第132話 蒔かれる種
その力に気付いたのは、あの巨大な“眼”が地脈の歪みを消し飛ばし、自身も姿を消した直後のこと。
地脈の奔流の中でちらちらと瞬く、炎の気を帯びた力。近付くとそれは、銀で敷かれた転移の魔法陣だった。銀を含め鉱物は地に属するものだが、すぐに分かるほどに炎の力を帯びているのは、この陣が強い炎によって加工されたものだからだろう。
過活性化し荒れ狂う地脈が掠めたのであろう転移陣は、膨大な力を供給されて稼働していた。見る限り、行き先の設定もちゃんとできている。
だがこの大陸には、この大きさでこうした魔法陣を構築するような種族はいないはずだ。千年を地の底で過ごしたとはいえ、地属である自分が大地に生きるものたちのことを見誤りはしない。
だとすると、これは。
『……ふむ。面白いな』
興味を惹かれ、そっと足を踏み出してみる。自分を吸い込む強力な力にあえて抗わず、その導く先へ――。
「……で、気が付いたらこっちに来ていた、と」
『そういうことだな』
堂々と頷く地の大精霊とやらに、ジェラルドは頭痛がした気がしてこめかみを揉み解した。
――ここは騎士団本部の一画、厳重に魔法防御が施された部屋だ。風の大精霊シルフィアが見事捕獲した地の大精霊に、例の転移陣の事情聴取を試みるべく用意された。無論、所詮人間の組み上げた術式など精霊には児戯も同然であろうが、どうやらこの大精霊、千年もの間別大陸に引きこもっていて人間の術式そのものが珍しいらしく、今のところ部屋の術式を壊すような暴挙には及んでいない。
ジェラルドがその事情聴取に駆り出されているのは、要するに騎士団幹部の中で対人外経験値が図抜けているからという理由に尽きる。本人としては不本意極まりないが、反論もできなかった。何しろ部下が色々アレなので。
『それにしてもクスィール、《見守るもの》がどうして、あれに干渉したの?』
『知るものか。あと、みだりにわたしの名を呼ぶな』
『あら、いいじゃない。わたしたちにとって、名前なんて形と同じで、ただの個体識別手段に過ぎないわ』
実は事情聴取にも同席していたシルフィアが、さらりと地の大精霊の名をばらした。抗議されてもどこ吹く風といった様子で、空中にふわふわ浮いている。おそらくはアレクサンドラに頼まれて、地の大精霊を監視しているのだろう。
『ふん……《見守るもの》の思惑など知ったことではないが、あれで果たすべき役目が終わったのも事実だ。もっとも、あの歪みは神々が世界を去った時の衝撃でできた、いわば置き土産だからな。ある意味これで、神代の清算がようやく終わったともいえる』
どうやら追及しても無駄だと悟ったらしい地の大精霊クスィールは、肩を竦めてそう言った。そしてきらりと目を光らせる。
『――ところで』
ずい、といきなり詰め寄られ、立ち会っていたルシエルは思わず仰け反りそうになった。
「……何でしょうか」
『その剣、一体何でできている? 金属じゃない。強いて言えば竜種の鱗に似ているが、あれは人間の力では、とてもそんな風に細工できる代物じゃないだろう』
何やら興味津々な様子で尋ねるクスィールに、ルシエルがどう答えたものかと思っていると、シルフィアが諦めたようにため息をついた。
『……悪いけど、教えてあげてくれる? 何しろその子、千年ずっと別大陸に引きこもってて、初めてこっちの大陸に来たわけでしょ? もう想像を絶するレベルで世間知らずなのよ』
『誰が世間知らずだ! 相変わらず無礼だな、風の!』
『何ですってぇ!? 無礼はどっちよ、この引きこもり!』
『わたしは自分の役目を果たしていたまでだ! その辺をうろついていれば良い風とは違うんでな!』
『うろつくですってぇ!? 世界を巡るのは風の在るべき姿よ! 徘徊してるみたいな言い方しないでちょうだい!』
「…………」
居合わせた人間たちは、大精霊とかいう至高の存在の低レベルな口喧嘩を、ただただ無言で眺めるしかなかった。
(……まったく、頭が痛いぜ……)
ジェラルドは深くため息をつく。幸い、二柱の大精霊は実力行使にまで出る気はなさそうだった。それなりの費用を掛けて整備した部屋が吹き飛ばずに済みそうなのは、何よりである。
こういう時にアルヴィーがいればな、とジェラルドは切実に思う。何しろアルヴィーの対人外経験値は騎士団内でもぶっちぎり。彼ならこの状況でも、遠慮などせずに突っ込みの一つも入れるだろう。何なら“喧嘩なら外でやれ”くらいは言ったかもしれない。
だが生憎彼は現在、ヴィペルラートの第二皇子を歓迎するための晩餐会の護衛として、会場に駆り出されている真っ最中だった。本人は心底“今すぐ帰りたい”と思っていることだろうが。
「はあ……まったく、頭が痛い」
ままならない世の中を儚みつつ、ジェラルドはとりあえずの事態の収拾を、遥か遠くの棚の上に放り上げることにした。
◇◇◇◇◇
(……帰りたい……)
きらきらと絢爛な列席者と室内の調度品を遠い目で見やり、アルヴィーはこっそりため息をつく。
――ここは《雪華城》城内の一棟にある大広間。以前、国主催のオークションを行った場所である。現在そこは煌びやかに飾り立てられ、一隅には冗談のように長いテーブルが運び込まれて、様々な料理が来賓たちの舌を楽しませていた。テーブルが置かれていない場所は広くスペースが取られ、ダンスも楽しめるようになっている。今はその壁際で、楽士たちが楽器を奏で、会場内に優雅な調べを響かせていた。
「――ほう、彼があの《擬竜騎士》……」
「女王陛下に見出され、一代で叙爵されたと聞き及びますが……まさに立志伝中の人物ですな」
「ご覧になって、あの瞳……朱色と金かしら。虹彩異色とは聞き及んでおりませんでしたけれど、神秘的ですわね」
音楽に紛れ、ひそひそと囁き交わしている(つもりであろう)声が、基本的に強化仕様の耳にはバッチリ聞こえてくる。本当に心底帰りたい。
だが任務としてここにいる以上、そういうわけにもいかないので、アルヴィーは顔が引きつりそうになるのを堪えて持ち場に立っていた。そのせいで無表情になったが、会場での護衛役は大体が無表情だ。かえって都合は良い。
この晩餐会は、ファルレアンに留学に訪れたヴィペルラート帝国の第二皇子を歓迎するためのもので、列席者も高位貴族の当主とその妻がほとんどだ。子息や年頃のご令嬢がいない分、ぎらつく狩人の視線がなくて、アルヴィーとしては気が楽だった。
――が。
(……けどさ、その皇子様がなーんで、時々俺のことチラ見してんのかなー……)
時折感じる視線に、アルヴィーは内心げんなりした。やんごとなき高貴な方々に興味など持たれても、まだまだ気分は一般市民なこちらとしては逃げたくなるばかりなのだが。
(まあ、ヴィペルラートはなー……前に来た外交文書、ガッツリ無視したけどなー……シュリヴのこともバレてるっぽいしなー……)
心当たりがあり過ぎて嫌になる。シュリヴの件はともかく、外交文書のことに関しては上層部の方針だと、声を大にして言いたい。
そうこうしている内に、会場も宴もたけなわという感じになってくる。女王アレクサンドラ臨席ということもあり、あくまでも上品に盛り上がりを見せる列席者たちの中には、ダンスフロアに歩み出て踊り出す夫妻も出始めた。良いのかと思っていたが、どうやら“晩餐”の時間はもう終わり。ここからは“社交”の時間というわけだ。
主賓の第二皇子には、さすがに軽々しく人は寄って行かないが、あちこちで生まれる高位貴族の輪。正直近寄りたくない。警護役で本当に良かった。
内心胸を撫で下ろしながら眺めていたアルヴィーだったが、ふと気付いた。
(……何ていうか……知ってる人が一方のグループに偏ってんな。これが《女王派》と《保守派》ってやつか)
彼が見る限り、会場内の貴族のグループは、大まかに二つに割れているように思えた。アルヴィーの知った顔としては、ルシエルの実父ジュリアス・ヴァン・クローネル伯爵を始め、魔法技術研究所所長サミュエル・ヴァン・グエンや外務副大臣ヨシュア・ヴァン・ラファティーなどだが、彼らは皆片方のグループにいる。そちらが《女王派》ということだろう。
一方の《保守派》と思しき面々には、閣僚の一部以外には特に見知った顔もない。
「ふーん……大臣とかも、ちゃんと両方の派閥から選んでるんだ。自分の味方だけにしてれば楽だろうに」
ひっそりとそう呟くと、
「ご自分にまつろわぬ人間をある程度側に置いておくことも、為政者としては有用なのですよ、《擬竜騎士》殿」
「うぉ!?」
いきなり声をかけられたので、アルヴィーは思わず肩を跳ねさせた。慌ててそちらを見ると、近衛騎士団の制服に身を包んだ黒髪の女性騎士の姿がある。彼女には見覚えがあった。
「あ……確かアレクシア殿下の護衛の……」
「マグダレナ・ヴァン・トリストと申します、《擬竜騎士》殿。それとも、ロイ男爵とお呼びした方が?」
「……《擬竜騎士》の方でお願いします」
ついでに敬語も要らないが、平時ならともかくここは他国の皇族をもてなす晩餐会の場。さすがに「タメ口でよろしく」などとは言えなかった。うっかり爵位など貰ってしまった以上、“相応しい敬意を払われる”ことにも慣れなければならない。気疲れする話だが。
「ああ……そういえば今日は、アレクシア殿下も」
「ええ、陛下と共にご臨席です。それで、不慣れであろうゆえ《擬竜騎士》殿の様子を見てくるようにと。――もっともご指示をなさったのは陛下ですし、本当のお心は《保守派》貴族があなたに近寄らぬようにとの牽制でしょう」
そう言って、マグダレナは小さく肩を竦めた。彼女の立場ではギリギリで許される砕け度合いだ。
「……多分偉い人たちは、俺のことあんまりこういう場に近付けたくないんじゃないかなって、思うんですけど」
「ええ、正解です。むしろ今回のことが異例で……主賓であらせられる第二皇子殿下がお望みになったからには、致し方ないのですが。ヴィペルラートという国は、こちらにそれなりの要求を呑ませるだけの力があります」
「そっか……でかい国なんだよな」
マグダレナの言葉に、アルヴィーは第二皇子――エリアス・フロル・ヴィペルラートの方をちらりと見やる。紺碧の髪は、この晩餐会の場でも目立つ珍しい色合いだ。
下手に目を付けられないようすぐに視線を外すと、マグダレナに向き直る。
「……それで、さっきのってどういう意味ですか? まつろわぬ人間がどうこうっていう……」
「ああ、そのことですか。――陛下はあえて、《保守派》の貴族を閣僚として置いておられます。閣僚を《女王派》貴族ばかりで固めてしまえば、陛下のご意思を尊重するあまり諫言を控え、結果として道を誤ってしまわれるやもしれないことを危惧されてのことです。《女王派》と《保守派》が適度に競い合い、陛下やその派閥の政策に疑義を投げかけることで、より深く議論が交わされることを期待なさってのことでしょう」
「言うこと聞いてくれるだけじゃ駄目、ってことですか……」
アルヴィーにも思い当たるところはあった。騎士団員として、ファルレアンとレクレウスの紛争について纏められた資料を、彼も読んだことがある。誰が纏めたのか、当時のレクレウスの政権についても、それなりに詳しく調査していたようだった。
それによれば、当時のレクレウス中枢は、王家――というかほとんど王太子、後の国王ライネリオとそれに賛同する臣たちに牛耳られていたことが分かる。ふと、ナイジェル・アラド・クィンラムとの会見を思い出した。
(……あの人も、“まつろわぬ人間”だったのかな。あの戦争の時には)
そして彼を受け入れなかった前王ライネリオは、結果として滅びの道を歩み、敗戦の王として歴史に名を刻むこととなった。
もしもライネリオやその先代の王が、ファルレアン女王アレクサンドラのような君主であれば、レクレウスはあのような泥沼にはまることはなかっただろう。もしかしたら、戦争そのものも起きなかったかもしれない。そうすればアルヴィーの故郷も――。
そこまで考えて、アルヴィーはその考えを打ち消した。
(……今さらそんなこと考えたって、起きたことがなくなるわけじゃないしな。――現実に“もしも”なんてないんだ)
胸中で自嘲したアルヴィーに、その時マグダレナが声をかけた。
「では、わたしはそろそろ姫殿下のもとに戻ります。第二皇子殿下ももうご退席されるようですし」
「え?」
見ると確かに、主賓たるエリアスは席を立ち、付き従う者たちと共に、会場を後にしようとしているところだった。
「晩餐会って、もう終わりなんですか? まだ一時間半くらいしか……」
「仮にも他国の皇子殿下、しかも未成年のお方に、あまり遅くまでお付き合いいただくわけには参りませんので。高位貴族の方々も大体殿下に顔繋ぎができたようですし、お互いに目的は果たしたというところでしょう。陛下と姫殿下も、第二皇子殿下をお見送りなさった後にご退席されます。後は貴族の方々が“親睦を深める”時間なのですよ。では、わたしはこれで」
マグダレナはきびきびとした足どりで、主のもとへと戻って行く。
第二皇子エリアスが退席したことで、本来ここに列席できる立場ではなかったアルヴィーも、晴れてお役御免となった。警護のリーダー格の近衛騎士にそれとなく促され、そそくさと失礼する。正直、心が軽くなった。場違い感甚だしいところで、貴族のお歴々の見世物になりながら無表情を維持するのは、これで結構な負担だったのである。
(料理食えるわけじゃないから腹減ったしな。とりあえず本部で報告上げて、どっかで飯でも食おう)
そう思いながら騎士団本部に足を向けようと――。
「――君が噂に高いファルレアンの《擬竜騎士》だね。やっと話ができるよ」
その時行く手にいきなり現れた人影に、アルヴィーは思わず叫びそうになった。だが相手を確認し、ギリギリで思い止まる。
そこに立っていたのは、どう見ても先ほど退席した晩餐会の主賓だった。やんごとない大国の皇子が、お付きの人間も連れずに、一人。
(……うそだろ―――っ!?)
胸中で絶叫するアルヴィーに構わず、彼――エリアスは鷹揚に微笑んだ。
「ああ、畏まる必要はないよ。これは非公式だから。ここで何を話そうと、最終的には“なかったこと”さ」
そう言われても、さすがに棒立ちのままでいるわけにもいかない。せめて膝でもつこうと屈みかけたら、当のエリアスに手で制された。
「不要だよ。言ったでしょう? ここでのことは“なかったこと”。君にも忘れて貰わなきゃならない。良いね?」
「……はい」
もちろん良くはないが、何しろ相手は他国の皇子。頷くしかできない。
アルヴィーの返答に満足したように、エリアスは懐からごそごそと、何やら取り出した。
「実は、ユーリに頼まれてね。これを渡して欲しいって。もっとも、受け取るかどうかは君に任せるそうだけど」
彼が掌に乗せて差し出してきたのは、直径五セトメルほどの透明な珠だ。困惑するアルヴィーに、エリアスは小首を傾げる。
「僕もいきなり渡されたから、詳しい事情は知らないんだけど。ユーリは以前にこの国に来たことがあったし、君とも面識があるんでしょう? 何か約束でもしてたのかと」
「いえ、そんなことは……あ」
かぶりを振りかけて、ふと思い付いた。
(……もしかして、シュリヴと同じこと考えたのか、あいつも)
アルヴィーの裡にある炎の力。徐々に強くなっていくそれを少しでも抑えるための、水。
――だがそれは、今のアルヴィーの炎を抑えるには、間違いなく力不足だ。
シュリヴとマナンティアル、地の高位精霊と水竜が協力して施した術でさえ、アルヴィーの炎は焼き消してしまったのだから。
そしてアルマヴルカンによって植え込まれた血肉のせいで、それはさらに強まった。
……おそらくもう、自分は人間という存在の枠から、一歩はみ出してしまっている。
アルヴィーと火竜、熔け合おうとしている二者を分かち、その変容を止めることは、もう不可能なのだ。
「……多分それは、俺を気遣ってくれたものだと思います。――でも、もう」
そっとかぶりを振るアルヴィーに、それがもはや不要なものであると察したのだろう。エリアスは重ねて勧めようとはせず、それをまた仕舞い込んだ。
「分かった。ではこれは、こちらで納めさせて貰うよ。――そうそう、この話はこれで終わりだけど、君とはまた文のやり取りくらいはしたいものだね。じゃあ」
さらりと不穏なことを言い置いて、エリアスは身を翻して歩いて行く。その周囲に、どこからか護衛らしき人間たちが現れて付き従うのを見て、アルヴィーは大きく息をついた。いくら王城の中とはいえ、皇子などという身分の人間が一人で出歩かないで貰いたい。心臓に悪い。
(……って、そういや手紙書けって言ったか、あの皇子様? 勘弁してくれよ、俺にそんな上品な手紙なんか書けるわけないだろ……)
もし本当にそんなものを書く羽目になった日には、ルシエルかジェラルドに添削を頼もうと強く心に決めて、アルヴィーは騎士団本部への帰路を辿り始めた。
その報告が上官の頭痛の種を増やすなど、知る由もなく。
◇◇◇◇◇
人気のない山の頂付近、およそ植物の緑が見当たらない荒涼とした場所で、死霊術師ラドヴァン・ファーハルドはぶつくさとぼやきながら、やる気なさげに仕事をこなしていた。
「あの女帝陛下も無茶を言うものだ。いくらここが死に場所とはいえ、死んでから何年経ったと思っているんだ……」
山頂近くともなれば風も強く、艶のない金髪やローブが大きくはためく。それに辟易しながら、彼は右手の杖を地面に突き立て、低く詠唱を始めた。ともすれば風の音に吹き散らされそうなそれに惹かれるように、周囲から火の粉のようなかすかなきらめきが漂ってきて、彼が左手に掲げたランタンのような道具に吸い込まれていく。
少しずつ場所を変えながら同じことを数度繰り返し、ラドヴァンはため息をついた。もうこれ以上の収穫は望めまい。彼はこれ以上無駄な労力は使わず、さっさと帰還することにした。
転移用のマジックアイテムを使ってクレメティーラに戻ると、定位置である《薔薇宮》の一角、塔の地下に引きこもる。暗い部屋の中、持ち帰ったランタンだけが机の上でほのかに光を放っていた。
「――お帰りなさい、ラドヴァン。首尾はいかがでしたかしら」
と、そこへ帰還を見計らったかのように聞こえてきた、涼やかな声と足音。ラドヴァンは眉を寄せて、机の上のランタンを持ち上げる。
「これが限界だ。あまりにも時間が経ち過ぎていてな。――そもそも魂がほとんど世界に還ってしまっていることくらい、分かりきっていたことだろう。あの火竜の方が特殊なんだ。あの場所に残っていた分など、ほとんど残り滓に近い。それを掻き集めろなど……いくら俺でも、世界に溶けた魂など呼び出せはせんからな」
「ええ、それは承知しておりますわ。手に入っただけ幸運ですのね」
声の主――レティーシャはランタンに目を凝らして、その光に微笑みを浮かべる。
「では、これはしばらく預かっていてくださいな。わたくしの方でも準備を進めておりますから、それが整えば使わせていただきますわ」
「いいだろう」
ラドヴァンにランタンの管理を任せ、レティーシャは塔を後にした。吹き抜ける風と、それに乗ってかすかに聞こえる喧噪に目を細める。
「――我が君」
「あら、ダンテ。訓練は終わりましたの?」
「ええ、滞りなく」
主に一礼したダンテは、先ほどのレティーシャのように、風を受けて表情を緩めた。
「帝都にもそれなりに人が集まりましたね。――これでこの地にまた、地脈が通る」
その言葉に、レティーシャの唇が笑みを刻む。
大地の下を通り、世界中に張り巡らされた力の流れである地脈は、より力ある方に引き寄せられるという性質を持つ。それは活動する火山であったり、強大な幻獣や魔物の住処であったり――あるいは、人の集まる大都市であったり。
かつてはこのクレメティーラにも、大規模な地脈の流れがあった。だが、百年前の戦争で街ごと敵兵を吹き飛ばすために地脈を流用した結果、その流れが大きくねじ曲がり、クレメティーラからずいぶん離れてしまったのだ。
「ええ。さすがに百年前には及びませんけれど……それでも、そこそこに確たる流れになったはずですわ。これで、わたくしの研究もさらに捗ります」
「大規模な魔動機器を動かすにも、地脈があればずいぶん楽になりますしね」
「ええ。今は特に……」
レティーシャは足元に目をやった。地下の研究施設にあるものに、わずかの間思いを馳せる。
「……そちらはわたくしの領分ですわ。ダンテはこれまで通り、人造人間部隊の教練をお願い致します。彼らが我がクレメンタイン軍の中核となるのですもの」
「もちろんです、我が君」
ダンテは慇懃に一礼し、ふと思い付いたように呟いた。
「……ですが、人造人間の中でもアズーラとエスカラータは、むしろ別の運用をした方がよろしいかもしれません。例えば、魔動巨人部隊の指揮官のような」
「ああ……この間のような運用ということですわね?」
「エスカラータに指揮を執らせて、アズーラはその護衛兼遊撃という形でも良いかと」
「任せますわ。彼らの特性については、もうあなたの方が詳しいでしょう」
「恐縮です」
頷き、ダンテは再び街の方を見やる。
「百年前には未だ及びませんが……本当の、我が君の国ですね」
「ええ」
微笑んで、レティーシャは過ぎ去りし日々を思い出す。
絢爛たる栄華を謳歌する、在りし日の帝国。帝都には最先端の魔法技術が溢れ、当時の流行と技術の粋を凝らした美しい街並みが、見渡す限り広がっていた。
この《薔薇宮》もまた、帝国――否、世界の中心として、優れた政治家や研究者、あるいは着飾った王侯貴族が大勢行き交っていたものだ。
だが、そんな華やかだった帝都よりも、今のこの発展途上の帝都の方が、レティーシャにとっては何倍も素晴らしい場所に思える。
ここでなら、彼女は何物にも煩わされることなく、何もかもを自由に決められるのだから。
「わたくしの国。――何人たりともわたくしを妨げることのできない、本当のわたくしの国――」
噛み締めるような囁きを、彼女の騎士だけが聞き届ける。
その意味を理解できるのもまた、彼ただ一人だった。
「――では、我が君。僕はそろそろ、“例の工作”に取り掛かって参ります」
「ええ、お願いしますわ。あなたには色々と任せてしまっておりますわね」
「いえ。我が君はこの国の主、玉座にいらしていただかねば困りますので。では、御前失礼致します」
一礼し、ダンテはその場を後にする。それを見送り、レティーシャは街の方を少し眩しげに眺めやると、自らもその場を歩き去って行った。
◇◇◇◇◇
大陸北東部一帯を占めるリシュアーヌ王国――その王都フィエリーデでは、先の魔動巨人による襲撃の後始末に、官民問わず駆けずり回っていた。
「――しかし、よくぞその場に、《擬竜騎士》が居合わせてくれたものよ。もっとも、公にはできぬ話だがな」
国王マクシミリアン・エリク・ドゥ・リシュアーヌは、事の次第を思い返し深く息をつく。本来、リシュアーヌ王国の軍備――それも王都に駐留していた部隊だけでは、魔動巨人の一団を撃退することなどできなかった。別段リシュアーヌ軍が弱いわけではなく、どこの国の軍備であろうと同じことだろう。ごく一部の例外を除いて。
そして今回、その“例外”が奇跡的な偶然によって、フィエリーデに現れた。その奇跡がなければ、被害は桁違いに膨れ上がっていたに違いない。
何より、避難した王族、とりわけ王太子の嫡男たるセルジュの命が救われたことは、リシュアーヌにとって最大の幸運であった。
「ですが、あまりに都合が良過ぎる気が致しませぬか。“運良く”他国の高位元素魔法士たる《擬竜騎士》が居合わせたなど……もしやこれは、ファルレアンの差し金では」
大臣の一人が懐疑的な意見を述べたが、これは穿ち過ぎというものであった。アルヴィーがあの場に居合わせたのは正真正銘、純然たる偶然である。
もっとも、別大陸に飛ばされた挙句、帰還時に火竜の気紛れで転移陣の接続先を弄られた結果流れ着いた、などという経緯を推察しろというのは、常人にはいささかならず酷な話ではあったが。ことアルヴィーに関しては、与太話以上に与太話らしい事実というものが、実際に(しかも結構な頻度で)存在するのだから始末が悪い。
「それはあるまい。――あの魔動巨人の残骸を調査させたが、手足はともかく、中枢部は我が国の高名な魔動機器研究者でさえ、ほとんど解析できずにいるそうだ。何でも、既存の技術とは全く違う技術体系らしい。儂も門外漢ゆえ、詳しいことは分からぬがな」
「何と……では、あの魔動巨人は一体……」
「他国に放っておる諜報部隊からの報告によると、レクレウスでもほぼ同型と推定できる魔動巨人の襲来があったという。――そちらは、クレメンタイン帝国の関与が確実視されているという話だ」
同席していた王太子、クロード・フェルナン・ドゥ・リシュアーヌの言葉に、居並ぶ大臣たちが息を呑んだ。
「それでは……まさか、今回も」
「うむ。――叶うならば、《擬竜騎士》に話を聞きたかったものだが。おそらく何か知っておったであろう」
「では、外交ルートを通じて招致し、事情聴取を――」
「できぬであろうな。まず、ファルレアンが彼を外に出すはずがない。ただでさえこちらは、前回のポルトーア砦の件で、あちらに借りを作っておるのだ」
マクシミリアンは苦々しくため息をつく。ポルトーア砦がアンデッドに占拠された一件を、秘密裏に《擬竜騎士》に片付けて貰ったことは、ファルレアンに対する大きな借りを作ったことになった。いずれ、何らかの形で返すことになるだろう。
「――それに、今回の件について、ファルレアンからは何も申し立てて来ないのだ。我が国に貸しを積み増せる、絶好の機会だというのにな」
クロードが肩を竦める。今回の襲撃は、国として見れば、前回のポルトーア砦の件など比較にならないレベルの大事件だった。ポルトーア砦は国境付近の一城砦に過ぎないが、今回は王都を直接襲撃され、一時は王家の直系男子たるセルジュも危なかったのだ。《擬竜騎士》の介入がなければ、有形無形を引っくるめた損害はむしろ、今回の方が遥かに大きくなったはずである。
しかし、そんな危地を救ったにも関わらず、《擬竜騎士》――ひいてはその背後にいるファルレアン王国は、リシュアーヌに対してこれまで何の反応も寄越してこない。
まるで“何もなかった”かのように。
「……《擬竜騎士》が我が国にいたことが知れるとまずい、ということであろうかな」
「事情はどうあれ、事前通告もなしに我が国に入国し、戦闘行動を行ったのは事実です。そこをつつかれたくないのかもしれません」
「ふむ。――であれば、こちらとしても下手なことは言えぬな。聞けば、セルジュにも口止めをして行ったようだ……あまり上手い口止めではなかったようだが」
マクシミリアンは孫から聞いた話を思い出し、わずかに微笑む。あんな幼い子に“極秘任務”などと言えば、逆に興味を引いてしまうであろうに。彼は元々一介の村人だったという話だが、なるほどまだまだ純朴な人柄のようだ。
しかし、重要なのは《擬竜騎士》の人柄ではなく、ファルレアンの思惑である。為政者として、そこは確かめておかねばならない。
しばし黙考し、マクシミリアンはおもむろに口を開いた。
「――《君主会議》を呼び掛けてみるかの」
その言葉に、議場にどよめきが起きた。
「《大陸君主会議》でございますか……前回はもう三十年以上前になると聞き及びますが」
「父……いえ、陛下。《大陸君主会議》とは、複数国で協力して当たらねばならないほどの大災害や戦争が起きた時に、大陸のいずれかの国の王の呼び掛けでのみ開催されるという、あの会議のことですか」
ここが公式の場ということを危うく忘れかけ、急いで言い直したクロードが問う。《大陸君主会議》とは、それほどに開催事例が少なく、そしてその決定が大きな重みを持つことで、各国王室では一種の伝説となっていた。
「その通り。今回は、呼び掛けるに足る理由もある」
「……《クレメンタイン帝国》……ですか」
「うむ。伝え聞く話では、かの国が各国と戦争を起こした百年前にも、会議は開かれたそうだが……かの国の再興宣言以来、大陸にある国のほとんどに、何らかの異変が起こっておる。ポーションの件も加えるならば、影響を受けておらぬ国などなかろう。これは立派に、会議開催の呼び掛けを行う理由になろうかと思うが」
「それは、仰る通りですが」
《大陸君主会議》は、軍でも使う長距離通信用のマジックアイテムを応用した、特別製のアイテムを使って行う。国のトップたる王が、そうそう国を離れるわけにもいかないからだ。そのために、各国王室には長距離通信の術式が込められた巨大な水晶が代々受け継がれている。
何しろ大陸は広い。仮にどこかに集まって会議など開こうとすれば、どれほどの随員・物資・費用が必要になることか。かつては呼び掛けた国が開催国となってそこに集まっていたそうだが、会議用のマジックアイテムが開発されて以来、その手間や出費は劇的に減ったという。それを開発したのは在りし日のクレメンタイン帝国だったそうだが、今回の議題がそのクレメンタイン帝国だというのは歴史の皮肉といえるかもしれない。
「し、しかし何も、今この時になさらずとも……! アイテムのおかげで直に足をお運びにならずに済むとはいえ、準備のために国に相当の負担が掛かることには変わりありませんぞ!」
焦ったように諫めたのは、先ほど懐疑的な意見を述べたあの大臣だ。マクシミリアンが呆れたような表情になった。
「儂とてそのくらいは心得ておる。何も今すぐにとは言うておらぬであろう。《大陸君主会議》となれば、最低でも準備に半年は掛かろう。だが、早めに通告をしておけば、その分準備も早く始められるというもの」
アイテムのおかげで格段に便利になった《大陸君主会議》だが、大陸内の各国を繋ぐ大規模な通信網を、一時的とはいえ構築するのだ。消費する魔力は莫大なものとなる。充分といえる量までそれを蓄積するには、マクシミリアンの言う通り、最低でも半年は掛かるのが常識だった。その分、他に回せるはずだった魔力がそちらに取られ、少なからず復興に影響するだろう。だが、それを推してでもクレメンタイン帝国の脅威を各国で共有しなければならない。
「そ、それはその通りでございますが――」
論破されて冷や汗を拭う大臣にはもはや構わず、マクシミリアンは臣下たちに指示を出す。
「急ぎ大陸各国に通達をせよ。――おそらく、ファルレアンとレクレウス、それにヴィペルラートはほぼ確実に応じよう」
《大陸君主会議》とはいっても、別に大陸にある国の君主すべてが参加しなければならないわけではない。最低限、議題に関係する国が参加すれば、その議決は効力を発揮した。前回の議題は複数国に跨る海賊被害についてだったが、参加したのは大陸東部から南部に領土を有するソルナート王国、ファルレアン王国、レクレウス王国、リシュアーヌ王国の四ヶ国に留まった。これは、海賊の本拠地がソルナート王国内の群島にあり、この四ヶ国の領海が彼らの勢力圏の限界だったからである。
現在、“クレメンタイン帝国”の干渉を受けている国は、リシュアーヌ王国上層部の知る限り、自国を含めた四ヶ国。《大陸君主会議》は、議決次第では“対クレメンタイン帝国同盟締結”に近い意味合いを持つことになるだろう。
(……後は、大陸両端の二国がどう出るかだが。あの二国は百年前の大戦の折にも、参戦しておらぬからな。まあ、それを言うならファルレアンもだが)
百年前のクレメンタイン帝国との戦争に参戦したのは、国境を接するリシュアーヌ、レクレウス、ヴィペルラートの三ヶ国と帝国内の反帝国貴族だった。直前の王位継承争いの痛手が抜けず、また地理的に反帝国貴族領と《神樹の森》という“盾”があったファルレアン、そして大陸の両端という立地ゆえにクレメンタイン帝国との間に国境を持たなかったソルナート王国とアルシェント王国は、それぞれの理由で参戦せず、情勢を注視するに留めていたのだ。
だが今回、ファルレアンは帝国の干渉を受けている以上、会議の呼び掛けは受けるだろう。問題は残る二国だ。この二国は今まで、ポーションの減産以外に表立った帝国からの干渉を受けていない。百年前の戦争にも参加していないこの二国は、今回の件を“他人事”と捉えている可能性もあった。
(クレメンタイン帝国にとっても関わる必要のない国……であれば良いがな)
それでも念を入れ、マクシミリアンは二国に対する諜報活動の強化を命じる。
リシュアーヌ王国から大陸各国へ《大陸君主会議》開催の呼び掛けが行われたのは、その一ヶ月後のことだった。
◇◇◇◇◇
「――ええい、ワインを持てと申したであろう! 妾の命が聞けぬのか!」
「お、王太后陛下、恐れながら申し上げます。それ以上お酒を召されましては、お身体に毒でございます……!」
「うるさい! 早う妾の言う通りにせよ!」
レクレウス王国王都、レクレガンの中枢である王城――その奥の宮、王が妃を迎えれば後宮となる城館では、一人の貴婦人が扇を握り締め荒れ狂っていた。彼女はディアドーラ・エイダ・レクレウス。前王たる故ライネリオ一世、そして現国王レイモンド一世の生母である。レイモンドが未だ妃を娶っていない今、彼女は引き続いてこの城館の主だった。
だがそんな高貴な身分にも関わらず、その居室は酷い有様だ。最高級の絨毯には点々とワインの染みが付き、繊細なレースで飾られたベッドの天蓋や窓のカーテンは、引き千切られて無残な姿を晒していた。身に着けたドレスも皺が目立ち、国でもほぼ最高位の貴婦人が纏うものとも思えない。
ディアドーラは凄絶な目付きで、ボロボロのカーテンが中途半端に遮る窓の向こう――王城を睨む。本来、彼女の息子の権力の象徴であったはずのそこは、今や貴族議会に属する貴族たちが大手を振って闊歩する場所になり果てた。
(口惜しや……! 元は妾や子らの顔を直視することすら許されなんだ、身分低き者どもであったというに!)
男爵や子爵といった下級貴族にとって、王族の顔を間近で直接目にすることは重大な不敬に当たった。王城でも立ち入れる場所が制限されていたほどだ。だが貴族議会の発足に際し、少なくとも議会に属する下級貴族に対しての制限は撤廃された。そうしないと議会そのものが開けないからだ。そして、彼らが不敬を犯さないためにと、国王であるレイモンド以外の王族は、半ば強引にここに押し込められた。
ディアドーラは息子たちという両翼をもぎ取られ、この城館に閉じ込められた籠の鳥なのだ。
彼女は故ライネリオが文字通り変わり果てた姿となって死亡したのを境に、生前幽閉されていた彼に倣うかのごとく、ワインを呷り侍女たちに当たり散らす日々を送っていた。唯一の慰めは王位を継いだレイモンドの訪問だが、それも間を置かれることが増えている。それが余計に、ディアドーラを苛立たせていた。
「お、お待たせ致しました、王太后陛下……きゃあっ」
「遅い!」
杯を捧げ持った侍女の顔を扇で張り飛ばし、ディアドーラはワインを飲み干す。その杯も侍女に投げつけ、
「不快じゃ。失せよ!」
ワインの雫で顔を汚された侍女は、唇を噛み締めながら一礼して退出して行く。その場に残された侍女たちの、抑えきれない非難の滲む視線を気にも留めず、ディアドーラは声を張り上げた。
「レイモンドは! あの子はまだ顔を見せぬのかえ!」
「……恐れながら、まだ先触れ等の連絡もございません」
「なぜじゃ! 母である妾が、こうして訪いを待っておるというのに!」
「陛下におかれましては、君主としてのお務めに邁進なさっているゆえ、こちらに足をお運びになるお時間もなかなかお取りになれないと、お伺いしております……」
「ええい、侍女風情が知った風な口を利くでない!」
またしても扇が、侍女の顔に叩き付けられた。思わず悲鳴をあげて倒れ込む侍女を、ヒステリックに怒鳴りつける。
「身の程もわきまえぬ無礼者が! 不愉快じゃ、今後一歩たりとも、この部屋への出入りは許さぬ! 即刻失せよ!」
女主人の理不尽な怒りをぶつけられ、侍女は何とか礼節を保ちながら、急いで王太后の寝所を後にした。
「――やっていられないわ、こんなお役目。追い出されてかえって好都合だわ」
「酷いわよね、わたくしたちだって相応の家格のある家の娘よ? こんな顔じゃ、当分外にも出られないわ……」
暴力を振るわれ追い出された侍女たちは、王太后の寝所から少し離れた中庭で、腫れた頬を冷やしながら声を潜めて不満を漏らし合う。酷くなる一方の王太后ディアドーラの荒れように、侍女たちの間では鬱憤が豪雪のごとく降り積もり、その内雪崩でも起こしそうだ。辛うじてそれを防いでいるのは、名家の娘であるという彼女たち自身の矜持だった。
「大体、お母上があんな風だから、陛下も足が遠のかれるのよ」
「同感ね。顔を出すたびに愚痴や恨み言を金切り声でまくし立てる母親なんて、わたくしだって嫌だわ」
「そもそも、王家にはもう大した権力も残ってないじゃない。今やこの国を動かしているのは貴族議会だものね」
「しっ!――その通りだけど、あまり大声で言うのはまずいわよ」
「王宮の人間なら、とうに誰だって知っていることじゃない。王太后陛下が現実を見ておられないだけだわ。あーあ、少し前までは後宮の侍女なんて花形だったけど、今じゃとんだ貧乏くじね。いっそお暇乞いして、どこかに嫁入りした方が良いかも」
「そうね……わたくしたちの家柄なら、それなりのところとご縁が結べるはずだし、悪くないかも。王太后陛下付きの侍女なんて、もう沈みかけた泥舟みたいな役職ですもの。さっさと下りた方が利口かもしれないわ」
忠誠心など欠片もなく、そんな内緒話をしている彼女たちに、その時声がかけられた。
「――失礼。こちらは、王太后陛下のお庭でよろしかったでしょうか?」
侍女たちの肩が、面白いように跳ね上がった。
「は、はい!――失礼ですが、近衛兵の方ですの?」
「ええ。まだ配属されて日が浅いもので、特に奥の宮のような限られた方しか入れないような場所には、どうにも明るくなくて……」
困ったように微笑む青年は、確かに近衛兵の制服を纏っていた。配属されて日が浅いというだけあって、見慣れない顔だ。だが美男子には違いなく、侍女たちは顔の腫れも忘れて頬を赤らめた。
「そ、それで、どのようなご用でしょう?」
「実は、陛下にお仕えしている近衛の者から、これを王太后陛下のお庭にお持ちするようにと……何でも、陛下が直々に、王太后陛下にこの薔薇をお贈りするよう、お命じになったそうです」
青年が大切そうに抱えるのは、蕾を付けた薔薇の鉢だった。薔薇の鉢を運ぶなどという雑事は、本来近衛兵の仕事ではないが、ここには相応に身分のある者でなければ入れない。それに、蕾の時分でさえ、えもいわれぬ芳香を漂わせる薔薇だ。蕾の色合いといい、花開けばさぞ見事なものとなるに違いなかった。国王がわざわざ届けさせたものなら、よほどに貴重な薔薇なのだろう。近衛兵が手ずから運ぶのも無理はないかもしれないと、侍女たちは納得した。
「まあ……この香りの素晴らしいこと! さぞかし見事な花が咲くのでしょうね」
「ええ、それはもう美しいものだそうです。それで是非、王太后陛下のお庭に、と。ちょうど薔薇園もありますし」
「この薔薇でしたら確かに、この庭の薔薇園に加えるに相応しいですわね」
うっとりと、侍女たちは目を細める。青年は鉢を庭の片隅に置いた。
「では、これは後ほど庭師が移植致しますので、ひとまずここに仮置きさせていただきます」
「ええ、根付くのが楽しみですわ」
「それでは、これで失礼致します。――ああ、忘れるところでした。陛下からのお言い付けですが、薔薇が咲くまでこのことは王太后陛下にご内密にと。どうやら、お母君を驚かせたいご様子です。できれば、他の侍女の方々にもご内密に願います。どこから話が漏れるか分かりませんので」
「まあ」
侍女たちは少し驚いたが、レイモンドの年齢を考えれば、そういうこともあるかもしれないと納得した。
「承知致しましたわ」
「ありがとうございます。それでは」
微笑みを残し、青年はきびきびと立ち去って行く。それを見送り、侍女たちはほう、とため息を漏らした。
「素敵な方だったわね……どのお家のご令息かしら」
「近衛に抜擢されたのですもの、優秀な方よね。――それにしてもあの瞳、まるで本物のエメラルドみたい!」
夢見るような眼差しでうっとりと、先ほどの邂逅を思い起こしていた彼女たちだったが、幸福な時間はそう長くは続かなかった。彼女たちを呼ぶ声に、またあの憂鬱な職場に戻らなくてはならないと悟って、二人はうんざりした表情になる。
「……行きましょうか」
「そうね……」
気乗りはしないが、まさかさぼるわけにもいかず、彼女たちは品を失わない程度の急ぎ足で歩き始める。
――なので、知る由もなかった。
「……やれやれ、王太后付きの侍女があんな内緒話をしているようじゃ、王家も先がないかな」
近衛兵の制服を纏ったエメラルドの瞳の青年――ダンテ・ケイヒルは、呟いてふいと人気のない建物の陰へと入る。後宮にほとんど閉じこもっている(そして職務にあまり熱心でない)侍女は制服で誤魔化せるが、さすがに本物の近衛兵に出くわせばまずい。
彼はレティーシャの意を受け、各国に工作のため潜入していた。まずはレクレウスだ。諍いの種を蒔くのに、まず“地盤の緩い”場所から攻めるのは常識であろう。
(レクレウスは表向き、貴族議会が上手く舵取りをしてるように見えるけど、甘い汁の味を忘れられない連中が、未だに地の底にはびこってるからな。まったく、しつこいことだ)
侮蔑の光を翠緑の双眸に浮かべ、ダンテは転移用のアイテムを取り出す。この任務に際して、彼は城下にささやかな拠点を用意していた。未だ復興に忙しい王都レクレガンは、労働者や物資を大量に必要としており、人の出入りのチェックがやや緩んでいる。それに乗じて拠点を一つ構えることは容易かった。
(三公国を麻痺させた薔薇の改良版も、無事に後宮に運び込めたし……王太后を操り人形にするのはあれで充分だ。後は旧強硬派の残党をいくらかそそのかして、騒ぎでも起こさせるか。貴族議会に噛み付いてくれれば言うことなしなんだが)
貴公子然とした容貌の下で、なかなか悪辣なことを考えながら、ダンテはアイテムを起動させる。その姿はすぐに光に呑まれ、幻のように消え去った。




