第134話 薔薇は美しく咲く
「――よし。こんなもんかな」
《大陸君主会議》に使用するアイテムに目一杯魔力を充填し、アルヴィーはふう、と息をついてぼやいた。
「しっかし、ほんと底なしみたいに魔力吸うんだな、これ」
「まあ、この間も言ったけど、大陸規模の通信に使うアイテムだからね。それ相応の魔力が必要になるのは当然さ」
「はあ……」
「いや、しかし助かったよ。後は陛下にご報告申し上げれば仕事は終わりだ」
機嫌良く笑みながらサミュエルがアルヴィーの肩を叩いた。
報告は彼に任せることにして、アルヴィーは研究所を後にする。預けておいたフラムを回収して肩に乗せ、騎士団本部の方に顔を出すと、ちょうど一任務終えたらしい第一二一魔法騎士小隊と鉢合わせした。
「アル! 仕事の方はもういいの? 研究所の方に手伝いに行ってるって聞いてたけど」
「ああ、もう終わったから。そっちは?」
「僕らもさっき、一つ案件が片付いたところだよ。――そういえばさ、アル」
「うん?」
ルシエルに手招きされて近寄って行くと、声を低めて尋ねられた。
「――あの地の大精霊が、どこかに行ったらしいね」
「ああ……精霊の森で会ったのが最後だな」
地の大精霊クスィールは、あの精霊の森での邂逅を最後に、ふつりとその消息を絶っていた。無論、身の安全の心配は要るまいが。何せ大精霊の一角だ。
一応ジェラルドにも報告は入れておいたが、大精霊の首に縄など付けておくわけにもいかない。ジェラルドも諦めていたようで、そうか、とあっさり頷いただけだった。
「まあ、千年地面の底にいたわけだし、色々見て回りたいもんもあるんじゃねーの? またひょっこり顔出すかもだろ。そん時に俺たちが生きてるかどうかはともかく」
「そうだね……」
何しろ相手は精霊の親玉である。“しばらくの間”が百年単位でも何の不思議もない。ルシエルはちょっと遠い眼差しで頷いた。
「んで、ルシィたちはまた巡回だったのか?」
「いや、僕たちは偽造ポーションの製造業者を一つ潰してきたところ」
「……は?」
何やら穏やかならない一言に、アルヴィーはぽかんと口を開ける。
「偽造ポーション……ってのもあれだけど、潰してきたって。えーと、物理的にじゃないよな?」
「ええ、残念ながら」
シャーロットがにこやかに頷いた。
「残念なんだ……」
「冗談ですよ?」
微笑む彼女に、だがアルヴィーは突っ込めなかった。気を取り直して、もう一つの気になる単語を呟く。
「にしても……偽造ポーションなんて出回ってるのか」
ポーションの国産化には、アルヴィーも一役買っている。その偽造となると、聞き流すわけにもいかなかった。
「それって、ポーションが国産化してから?」
「そうだね。サングリアム製のポーションが潤沢に出回ってた頃は、そっちの値段が手頃だったこともあって、紛い物はほとんどなかったんだよ。偽物を作る方がかえってコストが高かったりしたからね。――でも今は、ポーションそのものが品薄で、値が上がってるから。紛い物が入り込む余地があるんだよ」
「なるほどなあ……」
「まあ、薬効がないって程度ならまだしも、ポーションだなんて触れ込みで麻薬でもばら撒かれちゃ面倒だからな」
うんうんと頷いたところにカイルの物騒な追撃が入って、アルヴィーは目を見張った。
「麻薬!?」
「そういう危険もあるから、偽造業者を片っ端から潰してるんだよ。今のところ、結構優先順位の高い案件なんだ」
「うへえ……」
確かに、ポーションと偽っての麻薬汚染など目も当てられない。騎士団が力を入れるのも当然といえた。
「んじゃ、ルシィたちが潰したってことは、そういう業者はもういなくなったのか?」
「まさか。ああいうのは次から次へと出て来るものさ。だからしばらくは、こっちに掛かりきりになるだろうね」
「ないとは思うが、研究所からのレシピの漏洩にも注意しなければな。今まで偽造ポーションが出回らなかったのは、サングリアムが徹底してレシピを秘匿していたこともあるんだ。だが、サングリアムが生産を止めてなお、ファルレアンではさほどポーションに困っていないことで、気付く者は気付くだろう。“ファルレアンはレシピと原料を手に入れることに成功した”とな」
「……えっと、それって」
ディラークの言わんとすることに、アルヴィーも気付いた。ルシエルが重々しく頷く。
「そう。――もし万が一、アルのところから原料が出てるってことが突き止められたら、君や周囲にも危険が及ぶってことだよ」
アルヴィー自身は、滅多なことでは危機になど陥らないだろう。だが、周囲の者はそうはいかない。例えば、屋敷で働いている使用人たちなど。
そう説明されて、アルヴィーの表情が引き締まった。
「そうか。――そうだよな」
「僕たちの方からも、報告として上げておくよ。もっとも、ポーション事業はいわば国策だから、情報管理はこれ以上ないほどしっかりしてるとは思うけど……世の中に“絶対”はないからね」
ルシエルの言葉に、アルヴィーは頷くしかなかった。
「……分かった。でもそれって、研究所の人もやばくないか?」
「もちろん、そっちも対応されるよ。騎士団の中からいくらか、護衛に付くことになると思う」
「そっか……」
正直、研究所の面々はどう見ても、魔法士というよりは研究者としての能力に才能を全振りしているような人々ばかりなので、護身という点に関しては不安が多々あった。騎士団が護衛に付いてくれればまだしも安心だろう。もっとも、研究所に忍び込んでレシピや原料の情報をこっそり抜かれる危険はあるが、さすがにそこまで考えていたらきりがない。
(……ま、そもそも騎士団本部の隣近所なんだし、そこまで気合入った偽造業者もそうそういないだろ)
楽観的にそう考えてそのこと自体を棚上げしたアルヴィーだったが、無辜の一般市民や出入りの業者に扮して、偽造業者の手下や他国の密偵がすでに侵入を試み、研究所謹製のえげつないネズミ捕りの餌食になっていることを、幸いにも知ることはなかった。
……なお、そのネズミ捕りの数々は、元を辿ればアルヴィーがこの国に来た当初、彼の情報機密保持のために設置され活躍したものであることを、ここに付け加えておく。
◇◇◇◇◇
ざあ、と潮騒が心地良く耳を擽る。砂浜を駆け回っていた子供たちの一人が、海の彼方から近付いてくる船影に気付いた。
「――あ、船だよ!」
「ほんとだ! 父ちゃんたち帰って来たのかな!」
子供たちが見つめる中、船影は三つに増えてどんどん大きくなってくる。子供たちが砂浜近くの桟橋に走って行くと、そこはもう人で混み合い始めていた。
「――おおーい、酒だ酒ぇ! 今回は儲けたぜぇ!」
接岸した船から濁声が降ってきて、集まった人々がわっと沸く。船縁に次々と梯子が架けられ、むくつけき男たちが荷を担いで慣れた様子で降りてきた。大きな荷はロープを使って周囲に集まる小舟に下ろされ、桟橋へと運ばれる。
下ろされた荷は種類によって分別され、それぞれ荷車で運ばれていった。食料や香辛料の入った木箱と袋、ワインの入った樽、そして特に厳重に梱包されて運ばれるのは、金貨や宝石、美術工芸品などだ。
ここはソルナート王国領海内に浮かぶカリヴィエント群島。海賊たちの本拠地として悪名高い場所であった。
いかに海賊といえど、年がら年中海の上で生活しているわけではない。食料の補給や船の修理などのためにどうしても陸の拠点は必要となるし、何なら家族を持つ者も少なくないのだ。そうした者たちにとって、この群島は必要不可欠な拠点だった。
もちろん島に住む者たちも、夫や父の生業を知っている。むしろ子供たちは“大きくなったら父ちゃんみたいに海賊になる!”というのがお決まりの台詞だ。
「うはあ、すげえなあ! 食べ物があんなにいっぱい!」
「向こうの荷車、見たか? 金貨がどっさり入ってたぜ!」
略奪されたものだとは知っているが、この島の人々にとってそれらの品は、生活に必要不可欠なものだ。ゆえに、子供たちの声にもそれを忌避する色はない。むしろ、略奪品が多ければ多いほど、自分たちの暮らしが楽になることを、彼らはすでに知っていた。
子供の頃からそう育てば、大人になってもその価値観は変わらない。島ではそれはもう当たり前のことになっていて、“収穫”が多かった今回は島中が歓喜に沸いていた。
――そんな人々を、高台から見下ろす人影が、二つ。
「……やれやれ、今度は海賊の島か。人使いの荒いことだ」
「実際に働くのはラドヴァンじゃないだろう。それに今回は面倒もないよ。何せ海の真ん中の小島だからね」
ココアブラウンの髪を潮風になびかせ、ダンテはそのエメラルドの瞳を酷薄に細めた。
「“何をしようと”、こちらの自由だ」
「ふん、もっともだな」
鼻を鳴らして同意すると、死霊術士ラドヴァン・ファーハルドは、手にした杖を掲げる。
「さあ、どうしてやろうか。やはり合成屍獣でもけしかけてやるかな」
「好きにしなよ。僕はここで見物させて貰うから。獲物は多い方が良いだろう?」
ダンテはすっかり見物モードだ。そんな彼を余所に、ラドヴァンは改めて海賊たちの船や家々を見下ろし、そしてにやりと唇を歪めた。
「ああ……なるほど。さすがに海賊というところか、そこそこ人を殺しているな。殺された人間どもの霊が纏わり付いている。――ふむ、やはりここは大盤振る舞いといこう」
ラドヴァンは珍しく機嫌良く、懐から箱を取り出した。魔法式収納庫と同じ効果を持つものだ。傾けられた箱の中からは、様々な死体が溢れ出してきて積み重なる。魔物、人間、種類を問わない死体の山に、彼は杖を突き付けた。
「もののついでだ、怨念返しの一つもさせてやろう。蘇れ、《操屍再生》」
詠唱。蒼黒く輝く魔法陣が死体の山の下に浮かび、その禍々しい光に惹かれるように、いくつもの霊魂が集まってくる。ラドヴァンにはその正体が分かっていた。かつて海賊たちに襲われ、恐怖と悲憤の内に命を落とした、船乗りや乗客たちだ。彼らは吸い寄せられるように死体の山に群がり、そしてめいめいが新たな身体を得てゆっくりと起き上がる。生前の意識が残ってでもいるのか、魔物の骸を選んだ霊はさすがにないようで、起き上がったのは人間の死体ばかりだった。
「行け。自分を殺した連中を殺し返すなり、女子供を嬲るなり、好きにしろ」
ラドヴァンがそう命じると、蘇った死者たちは掠れた雄叫びをあげる。上手く回らない舌で海賊たちへの怨嗟を紡ぎながら、彼らは麓の村へと歩みを進め始めた。
その背中をダンテが見送る間に、ラドヴァンは次の術を発動させる。残された魔物の骸が見る間に繋ぎ合わされ、やがて一体の巨大な怪物を作り上げた。合成屍獣となったそれは、よろよろと覚束ない足どりで歩み出し、そしてぐらりと傾いた。
「……あ」
ダンテがそう声をあげる間もあらばこそ、合成屍獣は高台の斜面を豪快に転がり落ちていった。ややあって、人家にでも衝突したのだろう、遠く破砕音と悲鳴が聞こえてくる。
「……いいのかい? あれ……」
「構わん。前よりは頑丈に作った。そもそもこれは、合成屍獣の耐久実験も兼ねている」
「あ、そう……」
微妙な顔でダンテがそう呟き見守る中、合成屍獣は確かに崩壊もせず起き上がると、そのまま家を破壊しつつ歩き出す。人家など知ったことかと言わんばかりに、障害物を粉砕しながら突き進む巨大な異形に、遭遇してしまった不運な人間の悲鳴が連鎖した。
合成屍獣が先回りする形となり、盛大に集落を引っ掻き回したところで、高台から下りて来た死者たちが合流し、憎き海賊やその家族に襲い掛かる。海賊たちもカトラスを振るって抵抗しようとするが、いくら斬られようと何の痛痒も感じず、加えて人間離れした膂力を持つ動く死体たちに、やがて次々と力尽きて殺されていった。
そんな悲惨な状況の中、合成屍獣が無造作に壊した家の一軒から炎が立ち上る。竈か何かの火であったろうそれは、見る間に燃え広がり、程なく集落を包み込んで船にも燃え移った。仮初の命を得たばかりの死者たちは、炎に巻き込まれて次々と倒れていったが、合成屍獣だけは元気に(?)うろつき回っている。炎に耐性を持つ魔物の骸が混ざっているのだ。
「ふむ、なかなか頑丈に仕上がったな。良い結果だ」
ラドヴァンは満足げに呟いた。もはや眼下の集落に生きて動く人影はなく、ただ合成屍獣が闊歩する火の海と化していた。辛うじて炎を逃れた幾許かの生存者も、合成屍獣に居所を嗅ぎつけられ、恐怖と混乱の中で殺されていった。
「大体、こんなものか。後は、どのくらいの期間保つのかの検証結果が得られれば言うことはないが」
「はいはい、好きにどうぞ。――でも多分、そう遠くない内にソルナートが海賊討伐を始めると思うよ」
「何?」
ラドヴァンの神経質そうな眉が跳ね上がった。
「どういうことだ」
「元々、ソルナートは定期的に――ってほどでもないけど、まあそれなりの回数、ここの海賊の討伐に兵を出してるからね。ましてや今回は、《大陸君主会議》を目前に控えてる。鬱陶しい目の上のコブは事前に取っておきたいってことさ」
「ふむ」
ラドヴァンは頷き――そして凄絶な笑みを口元に刷いた。
「ならば、俺はしばらくこの島に腰を据えて研究を進めよう。国の正規軍との交戦など、またとない実験の機会だからな」
眼下で巻き上がる炎が熱風を吹き上げ、見下ろす男たちの髪や服を禍々しくはためかせる。
「そう。じゃあ、ここは任せるよ。僕は他にも行くところがある」
ダンテはそう言って身を翻すと、そのまま転移の水晶を使って消えた。残されたラドヴァンは、興奮に両目をぎらつかせながら、炎の中を蠢く合成屍獣を見守る。
犠牲者たちの絶望と悲憤を混ぜ込んだようなどす黒い煙が立ち上り、やがて海風に攫われて消えていった。
◇◇◇◇◇
レクレウス王国王太后、ディアドーラ・エイダ・レクレウスの暴虐は、日を追って激しくなる一方だった。
今や、彼女に仕える侍女は以前の半数近くにまで減ってしまっている。些細なことで癇癪を起こしたディアドーラが、次々と侍女を追い出してしまうからだ。だが、仮にも王太后に仕えられるほどの格を持つ家の娘が、そういくらも確保できるわけはない。また、下級貴族出身の侍女などというものをディアドーラが許容するはずもなく、侍女の数は減る一方なのだ。
加えて、宮の中庭に植えられた薔薇の匂いが、後宮で生活する者たちの精神を徐々に狂わせていく。今では後宮は、疑心と反目で満ち溢れた、まことに居心地の悪い場所となり果てていた。
「――ええい、気分が悪い! ワインを持て、早う!」
喚き立てるディアドーラを諫める侍女は、もはやいない。むしろワインで酔い潰れてくれれば、この不快な金切り声をしばしの間だけでも聞かずに済むのだ。今では侍女たちは、主を黙らせたい一心で、進んでワインを運ぶようになっていた。
「……いっそ、このまま“静かに”なってくれれば……」
「しっ、滅多なことを言うものじゃないわ……」
ひそひそと囁き合う侍女たちの表情も、疲れが目立つ陰鬱なものと化している。かつて女の花形と呼ばれた役職の輝きは、もはやどこにもなかった。
そうした彼女たちの不平不満は、実家にも次第に伝わり、貴族たちの間では反王太后の気運が形作られつつあった。
「――王太后陛下があのようなお振る舞いでは、陛下もお心が休まりますまい。仮にも母上であらせられるからには……」
「ですが、あれでは反貴族議会派も、よもや御旗としようとも思わぬでしょう。侍女たちには苦労を掛けるが、あのまま後宮に閉じこもっていていただく方が都合が良い」
貴族議会に与する貴族たちがそう囁き合えば、
「王太后陛下は近頃、とみにご機嫌が麗しくないようだ……あの忌々しい貴族議会から幼い陛下をお守りできるお立場の方は、もはや王太后陛下しかおられぬというのに……」
「……いっそ、王太后陛下が“お隠れあそばして”くだされば……貴族議会の仕業と喧伝すれば、信じる者もいるのでは」
「このようなところで、物騒なことを口になされるな。誰ぞの耳に入ったらどうなされる」
反貴族議会の貴族たちが目を暗く光らせる。王城に広がっていく薔薇の匂いが、彼らの心をさらに尖らせていき、善悪の均衡を揺るがし始めていた。
「……レイモンドよ、妾の愛しい子よ……なぜ母に会いに来てくれぬ。薔薇だけでは、妾の心は休まらぬというに……」
後宮の外の情勢など知るはずもなく、極上のワインを浴びるほど飲み、ディアドーラはとろりと酒精に蕩けた目で、中庭の薔薇を眺めた。ある日突然中庭に植わっていたその薔薇は、レイモンドが近衛に言付けて贈ってくれたものだという――少なくとも彼女は、それを信じた。信じて、その薔薇をこうして愛でることに、せめてもの楽しみを見出そうとしたのだ。
もっともそれは、ほんのひと時のこと。淡い夢がすぐに掻き消えてしまうように、彼女の心の平静はほんのわずかしか訪れない。むしろ、その薔薇の香りこそが後宮の空気を翳らせ、ディアドーラの心を狂わせて追い詰めていたのだが、もちろん彼女にそれを知る術はなかった。
だが今だけは、今の自分の惨めな境遇を忘れ、息子の心遣いに縋りたかった。
だから彼女は気付かない。
ざわり、と蠢いた茨が、異様な速度で成長し、瞬く間に中庭を覆い尽くしてしまっても。
その茨が自分のもとまで伸び、手足を戒め、咲き誇った薔薇が一層濃密な匂いを撒き散らしても。
まだしも残っていた正常な精神を、その匂いが次第に侵食していくことも――彼女はついぞ、気付かないままだった。
「――へえ。なかなか育ったじゃないか」
カリヴィエント群島からレクレガンへと転移したダンテは、その様子を後宮の屋根から見下ろしていた。ついこの間、彼自身が近衛兵に化けて持ち込んだ薔薇は、順調に生育しているようだ。
「さて……王太后は問題なく支配下に置けそうだけど、やっぱりこのままじゃ芸がないな」
呟くと、彼は一つのアイテムを取り出す。液体が入った小瓶だ。彼はそれを片手で弄び、そして中庭へと放り投げた。地面に当たって砕け散った瓶は中身を周囲に振り撒き、それを浴びた茨はそれまでにも増す勢いで生い茂り始める。茨は中庭だけでは足りぬとばかりに、貪欲に周辺の建物をも覆っていった。白が目立っていた後宮の佇まいは、どんどん緑に侵食されていく。
「さすが我が君が手ずから調合された栄養剤、良く効くなあ。――後はこの薔薇が吸い上げた王太后の怨念が、仕事をしてくれる」
ダンテが見下ろす先、王太后の宮はもうすっかり、茨に覆われて外から中の様子を窺い知ることはできない。だがその茨に咲く薔薇の花は、他の部分の花に比べ、明らかにどす黒く禍々しい色をしていた。まるで毒に侵された血のようだ。
やがてその薔薇から放たれ始めた香りは、どろりと滴るような重い甘さを含んで、周囲に広がり始める。それが鼻孔を掠めて、ダンテは少し顔をしかめた。
「……大したもんだな、まともな精神には完全に毒じゃないか。よくまあここまで、怨念を溜め込んだもんだ」
彼はいっそ感心したような口調で嘯く。王太后を取り込み、さらに強さを増した匂いは、風に乗って王城全体へと早くも広がり始めていた。
◇◇◇◇◇
――何だか、変に甘い匂いがする。
《大陸君主会議》の開催に際し、使用するマジックアイテムへの魔力充填のために王城を訪れたユフレイアは、ふと眉を寄せた。
(香、か……? だが何だこれは、妙に“癇に障る”)
漂う香りはごく淡く、むしろ品が良いと評されそうな芳香だというのに、ユフレイアはその香りに奇妙な不快感を覚えざるを得なかった。と。
『……む、これはいかぬのう。我が友ユフレイアよ、この香りをあまり長く吸ってはならん』
『心が支配されちゃうよ!』
囁き声のように聞こえてきたのは、地の妖精族の声だ。ユフレイアは周囲を見回しこそしなかったが、思わず目を見張った。
「心を支配、だと……? どういうことだ、なぜそんなものが王城に」
『わからないの! でもここはあぶない。はやくそとにでて!』
「しかし、クィンラム公との約束がある。会わずに帰るわけにはいかないぞ」
困惑していると、ふと清涼感のある香りが鼻孔を掠めた。
「なあ、妖精。これはどうだ?」
従者たちの中、ユフレイアの斜め後ろに影のように気配薄く付き従うフィランが、いつの間にか小さな瓶を取り出し、その中身を一滴、石造りの床に落としていた。香りはそこから漂っているようだ。
『……おお、これは気付けの香か。確かにこれならば、この程度の匂いは打ち消せるのう』
『うん、だいじょうぶ!』
「よし、行けるか。――姫様、一応扇持ってるだろ? それにこいつを染み込ませて、顔の前に当てとけばいいよ。さすがに俺みたいに鼻の下に塗るなんてわけにはいかないだろ、仮にも淑女ってやつなんだし」
「“仮にも”とは何だ!」
余計な一言に突っ込みつつも、ユフレイアは言われた通り、持っていた扇に香を染み込ませる。それをいかにも淑女らしく顔の前に翳せば、なるほど甘ったるい匂いはすっかり打ち消された。従者たちにも香を使わせる。
「……大分ましになった。それにしてもフィラン、どうしてこんなものを持っている?」
「あちこち旅してるとね、ヤバイ植物が生えてる辺りを通っちゃうこともあるわけよ。敵意があれば避けて通るけど、植物にそんなもんないからね。こういう状態異常を打ち消すようなアイテムは必需品なんだ」
「そういうものなのか」
「にしても、王城入ったばっかでこれって、ヤバイよなあ。奥の方なんてどうなってることやら」
「ああ。早くクィンラム公を捜さなければ」
ユフレイアは従者の一人に命じ、自らの登城を告げさせる。その知らせはすぐに目当ての人物に伝わり、彼女たちはその執務室に恭しく通された。
「――ようこそいらっしゃいました、オルロワナ公。わざわざご足労いただき、痛み入ります」
「久しいな、クィンラム公。卿も健勝のようで何よりだ。婚約者殿も息災か?」
「おかげさまをもちまして。――ただこのところ、登城すると妙に、心がささくれ立つ気が致しまして。別段、身体に異常はないはずなのですが」
一行を迎えたナイジェルは、どこか浮かぬ顔でそう述べた。
「ああ、わたしも登城した途端、この香りが癇に障ってな。これで少しはましにならないか?」
ユフレイアが自分の扇を軽く振ると、ナイジェルの顔が驚愕に彩られる。
「これは……!」
「地の妖精族曰く、この香りはあまり性質の良くないものらしい。心を支配するそうだ」
「まさか……そんなものが、なぜ王城に。いや、理由は後だ。これの源を突き止めないと、この分ではもう王城全体に広がりきってしまっている……!」
事態の深刻さに気付き、彼の顔に常ならぬ焦燥が浮かんだ。
「公、申し訳ありませんが、魔力の充填は後ほど」
「無論だ。まずはこの件を片付けてしまわないとまずい」
無駄話などなく、方針は可及的速やかに纏まる。ナイジェルにはとりあえず、フィラン同様香を鼻の下にさっと塗って貰った(彼は非常に複雑な面持ちだった)。
執務室を出ながら、ユフレイアは頼りになる友人たちに問う。
「この香り、出所は分かるか?」
すると、
『あっち、あっち! 北のほう!』
『大分奥まった場所じゃの。建物がいくつもあって――ほ! 人間の女子の気配が凄まじいのう』
「……後宮か……!」
ナイジェルが苦々しく呻いた。
「後宮ですと、所定の手続きをこなさねば中には入れません。それが不要なのは陛下のみです」
「さすがにあんな子供を、魔窟に送り込むわけにはいかないな」
忙しなく口と足を動かしながら、ナイジェルを先頭に王城の最奥、後宮へと向かう。もちろん、彼らに後宮に無許可で立ち入る権限はないが、そもそも彼らとて権力者。何も自ら踏み入る必要はないのだ。
後宮に続く通路に差し掛かったところで、ナイジェルは入口を警備する近衛兵に命じた。
「宮の中のことで、少々確認したいことがある。女官をここへ」
「は、畏まりました!」
入れなければ、中の人間を呼び付ければ良いのである。
程なく、近衛兵に呼ばれてやって来た後宮の侍女は、だがひどく落ち着かない様子だった。身分と地位のある人間の前であるせいか、隠そうとはしているようだが、どこか苛立っているような空気を纏っている。
そして彼女が現れた途端に漂った、むせるような甘ったるい匂いに、ユフレイアは思わず扇で鼻から下を覆ってしまった。幸い、貴婦人にはよくある仕草だったので、侍女は不審には思わなかったようだ。礼を取りつつ深く頭を垂れる。
「……お呼びに従い参りましたが、どのようなご用件でございましょう」
「ああ、楽にしてくれ。――このところ、後宮で何か変わったことは起きていないか。些細なことでも構わない。諍いが増えたとか、体調が優れないとか、何か見慣れぬものが増えたとか」
「失礼致します。そうですわねえ……」
頭を上げた侍女は少し考え、言葉を選ぶように口を開いた。
「確かに、ええ……少々皆様、ご機嫌が麗しくないご様子で……王太后陛下は特に。この間、陛下の計らいで中庭にいただきました新しい薔薇を、お部屋から愛でられるのが、唯一のお心のお慰めのようで――」
「薔薇、だと?」
ナイジェルが眉を吊り上げた。
「そのようなものについて、陛下から伺ったことはないのだが」
「まさか! お持ちになった近衛のお方は、確かに陛下からの賜りものだと……王太后陛下には内緒にして驚かせたいとの仰せだったと、確かにこの耳でお伺い致しましたわ」
「陛下がそのようなものを手配なさるなら、わたしの耳に入る。そんな話は聞いていない」
「では、あれは――」
侍女もようやく気付いたようで、顔を蒼くして唇を震わせた。
「その近衛とやらは、どんな男だった」
「どんなと仰っても――その、いかにも近衛の方らしい物腰の、見目良い殿方でしたわ。そう、エメラルドのような瞳が、とても印象的で……」
「……あいつかな」
ぼそりと呟いたフィランに、ユフレイアも心当たりを見つける。
「あの、ダンテとかいう男か」
以前、領地の領主館に強襲を掛けてきた、クレメンタイン帝国の騎士を名乗る男。どうやらこの間のレクレガンの災禍にも関わっていたという話だ。
そんな男がまたしても、素性を偽って王城の後宮に現れる。どう転んでも、悪い考えしか浮かばなかった。
「すぐにその薔薇を始末するのだ。必要なら庭師を手配する」
「は、はい、すぐに――」
血相を変えたナイジェルの命令に、侍女も慌てて頷くと、礼も忘れて身を翻しかける。
その時だった。
「――きゃあっ!?」
その足にしゅるりと細いものが巻き付き、侍女が転倒した。その向こうに見た光景に、一同は絶句する。
扉の向こう、後宮の至るところが、いつの間にか薔薇の花と茨でぎっしりと埋め尽くされていた。
◇◇◇◇◇
それは、唐突に起こった。
「――そなた、今何と申した!?」
「ふむ、聞こえなんだのなら、いくらでも聞かせて進ぜようぞ。仮にも国王陛下の母君であらせられる王太后陛下を、恐れ多くも宮に押し込めておくなど、不敬の極み! 貴族議会の底も知れたものであるなあ!」
「何と、無礼はどちらであるか!」
「ふん、貴族議会の腹は見えておるぞ! 王太后陛下を我ら臣下から引き離し、頃合いを見てお命を奪うつもりであろう!」
「何だと――!」
王城の広間の一角で巻き起こった貴族同士の口論が、瞬く間に周囲の貴族たちを巻き込んでいく。あまりの暴論に絶句した貴族議会派の貴族に、その絶句を肯定であると反貴族議会派の貴族が言い立て、口論はさらに広がっていった。そしてそれを煽るように満ち始める、薔薇の香り。
おかしいと疑うほどの理性は、すでに誰の頭にも残っていなかった。
「――た、大変でございます! 城内で貴族の方々が、今にも決闘でもなさりかねない勢いで……!」
貴族たちの対立はもちろん、後宮近くにいたナイジェルたちに伝えられた。ここまでの事態になってしまうと、貴族議会代表である彼でもなければ収められない。通常であればだ。だが今回は、対立の内容が内容であるだけに、彼が出て行くと余計に話がこじれる可能性が高かった。
「さて、どうしたものか……」
苦い顔で、ナイジェルは唸る。このまま事態を放っておくわけにいかないのはもちろんだが――そんなことをすれば最悪、王城で刃傷沙汰になりかねない――下手に介入してもそれはそれでまずい。明晰な頭脳を持つ彼にして、とっさに名案を思い付くことができなかった。
と――ユフレイアが、何かを思いついたようににやりとした。
「クィンラム公、婚約者殿と護衛の娘たちを、王城に呼べるか?」
「オルロワナ公?」
いきなり突拍子もないことを言い出したユフレイアに、ナイジェルが訝しげな目を向ける。そんな彼に、ユフレイアはウィンクを一つ。
「昔から、熱くなった男どもの頭に水を引っ掛けて冷やしてやるのは、女と相場が決まっている」
「はあ……」
釈然としないながらも、ナイジェルは従者に命じてオールト邸に向かわせた。ついでに、自らの手駒である元暗殺者組も、こちらに呼び付けることにする。
「して、オルロワナ公。我々は何を?」
「もちろん、この不愉快極まりない香りを何とかしなければなるまい?――さて。本来は許されざることだが、今は非常時。国王陛下には後ほどご説明して、お目溢しいただこう。仮にも母君の命が掛かっているんだ、否とは言うまい」
「公、まさか――」
唖然とするナイジェルに、ユフレイアは不敵に笑って堂々とぶち上げた。
「決まっている。後宮へ乗り込むぞ!」




