第24話 紅蓮の空
ファルレアン王国の王都ソーマを上空から見下ろし、ダンテ・ケイヒルは目を細めた。
(へえ、なかなか良い眺めだ。昔の帝国にはさすがに及ばないけど)
コツン、と使い魔である空飛ぶ蛇、《トニトゥルス》の鱗を軽く蹴り、合図を送る。すると《トニトゥルス》はゆらりと身をくねらせ、地上へと舞い下りていった。もっとも、そのまま街中に下りたらいくら日没後でも大騒ぎになるので、街外れの人目に付かない場所に下りるつもりである。
昨日の夕方に《薔薇宮》を出発した彼が、その翌日の夕方に直線距離でさえ数百ケイル離れているソーマの上空に存在できているのは、彼の使い魔が飛行型魔物というだけではない。最大の絡繰りは、主であるレティーシャから与えられている転移用のアイテムだ。現在では失われている長距離転移技術のみならず、かつてクレメンタイン帝国が誇った高度な魔法技術を、レティーシャは数多く保有している。そして錬金術師でもある彼女は、それらの技術をアイテム化し、自らの騎士であるダンテにも惜しみなく与えてくれるのだった。それを使ってまずファルレアン国内の人のいない僻地に転移し、そこから悠々と《トニトゥルス》で飛んで来たのである。
(さて……アルヴィー・ロイはどこかな)
とはいえさすがに、この広い王都の中から人一人捜し出すような都合の良いアイテムは、ダンテも持っていない。ある意味、アルヴィーに付けた使い魔がその役目を果たすはずだったのだが、妨害によりその位置を特定し辛くなっている。地上に下りて地道に捜すしかなかった。
まあ、いくつかの当てはあるので、その辺りを重点的に捜せば良い。明かりや人目を避けて地上に下りると、《トニトゥルス》を送還し、王都の中心部を目指して歩き始めた。
どうやら下り立ったのは歓楽街の近くだったらしく、しばらく歩いているとその手の店がちらほらと増え始める。女の笑い声や甲高い嬌声、男たちの小競り合いの怒声。そんな雑音を聞き流しながら、ダンテは通りに入った。すると、客引きをしていた男女が身形の良い彼を目敏く見つけて、早速声をかけてくる。
「あら、お兄さぁん。いい男じゃなぁい。ウチの店、少し覗いていかない?」
「いや、ウチの店の方がいい娘揃えてますぜ!」
そういった客引きをすべて無視して、ダンテは通りを突っ切る。すると、どこかの娼館で雑用でもしていると思しき年配の女が、同じような女と話しているのが聞こえてきた。
「――例の貴族、もうすぐ処刑されるってね」
「あの、どっかの辺境伯様かい。ああ、罪人になったんだからもう貴族じゃないのかね」
「それもそうか。でも、余所の国と通じて女王様に反逆しようとしてたってんだから、いい気味だよ」
「だけど貴族ってのも大変だねえ。父親が罪人になったら、一族郎党連座させられるってんだから」
そんな会話を聞きながら、ダンテは彼女たちの傍を通り過ぎた。
(そういえば確か、彼女の父親が反逆罪に問われたとかいう話だったか。――まあ、ファルレアンの内輪話はどうでもいい。だが……あの時帝国を裏切った貴族ども、特に三公爵。奴らの血筋にはいずれ、相応の代償を支払って貰う)
エメラルド色の双眸にちらりと燃える、激情の炎。だがそれはすぐに、柔和な仮面に覆い隠された。それゆえか、周囲を行き交う人々は、ほんの一瞬晒されたその剣呑な光に気付くことはない。
ダンテはひっきりなしに掛かる呼び込みの声を一顧だにせず、歓楽街を抜けた。
(我が君が収集なさったアルヴィー・ロイの情報では、彼はどうやらファルレアンの騎士団に所属したらしい。なら、まずは騎士団の本拠地を探した方がいいかな)
おそらく街の中心部近くだと見当を付け、そちらに向かって歩き出す。目印はあちこちに光を纏う王城だ。夜空にそびえ立つその姿は、これ以上なく目立つ。
一通り歩いてみたが、どうやら城の近くは貴族の館が集まる区画のようで、人力や魔法で警備がなされているようだった。もちろんダンテにとってはものの数ではなかったが、下手に騒ぎを起こすのは本意でないので自重する。
と――夕闇に紛れるように、一組の男女が人目を避けてどこかへ向かうのを、ダンテは目撃した。男の方は肩に人らしきものを担いでいるように見えたが、彼らが巧妙に警備の人員の目を避けているのか、騒ぎになる様子はない。が、その彼らの後方を、小さな影が追いかけるように素早く走って行くのが見え、ダンテは手間が省けたとほくそ笑む。
(使い魔が追いかけてるってことは、さっき担がれてたのがアルヴィー・ロイか。どうやら騎士団の本拠を探す必要はなくなったな)
追跡したところ、彼らは広壮たる館へと入って行った。ダンテは周囲を見回す使用人の目を避け、身軽に塀の上へと飛び上がると、そこから邸内への侵入を果たし庭を見渡す。しかし木々や花が植えられ、あちこちに物陰が作られている庭の中では、肩乗りサイズの小動物などとても見つけられない。ましてや、周囲は刻一刻と暗くなってくるのだ。
(うーん……これは、アルヴィー・ロイと合流したところを狙った方がいいかな?――まあ、時間はたっぷりあるし、面白いことが起きそうだから、しばらく待ってみるか)
そう結論付け、彼は待機場所を探すべく、まるで家人のように堂々と庭を歩き始めるのだった。
◇◇◇◇◇
「――おい、何か変わった様子はあるか?」
「いや……しかし、何者なんだ、この小僧」
ブライウォード侯爵邸に仕える使用人たち――その中でも、先代当主に仕える者たちは、夕方にいきなり運び込まれて来た謎の少年に、一様に当惑と興味を抱いていた。件の少年は、人のものとは信じられないような深紅の肌の右腕をして、何より館では密かに有名な、先代当主の落胤である娘によって連れて来られたのだ。当の娘は父である先代当主のもとに向かい、使用人たちに少年を監視するよう言い置いて行った。
そういうわけで、使用人たちはおっかなびっくりその少年の様子を見ていたのだが、一人がふと気付いて声をあげた。
「……おい、何だかこの小僧、顔が赤くないか?」
「うん? ああ、言われてみれば……おい、大変だ! 熱があるぞ、凄い熱だ!」
少年の額に触れた使用人が慌てる。
「水だ! 水と布を持って来い!」
「わ、分かった!」
いくら素性の知れない少年とはいえ、仮にも前当主の娘が連れて来た少年だ。何かあっては一大事である。使用人の一人が急いで水と布を調達しに行き、残った使用人はこの件を娘にどう知らせるか、頭を悩ませる羽目になった。
――そんな使用人たちの奔走を余所に、アルヴィーは自身の裡のアルマヴルカンに尋ねる。
(アルマヴルカン、どうだ?)
『ふむ、大分呪詛を燃やせたな。外のように一気にやってしまえんのが面倒だが』
呪詛を受けたアルヴィーは、アルマヴルカンの力を借りて、自分の体内の呪詛を少しずつ焼き消していた。その際体温が少々上がり過ぎて、現在進行形で周囲を大慌てさせているのだが、アルヴィーは炎に対する耐性が異常に高いので、実は本人としては大したことではなかったりする。とはいえ、さすがに一気に焼き消してしまうとアルヴィーも無傷とはいかないので、地道に少しずつだ。
(呪詛を消したら、何とかこっから逃げねーと……っていうか、ここどこだ?)
何しろ脳震盪で頭がグラついていた上、ローブを被せられた状態で担がれて来たので、ここまでの道順などまったく分からない。リーネによって連れて来られたのだから、彼女に関係する場所ではあるのだろうが。
(俺をわざわざ連れて来て、何しようってんだ……? それが分かるまで、ここでおとなしくしてた方がいいのかな)
そう考えた時、アルマヴルカンがアルヴィーを呼ぶ。
『主殿。使い魔がいるぞ。すぐ外だ』
(使い魔? フラムのことか?)
『それもいるが、もう一体いるな。鳥だ』
(鳥……? あ、ひょっとして)
セリオの使い魔は、確か小鳥だったはずだ。もしかしたら呪詛使いが手出しをしてきた時のために、前もって自分に付けておいたのかもしれないと、アルヴィーは考える。実際には呪詛使い対策というよりはフラム対策だったのだが、ともあれこれでアルヴィーの居場所がジェラルドたちにも割れたわけだ。
(……となると、俺はここで待ってた方がいいのかな。下手に逃げ出したりしたら、向こうの段取り狂うかもしんないし)
妙に策士な上司のことだ、この状況も上手く転がすだろう。自分は多少危害を加えられたところですぐに治るし、むしろギリギリまで留まって相手の目的を探った方が良いと、アルヴィーは判断した。
ともかく、まずは呪詛を完全に消すことだ。深く息をつき、目を閉じる。アルマヴルカンが誘導してくれる通り、自身の体内を熱が巡る様を思い浮かべた。腹の底からじわりと熱くなり、重苦しい感覚が少しずつ消えていく。《擬竜兵》の魔法抵抗の高さも手伝い、呪詛の解呪――というかもはや力技のゴリ押し――は思った以上のペースで進みそうだ。
(とにかく、まずは呪詛を消してすぐに動けるようにしとかねーと)
それだけを考えて、アルヴィーはひとまず呪詛の処理に専念し始めた。
「――っ」
チリ、と腕に小さな痛みを感じて、リーネは眉をひそめる。
(呪詛が消されてる……その余波がこっちに返ってきてるのか。――だけど、あれでも駄目なの? わたしが使える中でも、対人では一番強力な部類なのに)
さすがに《擬竜兵》というところか。だが呑気に感心してばかりもいられない。アルヴィーの拉致には成功したが、まだ終わりではないのだ。気を取り直し、リーネは小さな籠を手に廊下を歩いて行く。
彼女は古くから呪詛を伝えてきた一族に生まれ、またその技を受け継いだ。だが父親は、一族の者ではない。ブライウォード侯爵家先代当主――それが、彼女の父に当たる男だ。
ブライウォード侯爵領ダウェル地方に古くから根を下ろしていた呪詛使いの一族は、やがてその力を領主である当時の侯爵に見出され、密かに召し抱えられた。呪詛の力を使い、政敵を葬るためだ。以来、代々の侯爵に一族の者が仕え、政敵や暗殺者を呪詛で抹殺してきたのである。魔法的に詳しく調べられさえしなければ、ただの病死にしか見えない呪詛の力は、暗殺手段として非常に重宝された。
だが先代のブライウォード侯爵は、呪詛の便利さを恐れた。使い勝手が良いゆえに、他の人間が呪詛使いの一族に目を付ける、あるいは呪詛使いたちが離反してその力を自分に向ける――それを危惧したのだ。その結果、呪詛使いの一族が慎ましく暮らしていた村は、侯爵その人の差し向けた私兵により滅ぼされた。そして領主が領地内の村を滅ぼしたという醜聞は揉み消され、記録には村は疫病の発生により全滅したと記されている。
同時に彼は、生き残った呪詛使いの取り込みも行った。傍近くに仕えていた呪詛使いの女に自らの子供を身篭らせたのだ。それがリーネの母であり、産まれた娘がリーネだった。
彼女がやはり呪詛使いの素養を持って産まれたのが、父である男の目論見通りだったのかは分からない。だが母は娘にも呪詛使いの素養があると知るや、自らが知る限りの術を受け継がせた。それは父である男のためではない。ちょうどリーネが産まれた頃に、故郷の村が滅ぼされ、それを知った母はいずれその仇を討たせるために、娘を呪詛使いとして育てたのだ。
――あの男は、わたしたちの故郷を滅ぼし、血を穢し、道具として使い潰そうとしているの。
だからいつか、あなたの手であの男を滅ぼしてちょうだい――。
子守唄のようにその言葉を聞かされ、リーネは育ってきた。
侯爵に怪しまれないため、そしてリーネの身を守るため、母は侯爵の命じる通りに呪詛の力を揮い続けた。だが侯爵は国務大臣の座を手にするために矢継ぎ早に政敵の排除を命じ、母は限界を超えて呪詛を放たざるを得なかった。一族の使う呪詛は、術者の体内で生み出して標的へと放出するタイプであり、失敗すれば術者の方にその力が跳ね返る上、よほどの素養がなければ、成功してもその制御や維持に心身をすり減らすこととなる。侯爵に多用を強要された呪詛は、少しずつ、だが確実に、母の身を蝕んでいったのだ。
そしてリーネが十代半ばの頃、ついに母もこの世を去った。唯一残った呪詛使いであるリーネを、父である男は間者兼暗殺者として利用するため、手を回して王城に文官として送り込んだ。リーネは密かに母の復讐を誓いながら、表面上はただの文官として王城に勤めていた。
だがそれも、もうすぐ終わる。
リーネはアルヴィーを寝かせてある部屋の前に立ち、手にした籠の中身を確かめた。一本のナイフと、ガラスで作られた透明な小瓶。一つ息をつき、ドアを開ける。
「あ、お嬢さん――」
使用人たちが、ほっとしたようにこちらを向いた。
「この坊主、凄い熱を出して――」
「どうしたらいいものかと、途方に暮れておったところです」
「そう……いいわ、後はわたしがやるから。あなたたちは出ていて」
そう言われると、使用人たちは安堵の表情を浮かべて部屋を出て行った。彼らにしても対処に困っていたのだろう。人払いが済むと、リーネはベッドに横たわるアルヴィーを見下ろす。
「……もう寝たふりはしなくてもいいわよ」
「あ、何だ。バレてたか」
今の今まで目を閉じていたアルヴィーは、ぱちりと目を開けて起き上がった。頬は紅潮しているがその動きは軽く、呪詛の影響はもうほとんどないのだろう。
「身体の中に入った呪詛まで消せるの……どこまで非常識なのかしら、《擬竜兵》って」
「非常識で悪かったな。――それより、何が目的なんだよ。何で俺をわざわざ連れて来たんだ?」
「あなたにはもう少し、わたしの復讐に付き合って貰うわ。別に難しいことじゃないの。少しだけ痛い思いをして貰うけど、その後はここにいてくれさえすればいいから」
リーネは籠をベッドの枕元に置き、ナイフを取り出した。すらりと鞘から抜き、流れるような手付きでアルヴィーの左腕を掴む。そして一息に刃を突き立てた!
「痛っ……!」
顔を歪めるアルヴィーに構わず、小瓶の栓を指で押し開けると、滴り落ちる血を瓶の中に注ぎ込む。出血はすぐに止まり、ナイフを引くと傷口すらもほんの一瞬で塞がってしまったが、瓶の底を覆う程度の血は集まった。しっかりと栓をし、ナイフと共に籠に戻す。
「いきなり何すんだよ!?」
「ごめんなさいね、これで終わり。――後は、迎えが来るまでここで待っていてくれればいいわ。どの道、騎士団がわたしの素性を調べれば、すぐにここに行き着くはずだもの。あいつは王城の文官にわたしを潜り込ませる時に、ブライウォード侯爵家の名前を使って手を回しているから」
「ブライウォード侯爵家……じゃあ、昨日俺んとこに来てハンカチ落としてったのも、やっぱりわざとだったのか」
「そうよ。証拠は多い方が良いでしょう? 呪詛使いが侯爵家の紋章入りのハンカチを残した上、拉致された《擬竜兵》が館で発見される。言い逃れようもないわ。――そもそも、あなたの身柄を手に入れるようにわたしに命じたのはあの男、先代のブライウォード侯爵だもの。事実を公表して何が悪いの?」
小さく嗤って、リーネは籠を取り上げた。
「……一つ教えてあげましょうか。あの男があなたの身柄を欲しがったのはね、あなたの血と力が目的なの。あなたの血の中には、竜の血も混ざっているでしょう? あいつ、病気でもう長くないのよ。でも竜の血には万病に効く上に、不老長寿をもたらすっていう伝承があるから、それを飲んで延命しようとしてる。竜の血そのものは強過ぎるかもしれないけど、人の血で薄められていればあるいは……そう思っているのよ、あの男は」
アルヴィーは目を見開く。脳裏に甦ったのは、竜の血に塗れた肉片を植え込まれた時の、腕ごと引き千切られたかのような激痛と、死を眼前に突き付けられた恐怖。そして血塗れの凄惨な有様で死んでいった、自分以外の同期生たちの姿――。
「やめろ! 竜の血にはそんな力なんかない、むしろ体質に合わなきゃ拒絶反応で死んじまうんだ! 俺の血で薄まってたって、拒絶反応が起こらない保証なんてないんだぞ!」
「そうなの。でもそれはわたしには関係ないわ。本人が望むことだもの、それで死ぬならそういう運命だったのよ」
思わず立ち上がって食って掛かったアルヴィーに冷淡にそう言い捨てて、リーネは晴れやかな笑みを浮かべる。
「やっとあいつに復讐できる。隠し子とはいえ、縁者がこれだけの事件を起こせば、侯爵家の家名は地に墜ちるわ。延命の妙薬だと思い込んでいた《擬竜兵》の血も、何の役にも立たない。あいつは名誉も命も何もかも失くして、惨めに死んでいくの。――あいつはわたしと母の故郷を滅ぼして、母の命も縮めたわ。だから今度は、同じ目に遭わせてやる」
くすくすと楽しげに笑うリーネを、アルヴィーは呆然と見やる。
「でも……実の親父さんなんじゃ、ないのか……?」
「血縁だけを見れば、そうね。――でも、血の繋がりがあったって“親”になれない人間は、いくらでもいるのよ」
そう言い捨てると、リーネは籠を手に踵を返した。
「待てよ! 本当に俺の血なんか飲ませる気なのかよ!? 下手したらその場で死んじまうかも……!」
「そうなったらなったで、わたしは一向に構わないもの。だから、邪魔はしないでね?――もし邪魔しようとしたら、この館に無差別に呪詛をばら撒くから。どの道、ここまでのことをやった以上、どう転んでもわたしは無事じゃ済まないもの。例えわたしがどうなったって、あいつだけは道連れにしてやる。本気よ?」
「そんなの――」
『主殿、あの娘は本気だ。身の裡に呪詛を溜め始めた。人の身であれだけの呪詛を制御するとは、あの娘はよほど呪詛の素質があったようだな』
「――――!」
アルマヴルカンの忠告に、今まさに腕ずくでリーネを止めようとしていたアルヴィーは動きを止めた。リーネは満足そうに微笑む。
「分かったら、おとなしくここにいてね。それじゃ」
「おい――」
止めようとするアルヴィーを振り切るように、彼女は近くにいた使用人に部屋の見張りを指示すると足早に部屋を出て行く。アルヴィーは言葉もなく、それを見送るしかなかった。彼女の意思は固いのだろう。どう言葉を尽くそうと、親子であることを訴えようと、もはや彼女が復讐を諦めることはないのだと、アルヴィーには分かった。いくら共に在ろうと“家族”になりきれない場合もあることを、他ならぬ彼が一番良く知っているから。
(……ルシィも、あんな風に思ったことあんのかな)
立ち去って行ったリーネの後ろ姿が、あの頃のルシエルの背中に重なるような気がして、アルヴィーは唇を引き結び立ち尽くした。
◇◇◇◇◇
時を少し遡り、騎士団本部、ジェラルドの執務室。
ジェラルドを筆頭に、騎士団に出入りする人間の名簿や身上書を片っ端から確認していたその場の面々だったが、身上書をめくっていたパトリシアが声をあげた。
「あった!――この人物が、ブライウォード侯爵家の口利きで文官として王城に上がっています。名前はリーネ・エルダ」
「リーネ・エルダか……エルダ――ダウェル。偽名臭いな。故郷の名前をもじったか?」
「ああ……可能性はありますね。何しろ建国前からの土着の一族だし、家名の習慣がない地方もありますから」
別の名簿のページを繰りながら、シルヴィオ。速読ができる彼は一番文字数とページ数が多い名簿を担当していたのだが、さすがにページをめくるスピードは速い。
「まあ、王城勤めの文官や下級侍女ってのは、貴族がその辺の女に手を付けて産ませた隠し子を突っ込む場合もあるからな。そいつもその口じゃないのか」
「え、マジすかそれ!?」
カシムが興味津々という様子で目を輝かせるが、それより優先すべき話題があるため、そこがそれ以上掘り下げられることはなかった。
「リーネ・エルダはしばらく前から、派遣文官として騎士団本部に勤めていますし、条件としてはかなり合いますね。下級の文官なら騎士なんかとも違って時間の自由もある程度は利きますから、アルヴィーを襲撃するのも不可能ではありません。出身は王都となっていますが、ダウェル地方の村の壊滅が彼女の生まれた年に近いですし、その村の出身者が彼女の親族だとすれば、彼女自身の出身地が王都でも不思議はないかと」
「そいつが隠し子だとすれば、妥当なところで母親か。少なくとも近い血筋に呪詛の使い手がいなきゃ、そうそうそんな力も継がんだろうしな」
と、その時セリオがわずかに眉をひそめた。
「っ、何だ?」
「どうした、セリオ」
「王城に戻って来てた《スニーク》が、また遠ざかり始めました。確認します」
片眼鏡型魔動端末を取り出して装着、セリオは使い魔からの情報の確認を始める。そして鋭く目を細めた。
「アルヴィーが何かを追っています。相手は魔法士二人……? いや、この魔力の流れだと、一人がもう一人を操ってるのか」
「呪詛の中に確か、掛けた相手を操る術があったはずだよ」
ばらばらと名簿を斜め読みしながら、シルヴィオが注釈を加える。
「隊長、《スニーク》で座標は分かります。飛びますか?」
尋ねるセリオを、ジェラルドは手で制した。
「……いや、少し様子を見よう。相手の目的が分かるかもしれん」
「分かりました」
セリオが《スニーク》を通してアルヴィーとフラムを追跡し、その他の面々は確認作業を中止してすぐに動けるよう、準備を整え始める。パトリシアは即応態勢にある騎士の数を確認に向かい、ジェラルドは隊を動かすための命令書と、貴族の邸内に立ち入って捜査をするための令状の発行申請書を作り始めた。大隊長である彼は、隊の運用に関してかなりの権限を与えられているので、隊を動かすには彼自身が発行する命令書があれば良いが、貴族の邸内――それも上級貴族――に捜査のためとはいえ招待も受けず立ち入るとなると、司法大臣が発行した令状が必要となるのだ。現在の司法大臣はまさに彼の実父だが、だからといって手続きをすっ飛ばして良い理由にはならない。もっとも、この時間に最優先で申請を捻じ込むためには、身内のコネもフル活用することになるが。
「――アルヴィーが戦闘態勢に入りました。介入しますか?」
「まだだ」
《スニーク》で状況を監視しつつ、時折指示を仰ぐセリオに返しながら、ジェラルドも諸々の準備を整えた。そうこうしている内に、現場の方も動きが出始める。呪詛使いと思しき相手によって、アルヴィーが連れ去られたのだ。だが、戦闘中に振り落とされたらしいフラムが、懸命にアルヴィーを追いかけてくれたおかげで、フラムに付けられた《スニーク》もそれを追うことができる。最終的にアルヴィーとフラムは、ある館に入ったようでそこで移動を止めた。その座標を記録し、セリオは王都の市街地図を求める。
「現時点での最終の座標は……ここですね」
セリオの指が示した位置は、紛れもなくブライウォード侯爵家の王都での別邸だった。
「よし、良くやった。これで侯爵家も言い逃れはできなくなったな。館の中でアルヴィーの身柄を確保すれば、それが動かぬ証拠になる。――アルヴィーが戦闘状態に入った現場の位置は、記録してあるか?」
「はい、問題ありません」
「ならそこにも何人か割いとくか。――よし、動くぞ。本隊は後から来させるとして、まずは先遣隊としていくらか現地に飛ばす。セリオ、転移は任せるぞ」
「了解しました」
「それ、俺たちも参加して構いませんか?」
そこへひょいと首を突っ込むのはシルヴィオだ。ジェラルドは呆れたように肩を竦めて、
「……街中じゃ長弓の出番はないぞ?」
「短弓も使えますから問題ありませんよ。矢もいくらかは持ち合わせがありますし。それに弓矢なら呪詛の効果範囲外から攻撃できます」
というわけで、シルヴィオとカシムも飛び入りで、ブライウォード侯爵邸への突入に参加することとなった。
今回、本隊として動かすのは魔法騎士団第二大隊の内、十五小隊ほど。国境に行った隊が休暇中のため、王都の治安維持も考えれば、即座に動かせるのはそれが限度なのだ。そしてその中から先遣隊として二小隊を抽出し、それにジェラルドたちが加わる形となる。
動かせる小隊を急遽召集していると、先んじてアルヴィーが戦闘を行った現場に急行させた騎士たちから連絡が入った。現場で呪詛にやられて倒れていた少女と男性一人を発見、保護したという連絡だ。その二人の証言によって、やはりリーネ・エルダが呪詛使いであったこと、そしてアルヴィーが彼女と接触し連れ去られたことはほぼ確定した。もちろんその情報も、令状の発行申請書に添付される。
先遣隊として抽出された一団は、時間が惜しいということで本部前からそのまま現地へ飛ぶこととなった。小隊の選出と準備に並行して、超特急で司法大臣に提出した令状の発行申請に許可が下り、令状の現物が届く。これさえあれば、とりあえず門前払いの心配はない。罪状を確定するためには証拠が必要となるが、それはアルヴィーを邸内で発見すれば、その事実そのものが証拠となる。現時点でアルヴィーがブライウォード侯爵邸に存在する真っ当な理由は見当たらないのだ。
「――座標特定。転移先座標、目標地点より二百メイル東の侯爵邸門前付近に設定。敵性反応付近に無し、障害物付近に無し。転移準備完了しました」
術式を構築し終えたセリオの報告に、ジェラルドは頷き、号令を掛ける。
「よし、これより捜査のためブライウォード侯爵邸に向かう! 全員、転移陣に入れ!」
地面に広がる巨大な転移陣に、先遣隊として選抜された二小隊、そしてジェラルドたちも足を踏み入れた。陣の中央で長杖を支え持ち、セリオが凛と告げる。
「行きます。導け、《転移》!」
陣が眩く光り輝き、内部の人員を寸分の狂いもなく、設定された転移先へと送り届ける。突如光と共に門前に現れた騎士たちに、門のすぐ内側にある小屋から門番が何事かと飛び出して来た。そんな彼に、ジェラルドが門扉の格子越しに令状を突き付ける。
「魔法騎士団だ。捜査のため邸内への立ち入りを要求する。令状はこの通りだ」
「は、はい!」
門番は慌てて門を開けた。正規の令状を持った騎士団の捜査を拒めば、彼も罪に問われる。自分の身は可愛かった。
開け放たれた正門から、騎士たちは素早く庭に入り込む。セリオは庭木の枝で待機していた《スニーク》を呼び戻し、存分に労った。その横で、パトリシアが門番に尋ねる。
「侯爵閣下はご在宅かしら?」
「い、いえ、旦那様は二十日ほど前からご領地の視察に……」
しどもどと答えた門番は、厄介事は御免とばかりに小屋に引っ込んでしまった。
「……どういうことでしょう?」
「裏で糸を引くには凡庸が過ぎるとは思ったがな。本当に無関係なのか、それとも糸を引きつつ自分は安全圏に逃げる肚か。後者だったら相当な役者だぞ。――まあ、その辺りはひとまず後だ。まずはアルヴィーの身柄を確保する」
ジェラルドの指示で、大部分が館に向かうが、一部は念のため塀の外を確認に回る。そこで彼らは、塀の外に放り出されて倒れている男性を発見した。すぐさま指揮を執るジェラルドに《伝令》が飛び、彼らはその男性を介抱して事情聴取を始める。
「――さて、アルヴィーはどこにいるのかね」
邸内に踏み込んだはいいが、その広さにジェラルドはややげんなりした表情になった。彼の生家もまた、王都にそこそこ広大な屋敷を持っているが、このブライウォード侯爵邸もなかなかのものだ。しかも見たところ、カルヴァート侯爵邸より造りがややこしい。この中をたかだか二小隊で捜索するのは結構な大仕事だ。もう一小隊ほど連れて来るべきだったかと思っていると、その足元を何やら小さくすばしっこいものが駆け抜けようとした。
「おい待て毛玉」
「きゅーっ!!」
間一髪、長い尻尾を踏んで何とか引き留めたそれは、ジェラルドの暴挙に甲高い抗議の声をあげる。だがそれには構わず、彼は毛玉ことフラムを掴み上げた。
「……もしかしてこいつ、アルヴィーの居所が分かるのか?」
「可能性はあります。彼の監視用なら、多少離れても後を追えるように仕込まれているでしょうし」
「よし、ならこいつに案内して貰うか」
ジェラルドがフラムを放流すると、フラムはちょこちょこと駆けて行く。ジェラルドを始め何人かでそれを追いかけると、フラムは迷う様子もなく広間を通り抜け、廊下を驀進して行った。そして建物のほとんど端まで行き、一つの部屋の前で急停止。きゅーきゅーと鳴きながら前足でドアを引っ掻き始める。ドアの前で見張りよろしく立っていた使用人が、いきなり駆け込んで来た小動物とそれを追って来た騎士の団体にぎょっとした。
「な、何だ一体!? 何だって騎士様が――」
「そこか。おい、見張りを拘束しろ」
使用人が騎士に取り押さえられるのを横目に、ジェラルドがドアを開ける。別段鍵などは掛かっておらず、ドアはあっさりと開いた。招待客の使用人の寝室にでも使われているのだろう、質素な寝台や着替えを入れる箱などがいくつかあるだけの部屋だ。その寝台の一つに所在なげに腰掛けていたアルヴィーが、いきなり踏み込んで来た騎士たちの姿に目を見張った。
「え? あれ? 何で……」
「きゅーっ!」
そこへ駆け込んだフラムが大ジャンプ。膝を経由して顔面に飛び付かれる。反射的に引っ掴んだ。
「うわっと!――おまえ、何かってーと顔に飛び付くのやめろ!」
「きゅっ」
返事はしたが多分改善はされないだろう。だがそれよりも、今は優先すべきことがあった。
「ともあれ、よく先走って脱出なんぞしなかったな。上出来だ、これで動かぬ証拠ができた。ところで、呪詛使いはどうした」
「ちょっと前にここを出てって、それっきりだよ。――それより、早く止めないと! あの人、俺の血を採ってったんだ。父親に飲ませるって……俺の血の中には、竜の血もほんの少しだけど混じってる。竜の血肉は体質に合わなかったら拒絶反応が起きるって、アルマヴルカンが言ってた」
「何?」
ジェラルドが目をすがめ、聞いていた騎士たちも何人かが顔をしかめた。人の――それも《擬竜兵》の血を別の人間に飲ませるという行為に、何とも言えないおぞましさを感じたのだ。
「それを本人には言ってないのか」
「キッチリ言ったよ! でもそれは自分には関係ないって……あの人、わざと俺をここに連れて来たんだ。侯爵家の名前に傷を付けて、ここの先代の侯爵って人に復讐するためだって。その人が、実の父親だって言ってた」
アルヴィーの報告に騎士たちがざわめくが、ジェラルドはわずかに眉を上げただけだ。まあ、呪詛使いが侯爵家の隠し子だというのは、ある程度予想できたことではある。さすがに現侯爵ではなくその父親の隠し子というのは少々想定外だったが。何しろ、前侯爵はもう七十近かったはずだ。彼女が生まれた当時でさえ五十近く。もはや孫の年齢差である。
しかしてっきり侯爵家の人間が呪詛使いを操っているとばかり思っていたのだが、この場合、糸を引いていたのは呪詛使い本人ということになるのか。
「俺が邪魔したら、この館に呪詛をばら撒くから、そうされたくなかったらここにいろって。でも、どうにかして止めさせないと」
「分かった。一応確認するが、呪詛使いは王城からの派遣文官のリーネ・エルダだな?」
「……ああ」
ジェラルドの問い――もはや確認に近かったが――に、アルヴィーは苦い思いで頷く。王都を案内して貰った時のことが、頭をちらついた。あの時から彼女は、自分を利用しようとしていたのだろうか。
「よし、とりあえずそれだけ分かれば充分だ。後は本人の身柄を押さえるぞ」
ジェラルドは踵を返し部屋を出た。騎士たちも続き、アルヴィーもそれを追う。見張りが拘束された以上、アルヴィーの脱出がリーネに知れることはない。ここで時間を食った分、急がなければならなかった。
「――おい、ここの先代のご当主はどこだ? 二年ほど前から病床にあると聞いている。まさか視察に付いて行ったわけじゃあるまい?」
先ほど拘束された不幸な使用人にジェラルドが尋ねると、使用人はまことに聞き分け良くペラペラと喋った。それによると、前侯爵の寝室は二階の端にあり、そこにはごく限られた人間しか立ち入りを許されていないらしい。だが最近、前侯爵の容体は悪化しているそうで、世話をしている使用人の話では、“竜の血を飲めば治る”としきりに呟いていたという。
「……つっても、話を聞く限りじゃ、むしろ《擬竜兵》の血で止めを刺してやろうって風にしか思えんがな。とにかく、急ぐぞ」
もはや礼儀もへったくれもなく、騎士たちは床を踏み鳴らして広間に駆け戻ると、その奥にある優美な螺旋階段を駆け上った。建物の構造上、階段がそこにしかないのだ。吹き抜けの回廊の眺めなど楽しむ間もなく、贅を凝らした調度品が並ぶ廊下を駆け抜けて行く。
部屋までの距離が、やけに遠かった。
◇◇◇◇◇
これを最後にもう来ることもないだろう室内は、ランプの光があってなお薄暗かった。
「――《擬竜兵》の血を持って来ました」
サイドチェストに置いた籠から、リーネが取り出した小さなガラスの小瓶。その中にわずかに溜まった深紅の液体に、前侯爵は歓喜に震える手を伸ばす。
「おお……は、早くそれを儂に」
「ええ」
リーネはうっそりと微笑みながら、栓を開けて前侯爵の口元で小瓶を傾ける。
「む、やはり血というのは生臭いものだ……ぐっ!?」
口内に広がる鉄臭い味に顔をしかめ、それでも嚥下した前侯爵は、だがしばしの後カッと目を見開いた。苦しげに胸元を掻き毟る。
「き、貴様……これはっ」
「あら? 正真正銘、お望みの《擬竜兵》の血ですよ。――ただ、竜の血は体質に合わなければ拒絶反応を起こすと、本人は言っていましたけど。ほんのわずかしか含まれていないでしょうに、それでも反応が出るなんて、竜の血って本当に強いのね。それとも、あなたの身体が弱り切ってるせいかしら?」
「お、おのれ、まさか、わざと……っ!」
前侯爵はもがくあまり、ベッドから転げ落ちる。それでもサイドチェストに手を掛けよろめきつつも立ち上がったのは、もはや執念といっても良いだろう。そんな実父の姿を冷ややかに見ながら、リーネはずっと言いたかった言葉を投げ付ける。
「良いザマね。――ずっと、この日を待ってたわ。あんたのせいで死んだ母さんと、母さんの故郷の仇を討てる日をね。わざわざわたしを手駒にしてくれたおかげで、ずいぶん楽に事が運んだわ。《擬竜兵》襲撃の時にブライウォード家の関与を匂わせる証拠を置いて来たし、《擬竜兵》本人が今この屋敷にいるんだもの、騎士団に踏み込まれれば終わりよ。あんたの大事な家名が無事で済むことはまずないわ。それじゃ、せいぜい苦しみ抜いて死になさいな」
「お、お、おのれぇっ……!」
喀血し、もはや息も絶え絶えの前侯爵は、遠からず息を引き取るだろう。その死に様にすらもう興味のないリーネは、くるりと踵を返す。短い時間ではあったが、邪魔が入らなかったのは何よりだった。あの少年もさすがに、館に呪詛をばら撒かれる危険を冒してまで、自分を止めには来なかったようだ。わざわざ自分の身に呪詛を溜めてまで、脅した甲斐はあったということか。
とはいえ、血筋として呪詛には強いリーネにとっても、長時間体内に呪詛を留めておくのは危険だった。どこかで早めに、放出してしまわなければならない。
そんなことを考えていたので、彼女は気付かなかった。
口元から胸までを血に染め、凄まじい形相となった前侯爵の血走った眼が、リーネがサイドチェストに置き忘れた籠の中のナイフを捉えたのも。
骨と皮ばかりになった彼の震える手が、音もなくそのナイフを取り上げ、鞘を取り払ったのも。
扉を開けかけたリーネが、ふと背後の気配に気付いて振り返りかけたその瞬間。
前侯爵が身体ごとぶつかるように突き出したナイフの刃が、彼女の背中から心臓に掛けて深々と突き立った。
そして――呪詛が溢れる。
◇◇◇◇◇
アルヴィーと別れ自宅に戻っていたルシエルは、ふと外の喧騒に気付いた。
(……何だ? やけに外が騒がしいな)
何となく胸騒ぎを覚え、彼は《イグネイア》を腰に帯びると自室を出た。廊下を歩いていると、執事のセドリックと行き会う。
「おや、ルシエル様。このような夜分にどちらへ?」
「外が騒がしいから、少し見て来る。母上を頼むよ」
「左様でございますか。お気を付けて」
何しろ、この家の中で最も戦闘に長けているのは、魔法騎士であるルシエル自身だ。下手に人を付けたりすることの方が足手纏いになりかねないと、セドリックも重々分かっている。丁重に一礼し、ルシエルを送り出した。
屋敷を出、ルシエルは喧騒の出所を探す。それはすぐに見つかった。さらに王城に近い上級貴族の館がある区画の方から、ばらばらと人が逃げ惑うように流れて来たのだ。
(向こうか)
ルシエルはその人の流れを逆行して、騒ぎの大元に向かう。そして辿り着いたそこで、息を呑んだ。
(何だ……これは)
広大な敷地の中に立つ館から、どす黒い靄のようなものが噴き出している。最初は火事かと思ったが、それにしては火の手が見えない。靄はひたすら黒く蟠り、魔法騎士たちが風の魔法で上空に吹き飛ばすことで、何とか地上への被害を防いでいる状態のようだった。
その中にジェラルドの姿を見つけ、ルシエルは駆け寄る。門も開け放たれ、騎士たちが忙しなく出入りしているので、入り込むのは簡単だった。もっとも、周辺を固める騎士たちの誰何は受けたが、名乗ると恐縮したように通してくれる。
「カルヴァート大隊長、これは一体……!?」
「クローネル?――そうか、そういえばクローネル伯爵邸も、ここからそう遠くはないか」
振り返ったジェラルドは、だがすぐに表情を引き締めて館に向き直る。
「……呪詛使いの呪詛が暴走した。詳しい話は省くが、おそらく前ブライウォード侯爵と何かあったらしい。それで呪詛使いの体内に溜まっていた呪詛が溢れ出して、その上妙な具合に増幅したらしくてな。このザマだ」
ジェラルドも呪詛に関しては門外漢なので、詳しい原理は分からないが、例の写本をわざわざ持って来たシルヴィオの解説によると、術者の制御を失った呪詛は、術者や近くにいる人間の感情に影響を受けて爆発的に膨れ上がるケースがあるという。特に、怨嗟や憎悪などの感情は、呪詛と馴染みが良く、余計に呪詛を増幅させる可能性が高いそうだ。しかも前侯爵とリーネの間にはお世辞にも良いとは言えない因縁がある。その感情がリーネの呪詛をさらに強く反応させた可能性は捨てきれない。
呪詛の暴走が始まったのは、騎士たちが前侯爵の寝室に辿り着く、まさにその寸前だった。もう少しで到着するというその寸前で、扉が吹き飛ぶ勢いで開き、中から怒涛のように黒い靄が噴き出してきたのだ。アルヴィーがとっさに《竜の障壁》を張らなければ、騎士たちも無事では済まなかったかもしれない。
事ここに至ってはもはやリーネの身柄どころではなく、騎士たちは最優先事項を侯爵邸内部の人間の避難に切り替えた。アルヴィーの《竜の障壁》で呪詛を押さえ込んでいる間に、騎士たちが館の人間を外に避難させ、そして今に至るというわけだ。
「――よし、もう中に人はいないっぽいな」
一方その頃、アルヴィーは館の中をざっと確認し、使用人などが逃げ遅れていないかをチェックしていた。この場では唯一の、呪詛が通用しない存在である彼は、すでに呪詛が充満した侯爵邸の中を、最終確認に回っていたのだ。
広間にまで戻って来た彼は、天井――前侯爵の寝室がある方向をちらりと見やる。そこには前侯爵、そしてリーネが取り残されていた。だが、呪詛の暴走の勢いが凄まじく、また彼女自身が呪詛の源であると推定されたため、外へは連れ出せない。アルマヴルカン曰く、あそこまで呪詛が暴走したからには、術者である彼女も近くにいたであろう前侯爵も、すでに生きてはいないだろうということだった。今の状態から呪詛を消すには、それこそ《竜の咆哮》レベルの火力で術者の遺体ごと焼き払うか、一旦浄化して呪詛の発生そのものを止めるしかないという。
――これは彼女にとって、満足な結末だったのだろうか。
やりきれないものを感じながら、アルヴィーは振り切るように踵を返し、その場を後にする。館を出ると、中に入る前に避難させてあったフラムを呼んだ。
「フラム? おーい、どこ行ったー?」
すると。
「《炎》か。なかなか詩的な名前を付けて貰ったね」
庭木の陰から、一人の青年が姿を現した。その手にちょこんと乗ったフラムに、アルヴィーはほっと息をつく。
「何だ、そこにいたのかよ。――あんた、ここの使用人の人? だったら早く逃げないと。ここ危ねーぜ」
「そうだね……でも少し、このカーバンクルに用事があってね」
「フラムに?」
「ああ。――とりあえず、この無粋な首輪は、外させて貰おうか」
青年はいきなり、フラムをひょいと投げ上げる。アルヴィーが思わずそれに気を取られた瞬間、彼は腰の剣を抜き放ち――フラムに向けて一閃!
「きゅっ!?」
「な――何しやがる!?」
慌てて駆け寄り、アルヴィーはフラムを受け止める。怪我がないかを確かめたが、掠り傷一つないようで、安堵の息をついた。当のフラムは何が起こったのか理解できていないようで、きょるんと小首など傾げている。
だが――その首にはまっている首輪の一部が、すぱりと断ち切られていた。その事実に、アルヴィーは慄然とする。空中に投げ上げたフラムの身には傷一つ付けず、首輪だけを斬ったのだ。どれだけの技量があればそんなことができるのか、アルヴィーには見当もつかない。
「……さて、これでひとまず僕の用事は終わりだ。そのカーバンクル、これからも大事にするといい。きっと、君の役に立つよ」
剣を鞘に納め、青年は歩き出そうとする。その時だった。
「――斬り裂け、《風刃乱舞》!」
セリオの声と同時に、風が鳴る。青年に迫る数多の風の刃――それを、青年は再び抜き放った剣を振り抜くことで迎え撃った。セリオの魔法と不可視の刃がぶつかり合い、暴風となって渦を巻く。
「……相変わらず、怖い人たちだ」
「はっ、レドナでレクレウス軍の一隊を皆殺しにしといて、どの口がほざきやがる。――まあいい、確かダンテとか呼ばれてたな。ここに来た理由ついでに、あの時の事情も吐いて貰うぜ」
ジェラルドが凄絶な笑みを浮かべ、魔剣《オプシディア》を抜いた。剣を励起させ、地を蹴る。
「薙ぎ払え、《烈風重刃》!」
ジェラルドが剣を振り抜いた軌跡が、爆風を伴って青年――ダンテを襲う。ダンテもまた、魔剣《シルフォニア》を振るった。不可視の刃で爆風を相殺。だがそれは囮だ。斬撃を追うように地を駆けたジェラルドは、《オプシディア》を背負うように掲げ、
「圧し潰せ――《超重斬刃》!!」
振り下ろされた刃は超重量級の重さを帯び、ダンテの身を断ち割らんばかりに迫る。ダンテはそれを《シルフォニア》で受けた。刃のぶつかる音が大気を貫き、黒と銀の刃が互いをへし折るべく噛み合う。だが交錯は一瞬で、ダンテはすぐに剣の角度を変え、ジェラルドの剣を受け流した。轟音と共に、《オプシディア》が地面を派手に叩き割る。
「ちっ、この程度じゃ折れないか」
「でも大したものですよ。僕が《シルフォニア》で相手の剣を受けたのなんて、いつぶりだろう」
「は、余裕かましてくれんじゃねえか。――纏え、《紫電茨刃》!」
《オプシディア》の刃に薄紫の光を放つ稲妻を這わせ、ジェラルドは剣を振るう。ダンテは再びそれを《シルフォニア》で受け流す――だが、刃を介して《シルフォニア》を這った稲妻が、ダンテの手元で弾けた。わずかに顔をしかめるダンテ。
「……っ、なかなか嫌な攻撃をしてくれる……!」
「意外と役に立つんだよ、これが」
ジェラルドがニヤリと笑う。ダンテもふと唇に笑みを刷き、やおら《シルフォニア》を傍らの地面に突き刺した。地面に魔法陣が浮かび上がり、警戒したジェラルドがとっさに飛び離れる。直後、魔法陣からぬっと姿を現したのは、翼のある巨大な蛇だ。それを見たアルヴィーが声をあげた。
「あー! 魔動巨人ん時に飛んでた蛇……! あん時俺のこと攻撃したの、あんたか!」
「あの時は悪かったよ。でも、ちゃんと手加減はしたさ。右腕以外には当てなかっただろ?――そちらも取り込み中のようですし、僕はこの辺で失礼させて貰います」
ダンテが大蛇の背に身軽に飛び乗ると、大蛇は翼を羽ばたかせる。風が唸り、その巨体がふわりと宙に持ち上がった。
「ああそうそう、そのカーバンクルは我が君の使い魔ですが、下手に妨害なんかしない方がいい。その使い魔は、アルヴィー・ロイの経過観察のために我が君が付けたものです。彼の身に何か変化が起こった時、すぐに対応できるようにね。その手段を潰してしまっては、そちらも困るでしょう。何せ、彼の身について一番詳しいのは、他ならぬ我が君なんですから」
「……おい、待てよ! それってどういう――」
アルヴィーの声を断ち切るように、再び大蛇が羽ばたいた。大蛇が空へと翔け上がり始める――その時、地上で一人、弓弦を引き絞ったシルヴィオは呟いた。
「――切り拓け、《風導領域》」
彼が番えた矢の先、風が渦を巻き一筋の道を形作る。シルヴィオが弦を弾くと、矢は咆哮のような音を伴い、空飛ぶ大蛇に向けて一直線に突き進んだ。
「ちっ――!」
それを見て取ったダンテは《シルフォニア》を一閃。放たれた不可視の刃が矢を消し飛ばし、さらに射手のシルヴィオにまで迫る。
「隔てよ、《土盾》!」
だがその刃がシルヴィオに達する寸前、突如そそり立った土の壁が、彼の代わりにそれらを受け止めて粉砕された。地系統魔法を得意とするカシムが放ったものだ。彼は急いでそこからシルヴィオを連れ出すと、そのままお小言タイムに突入。
「――あああ、あっぶねえ! 何いきなり挑発してくれちゃってんすか!」
「狙えると思ったんだけどな。それにしても、意外と射程があるな、あの魔剣の攻撃」
「だぁかぁらぁぁ!!」
カシムが吠えている間に、ダンテを乗せた大蛇はさっさとその場を離脱していた。その背でやっと《シルフォニア》を鞘に納め、ダンテは左耳のピアスを弾く。
「――我が君、接続の妨害は解決しました。これからそちらへ戻ります」
『ご苦労様、ダンテ。無事の帰還を待っておりますわ』
「身に余るお言葉です、我が君」
通信を終え、ダンテは頭上を見上げる。あの館から噴き上がる黒い靄は、だんだんとその範囲を広げつつあった。これでは高度を取れない。
(……仕方ないか)
胸中で呟き、ダンテは手近な建物の屋根へと下り立った。《トニトゥルス》を送還し、懐から水晶を一つ取り出す。主から賜った、転移用のアイテムだ。起動させると、ダンテの姿は一瞬で光に呑み込まれ、消えた。
――その様を、地上から偶然見ていた人物が一人。
「あれは……」
外が騒がしいので様子を見に出たシャーロットは、今しがた目撃した光景に思わず我が目を疑う。できれば確かめに行きたいところだったが、生憎今は非番で丸腰の上、服装もごく普通の少女らしい、ブラウスと膝丈のスカート。とてもではないが、屋根の上に駆け上がれる格好ではなかった。
(さっきの光は、まさか転移? 転移魔法の使い手は、さほど多くないはず……やっぱり、確認した方がいいのかも)
すぐさまそう判断した彼女は、自分の得物と魔法式収納庫を取りに自宅へと戻る。その背後で、夜の帳の中、空を覆い始めた黒い靄がだんだんと地上に向かって垂れ落ち始めていることに、彼女は気付かなかった。
◇◇◇◇◇
「それでね、お姉様。今日は街の南を見て来たの」
《雪華城》の中でも最も守りの厚い区画、王族たちの居住区。といっても、現在そこに住まうのは、女王アレクサンドラとその妹・アレクシアの姉妹だけだ。
今日も今日とて近衛騎士を供にお忍びで街に出ていたアレクシアは、姉の寝室で共に長椅子に腰掛け、その時の様子を語り聞かせていた。アレクサンドラは、そんな妹を微笑ましげに見やる。女王として常に超然とした態度を求められる彼女が、唯一ただの姉でいられるひと時だ。
だが――不意にかたりと窓が鳴る。アレクサンドラの表情から柔らかさが消えた。
「……アレクシア。窓を開けてちょうだい」
「? はい、お姉様」
訝しく思いつつも、敬愛する姉の言うことだからと、アレクシアは素直に立って行き窓を開ける。途端に、外から風が吹き込んできた。
「きゃあ!?」
思いがけなく強い風に、ドレスのスカートが大きく翻りかけ、アレクシアは慌てて押さえる。風はアレクサンドラの周囲を巡り、彼女は厳しい表情でその中に潜む精霊たちの訴えを聞いた。
「……呪詛が、街に?――分かったわ」
短くそう答え、アレクサンドラは立ち上がると、窓の向こうに設えられたテラスに出る。彼女を守るように周囲でゆったりと風が渦巻き、その金髪とドレスのスカートを緩やかにはためかせた。
「お、お姉様……」
「大丈夫よ、アレクシア。部屋に入っていなさい」
妹が室内に戻るのを確かめ、アレクサンドラは頭上に両手を差し伸べると目を閉じる。周囲を飛び回る風の精霊たちの存在が、はっきりと感じられた。
「……あなたたち。力を貸してちょうだい」
刹那――風精霊たちの歓喜の声と共に、彼女が掲げた両手に導かれるように、上空から膨大な風が吹き下ろしてきた。風はアレクサンドラを目印に上空から舞い下り、テラスから外壁を伝って地面へと流れていく。そしてまるで水が広がるように、地面を這って王城全体に広がり始めた。やがて王城全体に満ちた風は、城壁を乗り越え城門を潜り、さらに街へと吹き出していく。
尽きることなく遥か上空から吹き下ろしてくる風を操りながら、アレクサンドラはゆっくりと双眸を開き、街の方角を見つめた。
そして、待つ。
風を解き放つ、その時を。
◇◇◇◇◇
ダンテとの一戦を終えたジェラルドたちを待っていたのは、現場の騎士たちからの切羽詰まった報告だった。
「――上空に吹き飛ばした呪詛が、地上に降ってこようとしています!」
「我々の風魔法では、範囲が広過ぎてとても……!」
「ちっ……後から後から湧いて出てやがるからな」
舌打ちして、ジェラルドは館を見やる。中から噴き出す黒い靄は、未だ衰える気配を見せない。
「……アルマヴルカンが言うには、呪詛を消すには《竜の咆哮》で術者ごと焼き払うか――遺体を浄化して、呪詛が発生するのを止めるしかないって」
「なるほどな……だが《竜の咆哮》は却下だ。ここでそんなもんぶっ放してみろ、館ごと吹っ飛ぶぞ。さすがにそこまでやったら、捜査の範疇を超える。後々ややこしいことになるだろうな」
「では、浄化ということになりますが……そもそも呪詛の浄化といっても、どうやればいいのか」
「僕も呪詛にはそこまで詳しくないので……」
一同が頭を悩ませていると、頭上に立ち込めていた呪詛の靄が、ぞろりと垂れ下がってきた。だがアルヴィーが身構えるより早く、
「薙ぎ払え、《炎風鎌刃》!!」
凛とした声と共に、彼らの傍らから赤熱した光の刃が熱風を纏って撃ち上げられる。それは黒い靄を迎え撃つように当たり、小さな朱金の炎をばら撒きながら一瞬で周辺の靄を焼き尽くした。
「――ルシィ!」
《イグネイア》を振り抜いたルシエルは、二撃目を放つべく再び身構える。魔力経路を引き直されて魔法への変換効率が良くなったこと、そして魔力をコントロールして一撃の威力を適度に抑えることで、複数回撃つことが可能となったのだ。
「アル、君は上空の呪詛を焼き払って! 降ってくる分は僕が片付ける」
「おう!」
二撃目を撃ち放つルシエルの隣で、アルヴィーも右腕を戦闘形態にし、上空へと射線を取る。その時、アルマヴルカンが彼にだけ聞こえる声で告げた。
『主殿、右腕の鱗を一枚取るがいい。それを呪詛使いの骸に撃ち込み、そこを基点に体内から呪詛を焼き消す』
「え?」
「アル、どうしたの?」
「アルマヴルカンが――鱗を使えば、呪詛を焼き消せるって」
適当な鱗を一枚摘むと、ぱきんと澄んだ音を立てて剥がれた。アルヴィーはそれを、シルヴィオに渡す。
「これを……呪詛使いに撃ち込んでくれって。そうしたらそこを基点に、中から呪詛を焼き消せるって言ってた」
「なるほど、分かった。――カシム!」
「わーかってますって!」
カシムは館の端、前侯爵の寝室の窓の正面に立ち、そこに魔法で土の柱を造り出す。その頂上へ、シルヴィオが身体強化魔法を使って飛び上がった。その手には短弓と、鏃代わりに鱗を取り付けた矢がある。急造なので軸の先から鏃を取って鱗を挟んだだけだが、一度で決めれば大丈夫だろう。そしてシルヴィオには、失敗する気などなかった。
幸いというべきか、呪詛が噴き出す勢いに負けて窓は全開だ。条件は悪くない。
「……切り拓け、《風導領域》」
呟き、双眸に魔力を込める。虹彩が銀色に輝き、風の道が靄を吹き飛ばしてリーネにまで伸びた。発動した“千里眼”でその様子を確かめつつ、弦の引き具合を調整。あまり威力が強いと、リーネの身体を貫き通してしまうからだ。
そして――彼は矢を射ち放った。
矢は風の道に導かれ、見事リーネの身に突き立つ。それを“千里眼”で確かめ、シルヴィオは叫ぶ。
「今だ!」
瞬間――室内で朱金の光が一瞬だけ弾けるのを、シルヴィオは見た。直後、あれほど激しく噴き出していた呪詛の勢いが止まる。
「呪詛が止まりました!」
「よし、引き続いて上空の呪詛の除去に――」
ジェラルドが声を張り上げかけた、その時。
「……風が……」
誰かが、ぽつりと呟いた。
いつの間にか地を這うように、かすかな風が流れている。自然にはあり得ないその風に、誰もがある一点を振り仰いだ。
風の高位元素魔法士にして風の大精霊に愛された女王・アレクサンドラが住まう王城を。
「――いいわ、あなたたち。みんな空へ持って行って」
テラスの上、アレクサンドラがそう呟いた、次の瞬間。
街中にまで広がった風が、一気に上空目掛けて吹き上がった。
「うわっ――!?」
「これはっ……!」
静かに地を這っていた風は、旋風となって再び空へと舞い上がっていく。それは侯爵邸の中に満ち溢れていた呪詛をも一掃し、そして上空から降り注ごうとしていた呪詛を押し戻した。
「はは……やっぱり半端じゃないな、我らが女王陛下は」
常識外れの広範囲魔法に、ジェラルドはもはや呆れ半分で呟く。と、ぽかんと口を開けて見上げていたアルヴィーの周囲に、やおら風が渦巻いた。何事かと慌てる彼の耳に、その時少女の涼やかな声が聞こえる。
『――今のは上空へ押し戻しただけ。あなたの力ですべて焼き払って。上空へは精霊たちが運んでくれるわ』
「え……」
混乱するアルヴィーの足が、その時ふわりと浮く。次の瞬間、吹き荒れた強風がアルヴィーを包み、その身を天高くまで連れ去った。
「うわあああああ!?」
いきなり空中に放り出され、アルヴィーは絶叫したが、そんな彼の周囲を風に乗って朱金の炎が舞い始める。アルマヴルカンの声が聞こえた。
『ここでなら全力で力を使えるだろう。せっかくの風の娘の助力だ、無駄にするな』
その声に、幾分落ち着いたアルヴィーは周囲を見回す。呪詛の黒い靄に囲まれ、息苦しささえ感じる空間。
――これは、彼女の苦しみなのかもしれない。
そんな思いが、ふと頭をよぎった。
実の父親を憎む気持ちは、アルヴィーには分からない。だが、母を亡くした悲しみと怒りは、寄る辺を失くした虚しさは、自分も知っているから。
だからアルヴィーは、右腕を撓め、大きく振り抜いた。
《竜の咆哮》が――アルヴィーなりの弔いの炎が、空を奔る。
「……空が……」
地上でそれを仰ぎ、ルシエルは呟いた。
夕焼けよりも明るく紅く、輝く空。上空に蟠る呪詛を焼き尽くすその様子は、空一面を紅蓮の雲が覆っているかのようだった。
しかしそれもほんの一瞬で、紅蓮に輝いた空はすぐに暗く沈む。そして呪詛の雲が消え去った後には、いつの間にか昇っていた大きな月が、白い清冽な光を放っていた。
「……終わった、んですか」
パトリシアの呟きに、魅入られたように空を見上げていた騎士たちははっと我に返った。残念ながら、事態はまだ収拾しきったわけではない。被害の確認、そして邸内に残されたリーネと前侯爵も、収容しなければならないのだ。
「まだ終わってないぞ。――本隊は周辺の被害の確認! 呪詛使いも収容するぞ、ついて来い!」
「はい!」
指示を飛ばし歩き出すジェラルドに、パトリシアとセリオ、そして数人の魔法騎士が付き従う。ルシエルは《イグネイア》を鞘に戻し、そして呟いた。
「……あれ? アルは?」
◇◇◇◇◇
「――ぎゃああああああ!?」
《竜の咆哮》を放った直後。アルヴィーが息をついた瞬間、がくりと身体が傾き、浮遊感が彼を包む。落ちている、とすぐに分かった。耳元で風が唸る中、くすくすと忍び笑う声が聞こえる。
「おまえら面白がってんだろおおおお!?」
『ふふふっ』
『あはははっ』
どうやらアルヴィーが並外れて頑丈なことを看破して、風の精霊たちは彼で遊んでいるようだった。見えない坂を滑り下りていくように、彼の身体は地上に向かって一直線である。
「――げっ!?」
自らが落下する先を見て、アルヴィーは呻く。上空でずいぶん流されたらしく、貴族の居住区画を外れ、街中に出てしまっているようだった。落下予定地点に人の姿が見当たらないのが、不幸中の幸いか。
「――――っ!!」
いよいよ地上が間近に迫り、そして着地。どうやら風精霊たちは多少勢いは殺いでくれたようだが、それでも結構な衝撃が両足を襲い、アルヴィーはしばし悶絶した。《擬竜兵》でなければ骨くらいは砕けていたかもしれない。精霊の方はといえば、彼の反応に満足したようで、忍び笑う声だけが周囲の空気に溶けていった。
「……くっそ、あいつら……今度会ったら覚えてやがれ……!」
憤懣やる方なく、ぎりぎりと拳を固め呟いた時。
「――いきなり空から降ってきて、何やってるんですか?」
頭上から降ってきた声に、アルヴィーは空を仰いだ。
「……あれ? シャーロット、だろ? 何やってんだ、そんなとこで?」
「つい先ほど、ここで転移魔法を目撃した気がしまして。その調査です。収穫らしい収穫はありませんが」
建物の屋根からひょいと下を覗き込むシャーロットは、腰に手を当てため息をつく。一応屋根の上に登るということで、ボトムだけはキュロットスカートに履き替え、用心のため愛用のバルディッシュを手に屋根の上を一通り調べてみたが、痕跡らしきものは何もなかった。諦めてバルディッシュを腰の魔法式収納庫に仕舞ったところで、アルヴィーが空から降ってきたのだ。
「……とにかく、下りて来いよ。危ねーぞ」
「わたしよりずっと上空から降ってきた人に言われるのもあれですが……まあ確かに」
シャーロットは頷き、身体強化魔法を起動して飛び下りようとした。が、ここで予想外のことが起こる。
ずるり。
「きゃっ!?」
一歩踏み出したところが、ちょうど土埃でも積もっていたのか、踏ん張ったところで足が滑ったのだ。バランスを崩したシャーロットは大きくよろめき、その身体が宙に放り出される。
「! 危ねっ――」
アルヴィーは反射的にその直下に走り込み、何とか彼女を横抱きにする形で受け止めた。
「……あら?」
「あら? じゃねーよ。だから言っただろ、危ねーって」
「そうですね……」
アルヴィーに横抱きにされたまま、シャーロットはぽかんと呟いたが、はっと自分の体勢に気付き、わたわたと慌て出す。
「あ、あの。もう大丈夫ですから、下ろしてください。重いでしょうし」
「別に重くねーけど? つーか軽過ぎね?」
「それはわたしが小さいということですかっ。――ああもう、いいですから!」
手足をばたつかせ、何とか下ろして貰うことに成功すると、シャーロットは息をついた。同年代の少年に横抱きにされるなど、なかなかない。息をついて気分を切り替えた彼女は、ふとアルヴィーの表情が翳ったのに気付いた。
「……どうかしたんですか?」
「ん? いや。何でもねーよ。――ただ、やりきれねーな、っていうか、そんな感じ」
「はあ」
シャーロットは今回の呪詛にまつわる一件をまだ知らない。だが知らないなりに、アルヴィーが何かを抱え、心を痛めているのは分かる気がした。
「……あなたも、難儀な人ですねえ」
「何だよ、それ」
「いえ、何となく。あれこれと抱え込んでしまいそうな人だと思ったので。――確かにあなたは人よりたくさんのものを抱えられるかもしれませんが、抱えるものは選んだ方が良いと思いますよ? 抱え込み過ぎて許容量を超えてしまえば、何も持てないのと同じです」
「……じゃあ、今回のことは忘れろって?」
「その“今回のこと”が何なのかわたしには分かりかねるので、何とも言えませんが。何か考えるところや得るものがあったのなら、そのまま持っていればいいんじゃないですか? 何を抱えて何を捨てるのか、決めるのはあなた自身ですし。というか、そういう取捨選択ができない人は、早々に潰れてしまうと思いますが」
「……何を抱えて何を捨てるか……」
アルヴィーは考える。自分が何に引っ掛かっているのか――それは、リーネの思いが最後まで分からなかったからだ。彼女はあれで満足だったのか、それとも何かを思い残したのか。自分が関わることで何か変わったのか、何も変わらなかったのか。
だが彼女も、他人に理解して貰うことなど望まなかったのではないかと、ふと思う。
彼女の心は彼女だけのものであり、余人が本当に理解することなど、おそらくは永遠に叶わないのだろう。もしかしたら、他人があれこれ考えること自体、余計なお世話というものなのかもしれない。
「――その辺り、騎士としてやっていくつもりなら結構大事だったりしますし。抱え込むのも程々にしないと、次に進めなくなりますよ。騎士にとって重要なのは、立ち止まることじゃありません。進み続けることです」
そう言って、シャーロットは《伝令》の魔法をルシエルに飛ばす。アルヴィーがここにいることを知らせたのだ。この辺りは貴族の居住区画からそう遠くない。アルヴィーの保護者を自認しているような彼だから、すぐに迎えに来てくれるだろう。
「それでは、わたしはこれで。ああ、家はここから割と近いので、ご心配なく」
会釈して歩き出そうとしたシャーロットを、だがアルヴィーは呼び留めた。
「あ、なあ!」
「何ですか?」
「あのさ、さっきの魔法、あれどうやるんだ?」
「……《伝令》ですか? 補助魔法の一種ですし、コツを掴めばそう難しくはないですが……必要ですか?」
「俺、戦闘系以外の魔法ほぼ全滅だしさ。けどさっきのは便利そうだし。――あれだよ、進歩ってやつだよ」
進み続けることが大事だというならば、とりあえず、自分ができることを増やすのが良いと思う。少しずつでも、確実に。
出来ないことに思い悩むより、その方がきっと、未来に繋がる。
「そうですね。前向きなのは素晴らしいと思いますよ。とりあえず、うちの隊では皆さん使えますので、それこそ隊長にでも教えて貰えば良いのではないかと。親身になって教えてくださいますよ、きっと」
むしろ連絡手段を確立するために遠慮なく叩き込んでくれるのではないかと、シャーロットはちらりと思ったが、そこは口を噤んでおく。適材適所というやつだ。彼の教師役としてこれ以上の人材はいないだろう。多少厳しくとも、否、厳しい方が身になるはずだ。きっと。
「そっか、そうだな」
いい考えだとばかりにぱあっと顔を輝かせるアルヴィーににこりと笑って、シャーロットは今度こそ彼と別れた。
――しばしの後迎えに来てくれたルシエルに、魔法を教えてくれるよう頼んだアルヴィーは、だがこの時うっかり忘れていた。
彼はこと親友に何かを教えるとなると、いささか前のめり気味に気合が入り過ぎ、結果アルヴィーの頭から煙を噴かせる羽目になることを。
ルシエルが家の書斎から引っ張り出して来た各種魔法教本の山に、アルヴィーがドン引くことになるのは、そう遠くない未来のことである。
◇◇◇◇◇
翌日の特別教育の講義で、アルヴィーはルーファスに謝られた。
「呪詛で操られていたようで、あまりよく覚えていないんだが。どうやらずいぶん迷惑を掛けたらしいな。申し訳ない」
「いいよ、つーかむしろ巻き添えみたいなもんなんだから。――呪詛の影響とか、残ってないのか?」
「それはない。快調だ。何なら手合わせしてもいい」
「いや要らねーから」
なるほど大丈夫そうだと、アルヴィーは即座に理解した。これが通常というのは、別の意味で心配になるが。
「しかし、研究所ってのは凄えもんだな。専門外とか言いながら解呪しちまうんだもんなあ」
ヒューゴはあの後、騎士団に保護され魔法技術研究所で解呪の処置を受けたらしい。こちらも全快したのは喜ばしいことだった。
と、そこへダニエラが入室して来る。ニーナも一緒だが、なぜか彼女は私服だった。
「よろしい、揃っているな、諸君。――今日から三日間、わたしがすべての講義を担当する。オルコット四級騎士は今回の一件で、三日間の謹慎処分になったからな」
「謹慎って、あれ操られただけだろ!? それで処分なのかよ!?」
思わず立ち上がったアルヴィーに、答えたのはダニエラではなく、ニーナ本人だった。
「いいのよ。むしろ甘いくらいだわ。――これは、わたしが未熟だった、その結果だもの」
どこか肩の力が抜けたようにサバサバと言い切ったニーナは、アルヴィーに向き直る。
「……ごめんなさい。それと、ありがとう。あの時のあなたの言葉のおかげで、わたしは騎士に戻れたわ」
自分の足で立ち上がってみせろと叫んだ、ファルレアンの騎士であることを突き付けたアルヴィーの声が、ニーナに騎士の心を取り戻させ、父の背中を思い出させてくれた。あの時の彼の声を、手の温度を、そして朱金の炎の美しさを。ずっと忘れないでいようと、ニーナは思う。
「あなたたちにも、迷惑を掛けてごめんなさい。――イズデイル三級騎士、三日間、よろしくお願いします」
ヒューゴとルーファスにも詫びた彼女は、最後にダニエラに一礼し、講義室を出て行く。本来なら今日から謹慎のところを、これだけは言いたくて同行させて貰ったのだ。そんな彼女の後ろ姿は、自分の足で立ち上がった、揺るぎないものだった。
「……さて、それでは講義を始める。教本を開くように」
ダニエラの声を聞きながら、アルヴィーは窓から外を眺め、ジェラルドから聞いた事件の結末に思いを馳せる。
――あの後、リーネと前侯爵の遺体は騎士団によって収容され、前侯爵の方は病死ということで発表されることとなったという。騒ぎこそ大きくなったが、事件の核心を知るのはあの時侯爵邸やその周辺にいた者たちと、解呪の処置を担当した研究所の面々、後は女王アレクサンドラくらいのものだろう。そして国の上層部としては、レクレウスとの戦争中でもある現在、あの一件の真相が明るみになりどういった形であれ国内が動揺するのは、決して好ましくはなかったのだ。
結果、あの時居合わせた人々には箝口令が敷かれ、前侯爵は病死、リーネは事故死として処理された。ブライウォード侯爵家は現当主は今回の件に無関係と認められたが、国に借りを作る形となり、結果《女王派》の影響下に入る見込みだという。リーネが望んだほど、侯爵家の名前に傷は付かなかった。これが貴族の間の駆け引きなのだろうかと、アルヴィーは複雑な気分になる。
……それでも、自分はこの国で騎士となり、ここで生きると決めた。
だから、覚えて、抱えていくのだ。
いつかまた同じようなことが起きた時、どうすれば良いのか、自分で考えられるようになるために。
「――アルヴィー・ロイ。聞いているか?」
「え、あ、えっと……」
「よろしい、ではこれは課題としよう。明日までに自分の意見を纏めて来るように」
「げっ……!」
……とりあえず眼前の講義を真面目に受けることにしようと、アルヴィーは前に向き直った。まずは目の前のことを一歩ずつ。進み続ける、そのために。
窓の外は、抜けるような蒼い空。
だがアルヴィーが騎士となるまでには、今しばらくの時が必要だった。
第三章最後ということで大増量orz 読んで下さった方ありがとうございます、そしてお疲れ様です。いや本当に。
ともあれこれで第三章は終了、次回からは新章開始です。次週は掲載は見送ってストックに励みますが、これからも拙作をよろしくお願い致します。




