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片翼のドラグーン  作者: 八月 あやの
第四章 動き出す世界
28/136

第27話 それぞれの戦い

「――斬り裂け、《風刃エアブレイド》!」

 剣を振るった軌跡が刃となり、魔物たちを次々と両断していく。熱を帯びたそれに断ち切られた骸は傷口が瞬時に焼かれ、血飛沫すら舞わない一種非現実的な光景を作り出した。

「さすがに、数が多いな……」

 周囲の魔物を一通り片付け、ルシエルは息をつく。手にした愛剣《イグネイア》は血のしずくすら纏うことなく、きらりと陽光を跳ね返した。

「ですが、これはまだましな方だそうですよ。例年だともっと大量の魔物が押し寄せて来て、その対応に手を取られるようです」

 傍らで大槍を振るうディラークが、ルシエルのぼやきを聞き付けてそう返す。

「確かに個々の力は弱いですが、何しろ数がとんでもないですから、纏わり付かれると動きが取れなくなるそうです。むしろそちらで、消耗が大きくなるのも珍しくないと」

「そうなのか……そう考えると、今回はまだ楽ということか?」

「そうですね。小物は前衛で軒並み片付けてくれていますから」

 振り仰いだ最前線の方角で、またしても連鎖する爆音。その正体を、ルシエルは知っている。

(確かに、アルの《竜の咆哮(ドラグ・ブレス)》なら、この程度の魔物は纏めて片付けても釣りがくるくらいだ。その割に、そこそこのランクの魔物が抜けて来るけど……多分、後ろに来る魔物をアルの方で“調整”してくれてるな)

 数だけは多いが、弱過ぎて経験値にもならないような魔物は最前線で軒並み片付け、そこそこの強さを持つ“倒し甲斐のある”魔物はいくらか後方へ流しているようだ。それについても、背後の騎士たちが余裕を持って倒せる程度の数に抑えているようだが。特に、初めて大暴走スタンピードを経験する騎士たちには、雑魚レベルの魔物に煩わされず経験を積める、良い機会になるだろう。

「――はぁぁぁっ!!」

 少し離れたところでは、シャーロットが愛用のバルディッシュを振り回し、豪快に魔物をぶった斬っていた。彼女の手の中で大振りのバルディッシュがくるくると回り、舞うように軽やかな足運びで、軽快に身を翻しつつ周囲の魔物を両断していく。

「ふう……話には聞いていましたが、聞きしに勝る混戦ですね」

 ひとしきり周囲の魔物を掃討し、彼女は乱れた髪を手櫛てぐしで整えた。だが一息つく余裕があるだけ、戦況は楽なのだ。

 と、

「――上! 落ちて来ます、回避を!」

 声が飛び、頭上に影が差す。飛行型の魔物が砦からの射撃に撃ち落とされ、落下してくるのだ。落下地点にいた騎士たちは素早く退避、その直後、墜落してきた魔物が何ともいえない音と共に地面に衝突する。


「……とりあえず、当座はしのいだか。しかし、いくら公爵領並みの広さがある森とはいえ、よくあれだけの魔物を今まで養えてたな」


 半ば呆れた口調でぼやき、シルヴィオは弓を下ろした。砦の屋上、遠距離攻撃を得意とする騎士たちはそこに陣取って、対空攻撃に従事しているのだ。いくらこのラース砦が堅牢けんろうとはいえ、所詮は陸上の建築物。空を飛んで頭越しに後背の領地に入られては困るのである。むしろそれができる飛行型の魔物をこそ、最優先で倒す必要があった。

 地上を侵攻してくる魔物たちに続くように、飛行型魔物の第一波が砦に迫ったが、騎士たちの奮戦で何とかすべて砦を越えさせることなく撃ち落とすことができた。その中でもシルヴィオの戦果は頭一つ飛び抜けている。得意の超長距離射撃で、落とした魔物は二十体を超えるだろう。また、騎士たちだけでなく、砦屋上や左右の土壁の上には対空用魔動兵装も据え付けられ、そこから撃ち出された魔法も数多くの魔物を撃墜した。

「さて……そろそろ後続が来るかな?」

 彼は両目に魔力を流し、森の方を眺めた。“千里眼”が発動し、遠く離れた森の様子もまるで手に取るように見ることができる。森は相変わらずざわついており、まだ魔物たちの動きが活発なことを彼に教えた。

(これは、第二第三の襲撃も来そうだな……矢が足りればいいんだが。――向こうの様子はどうかな)

 もちろん、大暴走スタンピードにあたって矢はたっぷり持って来たつもりだったが、こうも魔物が多いと少しばかり心配になってくる。まあ自隊の部下にして従者でもあるカシムにも、予備の矢は持たせてあるので、いざとなったらそれを使おうと思いつつ、シルヴィオは何気なく視線を横にずらした。

(……ん?)

 そして眉を寄せる。

 砦から少し離れると、土壁もなく、水濠みずぼりだけが《魔の大森林》と諸侯の領地とを区切っている。だが十数年もの歳月を掛けて築かれたこの水濠は、幅・深さ共に数メイルほどあり、なおかつ内側を地魔法で滑らかに加工してあるため、一度落ちたら這い上がれない構造になっていた。また、ラース砦とその前方数ケイルほどの空き地は、《魔の大森林》にやや食い込む形で存在し、魔物たちがそこへ集中して雪崩れ込むようになっている。そのためラース砦周辺以外はほぼ完全に外と分断されているのだが、その砦から数ケイルほど離れたところの木々の合間に、騎士が何人か動き回っているのを彼の“千里眼”は見て取ったのだ。

(何であんなところに……偵察か何かか?)

 シルヴィオは内心首を傾げたが、その時またしても飛行型の魔物が森の方から飛来して来たのが確認され、シルヴィオもそちらの方に意識を移してしまったため、その奇妙な“小隊”のことはすぐに忘れてしまった。


「――さて、と。雑魚レベルは大体出尽くしたか?」


 一方の最前線では、一通りゴブリンなどの小物を《竜の咆哮( ドラグ・ブレス)》で消し飛ばしたアルヴィーが、息をついて右腕を下ろした。森から湧き出てくる魔物は、オークなどのやや強い魔物に変わりつつある。このくらいのレベルなら、騎士たちには良い鍛錬になるだろう。

(それでもこれは、数が多いか。ちょっとこっちでも倒しといた方が良さそうだ)

 アルヴィーは右腕を振るい、威力を抑えた《竜の咆哮( ドラグ・ブレス)》で数匹のオークを撫で斬りにした。オークたちは松明のように激しく燃え上がり、近くにいたオークたちは恐れをなしたように動きが鈍る。

「行け! 掛かれ!」

 そこへ、騎士たちが斬り掛かった。分厚い皮下脂肪を持つ胴体は避け、首筋などを狙って的確に剣や槍を突き込み、手早く仕留めていく。

「よし、死体は後方へ運べ!」

 息絶えたオークたちのむくろは、回収されて後方へと運ばれて行く。オーク辺りのレベルになると、さほど大きくないながらも魔石が回収できるらしいので、そのためだろう。魔石は魔動機器や砦の各種設備の動力源として使えるので、砦にとって貴重な物資だ。また、魔物によっては素材も採れる。そしてそれらを回収した後の骸は、新たな魔物を呼び寄せるための餌として使われるということだった。血の臭いを嗅ぎ付けた魔物たちは砦があるこの戦場に吸い寄せられ、先に餌となった魔物たちと同じ運命を辿ることになるのだ。

 割とえげつない方法ではあるが、大物を呼び寄せるために小動物を呼び餌として使うのは、アルヴィー自身も猟師であった頃に何度か使った方法である。効率的であることは確かだった。何しろ魔物たちは餌にあぶれて森から溢れてくるわけだから、その鼻先に餌をぶら下げてやれば、効果は覿面てきめんだ。そしてそういった魔物たちに狩猟本能を刺激され、本来森の生態系の頂点にいるような強力な魔物たちも、大暴走スタンピードに乗じて姿を現すこととなる。

 しばらくオークの間引きに専念していたアルヴィーだったが、ふと気付いた。

(……魔物の数が減ってきた?)

 際限なく湧き出るかに思えた魔物の数が、見るからに減り始めている。

「……まさか、もう大暴走スタンピードが終わったのか?」

 思わず呟くと、それを聞きとがめた近くの騎士に笑われた。

「この程度で終わりゃ、誰も苦労はしないさ。森のこっち側にいた魔物が粗方あらかた出尽くしただけの話だろう。何せ《魔の大森林》はだだっ広いからな。森の中心部や反対側にいるような魔物が、これからまたぞろ出て来るさ。そっからが大暴走スタンピードの本番だ」

「ああ……そういうことか」

 つまりは、単にこの周辺にいた魔物が打ち止めになったというだけのことだ。考えてみれば当たり前の話だが、《魔の大森林》は公爵領に匹敵する広大な樹海である。魔物の足でさえ、森の中を移動するだけでも数日掛かりは珍しくない。そして森の奥深くに棲む魔物たちも、ラース砦での戦いの気配や呼び餌とされた魔物の血の臭いを嗅ぎ付け、現在こちらに向かっているところだろうという。

(そういえば本で読んだな。リシュアーヌ側は山地だから、魔物はこっちに来るしかないんだっけ)

 北のダルガット山脈ほどの大山脈ではないが、《魔の大森林》の東にもそれなりの標高を持つ山地が存在し――というよりその裾野に《魔の大森林》が広がっている――それがファルレアン王国とリシュアーヌ王国の国境であると共に、魔物を遮る天然の防壁となっている。傾斜が急で、身軽な小型の魔物や飛行型の魔物でないと越えられないらしい。そのため、大暴走スタンピードが起これば大半の魔物がファルレアン側に流れるのだ。ちなみに、この《魔の大森林》があるために、リシュアーヌ王国との行き来はセドリア川東岸地域、もしくはサングリアム公国経由に絞られる。

「この状態になれば、何時間かは落ち着いてるからな。休憩を取るなら今の内だ」

 そう教えてくれたはいいが、アルヴィーは特に疲弊してもいなかったので、そのまま戦場に残ることにした。やったことといえば《竜の咆哮( ドラグ・ブレス)》をバカスカ撃ちまくっただけだし、魔力も同時進行でチャージできる。休息を取る理由がない。

 だがその時、砦の方から騎士が馬でやって来た。

「――《擬竜騎士ドラグーン》は一度砦に戻るようにと、クラウザー司令よりのご命令です」

 馬から下りた騎士は、どうやら伝令役らしい。事務的に、それだけを伝えてくる。

「俺はまだれるけど……」

「これから先、魔物の襲来がさらに激しくなることが予想されるので、それに備えて今の内に休息を取るようにと。第一陣の迎撃部隊も砦に戻りますので、それに合わせて帰還するようにとのことです」

 それだけ言い置いて、騎士はまた砦の方へと戻って行く。アルヴィーはため息をついて、胸元に袋入りでぶら下がるフラムを見下ろした。

「……戻るか?」

「きゅっ」

 フラムはまるで「もちろん」と言うように、キリッとした顔で短く鳴く。さっきまでこの辺りは結構えぐい感じの修羅場が広がっていたのだが、まったく怯えていない辺り、本当に肝の据わった小動物だ。

 アルヴィーは後続の騎士が来るのを待ち、その間にさらに何体かの魔物を葬ると、交代にやって来た騎士たちに後を任せて、砦に向け歩き出した。目立つことこの上ない右腕は通常の状態に戻したが、どうせ焼け石に水だろう。あれだけ派手にぶっ放しまくったのだ。さぞかし目立っていたと思われる。

 事実、砦に戻ると、一斉に注目を浴びた。


「――おい、あいつだ」

「ゴブリンの大群をほとんど一人で焼き払ったってよ」

「オークもあっさり丸焼きにしたらしいな」

「あんな大威力の魔法をぶっ放しまくって顔色一つ変えてないなんて、やっぱり化物だろ……」


 ひそひそと囁き交わされる一部の声を聞き流しつつ、アルヴィーは自分用にと宛がわれた部屋に向かった。部屋にフラムを置いてから、デズモンド・ヴァン・クラウザー一級騎士の執務室に向かうつもりだ。この砦にいる間は、彼の指示に従っておいた方が無難だろう。

「――アル!」

 しかし部屋に向かって歩いていると、後ろから追いかけて来たルシエルに呼び止められた。

「ルシィも戻ってたのか」

「ついさっきね。――アルは最前線にいただろう。一応訊くけど、怪我は?」

「あるわけないだろ。あってもすぐ治るし」

 肩を竦め、再び歩き始める。

「ルシィたちこそ、大丈夫だったのか?」

「おかげさまでね。アルが後ろに来る魔物を調整してくれてたし」

「……まあ、それが俺の仕事だしな。雑魚片付けて、それから大物も相手しろって。そこそこ強いのは、騎士団の鍛錬のために残しとけってさ」

「確かに、ゴブリンなんかが纏わり付かない分、今回は楽だって聞いたよ。それ、カルヴァート大隊長の指示?」

「そ。人使い荒いよなー」

 天を仰いで嘆息し、ルシエルに向き直る。

「ルシィたちも休憩だろ? 俺に付き合ってていいのか?」

「まあ、あと何時間かは出撃もないからね。多少はゆっくりできるよ」

「そっか」

 それきり、言葉少なに部屋への道を辿る。やがて部屋に辿り着き、アルヴィーは足を止めた。

「あ、俺この部屋だから」

「そう。僕らはもう少し先の方だから。――アル」

「うん?」

「無理はしないで。僕たちもいる」

「……おう」

 真っ直ぐなルシエルの眼差しに、照れ臭くなって微妙に視線を外しながらも、こくりと頷いた。アルヴィーが頷いたことに安心したのか、ルシエルはそれじゃ、と短く言い置いて去って行く。部屋に入り、質素なベッドに腰掛けて、先ほどのルシエルの言葉を思い出した。

(……無理、してるように見えんのかな)

 自分は兵器だ。そう作り変えられた。だからいくらだって戦える。

 それでも、ルシエルにかけられたあの言葉は、アルヴィーの胸をふわりと温めた。


 ――例え生体兵器として作り変えられても、人から外れた異形の身となっても。

 彼は変わらず、自分を親友として見てくれている。


「……よっし、行くか!」

 自分に気合を入れて立ち上がると、アルヴィーはフラムを部屋に残し、クラウザー一級騎士の執務室におもむくことにした。

 騎士として、自分のできることをするために。



 ◇◇◇◇◇



 大暴走スタンピードの第一波を凌ぎ切った安堵に、わずかに緩む雰囲気の中、その男は砦に帰還した。

 黒髪、細い黒目。鍛え上げた肉体は騎士団の制服に隠し、印象を薄めて目立たないよう、周囲に埋没するように振る舞っている。しかしそれは、他の人間には分からない、ごくさり気ないものだった。

「――おう、あんたも今帰りかい」

「ああ。俺は中ほどにいたんだが、前線は大分派手だったな」

「あれが噂の《擬竜騎士ドラグーン》だとよ。ここだけの話、元はレクレウスの出らしい。高位元素魔法士ハイエレメンタラーに認定されたって話だが、それも分からなくもねえやな」

「まったく、俺たちとは別の生き物なんじゃないかと思えてくるな。――じゃあ、俺はこの辺で」

 声をかけてきた騎士と別れ、砦の中を歩いていると、いつの間にか数人の騎士が彼と同道するように歩いていた。

「――見たか」

「あれが《擬竜兵ドラグーン》か……確かに、戦闘力は図抜けている」

「だが、魔法を封じれば目がないわけでもなさそうだ。砦の中で仕掛けるか?」

「ああ、それが最善だろう。障害物も多いし、奴も今はファルレアンの騎士。自軍の砦を吹き飛ばすわけにもいくまい」

 周囲には聞こえない、ごく低い声で会話を交わしながら、騎士たちは通路を歩いて行く。

 否――彼らの正体は、ファルレアンの騎士などではない。言わずもがな、ノスティウス侯爵が差し向けた暗殺者《黒狼》と、その補佐を命じられた暗殺者たちである。

 彼らは密かにファルレアン国内に入り込み、騎士団に扮してこのラース砦に入り込んだ。ラース砦では大暴走スタンピードが近かったこともあり、急ぎで応援部隊を召集したため、入場者のチェック機能がやや甘くなっていたのが幸いし、怪しまれることもなく砦の中に入り込めたのだ。一旦入り込んでしまえばこちらのもの、後は極力目立たないように振る舞えば良い。

 そもそも応援部隊が入って来たことで、この砦の人員構成は二つに割れた。元から砦にいた部隊と、王都からの応援部隊だ。彼らは、自分が属する部隊の人間の顔は知っていても、そうでない側の構成員にはさほど詳しくない。見覚えのない顔が堂々と砦内を闊歩かっぽしていても、王都からの部隊の者は砦に常駐する部隊の人間だと思い、砦の常駐部隊の者は王都からの応援部隊の人間だと思い込む。その思い込みを利用し、《黒狼》とその一味の暗殺者たちは、堂々と砦内を調べて回っていた。もちろん、現在この砦にいる人間を一ヶ所に集め、名簿の照合でもされれば一発で露見するだろうが、そんな暇など今のラース砦にはない。今のところは安全圏にいると思って良いだろう。

「……それで、砦の構造は掴めたか?」

「粗方は。さすがに上級騎士が使う区画までは無理だったが」

「万が一、事が露見した場合に使う脱出経路は、いくつか確保した。後は、機会があれば……」

 その時足音が聞こえ、彼らは口を閉ざす。反対側から来た騎士たちの一団が、何やら話しながら彼らとすれ違った。騎士たちがある程度離れたのを確認し、彼らはいくつかの事項を確認して、身体を休めるために確保した空き部屋へと引き揚げて行く。本来ここに存在するはずのない彼らに、部屋が宛がわれるはずもないので、空いている部屋を適当に拝借しているのだ。何しろラース砦は広大で、空き部屋にも困らない。目立たない場所にある部屋をいくつか確保するくらいは容易だった。

 ――そんな彼らとすれ違った、騎士の一団。その中でも、最年少と見える年若い少年が、何やら難しい顔になってちらりと背後を振り返った。

「どうした、カシム?」

 問われ、カシム・タヴァルはいささか行儀はよろしくないが、親指で自身の背後を指し示す。

「……さっきすれ違った騎士ですけどね。なーんか、怪しげな話してたんすよねぇ」

「怪しげな話?」

「砦の構造がどうとか、脱出経路がどうのとか。すっげー低い声で話してたんで、俺の耳でもその辺りが限界だったんすけど」

 カシムの報告に、シルヴィオはふむ、と唸る。カシムは今、普段着けている耳当てを偶然外していた。そんなカシムの耳でもその程度しか聞き取れなかったとなると、よほど小声での会話だったようだ。そして、別段(はばか)る相手などいないはずのこの砦の中で、そんな小声で話をする理由など現段階では見当たらない。

「……カシム、その騎士、見覚えはあるか?」

「いや、それがすっげー印象薄い顔で。もう今にも忘れそうっす。でも今んとこ、思い当たる顔はないっすね」

「まあ俺たちも、ここの騎士の顔全部覚えろなんて無理だからな……とりあえず念のため、報告は上げておこう。カシム、しばらくその騎士が現れないかどうか、気を付けておけ」

「りょーかいっす」

 ぴっと敬礼するカシムに頷き、シルヴィオはこの砦の司令であるクラウザー一級騎士に報告を上げるため、報告書の文面を考え始めた。



 ◇◇◇◇◇



 ラース砦から遠く離れたレクレウス王国、その王都レクレガンの中心部――そこにそびえる王宮の一室では、国政を担う者たちによって、今まさに侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が交わされていた。

「ですから、これ以上国力を衰退させぬためにも、今の内にファルレアンと講和を――」

「それでは我が国が降伏したと看做みなされるではないか! せめてもう一戦、勝利を挙げてからでなければ!」

「そのような余裕が、今の我が国のどこにあるというのです!」

 意見を重ねるごとに熱くなっていくかのような室内の雰囲気を、その時斬り裂く声があった。


各々(おのおの)方、まずは鎮まりなされ。――戦況は確かに厳しいが、さりとて講和はまだ早きに過ぎよう。今しばらく、様子を見てはいかがか」


 声の主は軍務大臣ヘンリー・バル・ノスティウスだ。その重々しい声に、怒鳴り合い半歩手前まで行っていた閣僚たちは黙ったが、それでも一人の大臣が、こればかりはといった様子で口を開いた。

「お言葉ですが、ノスティウス侯。今回の戦役、どう贔屓目ひいきめに見ても我が国が劣勢でございます。その上、例の《擬竜兵( ドラグーン)》とやらが、ファルレアンに寝返り我が国に敵対しておる! かの者を一刻も早くどうにかせねば、こちらの状況は悪くなるばかりにございますぞ!」

 その意見に座がざわつく。だがヘンリーは起立すると片手でそれを制し、

けいの懸念はもっともだ、だがわたしとて、それを考えておらぬわけではない。――現在、かねてよりの方針通り《黒狼》を動かしておる。彼奴きゃつ《擬竜兵( ドラグーン)》を始末すれば、状況も変わろう」

「おお、あの者か……!」

「しかしいかに《黒狼》といえど、《擬竜兵( ドラグーン)》が相手では……」

「仕方があるまい。我らの手札の中では確かに、あれが最も望みがある」

 もちろんこの場にいるような地位にいる者たちだ、《黒狼》の存在も知っている。それでも、《下位竜( ドレイク)》に肩を並べるという《擬竜兵( ドラグーン)》に対しては、やはり分が悪いと感じる者が多いのだろう。どこか不安げな雰囲気が薄まることはない。

 だが、このまま厭戦えんせん気分を持ち越されても困るのだ。ヘンリーは殊更楽観的に、

「何、《擬竜兵ドラグーン》は戦闘力こそ飛び抜けてはいるが、所詮は年端も行かぬ若造に過ぎん。対して《黒狼》は百戦錬磨ひゃくせんれんま暗殺者アサシン《擬竜兵( ドラグーン)》を出し抜く方法などいくらでもあろう」

「そ、そうですな」

「確かに……」

 閣僚たちはその言葉に飛びつくように頷いた。彼らとて人間、悲観的なことよりは楽観的なことを考えたいものだ。その場の雰囲気がわずかに浮上し、話の方向を継戦けいせんに持って行けたと、ヘンリーは内心安堵する。

 と、上座からの声。

「――良かろう。ならばその件、そなたに委細いさい任せる」

 国王グレゴリー三世が、話を切り上げるようにそう宣言した。

「良い報告を期待しておるぞ」

「は。必ずや」

 慇懃いんぎんに一礼し、ヘンリーは着席する。国王の一声で、その話はそれまでとなった。

「では、次の議題じゃが……魔動研究所の件について、再開の目途めどが立ちそうだという報告があったが、まことか」

「は、各地より研究者を招聘しょうへい致しまして、遅くともあと二月中には業務を再開できる予定にございます。また、一部の部署におきましては、すでに稼働しております」

「うむ、それは重畳ちょうじょうじゃ」

 宰相ロドヴィック・フラン・オールトは、担当閣僚からの報告に頷いた。

「魔導研究所は魔動機器研究の要ゆえな。我が国が魔動機器大国と呼ばれるのも、研究所あってこそ。再開の目途が立ったのは何よりじゃ」

「現在、魔動巨人ゴーレム関連の技術者を最優先に集め、国境より回収した魔動巨人ゴーレムの修復を始めております。修復は五割程度完了しており、進捗しんちょくは予定通りに進んでおります。このまま行けばあと一月ほどで、再び前線に出すことが可能となるでしょう」

「まことか!」

 思わず席を立つほどに勢い込んで尋ねたのは、王太子ライネリオだ。他の閣僚たちも希望を見つけたように表情がわずかながら明るくなる。

「おお……魔動巨人ゴーレムが前線に出れば、流れも変わろう」

「後は、《擬竜兵ドラグーン》を始末できるかどうか、か……」

「よし、ノスティウス侯! 何としても《擬竜兵( ドラグーン)》を始末せよ! 卿はこれまで、幾度も作戦を失敗している。もう後はないと思え!」

「は……」

 ライネリオの半ば脅しのような命令に、だがヘンリーは唯々諾々(いいだくだく)こうべを垂れる。そうするしかないのだ。ライネリオは王太子であり、すなわち次代の王。王室の権威が強いレクレウスで、その事実は何よりも重い。

「――では、各々方。他にはかるべき議題はないかの。なければ本日の軍議はこれで……」

 ロドヴィックがそう言いかけた時。


「一つだけ、よろしいでしょうか」


 す、と優雅に挙手をしたその声の主に、座の全員が目をやる。

「クィンラム公か。良い、意見を述べよ」

「は、有難く存じます。それでは、お言葉に甘えまして」

 ナイジェルは勿体もったいぶって起立すると、居並ぶ閣僚たちの顔を見回し、口を開いた。

「魔導研究所の再開や魔動巨人ゴーレムの修復など、確かに喜ばしい報告であります。ならばこの機に、こちらも一つ、手札カードを切ってはいかがでしょうか」

手札カードだと?」

「はい。――無礼を承知で申し上げますが、陛下はよもやお忘れではないでしょう。我が国にもお一人、高位元素魔法士ハイエレメンタラーがおられることを」

 瞬間、グレゴリー三世の表情がわずかにこわばり、閣僚たちの間にどよめきが起こる。だが、最も顕著けんちょな反応を示したのは、王太子ライネリオだった。

「貴様……! 自分が何を言っているのか分かっているのか! ならぬ! ならぬぞ!」

「しかし、今はもはや、戦力の出し惜しみをしている場合ではございません」

「うるさい、黙れ! 言うに事欠いて、あのような下賤げせんの者を頼ろうなど――」

「鎮まれ、ライネリオ」

 激昂した息子を制し、グレゴリー三世は複雑な表情でナイジェルを見やった。

「……いかに高位元素魔法士ハイエレメンタラーといえど、あれは曲がりなりにも我が娘。戦場に出すは忍びない。――そもそも、あの娘には北の地を任せておる。あの地が我が国にとってどれだけ重要か、そなたには分かっておるだろう」

「確かにかの地は、今や我が国の経済を支える生命線。差し出がましいことを申し上げました。何卒なにとぞお許しを」

 ナイジェルはあっさりと意見を引っ込め、丁重に一礼して着席する。もとより、本気で自身の意見がれられると思っていたわけではなかった。

(期待通りの反応だな。一歩間違えば不興ふきょうを買っていたが、その甲斐はあった)

 ライネリオが癇癪かんしゃくを起こし、グレゴリー三世がいさめたあの場面。ナイジェルが見たかったのは彼らではなく、“ある人物”の表情だった。そしてそこにわずかながら抑えきれなかった感情を見つけ、ナイジェルは満足したのだ。

 ナイジェル以外に意見を述べる者はなく、軍議は程なく散会となった。国王親子の退出を待ち、閣僚たちも足早に自分の持ち場へと戻って行く。そんな中、ナイジェルはある人物に近付き、そっと声をかけた。


「宰相閣下」


 自らも執務室に戻ろうとしていたのだろう、これも心持ち急ぎ足で議場を後にしようとしていたロドヴィックは、声をかけてきたナイジェルをいぶかしげに見やる。

「クィンラム公か。わしに何か用かね?」

「できれば、少々お時間を頂戴致したく。無論、閣下もお忙しい身、お手間は取らせません。――ですが、閣下がこの国の行く末をうれえておられるのならば是非、お話ししておきたいことがございます」

「む……」

 ロドヴィックは小さく唸り、そして頷いた。

「良かろう。だが少々急ぎの書類が溜まっておっての。それが済めば少し時間を空けるゆえ、使いを寄越そう」

「ありがとうございます。無駄な時間にならないことは、お約束致しますよ」

「そう願おう」

 そのままロドヴィックは議場を後にする。ナイジェルはわずかに唇を歪め、自らも肩で風を切るような颯爽とした足どりで議場を出て行った。


 ――ロドヴィックからの使いの人間がナイジェルのもとを訪れたのは、それから一時間ほど後のことだった。案内されるがままに向かった場所は、王宮の中でも奥まった、人気のない場所にある小部屋だ。場所的に王宮の奥まで入ることを許された上級の貴族しか使えず、また部屋の内部には防音や認識阻害用の様々な魔動機器と魔法が仕込まれているため、近くに潜んで話を盗み聞きすることもできない。つまり、秘密の話をするには最適の場所ということだ。

 ロドヴィックはすでに室内のソファに座を占めており、時間潰しであろう本を気のない様子でめくっているところだった。対面式のソファの間には小さなテーブル。その上には湯気を立てる淹れたてと思しき紅茶。おそらく、ナイジェルが到着する直前に淹れられたものだろう。

「これは閣下、お待たせ致しまして」

「良い。先に待たせたのは儂の方であるからの。――それで、話とは何じゃ。儂も暇ではない。手短に願いたいものだが」

「では、仰せの通りに。――閣下は、現在のこの国をどう思われますか」

 対面のソファに腰を下ろし、ナイジェルは早速切り込む。ロドヴィックが本を置き、眉をひそめた。

「……どう、とは?」

「先ほどの軍議のことでございます」

 すると、ロドヴィックの表情がほんのわずかに歪む。もちろん宰相などという役職を長年務める海千山千の政治家、並の人間ならば気付きもしない些細ささいな変化に過ぎなかったが、代々諜報ちょうほうの世界に身を置く家に生まれ、自らもその道を歩くナイジェルには、それで充分な返答となり得た。

「現在の我が国の状況は、ノスティウス侯らが思っているよりもずっと切迫しているのですよ。切れる手札カードがあるのなら、惜しまずに切るべきなのです。もはや、出し惜しみをしている状況ではありません。それは閣下も良くお分かりのはず」

 ナイジェルの言葉に、ロドヴィックはしばらく黙っていたが、小さくため息をついた。

「……あの時は肝を冷やしたぞ。よもや、あのお方のことを口に出すとはの」

「“隠された”王女殿下とはいえ、あの場にいるような貴族にとっては公然の秘密のようなものです。かの方が高位元素魔法士ハイエレメンタラーであられることも、とうに知っておりましょう。――ですが、一歩間違えればかの方の存在は危険極まりない。特に、今の我が国の状態では」

「あのお方を担ぎ上げ、王位継承争いを起こそうと企むやからも出て来る……と言いたいのじゃな」

「その通りです。何しろファルレアンの女王が高位元素魔法士ハイエレメンタラー。それに対抗するべく、同じく高位元素魔法士ハイエレメンタラーを玉座に……と考える者がいても、驚くには値しません」

「何を言うか。つついた張本人が」

 しゃあしゃあと言ってのけたナイジェルに、ロドヴィックは呆れたような顔になった。

「そなたが殿下のご不興を買うのではないかと、内心冷や冷やしたぞ」

「ご不興を買ったならばそれまでのこと。一つ手柄を立てておりますので、それと相殺していただけば良い。――ご心配なさらずとも、陛下も王太子殿下も、かの方をこれまで通り北で飼い殺しになさるおつもりのようです。継承争いにはなりますまい」

不遜ふそんが過ぎるぞ、クィンラム公」

「これは失礼……ですが、わたしが問題だと思っているのはそのこと自体ではありません。陛下も王太子殿下も、国が傾きつつあるこの状況でさえ、大局よりもご自身の感情を優先してしまわれるということです」

「む……!」

 ロドヴィックは言葉に詰まった。ナイジェルの言葉は、他ならぬ自分自身も感じていたことであったからだ。

「この劣勢を挽回しようと思えば、かの方をもう少し優遇し、せめて兵たちを鼓舞こぶするくらいのお役目を果たしていただけば良いのです。ファルレアンの女王と同じ高位元素魔法士ハイエレメンタラー、しかも姫君だ。そのようなお方が兵たちを鼓舞してくだされば、士気は否が応にも上がりましょう。――ですが王太子殿下は、ご自身のお立場が危うくなるのをひどく恐れておられる。かの方を表に出すことは、断じてお許しになりますまい。陛下も殿下可愛さと王妃殿下への気兼ねから、どうしても殿下を庇われる方向に動かれがちです」

 一気に言い切り、ナイジェルは紅茶のカップを取り上げて喉を潤す。対するロドヴィックは紅茶にも手を付けぬまま、ただその紅い色を見つめていた。

 その様子を盗み見ながら、ナイジェルは内心ほくそ笑む。

(実質的にこの国を切り回しているのは、この宰相閣下だ。その上、国でも有数の大貴族。こちらに引き込めれば、打てる手が格段に増える)

 カップを置き、ナイジェルは最後の一押しとばかりに口を開いた。

「……実は、わたしが憂えているのは、今回の件のせいばかりではないのですよ、閣下」

「何……?」

「わたしが魔動巨人ゴーレムの件で国境に赴き、何とか回収を終えて王太子殿下にご報告申し上げた時のことですが……殿下がふとした拍子に仰ったのですよ。“我がレクレウス王国が敗北するなどあり得ぬ、王都が落ちぬ限り我が国の負けはない”と。――殿下にとっては、王都以外の……例えば、我々貴族の領地でさえも、王都を守るための盾に過ぎぬのでしょう。ですが、王都だけが残ったところで、そこに集まる作物を作るのはどこです? 服を仕立てるための布や糸を作るのは? 街を造るための資材とて、諸侯の領地から持ち出さねば足りないのです。王都の生活には地方の領地が不可欠だというのに、殿下にはそこがお分かりでいらっしゃらない」

「殿下が、まことにそのようなことを……!?」

「残念ながら、嘘偽りない事実です。――老婆心ながら、閣下。“この国”のために最善の方法というものを、そろそろお考えになった方がよろしいかと存じますよ。では、わたしはこれで失礼致します」

 そう言い置き、ナイジェルは席を立つと、一礼して小部屋を後にした。

 一方、部屋に残されたロドヴィックは、先刻のナイジェルの言葉を反芻はんすうしていた。

(……確かに殿下なれば、そうお考えになってもおかしくない。あの方は、この王宮からほとんどお出になったことがないのだ。帝王学をお修めになったといっても、それは書物での知識に過ぎん)

 狭い世界で学問だけを修め、それで政治のことを分かったつもりになっている――ロドヴィックは王太子ライネリオに対して、以前からそんな印象を持っていた。だが政治というのは、そんな生易しいものではない。代々政治家を輩出した家柄に生まれ、もう半生といってもいい年月を政治の世界に捧げてきたロドヴィックでさえ、自らが行う政策に十全の自信などないし、国の舵取りに思い悩むことも少なくないのだ。特に、今のような情勢では。

(このまま殿下に国を託すことが、本当にこの国のためになるのか……クィンラム公も、鋭いところを突いてくるわい)

 それでも自分は王国の臣であり、王家に仕えるべき立場――そのはずだ。

 急に自らの進むべき道を見失ったかのような不安を覚え、彼は頭を抱えて深い息をついた。



 ◇◇◇◇◇



 ラース砦の屋上は、対空用魔動兵装を設置したり、騎士たちが詰めたりするため、広々と開けている。砦から両翼の壁への連絡通路も兼ねるため、石材と地魔法を併用したと思しき床は、わずかなくぼみが認められた。それだけ多くの騎士たちが、後背の領地を守るべくここを行き交ったのだろう。屋上外縁は成人男性の胸の少し下辺りまで立ち上がっており、転落を防ぐと共に魔動兵装を支える役目も果たしている。

 そこに腰掛け、アルヴィーは月明かりの下、遥か彼方に黒くわだかまる《魔の大森林》を眺めていた。

(……今日出て来た魔物は、それほど強い魔物じゃなかった。本番は明日以降、ってことか)

 《魔の大森林》には、レドナでギズレ元辺境伯の配下が召喚したような、ベヒモスやサイクロプスといった強力な魔物が棲息せいそくしている。今日は姿を見せなかったが、毎回二、三体はそういう化物級の魔物が出て来るそうだ。そんな連中相手では、騎士たちには少々――否、大分荷が勝ち過ぎるだろうから、そういう時こそアルヴィーの出番である。ちなみに、以前はどうやって倒していたのかというと、この屋上の対空用魔動兵装を使い回し、集中砲火で何とか倒していたらしい。

 と、


「――そんなところに座っていたら、危ないですよ」


 背後からの声。アルヴィーは座ったまま振り返った。

「シャーロット?」

「どうも」

 軽く会釈した彼女は、アルヴィーのすぐ隣に位置を占めると、縁の上に両腕を置いて縁に寄り掛かる体勢になる。小柄な彼女だと、縁がちょうど胸の辺りまで来るので、その姿勢がちょうど良いようだ。

 彼女は天を仰ぎ、しみじみと呟いた。

「……いい月ですねえ」

「まあ、明るくていいよな。魔物の襲撃も見やすいし」

 今夜は満月か、それに程近い月齢のようで、月明かりが煌々(こうこう)と地上を照らしている。なのでアルヴィーはそう言ったのだが、シャーロットには呆れたような目を向けられた。

「月明かりの下、女の子と二人きりで出る言葉がそれですか。情緒じょうちょがないにも程があります」

「いやだって、今んとこそれが最重要な気がするけど。大暴走スタンピードがまたいつ再開するか分かんねーんだぜ。大体ここ、砦の屋上だろ。情緒も何もあったもんか。周り見てみろよ」

 ずらりと並ぶ対空用魔動兵装を指し示され、シャーロットはため息をついた。確かに、嫌というほど現実を見せてくれる光景ではある。

「……まあ、それはそうですが。あなた息抜きにここに来てるんじゃないんですか。見張り当番は他にいますよ」

「息抜きっていうか、うーん……」

 ただ単に、足の向くままぶらりと来てみただけなので、アルヴィーとしても答えようがない。両足をぶらつかせながら、

「……結構遠くまで来ちまったなーって、ふっと思ってさ。――ほんの一年くらい前まで、レクレウスのド田舎でただの村人やってたのに、今じゃファルレアンの魔法騎士だぜ? 環境激変にも程があるよな」

 もし故郷の村が魔物に襲われていなければ、アルヴィーは今でもきっと、あの小さな村で猟師として慎ましく暮らしていた。隣国に行ったルシエルのことを時折思い返したりしつつ、戦争が終わるのを待っていただろう。

 それでも、過ぎた時を取り戻すことも、あの時からやり直すことも不可能なのだ。歩めた道は一つしかなく、だから自分は必死に、その道を進んで来た。それを後悔するつもりはない。それは今まで出会ってきた人々への、そしてあの時守れなかった母たちへの侮辱になるのだから。

「ま、ここまで来た以上は、立ち止まってる暇なんかないからな。走りきってやるさ」

 そう言って、アルヴィーは縁から中へと下りようとした。

 その時。


『――来たぞ。主殿』


 不意に聞こえた、アルマヴルカンの声。はっとして森の方を振り向くと、森の辺りでうごめく影、かすかな地響き。アルヴィーの常人離れした視力と、昼間のように明るい月光のおかげで、数ケイル離れていてもその兆候を認めることができた。

「……どうかしました?」

「新手が来そうだ。それも相当デカイぜ」

 その言葉に、シャーロットも表情を引き締める。見張り当番の騎士もどうやら異変に気付いたらしく、にわかに空気が慌ただしくなった。そんな空気を余所に、アルヴィーは下りかけていた外縁にまた足を掛ける。

「ちょっと、何を――」

「とりあえず、時間稼ぎに出るんだよ」

 ラース砦は外から見ると二層の構造になっており(二階建てというわけではない)、下層の上にそれより幾分幅・奥行きが狭い上層が載っている形となる。アルヴィーたちはその上層の屋上にいたのだが、そこから砦内部を通って外に出るとなると、余計な時間が掛かると彼は判断したのだ。

 つまり――。


「じゃ、俺先に出とくから。ルシィたちに連絡よろしく」


 そう言い置くが早いか、アルヴィーは下層の屋上まででさえ十メイル近くある上層屋上外縁から、一瞬のためらいもなく飛び下りた!

「ちょっと――!」

 慌ててシャーロットが駆け寄り、覗き込む先。アルヴィーは難なく下層屋上に着地、そこからさらに地上にまで飛び下りると、全力で駆け出していた。その背中は見る間に遠ざかって見えなくなり、そしてしばしの後聞こえてくる爆音。魔物たちと接敵したのだろう。

「もう……後で隊長に怒られてくださいよ!」

 聞こえるはずもないが、せめてもとばかりにそう言い捨て、シャーロットはこのことを伝えるためにきびすを返して砦の中に駆け込んだ。


 ラース砦の長い夜の、幕開けだった。


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