第135話 悪花繚乱
後宮内部は、先ほど扉越しに見た通り、薔薇の花と茨で溢れ返っている。
『ふむ、どうやら元凶はこの奥のようじゃの』
『でもむこうはもっとにおいがひどいよ!』
妖精族のアドバイスを聞きながら、ユフレイアは腕を組みつつ考える。
「なるほど……まあとりあえず、最初は正攻法で行ってみるか。杖よ」
彼女は爪先で地面をとん、と一叩き。敵陣真っただ中だが、妖精族の守護が働いているおかげか、愛用の杖はするりと地面から伸び、彼女の手の中に納まった。
「まずは地面を耕してやろう。――食い破れ、《大地餓牙》」
ユフレイアが杖を振るうと、地面が爆発するように弾け、尖った岩が天を突き刺す。周辺十数メイルほどを一瞬で荒れ地のように変えた魔法に、付いて来ていたフィランが慄くような声をあげた。
「うわあ……もんのすごい立派そうな庭が、一瞬で荒れ地になった……っていうか、俺本来なら、絶対ここに入っちゃ駄目な奴だよね」
「今は非常時だ、構うものか。――それにしても、やっぱりか。この程度では大して堪えないらしい」
呆れたようにユフレイアが眺める先、薔薇は魔法の効果範囲に巻き込まれた部分を捨て、未だ元気にわさわさと茂っている。だが想定の範囲内ではあったので、彼女は落胆もせずに背後を振り返った。
「……で、どうだ? 《魔物使い》としての見立ては?」
「あの……ですから僕は、《魔物使い》じゃなくて《魔獣操士》なんですが……しかも植物なんて専門外ですよ……」
ぶつぶつと零しながら、かつてこの国で《魔物使い》の名を持っていた元暗殺者、クリフ・ウィスは、おそらく二度とはないであろう後宮に立ち入るという暴挙にびくつきながら、首から下げた笛の一つを小さく吹く。するとややあって羽音。彼がよく使う、大人の拳ほどもある大きな蜂が上空から舞い下り、薔薇の花に向かった。だが途中で空中に止まると、戸惑ったようにその場で滞空を始める。
「うーん……こいつらじゃ無理か……」
「どういうことだ?」
「要するに、こいつらが“これは餌にできない”って思ったってことです。つまり、自分より強いものだって」
「ふむ。まあ、こんな状態になってる以上、ただの薔薇とは思っていなかったが。魔物なのか?」
「魔物……かなあ? 魔物でもおかしくはないと思いますけど……何せ僕、植物は守備範囲外なんです」
クリフは《魔獣操士》を名乗るだけあって、動物や虫といったものなら操れるが、植物はどうにも勝手が分からない。と、フィランが動いた。
「まあこれが一番手っ取り早いよ。斬れ、《ディルヴァレア》」
とん、と地面を蹴り、一瞬でトップスピード。薔薇の茨が彼を捉えるよりなお速く、彼が振るった魔剣《ディルヴァレア》が手応えすら感じる間もなくあっさりと、その茨を斬り落としていく。フィランが一陣の暴風となって一直線に突っ切った後には、斬り飛ばされた茨が散乱していた。
「姫様、そこの落ちてるやつ集められる?」
「集める? それは簡単だが、集めてどうする?」
「いや、燃やしちゃおうかと。これに付いてる花自体、やばそうな気がするんだよね」
斬撃が鋭過ぎたせいか、切り落とされたことにも気付かぬように、花を付けたままの茨がうねうねと動く。ユフレイアもクリフも、その言葉に深く同意せざるを得なかった。
「……確かにな」
「うえっ、気色悪っ」
ドン引くクリフを余所に、ユフレイアが大地を操作して地面をちょっと陥没させ、うねる茨を落とし込む。そこにフィランがどこに持っていたのか、壺に入った油を振り撒き、火種を投入。火は瞬く間に勢いを増し、茨と花を焼き尽くした。薔薇の香りとものが燃える臭いが混ざり合い、何ともいえない臭いとなって辺りに広がる。
「よし、じゃあこの調子で刈ってくか」
雑草でも刈るかというような軽い調子で、フィランが《ディルヴァレア》をぶんと振る。薔薇に意思などないはずなのに、恐怖を感じでもしたように、茨がさわさわと後退り始めた。
「なら、フィランは茨をやれ。わたしは根を掘り起こす」
「……あー、クリフ。おまえ避難しとけよ。これからこの庭、全面的に滅茶苦茶になるぞ」
「言われなくても!」
不穏な気配を感じ取ったクリフは、フィランに忠告される前からさっさと退避していた。ユフレイアが杖を掲げる。
「行くぞ。食い破れ――」
刹那。
「――ちっ!」
フィランが突如身を翻し、ユフレイアの身体を掻っ攫って飛び退いた。
「おいフィラン、いきなり何を――!」
ユフレイアがあげかけた抗議の声は、今まで立っていた地面が派手に抉れたことで途切れる。彼女を地面に下ろすと、フィランは《ディルヴァレア》を構えて声を投げた。
「……そんなこったろうとは思ってたけど、やっぱり首突っ込んで来たな。ダンテ・ケイヒル」
「まあ、今の僕の役目はこの薔薇の“花守”だからね。それにしても、相変わらず良い勘をしてる。さすが《剣聖》――ってところかな?」
「あんたに言われると複雑な気分だな。“元祖”《剣聖》」
何かアイテムでも使っているのだろう、ふわり、と羽でも生えているかのように静かに中庭に下り立った青年――ダンテは、愛剣《シルフォニア》を携え、底意の見えない笑みを浮かべた。対するフィランは、探るように《ディルヴァレア》の切っ先をわずかに揺らしながら、斬りかかるタイミングを測る。
そして、次の瞬間。
二人の《剣聖》は同時に地を蹴り、互いの魔剣が刃を噛み合わせて高らかに哭いた。
◇◇◇◇◇
貴族たちの騒乱は、場所が限られる広間を出て、いつの間にか城の中庭に場所を移していた。だがそこは今や、広間よりも濃い薔薇の匂いが満ち満ちている。双方はますますいきり立ち、ついに腰の装飾剣の柄に手を掛ける者も現れ始めた。装飾剣はその名の通り、外出や出仕の際に身だしなみとして帯びる見栄え優先の剣であり、殺傷能力はあまりないものも多い。だが、曲がりなりにも剣である。刺さりどころが悪ければ万一のことがないとは言い切れず、そしてそうなってしまうともう取り返しが付かない。
まだしも理性が残っている者たちは、貴族たちがそれを抜かないことを願いながら、遠巻きに見守るしかなかった。
その時。
澄み切った清流のような調べが、争いに沸き立った空気を斬り裂いた。
「……これは、竪琴……か?」
「一体誰が……」
ざわめく貴族たちの視線が、やがて一ヶ所に集まる。
いつしかそこで、一人の令嬢が竪琴を爪弾いていた。流れる黒髪は結い上げられ、蒼い瞳を伏せ気味に、弦を爪弾く指は細く白い。まさしく淑女という言葉が似つかわしい、美しい少女だ。
彼女が奏でる水のような音色は、ささくれて荒れた男たちの心を、優しく撫でて静めていく。剣の柄に掛かった手はいつの間にか下ろされ、怒りに濁った目には理性の光が戻り、貴族たちはその美しい調べを堪能することを優先した。
やがて、水面に雫が落ちるような一音を最後に、曲が終わる。その余韻が中庭を包み込み、静かに消えていった。
「――拙い演奏を、失礼致しました」
竪琴を背後に控える従者に任せ、令嬢は淑女の礼を取る。貴族たちの一人が思わず手を叩けば、その数は瞬く間に膨れ上がった。拍手の渦に、彼女はもう一度淑やかに一礼する。
「おお……あのご令嬢は確か、オールト侯爵家の」
大舞踏会でクィンラム公爵の婚約者として紹介された彼女を、幾人かの貴族は見知っている。その声に、オフィーリア・マイア・オールトはにこりと微笑んだ。
――いつものように自宅で竪琴を弾いていた彼女のもとに、王城のナイジェルから使いが来たのは、今から一時間ほど前のことだ。貴族令嬢が城に上がるためには、ないも同然の準備時間だったが、婚約者にとっては幸いに、オフィーリアは必要以上の身支度にこだわる娘ではなかった。無礼にならない程度に支度を整え、護衛の《人形遣い》の娘たちと従者を従えて、彼女はできうる限り速やかに、王城へと上がったのだ。
そしてナイジェルから事情を聞いた彼女は、薔薇の香りを打ち消す気付けの香を手首やドレスに吹き、その竪琴の調べで見事、貴族たちの頭を冷やしてみせたのだった。
「わたくし、殿方のなさるお話はよく分からないことも多いのですが……王城でこのようなこと、陛下への不敬には当たりませんの?」
愛らしく小首を傾げる令嬢の問いに、貴族たちはばつが悪そうに顔を見合わせる。
「い、いや……それは」
無邪気さにくるまれた彼女の指摘は、貴族たちの痛いところを寸分違わず撃ち抜いた。彼女は見掛け通りの純粋無垢な貴族令嬢ではないのだ。先ほどの演奏から始まって、すべて計算ずくで頭に血が上った男たちに冷や水をぶちまけてやったのだった。
(……やれやれ、我が婚約者ながら末恐ろしい)
そんなオフィーリアを、ナイジェルは感嘆の眼差しで見る。彼女は恐ろしいまでに、自分の“女”という性別と容貌を利用することに長けていた。それも直接的にではなく。貴族の女という立場を上手く使って男たちに自分を侮らせ、それと気付かせぬままに掌で上手く転がすのだ。まさに、クィンラム家に輿入れする花嫁としてこれ以上なく相応しい令嬢だった。
だが――そうして中庭に姿を現したナイジェルを、何人かの貴族が見咎めた。
「あれは、クィンラム公!」
「何っ!?」
「おのれっ、よくも堂々と顔など出せたものだな!」
どうやらまだ薔薇の香りの影響が残っていたらしい者が数人、ナイジェルの姿に逆上して掴み掛かろうと突進する。しかし彼らは皆、数歩も行かない内に見事に転倒した。
「うおっ!?」
「何だ!?」
立ち上がろうとしても不可思議なことに、もがくばかりで身を起こすことさえできない。訝しげな目でそれを見る貴族たちは、オフィーリアの傍に影のように控える、二人の少女には気付いていなかった。
「……前にオフィーリア様に、ドレス作って貰って良かったね、ニエラ」
「うん……でも、お城に上がるなんて思わなかったよね、ブラン……」
ぽそぽそと囁き合いながら、オフィーリアの侍女兼護衛を務める《人形遣い》の少女たちは、じたばたもがく貴族を眺めながらさり気なく指先を動かす。もちろん貴族たちが立ち上がれないでいるのは、彼女たちが魔力の糸で戒めているからに他ならなかった。彼女たちが纏う色違いのドレスは、以前オフィーリアの危地を救った礼として仕立てて貰ったものだ。それでも貴族令嬢が纏うものに比べればずいぶん控えめなもので、主であるオフィーリアの陰に隠れて糸を使うことができる。
彼女たちはオフィーリアとナイジェルの護衛のためにここにいた。ナイジェルの本来の護衛であるクリフが後宮突入組に引っ張られてしまったので、彼女たちはこちらを担当することになったのだ。
「ご苦労、二人とも。――イグナシオ、あれを」
「はっ」
彼女たちの働きを短く労い、ナイジェルは付き従うもう一人の護衛、イグナシオ・セサルに命じる。心得た彼は、香水を吹き付けるためのボトルを手に、暴れる貴族の前に屈み込んだ。
「失礼致します」
いきなり鼻先に香水を吹き付けられ、貴族たちは咳き込む。
「げほっ! な、何の真似だ!」
「気付けの香でございます。ご気分はいかがですか?」
「何を言っておるか、良いわけが――ん? うん?」
怒鳴り付けようとして、貴族たちは気付いた。あの甘ったるい薔薇の香りが消え、心がささくれ立つような不快さも、いつしかなりを潜めていることに。
「わ、わたしは……一体、何をしておったのだ?」
当惑する彼らに、ナイジェルは告げる。
「困惑なさるのも無理はない。――皆は今の今まで、心を操られていたのだから」
「何っ――!」
驚愕の表情を浮かべる貴族たち。ひとまず暴れ出すことはあるまいと踏み、ナイジェルは糸で貴族たちを拘束していた少女たちに目配せする。彼女たちは魔力の糸を消し、貴族たちを解放した。ようやく起き上がることを許されながら、冷静さを取り戻した貴族の一人が尋ねる。
「それはどういうことであろうか、クィンラム公」
「わたしも、オルロワナ公の来訪を受けて初めて気付いたのだが、どうやら知らぬ間に、外部からの干渉を受けていたようだ。後宮の侍女に話を聞いたところ、近衛兵を騙って後宮に得体の知れぬ薔薇を持ち込んだ男がいたという。その男の風体が、クレメンタイン帝国の騎士を名乗る男のものと一致した。――これはおそらく、クレメンタイン帝国からの干渉だ」
「な、何ですと……!」
貴族たちがざわめく。
「近衛兵を騙った男は、件の薔薇を陛下よりの贈り物と偽ったため、侍女も疑わなかったようだ。おそらく陛下もご存じではあるまいが、念のためにご確認を取ろうと思う。貴公らもいかがか」
「無論、お付き合い致そう」
こうして貴族たちの騒乱を収めたナイジェルは、貴族たちを引き連れてまだ幼い国王のもとに向かうのだった。
◇◇◇◇◇
「――くそっ、また騎士団に製造拠点を潰された。旨い商売になると思ったのによ」
男は顔を歪めて毒づく。この男はいわゆる“薬師崩れ”で、現在は裏社会の一員、それもそこそこの“顔”だ。王都ソーマにいくつかの製造拠点を持っており、そこで偽造ポーションを製造、売り捌いて一儲けを企んでいたのだが、その思惑は騎士団の対応の早さにより潰されようとしていた。
「サングリアムのポーションがめっきり出回らなくなったってのに、ファルレアンだけはポーションに困ってねえってことは、間違いない。ポーションの独自開発に成功したんだ。今度は国そのものが、ポーションの元締めになろうとしてやがる」
愚痴る男に、その時別の何者かの声が浴びせられた。
「……よもや、我が主に繋がるような手掛かりなど、残してはいるまいな?」
真冬の渓流もかくやという冷えた声に、男は焦りを滲ませて言い募った。
「そ、そりゃあもちろん! あれも所詮は末端の拠点です、潰されても惜しくないとは言いませんが、御当家に累が及ぶほどでは――」
「なら結構」
必死に回転して言い訳を紡ぐ男の言葉を、その声の主はばっさりと切り捨てる。
まだ若い、そしてどこか洗練された雰囲気のある男だった。纏うものこそこの辺りによくいる労働者のような服装だが、妙に似合っていないのは、その風采が良過ぎるからだ。
もっとも、服が似合っていないからといってわざわざちょっかいを掛けるような愚かな暇人は、この辺りにはいないのだが。
「……しかし、確かに騎士団の動きは邪魔だな。魔法技術研究所も、レシピについては完全に部外秘としているらしい……せめて主原料の見当でも付けば、こちらでもそれらしいものを作れるのだが。情報は盗み出せないのか?」
「面目ございません、思った以上に情報管理が厳しいもんで……忍び込ませた連中はことごとく。もちろん、そいつらには人を介して命令を出してますんで、途中の奴を“切れ”ば、こっちにまでは辿り着けないようにしてはありますが」
「ふむ、ならば構わんか……何か情報を掴めたら、すぐに知らせろ。我が主もお待ちかねだ」
「は、はい、そりゃもう……!」
高速で頷く男に、風采の良い男は小さく鼻を鳴らし、
「期待しているぞ。ポーションの情報を握れば、この国でも絶大な力を得ることができる。かつてのサングリアムのようにな。そしてそれは、我が主が持つべきものだ」
「は……」
頭を垂れる男を尻目に、彼は足早にその場を後にした。
――薬師崩れのもとを去った男は、入り組んだ路地を迷いなく抜けて、やや人通りの多い道に出た。その通りの並びの一つ、一軒の宿屋に入る。入口にいる宿の人間の目に留まらぬよう、足早に二階に上がると、並んだ扉の一つに鍵を差し込み、室内に滑り込んだ。
部屋はごく一般的な個室で、質素なベッドと上着掛け、造り付けの棚に小さな書き物机と椅子がある。ベッドの上には革の鞄と、そこそこに仕立ての良いシャツにスラックス、ベストが軽く畳んで置いてあった。男は着ていた服を脱いで鞄に詰め込み、ベッドの上の服を身に着けていく。ベッドの下に隠してあった革の靴も引き出して履き替え、元のくたびれた靴も鞄の中に。
仕上げに鞄から取り出した櫛で髪を整えると、そこには労働者然とした男ではなく、パリッとした服装に身を包んだ青年が出来上がっていた。
男は鞄を持って部屋を出ると、部屋代を支払って宿を後にする。そして彼は、貴族街へと入って行った。
周辺部の下級貴族の屋敷が並ぶ区画を過ぎ、さらに高位の貴族の屋敷が位置する一画に。そして彼は、とある屋敷の使用人用通用門を潜った。
「――旦那様、ただいま戻りました」
鞄を手にしたまま、彼は屋敷の主のもとへと向かう。許しを得て入室し、深々と一礼した男に、主は素っ気なく頷いた。
「うむ。して、連中の様子は」
「は。幸い、騎士団に潰されたのは末端の拠点とのこと。今しばらく、あの薬師崩れの男にまで手が回ることはないと思われます」
「そうか。それならまあ、今少し猶予をやっても良かろう……それに、少々面倒なことが起きた」
「面倒なこと、と申しますと?」
「王都ではない、領地の方だ。厄介な魔物が、我が領内に入り込んだらしい。しかも場所が少しばかりまずい」
「では、ご領地の私兵をお使いになりますか」
「いや、どうも手強い魔物のようだ。私兵では相手にならんだろう。あれにも金が掛かっている、使い潰したくはない」
「では……」
「こういう時のための、騎士団だ」
主はにやりと笑った。
「では、《保守派》に近しい部隊をお使いに?」
「いや。――《擬竜騎士》を招聘する」
「《擬竜騎士》でございますか? しかしあの者は……」
「分かっておる。奴は《女王派》だ、“今のところ”はな。――だが、《女王派》から引き剥がして取り込む手段など、いくらでもある。手っ取り早いのは、婚姻で縛ることだ。ちょうど良い具合に、我が分家に年頃の娘もいる」
「では……そのご令嬢を?」
「うむ。子爵家の娘ゆえ、男爵家への輿入れならば家格の釣り合いも取れぬではない。それに当の娘の方も、満更ではないようだ。どうも、輝月夜で見かけて以来、目を付けておったようだぞ。まあ確かに、右腕の異形さえ除けば、見目はそれなりに良い小僧だった」
貴族間の政略結婚では、両家の利害が最重要視される項目であり、当人の意思や容姿は二の次三の次だ。それでもできれば見目良い相手を、と望むのは、特に年頃の貴族令嬢にはよくあることだった。ゆえに彼女たちは、茶会や舞踏会などで目ぼしい異性へのチェックを欠かさない。
「しかし、旦那様。わざわざ騎士団ではなく《擬竜騎士》をお使いになるのは、それだけの理由でございますか?」
「ふ、さすがだな。正直なところ、婚姻は二の次だ。――あの者が叙爵された理由は、知っておろう?」
「はい。レクレウスとの紛争や、《魔の大森林》での大暴走などで功績を立て、加えて“霧の海域”で島を発見。新たな領土と航路を王国にもたらしたことで、栄誉爵として男爵位に叙せられたと聞き及んでおります」
「その通りだ。――そして、ファルレアンでポーションが出回り始めたのは、そのすぐ後だ」
主の言わんとしたことを、男もすぐに理解した。
「では……ポーションの件に、《擬竜騎士》が絡んでいると……?」
「可能性はあろう? 今まで失敗続きだったものが、その島とやらの発見以降、急に使い物になるレベルのものが出回り始めたのだぞ。《擬竜騎士》が発見したその島に、何か手掛かりがあったと見るのは、さほど見当違いではあるまい」
「しかし……もしそうであっても、それは重要機密でございましょう。口にするとは思えませぬが……」
「ふん、男の口を軽くするには、金か酒、もしくは女と相場は決まっておる。――ポーションの情報と利権は、《女王派》が押さえておるがゆえ、我ら《保守派》には回って来ん。それをもぎ取るには、何とか研究所に潜り込んで情報を掴むか、さもなくば《女王派》の人間を引き剥がして取り込むしかないのだ。そもそも、我ら《保守派》こそが、本来主流派であるべきなのだぞ。このままおとなしく、《女王派》の結束を固めるための仮想敵などで終われるものか……!」
ギズレ元辺境伯の一件以来、《保守派》の権勢には翳りが見え始めている。《擬竜騎士》を得て勢いを増した《女王派》とは対照的に。
それでも《保守派》が宮廷の勢力図の一端に留まっていられるのは、《女王派》の分裂を防ぐ“仮想敵”の役割を与えられているがゆえだと、目端の利く者は見抜いている。言い換えれば、“その程度にしか見られていない”。
その事実は、《保守派》の貴族たちにとって、受け入れ難い屈辱だった。
本来は、彼ら《保守派》こそが、継承権を持つ男子を奉じる、いわば主流派だったのだ。それが傍流に転落してしまったのは、レクレウスとの紛争の折に、彼らが担ぐ継承権持ちの男子が、軒並み継承権を放棄してしまったからだった。その穴を埋めるために女王アレクサンドラが即位し、彼女を盛り立てるために《女王派》と呼ばれる派閥が生まれた。つまり、《女王派》は後からひょっこり出て来ただけの、寄せ集めに過ぎない。少なくとも《保守派》の貴族たちは、そう考えている。
だが――女王アレクサンドラが在位している限り、現在の勢力図が動かし難いこともまた、事実だった。それが長く続けば続くほど、《女王派》は足元を固め、そして《保守派》は日陰へと追いやられ続ける。それを引っ繰り返すには、アレクサンドラが――どんな形であれ――退位するか、《女王派》の重要人物を引き抜くか、それくらいしかない。そして退位を待つのは現実的ではなかった。彼女はまだ年若く、そして風の大精霊の寵愛を受けそれに守られている以上、暗殺などもまず不可能。
そうなれば自然、後者の手段を取るしかなく、そしてその条件に最も合致するのが、ファルレアンに来てまだ日が浅く、しかしその戦闘力や新航路の関係で強い影響力を持つ《擬竜騎士》なのだ。
「魔物の件は厄介ではあったが、《擬竜騎士》を呼ぶのにちょうど良い理由になる。この機会、必ずものにしてくれよう……!」
主の悦に入った笑い声を聞きながら、男は深々と頭を下げた。
◇◇◇◇◇
――何か、引っ掛かる力の気配を感じる。
ファルレアンを後にした地の大精霊・クスィールは、気ままに各地を渡り歩いていた。何しろ千年地の底にいたのだ。その間に世界は、自分の知るものとはまったく違うものに変容してしまっている。すべてが目新しく、興味を惹かれるものであった。
そうして大陸を巡っている中、ふと気になる力の痕跡を見つけたのだ。
クスィールがじっと見つめる足下――そこにかすかに残っていたのは、ずいぶんと古い術式の一部とみられる陣の一部と、中心部の地面に残り香のように漂う、地精霊の気配だった。
(ふうん……? 神代に近い魔法術式か。それに、この地精霊の気配……自然に“解けた”ものではないな。外部からの干渉を受けて、無理やりに消し去られたものだ)
長く存在する精霊は、“存在すること”そのものに飽き、自ら個としての形を解いて世界に還ることがある。それは自然の摂理に適うことであり、精霊たちも問題視しない。だが、外部からの干渉により不自然に“消された”となれば、それは大問題だった。世界そのものの一部たる精霊を強引に消し去るというのは、世界の摂理に干渉できるということでもある。
(地精霊を消し去ったのが、この術式によるものだとしたら……使い手は神代からの知識を持つ者。――まさか)
屈み込んで陣をざっと調べたクスィールは、そのまま地面に手を当てる。そこから光が広がり、粒子となって立ち昇った。
それはこの大地の“記憶”だ。地の大精霊たるクスィールにとっては、大地に刻まれた過去の出来事を読み取ることは容易いことだった。
「……なるほど」
この地で起きたことについての情報を取得し、クスィールは立ち上がる。その双眸が、不快を示すようにすがめられた。
「――我が眷属を道具のように扱うとは、馬鹿にしてくれたものだ」
吐き捨て、クスィールはそのまま地面に沈み込んでいく。
(いずれ報いはくれてやろう。だが……まずは当時ここに居合わせた、あの火竜に話を聞いてみるとするか)
大地の記憶を通して見る限り、あの火竜は珍しく子連れだった。その記憶もそう古いものではない。火竜の繁殖地を辿れば、見つけられる可能性は高かった。そしてクスィールには、その繁殖地に一つ心当たりがある。
(やれやれ、また舞い戻ることになるとはな)
さほど時を置かず戻ることになった地に思いを馳せつつ、クスィールは地脈まで辿り着くと、もう一つの大陸を目指してその流れに身を任せた。
◇◇◇◇◇
アルヴィーの騎乗は、訓練の甲斐あって、何とか様になりつつあった。
「よし、飛べ! 《ウラガン》!」
「ガウ!」
アルヴィーは自分の専属となった飛竜に、古い言語で《大嵐》を意味する《ウラガン》と名付けた。空を飛ぶ飛竜であるからには、空か風にちなんだ名にしようと思い、そして飛竜科中隊に散々手を焼かせた暴れっぷりから、《大嵐》が相応しかろうと思い付いたのだ。言葉の響きを本人(本竜?)も気に入ったようで、呼べばちゃんと返事をする。
合図に合わせて、ウラガンは空高く舞い上がる。普通の人間である他の騎手では耐えられない速度や挙動でも、アルヴィーは割とさらっと耐えきってしまうため、本来の生態に近い飛び方ができるのが“彼”も嬉しいようだ。ちなみにウラガンは雄である。
「ひゃー、高っけー! やっぱ“跳ぶ”のと“飛ぶ”のって違うんだな」
騎士団本部どころか、城すらも遥か眼下。風がうるさいほどに吹き荒び、髪や制服を手荒くはためかせる。それでもアルヴィーの瞳は、人間が通常では見られない眺望に輝いていた。足場を使って“跳ぶ”のでは辿り着けない高み。それは飛竜乗りの特権だ。
しばらくその眺めを堪能し、アルヴィーはウラガンの首を軽く叩く。
「――よし、そろそろ下りようぜ。帰ったらまた“あれ”食わせてやるから」
「ガウッ!」
ウラガンが嬉しげに声をあげ、翼を翻した。空の高みから、螺旋を描くように滑空し降下していく。
地表すれすれで翼に風を孕んで勢いを殺し、ふわりと着地。搭乗用の装備を外してその背から下りたアルヴィーは、魔法式収納庫から布の袋を取り出した。
「今日もお疲れ、ウラガン。これ好きだろ?」
「ガウッ!!」
アルヴィーが袋から取り出したのは、例の別大陸に飛ばされた時に作った燻製肉だった。大分余っていたが、人間が住まない別大陸の謎生物の燻製肉など他人にお裾分けできるわけもなく、地道に一人で消費していたところ、騎乗訓練の際につまんでいたのをウラガンに横取りされたのだ。大丈夫なのかと慌てたが、さすがに飛竜というべきか、ウラガンはケロッとしていた。それどころかもっと寄越せとねだるので、それ以来こうして訓練後のおやつとして与えている。おかげで大分懐いてきたが“在庫”は減った。
「結構減ったな……こいつ燻製だったら他の肉でもいいのかな」
「ガウ?」
ウラガンは燻製肉をガジガジ噛みながらアルヴィーを覗き込んでくる。その顔を押し退けて袋を仕舞い、首筋をガシガシと擦ってやった。ウラガンが目を細めて唸る。
ひとしきりウラガンを撫でてやり、飛竜科中隊の隊員の手に渡すと、アルヴィーは飛竜科中隊の隊舎を後にした。
このところ、アルヴィーの予定はこの騎乗訓練で埋まっていたが、今日は久々に、ジェラルドからの呼び出しがあった。ウラガンを返した時に、飛竜科中隊の騎士から伝言を伝えられたのだ。というわけで、本部のジェラルドの執務室に赴いた。
「――マンティコアの討伐?」
「ああ、この王都のすぐ隣、レアンドル侯爵領の、それも街道に近い山中に棲み着いたらしい。どこから流れて来たか知らんが、街道近くに棲み着いたとなると、一刻も早く討伐する必要がある。とにかく始末しろ。どこから来ただのどうして来ただの、詳しい理由や背景を調べるのはその後だ」
ジェラルドの指示は簡潔にして思い切りの良いものだった。だが確かに、優先されるべきは理由よりも街道を通る人々の安全だ。アルヴィーにも否やはなかった。
「了解。すぐ出た方が?」
「そうだな、明日には出られるようにしておけ。――そうだ、どうせだから日頃の訓練の成果を発揮してみろ。せっかくの専属飛竜だ。こういう時に使ってこそだろう? 距離もそう遠くない」
「確かに、レアンドル侯爵領で街道近いんなら、ほとんど王都との境に近いけど……俺、まだ飛竜科中隊の隊舎周りしか飛んだことないのに」
「大まかな方角が分かってりゃ、後は飛ぶだけだろうが。飛竜には地上の道なんざ関係ないんだからな」
「そりゃそうだけど」
というわけで、ウラガンと組んでの初任務である。
「へえ、じゃあアル、もうある程度は飛竜の手綱が取れるようになったんだね」
「まあな……半分ウラガンに任せてるようなもんだけど。やっぱさすが飛竜っていうか、空の上だとものすごいイキイキしててさあ。速いのなんのって」
「……まあ、アルは丈夫だし、高機動にも慣れてるから、振り落とされることはないだろうけど……気を付けなよ」
ルシエルが半分諦めの境地で、それでも一応忠告しておく。空を飛んでいて興が乗った飛竜が、騎手の指示を無視して好き放題に三次元飛行を楽しんだ結果、騎手が飛竜酔いを起こして使い物にならなくなる、という事例もあるのだ。それを乗り越えた者だけが、騎手として飛竜に乗ることを許される。
「ああ、そうだな。あいつたまに宙返りとか、飛びながらぐるぐる横回転したりするもんなあ。俺も楽しいけどさ、そういうの」
「……そう」
ルシエルの心配を余所に、アルヴィーはすでにその洗礼を受けていた――どころか一緒になって楽しんでいた。ウラガンがアルヴィーに懐いたのは、何も餌付けのせいばかりではないのである。
「げっ……何それ。気分悪くなんないの?」
船酔いする性質のクロリッドは、聞いているだけで気分が悪くなったのか、若干顔色を悪くして問う。
「いやー、愚問だろ。こいつ南で船に乗ってる時、どこ座ってたよ……」
「ああ……」
明後日の方向に目をやりながら、カイル。クロリッドもげんなりと頷いた。思い出すのは南の無人島に向かった時の船上の一幕。アルヴィーはこともあろうに、大揺れに揺れるメインマストの横支柱の上という“一等席”で、愛玩動物のフラムともども目をきらきらさせて大海原を満喫していたのだ。
「それにしても、マンティコアか……確かに、そんなものが街道近くに棲み着くなど、厄介どころの話ではないな」
「マンティコアって、あれだよね。胴体は獅子で翼があって、尻尾は蠍で毒を持ってる……って」
「《魔の大森林》での大暴走でも見た、あれですね」
ディラークが難しい顔になり、ユフィオが知る限りの情報を説明し、シャーロットが納得顔で頷く。
「じゃあ大丈夫じゃない? あれをあっさり真っ二つにしてたじゃない、アルヴィーは」
ジーンが身も蓋もない一言で片付けた。
「いやまあ、倒すのは良いんだけどさ、ばっさりやるだけだから。でも、現地でそいつら探すのが面倒そうなんだよ」
「あ、そう……」
一二一小隊の全員が遠い目になった。本来マンティコアは、魔法騎士でも小隊規模で挑むような魔物である。“ばっさりやるだけ”がどれほど難しいことか。やはりアルヴィーは常人とは基準が違うのだと、一同しみじみ思い知る。
「……そういえば、今日はフラムちゃんは?」
と、ここまで黙りこくっていたユナが、そこで初めて口を開いた。動物――特に小動物をこよなく愛する彼女は、アルヴィーが連れ歩いているフラムが大のお気に入りだ。今日もアルヴィーにくっついていると期待していたのだが、それに反して定位置である彼の頭や肩に、その姿は見えなかった。
「ああ、今日は家に置いて来た。前、訓練終わりでウラガンに燻製食わせようとしたら、あいつがいきなり顔寄せてきたから食われると思ったんだろうな。びびって逃げ回って大変でさ」
以前、フラムをウラガンに慣らすために連れて来たところ、燻製肉につられたウラガンの顔のどアップを目の当たりにする羽目となり、文字通りアルヴィーの肩から飛び上がって逃げ出したのだ。そのままパニック状態で飛竜科中隊の隊舎を逃げ回り、果ては魔法技術研究所薬学部の森まで逃げた挙句、そこを根城にする地精霊フォリーシュによって捕まり事なきを得た。それ以来、フラムを訓練に連れて来るのは止めたのだ。いざという時は他の飛竜に乗った時同様、いつもの運搬袋に詰めれば良いだろう。
「そう……ほどほどにしてやりなよ……」
ルシエルの声は、小動物への同情で満ち溢れていた。
任務の準備があるので、そのままルシエルたちと別れてアルヴィーは一旦帰宅する。飛竜に乗って行くのでそう日数は掛からないはずだが、一応最低限の旅支度は要るだろう。特にアルヴィーの場合、常軌を逸したアクシデントに巻き込まれて余所に飛ばされる、などということがたびたび起きたりするので。
玄関を開けると、待ちかねていたようにフラムが飛んで来た。
「きゅきゅーっ!――きゅ……?」
定位置の左肩にまで駆け登り、すりすりと頬に擦り付いてきたまでは良かったが、そこで違う匂いに気付いたのだろう、首を傾げる。
「ああ、ウラガンの匂いが付いてんのかな。さっきまで訓練で一緒だったし」
「きゅっ……!?」
アルヴィーの言葉が分かったのか、それとも匂いによって忌まわしい記憶が呼び起こされたのか、フラムがしびびと毛と尻尾を逆立てた。
「大丈夫だって、あいつもおまえのこと取って食ったりしないからさ」
「きゅ……」
ほんと? とでも言うように、フラムが大きな瞳でアルヴィーを見つめる。うるうる。
「乗ってく時はいつもみたいに、袋入れてやるからさ。それとも留守番するか?」
「きゅっ!」
ひしっとアルヴィーの肩にしがみ付くフラム。留守番する気はないようだ。
ひとしきりフラムを構ってやってから、アルヴィーは部屋で魔法式収納庫の中身を確認した。毛布や着替えの類は心配ない。食料も携帯食があるが、ウラガンのために燻製肉を買っておいても良いだろう。あの謎生物の燻製肉もそろそろなくなりそうだし。
その他、用意した方が良さそうなものをピックアップし、アルヴィーは私服に着替えるとフラムを手招いた。
「街に買い物行くぞ。おまえも来るか?」
「きゅっ!」
フラムは喜んで肩に乗っかってきた。一応貴族である以上、買い物など使用人に任せても良いのだが(というかそれが普通だが)、そもそもこの屋敷の人員は最低限どころかそれさえ割っているレベルだし、自分でできることは自分でやるのがアルヴィーの身上だ。それに息抜きにもちょうど良い。
嬉しそうに尻尾を揺らすフラムを肩に乗せ、念のためにフラム用運搬袋を首に掛けて、アルヴィーは街に繰り出すのだった。




