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片翼のドラグーン  作者: 八月 あやの
第八章 よみがえる亡国
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第62話 あなたを想って

「――よっ、と」

 空中でバランスを崩しかけ、アルヴィーは危ういところで体勢を立て直した。

「やっぱ魔法障壁の足場って、見た目不安だよなあ」

 アルヴィーの現在地、自室の床より三十セトメルほど上方の空間。その足は“何もない”空間を踏み締め、彼は完全に宙に浮いていた。

 もっともこれにはれっきとした種も仕掛けもあって――要するに、以前アルマヴルカンがぽろっと漏らした、“魔法障壁を応用して空中に足場を作る”という技術だ。アルヴィーが今踏み締めているのは虚空などではなく、自身が作り出した魔法障壁なのである。

 《竜の障壁(ドラグ・シールド)》の極小版というところであるそれは、目を凝らしても視認が難しいレベルで薄い。だがアルヴィーの視力でなら何とか捉えられるし、構築するのは彼自身なのだから、どの辺りに構築したかくらいは分かる。魔動巨人ゴーレムの魔動砲をも防ぐ《竜の障壁( ドラグ・シールド)》と同質の障壁ということで、薄いながら強度も抜群。空中で人一人が足場にするには充分過ぎるほどだった。

 ただ、“空中で魔法障壁を足場に立つ”などというのは、今まで文字通り地に足を付けて生きてきたアルヴィーにとっては、やはり勝手が違いなかなかの難題である。ゆえにこうして、自室で床上三十セトメルから訓練を始めているのだった。なおこれには、自室の天井がさほど高くないという事情もある。

『まずはその感覚を覚えるが良い。何事も実践じっせんだ』

 アルヴィーのうちで、アルマヴルカンが呑気に笑った。

 彼がこんな訓練を始めたのは、先日のダンテの襲撃(?)を危惧きぐした騎士団上層部が、アルヴィーに当座の待機命令を出したからだ。要約するとできる限り外に出るな、出るとしても城内までに留めること、という命令なのだが、問題は鍛錬のために宿舎の裏庭に出るのにも渋い顔をされたことだった。まあ、襲撃を掛けられたのがまさにその裏庭での鍛錬の真っ最中だったのだから、騎士団側が警戒するのも当然と言えば当然なのだが。王立魔法技術研究所と宮廷魔導師たちが協力し、王城を丸ごと覆うレベルの結界を張ってはいるそうだが、用心するに越したことはないというのが騎士団と王国上層部の見解だ。

 そんなわけでアルヴィーは、居室のソファやらテーブルやらを一時的に隅へと取っ払い、空中移動の訓練をしていた。

「確かに、自由に、使えりゃ、便利だけど、なっ」

 足場の上に立つことに慣れると、次は同じ足場を複数構築し、順次飛び移っていく。ひょいひょいと飛び移っても、足場はその薄さに見合わず、びくともしなかった。

「……これ、どうなってんだ?」

『空間における発動点が固定されているからな。障壁の耐えうる限りであれば、どれだけ重いものが載ろうとびくともせんさ』

「……ナニソレ」

 一応魔法士の端くれでありながら、その辺りの勉強をまったくといっていいほどしてこなかったアルヴィーは、アルマヴルカンの言葉にいぶかしげな顔になる。もっともそれは彼ばかりが悪いわけでもない。何しろレクレウスで力の制御訓練をしていた頃は、“考えるな、感じろ”を地で行くような方法しか教わらなかったのだから。それでもアルヴィーは《竜の咆哮( ドラグ・ブレス)》の制御はかなり早くマスターした。猟師という経歴キャリアの恩恵か、“狙い撃つ”ことに関して下地があったからだろう。

 しかしそんな学習方法が祟って、彼は魔法理論に関しての知識はほぼゼロだ。現在使える《重力陣( グラビティサークル)》や《伝令(メッセンジャー)》は、前者はこれまた“考えるな、感じろ”理論、後者はそもそも初心者にも優しくお手軽な補助魔法である。高度な魔法理論などお呼びではない。そういうわけで、アルヴィーとしては発動点がどうのと言われても、いまいちピンと来ないのだった。

『ふむ、そこからか。――まあ、さほど難しいことではない。要するに、主殿は魔法障壁による足場を作る時、無意識にその発動位置を固定しているのだ。これは空間にくさびを打ち込んだも同然。固定されたものは当然、その位置から動くことはない』

「……俺、そんなことしてんの?」

『魔法の発動のさせ方は、我々竜や精霊などのそれに近いな。元々、我らは人間が魔法理論を打ち立てる前から、言うなれば理屈ではなく感覚で当たり前に魔法を使っていた。わたしもしかりだ。その影響を多分に受けた主殿が、同じく感覚的に魔法を使うようになったとしても何ら不思議はない』

「へー……何だかよく分かんねーけど、まあ問題ないならいっか」

 とりあえず発動した魔法が一ヶ所に固定されるのなら、足場としてはちゃんと使えるのでそれならそれで良しと、アルヴィーは深く考えるのを止めた。

「……うーん、やっぱ外でやった方が実戦の動きができるよなあ。部屋ん中じゃ狭過ぎるし」

 元はといえば、空中で自在に動きたいからこうして訓練しているわけであって、本来ならもっと広い空間で存分に飛び回りたい。部屋の中ではせいぜい、床上数十セトメルが限界のお遊びレベルにしかならないだろう。

 だが、いざ実戦で使おうという時にそれでは話にならない。少なくとも、空中戦ができるレベルくらいには持って行きたかった。

「――きゅっ!」

 と、アルヴィーの訓練を遊んでいるのと勘違いしたのか、フラムも飛び付いてくる。

「わっ! こら、遊んでんじゃねーっつの!」

「きゅきゅーっ」

 怒られてもどこ吹く風、尻尾をふりふりしながら足から腰をよじ登り、定位置の左肩まで辿り着いて頬にすりすりしてくるフラムに、アルヴィーは諦めてため息をついた。

「……しょーがねえなあ」

「きゅっ」

 まあフラムを落とさないように気を付けるのも、良い訓練になるかもしれない。フラムを左肩に乗せたまま、訓練を再開する。耳元で鳴かれるといい感じに気が散るので、集中力を養うには良さそうだ。

 ――しばらくそうして一見不安定な足場に感覚を慣らし、アルヴィーは空中移動の訓練を切り上げた。

「ふー……結構汗になったな」

 室内とはいえ、何度となく動き回ればそれなりに汗ばむ。軽く汗を流すことにして、彼は浴室へと向かった。水を生み出す宝珠オーブと、たらいを置く程度のスペースしかない水場だが、これがなければ外の井戸端で水でも被るしかないのだから、外に出ることすら制限されている今の身には有難い。一応宿舎内には共同の浴場もあるのだが、湯を沸かす時間が大体決まっているため、今の時間だと井戸端一択しかないのだった。

 そこで軽く汗を流して部屋に戻ると、家具を元の位置に戻す。やるべきことをとりあえず終わらせると、アルヴィーは一つ息をついた。

「……外出れねーし……どうすっかな」

「きゅっ、きゅーっ」

 ぼやいた飼い主に、ならばこちらに構えとばかりにその足元で騒ぎ始める小動物フラム。足に飛び付くだけでは飽き足らず、床でごろごろと寝そべって存在をアピールする。当然、土足で踏み入ること前提の床でそんなことをすれば、土埃であっという間に毛皮が汚れきってしまうのだが。

「……よし、暇潰しが一つできたな」

「きゅっ」

 アルヴィーは胡乱うろんな目でフラムを見下ろすと、その胴体を鷲掴みにする。遊んでくれるのかと緑の瞳をきらきらさせたフラムに、容赦なく宣告した。

「全身まんべんなく汚しやがって。今から風呂だぞ」

「きゅっ!?」

 どうやら雰囲気か何かで察したのか、フラムはじたばたと暴れ出したが、もちろんアルヴィーの手がそれで緩むはずもなかった。今しがた出て来たばかりの浴室へと逆戻り。水も盥もあるし魔法を使えばすぐに乾かせる。大丈夫だ、何も問題はない。

 きゅーきゅーと甲高い鳴き声――というか悲鳴――を遮るように、浴室のドアがぱたりと閉まった。


 何の変哲もない、とある日の昼前の出来事であった。



 ◇◇◇◇◇



 オークション開催期間も終わりに近付き、王都ソーマの賑わいも徐々に落ち着きつつある。街中を巡回していた第一二一魔法騎士小隊も、それを目の当たりにしていた。

「まあ、目当ての素材を手に入れりゃ、後はさっさと帰るってとこも多いだろうしな。特に民間の商人や傭兵団なんかは」

 カイルがさもありなんと周囲を見回す。王城の迎賓館げいひんかん逗留とうりゅうしている各国の関係者はともかく、商人や傭兵団は宿泊費なども自腹だ。必要なものを手に入れれば、さっさと引き揚げるのも無理からぬことだろう。

「しっかし、こんだけ稀少レア素材が大量に放出されたら、しばらくは軒並み値段が下がりそうだな」

「その内戻るんじゃないでしょうか。そうそう出る素材じゃないですから」

「ま、大暴走スタンピードは大体十年に一度だから、それくらい間が開けば値段も落ち着くんじゃない」

 カイルと年少魔法士組がそんな話をしている横で、ルシエルは何だか物憂げな顔をしていた。

「……どうかされましたか、隊長?――まさか、例の潜入任務で何か」

 ルシエルが、自家を巻き込んだ魔剣騒ぎに関して、糸を引いたと思われる黒幕に接触を試みていることは、部下たちにも知らされていた。そんな上司をおもんばかってシャーロットが尋ねると、彼はため息をつく。


「いや……実は今日、仕事が終わってから、婚約者と顔合わせをしないといけないんだ……」

「……あ、そうですか」


 仮にも婚約者との初顔合わせといえば、世間一般ではめでたいはずのイベントである。にも関わらず憂い顔の上司に、シャーロットは何とも生温い眼差しになった。

「……まあ、貴族の方々にとってそういう婚約や結婚は、一種の義務だといいますしねえ」

「けどさ、相手のご令嬢によっぽど問題があるってんならともかく、そうじゃないなら良い話じゃないんすか? 黙っててもいいとこのお嬢様が嫁に来てくれるんだし。世の男の大半が、女落とすのにどんだけ苦労してることか」

「隊長とあんたを一緒にするんじゃないの」

 ジーンがカイルの足を蹴る。短い悲鳴があがったが、それを気にも留めず、ユナがことりと小首を傾げた。

「……そういえば、隊長のそういう話、聞いたことがなかった」

「そうそう! 貴族なんだから婚約者の一人や二人、いてもおかしくないのに」

「二人いたら大変だよ、クロリッド」

 首を突っ込んできたクロリッドにユフィオが突っ込んだところで、ルシエルは苦笑する。

「僕は末子だから、そういう話とは無縁だったんだよ。――異母兄上あにうえたちには、本来は婚約者がいてもおかしくなかったんだけど。領地に引っ込んだ事情が事情だったからね」

 授業に付いて行けずに騎士学校を退学――それも兄と弟が揃って――というのは、当時の社交界ではかなり話題になったらしい。もちろん悪い意味で。だからこそジュリアスは人を使ってルシエルたちを探し出し、騎士学校に入れるため自らの手元に引き取ったのだ。

 そして王都を去り領地に引っ込んだ兄たちは、これ幸いとばかりに遊興ゆうきょうふけり、婚約者などかえって邪魔だったのだろう。父もどうやら彼らの行状に呆れ返っていたようで、せめてもう少し素行がましにならないと、嫁に来た相手から実家の方に息子たちの不出来ぶりが伝わりかねないと危惧し、あえて婚約をかせることはしていなかったという話だった。先日の一件を鑑みるに、その判断は正しかったと言わざるを得ない。

 対してルシエルは末子、それも騎士団で身を立てることが決まっていたので、結婚についての条件はそこそこ緩かったのだ。よほど身分違いの娘――例えば平民の娘などを連れて来たりしなければ、自分が選んだ相手と結婚することも可能だっただろう。だがそもそも色恋沙汰自体に興味があまりなく、騎士として仕事に邁進まいしんしている内にこういう状況になってしまった。

「そういうとこは、貴族も楽じゃないって話ですかねえ」

「……まあ、貴族の結婚はまず家の釣り合いで決まるからね。相手とも何度か会う機会はあるから、それで馬が合う相手かどうかを探るしかないよ。相手の令嬢は、普段は領地の方にいるようだから、あまり頻繁には会えないらしいが」

 ルシエルは軽く肩を竦める。ちなみに、隊で唯一の既婚者ディラークからは、手紙のやり取りでもしたらどうかと勧められた。手紙の文字一つからでも相手の人となりを感じ取ることはできるし、相手に送るための便箋や封筒を選ぶのも、それはそれで楽しめるものだという。何なら小さな贈り物などを同封しても良い、と厳つい外見に見合わぬ細やかなアドバイスもされ、これが既婚者の実力かと隊員たちが思わず尊敬の眼差しを向けたのは余談である。

 そんな話などしつつ巡回を終え、本部で解散すると、ルシエルは一度自宅に戻った。

 身支度を整え、今日ばかりはさすがに仕事を早めに切り上げてきた父ジュリアスと合流する。何しろ親同士で決めた話なのだから、その当人がいないと話にならない。

 二人は家紋入りの馬車に乗り込み、顔合わせの会場へと向かった。


「――おお、クローネル伯! この度はまことに有難いお話をいただいて、娘も大喜びですよ」


 会場であるところのサンフェリナ城に到着すると、大広間ホールで一人の紳士が出迎えてくれた。彼が婚約者の父親であるヘクター・ヴァン・メルファーレン伯爵だろう。赤毛が特徴的な、恰幅かっぷくの良い紳士だ。

「お早いですな、メルファーレン伯。して、ご令嬢はどちらに?」

「娘は個室の方でお待ちしておりますよ。どうも、緊張して出歩く気にもなれんようでしてな。――ああ君、部屋への案内を頼めるかね」

 ちょうど来合わせた使用人ボーイに、ヘクターが声をかけた。だがさすがに教育が行き届いているのか、彼は丁重に一礼すると、洗練された挙動で案内を始める。

 王都郊外にあるこのサンフェリナ城は、“城”と呼ばれてはいるが、正確には国が運営する公共施設だった。名目上は王家の所有する離宮の一つという位置付けだ。その歴史はファルレアン王国が建国して間もない頃にまでさかのぼる。

 当時、王家の権勢はまだ安定しておらず、諸侯は城とも見紛みまがう館を建てて住まい、その財や影響力を競った。サンフェリナ城も、それらの館の一つとして誕生したのである。やがてそれらの諸侯も次第に王家に膝を折り、館も王家に献上されたり破却されたりと、それぞれの運命を辿った。サンフェリナ城は前者であり、またその壮麗そうれいな佇まいを当時の国王にことほか気に入られるという幸運に恵まれたこともあって、離宮の一つとして扱われることと相成あいなったのだ。

 その後、サンフェリナ城は公共施設として国土大臣の管理するところとなり、他の貴族たちにも開放されて、次第に貴族同士――特に高位貴族の見合いや婚礼の場として使われるようになった。扱いとしては王家の離宮のため格式が高く、趣向を凝らした造りや庭園が、貴族たちの間でも人気となったのだ。

 大広間ホールから主階段を上り、大広間ホールを見下ろす回廊を経て、廊下へと入る。両側には扉が並び、時折歓談の声がかすかに漏れ聞こえていた。かつては居室であった個室を改装し、会食などができるようになっているのだという。また、このサンフェリナ城は東西南北すべての窓から、それぞれの方角にしつらえられた庭園を望むことができ、個室の窓からも庭園が一望できるそうだ。

 案内の使用人ボーイはその個室の扉の内の一つの前で足を止めた。

「お部屋はこちらとなっております。本日はお天気もよろしく、当城の見所でございます庭園をご散策なさるにも向いておりますが、もしお嬢様のお足元がご心配であれば、あちらのロング・ギャラリーでもお楽しみいただけます。あちらからも庭園がご覧になれますし、当城が所有する美術品なども展示してございます」

 貴族令嬢――それもこうした席などのために着飾った令嬢は、裾の長いドレスや靴が外で汚れるのを嫌がる。加えて天候が悪かったりなどすれば余計だ。そういう場合のため、貴族の邸宅ではロング・ギャラリーと呼ばれる細長い空間を設けることも多かった。そこには絵画や彫刻などが飾られ、庭園を散策する代わりに美術品の鑑賞を楽しむのである。

「おお、それは良いな」

 ヘクターは上機嫌で頷く。使用人ボーイが礼にのっとって扉をノックし、客の来訪を告げた。すぐに応答があり、扉が開かれる。

 両開きの扉が開くとまず、正面にある大きな窓が目に入った。室内は落ち着いた色で統一され、深紅の絨毯を敷き詰めた床の窓寄りにテーブル、そしてゆったりした間隔で椅子が並べられている。壁には彫刻や陶器を並べた飾り棚と暖炉が設えられ、絵画が飾られていた。天井には精霊をモチーフにしたと思しき天井画が描かれ、中央部からはシャンデリアが下がって、窓から射し込む光に美しくきらめく。

 椅子にはすでに、一人の令嬢が腰掛けていた。オレンジブロンドの髪を結い上げ、金糸で花の刺繍ししゅうを施したクリームイエローのドレスに身を包んだ彼女が、ルシエルの婚約者となる少女だろう。彼女は傍らに控えたメイドの手を借りて立ち上がると、淑女らしく優雅に一礼した。


「初めまして。ティタニア・ヴァン・メルファーレンと申します」


 緊張のあまりかかすかに震えてはいたが、小鳥のさえずりという形容がぴったりな愛らしい声だった。どうやら釣り書きの絵姿は、本人に限りなく忠実に描かれていたらしい。ややぎこちない笑みを浮かべ、黄緑色の瞳が潤んだようにルシエルを見つめる。

 その初々しい様子を、ルシエルは微笑ましく思いながら自身も一礼した。

「お目に掛かれて光栄です、レディ・ティタニア。ルシエル・ヴァン・クローネルです。――ご挨拶をさせていただいても?」

「は、はい。喜んで」

 はにかみながら差し伸べられる、シルクの手袋に包まれた細い手を、ルシエルは礼儀正しくそっと取った。その指先に軽く唇を落とす。ティタニアの頬が薔薇色に染まった。

 その様子を満足げに眺めやって頷き、ヘクターは、

「――ま、立ち話というのも何だ。まずは軽く食事でもしながら、お互いの人となりを知ろうではないか」

 そう言って手を打つと、予め言い含められていたのだろう、室内で控えていたメイドたちがてきぱきと準備を始めた。昼餐ちゅうさんらしく軽めの食事が運び込まれ、テーブルにセットされていく。

 席に着いて食事を始めると、ヘクターが上機嫌に話しかけてきた。主にジュリアスに対してであったが。

「ご子息のお噂はかねがね。何でも、騎士学校の魔法騎士科を首席で卒業されたそうですな。先のレクレウスとの会戦でも武勲を挙げられたそうで。優秀なご子息で、クローネル伯も鼻が高いことでしょう」

「何、まだまだ未熟者ですよ。やはり貴族の後継者としては、身を固めてこそ――」

 父親同士の社交辞令交じりの話は放っておくことにして、ルシエルはティタニアに話しかけた。

「レディ・ティタニアはいつまで王都こちらに?」

「は、はい。その……数日中には領地に戻ることになります」

「そうですか。――では、ご領地に戻られた後は、手紙をお送りしましょうか」

「まあ! お手紙をいただけますの?」

「ただ、僕も武辺者ぶへんものでして。詩的な手紙には程遠いかと思いますが、どうぞご容赦を」

「いいえ、そんな……お手紙をいただけるだけで、嬉しゅうございますわ」

 輝くような笑みを浮かべるティタニアに、ルシエルは改めて、既婚者の意見は聴いておくものだと思った。もちろん、ディラークのことである。

 二人の様子を見て、どうやら満更でもないと判断したのだろう、ジュリアスが勧めてくる。

「食事が終わったら、二人で庭園でも歩いて来ると良い。ここの庭園は見事だそうだ」

「そうですね……」

 ルシエルは思案しながらちらりとティタニアの様子を窺う。彼女は笑みを浮かべつつも、足元を少し気にしていた。

「……ですが、せっかくですのでここのギャラリーを見学したいと思います。レディ・ティタニアも、ご一緒にいかがですか」

「ええ、もちろんですわ」

 ティタニアはほっとしたように微笑んだ。

 ――昼食が終わると、二人は父親を置いてロング・ギャラリーへと向かった。父親同士はどうやら、子供抜きで話したいこともあるのだろう。下手をしたら今日中に結婚の日取りまで決まってしまうかもしれない、と危惧しつつも、ルシエルはティタニアをエスコートする。

 サンフェリナ城のロング・ギャラリーには、この城が建てられた時期を示すように、ファルレアン王国黎明(れいめい)期から中期にかけて流行した美術品が多かった。数十メイルもの長さを持つギャラリーは、片側の壁に美術品が展示され、もう片側は開口の大きい窓が並んでいる。窓の間にも飾り棚が置かれて陶器などの小物が並び、肘掛け椅子と小さなテーブルが設置されて、窓からの景色を楽しみながら歓談できる造りだ。ギャラリーの幅は広く取られており、窓から射し込んだ日光が美術品を傷める心配もない。

 二人は一通り美術品を鑑賞し、窓際のテーブル席の一つに向かい合って座る。そのテーブル自体も、天板に象嵌ぞうがんで紋様が描かれた、それ自体が美術品のように美しいものだ。

 窓から見下ろす庭は、色とりどりの花が咲き乱れ、ティタニアに歓声をあげさせた。

「まあ、素敵なお庭!」

 目をきらきらと輝かせ、彼女はルシエルに向き直る。

「せっかくですから、お庭も歩いてみたかったんですけれど……このドレス、裾が地面に届いてしまいますの。ですから、こちらにお連れいただいて良かったですわ」

 騎士団に籍を置いているような一部の女傑を除き、年頃の貴族女性の間では、足首より上がスカートから見えるのは“はしたない”という認識だ。そのため、彼女たちは常に足首まで隠れるほど裾の長いドレスを纏う。野外は歩き辛いだろう。

「それに、お手紙のお話も本当に嬉しく思っていますの。――誰かとお手紙をやり取りするなんて、久しぶりですわ」

「というと、以前にどなたかご友人とでも?」

 ルシエルが尋ねると、ティタニアは表情を曇らせた。

「ええ……でも、音信不通になってしまって」

「音信不通?」

「……実は、お父様には内緒のお友達だったんです。だって、お父様同士があまり、仲がよろしくなかったんですもの。でもわたくしたち、社交界にデビューしたのがちょうど同じ時で、とてもお話が合ったんですのよ。それで、お手紙でやり取りを」

 さしずめ、父親が属する派閥が違ったというところだろう。父ジュリアスと懇意なところからして、メルファーレン伯爵は《女王派》だ。となると、相手は《保守派》の貴族の娘というところか。娘が政治に関わることなど滅多にないので、令嬢同士の手紙のやり取り程度なら情報漏洩もあるまいが、確かに親に知られたくない友人ではあっただろう。

「では、お父上にそのやり取りが露見してしまったということですか」

 納得したようにルシエルがそう言うと、ティタニアはかぶりを振った。

「いいえ、お父様は関係ありませんの。――実は、あちらのご家族が……その」

 彼女は口ごもり、痛ましげに目を伏せた。


「……ギズレ家、と申し上げれば、お分かりになりますでしょう……?」


 ルシエルは息を呑んだ。その名は今はもう薄れつつあるものの、この国ではまだ悪い方に有名だ。

「ギズレ元辺境伯家……なるほど、それで」

「ええ……もちろん、あちらのお父様が、その、反逆罪に問われたことは存じています。でも……わたくしのお友達は、ベアトは、まだ行方不明のままですの。――貴族が反逆罪に問われることの意味は存じておりますけれど、わたくしやっぱり、彼女のことが今でも心配で……」

 しゅんと肩を落とすティタニアを、だがルシエルは咎める気にはなれなかった。


 友人と敵対するしかなく、どうしようもないまま剣を交えた、あのレドナでの記憶。

 他でもないルシエル自身が、その気持ちを知っているから。


「――友人の身を案じることは、咎められるべきことではないと、僕は思います」


 ルシエルの言葉に、ティタニアははっと顔を上げた。

「……ルシエル様」

「ですが、彼女はもう、表の世界に姿を現さない方が良い。――騎士団はおそらく今も、彼女を探しています」

 それはティタニアも分かっているのだろう。小さく頷いた。

「はい。――でもそれでは、わたくし、彼女のために何をしてあげられるのかしら」

 呟くようにそう言ったティタニアに、ルシエルはそっとかぶりを振る。


「直接は無理だと思います。でも、想うことだけはできる」

「想う……?」

「誰か一人だけでも、自分を気に掛けてくれる相手がいることで、人はずいぶん救われるものです。――僕も、そうだった」


 あの辺境の村で、いつもルシエルを守ってくれた、小さな英雄しんゆう

 彼はどんな時でも逃げることなく、ルシエルに牙を剥く暴力に懸命に立ち向かってくれた。

 あの日彼がルシエルの手を離したのも、見放したのではなく、ルシエルを守るためだったのだと、すぐに分かるほどに。


「……わたくし、ベアトの助けになれるのかしら」

 そう呟いて、ティタニアは両手を握り合わせた。

「……そうですわね。たとえ伝わらなくても――わたくしがベアトを心配することは、自由だわ」

 黄緑色の瞳に、明るい色が戻る。ティタニアはルシエルに微笑みかけた。


「ありがとうございます、ルシエル様。――わたくし、まだベアトのお友達でいられると思います」


 彼女は明るい光に満ちた窓の外、遠く空を仰いだ。

 その空の下のどこかにいるであろう、彼女の友を想うように。



 ◇◇◇◇◇



「――ベアトリス様」

 ふとかかった声に、ベアトリスは我に返った。

「あら……あなた、確か」

「オルセルです」

 黒髪に深い青の瞳。主たるレティーシャから特別に教えを受けている、元村人の少年だ。

「何か用かしら」

「あ、その……先ほど、陛下、とダンテ様が地下にいらっしゃって。用を済ませたらお茶にしたいから、ベアトリス様にそれを伝えて欲しいと、僕に言伝ことづてを」

 慣れない呼称に少しつかえながら、オルセルが告げた内容に、ベアトリスはわずかに目を見開く。

「陛下とダンテ様が? 分かったわ、すぐに用意しないと」

 ベアトリスは紅茶色の髪をなびかせ、足早に去って行く。その後ろ姿を見送っていたオルセルに、背後から声がかかった。


「――オルセル!」

「ぅぐふっ」


 というよりも、声とほぼ同時に背後からの体当たり(タックル)を喰らい、オルセルはくぐもった悲鳴をあげる。

「……ゼル、急に飛び付くのは止めてくれないか」

「おう、それは悪かった」

 言葉とは裏腹にけろりとした顔で、ゼーヴハヤルは悪びれた様子もなくにこにことこちらを見ている。オルセルは何だかどうでも良くなってため息をついた。

「……それで、いきなりどうしたんだ?」

「別にどうもしないけど……ただ、オルセルは最近、ずっと地下の部屋にこもりっぱなしだからな。ただでさえひょろひょろなのに、もっとひょろひょろになるぞ?」

「ぐっ……そ、それはだな、僕の持ち場はあそこなんだからしょうがないだろ。というか、僕はそんなにひょろひょろしてるか?」

「多分、俺が全力で飛び付いたら吹っ飛ぶな」

「…………」

 あながち否定できずに、オルセルはそっと目を逸らした。

「……ところで、今日はミイカは一緒じゃないのか?」

「ミイカだったら、あのメリエってのに捕まってたぞ。何だか、新しい髪型を考えるとか何とか」

 仕事は良いのだろうか、と一瞬思ったが、あのメリエという少女は、どうもずいぶん立場が上らしい。オルセルはあまり詳しくないが、何しろ主であるレティーシャに対等な口を利き、愛称で呼ぶほどなのだから、そんな相手に捕まったのならミイカも否とは言えないだろう。

「そうか……」

「それよりオルセル、何でさっき、あの……ベアトリス、だっけ? あいつ見てたんだ?」

 と、何の前触れもなく突然ぶっ込まれ、オルセルは思わずむせた。

「ぶほっ!?」

「だって、見えなくなってもずっとあっち見てただろ? 何か用事でもあったのか?」

「いや、用事はもう済んだ……っていうかゼル、一体いつから」

「ん? さっき。――で、何でだ?」

 じいっと見つめてくる黄金色の瞳は、本人にそのつもりはなくとも、嘘を許さない妙な迫力がある。オルセルはそっと目を伏せた。


「……僕が、見ていたかったから……かな」


 見ているだけで充分だと思える、想い。告げるつもりも、気付かせるつもりすらない、ただこの心の中で温めていくだけのものだ。

 もとより、オルセルと彼女とでは身分が違い過ぎる。貴族として生まれ育ったという彼女が、オルセルのことを気に留めるはずもないだろう。


(本当なら、話どころか一目見ることも叶わなかったはずの人なんだから)


 それに、見ていればこそ分かることもある。


「……そもそもベアトリス様は、別のかたを見てるからね」

「そうなのか? 俺には何だかよく分かんないな」

 まだ恋など知らないのであろうゼーヴハヤルは、むう、と唸りながら首を傾げる。

「そういうのは人それぞれなんだよ。――じゃあ、僕はもう戻るから」

「ん、おう」

 まだ首を捻りながら、それでも律儀に返事を返してくるゼーヴハヤルに手を振り、オルセルは地下研究所に戻る。入口脇の定位置に陣取り、いつものように自主勉強を始めていると、奥から反響する靴音が聞こえてきた。


「――あら、オルセル。ベアトリスは見つかりまして?」


 いつものように微笑みを湛えたレティーシャに、オルセルは椅子から立ち上がりながら答える。

「は、はい。すぐにご用意すると仰って……」

「それならよろしいですわ。――それはそうとオルセル、この子の身支度をお願いできますかしら?」

 レティーシャが示した先には、ダンテに連れられた、一人の少年の姿がある。羽織るだけの簡素な衣服を身に着けた、黒髪の十代後半ほどの少年だ。ぼんやりと虚ろな瞳は、魔法照明の青白く冷たい光にも、赤い輝きを返した。

「あ、あの……その、彼は?」

「あなたが気に留める必要はありませんわ、オルセル。――着替えは侍女に持って来させますので、後をお願い致しますわね」

「は、はい、分かりました」

 オルセルが頷くと、ダンテが少年を彼に託す。と、少年がふらついたので、オルセルは慌てて支えた。


(……冷たい)

 ひやりと掌を冷やす、少年の肌の冷たさ。まるで今の今まで、水に沈んでいたかのような――。


「じゃあ、頼むよ、オルセル」

 ダンテの声に、オルセルははっとして答えた。

「は、はい、ダンテ様」

「よろしく。――さあ、参りましょう、我が君」

 ダンテはレティーシャをエスコートし、地下研究所を後にする。オルセルはとりあえず、少年を椅子に座らせることにした。侍女が服を持って来ると言っていたので、それが届かないと着替えもさせられない。

 何とか少年を椅子に座らせ、オルセルは大きく息をつくと、相変わらず視点も定かでない様子の少年を見やる。

(……やっぱり、彼も人造人間ホムンクルス、なのかな……でも、ゼルとかとは大分違うな)

 まじまじと彼を見つめていると、やがて足音が聞こえてきた。姿を見せたのは、お仕着せを着た侍女だ。籠に入った少年の着替えと思しき服を置き、一礼して立ち去って行く。そのどこか人間味の薄い表情や仕草に、オルセルは思い当たった。

(そうだ……どっちかっていえば、あの侍女たちの方に似てる)

 眼前で虚空を見つめる少年は、さっきの侍女たちに似通った部分がある。

(ここで働いてる人たちは大部分が人造人間ホムンクルスだって話だから、じゃあ彼もやっぱり……でもこれ、この宮殿の使用人の服じゃないよな?)

 ともかく、世話を任されたのだから放っておくわけにもいかない。オルセルは侍女が持って来た着替えを取り上げると、少年を着替えさせ始めた。


 新しい服は、ダークグレイを基調に真紅の差し色が入った、軍服のような意匠をしていた。


参考文献:図説 英国貴族の城館 カントリー・ハウスのすべて(河出書房新社)

城や屋敷の描写でお世話になっている本です。写真越しにもゴージャスな雰囲気が……。

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