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片翼のドラグーン  作者: 八月 あやの
第七章 流転の時
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第50話 変わりゆくもの

 レクレウス北端、オルロワナ北方領の中心都市ラフト。その領主館で、ユフレイアはその知らせを聞いた。

「――そうか。降伏勧告を受けることになったか」

『はい。ただ、その条件の中には一定期間、オルロワナ北方領からの鉱物資源を格安で輸出するという条項もございまして……』

「構わない。今のところこのオルロワナの鉱物資源は軒並み、埋蔵量の心配はしなくて良い状態だからな。王家への上納金を止めていたおかげで資金にも余裕がある。いざとなれば賠償金の足しにすると良い」

『は……有難きお言葉です』

 鏡の向こうで、ナイジェルがこうべを垂れる。

 今回の政権奪取に際し、彼女の第一の役割は資金と物資の提供だった。領内の潤沢な鉱物資源を、主に隣国であるヴィペルラート帝国やモルニェッツ公国に密かに輸出して資金をたくわえ、その金や鉱物資源そのものをナイジェルの暗躍のために提供したのだ。特に国内の貴族たちへの根回しには、それらが威力を発揮した。世知辛い話だが、どれだけ崇高な理想を掲げようとも、資金力がなければ軽く見られることが多く、できることも少ない。

「それで、あの国王バカはどうした?」

『軍議の途中で錯乱状態になって喚き立ててくださいましたので、ご乱心ということで休養をお取りいただいております。対外的には今回の戦争の責任をお取りになり、ご退位ということになりますかと』

「そうか。短い王位だったな」

 さして感慨もなくそう述べると、ユフレイアは異母兄についての話を終わらせた。

「それはそうと、貴族議会の方はどうなっている? 順調か?」

おおむねは。ただ、やはり強硬派の者たちは抵抗感が強いようです』

「まあ、あの連中は今さら他の貴族の下風には立てまい。――それに、けいはこのまま放っておく気もないだろう?」

 そうにやりとすると、ナイジェルも小さく笑みを浮かべる。

『今まで散々甘い汁を吸ってきたのです。少しは苦味も味わって貰わねば、帳尻が合いますまい』

「その辺りは卿に任せるさ。――それと、わたしもそろそろ、臣籍に降りようかと思う」

 ユフレイアの言葉に、ナイジェルは鏡越しにも分かるほど表情を変えた。

『それは……また、突然でございますね』

「前から考えてはいたんだ。それに、今のわたしはお飾りの王族だが、王都そちらではずいぶん状況が変わった。そこまで知恵の回る者がいるかは分からないが、強硬派の誰かがわたしを次の王に立てて、自分の子息を王配に仕立てようとすることもあり得る。わたしと卿が組んでいることは、こちらの陣営にいる者を除けば、ほとんど誰も知らないからな。王が飾りになるのなら、女でも良いと考える可能性もなくはないだろう。現にファルレアンも女王陛下をいただいている」

『なるほど。その前に王家から離脱してくださる、と』

「オルロワナ公爵家として新しく家をおこすつもりだ。――わたしはこのオルロワナ北方領の領主だからな。ここを守り、ここに骨を埋めると決めている。王家の血を引く女だからというだけで、引っ張り出されて利用されるのは迷惑だ」

 臣籍にくだっても王家の血を引いているのは変わらないので、次の王への即位を願われる可能性が完全になくなるとは言い切れないが、それでもずいぶんと低くはなるはずだった。現在のレクレウス王室に、王位を継ぐに足るほどの年齢に達している子女は、実はさほど多くない。筆頭はライネリオだったが、他の王子や王女は、年長の者は軒並み国内の有力貴族や他国の王族などと結婚して、すでに王室の籍を抜けている。年齢がライネリオに次ぎ、北方領という領地を不足なく治め、しかも高位元素魔法士ハイエレメンタラーという付加価値まであるユフレイアは、はたから見れば次の王として悪くはない選択肢だろう。ゆえにその前に、王家から離脱しておく必要があった。

 この北の地を、ここに在る領民と妖精族ともを守るために。

 ユフレイアの決意に、ナイジェルも頷いた。

『それは、こちらにとっても有難いことでございます。次の王が殿下のように聡明な方では、いささかやりにくうございますので』

「世辞はいい」

『とんでもございません。――では、そのように王都にご連絡を?』

「ああ、この後すぐに送るつもりだ。賠償金などの支払いには可能な限り協力するむねも添えてな」

 もちろん、王家から抜けたからといって、これからレクレウス王国が負うであろう賠償の負担まで放り出すつもりはない。この戦争は、元はといえば王家を筆頭とした王侯貴族が始めた戦争だ。大多数を占める平民たちは、それに巻き込まれて苦しい生活を強いられ、戦場で命を落とした。ならば敗戦後、彼らの生活を少しでも楽なものにするために、力を尽くさない道理はない。幸いにしてユフレイアには、そのための力があるのだから。

「では、わたしはそろそろ失礼する。卿もこれからさらに忙しくなるだろうが、身辺には気を付けた方が良い」

『ご忠告、有難く頂戴ちょうだい致します』

 王都との通信を終えると、ユフレイアは執務机に置いていた封書を取り上げた。

 ――ナイジェルに言った通り、臣籍に降るのは以前から考えていたことだ。ただ、今まで実行しなかったのは、これまでは曲がりなりにも王女と呼ばれる立場であることの方が有利だったからに他ならない。王家の権力が強かったレクレウスでは、たとえどれほど権勢を誇る大貴族であろうと、王族には一歩譲るのが常識だった。ユフレイアはそれを利用し、この北方領への干渉をできる限り和らげようと努めてきたのだ。

 だが、ナイジェルのもたらした変革により、王家の権威はこれから衰退の一途を辿るだろう。ないがしろにされるわけではないだろうが、権力の中枢からは遠ざけられる。ならばもう、ためらう理由はなかった。

 ユフレイアは人を呼び、封書を王城に届けるよう言い付ける。そして休憩を入れるべく、執務室を出て歩き始めた。


「――あれ、姫様。仕事はいいの?」


 そこへ行く手の方から歩いて来たのはフィランだ。いつものように領主館の中だというのに帯剣し、勝手知ったるという風情ふぜいでふらふらと廊下を歩いている。茶色の猫目もあいまって、まるで本当に猫のようだった。

「ああ、少し休憩をしようと思ってな。王都でもクィンラム公が動いたそうだし、ファルレアンの降伏勧告を受け入れるそうだから、これからまた忙しくなるだろうが」

「え、ってことはこの国、戦争に負けたってこと?」

「そうなるな。だが、多少なりとも余力を残せただけまだましだ。王都の強硬派に任せていたら、もっと泥沼に嵌まっていたことだろうし。クィンラム公が懸念していたのもそこだ。まあ、クィンラム公はこの機を上手いこと使って、自分の思う方向に国を動かそうとしているんだろうが」

「……それって、良いことなのかな」

 眉をひそめたフィランに、ユフレイアは肩を竦める。

「少なくとも今は、良い方向に動いている。それだけでも進歩だ。――今までは、それさえ望めなかった。国の方向性を決めるのは、大部分が国王の意思だったからな」

 貴族だけの議会とはいえ、複数の人間の意思が関わってくる時点で、今までとは大違いなのだ。国王が名君ならば以前のままでも良かったが、少なくともユフレイアには、自分の父と異母兄が名君だとはとても思えなかった。特にライネリオは、あのままでは間違いなく、国を滅亡に追いやっていただろう。父にしても、この戦争を始め、二年前に停戦の機を逃してさらなる泥沼に足を踏み込んでしまったのだから、良い王とはお世辞にも言えまい。

 ふうん、と呟き、フィランは表情を戻した。

「そっか。――じゃあ、それが落ち着いたら俺の仕事も終わりかな」

「……え」

 思わず声を漏らしたユフレイアに、フィランは怪訝けげんな顔になる。

「だって、姫様自分で言ったじゃん。“この国が変わるまでは自分の剣でいて貰う”って。で、もうすぐそうなるんだろ? 俺は学もないし、難しいことはよく分かんないけどさ。そうなったら、俺のやることもうないんじゃない?」

 フィランにそう言われて、ユフレイアは初めてそのことに思い至った。

「あ、ああ……そうか。そうだな。確かに、その通りだ……」

「まあ、いい生活させて貰ったし、あんまできない経験もできたからさ。俺としては結構美味しい仕事だったけど」

 ぽん、と腰の剣を軽く叩き、フィランの目に鋭い光が宿る。


「――でも俺は、《剣聖》なんだ。大陸を流れて、剣を振って振り続けて、そんでいつかどこかで誰かに《剣聖》継がせて、もしかしたらそこで負けて死ぬ。そういう生き物だから」


 たとえば、海を泳ぐ魚が、泳ぎ続けなければ生きられないように。

 サイフォス家の剣士は剣に生き、剣に死ぬ。百年の間ただそれだけを、身のうちに刻まれた血筋なのだ。


「だからさ、潮時になったら出てくよ。元々俺って、旅してる方が性に合うしさ」

「そう、か……」

「んじゃ、俺裏庭で稽古してるから。何かあったら呼んでよ」

「……ああ」

 ひらりと手を振って歩いて行くフィランを見送り、ユフレイアは唇を引き結んだ。

(……そうだ。元々はそれまでの約束だった。そもそもフィランは、たまたま気紛れでここに留まる気になっただけ。それだけだ……)

 本来ならば、互いに出会うはずもない存在だった。ただ偶然が重なり、彼がユフレイアの申し出を拒まなかったがために、実現した関係に過ぎない。

 この地に留まり続けることを望む自分と、大陸中を流れ剣に生きることが当たり前の彼とは、何もかもが違うのだ――。

 深く息をつき、ユフレイアは何か大切なものを取り落としたような気分で、しばらくそこに立ち尽くしていた。



 ◇◇◇◇◇



 かつての故郷を後にしたアルヴィーとルシエルは、ロウェルで待っていた残りの隊員たちと合流し、共に王都ソーマに帰還した。

 しばらく離れている間に、街中はすでにお祭り騒ぎの様相を呈していた。国主催のオークションが、近く開催されるからだ。

「うわー……何か今、すげーごっつい人いたけど」

「多分、どこかの傭兵団の人だと思いますよ。素材目当てで毎回、そういう人たちが一定数来るそうですから」

「へー……」

「僕もここまで大規模なのは初めて見るな」

 このオークションは大暴走スタンピードがあった年にのみ開催されるので、王都育ちの面々はともかく、ルシエルも実際に体験するのは初めてだ。それでもアルヴィーのように始終きょろきょろしていないのは、王都に暮らしていればある程度人が集まるもよおしはさほど珍しくもないからである。


「――今年は出物でものが多そうだな」

「何でも、ワームが出るらしいぜ」

「サイクロプスとベヒモスも複数倒したらしいって聞いたし、良い素材が安く手に入りゃ有難いな」

「今年は人出も多いし、店にも金を落として欲しいもんだね」

「あんたんとこ、宿屋だろ。客が多くて笑いが止まらないんじゃないのかい」

「まあねえ、ははは」


 道行く人々の話題も、軒並みオークションの話で持ちきりだ。そうしたオークション目当ての人々を狙い、地元の店も稼ぎ時だとかなり気合が入っているらしい。

 そんな声を聞きながら、一行は足早に騎士団本部へと向かった。報告はアルヴィーと、隊長であるルシエルがそれぞれいれば充分なので、他の隊員たちはその間待つことになる。ついでに、フラムもユナに預けておいた。瞳をきらきらさせて迫るユナにフラムがきゅーきゅーと悲鳴をあげていたが、まあいつものことなので放っておく。

 本部はいつも通り、誰もが忙しそうに立ち働いていたが、二人――特にアルヴィーの姿に、ちょっとしたざわめきが起きた。


「《擬竜騎士ドラグーン》だ……」

「戻って来たってことは、ファレス砦の方も落ち着いたってことかしら」

「レクレウスの魔動巨人ゴーレム部隊を全滅させたって聞いたぞ。末恐ろしいな……」

「けど、それで向こうの戦力が落ちるんなら、有難い話じゃないか」

「オークションの結果次第では国庫の方も潤いそうだし、《擬竜騎士( ドラグーン)》様々だな」


 歩いているだけで方々から突き刺さる視線が痛い。だがそれにも慣れなくてはならないのだろう。内心ため息をつくアルヴィーだった。

 そんなことを考えている間に、ジェラルドの執務室に到着する。ノックをして入室許可を得、中に入ると、二人して敬礼した。

「《擬竜騎士ドラグーン》、アルヴィー・ロイ。レドナにおいてのレクレウス軍迎撃任務、及びファレス砦支援任務を完了し、只今帰還しました」

「第一二一魔法騎士小隊、クローネル伯爵領における魔物討伐任務を完了し、只今帰還しました」

 二人の帰還報告に、ジェラルドは頷く。

「《擬竜騎士ドラグーン》及び第一二一魔法騎士小隊、任務完了及び帰還を確認した。後で報告書も上げろよ。――どうだった、久しぶりの里帰りは」

「え、と、その……おかげでちゃんと両親の墓に挨拶して来れ……ました」

「その節はお気遣いいただき、ありがとうございました」

 ジェラルドに対しては未だ敬語が不自由なアルヴィーは、少々口ごもりながらもそう言って、ぺこんと頭を下げる。一方のルシエルは、卒なく一礼した。

「話は聞いたぞ。アルヴィーの方はずいぶん派手にやったらしいな。まあ、魔動巨人ゴーレムを潰してくれたのはこっちとしても助かる。向こうの戦力が落ちれば落ちるほど、こっちはやりやすくなるからな」

「やりやすい、って……」

「向こうに降伏を突き付けやすくなる、ってことだ。実際この間、降伏勧告の文書を向こうに送ったらしい」

 ジェラルドの言葉に、アルヴィーは息を詰める。

「降伏勧告……」

「レクレウスの今の戦力じゃ、遅かれ早かれ継戦は困難になる。正直俺に言わせりゃ、もう少しばかり戦力を殺いでから降伏を促した方が良いような気はするが、その辺りは上層部うえなりの考えがあるんだろう。ともあれ、レクレウスがそれを呑めば、ひとまず停戦だ。おそらくそのまま、終戦になるだろうな」

 ジェラルドの言葉を、どこか実感のないままアルヴィーは聞いた。

「そ、っか……戦争、終わるんだな」

「……アル? どうしたの、何か気掛かりなことでも?」

 戦争が終わると聞いても、どこか浮かない色を残すアルヴィーの表情に、ルシエルが尋ねる。アルヴィーは目を伏せ、その異形の右手を握り締めた。


「何だろう……戦争が終わるって言われても、何ていうか、信じきれなくてさ。――俺自身はたった一年くらいしか戦争してないはずなのに、もう馴染んじまったのかな、戦場に」


 戦場でこそ最もきる生体兵器――そう作り変えられたこの身は、もう戦場の空気に馴染みきってしまったのだろうか。あれほど望んでいたはずの平和が、すぐ手の届くところまで来ているかもしれないというのに、喜びよりも当惑の方が胸に満ちた。

(嬉しいはずなのに……そうでなくちゃ、おかしいのに)

 アルヴィーの脳裏にちらりとよぎった感情は、喜びではなく……そう、“もう終わるのか”という拍子抜けに近い感覚だった。

「アル、それは」

 思わず声をかけたルシエルを遮るように、ジェラルドが席を立つ。そしてアルヴィーの傍まで歩み寄ると、やおらその頭を小突いた。

「って、何すんだよ!?」

「ガキのくせに一丁前に戦場に馴染んだ風なこと言ってんじゃねえよ。――まあ、人間なんてのは無意識に、置かれた環境に慣れようとするもんだ。そうじゃなきゃ生き抜けない、それは生き物としての本能だ。誰だって変わりゃしない。戦争が終わって静かになりゃ、今度はそっちに慣れるんだろうさ」

「……あんた」

「前線に出てる奴は、多かれ少なかれそうだろう。何もおまえだけが特別なわけじゃない。――さてと、パトリシア、休憩だ。茶でも頼む。ついでにこいつらにもな」

「はい」

 パトリシアが立ち上がり、紅茶を淹れる用意を始める。ルシエルが慌てた。

「いえ、僕たちは――」

「おまえらはそうでも、こっちに用事があるんだよ。ちっと付き合え」

 二人の返事など聞かずに、ジェラルドは彼らをずるずると引きずる。執務室には来客を迎えるためのソファとローテーブルがあるが、そこへぽいとばかりに二人を放り出した。

「――どうぞ」

 何が何だか分からないでいる内に、パトリシアが紅茶をテーブルに置いてくれる。礼を言って受け取ると、どこか果物のような甘い香りがする、紅玉のように澄んだ液体が、カップの中で静かに揺らめいた。

「……それで、用事というのは」

 尋ねるルシエルに、ジェラルドは風味を楽しむようにゆっくりと紅茶を含むと、

「財務副大臣閣下から伝言だ。おまえらが戻り次第、お会いになりたいそうだと」

「え」

 カップを傾けかけたまま、アルヴィーの動きが止まる。

「何で」

「俺が訊けるか。何か用があるからお呼びが掛かったんだろう。ま、早い内に行っとくんだな」

「あー……あ」

 そういえば《下位竜ドレイク》の素材の件で話をしかけていたことを思い出し、納得するアルヴィー。一方のルシエルも、家督かとくに関連することだと見当は付いているため、もくして喉を潤すに留めた。

「セリオ、あなたも少し休憩なさい」

「あ、どうも。もうちょっとなんで最後までやっちゃいます」

 紅茶を出してくれたパトリシアに礼を言いつつ、セリオは何やらせわしなくペンを走らせている。興味を惹かれて、アルヴィーは席を立つとその手元を覗き込んだ。

「それ、何やってんだ?」

「これ? 転移魔法の起動術式の改良だよ。もうちょっと距離伸ばしたいからね」

 セリオが手元の紙に書きつづっているのは、アルヴィーには理解不能の文字の羅列られつだった。そういえば、《魔の大森林》で見つけた転移の魔法陣の中に、似た感じの文字があったような気もする。

「……これってあれ? 古代文字とかいうやつ?」

「そうだよ。今使われてる魔法の術式は、大体が古代文字で記述されてるからね。いじるにも古代文字を知ってないと……よし、これで一応形にはなったかな」

 最後の一文字を書き終え、セリオは大きく伸びをする。

「でもこれ、普通に文章に見えるけど……魔法陣とか使わねーの?」

「後で対応箇所を嵌め込むんだよ。――あー、美味しい」

 しみじみと紅茶を味わいつつ、大きく息をつくセリオ。そんな彼曰く、実際に使う際には確かに魔法陣として展開するのだが、改良箇所を抜き出すには、一度こうして構文の形にする方が効率が良いのだという。そうしておいて、改良した部分だけ魔法陣での対応箇所を置き換えるのが、セリオにとって最もやりやすい手順だそうだ。どちらにしても、アルヴィーにはさっぱり分からない。

「もっとも、わざわざ魔法術式の改良なんてやろうとするのは、こいつと研究所の連中くらいのもんだがな。今使われてる魔法術式は、ほとんど弄る余地なんぞないくらい完成形に近い――少なくとも、現在いまの学者の見解じゃな。現在の魔法術式が確立したのはもう何百年も前だってのに、それがまだ現役だってんだから、恐ろしい話だが。考えた奴は天才か、じゃなきゃ人外だ」

 紅茶をあおり、ジェラルドがいっそ呆れたような口調で言う。

「何百年か……すげーな」

 感心したアルヴィーの脳裏に、ふとよぎる記憶があった。

(そういえば……あの謁見えっけんの時に、風の大精霊とかってのが言ってたっけ。昔、《黒白( こくびゃく)の魔女》ってのがいて、人間に色々教えたって。もしかして今の魔法も、そいつが考えたのかな。――なあ、アルマヴルカン)

『さてな。あの時も言った通り、わたしは人の世にさほど興味がなかった』

(だよなー……)

 当てになりそうでならない歴史の生き証人(?)にため息をつき、アルヴィーは過去の探求を諦めた。

「ま、転移の限界距離が伸びるってんなら、こっちとしても歓迎だ。おまえらが持ち帰って来た術具と魔法陣は、まだ解析中だからな。研究所の連中が大喜びで調べ回ってる。こないだ聞いた話だと、三日完徹してるって言ってたが」

「……あそこの人たち、寝なくても生きていけんのかな……」

 確か前にも五徹とか言っていたような気がするが、と遠い目になるアルヴィー。彼らはもしかしたら、竜の細胞など移植されなくても人外の耐久力を持っているのではなかろうか。少なくとも普通の人類には睡眠が不可欠なはずだ。

 王立魔法技術研究所の研究員たちに人外疑惑が浮上したところで、アルヴィーたちはそろそろおいとますることにした。シャーロットたちも待たせていることだし、ルシエルの父からもお呼びが掛かっているというのなら、あまり長居もできない。

「――では、僕たちはこれで失礼します」

 立ち上がって敬礼するルシエルに、アルヴィーも慌てて倣う。

「ああ、さっさと顔出して来い」

 追い払うように手を振るジェラルドに見送られ、二人は執務室を後にした。

「……行くか?」

「そうだね……」

 心なしかげんなりした顔を見合わせ、とりあえず戻りが遅くなることを部下たちに伝えるため、《伝令( メッセンジャー)》を飛ばすルシエルだった。



 ◇◇◇◇◇



 ファルレアンの北に位置する三公国の一つ、サングリアム公国。大陸におけるポーション流通をほぼ一手に取り仕切るこの国は、三公国の中でも頭一つ抜けた影響力を誇っている。それでも軍事力という観点からは他の大国には及ばないので、ポーション流通における優位で何とか立場を保っているというところだが。

 首都であるサングリアムは、ソーマから見ると真北からやや西に外れた位置にある。大陸環状貿易路グレート・ロードの一部が通っており、その道はソーマからリシュアーヌ王国王都・フィエリーデへと向かう、いわば近道だ。ポーション製造でそれなりに潤っているためか、街並みはなかなか美しく整えられ、道行く人々にも活気があった。

 その中心にある城の中庭に、一人の青年が突如姿を現す。

 ココアブラウンの髪をなびかせた涼しげな容貌のその青年――ダンテ・ケイヒルは、転移魔法の術式が込められた水晶を仕舞うと、まるでこの城の住人のような堂々とした足どりで歩き出した。

(ふうん……さっきの中庭もそうだけど、この辺りは領主の居城をそのまま残しているのか)

 記憶を辿りながら城館に足を踏み入れ、彼はこの国の主たる大公のもとを目指す。だがそんな彼の前に、槍を構えた兵がばらばらと走って来て立ちはだかった。

「待て、貴様! 何者だ!?」

「どうやって城内に侵入した!」

 城内の守りを任されているということは、それなりに腕も立つのだろう。もっとも、ダンテにとっては“それなり”程度の兵が多少いたところで、何ら問題にはならないのだが。

「ええい、取り押さえろ!」

 隊長格とおぼしき兵の号令で、兵士たちが一斉に槍を構えてダンテに突進してくる。ダンテはいっそ優雅なほどの動作で腰の剣を抜き放ち、


「――《シルフォニア》」


 ヒュオ、と空気が鳴った。

 振り抜かれた銀の軌跡をなぞるように、不可視の刃が兵士たちを斬り裂く。飛び散るその返り血すら、すぐさま飛び退いたダンテを捉えることはできず、空しく床を汚すばかりだ。

「……な、何だ、何なんだ貴様はぁっ……!?」

 刃を合わせることすらなく斬り伏せられ、兵士の一人が血溜まりに倒れ込んだままか細く呻く。次の瞬間、もう一度振るわれた魔剣から放たれた一撃が、続く言葉ごと彼の命を刈り取った。

「さて、と……大公の執務室はどこだったかな」

 愛剣《シルフォニア》を鞘に納めると、ダンテは辺りを見回す。中庭を囲む形の回廊は、どうやら城館の中央部に位置するようだ。それは構わないのだが、城館内を移動する際の主要ルートにもなっているのか、人の気配が掠めることが頻繁なのは大いに問題だった。たった今結構な惨事を引き起こしてしまってもいることだし、早めに移動した方が良いだろう。

 ダンテは血溜まりを避けながら、足早にその場を後にする。背後から侍女らしき悲鳴が聞こえてきたが、彼にとってはどうでも良いことだったのでそのまま無視した。

(ここには確か、前に来たことがあったけど……こっちだったかな)

 かつて、この地を訪れた時のことを記憶の底から引っ張り出す。もうずいぶん前の話だが――少なくとも大公の執務室がそうあちこちに引っ越すこともないだろう。記憶を頼りに廊下を進んだ。

「――何者だ!? 本日は大公閣下へのお目通りの予定はないぞ!」

 目的の部屋の前には、いかにも近衛といった出で立ちの護衛の兵が立ち、目を光らせていた。誰何の声に対するダンテの返答は、《シルフォニア》が空を斬るかすかな音だけ。不可視の刃は近衛兵たちの喉を掻き切り、悲鳴すらあげさせずに命を奪う。

 障害を排除し、ダンテは近衛兵たちのむくろをそのままに、豪奢ごうしゃな扉を押し開けた。

「お初にお目に掛かります、大公閣下。わたしはダンテ・ケイヒルと申します。この度は我が主よりサングリアム大公家にお預けしておりましたものを、お返しいただきたく参上致しました。先触れもなく参りました非礼は、どうぞご容赦の程を」

 優雅に一礼したダンテだったが、その背後には鮮血が飛び散った廊下と、倒れ伏した近衛兵たちの骸がある。それらを意に介さない様子で、にこやかに入室してくるダンテに、室内の人間たちは凍り付いたように立ち尽くした。

「……な、何者だ。なぜこのような狼藉ろうぜきを……!」

 あえぐような問いに、ダンテは目を鋭く細める。


「先ほども申し上げた通り、我が君より閣下がお預かりなさっていたものを、お返しいただくために参上したまでです。――クレメンタイン帝国の正統なる継承者、レティーシャ・スーラ・クレメンタイン皇女殿下の名において、このサングリアムの地をお返しいただきます」


 すらり、と抜かれた《シルフォニア》の刃が、まるで獲物を求めるかのようにきらりと光った。

「な、何を……! このサングリアムの地はわしのものだ! 第一、クレメンタイン帝国など、とうの昔に滅んだ国ではないか! ええい、狂人の戯言ざれごとなどに耳を貸すな! 斬り捨てろ!」

 悲鳴のようなサングリアム大公の命令に、室内に控えていた近衛兵たちが動く。だが、ダンテの動作はもっと早い。大きく踏み出すや否や、彼は《シルフォニア》を振るった。

 ――決着はものの数十秒ほどで付き、室内には物言わぬ骸となった近衛兵たちが倒れ伏す。そんな中、一人無事だった――否、“あえて見逃された”サングリアム大公は、今や死者かと思うほど顔を青ざめさせ、ガタガタと震えながら人型の災厄から距離を取ろうともがいていた。

「そ、そんな、馬鹿な……! 貴様は何だ、何なのだ……!」

「ですから、先ほども申し上げました通り、このサングリアムの地をお返しいただければ良いんですよ。――元々サングリアム“公爵家”がこの地を与えられたのは、帝国貴族の中でも最も帝室に忠実に仕えた臣であったからこそ。百年前に帝国を裏切って他国に尻尾を振った時点で、本来ならこの地を預かる資格など失っているんですよ、あなた方は。未だにその椅子に座っていられたのは、ひとえに我が君がお目溢めこぼしくださっていたからに過ぎません」

 ダンテは《シルフォニア》を一振り。不可視の刃は大公を掠め、その背後にあった執務机と椅子を真っ二つに叩き斬った。その威力に、大公はますます震え上がる。

「ま、待て! か、金なら払う、何なら爵位も用意しよう! 我が国はこの大陸のポーション流通の利権を握っている、その程度ならいくらでも――」

「不要です。我が君からたまわるものでなければ、僕には何の価値もありませんので」

 不快そうに眉を寄せるとそう切って捨て、ダンテは《シルフォニア》で大公の首を斬り飛ばした。

(あ、しまった……“鍵”の在処ありかを訊き忘れた。まあいい、どうせ素直に喋ったとも思えないし、所詮借り物でしかない地位にふんぞり返るだけの俗物の御託ごたくなんか、聞く価値もない)

 《シルフォニア》を丁寧に布で拭って鞘に納めると、大公の骸の傍に屈み込む。

「さて……製造施設の“鍵”はどこかな」

 ダンテは大公の服を探り、首から鎖で下がっていた鍵を見つけた。だが、それは目当てのものではなく、眉を寄せる。

(我が君から伺った限りでは、“鍵”はもっと大きいはず……どこだ?)

 ひとまず大公の骸から鍵を奪うと、室内を調べ始める。と、壁に据え付けられていた飾り棚が動くことに気付いた。試しに横にずらしてみると、その後ろに人の背丈ほどの高さの細長い扉が現れる。その扉に鍵穴を見つけ、ダンテは確信を持った。

「なるほど、ここの鍵か」

 手にした鍵を扉の鍵穴にし、回す。果たして、がちり、と回る確かな手応え。

 そして開いた扉の中にあったのは、台座に立てられた一本の杖だった。大振りの宝玉が頭部にあしらわれ、精緻せいちな細工が各所に施されて、それだけで美術品として通用しそうな代物だ。しかし、台座から引き抜いてみると、石突きに当たる部分は二股に分かれ、複雑な形状に成形されている。なるほど、鍵に見えなくもない。

 ダンテはそれを確認し、左耳のピアスを弾く。

「我が君、サングリアム大公をちゅうし、ポーション製造施設の“鍵”を発見しました」

『そう、良くやってくれましたわ、ダンテ。これでこの大陸のポーション流通はほぼ押さえました。資金源としては充分です。――その城の地下にあるポーションの製造施設は、定期的に“鍵”を認証させないと停止するように、予め仕掛けが施してありますの。これでサングリアム側は、施設を制御できなくなりました。後はわたくしの役目です。良い働きでしたわ、ダンテ』

 主の満足気な声に、ダンテも表情をほころばせる。

「勿体無いお言葉です、我が君」

 百年前に帝国を裏切ったサングリアム公爵の子孫にして現大公の誅殺ちゅうさつ、そして“鍵”の回収。それが、ダンテの役目だった。大公自身が帝国を裏切ったわけではないが、生きていられては面倒だし、大体どの国でも貴族が国家反逆罪を犯せば一族も連座させられる。そう考えれば、あながち的外れな処刑でもないだろう。ただ、百年ばかり遅れただけの話である。

 ダンテは“鍵”を魔法式収納庫ストレージに仕舞うと、ごく当たり前のように執務室を後にして廊下を歩く。この辺りはさすがに大公の執務室付近だけあって、人はあまり来ないようだ。騒ぎにならなかったのは有難い。まあ、騒がれたところで斬るだけだが。

 中庭に戻ると、彼は魔法式収納庫ストレージから袋を一つ取り出した。口を縛った紐を緩めると、黒い小さな種を一掴みばかり取り出す。

 それを適当にばら撒き、ふと思い出した。

(――そういえば、前に我が君に伺ったお伽噺とぎばなしの中に、こういう感じの話があったな。薔薇だか茨だかに城ごと閉じ込められた……)

 そんなことを考えながらばら撒いた種は、地面に落ちるとすぐに芽を出し、茨を伸ばし、どんどん広がっていった。やがて中庭を覆う勢いになったのを確かめ、転移術式の仕込まれた水晶を取り出す。

 ダンテの姿が光に包まれて消え――そして、その痕跡すら掻き消すように、茨がすべてを覆い尽くしていった。



 ◇◇◇◇◇



 財務副大臣ジュリアス・ヴァン・クローネルの執務室は、今日も書類で埋もれている。

「――よく来た、二人とも」

 書類を確認しサインを綴り続けていたジュリアスは、ペンを走らせていた手を止めて二人を迎えた。もっとも、迎えられた二人の方――特にアルヴィーは、室内の凄まじい状況に唖然としていたが。

「……なあ、これ、入って大丈夫なのか? 何か、歩いただけで崩れそうなんだけど、そこの書類の山とか」

「大丈夫だよ、意外と崩れないものだから」

「…………」

 それって経験談だよな、と親友に突っ込みたいのを、アルヴィーはじっと我慢する。一応閣僚の眼前だ。

 ひそひそと話している二人を、ジュリアスはあえて見逃し、応接用のソファを勧める。二人を迎えることを予定していたせいか、そこだけはさすがに書類に占拠されてはいなかった。

 補佐役であろうか、傍に控えていた文官を伴い、ジュリアスはソファに座を占めた。二人もその差し向かいに腰を下ろす。

「――さて、まずはアルヴィー・ロイ、君の方の要件から済ませようか。君が以前に討伐した《下位竜( ドレイク)》の素材の処理と鑑定が終わった。これがその目録とおおよその金額だ。確認してくれたまえ」

 すい、とテーブルの上を滑り、折り畳まれた目録がアルヴィーの方に寄越される。アルヴィーはおっかなびっくりそれを受け取り、開いて中の内容を確認し、そして冗談抜きで目眩めまいを覚えて危うくよろけるところだった。

(な、な、何だこの金額……! そ、想像付かねえ……!)

 今までの人生で目にも耳にもしたことのないような金額が、当たり前のようにそこに書かれているのだ。アルヴィーはそっと目録を元通りに畳み、心なしか痛み始めたようなこめかみに手をやる。できれば見なかったことにしたい。金銭感覚はまだまだ辺境の村人寄りレベルな彼に、億近い金額など爆弾でしかないのだ。

「どうかしたかね」

「……その……ちょっと頭痛が」

 隣をチラ見すると、ルシエルが気持ちは分かる、という感じの表情でそっと頷いた。そうだよな、と目で訴える。正直、現物を渡されても換金されても、管理できる気がしない。もちろん、成り行きとはいえ戦ってたおした以上、無駄にするという選択肢もないのだが。それは命を奪った相手に対する非礼であるのだから。

「ふむ、では早めに切り上げた方が良いかな。――魔石に関しては基本的に国で買い上げる。ゆえに、残りの部位の素材を君に返還することとなるわけだが、できればその一部をこちらに融通ゆうずうしてくれると有難い。使い道は色々とあるのでな」

 竜種の素材となると、国レベルでも立派な資産となり得るのだ。国内に威を示すにも、外交の手土産として国力を暗示するにも、《下位竜( ドレイク)》の――それも極めて状態の良い――素材は有用だった。

「無論その場合は、その量に応じた金額を支払おう。どうかね?」

「……ええと、その……」

 唸りたい気分で、アルヴィーはぐるぐると考える。村で猟師をやっていた頃の獲物の分配は、小規模過ぎてこの場合参考にはならなかった。そもそも、あの小さな村とは経済観念が違い過ぎるのだ。


 ――いいかい、アル。自分の“分”ってのをわきまえなきゃいけないよ。

 いくら調子が良い時でも、自分が抱えられないほど獲物を仕留め過ぎちゃいけない。

 そういう身の丈を過ぎた欲は、大抵の場合災いしか招かないもんだからね――。


 アルヴィーが猟師として独り立ちし、初めて猟のために森に入る、その前の晩。

 母に言い含められたその言葉が、ふと頭をよぎった。


「……じゃあ、一部だけ素材で返して貰って、後は国に任せます」

「そうか。では、返還する素材の選別と、こちらで引き取る分の金額の算定を――」

「あ、金はいいんで」

 あっさりとアルヴィーが言ってのけ、他の三人は思わず彼を凝視した。

「……ええと、アル、いいの? 凄い金額になるけど」

「前にさ、お袋に言われたんだよな。“身の丈を過ぎた欲は、災いしか招かない”って。俺が扱いきれる金額じゃないしさ、そんな金貰っても困るしかないけど、かといって素材で貰っても使い道ないし。だったら、国に任せてその分の金有効利用して貰えば、無駄にすることにもならないかなって。獲物無駄にするのは、元猟師としてやりたくないしさ」

 アルヴィーなりに頭を絞ったつもりの案だったが、ジュリアスと文官は未だに絶句している。まだしも幼馴染として耐性があったルシエルは、何とか立ち直ってため息をついた。

「……まあ、アルらしくはあるよね」

「だろ? 大体、魔石の金額だけで充分怖いよ。あれだけで村が買えそうだ」

 肩を竦めたアルヴィーに、衝撃を脱したジュリアスが咳払いした。

「……では、返還分以外は国に献上という形で良いのかね?」

 どこか疲れたように言う彼に、アルヴィーは頷いた。

「ええと、面倒のない感じでお願いします」

「……そうかね。分かった、そのように手配をしよう」

 ジュリアスは頷き、文官をつついた。まだ放心していた文官は、そこではっと我に返ると決定した内容を書き留める。――あまりの衝撃に字が震えているが、まあ無理もあるまい。

 爆弾を落とした当の本人は、問題が片付いたと言いたげなすっきりした表情をしていた。

「……それで、僕にお話というのは」

 ルシエルが話を変えると、ジュリアスは気を取り直したように、

「うむ。実は――おまえが西に行っている間、ドロシアたちが王都に乗り込んで来た」

「そういえば、そんなことを仰っていましたが……もしかして、兄上たちも」

「ああ、揃って領地を放り出して、わたしに直談判するために来たらしい。無駄だというのに」

 冷徹に切り捨てるその表情は、先ほどまでとは別人のように冷ややかだ。

「ただ、屋敷の方に乗り込んで来たのでな、そちらで少し騒ぎになった。ロエナには少し怖い思いをさせたかもしれんな。帰ったらいたわってやってくれ。わたしは今しばらく、帰りが遅くなるのでな」

 思いがけない話に、アルヴィーとルシエルの表情も厳しくなる。ルシエルが急き込むように尋ねた。

「まさか、母上に何か――」

「いや、屋敷の者たちが止めに入ったそうで、事なきを得た。とりあえず、ドロシアの実家に事情を伝えて引き取らせたが……このままおとなしく領地に戻るかどうかは分からん。しばらく気を付けておけ」

「……分かりました」

 ルシエルは頷き、父を見返す。

「お話というのは、それだけですか」

「ああ、もう戻って良い」

「それでは、お言葉に甘えてこれで失礼します。家の方が心配ですので」

 ルシエルは立ち上がって一礼する。アルヴィーもそれに続こうとしたが、それにはジュリアスから待ったが掛かった。

「君にはもう少し残って貰わねばな。返還分の素材を選んで貰う必要がある」

「う……は、はい」

 ちらちらとルシエルとジュリアスを見比べ、アルヴィーは観念して頷く。心配そうに見やってくるルシエルに手を振った。

「こっちは大丈夫だから、ルシィは先に戻れよ。俺もそっち心配だしさ」

「……分かった。ありがとう、アル。――では、アルをよろしくお願いします」

 ルシエルはもう一度頭を下げると、足早に執務室を出て行った。事なきを得たとはいっても、やはり母のロエナが心配なのだろう。アルヴィーにしても、彼女のことが気になるのは同じなのだ。

 だが今はとりあえず、差し迫った問題を解決しなければならなかった。

「では、早速素材の選別に入ろうか。人を呼ぶので、少し待ってくれたまえ」

「……はい」

 魔動巨人ゴーレム部隊に囲まれた時より心細い気分になりつつ、そう頷くしかないアルヴィーだった。


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