第130話 異変
大分間が開きましたが続きです。
エタとは違うのだよ、エタとは……!orz
「――うわあああああ!?」
中天に響く絶叫と飛竜の咆哮。力強く翼を広げた影が空を横切り――ついでに、その翼の下にぶら下がった影も景気良く揺れる。
命綱で何とか飛竜の背からの転落を免れたアルヴィーは、間抜けにぶら下がったままため息をついた。
「……結構難しいんだな、飛竜の騎乗って……」
「おーおー、こりゃまた見事に振り落とされたな!」
からからと笑いながらもう一頭の飛竜を巧みに操って寄って来たのは、指導役のライノだ。飛竜科中隊の長が騎乗の教官役とは何とも豪勢な話だが、アルヴィーを一介の騎士ではなく貴族として見るならば、さほど無理な配役でもなかった。
ライノの操る飛竜は、風に乗って滑るように宙を横切り、アルヴィーの飛竜の斜め上にピタリと位置を占める。さすがの練度というべきか、騎手と飛竜がまるで一体となったような動きだ。
(……まあ、年季が違うよなあ……)
こちとらつい先ほど訓練を始めたばかりの、頭にドが付く初心者である。そう自身を慰めて、アルヴィーは命綱をするするとよじ登り、鞍を掴むと右腕一本で身体を持ち上げて飛竜の背に帰還を果たした。魔法障壁の足場が使えればもっと楽だが、あれは位置座標を固定しなければならず、現在進行形で移動している飛竜に乗るにはかえって使い勝手が悪い。
ぐるる、と低く唸った、自身の乗騎となる飛竜の首筋を、アルヴィーは軽く叩く。
「ま、俺らは俺らで地道にやろうぜ」
「ガウ」
しょうがないな、と言わんばかりに一声吠え、飛竜は今一度力強く翼を羽ばたかせる。ぐんと持ち上げられるような感覚に、アルヴィーは思わず手綱を握り締めた。
「うお……! たった一回羽ばたいただけでこんなに上がんのかよ」
眼下にはまるで箱庭のような《雪華城》。アルヴィーは与り知らぬことだったが、通常、騎乗訓練でこれほどの高度まで上がることはまずない。これは飛竜のちょっとした悪戯だった。自分を正面から力で圧倒した以上、この“人間”を騎手として認めないわけではないが、今まで人間を拒み続けた矜持もまだ、飛竜の中には残っている。ライノが操る飛竜のように騎手に従順になるには、今しばらく時間が掛かりそうだった。
騎手としてはまだまだ未熟だが、それでも自分で空を飛べるアルヴィーは、高所で恐怖に身が竦むなどという初心者にありがちな悩みとは無縁だ。そもそも吞気に恐怖など覚えていたらその間に死ぬような状況の時ばかりだったが。ともかくそのおかげで、地上を悠然と眺める余裕があった彼は、ふと《雪華城》に向かって進む一団に気付いた。
「……何だ?」
目を凝らせばそれは、豪奢な馬車を守るように取り囲む兵士たちだ。彼らもまた、実戦のそれではないきらびやかな装備を纏っているところを見ると、示威を兼ねた護衛というところだろう。
もっともそれは、人間を遥かに超越したアルヴィーの視力だからこそ見て取れたもので、常人の目には砂粒程度の点にしか見えない。
「どうした?」
「いや、あっちからやたらきらきらしい行列っぽいのが……」
尋ねてきたライノにそう答えると、彼はあっと何かに思い当たったような顔になった。
「ああ、そういや聞いたな。何でもヴィペルラートの皇子が留学でこっちに来るとかって話だったが」
「ヴィペルラート? ユーリんとこか」
かつて一度だけ顔を合わせた、水の高位元素魔法士を思い出しながら、アルヴィーは改めて、徐々に近付いてくる一団を眺めやった。
「ま、お近付きになるのはせいぜい高位の貴族様くらいだ。俺たちみたいな現場の騎士にとっちゃ、雲の上の存在ってなもんだぜ」
「それもそうだな。――よし、続きやろうぜ」
ライノのもっともな言葉に納得して視線を外すと、アルヴィーは覚えたばかりの合図を飛竜に送り、再び騎乗訓練に戻ったのだ……が。
「――ヴィペルラート帝国の第二皇子殿下が、ファルレアンに“留学”のためおいでになったことは知ってるな? そこで歓迎の晩餐会が開かれるんだが、それに《擬竜騎士》も護衛を兼ねて出席せよと、上層部からの仰せだ」
騎乗訓練を終えてジェラルドの執務室に顔を出し、訓練経過を報告した後に告げられた衝撃の事態に、アルヴィーはきょとんと目を瞬かせた。
「ばんさんかい」
「晩餐会だ」
明らかに理解していない――したくないのかもしれないが――イントネーションでおうむ返しするアルヴィーに、ジェラルドはしかつめらしく頷き返す。
「何しろ、継承権持ちの第二皇子殿下だからな。迎える方もそれなりに歓待しなきゃならんだろう」
「いや、でもそういうのって貴族が出るもんじゃ」
「おまえも貴族だろうが」
「……あ」
今の今まで新米騎士同様にしごかれていたのでうっかり忘れていたが、そういえばアルヴィー自身もれっきとした爵位持ちの貴族だった。――普通そういうことはうっかり忘れないものだが、まあアルヴィーだから仕方ないかと、もはや悟りの境地に至ったジェラルドである。
「……けど、いくら何でも急過ぎね? 支度だってあるし」
「おまえは騎士団所属だし、今回は“護衛も兼ねる”だからな。あくまで《擬竜騎士》として出席する。つまり騎士団の制服が正装だ。まあ、勲章くらいは着けた方が格好は付くが」
「あ、なるほど」
「そもそも晩餐会にも格式ってもんがあるからな。本来、他国の王族が出席するような晩餐会や夜会は、伯爵家以上の高位貴族の当主からでないと顔を出せん。護衛も貴族出身の近衛騎士団が担当するのが普通だ。――だが、今回ばかりはな」
「……何かまずいの?」
「第二皇子殿下のご要望だ」
「うわあ」
アルヴィーはげんなりした表情になった。
「……そういや、前にヴィペルラートから俺関係で手紙か何か来てたっけ」
「よく覚えてたな」
「……今なんか、堂々と馬鹿にされたような気がする」
「気のせいだ」
しれっと流し、ジェラルドは言葉を継ぐ。
「とにかく、向こうはどうやら相当に《擬竜騎士》と接触を図りたいようでな。さすがにヴィペルラートの第二皇子殿下のご要望ともなると無下にもできん。上層部も今回ほど、おまえを叙爵しといて良かったと思ったことはないだろうよ。栄誉爵の男爵位とはいえ、貴族は貴族だ。護衛を兼ねての騎士団員としての参加なら、何とか押し込むことができる。平民のままじゃどう足掻いても無理だったからな。何しろ昔からの不文律ってもんがある」
「貴族社会ってめんどいんだな……」
「まったくもって同感だが、そういうもんだと思うしかない。それがこの国のやり方だし、実際それで三百年、何とか上手くやってきた」
ジェラルドは肩を竦め、姿勢を崩して足を組む。
「そもそも、ファルレアンは貴族の家門の数を制限してる。なぜだか分かるか?」
「んー……増えたらまずいの?」
「まあ、端的に言えばそうだな。だが、“人”が増える分には大して支障はない。ファルレアンが管理してるのはあくまでも“家門”の数だ。貴族年金も家門ごとに出るからな。一つの家門の中でいくら人が増えようが、支給される貴族年金は変わらん。その範囲内で面倒を見ろというだけの話だ。家を継げない人間は領内で捨て扶持でも貰って暮らすなり、自力で身を立てるなりすれば良い。実際、他家に文官として勤める下級貴族出身者は結構いるぞ。カルヴァート家もそういう人間を何人か雇ってる。代官にして領地の面倒を見させるにはちょうど良いからな」
「……あ、そういやルシィんとこも」
以前に聞いた話を思い出す。当主たる父ジュリアスは王都で副大臣職、嫡出の異母兄二人は当てにならず、ルシエルも騎士団に奉職中で領地はどうしているのかと不思議に思っていたら、代官を立てていると聞いたことがあったのだ。
下級貴族といえども、貴族の家に生まれたからには並以上の教育を受けられる。ファルレアンでは嫡子一括相続が原則のため、家を継ぐ嫡子以外は何も受け継ぐものがないが、受けた教育を武器に国や他の貴族の家で文官として働く例は多い。特に、女性のように他家に嫁ぐという選択肢がほぼない男性は、その傾向が強かった。まあ、娘しかいない貴族家に婿入りできるという幸運もなくはないが。
ちなみに、いわゆる文官貴族と呼ばれる、閣僚級の貴族の秘書官として勤務する高級文官たちは、実は一代限りの男爵位しか与えられない。あくまで“閣僚の秘書官が最低限の爵位も無しでは体裁が悪い”という慣習の賜物に過ぎないのだ。つまり、職を退くなどして役目を終えれば、その瞬間に爵位も失うこととなる。だがそれにも抜け道はあるもので、自分の息子に早くから仕事を覚えさせ、主たる閣僚にも話を通して、自分が退職してもその後釜に息子を取り立てて貰うというケースがままあった。取り立てる側としても、まったく新しい秘書官が仕事を覚えるのを待つよりは、多少なりとも馴染みのある先代秘書官の息子を使う方がやりやすいということもあり、世襲でもないのに世襲のごとく秘書官の地位と爵位を受け継ぐ家も少なくない。
「じゃあ、俺みたいなのって珍しいんだ」
「自覚があるようで何よりだ。ファルレアン三百年の歴史の中でも、家門が増えるってのはおまえも含めて二十家にも届かんからな。まあ、断絶した家もそれなりにあるから、差し引きだとそう増えたわけでもないが。――それにおまえの場合は、新しく家を興させてでも、国に繋ぎ留めた方が利が大きい。もっとも、何代かすればどこかの貴族の家に取り込まれるかもしれんがな」
「取り込まれる?」
「五百年に渡り火竜の加護を得た血筋だぞ? おまえが結婚して子供ができれば、男だろうが女だろうが引く手数多だ。というかすでに、おまえに娘を宛がおうって貴族が掃いて捨てるほどいそうだが」
「うそだろ!!」
アルヴィーは震え上がった。なにそれ怖い。
「それってあれじゃん、政略結婚ってやつじゃん!」
「当たり前だ、貴族の当主が恋愛結婚なんかできると思ってんのか。そんな夢想は今すぐ捨てろ。クローネルだってそうだろうが」
「ルシィんとこは相手も良い子そうだし、お互いにいい感じじゃん! ていうか俺、貴族のお嬢様と結婚なんか無理! 金銭感覚とか絶対合わねえ!」
「大丈夫だ、外面は華やかでも台所は火の車って家は意外とあるからな。そういう家のご令嬢はそれなりに倹約家だぞ?」
「どこが大丈夫なんだかさっぱり分かんねえんだけど!」
むしろ家を乗っ取られそうだ。いや、デキる執事がいれば大丈夫かもしれないが。
まあ、そもそもが成り上がり甚だしい新興貴族なのだから、いっそ乗っ取られて切り盛りを任せてしまえば楽なのかもしれない――などとちらりと考えてしまう辺り、やはりまだまだ平民気質が抜けないアルヴィーである。
とりあえず怖い未来予想図は努めて頭から放り捨て、話を軌道修正することにした。
「んでさ、話戻すけど。何で貴族が増えたらまずいの?」
「貴族というか、貴族の家門だがな。野放図に増やし過ぎると、国庫と平民への負担が増える。考えてもみろ、貴族の家門が増えたからって、国土が広がるわけじゃないからな。領地を与えるには既存の領地を細分化するしかない。そうなると、一つの家が治める領民の数が減る。当然税収も減るってことになるが――それはつまり、領主の収入も減るってことになるだろう?」
「あ、そっか……自分の収入を増やすには、増税するしかないのか」
「そうなるな。まあ、無茶な増税をさせないために王国法にその類の規定もあるが……一番手っ取り早いのは、家門の数を抑えることだ。嫡子一括相続なのもそのためだぞ。下手に分割相続を認めてあちこちに分家を興されたら厄介だからな」
「平民への負担はそれで分かったけど、じゃあ国庫への負担ってのは?」
「そっちはもっと単純だ。おまえもそうだが、領地を持たない栄誉爵や文官貴族は、国庫から貴族年金が支給される。家門が増えたらその額も増えるだろうが」
「……え、と。俺も栄誉爵なんだけど、じゃあそれも込みで結構国庫圧迫してるんじゃ……?」
「とはいえ、おまえの場合は《魔の大森林》の大暴走やら《下位竜》の献上やらで、国庫には大分貢献してるからな。男爵位の年金の額はさほどでもないし、むしろまだまだ国庫に貸しがある状態だと思うが。威張って良いところだぞ」
「あ、そうなのか。何か安心した……」
国庫に負担を掛けているわけではないと分かって、ほっと胸を撫で下ろす。そもそも栄誉爵というのは、家門が続く限り貴族年金を支給されても良いだけの功績を挙げたと認められて初めて賜るものなので、叙爵された時点で国にそれ相応の貢献をしている――つまり以降の貴族年金はそれに対する“報酬”ということなのだが、その辺りをまだよく分かっていないアルヴィーだった。なまじ猟師として自分の腕で稼いでいた経験があるため、“貴族である”というだけで年金が貰える、という状態に馴染みがないのだ。むしろ騎士団の仕事のように“働いた”と自覚できる方が明快で分かりやすい。
明らかに庶民感覚が抜けていないアルヴィーを、ジェラルドは呆れたように見やった。
「領地なしの栄誉爵とはいえ、おまえももう一家門の当主だろうが。いつまでも平民感覚でどうする」
「むしろ叙爵されたことが、俺の人生にとって一番の想定外だよ……」
「まあ、平民から叙爵されるってのは確かにあんまり例がないがな。大抵はアークランド辺境伯みたいに、“貴族ではあるが爵位はない”者が手柄を挙げた見返り、って形が多いんだが」
「けど、あっちのが凄いよな。いきなり辺境伯だなんて」
「確かに家格は高いが、向こうは領地付きだからな。栄誉爵とは違って、全部国庫掛かりってわけじゃない。街道から離れてて旨味が少ない土地とはいえ、税収はあるからな。しかも前の辺境伯の“中抜き”を潰した分税収も増えた。当然、国に上がる分もだな。外から見る分には、先代の悪事を摘発した美人の女性騎士が、戦場でも一応納得できる手柄を立てた上でそのまま後釜に納まる。領民にも受けが良い――ま、そういうことさ」
「……なんか一気に生っぽくなったな」
「国にも利益がなきゃ、貴族の家門なんて増えねえぞ? アークランド辺境伯は元は公爵家の出身で、一段階半下ならまあ分家としてはギリギリ“有り”だ。そもそもギズレ家が断絶したから、家門が一つ減ったしな。そこへ一家門押し込んだところで、差し引きは変わらん。というかむしろ、《女王派》にとっては益がある」
「……アークランド辺境伯――っていうかその実家も《女王派》?」
「おまえも“政治”の話ができるようになってきたか?」
ジェラルドが面白そうににやりとする。だがまあ、アルヴィーは今や宮廷の権力闘争の“渦の目”だ。片っ端から巻き込まれまくっていれば、知恵もついてこよう。
しかし当のアルヴィーは、げんなりした表情のままだった。
「何ていうか、要するに陣取りみたいなもんだろ、これ。村の子供もやってたぞ」
「そうだな、端的に言えばその通りだ。子供でも知ってる遊びだが、それを領地や国のレベルでやれば、それはもう“政治”になるんだよ。数が馬鹿にできない力になるのがこの世界だ。――まあ、例外ってもんもあるんだが」
まさにその“例外”を目の前に、ジェラルドは肩を竦める。その言わんとするところを察して、アルヴィーは顔をしかめた。
そもそもアルヴィーは、単騎で多数の敵を相手取る――どころか蹂躙することを期して生み出された生体兵器だ。それが何の因果か、こうして騎士となり爵位まで得て、生粋の貴族であるジェラルドと“政治”について話している。波乱に満ちるにも程がある自身の半生を思い返して、深々とため息をついた。
(……ほんとは柄じゃないんだよなあ、こういうの)
“政治”という実体の掴み難いものを論ずるより、直に剣を振るう方が遥かに性に合う。貴族は一種の政治家だが、アルヴィーはまだまだそうなれそうもなかった。
――ともかくも晩餐会への強制参加という嬉しくもないオマケと共に、アルヴィーは報告を終えて退室した。まあ、《擬竜騎士》としての参加なので服に気を使う必要がないのは有難い。もっとも、警備の大半を占めるであろう近衛騎士団の制服は白を基調としているので、それはそれで周囲から浮きそうだが。
そんなことを想像して今からげんなりしながら、アルヴィーは帰路に着くのだった。
◇◇◇◇◇
遠くに白く輝く城を認め、ヴィペルラート帝国第二皇子エリアス・フロル・ヴィペルラートは、豪奢な居室の中で小さく息をついた。
(いよいよファルレアンの中枢か……さて、どれだけ女王陛下にお近付きになれるやら)
表向きは留学だが、その間に女王アレクサンドラの知遇を得、できることなら婚約者――そしてゆくゆくは王配の座を射止めることが、エリアスに期待される役割だ。幸いにも、彼にはヴィペルラート帝国第二皇子という身分がある。彼女と顔を合わせる機会は、座して待っていても巡ってくるだろう。
だが、待っているだけでは早々に婚約者レースから脱落するであろうことも、彼は重々承知していた。
(確かファルレアンの貴族は、女王寄りの派閥とそうでない派閥に分かれてたはずだ。反女王の派閥は今のところ日陰に追いやられてるみたいだけど、いつまでもそれに甘んじているとも思えないし……表舞台に返り咲いて権力を掴むためなら、猫を被って王配の座を狙うくらい、やるだろうなあ)
というか、それくらいのことができなくては権力闘争の中で生き残ることなどできはしない。
(……まあ、それだけの根性がある奴を見極めるのも、僕の役目だ)
エリアスは密やかに、獲物を狙う狼の目付きで笑う。
ヴィペルラート皇室に生まれた皇子として、彼自身もまた、権謀と無縁とはいえない幼少期を過ごしてきた。熾烈な後継者争いが繰り広げられた当時、彼はまだ一桁の年齢の子供だったが、年嵩の兄皇子たちの争いを対岸の火事とのんびり眺めているばかりではいられないことを、彼を含めた年少の皇子たちも薄々は感じ取っていたのである。何しろ、争いの渦中には彼らの同母兄や父親も含まれていたのだから。兄や父の失脚は、しばしばその子弟たちの危機をも意味するのだ。
だからそういった意味では、弟たちに累が及ばぬ内に兄たちの争いが――ほぼ相討ちのような形とはいえ――沈静化したのは、少なくともエリアスたち年少の皇子たちには幸運だった。
もっともそのせいで、当時の皇帝の後を任せられる皇子がいなくなってしまったのだが、早々に玉座に見切りを付けて出奔していた兄がいたことでそれも解決した。ロドルフ当人にとってはいささか不本意な即位だったようだが、帝国臣民のために今しばらくは辛抱して貰いたいものである。少なくとも、現在の皇太子であるテオドールに、次代の皇帝に相応しい力量が備わるまでは。
(ロドルフ兄上は帝位に執着がないからなあ……自分は繋ぎだって公言して憚らないし)
彼が皇帝として即位したのは、自分を含めた年少の皇子皇女を守り育てるためであることを、弟妹たちは皆知っている。本来火種にしかならない、他の皇子の子供たちをすら、彼は弟妹として引き取り養育しているのだ。それは、後継者争いを経て権力を得た者が敗れた者たちに施す措置としては、本来あり得ないほどの厚遇だった。
ほとんど不戦勝のような形で皇帝の座を得たことで、ロドルフは彼の美点といえる人の好さを失わずに済んだ。もちろん、お人好しなだけでは皇帝――それも他国から領土を分捕らなくてはならないヴィペルラートの皇帝など務まらないので、そこは彼とて割り切り、戦争も辞さない態度を崩すことはない。だが、せめて身内には――というところだろうと、エリアスは見ていた。
――そんな兄のためにも、王配の座を。
それが、エリアスがこの国にまで持って来た覚悟。
領土を得るために、幾度となく他国との戦争を繰り返してきたヴィペルラートは、だがそのせいで他国からは警戒されている。無論、国同士の付き合いでそれを素直に表に出すような外交下手な国はないが、儀礼的な微笑の仮面の下では、虎視眈々とこちらの言動から真意を探っているに違いないのだ。特に、国境を接する国々は。
だからこそ、レクレウスを挟むことで直接国境を接することなく、そして現在戦勝で勢いに乗っているファルレアンと強い繋がりを持つことは、ヴィペルラートにとって重要だった。
(ファルレアンと関係を深めることができれば、少なくとも間に挟んだレクレウスを牽制できる。上手くすれば、反対側のアルシェントも)
高位元素魔法士を二人擁するファルレアンは、それだけで軍事的に優位に立つ。殊に、自由に動かせる《擬竜騎士》の存在は大きいのだ。
(兄上はその《擬竜騎士》に会いたがっていたしね)
そのために、歓迎の晩餐会に《擬竜騎士》を出席させて貰えるよう、わざわざ要望も出した。よほどのことがない限り、ファルレアンは彼を国外には出さないだろう。こういう機会でもなければ、誼を結ぶことさえできない。
とにかく一度会いさえすれば、それを足掛かりに交友も持てる。そこまで進めば、後はエリアス自身を介して《擬竜騎士》と本国間でやり取りできるよう、上手く事を運べば良い。“留学”に来た他国の王侯貴族が手紙などで本国と連絡を取るのは、ごく当たり前のことである。もちろん重要な情報が漏れないように密かに検閲はされるだろうが、文面に気を付ければ握り潰されることもあるまい。何しろヴィペルラートの第二皇子の手紙だ。下手に握り潰せば外交問題である。
ともあれ、まずは来る晩餐会で上手く《擬竜騎士》に接触しなければならない――そんなことを考えながら、エリアスは馬車の揺れに身を任せ目を閉じた。
◇◇◇◇◇
「……で、晩餐会での振舞い方を僕に教えて欲しい、って?」
「そう!」
眼前で散歩を期待する仔犬のごとくきらきらした瞳を向けてくる幼馴染に、ルシエルはため息をついた。
「……と、言われてもね……そういう外交向けの晩餐会は、昔から近衛騎士団の独壇場だし、まだ爵位を継いでない僕じゃそもそも出席の資格がないから。あんまり参考になるとは思えないけど」
「人生の九割村人だった俺よりマシだよ!」
堂々と言い切るアルヴィーの言い分にも一理あるだけに、ルシエルは額を押さえるしかない。
「……とは言っても、僕もまだ後継者としての勉強真っ最中だし……当主としての振舞いなら、むしろ父上に訊いてみた方が良いような気がするよ。ルーカスもある程度なら分かるとは思うけど、実際に出席した人間じゃないと分からない雰囲気や、不文律なんかもあるから」
「うえ……」
げんなりと呻くアルヴィー。さすがに現役閣僚相手は腰が引ける。
しかし、とそんな親友を見やりながら、ルシエルはわずかに目をすがめた。
(……ヴィペルラートの方から、アルに接触を図ってきたと見て良いのか? これは)
表向きは第二皇子の要望だが、その背後に皇帝の影があることは、ルシエルから見れば明らかだ。何しろ現皇帝は、第二皇子の実兄である。そしてヴィペルラート皇帝と兄弟たちとの仲が、その歴史から見て珍しくも良好なことを、ルシエルでさえ聞き及んでいた。
(第一皇子を後継者として国内に残すのは当然として、第二皇子を出して来たってことは、本気で王配の座を“獲りに来た”んだと思ってたけど……もしかして、《擬竜騎士》に接触を図るのも目的の内だったってことか……?)
他国の高位元素魔法士への接触に注意が必要なのは、どこの国の外交筋でも常識だ。以前、ヴィペルラートはアルヴィーを自国に呼ぶという内容の外交文書を寄越したが、もちろんそれが叶うはずもない。ヴィペルラート側としても、本気でそれが容れられると思っていたわけではないだろう。無論、かの皇帝の心の内など分かるはずもないので、もしかしたらある程度は期待があったのかもしれないが。
だがそれに比べれば、ファルレアンを訪れた第二皇子がアルヴィーとの接触を望むのは、明らかに難易度が低かった。何しろファルレアン国内で収まる話であり、何よりこの件に関してファルレアンは“もてなす側”だ。第二皇子の要望であれば、むやみに“否”とは言えない。
(……いや、これが本国の入れ知恵なら、あるいは“まだマシ”なのかもしれないけど)
ルシエルは宙を睨んだ。第二皇子が単に本国の意向を伝えるだけの代弁者なら、おそらく彼のファルレアン逗留はただの留学で終わる。女王アレクサンドラの配偶者候補としては、その程度では失格だ。
だがこれが第二皇子個人の発案である場合――そしてそれだけの才覚がある相手に、女王が目を留めた場合。宮廷の勢力図はさらに複雑なものとなるだろう。そしてその渦中に、アルヴィーは放り込まれる。
そんなことにはさせない――そう思いたくとも、それが叶わないことを、ルシエルはすでに知っている。
唯一無二の親友は、いくらこの背に庇おうとしても、いつの間にかまた自分の前に飛び出しているのだから。
(……僕はまだ、アルの背中を見てるのか)
幼い頃、アルヴィーはよくルシエルに背を向けていた。継父の暴力からルシエルを守って、立ち向かうために。
そして今も、一足飛びに男爵家当主となった彼は、未だ嫡子でしかないルシエルの前を歩いているのだ。
「――おい、ルシィ?」
ひょこ、と顔を覗き込んできたアルヴィーに、ルシエルははっと我に返った。
「どした? 何かぼーっとしてたけど」
「いや……ちょっと考え事だよ。わざわざ晩餐会にアルを同席させたがるなんて、やっぱりヴィペルラートの方でも、何か思惑があるんだろうなって」
「うぇー、ヤなこと言うなよぉ。――まあ、俺もンなこったろうとは思うけどさぁ」
嘆息して、アルヴィーは肩を竦める。
「……けどさ、嫌だからって避けて通るわけにもいかないだろ。――そういう立場になっちまったんだってことくらいは、俺にも分かる」
苦笑を滲ませるその表情は、昔の彼にはなかったものだった。
「……なんか、こういう時に思うよ。遠くに来ちまったもんだなあって」
あの辺境の村から、ずっとずっと遠く。
距離も時間も、立場さえ。
ただ隣に並び立ちたいという願いだけは、きっと変わらぬはずなのに。
「……アル……」
遥か遠く――もしかしたら故郷に続くのかもしれない、彼方の空を眺める親友の片目は、あの頃とは違う人ならざるものの色。
それを直視できずに、ルシエルはそっと目を逸らした。
◇◇◇◇◇
ロイ男爵邸に居着いている家妖精・ティムドは、その日も屋敷の主を始め家人たちが寝静まった頃に、自身の“仕事”に取り掛かった。
“彼”の仕事は屋敷の掃除――それも、人間が眠る夜間が仕事時間である。彼ら家妖精は、そういう存在なのだ。もっとも、そのせいで昨今は、泥棒や不審者に間違われて屋敷の人間に追い回される不憫な同胞も増えたのだが。世知辛い話である。
幸いその点に関しては、この屋敷の主人は鷹揚だった。最初の“顔合わせ”の時こそその力に仰天して逃げ出しかけた(そして捕まった)が、事情を呑み込めば彼は全面的に屋敷の掃除を任せてくれたのだ。彼を始め、他の使用人たちも家妖精との付き合い方を心得ていて、労働の報酬たるパンとミルクを忘れずにそっと戸棚に置いておいてくれる。あからさまではなくあくまで“戸棚に何気なくそっと”というのが、家妖精的に重要なところだ。
それを楽しみに、ティムドは今日も人間の倍速どころか三倍速で掃除をこなしていた――が。
『――――!?』
いきなり屋敷を包み込んだ気配の大きさに、彼は文字通り飛び上がった。
自身の身長の倍ほどの高さまで助走なしにジャンプ、着地するや一目散に走り出す。本来、“仕事時間”に家人と顔を合わせるのは彼のポリシーに反するが、今はそれどころではなかった。とりあえず、屋敷で一番強い人間――つまり、屋敷の主人たるアルヴィーのもとに逃げ込もうとした、のだが。
『――ぴぇっ!?』
そのアルヴィーの部屋の目と鼻の先というところで、目的の部屋の中からもぶわりと膨れ上がった強大な気配に、ティムドはついに涙を噴きこぼしつつ再び飛び上がった。そのまま素晴らしくキレのある動きで回れ右。三倍速でねぐらに駆け込むと、頭を抱えてぷるぷる震えながら小さくなった。
……そんな気の毒な家妖精のことなど当然お構いなしに、ベッドの中で目を開けた“アルヴィー”はするりと寝床を抜け出し、窓を開ける。外を見据えるその双眸は、黄金。
『……ずいぶんと不躾な訪問だな?』
不機嫌そうに目をすがめ、彼はやおら窓枠に足を掛けると、ひょいと外に身を躍らせた。虚空に作り出した障壁の足場を蹴り、猫のように軽々と屋根の上へ。
月明かりに浮かぶ庭の中空、一見何もない一点を睨む。その周囲に、朱金の炎が小さくきらめいた。
『んもう、短気なんだから。これだから火竜は』
途端、それを制するように軽やかに響く、美しい声。風が凝り集まって渦を巻き、その中心にふわりと姿を現したのは、長い髪をなびかせた――。
『風精霊が何の用だ』
問いに、風の大精霊シルフィアはびしりと指を突き付けた。
『あのねえっ! ただでさえ人間離れしかけてたその子を、さらに人間離れさせちゃってどうするのよ!』
『それに関しては、わたしの“本体”の仕業なのでな。文句はそちらに言え』
アルヴィー――の姿をした、火竜アルマヴルカンが素っ気なく言う。感情の見えない黄金の双眸をわずかに細めた。
『それで? わざわざその程度の文句を言うために、夜中に余所の家に押し掛けて来たというわけか?』
『そんなわけないでしょ』
呆れたように腕を組み、シルフィアはアルマヴルカンを見据えた。
『……あの場所のことよ』
彼女が纏う風が、その長い髪を舞い踊らせる。世界を巡る風はすべて彼女の眷属。ゆえに、たとえ別大陸の事象であろうとも、この世界に在る場所で起こる限り、その目から逃れることはないのだ。
余波のような微風に黒髪を撫でさせながら、アルマヴルカンはシルフィアを見つめる。
『あちらの大陸でのことか』
『そうよ。あれは確かに神々がこの世界から飛び立った場所だけど、わたしたちにはともかく、人間にとっては特に関わる必要もない場所よ。――どうしてその子に、あれを見せたの?』
『あれを見せたのも、本体の方なのだがな……まあ、ほんの気紛れだろう。主殿に仔の魂の欠片が混じっているせいもあろうが、あれは主殿を自分の雛か何かのように思っているようだ』
『あなたも?』
シルフィアの言葉に、アルマヴルカンは少し首を傾げた。
『……さてな』
『あら、元は同じなんでしょ?』
『分かたれた時点で、わたしと本体とは“似て非なるもの”だ。――それにわたしは、もう主殿と“混じって”いる』
『それなのよねー』
空中で器用にしゃがんで頬杖をつきながら、シルフィアは口を尖らせた。
『そこまで混ざっちゃったら、もう引き離すに離せないし。そもそも、竜の魂とそこまで親和性の高い人間がいるっていうのが、まずびっくりなんだけど。まあ、そこは納得できなくもないわ。でも、その気になればあなた、“混ざらない”選択もできたんじゃなくて?』
『…………』
アルマヴルカンは無言のまま、ついと夜空に目をやった。煌々と輝く月に、目を細める。
『……世界に還るまでの時が、わずかに延びただけのことだ』
シルフィアははっと彼を見やった。
『それって……』
『話は終いだ。風がひとところに留まっても益はあるまい?』
半ば強引に話を切り上げると、アルマヴルカンは屋根の端からひょいと飛び下りる。不可視の魔法障壁を足場に寝室の窓から室内に飛び込み、そしてその気配は急速に小さくなった。身体の主導権をアルヴィーに返したのだろう。まあ、そもそも人間は寝ている時間帯なので、アルヴィーの意識は最初から会話の間中眠りっぱなしだったのかもしれないが。
『……世界に還る、かあ』
ふわりとそこを飛び立ちながら、シルフィアはひとりごちた。この世界に生きる“力あるものたち”にはもはや常識であるそれは、だが精霊にとっては少し違う意味合いを持つ。自然現象が個体識別のため人に似た形を得たものである彼ら彼女らにとって、生命体が持つ魂がいつか還っていく“世界”は、ある意味では“自分自身”でもあるのだ。
生を終えた魂たちは、遅かれ早かれこの世界の一部となり、同じく還り着いた他の魂たちと混然一体となって、そこからまた新たな魂が生まれ生命として芽吹いていく。それは、かつてこの世界を去った神々が作り上げ、この世界に残していった仕掛けだ。
『風がある限り在り続けるわたしには、よく分からないんだけどね、アルマヴルカン。――でも』
彼女にとっても、そして千年を生きた火竜にとっても、瞬くほどの短い時間。人間の一生とは彼らにとって、その程度のものだ。
……だが、愛を傾けた相手のそれを惜しんでしまう、この気持ちは。
彼らにとってはほんのわずかな時間を、混ざり合ってでも共に在ることを選ばせたその思いは――。
『それって多分、“寂しい”っていうのよ』
火竜に届いたかも分からない呟きだけを残して、彼女の姿は風に溶けるように消え失せた。
◇◇◇◇◇
人々の住まう大陸より遥か南方、幻獣と魔物の楽園たるその地――神々がこの世界を飛び立った跡地、その巨大な傷の中、光に包まれたものがある。
直径数ケイルに達する窪地に満ちる、人間はもちろん幻獣の目でさえも直視できない眩い光。そのさらに中央部には、長さ約二ケイル、幅数十メイルにも渡る地割れがあった。まるで大地がうっすらと口を開けたかのようなそこからは、黄白色の光が湧き出るように溢れ出し、時折ゆらりと歪む。
その地割れは地中深くまで達し、深くに行けば行くほど空間の歪みは顕著なものとなって、果ては光をも吸い込む黒々とした穴となり、地割れの最深部にぽかりと口を開けていた。
言うまでもなく、命あるものでは決して辿り着けないそこ――その凝縮された歪みの真上に、光を纏って座す人影があった。
一見して性別を判断し難い容貌は人の持ちえぬ美しさを誇り、大きくたなびく黒髪は自らの纏う光で深い緑の色彩を放つ。伏せられ薄く開かれた瞳は、秋の豊かな実りを思い出す黄金色。彼――あるいは彼女――は胡坐をかいた体勢で、光の中ただ一点蟠る歪みを茫洋と見つめ続けていた。
『――まだしばらくは掛かる、か……』
こうして地の底に封じ込めた空間の歪みは、長い時を経てずいぶんと小さくはなったが、完全に消えてなくなるまではまだ百年単位の時間が必要だった。もっとも、時間の概念などとうに忘れ去ったものだ。百年だろうが千年だろうが、この身にしてみればさほどの違いはなかった。
何しろこの大地がある限り、こうして在り続けられるのだから。
先ほど自分自身が呟いたことさえもう忘れかけながら、再び時間をも忘れ去るべくその瞳を閉じ――。
『……何?』
瞬間、よぎった感覚に、思わず頭上を振り仰ぐ。
まさにその時、頭上遥かな地上――否、それよりさらに高みの空の上で、その変化は起こっていた。
ぴしり、と音を立てそうな鋭さで、空中に一筋の裂け目が入る。そこからずるりと侵入してきたものがあった。
それは“眼”だった。
中空に唐突に現れたそれは巨大な眼、それも眼球ではなく、瞳の表面をそのまま切り取って取り出したようにしか見えない。丸みを帯び、直径に比してずいぶんと薄いそれは、まるで人のそれのように、だが人にはあり得ぬ虹色の光彩をきょろりと動かす。その背後で裂け目はぴたりと閉じ、宙に浮かぶ“眼”だけが取り残された。
やがて巨大な眼は真下に視線を固定すると、その先を追うように緩やかに降下を始める。眩い光と荒れ狂う地脈の膨大な力を、しかしその“眼”は意にも介さぬように通り抜け、中心たる地割れの中に没した。
小ゆるぎもせず、するすると滑るように降下してくる巨大な眼を、地の底の人影――地の大精霊は呆然と見上げた。
『なぜ……?』
驚愕に思わず立ち上がる大精霊に、“眼”は笑むようにその形を細くする。きょろり、光を照り返して金の粒子を弾く光彩が、辺りを確かめるように動いた。“眼”が真円に見開かれ、その中心にある瞳孔が大きく開いて純白の光を放つ。
大精霊は素早く地割れの壁に沈み込み、地脈の凝りを解いた。歪みを封じ込めるために集めに集めた地脈をばらばらに解きほぐし遠ざけて、自身もまたさらに地の底深くに潜る。一瞬の後、“眼”から滴り落ちた純白の光が歪みに触れた。
両者が触れ合った、その瞬間。
光と歪みは互いを喰い合って一秒にも満たないごくわずかな時間で消滅し、反動で付近一帯が轟音と共に吹き飛んだ。
『くぅっ……!』
大地と共に吹き飛ばされながらも、とっさに周囲に結界を張って身を守れたのは、大精霊たる面目躍如というところだった。だが、巨大過ぎる力の奔流は、ただでさえ大きく抉られた大地をさらに容赦なく消し飛ばしていく。これまで歪みを封じるために集めた地脈の一部も、それに巻き込まれ呑み込まれて、その従順さを失い同じ地属である大精霊にも牙を剥いた。
『っ、こぉの……っ! 鎮まれっ!』
何とか周囲の地脈を操り、問題ないレベルまで沈静化させる。だが影響を受けた地脈は、大精霊の操作できる範囲を超えて広大だった。抑えきれなかった力が一瞬で地脈を駆け抜け、ビリビリと大気を震わせる。
『――まずい……!』
大精霊がそう呻いた時。
爆心地を基点に、葉脈のように広がった地脈が過活性を起こす。
そして――かつてないほどの衝撃が、大陸全土を襲った。
『――む』
その直前。火山帯の我が家で寛いでいた火竜エルヴシルフトは、不意にぴくりと顔を上げた。自らの足元でころころと転げ回る仔竜たちを尻尾で拾い、背中に放り上げてその顎を大きく開く。
放たれたブレスが、住処の天井を爆砕した。
『行くぞ。何やら嫌な予感がする』
『ええ』
彼の伴侶も、同じく尋常ならぬ気配を感じ取っていた。エルヴシルフトの突然の暴挙に驚くでもなく、夫に倣ってその翼を大きく羽ばたかせる。
エルヴシルフト一家が上空に舞い上がったのと時を同じくして、火山帯に棲む他の火竜たちも空に上がってきていた。皆、“何か”を感じ取って地上にいるのは危険だと判断し、上空に逃れてきたのだ。
そして、彼らは一様に目撃した。
『……来るぞ』
エルヴシルフトが呟き、子供たちを守るべく結界を構築する。その彼の眼下で、大地を駆け抜ける光の筋。それは火山帯を貫くように通り過ぎ、そこへ膨大な力が衝撃波と共に流れ込んでくる。
衝撃波は大地だけでなく空にも及び、火竜たちが各々張った結界を強烈に叩いた。さすがに破られはしなかったが、それでもその力の強大さをまざまざと思い知らされる。
やがて幾許かの間を置いて、ズズン、という低い音。
今しがた後にして来た地上が、立て続けに爆ぜた。水蒸気と灰の混ざった噴煙が次々と噴き上がり、赤い炎がちらちら見え始める。新たに生まれた火口から溶岩が溢れ出し、瞬く間に地上を溶岩の海に変えた。地中に潜んでいたアースウォームたちが熱に耐えかねて顔を出し、そして溶岩に呑まれてあっという間に燃え尽きていく。
『……一体、何が起きた』
この世のものとも思えない光景を眼下に望みながら、エルヴシルフトは光が駆けて来た方向を見やる。その先には地脈が濃密に凝った場所があったはずだ。今は目を刺すほどに眩しい黄白色の光がそこを包み込み、そしてそこから巨大な“眼”が姿を現す。“眼”はしばらく上昇したところでピタリと止まると、ゆっくりと滑らかな動きで水平方向に回転を始めた。その視線が火竜たちを撫でていき、彼らは思わず身を固くしたが、“眼”は特に反応を示さず回転を続ける。
その動きが、ある一点で静止した。
北方を見据えたまま動きを止めた“眼”の中心で、瞳孔が猫のそれのように広がり、そして引き絞られる。
『――既存情報ニナイ新規生命体群ノ存在ヲ確認。観測ノ必要ヲ認メル――』
“眼”は瞼を下ろすかのように細くなり、そのまま消えてしまった。まるで幻ででもあったかのように、跡形もなく。
だが、竜たちの眼下に広がる灼熱の大地は、紛れもなく現実だった。
溢れ出した溶岩は次第に広がり、火山帯の外をも侵し始める。以前アルヴィーが拠点としていた岩山が林立する一帯も、その例外ではなかった。岩山の間を溶岩が川のように流れていき、岩肌を薄赤く照らす。さすがに岩山は融解することなく耐え抜いたが、熱せられた大気の中、その姿は陽炎となって揺らめいた。
――その岩山の一つ、かつてアルヴィーが力業でくり抜いた岩山。
そこに設置された転移陣が、活性化した地脈の力を受けて淡く輝きながら稼働を始めたことを、まだ誰一人として知る由もなかった。




