第48話 戦いの果て
空を切り、墜ちる。凄まじい速さで近付いてくる地表に、足から着地できるよう何とか体勢を整え――次の瞬間、アルヴィーは砦の麓近く、草がまばらに生える土の山肌へと足から突っ込むように“着地”した。
ズガン、ととんでもない音が響き、衝撃で足元の地面が弾け飛ぶ。それは膨大な量の土煙を巻き起こし、アルヴィーを咳き込ませた。
「――うぇっ、げほっ……! 咽る、つーか足痛ってぇぇぇ!!」
まあ、頭や背中から突っ込まなかっただけ、ずいぶんマシというものだが。さすがにそれは、人間離れした回復力を持っていても御免こうむりたい。
「……きゅぅぅ……」
「あ、おいフラム、大丈夫か!? 潰れてねーか!?」
目を回してか細い声をあげるフラムをあやしつつ、アルヴィーは軽く地形が変わってしまった着地点を後にする。服に積もる勢いの土埃をせっせと払っていると、戦場の方から地響きのような雄叫び、そして馬蹄の音が聞こえてきた。比喩でなく、地面が小刻みに揺れている。
「……始まったのか」
ファルレアンの騎馬隊と、レクレウスの侵攻部隊が接敵したのだろう。数の上ではレクレウス軍の方が多いが、彼らは何ケイルもの距離を踏破し、さらに砦からの攻勢に晒されて疲労が溜まっているはずだ。気力に体力、そして装備も充実したファルレアンの騎馬隊であれば、頭数の差はあれど充分に互角の戦いができるだろう。
アルヴィーは一度だけ戦場の方を振り返り、そして向き直ると地面を蹴った。山肌や石で組まれた防壁を足掛かりに、文字通り跳ぶように駆け上がって行く。
「……にしても、やっぱ降り方が直滑降だけとか、不便だよなー」
速度が欲しい時には便利だが、毎度毎度着地が荒っぽくなるのは勘弁願いたい。もう少しソフトな着地方法はないものだろうか。
独り言のようなぼやきに、だがアルマヴルカンから返答が来た。
『主殿には片翼しかないゆえ、竜のようにはいかんがな。魔法障壁を応用して、空中に足場を作るのはできんこともない』
「え、何それ便利そう」
今度教えて貰おうと思いながら、アルヴィーは斜面を登りきり、砦の最上部へと舞い戻った。
最上部からは、砦正面で激突する両軍の乱戦が見える。もうもうと土煙が上がり、喚声が風に乗って流れてきた。
アルヴィーの《竜の咆哮》なら、騎馬隊が接敵する前に敵軍を薙ぎ払うこともできた。だがこれは、この砦を守り続けてきた騎士たちの戦だ。彼らの、砦の守人たる誇りを懸けた一戦。だからアルヴィーは、あえて手を出さなかった。
(……ま、俺は魔動巨人潰したから、仕事してないとは言われないよな)
一応そのためにここに派遣されたようなものなのだから、魔動巨人全滅というのはまず満足の行く成果のはずだ。――というか、むしろ事が大き過ぎて地味に一国の行く末を左右しようとしているのだが、生憎国際情勢などというものにまだまだ疎い彼には、自分のやったことが巡り巡ってどれほどの影響をもたらそうとしているのか、いまいち想像できていなかった。今はまだ、“言われたことはやったからいいか”程度である。良くも悪くも、彼の思考の幅はまだ戦場を出ることができていない。
突然空を飛んで味方を守ったと思ったら、離脱して砲弾か何かのように麓に突っ込み、そして平気な顔でまたひょいひょいと最上部まで戻って来るという、人間離れした所業をこれでもかと見せたアルヴィーに、騎士たちは皆何ともいえない顔になった。
そこへ、
「――おーい!」
と割り込んできた声に、アルヴィーはそちらを見やる。
飛竜の爆撃部隊がいなくなったので、応援部隊は悠々とファルレアン側から砦に入ることができていた。そんな中、カシムは砦に入ると早速、アルヴィーに声をかけてきたのだ。今まで散々アルヴィーの人外じみた戦闘力を見せ付けられてきた騎士たちは、ぎょっとしてカシムの方を見やった。何か気に障ることでも言って、アルヴィーを怒らせたりしたら堪ったものではない、ということだろう。
しかし当のカシムは、そんな視線など我関せずとばかりに、親しげに笑みなど浮かべて歩み寄り、ばしばしと遠慮なくアルヴィーの肩を叩いた。
「よお、ひっさしぶりー。何だよ、いつの間に空なんか飛べるようになっちまったわけ?」
「あー……まあ、こないだ。もっとも、そんな自由に飛べるわけじゃねーし、下りるのは今んとこ直滑降一択だけどな」
「ぶっは、マジか!」
げらげらげら、と腹を抱えて笑うカシムを、周囲の騎士たちはもはや人外でも見るような目で見やる。人間離れした肝っ玉、ということで、ある意味人外認定されたのかもしれない。
しかしそこへ、もう一人(騎士たちにとっての)人外の胆力の持ち主が首を突っ込んだ。
「こら、カシム。ふらふら隊を離れるな。――久しぶりだな、さっきは助かった」
カシムの首根っこを引っ掴みつつ、シルヴィオはアルヴィーに顔を向ける。
「応援部隊の被害は?」
「おかげでそう酷くない。さすがに負傷者なしとはいかなかったけど、頭上取られての爆弾の雨であの程度で済めば幸運な方だろう」
「いや……下からもある意味、爆弾が飛んでったようなもんだと思うけど、あれ……」
上からは爆弾の雨、下からは爆発する矢の応酬だ。改めて思い返すと、何とも物騒な空間であった。まあ戦場なのだから物騒なのは当然といえば当然か。
「で、おまえまだこっちにいんの?」
「いや、多分応援部隊と入れ違いに戻ることになると思うけど。ぶっちゃけ、俺もうここでやることあんまないし」
「ああ、さっきちょろっと聞いたけど、魔動巨人全滅させたんだっけ? 相変わらずやること派手だよなー」
またけたけたと笑うカシムだが、単騎で魔動巨人部隊壊滅というまさしく人間離れした所業を“やること派手”で片付ける辺り、耐性があると見るべきか毒されていると見るべきか。
「そうか。まあ、文句の付けようもない戦功は挙げてるし、ムーアグロート辺境伯家の立場もあるから、それが無難かもしれないな。――じゃあ、俺たちはこれからもう一働きするから、これで。クローネルにもよろしく言っておいてくれ。今回、彼の隊は応援部隊には入ってないからな」
「え、そうなの!?」
「残念ながら、中央の複雑な事情というやつでね。――むしろ君は、王都に戻った後のことを心配するべきかもしれないぞ。じゃ」
軽く手を上げ、シルヴィオはカシムを引っ張って行ってしまった。彼らの仕事は、これからが本番なのだろう。
「ちょ、何すかその不吉な台詞! 王都戻んの怖いんだけど!? ちょっとー!?」
シルヴィオが放り投げていった不穏でしかない爆弾発言に慄いていると、騎士が一人やってきて声をかけた。
「《擬竜騎士》、司令がお呼びだ」
「司令が?」
いよいよ用済みか、などと思いながら、アルヴィーは了解の返事を返し、イライアスのもとへと向かった。
――眼下の戦場を双眼鏡越しに見つめていたイライアスは、人の気配と足音に、声をかけられる前に振り返る。
「来たか」
「ええと……あ、《擬竜騎士》、只今応援部隊の援護任務を完了しました」
そういえば任務の完了報告をしていなかったと思い出し、敬礼と共に報告する。それに素っ気なく頷くと、イライアスはまた双眼鏡片手に戦場に向き直った。
「魔動巨人の脅威が消え、応援部隊も到着した今、貴様がここにいる理由はもうなかろう。早々に王都に戻るが良い。後は、我々の仕事だ」
「……了解しました」
まあ読めていた展開ではあったので、アルヴィーは小さくため息一つだけでその命令を受領する。先ほどのシルヴィオの不穏な置き土産の台詞が怖過ぎるが、だからといって仕事もないのに砦に居座るわけにもいかない。
敬礼してその場を辞そうとすると、イライアスは戦場に目を向けたまま懐から一枚の書面を取り出して、アルヴィーに押し付けた。
「……これは?」
「この砦の通信設備を、特別に使わせてやる。その許可書だ。後で状況が落ち着けば、王都への報告に使うと良い。――貴様がレクレウスの出というのは気に入らんが、今回の任務において、貴様の戦いぶりはなかなか見事だった」
「え……」
「火竜の力を鼻に掛けているような愚か者ならばここで叩き潰してやろうかと思っていたが、つまらん。――まあせいぜい、女王陛下の臣として励むが良い」
「は、はい」
言い様は何ともあれだが、一応認められたと思って良いのだろう。アルヴィーは居住まいを正して一礼する。
「……他人からどう思われようと構いません。――俺は俺自身の意思で、この国の騎士としてありたいと思います」
今回のことで、自分にはさらなる悪名が付いて回るだろう。戦場で人を手に掛け、炎と破壊を撒き散らした姿は、敵味方問わず畏怖の的となるには充分だったはずだ。陰で“化物”と囁かれていたことも知っている。
それでも、そのすべてを背負って、この道を進むと決めたから。
例えそれが、血と炎で染め上げられた紅蓮の道だとしても。
上げられた朱金の瞳は、揺らぐことなく前を見つめる。
ただ、ただ、己の右手の剣で切り拓く、その道の先を見るかのように。
「……良かろう。下がるが良い」
その、静かに燃える炎のような双眸を一瞥し、イライアスはそれきり振り向かなかった。彼が今見つめるべきは、眼下に広がる戦場。互いの武器がぶつかり合い、血が流れ、その命を喰らい合ってせめぎ合う、その一部始終だ。
――だが、そこに至るまでに誰より身を削り、血を流したのは、他でもないあの少年だった。
竜の力を持つという前情報で想像したような驕りもなく、良くも悪くも普通の少年。どこまでも愚直で、だがどこか歪なものを感じさせる少年でもあった。
人間を軽々と凌駕し、使いようによっては国すらも動かせるかもしれない力。そんなものをどこにでもいるような少年がある日突然持たされて、それでも歪まずにいられることこそが、彼の歪さを物語っているような気がした。
そう――例えば、魔動巨人の自爆に巻き込まれて重傷を負い、それでもすぐに回復して戦えることを、当然のように受け入れている姿。おびただしい血に塗れた、凄惨な自らの姿を意にも介さない彼の様子に、一瞬背筋がすっと冷えたのを覚えている。
(……人間離れしているのは、外側だけの話ではない、か)
もしかしたらその内面こそが、何よりも。
よぎったそんな考えは、だが戦場からの喚声にすぐに押し流される。戦況をざっと見て取り、イライアスはすぐに部下を呼び寄せ指示を出した。指示を受けた部下が伝達のために駆けて行くのを見送り、ふと背後を振り返る。
《擬竜騎士》の少年の姿は、もうどこにもなかった。
――眼下での勝敗が決し、ファレス砦がレクレウス軍の侵攻を完全に退けたのは、それからしばらく後のことだった。
◇◇◇◇◇
魔物たちと自称傭兵の襲撃から一夜明け、彼らを軽く取り調べたルシエルは、状況を記した手紙をラクルマルディの領主館と、ここより少し南の侯爵領にある西方騎士団本部に送った。いかにクローネル家のお家騒動のようなものとはいえ、曲がりなりにも騎士団の任務の最中に襲撃されたのでは、騎士団の方に報告しないわけにもいかないのだ。
そして返答を待つ間、村近くの森の中を軽く探索することにした。魔物たちがあれで全滅したとは限らないからだ。騎士団やクローネル伯爵家の信用を守るためにも、今回のような事件を再発させてはならない。確認はきちんとしておく必要があった。
襲撃者たちはユフィオの魔法で眠らせ、一応カイルを見張りとして残して、残りの面々で森を一通り探索した。幸い一帯の魔物たちは今回の襲撃グループに取り込まれていたようで、村の脅威となるような魔物は見つからない。危険な魔物は、今回の一件でほぼ駆逐できたと見て良さそうだ。
その報告をまとめてしまえば、後はラクルマルディと騎士団からの連絡を待つのみである。
まずは西方騎士団から、報告を確認した旨と襲撃者たちを引き渡して貰いたいとの返答が届き、そしてその二日後には、ラクルマルディからも人と護送用の馬車が寄越された。おそらく、サダルが手を回したのだろう。父ジュリアスからの書状を彼に渡す時、異母兄たちが取りうる行動についても少し話をしたので、今回の襲撃もその予想の範疇内――どころか一番可能性の高い大本命の事態だった。そのため、予め準備を整えてくれていたものと思われる。
(……ともあれこれで、侯爵家から横槍を入れられることもなく、僕が後継者になるわけか)
《下位竜》を倒し、《上位竜》の加護を得た《擬竜騎士》の親友。その肩書きのおかげで、異母兄たちの母の実家である侯爵家も、今回のことに横槍をいれることはできないだろうというのが父の読みだ。非公式ながらも高位貴族の前で女王アレクサンドラへの謁見を果たし、火竜の加護についても認定を得たアルヴィーの名は、貴族たちの間でもそれだけ無視し得ないものとなっている。
「――では、この者たちはひとまず領主館の方で取り調べ、然る後にその報告書と共に西方騎士団本部に引き渡すことと致しましょう。この村では牢もありませんし」
「ああ、よろしく頼む。騎士団としての任務中の襲撃ではな。騎士団に一報を入れないわけにもいかない。僕たちも一度ラクルマルディに戻って、それから西方騎士団本部に回ることにする。騎士団には、ラクルマルディの方に引き取りに来て貰うよう連絡を入れておこう」
襲撃犯たちを護送用馬車に詰め込むと、ルシエルたちも騎馬でそれを取り囲むようにして出発する。今回はないとは思うが、誰かに雇われた襲撃犯というのは口封じのために後々襲われる場合もあるので、その用心だ。
村の中を通って行くと、通り掛かった村人の何人かが感謝の声を投げながら見送ってくれた。なかなか対応もして貰えず半ば諦めかけていたところへ、領主の息子が直々に乗り込み、しかもものの数日で魔物たちを片付けてしまったのだから、村人たちも大喜びだったのだ。
そんな声を背に村を出ると、ルシエルは思わず息をついた。シャーロットが目敏くそれに気付く。
「隊長? どうかなさいましたか?」
「いや……あの感謝の声を聞くと、どうもね。――本来なら、もっと早く対処されて然るべきだった。どう取り繕ったところで、彼らがクローネル家の事情の巻き添えを食って、受けなくて良い被害を受けたのは事実だ」
「しかしそれは、隊長が気に病まれることではないでしょう」
ディラークの取り成しにも、しかしルシエルの胸に残った小さなしこりは消えなかった。
――復路も何ら特筆することなく歩みが捗り、つつがなく領都ラクルマルディに到着すると、ルシエルは隊員たちと別れ、早速領主館に向かった。襲撃犯たちを、領主館の牢に留置するためだ。
捕縛された傭兵たちを引き連れて帰還したルシエルに、館は少々騒がしくなった。
「ルシエル様、これは……」
「任務途中で襲撃してきた者がいてね。現地には留置しておける設備がなくて、一時こちらに留置することにした。しばらくすれば西方騎士団が身柄を引き取りに来るから、それまで預かっておいてくれ」
「か、畏まりました!」
使用人が早速準備のため立ち去って行く。牢は城館とはやや離れた別棟に設けられているため、襲撃者たちはそのまま護送用の馬車に乗せておいた方が、運ぶ手間が省けて良いだろう。というわけで馬車ごと館の人間の手に任せ、ルシエルは細かいことを打ち合わせるため館に足を踏み入れる。その時、広間全体を震わせるような金切り声が響き渡った。
「一体何の騒ぎなの、これは!!」
見ると、広間を見下ろす二階の回廊から、こちらを忌々しげに見る貴婦人の姿がある。侍女と二人の息子を従えた彼女は、この館の女主人であるクローネル伯爵家の第一夫人・ドロシアだった。
彼女は傲然と、階下のルシエルを見下ろす。
「おまえの仕業ね、ルシエル。妾の子の分際で、よくもまあこの館に堂々と……!」
そう吐き捨てる母の後ろで、ディオニスとクリストウェルは、ルシエルの姿を見て明らかに顔色を悪くしていた。特にディオニスの方は信じられないと言った様子で目を見開き、今にも叫び出しそうだ。
そんな彼に、ルシエルは今気付いたという風を装って声をかけた。
「ああ、お騒がせして申し訳ありません。実は二、三日ほど前、任務の途中で僕たちを襲撃してきた者がいまして。捕縛して一通り取り調べた後、西方騎士団に引き渡すまで、一時ここの牢に置いておくことになったので、連れて来た次第です。ご迷惑をお掛けしますが、そう長い間ではありませんので、どうぞご容赦のほどを」
「まあ、そのようなことを勝手に……」
ドロシアが不快そうに顔をしかめたその後ろで、ディオニスは冷や汗をかきながら怒鳴った。
「そ、そのような連中をこの館に入れるなど! 今すぐ放り出せ! わたしたちには関わりのないことではないか!」
「兄上!」
クリストウェルが慌てて声をあげた辺り、彼は気付いたのかもしれない。ディオニスの失言に。ルシエルもよもや、ここまであっさりと言質を取らせてくれるとは思わなかったのだが、せっかく相手がぼろを出してくれたのだから、乗らない手はないだろう。
「そうですか。――ですが僕は、襲撃者が複数だと言った覚えはありませんが。なぜそれをご存知で?」
ルシエルの切り返しに、その場が水を打ったように静まり返った。ディオニスの顔がどんどん青ざめていくのが遠目にも分かる。だがようやく自分の失言を悟ったのか、ディオニスは何とか言い逃れようと言葉を継いだ。
「そ、それは――窓から見えて、」
「ここの牢は城館から少し離れていますので、そのまま馬車に乗せておいた方が都合が良いと思って、襲撃者は馬車に乗せたままにしてありました。少なくとも、ここの窓から見える範囲で、彼らが馬車から下りることはなかったはずですが」
「いや、その……使用人たちが話していた!」
「ああ、先ほどの準備を頼んだ時ですか。あの時も確か、“襲撃してきた者がいた”としか言った覚えがありませんが」
ルシエルの言葉に、低く同意の声が使用人たちの間から漏れ聞こえる。ディオニスは怒りに目をぎらつかせて小さく唸ったが、それ以上何も言えずに黙った。さすがに彼も、自分の分が悪いことは理解できたのだろう。
「ディオニス……一体どういうことなの?」
ドロシアが息子に向き直った。ただならぬ雰囲気を彼女も感じているのか、声に張りがない。とっさに答えることができないディオニスを、ドロシアはさらに問い詰める。
「はっきりとおっしゃい!」
「う、うるさいっ! あ、あいつが、あいつと父上が悪いんだ! 父上がこのわたしを廃嫡して、あいつを後継者にするなんていうから――」
母の金切り声に堪りかねたのか、ディオニスも癇癪を起こして怒鳴り散らした。その内容に、詳しい事情を知らなかった使用人たちがどよめくが、当の本人たちはそんなことなど構わずさらに声を張り上げる。
「何ですって! そんな馬鹿なことがあるはずないでしょう! 旦那様がわたくしに何の断りもなく、そのようなことをするはずはないわ!」
ドロシアはせっかく豪奢に結い上げてある金髪を振り乱し、顔を引きつらせて喚き立てる。貴婦人らしい淑やかさは、もはや影も形もない。
そこへ、クリストウェルがおずおずと口を挟んだ。
「母上……本当なんだ、父上からの書状もある。その……僕たちの普段の素行が次期領主に相応しくないから、後継者候補から外すって……」
「そのくらい何だというの! わたくしたちは貴族なのよ、その辺の平民とは違うの! 若い内に多少羽目を外して遊んだからといって、何が悪いというの!――こうなったら、わたくしが直接旦那様にお会いするわ! 急いで馬車を用意なさい!」
ついに爆発したドロシアは、甲高い声で使用人たちにそう命じ、自室の方へと引っ込んでしまった。もうルシエルのことなど忘れてしまったかのようだ。慌てて追いかける異母兄や侍女たちの姿が消えてしまうと、ルシエルはそっと息を吐き出した。
(……考えてみれば、あの人たちも気の毒な話だ。普通、こんなことは滅多にない。安泰だと思っていた地位からいきなり引きずり下ろされれば、ああもなるか……)
そしてそれは、これからは自分にも無縁の話ではなくなる。気を引き締めなければならないと、改めて肝に銘じた。
「――ルシエル様」
そこへ、サダルが声をかけてくる。
「ああ、騒がせてすまない。それと、今回の件に関しては、色々と手を回してくれたんだろう? ありがとう」
「滅相もありません。――ですがこれで、ルシエル様の足下もひとまずは固まるかと。ディオニス様も、このような衆人環視の中であの仰りようでは、自ら罪を認めたようなものです。これでディオニス様が後継者に返り咲く目は、ほぼなくなったと言えましょう」
「……そうだな。だけど僕の方も、うかうかしてはいられない。何しろ、領主としての勉強をほとんどしていないのは、僕も同じだからね」
「ですが、学ぼうという気概をお持ちなだけでも大違いですので。旦那様からも、良い教師役を探すよう仰せつかっております。領地について良く知る人間を出さねばなりませんので、わたしの部下から選抜することになろうかと存じますが」
「そうか、よろしく頼むよ」
父が教師役を付けると言っていたが、どうやらその選抜もサダルが担っているらしい。ただでさえ代官という大役を務めているのに。何だか申し訳ない気分にさせられたルシエルだった。
ともあれ、これで後継者関連の件も大方片付いたと思って良いだろう。後は襲撃者たちを騎士団に引き渡し、少しばかりの事情聴取に応じれば完了だ。今回の件ではルシエルが襲撃された被害者ということになるので、形ばかりとはいえ聴取の必要があるのだった。
一度隊員たちと合流すべく、後をサダルに任せて館を後にする。自然、街中を歩くことになるが、改めてその街並みや活気に溢れた様を目の当たりにし、急に自分が背負うことになるものの“重さ”が身に迫ってきたような気がした。
(……これをいずれ、僕が)
領主になるというのは、そういうことだ。ラクルマルディだけではない。任務の舞台であったあの小さな村も、その他の町や村も。領内にあるすべての民の生活を、そして万が一の有事の場合にはその命をも、この肩に負うこととなるのだ。
震えそうになる手を、固く握り締める。
(それでも、もう選んだんだ)
きっかけはただ一人を守るため。それでも、その重さに気付いたからといって、今さら放り出せはしない。
選び、踏み出したからには、その道を歩ききるしかないのだから。
ルシエルは迷いを振り切るかのように、少し足を早めて、雑踏の中に消えていった。
◇◇◇◇◇
ナイジェル・アラド・クィンラムはこのところ、ある期待を持って登城していた。
秘密裏に何度も顔を合わせ、停戦についての交渉を進めていたファルレアンの特使ヨシュア・ヴァン・ラファティー伯爵は、本国に戻り次第手を打ってくるはずだ。それはぬるま湯に浸かりきったレクレウス王国上層部にとって、まさに青天の霹靂となるだろう。
(南部を探らせていた者からの情報では、南部のファレス砦で魔動巨人をすべて失い、本隊も砦を突破することはできなかったということだが……果たして、これがそのまま新王陛下のもとに上がっているのかどうか)
侵攻作戦が完全に失敗したといっても良い状況の割には、新王ライネリオ一世はけろりとした顔をしているし、他の閣僚たちにも焦った様子がない。
(確かに王家や軍の情報関連の部隊はこちらで骨抜きにしてあるが、それにしても情報が欠片も耳に入らないということはあるまい。つまりは……どこかで報告が捻じ曲げられているな。一番可能性が高いのは、やはりノスティウス侯か)
さすがに軍を取り仕切るノスティウス侯爵にまで正確な情報が上がらないとは思えない。だがその上でファレス砦での惨憺たる結果が報告されていないということは、彼が情報を改竄している可能性が高いのだ。もっとも、彼の立場を考えればそれも無理からぬことだと、ナイジェルは少々気の毒に思った。何しろ、ライネリオの無謀な命令の責任だけを押し付けられる地位でしかないのだから。
(閣下にはご同情申し上げる……が、彼もまた旧き時代の弊害の一人。時代と共に、ご退場いただこう)
ナイジェルが考える新しい政治形態に、彼らのような旧態依然の人間は邪魔にしかならない。共に起つべき人間は、すでに選りすぐり根回しも終えてある。後は決起するきっかけだが、それはラファティー伯爵が作ってくれるはずだ。
ナイジェルは今、それを待っている。
――王城に入り、中央の一握りの上級貴族しか入れない区画に向かうと、官吏たちが行き交う中、文官の服装をした男が一人、スッと近寄って来た。密かに王城の情報収集をさせている、ナイジェルの子飼いの一人だ。さり気なく人気のない方に向かうと、文官も不自然でない距離を保ってそれに倣う。やがて人の耳のない場所を見繕うと、周囲に聞こえない程度の小声で尋ねた。
「どうした?」
「ノスティウス侯爵閣下が、まだ登城されておりません」
「さほど不思議ではないだろう。軍務大臣だからといって、毎日朝早く出仕しなくてはならない法などない」
「は……ですが、ファレス砦の一件もございます」
「ふむ……確かに、自分の足下が危ういことは、あの御仁にも分かっているか」
レクレウス軍の侵攻部隊がファレス砦を守備する部隊に敗れたという情報は、すでにナイジェルにも入っている。つまり、軍を司る軍務大臣の耳にも、とうに届いていておかしくない情報なのだ。
「――分かった。おまえは引き続き、城内の情報を探れ」
「は、畏まりました」
文官を仕事に戻らせ、ナイジェルも改めて本来向かうべき場所に向かう。
この日、ナイジェルが登城したのは、例によって軍議に参加するためだ。議場に着くと、ざっと中の顔触れを確かめる。軍務大臣ヘンリー・バル・ノスティウスの姿はまだなかった。
やがて軍議に参加するべき顔もほとんどが揃い、最後に国王ライネリオが入室して来る。護衛の近衛兵たちに出入口を固めさせると、ライネリオは口を開いた。
「皆、ご苦労である。では、軍議を始め――」
その時。
ひゅう、と議場の空気が動いた。
「何だ、風……?」
「馬鹿な、どこも開いておらぬぞ。第一、この議場は外に面してなどいないではないか」
「どういうことだ、気味が悪い……」
貴族たちが囁き合う中、ナイジェルは目をすがめる。
隣国の女王の異名は、確か――。
瞬間、彼の推測を裏付けるように、議場の中央で風が渦巻いた。
「うわっ、風が――!」
資料が風に攫われて舞い踊り、貴族たちは思いがけない風の強さに思わず顔を背ける。そんな中、ナイジェルは見た。渦巻く風が一ヶ所に凝縮し、そこに幻のように一人の少女の姿が浮かび上がるのを。
緩やかに波打つ金髪、けぶるような眼差しのペリドットグリーンの瞳。精巧な人形のように美しいその少女の名は、この大陸でも知られたものだ。
「アレクサンドラ・エマイユ・ヴァン・ファルレアン……!? 馬鹿な、ファルレアンの女王がなぜここに……!」
驚愕に凍り付くレクレウス首脳部を一瞥し、虚像のアレクサンドラはライネリオに向き直った。
『お初にお目に掛かります、ライネリオ陛下。初めての顔合わせがこのような用件なのは残念だけれど』
「……ど、どういうことだ……」
呻くように答えたライネリオに、アレクサンドラは温度のない目を向ける。
『わたしはあなたがたに、降伏を勧告するために来ました』
一瞬の沈黙。
そして、ライネリオが椅子を蹴立てて立ち上がる音が、議場に響き渡った。
「ば、馬鹿な……! 降伏勧告だと!? あり得ん! 我が軍は今、ファレス砦を攻略中で――」
『ファレス砦に侵攻してきた部隊は、すでに敗退したわ。もうあなた方に大規模な進軍ができるほどの兵力は残っていないはず。これ以上国を疲弊させ、国民に苦しい思いをさせないためにも、兵を退いていただきたいの。条件については、後ほど文書としてお渡しするわ』
「ふざけるな!!」
ライネリオは激昂のあまり机に拳を叩き付ける。
「降伏勧告だと……!? 歴史ある我が国が、降伏など! そんなことはこのわたしが許さん! 貴様のような小娘に負けるなど――!」
ライネリオは身を翻すと、近くにいた近衛兵の腰から剣を抜き出す。そして喚き声をあげながら、アレクサンドラに向けてその刃を振り下ろした。貴族たちの間から悲鳴があがる。
だが――剣は最後まで振り下ろされることなく、逆に弾かれるようにライネリオの手から飛び出し、宙を飛んで議場の床に突き立った。
「なっ……!」
呆然としたライネリオに、アレクサンドラが目を向けた。その顔にも双眸にも、一片の感情の揺らぎも見られない。
『それは悪手よ、ライネリオ陛下。ここにいたのがわたしであったから良かったものの……もしここにいたのが我が国の使者で、あなたがそれを殺していたのなら、わたしはあなたを許さなかったわ。たとえ国ごと滅ぼしてでも』
「ひっ……!」
息を呑み後ずさったライネリオは、椅子に腰を落とそうとし、だがその椅子はすでに自分で蹴飛ばしてしまっていたため、結果として無様に床に転がる羽目になった。そんな彼を一瞥し、アレクサンドラは貴族たちに目を向ける。貴族たちがたじろぐ中、ナイジェルは自分の半分ほどの年齢の少女王を真っ直ぐに見返した。
(――これが、“機”か)
まさか女王アレクサンドラが直接――と言って良いものかは迷うが――来るとは思わなかったが、おそらくこれがナイジェルが待っていた“きっかけ”なのだ。そしてここからは、ナイジェルが動かなければならない。
ふ、と貴族たちからも視線を外し、アレクサンドラは誰かに語りかけるように手を差し伸べた。
『……ありがとう、シルフィア。もういいわ。ごめんなさいね、あなたにこんなことをお願いして』
『いいのよ、可愛いエマの頼みなら』
少女の白い手の先に、一瞬だけもう一人、若い女性の姿が浮かび上がった――そう思った瞬間、アレクサンドラの姿は掻き消えていた。同時にあれほど渦巻いていた風も霧散する。まるで夢でも見ていたような心持ちで、貴族たちは顔を見合わせたが、先ほどのことが間違いなく現実であったことは、部屋中に散らばった資料と床に突き立つ剣、そしてへたり込んだままのライネリオが証明していた。
「な、何だったのだ、今のは……そもそも城には魔法防御が施されていたはずだ、風精霊は入って来れないはずだぞ……!」
「いや、高位の精霊の力を借りたのでしょう。彼女はすべての風精霊に愛された身、その程度のことはできるはずです」
宰相のバルリオス公爵が吐き捨てた言葉に注釈を入れながら、ナイジェルはライネリオの方に目をやる。先ほど醜態を晒した彼は、憤りに顔を真っ赤にしてようやく立ち上がったところだった。
「おのれ……! 生意気な小娘が! 降伏などするものか、必ず後悔させてやるぞ……!」
屈辱に身体を震わせ、ライネリオが机に拳を叩き付ける。だが居並ぶ貴族たちは、どこか居心地悪そうに顔を見合わせるばかりだった。
皆、恐れをなしたのだ。魔法防御を施してもなお、平然とこの場に姿を現す力を持った隣国の女王に。
その気になれば彼女は、自分たちを容易く滅ぼせるのかもしれない――と。
――結局、この日の議事録に女王アレクサンドラの出現は記録されなかった。
だが彼女の降伏勧告は、その数日後に外交ルートを通じて届けられた文書での降伏勧告よりも数段鮮烈に、貴族たちの心に刻み込まれたのである。
そしてそれが、レクレウスという国を新たな方角へ押し流す、大きな一押しとなったことを、ほんのわずかな者たち以外、まだ知る由もなかった。
◇◇◇◇◇
「――あーんもう、暇ぁー」
自らが炎で薙ぎ払った大地をそぞろ歩きながら、メリエは空を仰いで愚痴を零した。
彼女は一旦クレメティーラに戻ったものの、レティーシャからこの地の防衛を命じられ、再びこちらにとんぼ返りさせられたのだった。国境守備の部隊を壊滅させられたヴィペルラートが、その原因を探るために新たに部隊を差し向けて来ないとも限らない。それを跳ね返し、“奪還した”この地を守るのがメリエに与えられた役目だった。
しかしそれも、肝心の相手が来なければただの放置でしかない。
「んもう……敵が来るかもっていうから楽しみにしてたのに、全っ然来ないじゃない! もーっ! あんなんじゃ暴れ足んなーい!」
敵を蹂躙することを好むメリエにとっては、今のこの状態こそが苦痛だ。虚空に《竜の咆哮》を撃ったところで、面白くも何ともない。
幸い、野営のためのアイテムや食料はたっぷり持たされたし、メリエ自身、かつてレクレウス軍に所属していた身だ、野営ができないわけではない。今や一晩や二晩寝なくても、どうとでもなる身体も手に入れている。それでも“退屈”という虫は思いがけなく彼女を苦しめていた。
「はあ……水浴びでもするかあ」
少し離れた場所には、そこそこ大きな川も流れている。そこで軽く水浴びをすることにして、メリエは歩き出した。
――メリエが訪れたのは、元ヴィペルラート陣からそれほど離れていない、幅十メイルほどの川だ。彼女は知る由もないが、この川はアルタール山脈から流れ出したディラエ川に下流域で合流し、そのままヴィペルラート帝国に入って海へと注ぐ。といっても、この川だけで見てみればこの辺りは上流から中流域に当たり、なおかつ周囲に人家がほとんどないため水も澄みきっていた。ヴィペルラートの国境守備部隊も、おそらくここを水源として利用していたのだろう。川辺はそれなりに浅いので、水に触れて楽しむにも向いている。
だが――川辺に出た時点で、メリエは足を止めた。
(……人? こんなところに?)
自身のことを棚に上げ、メリエは胸中で呟く。川辺に立っていたのは、一人の少年だった。雨雲を思わせる鈍色の、癖の強そうな髪を大雑把に一つに括り、瞳は澄んだ深い湖を思わせる、やや翠緑を帯びた蒼。こんな人里離れた地には似つかわしくない、丈が長くひらひらと翻りそうな衣服を纏い、蒼玉をあしらった銀の鎖を緩く腰に巻いている。見るからに貴人と分かる出で立ちの、メリエより二、三歳ほど年下に見えるその少年は、その双眸でメリエを真っ直ぐに見つめた。
「……何なのよ、あんた」
何となく薄気味悪いものを感じ、メリエは口を尖らせる。
「っていうか、あたしこれから水浴びしたいの。あんたそんなナリでも、一応男でしょ? どっか行ってくんない?」
『いいよ』
少年はこくんと頷くと、すたすたと歩き出す。――川の中央に向かって、水面を。
「は……!? ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
『何。どっか行けって言ったのそっちだろ』
面倒そうに振り返る少年に、メリエは今度こそ臨戦態勢になり、左腕を戦闘形態にした。
「あんた何者よ。言っとくけどあたし、今すっごく退屈してたの。ヴィペルラートの国境守備部隊っての、手応えなくってさぁ――ちょっと遊んでくれない!?」
振り抜いた左手から、灼熱の光芒が迸る。それは少年の眼前で水面に突き刺さり、爆発のような勢いで大量の水を蒸発させた。轟音が辺りの大気を貫く。
(ひょっとしたら精霊か何かかもしれないけど……暇潰しにはちょうどいいわよね!)
むしろ、人間より強大な力を持つ精霊なら、心置きなく全力で戦える。メリエの中に植え込まれた火竜の肉片は、その魂を抜かれていてもなお、彼女の闘争心を掻き立てて止まない。否、それはもしかしたら、メリエ自身の魂に刻まれたものであるのかもしれないが。
メリエの魂は、あのレドナでの煉獄を、それを生み出した時の快感を忘れていない。
菫色の目を戦闘の興奮に光らせ、濃い水蒸気の向こうを凝視するメリエ――その足下が、その時突如凍り付いた。
「は!? 何よこれ!?」
驚きながらも、呪文すらなく炎が巻き起こり、凍り付いた川辺の地面を溶かす。メリエが力任せに足を引き剥がし、後方に飛び退いたところで、重く垂れこめた水蒸気が風に流されていく。
『――そっか。国境守備の部隊が一つ、壊滅したっていうから調べに来たけど……あんたが犯人か』
視界が晴れた後、変わらず水面に立つ少年の双眸に、戦意が蒼く揺れた。
その手がすい、と上がると、彼の周囲の水面が突如渦を巻く。それは見る間にいくつかの細い竜巻となって、メリエに襲い掛かった。
「こん――のぉっ!」
対するメリエは《竜の障壁》で防御する。竜巻は障壁にぶつかり、ドォン、という轟音と重い手応え、そして大量の水を撒き散らした。
(こいつ……強い!)
そう見て取ったメリエは、ぺろ、と小さく唇を舐める。こんなに歯応えのある相手と出会ったのは初めてだった。自分と同等以上の強さを持つ相手は大体が同じ陣営に属しているので、本気で戦うことはできない。唯一の例外はアルヴィーだが、彼に会いに行くことはまだレティーシャから許されていなかった。
だから、この邂逅は貴重だ。相手はどうやらヴィペルラートに属しているようだし、上手くすれば何か情報も取れるかもしれない。
「へえ、あんたヴィペルラートの……人間?」
水面を歩いたりしていまいち人間かどうか疑問だったので訊いてみると、意外とあっさり首肯された。
『ああ、俺人間だよ。水とは相性いいんだ』
そう言うなり、少年は指先をくるりと回す。またしても水面が渦を巻き始め、今度は巨大な水球がぷかりと浮き上がった。
『そっちこそ、人間なの? そんな腕してさ』
「そんな弱っちいのと、一緒にしないでくれる!?」
せせら笑いながら、メリエは再び《竜の咆哮》を放つ。対する少年は、水球をあっという間に数本の氷の槍と変え、メリエに向けて撃ち放った。炎を凝集した灼熱の光と、膨大な水を圧縮して凍り付かせた氷の槍が激突し、小さな爆発を引き起こす。氷の槍は砕け散ったが、《竜の咆哮》も氷の槍で遮られたため、その向こうの少年には届いていない。
『じゃあ今度は、こっちから』
少年は身を屈め、ぱしゃん、と水面に両手を当てる。瞬間、川の水が爆発でもしたかのように弾け、伸び上がった大量の水がまるで多頭竜のごとくいくつにも分裂してうねりながら、メリエ目掛けて殺到した。
「《竜の障壁》!」
メリエは《竜の障壁》でそれを正面から受け止める。だが、障壁で弾かれた水はなお意思あるもののように蠢き、メリエの足下に蟠ったと思うと、その左足を戒めたまま凍り付いた。
「きゃっ!?」
足下から這い登ってくる、刺すような冷たさに、メリエは思わず悲鳴をあげた。
『捕まえた。――あんたちょっと人間辞めてそうだし、足の一本くらい平気だよね?』
「舐める……なぁっ!」
咆哮し、メリエは左腕を振りかぶると、足を戒めた氷に全力で叩き付ける。氷は一瞬で砕け散り、メリエ自身の左足も妙な方向に折れ曲がったが、それでも自由を取り戻して飛び退れば、後は竜の細胞による驚異的な回復力で左足も難なく治癒した。
「そっちこそ、水の上で平気な顔してないで、人間なら人間らしく沈みなさいよ!」
吐き捨てざま、左手を打ち振る。放たれた光芒が、少年を撫で斬りにするように奔り、その小柄な体躯が文字通り蒸発する――。
『……残念。実体じゃないんだよね、これ』
ぱしゃん、と小さな水音と共に、水面が伸び上がり、瞬く間に少年の姿を形作る。何の痛痒もなさげに再び姿を現した少年は、メリエに向けてひらりと手を振った。
『でも、もういいや。ここで何があったかは、大体分かった。じゃあね』
そう言うなり、彼の姿は再び水となって崩れた。ばしゃん、と水面を叩き、大きく波紋を描いたが、それも川の流れに攫われてすぐに消える。
「……何なのよ……今の」
ぽかんと呟くメリエの目の前で、川は何事もなかったかのようにさらさらと穏やかな流れを取り戻していた。
◇◇◇◇◇
ぱちり、と目を開けた少年は、小さく呟いた。
「……見つけた」
「それはまことでございますか、ユーリ様!」
わっと沸く周囲の人間たちにこくりと頷き、彼は川面に浸していた両足を持ち上げる。濡れた両足をそのままに彼は立ち上がると、川の上流を指差した。
「この川の支流、現場の近くの川で会敵した。多分、国境守備部隊を壊滅させたヤツだ。力量はおそらく高位元素魔法士クラス。炎のね」
「炎の高位元素魔法士……確かファルレアンにも一人、最近認定された者がいると」
「そっちは男だって話でしょ。俺が会ったの、女だったよ。まあここまで来た甲斐はあったよね」
あっさりと否定した少年は、水を操って足から水気を飛ばすと、用意された靴を履いた。そして大きく伸びをする。
「……さて、と。じゃあ一応、陛下にも報告しないと」
「あ、お待ちくださいませ、ユーリ様!」
そのまますたすたと歩いて行く少年を、付き従う者たちが慌てて追いかける。ややあって、数頭の飛竜が彼らを乗せ、高く空へと舞い上がった。
その姿は程なく、西方の空へと消えていった。
◇◇◇◇◇
戦況が落ち着いたのを見計らい、王都に連絡を入れて任務完了を報告したアルヴィーは、予備の馬を一頭借り受けてファレス砦を後にした。
目指すは北。
それというのも、砦の通信設備を使って騎士団本部と連絡を取った際、休暇と故郷の村に立ち寄ることへの許可が下りたと、ジェラルドが教えてくれたからだった。
『――そこからだったら、そう日数も掛からず寄れるだろう。下手に先に王都に戻ったら、今度はいつ国境の向こうまで行く暇ができるか分からんぞ。今の内に行っとけ』
ジェラルドの忠告を有難く受け取り、アルヴィーはこうして、北へと歩みを進めている。
そして彼の心を浮き立たせる知らせが、もう一つ。
『ああ、そういえばクローネルも今、任務で西の方に行ってるぞ。今なら西方騎士団経由で連絡が取れる。何なら連絡を付けてやるが?』
ジェラルドによれば、ルシエルもまた、魔物討伐の任務で小隊ごと派遣されているらしい。もちろん一も二もなく連絡を頼んだ。落ち合う場所はオルグレン辺境伯領の領都・ロウェル。さすがに散々暴れ回ったレドナで待ち合わせる度胸は、アルヴィーにもなかった。
ロウェルから旧ギズレ領に入り、領都ディルへ。そして故郷の村に向かうという計画だった。
(やっとあの村に戻れるんだ……しかも、ルシィと一緒に。お袋たちも、きっと喜ぶ)
その姿を直に見ることは、もう叶わないけれど。
少し落ち込みかけた気分を、頭を振って追い出した。
「きゅっ」
胸元からもぞりと顔を出したフラムの頭を撫で、出掛けに頭に叩き込んだ地図を思い起こす。
「……さて、と。こっからだと、ロウェルに着くのは多分おんなじくらいかな……頑張ってくれよ」
馬の首を軽く叩くと、アルヴィーは空を仰いだ。
見上げた空は、雲の一つもない、抜けるような蒼穹だった。




