援部隊は、レクレウスに対する牽制けんせいの意味もあって、わざと帰還を遅らせていたのだが、これが裏目に出た。通常の業務をこなしつつオークションの警備にも人員をき、さらにアルヴィーの捜索まで行うには、現在王都に残った人員では明らかに厳しい。国主催のオークションが日程をほぼ消化し、他国からの参加者が順次帰国し始めているのが、せめてもの救いだろうか。

 そんなことを考えていると、執務室の扉をノックし入室許可を乞う声が聞こえた。

「ああ、入れ」

「失礼致します!」

 扉が開き、魔法騎士が一人入室して来る。真新しい二級魔法騎士の制服に身を包んだ彼は、ジェラルドの執務机の前に立つと背筋を伸ばして敬礼した。


「第二一七魔法騎士小隊長、ウィリアム・ヴァン・ランドグレン。市街地捜索のご報告に参りました!」


 二級魔法騎士に昇級したウィリアムは、小隊長が退任することとなった小隊を引き継ぎ、この度めでたく自身の隊を持ったのである。

 騎士団に籍を置く貴族の子息の中には、次男三男といった家を継がない者ばかりでなく、将来領主となるべき嫡男も、人脈作りや社会勉強を目当てにそれなりの数が存在する。彼らが領主となるべく騎士団を去った後、残った隊を別の二級騎士が引き継ぐというのは、さほど珍しいことではなかった。

 ちなみにルシエルなども同じく引き継ぎ組だが、彼の場合は前任者の退団とルシエルの昇級の間が少し空いたため、小隊は一時解散し欠番扱いとなっていた。そのため、再編成された現在の第一二一魔法騎士小隊は、人員がほとんど入れ替わっている。以前からいたのはディラークとカイルの二人だけだ。

 そんなことを思い出しながら、ジェラルドは報告を促した。

「何か見つかったか」

「はっ」

 ウィリアムは情報を纏めた報告書をジェラルドに提出し、自らも説明を始める。

「受け持ちの地区を捜索しておりましたところ、路地で倒れている魔法騎士を一名発見・保護致しました。負傷しておりましたが、程度は軽傷です。所属を確認致しましたところ、第二四五魔法騎士小隊所属のトマス・モリガン三級魔法騎士であると判明。ですが、城門の警備方に確認を取りました結果、モリガン三級魔法騎士はすでに帰還しているというむねの回答がありました」

「ほう?」

 ジェラルドの目が鋭く光る。

「ということは、どっちかが偽者ってことか」

「はっ。直ちに《伝令メッセンジャー》を飛ばして確認致しましたところ、我々が保護した方が本物のモリガン三級魔法騎士であると判明致しました。よって、先に帰還した方は何者かの変装と考えるのが妥当かと思われます」

「よし、良くやった」

 ジェラルドはウィリアムをねぎらい、報告書にざっと目を通す。そこには本人から聴取した、当時の状況も纏められていた。それによると、トマス・モリガン三級魔法騎士は、新入りと思しき魔法騎士が悲鳴らしきものを聞いたと路地に駆け込んだのを追ったらしい。だが悲鳴の主は見つからず、通りに戻ろうとしていたところを背後から襲われた――という内容だった。

「ふむ……どう考えてもその“新入りらしき魔法騎士”ってのが怪しいな」

「はい。騎士学校出身にしては時期外れですので調べましたが、最近中途で魔法騎士として登用された者はおりません。――ただ、モリガン三級魔法騎士にその不審人物の特徴を尋ねましたところ、“よく覚えていない”と」

「どういうことだ? そいつの存在自体は覚えてるんだろう?」

「はい。ですが、容貌などの具体的な特徴を思い出そうとしても、なぜか思い出せないと」

「……記憶をいじられたか?」

 報告書を片手にそう呟き、ジェラルドは顔を上げた。

「ともあれ、手掛かりなのは間違いないな。よく見つけて来た。このままモリガン三級魔法騎士への聴取を続けろ。記憶を弄られたとしても、聴取を続けることで何か思い出すかもしれん」

「はっ! では早速、任務に戻ります」

 再びぴしりと敬礼したウィリアムは、そこでおずおずとジェラルドに尋ねた。

「ところで……失礼ながら、《擬竜騎士ドラグーン》の行方について、他に手掛かりなどは……」

「いや、まだだ。――何だ、気になるか?」

「そ、それはっ! 仮にも我が国の安全保障に関わる問題ですので! それに、その……一応、曲がりなりにも、この剣についての義理もありますし、」

 ウィリアムは腰の剣に手をやってあたふたとまくし立て、「それでは、失礼致します!」と逃げるように執務室を後にした。魔剣の帯剣許可を得てウィリアムが手にした剣は、アルヴィーから譲られた《下位竜( ドレイク)》の素材が使われている。貴族といえども、そう簡単にはあつらえられないレベルの剣だった。何だかんだ言っても、それについて思うところはあるらしい。

 部下を微笑ましく見送りつつも、扉が閉まる頃にはその表情は鋭いものとなっていた。

「他人に化ける……か。前にも似たようなことをしでかした連中がいたじゃないか、なあ?」

「――レドナの、あの連中!」

 パトリシアもはっとする。まだアルヴィーがレクレウスの士官だった頃、彼を奪還するためレドナに潜入して来た、レクレウスの特殊工作部隊。彼らは顔形を他人そっくりに真似られるマスク型のマジックアイテムを使い、ファルレアンの騎士とすり替わって潜入していた。

「あの時使われたマスクも、レクレウスの魔導研究所が開発したマジックアイテムだって話だったろう。だったら、そこに在籍してたっていうレティーシャ・スーラ・クレメンタインが、その技術を持ち出してたっておかしくないな」

「それを使い、モリガン三級魔法騎士に化けて城内に入った……とすると、こちらの転移対策が、向こうにも漏れていたと考えるべきでしょうか」

「連中、大胆なことをしでかす割に気も回る。転移を常用してる自覚もあるんだろうし、こっちの対策を予期してたのかもしれんがな。まともな頭があれば、こっちが転移への対策を打つことくらい想像は付くだろう」

 ジェラルドはウィリアムの報告書をパトリシアに渡し、席を立った。

「もっとも、転移が使えないのは王城内だけで、外に出ればし放題だ。これだけ捜索しても成果なしってことは、もう王都周辺にはいないと見るべきだな。――となると、可能性が高いのは《虚無領域》だ。騎士団長閣下に捜索部隊の編成を進言する」

「捜索部隊……《虚無領域》に、ですか」

 パトリシアが息を呑む。今や無法地帯どころか人外魔境となって久しい《虚無領域》、そこに部隊を出すというのだ。相応の規模になるのは予想できた。だが、おそらくジェラルドの意見は通るだろうと、パトリシアは頭の片隅で思う。何しろ捜索対象のアルヴィーは、高位元素魔法士ハイエレメンタラーであると同時に、火竜による五百年の血筋への加護を約束された人間なのだ。国としても、捨て置くわけにはいかない価値が、その身にはある。

 小さく肩を竦めたジェラルドが、冗談めかして呟いた。


「……まあ、それまであいつがおとなしく、捕らわれの姫君なんてやってるタマか――って話だがな」



 ◇◇◇◇◇



 目を覚ますと、そこは見知らぬ部屋だった。

(……ここ、どこだ……?)

 天井や壁は石造りで、室内の調度は少ないながらも質の良いものが揃えられているようだ。柔らかな寝具の上で起き上がり、アルヴィーは警戒と共に周囲を見回す。だんだんと、記憶が蘇ってきた。

(……そうだ。俺、またあの施術をされたんだっけ……)

 いつの間にか着替えさせられていた服の袖をめくり、右腕をさらけ出すと、心なしか色の深みを増したように思える深紅の肌。見た目はさほど変わっていないように見えたが、そこから感じる力はこれまでとは段違いに強まっているように思えた。


 ――まだ、辛うじて人間。けど、これ以上竜の力が強くなったら分かんないから、気を付けて。


「……なあ、アルマヴルカン」

 自身に宿る竜に呼び掛ければ、『どうした』と声が返る。心を落ち着けるべく、アルヴィーは一つ大きく息をついた。喉に絡みそうになる声を、ようやく押し出す。


「――俺、まだ人間か?」


 新たに竜の血肉を植え込まれ、さらなる力を手に入れた自分。だがそれは果たして、まだ“人間ひと”と呼べるものだろうか。

「人からはまたちょっと離れるって、あの時言ったよな、アルマヴルカン。それって……俺がもう、人間じゃなくなったってことか?」

『それがどうかしたのか、主殿』

 アルマヴルカンの声は、アルヴィーが何者であろうと大した問題ではないと言わんばかりに、ひどく落ち着いていた。

『死なないために人から多少離れるか、それともそれを良しとせずに死ぬか。その二択で、主殿は前者を選んだだけの話。それとも、今頃になって後悔したか?』

「それは……ないけど」

 たとえ人から離れた存在ものになろうとも、アルヴィーはここで死ぬわけにはいかなかった。

 守りたいもの、共に在りたい人たちがいるのだから。

「けどさ……やっぱり心の準備がしたいんだ、そういうの」

 二十年にも満たない年月ながら、今まで人として生きてきた。それを外れることは、いくら自身の決めたことだとしても、落ち着けばやはり不安や恐怖が付き纏う。“違うもの”に成り果てたかもしれないこの身を持て余すようで、アルヴィーは右手を固く握り締める。

 と、アルマヴルカンが小さく唸る――と思いきやそれは、笑い声のようだった。

『どの道、わたしにとっては大して変わらん。《上位竜ドラゴン》に比べれば、主殿も人もな』

「そりゃそうかもしんねーけどさ……」

『多少人間離れはしたが、別段寿命が延びたわけでも、人を食したくなったわけでもなかろう。まあ竜の血肉の影響で、人より老け難くはなっているやもしれんが』

「……ちょい待て。今何か、聞き捨てなんねーことさらっと言わなかったか?」

『それとて今に始まったことではない。わたしの血肉を受け入れた時からだ。その度合いが少々強まった程度のこと、大した問題ではあるまい。そもそも、主殿が人ではないとわたしが言ったところで、何かが変わるのか?』

「それは……」

 口ごもるアルヴィーに、アルマヴルカンはまた小さく笑った。


『心のままに生きれば良い。その心が変わらぬ限り、身体うつわがどうであろうが、それは些細ささいなことに過ぎん』


 それきり、彼の中の竜は沈黙する。後は自分で考えろ、とでもいうように。

「……心のまま、か……」

 呟いて、アルヴィーは右手を開く。人のそれより骨張って節くれ立ち、黒い爪を備えたその手。それをもう一度握り締め、顔を上げる。

(だったら、もう決まってる)

 親友ルシエルの隣に立ち、その身を守る剣となる。その思いは、一欠片も変わってなどいないのだから。

 それさえ揺らがなければ、きっと自分はまだ立っていられるのだ。

 アルヴィーは両足に力を入れ、立ち上がる。身体は驚くほど軽かった。やはり、回復力も上がっているのだろうか。

 ベッドから下りると、申し訳程度に体をほぐした。身に着けているのは簡素なチュニックとズボンで、靴もベッド横に揃えられていたショートブーツのみ。騎士団の制服は処分されたのか見当たらない。

(マジかよ、あれ結構したのに……)

 ほんのりへこんだが、気を取り直して今度は室内を調べる。調度品は、ルシエルの家で見たような良質そうなものであること以外、特に変わったところはないようだった。そうして調べていると、ベッドの枕元にアルヴィーの魔法式収納庫ストレージと、チェーン付きの識別票ドックタグが放置されていたことに気付く。一通り確認してみたが、何か抜かれていたり、逆に妙なものが足されていたりといったこともなさそうだった。

(何だこれ。俺に持たせといたところで、どうってこともないってのか……?)

 あなどられているのか、それともレティーシャの自信の表れかは知らないが、ともかく魔法式収納庫ストレージが無事なのは有難かった。一応中に予備の制服も入れてあったが、また何かあって台無しになるのも嫌なので、着替えは据え置いて魔法式収納庫ストレージだけを腰に下げる。そして識別票ドックタグ魔法式収納庫ストレージの中に仕舞った。見たところチェーンは元からのものに思えるが、似たような鎖などいくらでも用意できるだろう。何しろ容赦なく首を締め上げられた後なので、マジックアイテムでないと確信できないチェーンを首に掛けるほど、楽観的にはなれなかった。

(部屋の中は手掛かりなし……となると、外か)

 幸いこの部屋には窓がある。それも、貴重品であるガラスが嵌まった窓だ。壊さないように左手でそっと押し開け、頭を出してみた。

「うお……高っけ」

 地面が思ったより遠かった。上を見上げれば、空高く伸びる塔。どうやらここは、塔の中ほどにある部屋のようだ。そして外に顔を出した途端に、耳を掠め始めた遠い音。何か巨大なものが動き回っているような音だ。その音には聞き覚えがあった。

魔動巨人ゴーレム……!?)

 アルヴィーは迷わず、窓枠に足を掛けた。眼下の地面をにらみながら、空中へ一歩を踏み出す。

 とん、と靴底に感じた手応え――いや足応えに、アルヴィーはほっと胸を撫で下ろした。

(練習してて良かった……)

 待機命令を食らっていた時に練習していた、魔法障壁を応用した空中移動。まさかこんなに早々に役立つとは思わなかったが、ともかくこれで部屋を抜け出せる。

 次々と足場を作りながら、塔の上まで駆け上がり、屋上に下り立ったアルヴィーは、音が運ばれてくる方へと目を凝らした。そして唖然とする。


 そこには、街があった。


 広壮たる宮殿のさらに外。そこに、街が形作られつつある。広い街路を魔動巨人ゴーレムたちがゆっくりと歩き回り、地面をならしたり石材を積み上げたりといった作業を、ひたすらに続けていた。

「……魔動巨人ゴーレムが、街を……?」

 アルヴィーの知る魔動巨人ゴーレムは、兵器だった。それ以外の魔動巨人ゴーレムの使い道など、せいぜい後継機の性能評価程度だと思っていたのだ。ゆえに、魔動巨人ゴーレムが街を造っているなどという光景は、彼の目にはいっそ冗談のように映った。

 唖然として遠いその光景に目を凝らしていると、背後でかつん、と硬質な音がする。


「――時間が掛かる単純作業には、魔動巨人ゴーレムはうってつけですのよ。特に、ああいった土木作業には」


 振り返った先にレティーシャがいても、アルヴィーは驚かなかった。

「何しろ、クレメンタイン帝国再興を宣言した以上、その帝都が荒廃したままというのは、国の沽券こけんに関わりますもの。魔動巨人ゴーレムは放っておいても術式の通りに作業を続けてくれますし、魔力さえ補充すれば疲れも訴えません。働き手としては最高ですわ」

 アルヴィーの隣に並び、レティーシャは目を細めた。

「帝都……クレメンタイン帝国の?」

「ええ」

 思わず零した疑問に、レティーシャは微笑んだまま頷き、小さく首を傾げる。

「何か疑問があるようですわね。アルヴィー」

「……レクレウスの練兵学校の座学でも、騎士団の講義でも。クレメンタイン帝国の帝都は壊滅したって、聞いた」

「合っていますわ」

「なら……ここは?」

 アルヴィーは足元の床を、城全体を指し示す。

「帝都が壊滅したのに、何でこの城は残ってるんだ? 後から建て直したんじゃないよな、だって古そうだ。百年なんて余裕で経ってそうなくらい」

「良いところに気付きましたわね」

 褒めるように、レティーシャは笑みを深くする。

「簡単なことですわ。――街が吹き飛んでもこの《薔薇宮ローズ・パレス》は耐え抜いた。それだけのことです。元より《薔薇宮( ローズ・パレス)》は、爆破箇所から外してありましたし」

「街が吹っ飛んで城だけ残ったら、敵にもバレるだろ」

「結界ですわ。光を捻じ曲げ、見た目には中に“何もない”ように見せられる結界……当時は“迷彩結界”と呼んでいましたけれど、それを使いましたの。何しろあの時は帝都のほぼ全域が吹き飛んで、この辺り一帯は粉塵で三メイル先も見えないような有様でしたから、効果は充分でしたわ。――それに」

 レティーシャの口元が弧を描き、アルヴィーはなぜかぞくりとした。

「……それに?」

「連合軍も帝都に踏み込んでまでは参りませんでした。それどころではなかったのでしょうけれど……何しろ、帝都に攻め込んでいた部隊すべて、全兵力の三分の一が、帝都もろとも消し飛んでしまったのですもの。《薔薇宮( ローズ・パレス)》の確認どころか、各国がそれぞれ自軍を纏めて撤退することすら一苦労だったはずですわ」

「…………!」

 あっさりと告げられた惨劇に、アルヴィーが絶句する。レティーシャはうたうように続けた。

「帝都に集まっていた魔法技術も、それを開発した研究施設も、何より多数の兵員も無に帰した以上、連合軍が帝都に留まって調査をする理由も、その余裕もなかった……それが、この《薔薇宮( ローズ・パレス)》だけが残った理由ですわ。もっともそれでは、戦略目標も達成できなかったことになりますから、各国とも厳しく緘口令かんこうれいを敷いて、歴史からも事実を揉み消してしまったようですけれど」

「兵士ごと……帝都を吹っ飛ばしたのかよ」

「ええ。――だって、しゃくに障りますでしょう? 帝国が相応の時間と資金を掛けて開発した技術を、戦争を仕掛けて奪おうだなんて。ですから、奪われる前に消しただけのことです」

 彼女の口調にも表情にも、欠片ほどの揺らぎすらなかった。彼女は本心から、それが当然のことと思っているのだ。そのことに、アルヴィーはぞっとした。

 知らず、片足が後ずさる。そんな彼を微笑ましげに見やって、レティーシャは手を差し伸べてきた。

「もちろん、この《薔薇宮ローズ・パレス》でわたくしに仕える者たちを、そのように扱うつもりはありませんわ。特にあなたとメリエ……あなた方二人は、わたくしの子供のようなものですもの。ですからここに留まりなさい、アルヴィー」

「嫌だね」

 間髪入れずに言い返し、アルヴィーは両足に力を入れる。すぐに飛び出せるように。

 彼の拒絶を子供の癇癪かんしゃく程度に思っているのか、レティーシャの微笑みは崩れない。

「どの道、ファルレアンにはもう、あなたの居場所はありませんわよ? ダンテとメリエに、ファルレアンでの工作を任せました。あなたが裏切ったように見せかけるように、と」

 だが、アルヴィーの瞳ももう揺らがなかった。


「それでも、俺はファルレアンに戻る。――俺は、俺のことを絶対に信じてくれる奴がいるってことを、知ってる」


 絶対の信頼を言葉に乗せて、アルヴィーは跳ぶ。

 背後の胸壁を越えて、その向こう――地上約二十メイルの空中へと。


 重力に身を任せ、だがその足はすぐに、硬い足場に下り立つ。

(とにかく、この城から出ねーと……!)

 そう考えた時、アルマヴルカンの声が聞こえた。

『主殿、ひとまず建物の中に入れ』

「え? けど、まずこの城から出た方が……」

『この城内から、強力な魔法の気配と、空間の歪みのようなものを感じる。――おそらく、転移の魔法陣が敷かれているはずだ。それを使う』

 作り出した足場を蹴り、アルヴィーは視線を巡らせた。

「――どっちだ!?」

『まずは右だ』

「りょーかい!」

 次の足場で、急激に方向転換。棟を繋ぐ回廊を飛び越え、中庭の上空を駆け抜ける。

『……あれだ。向かって左の、あの建物だ』

「分かった」

 一際強く足場を蹴り、建物の屋上、胸壁の上に下り立つ。レティーシャは転移を使えるのだ。目的を悟られれば、先回りされる可能性もあった。急がなければならない。

 だが、目的地まであと少しというところで、アルヴィーは足を止めた。


「ダメだよ、アルヴィー。ここから先は通さないから」


 すみれ色の瞳を爛々(らんらん)と光らせ、メリエがそこに立っていた。左腕はすでに戦闘形態だ。

「いいのかよ……城がぶっ壊れるぜ」

「シアは良いって言ったよ。――それよりも、アルヴィーを通さないのが大事、だってさ!」

 言うなり、本当にメリエが《竜の咆哮(ドラグ・ブレス)》を撃ってくる。アルヴィーは何とか《竜の障壁( ドラグ・シールド)》でしのいだ。

「ちっ――やるしかないってか!」

 アルヴィーの戦意に呼応し、右腕が形を変える。深紅の鱗が肌を覆い、右肩に生まれる翼。そして、手首から伸びた《竜爪( ドラグ・クロー)》の根元が明るく輝く。アルヴィーには見えなかったが、右肩の五枚の翅の根元も、同じように朱金の光を帯び始めていた。

 床を蹴り、メリエに肉薄する。対するメリエも、再度《竜の咆哮( ドラグ・ブレス)》を撃つべく左手をかざした。

「行くよっ、《竜の(ドラグ)――!」


 瞬間、彼女の眼前からアルヴィーの姿が掻き消えた。


「……えっ!?」

 彼女が目を見張った一瞬――その一瞬を使い、アルヴィーは空中に作り出した足場を蹴ると、メリエの背後に下り立つ。

「っ、この――!」

 だが彼女もすぐに気付き、振り返りざまに《竜の障壁(ドラグ・シールド)》を展開した。そこへ、アルヴィーが振るった《竜爪( ドラグ・クロー)》がぶつかる。


「俺は――ファルレアンに帰る!!」

 アルヴィーが吼えた、その刹那――《竜爪ドラグ・クロー》から迸った炎が刃となり、《竜の障壁( ドラグ・シールド)》を斬り下ろしたその勢いで、足下の床を突き破った。


「うわっ……!?」

「きゃああ!!」

 爆音と共に床が弾け飛び、双方とも足下が崩れ去る。だが、アルヴィーは空中に足場を作って飛び退り、何とか床に開いた大穴の縁に着地することができた。一方のメリエは、そのまま下の階まで落ちたようだ。無論、人間離れした運動能力と身体強度がある以上、死んではいないだろうが。

 ともあれ、この機会を逃す手はない。アルヴィーは身を翻し、目的地へと急ぐ。

『――ここだ』

「おう!」

 やがて辿り着いた一つの扉を、アルヴィーは遠慮なく《竜爪ドラグ・クロー》でぶった斬った挙句に蹴り開けた。吹っ飛んだ扉を踏み越えて中に入れば、そこには床に描かれた魔法陣が淡く輝いている。

「これかっ……!」

 勢い込んで飛び込みかけ――アルヴィーはふと気付いた。

「そういやこれ……どこに飛ぶんだ?」

『そこまでは知らん』

「おい!?」

 しれっとそう言うアルマヴルカンに思わず突っ込んだが、ぐずぐずしてはいられない。はらを括って、魔法陣に足を踏み入れ――。


 ――本当に、“あれ”を思い出す。破天荒な奴だ――。


 その時、突如頭に響き渡った“声”と同時に、天地が歪んだ。



「……これは……!」

 塔の上のレティーシャははっとして、空を振り仰ぐ。その視線の先、ちり、とかすかな音を残して、火の粉が舞った。

 視線を地上――その先の地下に向け、彼女は呟く。


「“アルマヴルカン”が……干渉した……!?」


 次の瞬間、眩い幻の炎の渦が、《薔薇宮ローズ・パレス》を埋め尽くした。



 ◇◇◇◇◇



 “彼”は長い長い間、独り空を舞っていた。

 世界から神々が去って幾星霜いくせいそう。同族は少しずつ時の狭間に消えゆき、気付けば本気で力をふるった記憶も、とんと思い返せなくなっていた。


 退屈だ。

 つまらない。


 ――今を本当に生きているのかさえも、分からない。


 そんな時だった。

 “それ”に出会ったのは。


 若い――むしろ幼いといっても良いほどの、同族。

 久しく見掛けることのなかった、雛から成体になったばかりの同族だった。

 同じ属性を持つその年若い同族は、雄の本能ゆえか、年齢も実力もかけ離れた“彼”に、よくちょっかいを掛けてきた。それをあしらいながら、“彼”はいつしか、自身を支配していた鬱屈うっくつが、少しずつ取り払われていくことに気付いたのだ。

 “彼”はなぜか、飽きず挑戦を掛けてくるその若い同族を、一息に焼き尽くす気にはならなかった。それは、自身の血脈を継ぐ子を持たず、また興味もなかったはずの“彼”の裡にも密かに、だが確かに息づいていた、種としての本能だったのだろうか。それとも、“彼”自身がその無鉄砲な若さを好ましく思ったのか――自分でも分からぬまま、“彼”はその若者を構い続けた。


 それは、人の数える年で二百ほどの間続いた。


 その若者がある日、その命を落とすまで。



 ◇◇◇◇◇



「――……」

 アルヴィーは、ゆっくりと目を開いた。

(……何だ今の……夢、か……?)

 先ほどまでははっきりと認識できていた記憶が、急激に遠ざかる。いや、そもそもこれは、自分の記憶なのか――?

 起き上がりながら頭を振った時、ざん、という音が耳を打った。そして、鼻腔びこうを突くような、今までいだこともない匂い。

 振り返り――そしてアルヴィーは目を見張った。


 そこには見渡すばかりの水、そして空高くまでを埋め尽くす、真っ白な霧が広がっていた。


「……何だ、これ……」

 呆然と呟くアルヴィーの耳に、何かを懐かしむようなアルマヴルカンの声が聞こえる。

『これは、海か……』

「“海”? これが?」

 言葉は知っているものの、アルヴィーがその実物を見るのは、これが初めてだった。

「へえ、これが……っつーか、何だこの匂い。変わってんな」

『潮の匂いというものだ。川や湖とは、また違う』

「ふーん……」

 寄せては返す波をしげしげと眺め、気が済んで視線を外すと、アルヴィーは尋ねた。


「で、ここどこだ?」

『知らん』


 ……一瞬の間。

 そして。


「……はぁぁぁぁ!? 何だそれ、ここどこだよ―――っ!?」


 アルヴィーの絶叫が、波音も霧も斬り裂かんばかりに響き渡った。


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