第43話 戦場ふたつ
モルニェッツ公国。かつてクレメンタイン帝国の一領地であったこの地は、大戦後百年間の紆余曲折を経て、旧クレメンタイン帝国領の北西部一帯を領有するほどになっていた。もちろん、最初からこれほどの領土を持っていたわけではなく、百年の間に興っては消えて行った小国の領土を次々と併呑していったゆえの結果である。第二都市である港町ルサは、もとは別領地の中心都市であった街だ。モルニェッツ公国だけでなく、大陸に存在する三公国はすべて、戦後に似たような経緯を辿ってその領土を増やしてきた。
その三公国の中でも、モルニェッツ公国は最大の領土を誇る。もっとも、さらに古くからあった王を戴く国々は、軒並みその二倍から五倍ほどの領土を持っているし、人口も大きな差があるので、国力という点では比べるべくもなかったが。
そしてモルニェッツ公国は、国の内外に大きな問題を抱えていた。
「――大公閣下。地方の街の長たちよりまた、陳情書が……」
「どうせまた、減税の陳情だろう。放っておけ。それよりも、近々ファルレアンで大規模なオークションが開かれるそうだ。今年の《魔の大森林》の大暴走では、相当な数の魔物が出たそうだからな。オークションの品もさぞかし珍品の素材が並ぶことだろう。いくつかは手に入れたいところだな」
家臣からの報告を一言の下に切って捨て、モルニェッツ大公は窓辺に足を進める。豪奢な衣服に身を包んではいるが、どこか翳りのようなものを感じさせる男だった。
「しかし、各領内には《虚無領域》を根城とする魔物や賊が跳梁し、税金どころか自分の食い扶持さえ稼げぬ民も少なくないと。せめて国境警備の人員負担を減らすか、国の兵力で魔物や賊を討伐して欲しいと、陳情が上がっております」
「今はそのような些事に兵力を割くわけにはいかんのだ。我が国は常々、あの忌々しいヴィペルラートの皇帝に狙われているのだぞ。癪だが国力では数倍もの差がある、気を緩めれば呑み込まれかねん」
一息ついて、続ける。
そなたも知っておろう。ヴィペルラートは代々、領土への欲が強い。百年前の大戦とて、さして関わりもなかったのに新たな領土を得るためだけに首を突っ込んできた国だ。レクレウスほどの兵力があればともかく、我が国の騎士団の規模では、南西の国境の防備を固めるのがやっとでしかない。国内はそれぞれの長に何とかさせよ」
モルニェッツ公国とわずかに国境を接する南西のヴィペルラート帝国は、国土の一部に呪いを受けており、そのためか過去数度、領土の拡大を目的に他国に侵攻している。旧クレメンタイン帝国領も、モルニェッツ公国領より南西はすべてヴィペルラート帝国に併呑された。そして帝国は、次はモルニェッツ公国領をも手に入れようと狙いを付けている――少なくともモルニェッツ大公は、そう思っていた。
「ですが、主立った街からも南西の国境防備に人を出させております。それがために、領内の治安維持が疎かになっていると」
「だからといって、国内に兵力を回せばすぐさまヴィペルラートに付け入られる。それとも、この国が他国に踏み躙られても良いというのか?」
「いえ、決してそのような……」
家臣は力なくかぶりを振ったが、せめてもと言い募った。
「しかし、民の中には苦しい生活に耐えかね、自ら賊に身を落とす者すらいる始末でございます。しかも、東の《虚無領域》との境はほとんど防衛ができておりませぬ。討伐しようにも、そちらから逃れられ取り逃がすことも少なくないと聞き及びます」
「ふん……いっそのこと、《虚無領域》の中だけで暴れてくれれば面倒がないのだがな。聞けば、あんな魔物だらけの土地にも住む者どもがいるそうではないか。そやつらと共倒れにでもなってくれれば良いものを。どうせ路傍の草のごとく、いくらでも湧いてくる者どもなのだからな」
人を人とも思わぬ暴言に、さすがに家臣が諌めようと口を開きかけた時。
「――お、なんかここが偉いヤツの部屋っぽいな」
がちゃり、と許可も出してないのに扉が開き、ひょこりと顔を出したのは、青みがかった銀の髪と黄金の瞳をした、まだ十代半ばにも届かないと思しき少年だった。室内の二人はぎょっとする。扉の外には、近衛騎士が二人警備に付いていたばずだ。
「な、何者だ!?」
誰何の声に少年――ゼーヴハヤルは、軽く肩を竦める。
「答えてもいいけど、多分ムダになるからなあ」
そう言って彼は、扉の陰に隠れていた片手を引っ張り出した。その手に握られていたのは、彼自身の身長に迫るほどの大剣だ。その刃に伝う血が、近衛騎士たちの末路を示している。おそらく彼らは――。
「お、おのれっ……! もしや、ヴィペルラートの間者か! 貫け――」
モルニェッツ大公がとっさに、魔法を使おうとする。だが、ゼーヴハヤルの初動はそれより遥かに速かった。
「よっ」
軽い掛け声。瞬間移動でもしたかのようにほんの一瞬で大公に肉薄した彼は、大剣を片手で軽々と振るった。腰から肩に向けて斬り上げる形で振るわれた刃は、恐ろしいほど易々と、大公の身体を斜めに断ち割る。
「ひぃっ……!」
ドシャ、とどこか湿り気を帯びた音と共に、骸となったモルニェッツ大公が床に崩れ落ちる光景を目の当たりにし、家臣は腰を抜かして引きつった悲鳴をあげた。
「ん、血が散った。まあ、黒だから目立たないか」
今しがた人一人を斬殺しておきながら、ゼーヴハヤルはスープでも散った程度の軽い調子でぼやき、頬に飛んだ血を大雑把に拭う。服にも相当量の返り血が飛び散ったはずだが、黒を基調としているためさほど目立たない。
そして彼は、腰を抜かしたままの家臣を振り返った。
「なあ、偉いのってどっち? 俺が今斬った方? それともあんた?」
「あ、あ……た、大公閣下が……」
「“かっか”? って確か偉いヤツ呼ぶ時に付けるんだっけ。じゃあこっちが偉いのか」
ちらりと大公の骸を一瞥し、再び家臣に向き直る。
「な、なぜ……! なぜこのようなことを……!」
「ん? この国のアタマ潰して来いって言われたから。それと――」
ズン、と大剣を床に突き刺し、家臣の胸倉を掴んで引き起こすと、ゼーヴハヤルは年に似合わない凄絶な笑みを浮かべた。
「……あんたらが賊ども放っといたせいで、オルセルとミイカが賊に殺されかけた。俺、あいつらにひどいことするヤツもその原因も、絶対許さないから」
血溜まりの中に沈む二人の姿を見た時のあの絶望は、忘れようにも忘れられない。ゼーヴハヤルにとっての世界の中心――それを害するような輩など、この手ですべて滅ぼしてやる。
それはもはや、狂気に近しいほどの執着だ。
ぽいと家臣の身体を放り出し、ゼーヴハヤルは魔法式収納庫からごそごそと何やら取り出す。それは、魔法陣が封じ込まれた水晶の欠片だった。彼のさほど大きくない手でも容易く握り込めてしまいそうなそれに、教わった通りに少しだけ魔力を送り込む。
『――どうしました、ゼーヴハヤル?』
程なく聞こえてきた、レティーシャの涼やかな声に、ゼーヴハヤルはしかしさしたる感慨もなく、
「モルニェッツの一番偉そうなヤツと護衛の騎士とかは斬って終わったけど、他のヤツどうしたらいい? 全部殺すの?」
年端も行かない少年の口から出るには、あまりにも血腥い台詞に、だがレティーシャは動じた様子もなく、小さく笑いを零した。
『ふふ、あまり殺し回られるのは困りますわね。実務が分かる人間を、多少は残しておいて貰いませんと』
「……んーと、じゃあここに家来みたいなヤツいるけど、こいつは放っといていいの?」
『そうですわね、大公の側にいたのなら地位の高い文官辺りでしょうし、利用できればそれに越したことはありませんわ』
「分かった。じゃあ、こいつは置いとく」
『出掛ける前に、あなたに渡しておいた箱があったでしょう? あの中には蜘蛛の姿をした魔法生物が入っています。その文官の首の後ろに張り付けておいてくださいな。取り付いた相手を洗脳して、わたくしたちの下僕へと作り替えていくように作ってありますから』
「おお、すごいな……」
鈴が鳴るような玲瓏たる声音にそぐわない、何ともえげつない内容に素直に感心し、ゼーヴハヤルは言われた通り再び魔法式収納庫をまさぐった。そして小箱を一つ見つけて蓋を開ける。
「お、こいつか」
中でわさわさと蠢く、確かに蜘蛛そっくりのその生物を一匹ためらいもなく摘み出し、彼はそれを家臣の首の後ろに張り付けた。
「ひぃっ……!?」
目の前で交わされた物騒な会話と、首筋に感じた異物感に、家臣は掠れた悲鳴をあげたが、すぐにその両目が茫洋としたものになった。
「……なんかぼーっとしだしたぞ?」
『魔法生物が魔法を送り込んで、洗脳しているのですわ。放っておいても問題ありません。――できれば、他の高官や権力者たちにも張り付けておきたいですわね』
「分かった。じゃ、それっぽいのにくっつけとく」
ゼーヴハヤルはあっさりとそう言って、小箱と水晶を魔法式収納庫に放り込んだ。そして剣を床から引っこ抜くと、現在進行形で洗脳されている家臣などもはや目もくれず、その部屋を後にする。
やがて遠く聞こえてくる喚声――だが残された家臣は何の反応も示さず、ただ茫洋とした目を虚空に向け続けるばかりだった。
◇◇◇◇◇
眼下に眺める戦場では、すでに趨勢が決しようとしていた。
「ほう……なかなかの戦果だな。さすが生きた戦略兵器、というところか」
イライアス・ヴァン・ムーアグロート辺境伯が双眼鏡片手に見下ろす先は、幾筋もの煙がたなびき、残骸と化した魔動巨人がごろごろと転がっている。
――第一防衛線を突破され、ファルレアン側が厳しい状況に追い込まれかけていた戦況は、アルヴィーの参戦により瞬く間に一変した。満を持しての投入だったであろう防御特化型の魔動巨人を、いきなり一体盛大にぶち壊してみせた彼は、指揮官を仕留めさらにもう一体の魔動巨人をも破壊して、レクレウス軍を恐慌の渦の中に叩き込み、第一防衛線の向こうへと追い返したのだ。レクレウス軍は魔動巨人二体を失い、ほうほうの体で第一防衛線の向こうへと退却した。
「噂には聞いておりましたが……大した戦闘力ですね」
「混乱を助長するために、指揮官を討った判断も悪くない。だが、もっと“押し”が欲しいところではあるがな。どうせなら敵陣にまで斬り込んで、蹂躙してきてくれても構わんのだが」
「しかしそれでは、こちらの手柄がなくなりますがよろしいですか」
「ふむ、それもそうか」
部下の進言に頷き、イライアスは身を翻す。
「……まあ、何はともあれ相応の働きはしたということにしておこうか。すべての功を《擬竜騎士》に持って行かれるのも少々業腹ではある。魔動巨人のような厄介どころだけ潰して貰って、さっさと王都に帰すのが良かろう」
「左様で」
「まずは第一防衛線を立て直す。地系統魔法が得意な者らを至急向かわせ、塹壕を修復させよ。《擬竜騎士》を護衛として張り付けておけば、レクレウス側もおいそれとは手出しできまい」
「は、すぐに人員を選抜致します」
「魔動兵装も、砦の分を一部回せ。《擬竜騎士》を魔動巨人に当てるなら、その分の戦力が浮く。人間の部隊だけなら、さほど数もいらんだろう。それと魔動巨人の回収を。特にあの防御型の魔動巨人は欲しい。動力部付近と肩の魔法陣部分の回収を最優先せよと伝えよ」
「では、前線に回す魔動兵装と併せて差配致します」
「中央からの応援がこちらに着くまでには、まだ少々時間が掛かるだろうからな。せいぜいそれまでに、《擬竜騎士》を上手く使って、こちらで手柄を立てさせて貰うとしよう」
イライアスは双眼鏡を下ろし、正式に命令を出すために自身の執務室へと歩き出した。
――そんな会話が砦で交わされていたことなど当然知る由もなく、アルヴィーは第一防衛線付近で引き続きレクレウス軍の動きを警戒していた。
(大体防衛線の向こうに退いたか……追撃もしようと思えばできるけど、さすがに勝手に動くのはな)
今のアルヴィーは一応、このファレス砦の司令官の指揮下にある。つまり、命令を受けて動く立場だ。とりあえず埋め立てられた塹壕(だった場所)から再び侵入されることがないように、右腕は戦闘形態のまま警戒を続けていると、砦から《伝令》が飛んできた。第一防衛線の再構築のため魔法士隊を向かわせるので、その護衛も兼ねて引き続き警戒を厳に、という指示に了解の《伝令》を飛ばし、一つ息をつく。
ふと周囲を見渡せば、あちこちで燻る炎と煙。そしてその合間に点々と倒れ伏す姿に、知らず眉が寄った。
――人を、斬った。
身を守るためではなく、戦況を自軍の有利に運ぶために。
あの時、混乱するレクレウス軍を立て直されては都合が悪かった。あのまま恐慌状態で逃げ戻ってくれた方が、結果として犠牲は少なくなる、そう思ったのだ。なまじ落ち着きを取り戻して反撃されれば、こちらもそれを迎え撃たねばならないのだから。
そのために指揮官を討った。レクレウス軍に恐怖を与えるために。こちらに攻め掛かる意思を挫くために。
そしてアルヴィーの思惑通り、レクレウス軍は慌てふためいて防衛線の向こうへと逃げ帰った。後は魔動巨人をすべて潰してしまえば、ファルレアンの優位は動かなくなるだろう。レクレウス側にもそう何度も侵攻を仕掛ける余裕はないと聞いている。このままレクレウスの軍勢を削り、戦う力を削ぎ続ければ、いずれはこの戦争も終わるだろう。
そんな物思いに耽るアルヴィーを、だがその時かけられた声が現実に引き戻した。
「ご苦労様です、《擬竜騎士》。これより防衛線の再構築に入ります」
「ああ……俺はここでレクレウスを牽制してるんで」
「助かります。身の安全を心配せずに作業に掛かれるというのは良いものですな。では」
敬礼し、地系統魔法を得意とする魔法士の部隊が、魔法で塹壕の再構成を始める。もちろんレクレウス側も妨害したいのだが、魔動巨人をすら容易く屠ったアルヴィーが睨みを利かせているため、下手に動けない。
「――どうだ、周辺の様子は。あの防衛線や砦を躱せそうな地点はあったか?」
無論、レクレウス側も指をくわえてそれを眺めているばかりではない。アルヴィーやファルレアン側からの攻撃を警戒して、塹壕から少し離れた地点まで後退しつつも周辺に斥候を放ち、何とか突破できそうな地点がないかどうかを調べ上げさせていた。だが、戻って来た斥候部隊の表情は、いずれも優れぬものばかりだ。
「申し訳ありません。つぶさに調べ上げましたが、この周辺は山岳地帯となっているため、作戦行動に使えそうな地点は見当たりませんでした」
「足場が非常に悪いため、魔動巨人はおろか人間ですら、部隊単位での行動は不可能と言わざるを得ません」
「ファルレアン側の防衛線は、一部山中にも延伸されているようです。魔動兵装らしきものを数ヶ所に確認しました。地上の防衛線を避け、山中に潜もうとする相手を想定していると思われます」
「そうか……」
二つ名に違わぬ防御の堅さに、新たに指揮官として任官された男は唸る。
ファレス砦が“鋼の砦”と呼ばれるほど攻め辛い一番の要因は、実は砦の各所に設置された魔動兵装でも、そこに篭もる騎士たちの気性でもない。砦がある山を含め、この辺り一帯が山岳地帯であることだ。南部街道はその山岳地帯の間を縫うように伸び、砦のある山を回り込むような形でファルレアンに続いている。だが戦時の今はその南部街道も塹壕で寸断され、とても進軍に使える代物ではなくなっていた。まあ、魔法があるので復旧は何とでもなるのだが。
通常、攻城戦では攻撃側は防御側の三倍の兵数を必要とするといわれるが、このファレス砦に限っては、その比率がさらに防御側有利に傾きかねない堅牢さだ。特に、包囲戦術が使えず攻撃経路が限定されるのが痛い。
「魔動巨人なしでよしんばあの防衛線を躱せても、砦を抜くことはできまいしな……」
「そもそも向こうには《擬竜兵》がいます。身軽に動ける上に、火力は魔動巨人並みとなると……」
改めて口に乗せてみると、反則的も甚だしい性能だ。返す返すも、その離反が惜しまれる。
だが過ぎたことをいつまでも惜しんだところで、状況が好転するわけではない。指揮官はその話をそこで切り上げた。
「――とにかく、どうにかしてあの防衛線を抜き、ファルレアンに侵攻せねばならん。魔動巨人の整備と補給を急がせよ。他のルートが使えん以上、魔動巨人を押し立てて正面突破を図るしかない」
「は……しかし魔動巨人も二体やられましたし、ファルレアンは徹底して魔動巨人の相手に《擬竜兵》を当ててくることでしょう。魔動巨人の兵装や性能では《擬竜兵》を捕捉することはまず不可能ですが……」
「……それについては、考えがなくもない。ただ、魔動巨人を一体潰すことになるが……こうなってはやむを得まい。王都に連絡を取り、裁可を仰ぐ」
「はっ、了解致しました」
敬礼し、部下が走り去って行く。それを見送り、指揮官は一つ息をついた。
(おそらく、向こうにも応援部隊が向かって来ているはずだ……それが着くまでに少なくとも、《擬竜兵》は始末しておきたい。――くそ、味方であればこれ以上なく有用だが、敵となると厄介この上ないな)
小さく舌打ちしつつも、指揮官は次の仕事をこなすため、自陣の方へと歩いて行った。
◇◇◇◇◇
レクレウス国王、グレゴリー三世の崩御――王城の中、それもごく一部の国の中枢にいる者たちのみに共有されたはずのその秘密は、しかしナイジェル・アラド・クィンラム公爵を通じ、オルロワナ北方領の主にも伝わった。
「――そうか、陛下がな」
『殿下におかれましては、ご心中お察し致します』
通信機能を持つ鏡の向こうで、ナイジェルが恭しく一礼する。ユフレイアは小さく笑った。
「気を遣わなくても構わない。父といっても、ほとんど顔を合わせたこともないような相手だ。母上はともかく、わたしは嘆き悲しむには関わりが浅過ぎるからな。――しかし、この状況下で崩御とは。これであの王太子が王位に就くのは、ほぼ確定というわけか」
腕を組み、ユフレイアは呆れたように嘆息する。現在のレクレウスの状況は、決して楽観視できるものではない。ここから国を立て直すには、よほど“出来る”君主でなければ難しいだろう。そして彼女には、自身の異母兄がそうだとはとても思えなかった。
「わたしには、この国が傾くのがさらに早くなったとしか思えないんだが」
『同感ではございますが、王太子殿下にご即位いただくのは、我々の計画にも必要なことですので』
「そうだな。国王というのはいざという時、責任を取り国を生かすためにいるものだ。わたしたち領主が、領地領民に対してそうであるようにな」
そもそも王侯貴族が普段良い暮らしを享受しているのは、有事の際の働きを求められるからだ。それは戦場での武勲であったり、時にはその命をもって民に累が及ぶことを防ぐ場合もある。敗戦国の王族や執政に関わる高位貴族が、戦争責任を負って処刑される場合などがそれだ。もっとも、現在のレクレウスの王族や貴族たちの中で、それを自覚している者がどれほどいるかは怪しいものだが。
「……といっても、わたしがそれを説くのも筋違いな気はするがな」
『殿下は“これからのこの国”になくてはならないお方でございますので。累が及ばないことを後ろめたく思われる必要はございません』
ナイジェルの言葉に、ユフレイアは苦笑した。
「分かっている。理解はしているさ。――ところで、これでそちらの状況はどう変わった?」
『ひとまず、陛下の崩御を公表するのは先送りとし、王太子殿下に新国王として即位していただくことが決まっております。表向き、陛下は王太子殿下に王位をお譲りになり、ご病気の療養に専念されるという形で押し通します。国民や周辺諸国への発表も同様に』
「なるほど。卿の案か? 他にそんな気の利いた案を出せる者はいないだろう」
『勿体無いお言葉でございます』
慇懃に一礼したナイジェルは、それを否定しなかった。やはりな、と胸中で呟いて、ユフレイアは一つ息をつく。ナイジェルの都合の良い方向に話を持って行けたということは、すなわち彼女にとっても都合の良い展開となったということだ。
『王太子殿下はご即位と同時に現在ご婚約中のご令嬢と婚礼を結ぶこととなりましたが、戦時中ということで簡素な式に留め、大々的な式典は戦後に改めて、という形となりました』
「よく納得したな、あの王太子は派手なことが好きそうだが」
『そこは宰相閣下が上手く言い包めてくださいました。戦時中に華燭の典など、国庫があっという間に空になるのが目に見えていますので。もっとも、強行したとしても現在の旗色を鑑みて、諸外国の賓客に列席を断られる可能性も低くはありませんでしたので、他国に恥を晒すことにならなかったのは何よりです』
しれっと毒を吐いたナイジェルは、話を元に戻す。
『それと、“あちら”の使者と話をそれなりに詰めることができました。あちらとしても、これ以上戦争を続けても大した益はないという点で、こちらと意見が一致しております。条件次第ではありますが、我々の側に付けることはできたかと』
「そうか……その話、外部には漏れていないな?」
『それは保証致します。ちょうど、使い勝手の良い駒を手に入れまして。おかげで、密偵や暗殺者を気にする必要がなくなりました』
「ほう」
ユフレイアは少々興味を惹かれる。彼女が《剣聖》を引き入れたのと同様に、ナイジェルの方でも良い人材を得たらしい。
「それはめでたいことだ。――それはそうと、最終的に貴族はどれだけこちらに引き入れられそうだ?」
『大体二割から三割、というところでしょう。継戦派は後々のために外しましたし、全体の半数ほどはどっち付かずの日和見です。家格からしても、さほど影響はありません』
「そうか……まあ、宰相がこちらに付いてくれたのは助かったな。だが、宰相となると終戦後に戦争責任を問われはしないか?」
『その辺りについてもいささか腹案がございますので、どうぞご安心を。――後は、今回の侵攻がどう片付くか、ですが』
「街道沿いの部隊を陽動に、南部街道上の砦を狙うという話だったな。勝算はありそうなのか?」
『無理でしょう。ファルレアンはおそらく、《擬竜兵》――今は騎士となっているそうですが、彼を最前線に投入してきます。わたしも一度国境戦に出陣しておりますので、その力のほどは耳にしていますが、魔動巨人を単騎で相手取れる戦闘力の持ち主とのことですので。魔動巨人の数を増やしたところで、ただの残骸を量産されるだけになるかと』
「だがこちらとしては、早めに決着が付いた方が望ましい――だったな?」
ユフレイアは左右異色の瞳をきらりと光らせる。
『仰せの通りです。一度目に見える形で、侵攻が頓挫する必要がありますので。それを機に、こちらも動きます』
「そうだな。段取りは卿に任せる。わたしは北方領で、後方支援に徹することにしよう。資金と物資の面倒はこちらで見る」
『有難きお言葉にございます』
「では、わたしは執務に戻る。卿も忙しい身だろう、本来の仕事に戻るが良い」
『畏まりました』
ナイジェルが鏡の向こうで一礼するのを見ながら、鏡の上部に嵌め込んだ魔石を外して通信を終える。ただの鏡となったそれを魔石を片付けるよう側付きの者に言い付け、ユフレイアは執務に戻――ろうとして、ふと窓の方を見やった。つかつかと近寄り、窓を開け放ってテラスに出る。
テラスに立ちささやかな風を受けながら、彼女はこの地に流されてからついに会わず終いとなった父に、少しだけ思いを馳せる。だがやはり、どこか他人事のような感覚は否めなかった。おそらくこれが母であれば、もっと身を切るような悲しみが襲うのだろうが、ユフレイアにとって父は、最後までどこか遠い存在でしかなかったのだ。
と――。
「……あれ、姫様。仕事はいいの?」
テラスの手摺の向こうからひょいと顔を出したフィランに、ユフレイアはため息をついた。
「……フィラン。そこで何をしている」
「いや、前にここよじ登ろうとしてる密偵っぽいのいたから、ほんとに登れるかどうか実践してみたんだけど、危ないぜこの辺り。魔法ナシでも上がれるくらいだから、本格的に準備されて来られたらヤバイ。魔法か何かでつるっつるにしといた方がいいよ」
「……そうか。後で手配しておこう」
ユフレイアには加工するまでもなく手掛かりなど何もない平坦な壁面にしか見えないのだが、《剣聖》などという異名を取る実力者からすれば、何とか登れる程度の凹凸はあるのだろう、きっと。
フィランはそのままよいしょと手摺を乗り越え、テラスの床に下り立った。
「へー、ここ眺めいいなあ」
呑気に感想など漏らしているフィランに、ユフレイアはふと思い立って尋ねてみる。
「……そういえばフィラン。おまえ、両親は健在か」
「親父はね。お袋は俺がまだ小さい頃に病気で死んだけど。相手が病気じゃな、《剣聖》でもどうしようもない」
「そうか……悪いことを訊いた」
「いや、もう大分前のことだし、それにそういうのを呑み込むのも修行だからさ、ウチの一族じゃ」
「その生き様すべてを剣の糧と為す――か?」
「そういうこと」
小さく笑って、フィランは手摺に背中を預けるようにして空を見上げる。
「ウチの一族じゃ、まず一番に優先されるのは“剣士であること”だ。それ以外は全部二の次。家族も名誉も、自分の生も死も」
「死んだら意味がないだろう。生きてこそ、剣も振れるんだろうに」
「剣士として剣を握って死ねれば、それで満足って奴ばっかだよ、ウチの一族は。俺も、多分ね。――普通の人には、理解できない感覚だと思うんだけど、それでもウチじゃそうなんだ。まあ、さすがに好んで死にに行く奴は滅多にいないけどな。自分の全力尽くして、それでも負けて死ぬなら仕方ない、まあ悪くない人生だった――って感じだよ」
「……そうだな。理解できない」
ユフレイアはこめかみを押さえて呻く。
「だが、そんな一族の中でその年で《剣聖》を継いだんだ、大したものだな」
「…………」
ユフレイアは間違いなく褒めたのに、フィランはなぜか盛大に顔をしかめた。
「……どうした?」
「いや……俺としてはほんと、《剣聖》なんか継ぐつもりなかったんだけど」
はあああ、と深い深いため息をつき、フィランは地の底から這い出る亡者のような、覇気のない顔付きになった。
「? なら辞退すれば良かったんじゃないのか?」
「したくてもできなかったんだよ! 親父に一撃入れちゃったんだから!」
吠えて、フィランは頭を抱えた。
「あのクソ親父……“自分に一撃入れるだけ”なんてふざけた継承条件付けやがって、それでもまあ馬鹿みたいに強かったから、適当にいなしてりゃいいと思ったんだよ、その当時は! そう思ってた時代もありました!」
自棄のようにそう叫んで、だん! と手摺に拳を叩き付けるフィラン。
「なのに! ある日いきなり俺と二、三歳しか違わないねーちゃん連れて来て、“嫁にするからよろしく”とか! ふざけんな! 思わずツッコんじゃったじゃん、剣で!」
「……それで一撃入れてしまったわけだな」
「そうだよ、入れちゃったよ会心の一撃! さすがに防御はされたけど、それでも入れちゃったんだよ掠り傷! それで《剣聖》継承とかふざけてるマジで! っていうかツッコミがそれまでで一番鋭い一撃だったとか、そんな感想いらないよ!!」
とうとうがっくりとくずおれたフィランに、ユフレイアは何ともいえない生温い眼差しを送った。
大陸にその名を轟かせる《剣聖》。その交代劇が、まさかの親の再婚へのツッコミである。世の剣士たちが聞いたら発狂しそうだ。
「その時点で親父が一族に拡散しまくっちゃったから、無かったことにもできなかったし。俺に《剣聖》押し付けて、親父はそのねーちゃんとこに定住しちゃうし……まあ、《剣聖》降りりゃ定住しようと何しようと自由なんだけどさ、ウチの仕来りじゃ。親父も再婚したいがために俺の一撃受けるほど、耄碌しちゃいないけど。でもさ! もうちょっと感動が欲しかった!!」
感動もロマンも欠片一つなかった継承の経緯は、今や立派に彼の黒歴史である。
自分で黒歴史を掘り返してダメージを受けているフィランに、ユフレイアはとうとう堪えきれずに笑いを漏らした。
「……ふっ」
「笑わないで姫様!? 俺今すっごくいたたまれない!」
「いや、礼を言うぞフィラン。おかげで気が晴れた」
笑顔でそう言って、ユフレイアは踵を返した。
どこまでも遠かった父の死を悲しめないのは、ある意味仕方のないことなのだろう。そしてフィランたちサイフォス家の一族の生き様が余人には理解できないように、彼女のその感情もまた、彼女自身のものでしかないのだ。自分自身がそう感じるのなら、それを受け入れるしかない。
そしてその上でユフレイアはなお、この国の先を見る。
「……フィラン」
執務室に戻ろうとして、ユフレイアはふと振り向いた。
「ん、何? 姫様」
ユフレイアに続いて歩き出したフィランが、足を止めてきょとんと彼女を見る。そんな彼に、ユフレイアは言い渡した。
「おまえにはわたしの剣でいて貰う。――少なくとも、この国が変わるまで」
フィランはしばらく黙って彼女を見つめたが、やがて肩を竦めた。
「何事も剣の糧、ってね。――でも、得るものがないと思ったら、すぐにお暇させて貰うよ」
「構わない。それに、一国の体制が変わるのを間近で見るのは、なかなかない経験だぞ?」
「俺、そういうしがらみが強そうなのは遠慮したいんだけどなー……」
ぼやきながらも、フィランはユフレイアに続いて再び歩き出す。今はまだ見極める時だと、彼の勘がそう告げる。
二人の姿を呑み込み、大きなガラス窓はぱたんと閉まった。
◇◇◇◇◇
モルニェッツ公国南西部、ヴィペルラート帝国との国境付近にある小高い崖の上に、メリエは立っていた。
長い髪と深紅の上着の裾を風に翻し、眼下に見える国境警備の陣を眺めている。その菫色の瞳には、どこか嗜虐的な光があった。
「……さて、と。ゼーヴハヤルは上手くやったのかしら」
そう呟いた時、まるでそれを待っていたかのように、彼女の耳に装着されたピアスから声が聞こえる。
『――メリエ、準備はよろしいかしら?』
その声に、メリエは猫のように目を細めた。
「シア。向こうは上手く行ったのね?」
『ええ、ゼーヴハヤルが存分に働いてくれました。大公を討ち取り、城内の主立った者たちに洗脳用の魔法生物を取り付けてくれましたので、もうその国の中枢はわたくしが握ったも同然ですわ』
「了解。じゃあ、国境で何があろうと、中央からの反応はないってことで」
メリエは待ちかねたように左腕を伸ばす。すぐさま異形のものに形を変えた左腕を携え、彼女は崖っぷちに足を踏み出した。だが、彼女の先走りを諌めるように、レティーシャの声が釘を刺す。
『暴れるのはあくまで、ヴィペルラート領の方でお願いしますわ。モルニェッツの騎士は今やわたくしの民。無闇に傷付けることは許しません』
「分かってるわよ。――じゃ、行って来るわ」
少し口を尖らせながらも、メリエは今度こそ崖を蹴り、数十メイル下の地面へとためらいもなくダイブした。
「――《竜の咆哮》!」
その左手から迸った閃光が、ヴィペルラートの陣の真ん中へと突き刺さる。爆炎が巻き起こり、巻き込まれた兵士たちの断末魔の叫びが響き渡った。
「な、何だ! モルニェッツの攻撃か!?」
「馬鹿な、宣戦布告もなしだと!?」
ヴィペルラート兵たちはうろたえながらも、懸命に態勢を立て直そうとする。だがメリエはそれを嘲笑うように、矢継ぎ早に《竜の咆哮》をその只中に撃ち込んだ。爆音と炎が連鎖し、その一つごとに十を超える兵士が犠牲となって命を落とす。
狂乱の中に、メリエは身軽に下り立つと、その左手を翻した。放たれた《竜の咆哮》が刃となり、薙ぎ払われた兵士たちを焼くというのも生易しい勢いで吹き飛ばす。
いきなり襲い掛かって来た、少女の形をした災厄に、兵士たちは動揺しながらも手にした武器を向けた。
「少女の形をしているからといって甘く見るな、あれは化物だ! 一気に畳み掛けて仕留め――」
指揮官らしき男が怒鳴る。だがそれは、今ここに限っては、メリエの注意を引いてしまう悪手でしかなかった。
「うるさいなあ」
煩わしいという表情を隠しもせず、彼女は左手を打ち振る。それだけで、兵士たちの一角が消し飛んだ。
「き、貴様、何者だ……! モルニェッツの手の者か!?」
「違うわよ。っていうか、そろそろ黙って死んでくれない?」
メリエの左手が打ち振られるたび、放たれた《竜の咆哮》が兵士たちを確実に削っていく。恐怖のあまり国境警備という任務も忘れ、逃げ惑う者でさえ容赦なく消し飛ばし、彼女は灼熱の地獄の中で楽しげに笑った。
「あはははっ――やっぱり気持ちいいなあ、思いっきり《竜の咆哮》撃ちまくれるの!」
それはかつて、レドナで起こったこと、そのものだった。
メリエの周囲には黒く焼け焦げた人間“だったもの”が転がり、あるいは未だ炎を上げて燃えている。即死を免れた者たちは、だがここでは運が悪いというべきだろう。なまじ一瞬で死ねなかったがために、炎に曝されながら今しばらく苦しまなければならないのだから。
そして生き残ったわずかな兵士は、それを背に必死で逃げていた。
(と、とにかくこのことを、一刻も早く中央に――)
それだけを繰り返し考えながら、ひたすらに両足を動かし続け――。
「――逃がさないけどね」
その声と共に浴びせられた光芒が、彼らを薙ぎ払って消し飛ばした。
「……やだ、もう終わり?」
散々にヴィペルラート陣を蹂躙したメリエは、つまらなそうに呟く。だが気を取り直したように、片方のピアスを弾いた。
「ねえ、シア。終わったけど」
『ご苦労様、メリエ。きちんと全滅させてくれましたわね?』
「そりゃあもう、きれいさっぱり焼き払ったけど。でもこれ、何か意味があるの?」
『その一帯もかつては、我がクレメンタイン帝国の領土でしたの。自国の領土を取り戻すのに、何か問題がありますかしら』
「そう。まああたしにはどうでもいいけど」
肩を竦め、メリエはもうここには用はないとばかりに歩き始める。左腕を通常状態に戻し、空を仰いだ。
――その視界に一騎のヒポグリフが飛び込んでくるのは、もうしばらく後のことだった。




