第128話 還れない場所
市街地に向かうアルヴィーを見送ったアルマヴルカンは、直後に眼下の地上に生まれた光に目をすがめた。
「御機嫌よう、アルマヴルカン」
『……何をしに来た』
「あら、ご挨拶ですこと」
光が消えた後にそこに立っていたレティーシャに、唸るような声音で凄んだが、彼女はどこ吹く風といった様子で底の見えない笑みを浮かべるのみだ。
「……まあ、あなたにはなくとも、わたくしはあなたに用がございますので」
『ふん……どうせおまえたちのもとに戻れということだろう。せっかく羽を伸ばしているというのに、なぜまた鬱陶しい思いをしなければならん?』
「こちらとしては、こうして伺うだけ礼を尽くしているつもりなのですけれど」
『見解の相違だな』
「そのようですわね」
苦笑して、レティーシャは魔法式収納庫から長杖を取り出す。
「では――力尽くで連れ帰らせていただきますわ」
とん、と杖の石突きで地面を突く。
瞬間、巨大な魔法陣がその場に浮かび上がった。
『む……』
アルマヴルカンの声に、わずかに驚愕の響きが混じる。眼下に展開した魔法陣は、彼が知るどれとも違い――遥か昔に失われた、神代の術式に良く似ていた。
彼の驚きを感じ取り、レティーシャはにこやかに笑う。
「さすが“古き竜”というところですわね。苦労致しましたのよ、この術式を再現するのは」
『いくら特異な魂を持つとはいえ、人間一人の力でこのわたしを隷属させられると?』
「ご心配には及びませんわ。地脈の力を借りますもの」
その言の通り、魔法陣の輝きが増していく。地脈から力を吸い上げているのだろう。本来、人間にはできない芸当だが、相手は色々と人間離れした存在だ。この程度のことは容易いようだった。
「やはり王都の近くともなれば、地脈の集まりも良いですわね」
『人の身で、よくもまあ恐れもなく地脈に手を出すものだ。力の制御に失敗すればどうなるか、分からぬわけではあるまい?』
「わたくし、細かい作業は得意な方でしてよ?」
『……ふん』
アルマヴルカンは自身の周囲に炎を生み出し、それを纏ってレティーシャを牽制する。彼女はそれを微笑ましく見やった。
「身体の方は安定したようですわね?」
今のアルマヴルカンを見て、その身が人工的に再生されたものだと気付く者は、そう多くあるまい。さすがに同じ竜相手だと誤魔化しは効かないが、そうでなければ普通に“生きた”火竜だと判断するだろう。
レティーシャの群青の双眸が、どこか暗い影を帯びる。
「――いかがかしら。“死んで”も“死ねない”気分というのは」
『不毛だな』
彼女の問いに、アルマヴルカンは嘲るように返した。
『生憎、我ら竜とおまえたち人間では、精神構造からして違うのでな。生死の概念も違う。おまえの求める答えは、わたしの中にはないだろう』
「……そうですわね。わたくしとしたことが、愚問でしたわ」
長い銀髪を翻しながら、レティーシャの笑みが自嘲に歪んだ。
「……いっそ、最初から竜か何かに生まれれば良かったのに。――まるで呪いみたいに、人の姿から逃れられない」
吐き捨てるような呟きは、むしろそれこそが呪詛のようだった。
常よりも尖った眼光が、見下ろすアルマヴルカンを突き刺す。
「長かった。何度も何度も、生まれて死んで。――やっと、この忌々しい繰り返しから抜け出せそうなところまで来たんですもの。そのためなら、わたしは何だってやる」
『哀れだな。神々に都合良く使われた人形か』
「黙りなさい!」
レティーシャの双眸が苛烈な光を放つ。臣下たちの誰にも、見せたことのない表情だった。
「神々に都合良く使われたというなら、あなたたちだって変わらないでしょう。この世界に満ちる力の受け皿にされたという意味では、あなたもわたしも同じことよ」
『否定はしない。――そうか。おまえは“呼び込まれた者”なのだな。ゆえに、受け入れきることができなかったか』
「受け入れる義理などないわ」
苛立たしげに、彼女は長杖の柄をぎり、と握り締める。
「そもそも、最初の契約とまったく話が違うのですもの。こんなに長い間、拘束されるなんて……」
気を落ち着けるように息をつき、レティーシャは唇を歪めた。
「……だから、少しくらいこの世界の力をわたしのために使っても、構わないでしょう?」
同時に、魔法陣が眩いばかりの輝きを放った。
『なるほど。少々厄介だな』
魔法陣から触手のように伸びてくる光を、アルマヴルカンは自らの炎で撃ち落とす。だが地脈の力を流用している魔法陣は、光を絶やすことなく稼働し続け、アルマヴルカンを捉えんとその腕を伸ばし続けてきた。
鬱陶しくなったアルマヴルカンは、魔法陣目掛けてブレスを撃ち出す。ブレスは魔法陣のど真ん中に命中して爆炎を上げたが、魔法陣自体は無傷だった。
『何……』
一瞬瞠目した彼だったが、すぐにその理由に気付く。
『……そうか、結界か』
魔法陣の上にちらちらと輝く光。おそらく術式の中に組み込まれていたのだろう、稼働中に外から干渉されるのを防ぐための自動防衛機能だ。人間が扱うにはあまりに難解な構成となるため、現在の魔法術式からはこの結界を張る部分の術式がごっそり削られているが、この魔法陣はそれ以前の古い術式をそのまま使っていたため残っているのだろう。
いずれにせよ、魔法陣自体を壊すのはなかなか骨が折れそうだった。
もちろん、アルマヴルカンがその気になれば、このまま空を飛んで逃げればいい。だがある理由から、その方法は選べなかった。
――ここには、あの人の子が戻って来る。
アルマヴルカンに執心している眼下の女は、同じくアルヴィーにもその手を伸ばそうとしている。彼がここに戻って来るまでに、彼女と魔法陣を排除しておかなければ――と、アルマヴルカンは自然に思い定めていた。
それは竜が持つ、子を守る本能ゆえか。
「……やはり、竜ですわね」
レティーシャは笑い、そしてちらりと上空を見やる。
「ダンテ」
瞬間――アルマヴルカンの背に下り立った人影が剣を振るい、その翼に斬り付けた。
『何……!』
刃は易々と硬い鱗を断ち割り、翼を支える骨にまで達する。アルマヴルカンは宙で大きく体勢を崩した。それに巻き込まれないよう、人影――ダンテはいち早くその背を蹴り、宙へと逃れる。それを受け止めたのは、彼の忠実な使い魔である翼ある大蛇だ。
翼を傷付けられ体勢を崩したアルマヴルカンは、高度を保てず地上へと落ちていく。放ったブレスはやはり魔法陣の防御結界に弾かれ、逆に伸びた光にその身を絡め取られた。
『ぐ、う……!』
鎖のように竜の身を戒めた光は、やがてその体内に溶け込んでいく。アルマヴルカンが項垂れ、身動き一つしなくなったことを確かめると、レティーシャは魔法陣を消し、魔法式収納庫から別の杖を取り出した。
「――よくやってくれました、ダンテ」
「勿体ないお言葉です、我が君」
自らの使い魔の背から地上に飛び下り、彼は手にした剣を鞘に納める。ぱちん、と小気味良い音と共に鞘に隠れたその剣身は、赤みを帯びた銀色をしていた。
「いかがでした、その剣は?」
「素晴らしい切れ味です。さすがに竜の鱗を素材に使っただけはありますね」
「材料は、アルマヴルカン自身が提供してくださいましたものね」
くすりと笑って、レティーシャは新しい杖で別の魔法陣を敷く。こちらは転移魔法だ。それがアルマヴルカンの巨躯の下に展開し、その身を呑み込んでいく。
アルマヴルカンを転移させてしまうと、レティーシャは杖を仕舞った。
――ダンテがアルマヴルカンの翼を斬るのに使った剣は、アルマヴルカンの状態が安定する前に落としていた鱗を素材として使い、レティーシャが作ったものだ。たとえ一度死して生き返った身であろうと、その鱗は“竜素材”として立派に通用する。ましてや使い手はダンテだ。竜の鱗を斬り、骨まで断つことも充分に可能だった。そして彼はアルマヴルカンがレティーシャに目を引かれている間に気配を殺して近付き、見事に自らの役目を果たしたのである。
「では、わたくしはこれで戻ります。あちらの方はお願い致しますわね、ダンテ」
「畏まりました。――ですが、フィエリーデへの攻撃は、本当にこの程度でよろしいのですか?」
「仕方がありませんわ。あの子が介入したのであれば」
レティーシャは肩を竦める。
「あの子が出た以上、魔動巨人は役に立ちません。魔動巨人の中核技術がリシュアーヌに渡るのを避けるためには、これ以上の戦闘続行は悪手ですわ。メリエがいればまだしも、彼女はヴィペルラートの方に行かせてしまいましたし……とにかくあなたは、魔動巨人の中枢結晶の回収と、内部に仕込んだ術式の完全破壊を。魔動巨人の実物そのものは、この際捨て置いて構いませんわ。どの道、現在のリシュアーヌの技術では、解析しても運用までには至らないでしょう」
「では、そのように」
「頼みましたわ」
レティーシャが転移で姿を消すと、ダンテは使い魔を呼び、再びその背に飛び乗る。そして腰に帯びた竜素材の剣を剣帯から外すと魔法式収納庫に仕舞い、使い慣れた愛剣《シルフォニア》を取り出して剣帯に取り付けた。
「やっぱりこっちの方がしっくり来るな。――さて、《トニトゥルス》、もう一仕事だ。魔動巨人の中枢結晶と、それからアズーラたちも回収して来ないと」
ダンテは踵でコツンと大蛇の鱗を叩く。大蛇は心得たように優雅に翼を翻すと、フィエリーデ市街へと向かって空を泳ぎ始めた。
◇◇◇◇◇
街の方で響いていた遠い爆音がいつしか止んだことに、セルジュはそろそろと顔を上げた。
「……音が、しなくなったね」
「ええ……」
怖々と頷く侍女の腕からもぞもぞと脱け出すと、彼は部屋の窓から外を覗く。
「殿下! 危のうございます、お戻りくださいませ!」
「だいじょうぶだよ、ここはお部屋の中だし……あ!」
窓越しに覗く景色の中、空から舞い下りる朱金の輝きに、セルジュは顔を輝かせて走り出す。
「殿下!」
悲鳴をあげる侍女はそのままに、セルジュはまだ未発達な両足を懸命に動かして、館の玄関から外に飛び出した。
「――お兄ちゃんだ!」
「うお!?」
仔犬のように飛び付いてくるセルジュを、アルヴィーは何とか抱き留めた。
「ねえねえなんで? どうしてここにいるの?」
「あー……それは不可抗力というか、色々と深いわけが……」
瞳をきらきらさせ、尻尾があれば盛大に打ち振っているような小さな王子様に、アルヴィーはそっと目を逸らしながら答える。まさか、火竜のせいで強制的に寄り道させられたせいだなどと言うわけにもいかない。まして、このすぐ近くにその火竜が留守番しているなどとは。
『……む?』
と、アルヴィーの中のアルマヴルカン(欠片)が訝しげな声をあげた。
(……何だよ。どうかしたのか?)
セルジュの前なので口には出さずに問えば、アルマヴルカンはあっさりと。
『いや、この近くにいたはずの“わたし”の気配が消えている』
「……はあ!?」
思わず声をあげてしまったアルヴィーに、セルジュがびくりとする。
「ふぇ!?」
「あー何でもない、脅かしてごめんな」
セルジュを宥めつつ、アルマヴルカンに詳細な説明を求めた。
(どういうことだよ、まさか勝手にふらふらどっかに行ったんじゃねーだろうな!? 討伐されても文句言えねーぞ、できるかどうかはともかく)
一度死んで復活した存在とはいえ、曲がりなりにも《上位竜》。人間が討伐しようと思えば、それこそ二十年ほど前のレクレウスのように、膨大な人員と武器を動員しなければならないので、見つかったからといってすぐに討伐されることはないだろうが、世の中には常に例外というものが存在するのである。
とにかく、アルマヴルカン(本体)がどうなったかを確かめなくてはならない。アルヴィーはセルジュに向き直った。
「あー……とな? 俺がここに来たことは、内緒にしといて欲しいんだ」
「ないしょ? なんで?」
「えーとな、俺は今極秘の仕事の途中だから、本当なら誰にも姿を見られちゃいけないんだよ」
もちろん、今は絶賛迷子中(大陸規模で)なのだが、まさかそんなことを堂々と言えないので、苦し紛れの極秘任務のでっち上げである。まあ、十歳にも満たないセルジュなら信じてくれるだろう、おそらく。
そうやって何とかセルジュを丸め込んでいると、おっかなびっくりという様子で護衛の兵士たちが近付いて来た。
「……もしや、ファルレアンの《擬竜騎士》殿では?」
見れば、何となく見覚えのあるような顔……と思ったところで、記憶がよみがえった。ポルトーア砦の一件を片付けてファルレアンに帰還する際、リシュアーヌの兵士たちに握手を求められたのだが、その中に眼前の兵士もいたような気がする。
「おお! 前回のポルトーア砦に引き続き、此度もまた我が国の国難をお救いいただき――」
「あ、はい、ども」
打って変わって感激の面持ちの兵士たちの勢いにちょっと引きながら、アルヴィーはさり気なく下がる。
「ええと……今回の件は、その、偶然というかたまたまというか……と、とりあえずリシュアーヌに干渉するとか、そういった意図はないので、」
じりじりと下がり続け、
「そういうわけで、今回のことは他言無用でよろしく頼みます!」
しゅばっ! と手を上げ、地を蹴って大空へ。セルジュが「待ってよー!」と叫んでいたが、このままここに留まるわけにはいかないのだ。
『……あれで説き伏せたつもりか』
「しょーがねーだろ!? 俺にそんな機転求められても無理だよ!」
そもそも、お世辞にも口が上手いとはいえない性質だ。貴族としては割と致命的な気もするが。
「そ、それよりおまえの本体だよ! どこ行ったとか分かんねーのか?」
『探ってはいるが、どうも気配が掴めんな。地脈の力が大分濃く残っていて、痕跡が掻き消されている』
「地脈が? 誰かがまた弄ったってことか?」
『干渉というほどではなさそうだ。単に力を流用しただけか……とはいえ、その辺の人間にできることではあるまい。――ほう』
アルマヴルカン(本体)を置いて来た辺りに戻って、地上に下り立つと、アルマヴルカン(欠片)が何かに気付いたように声をあげた。
『見ろ。地面に残された魔法陣の痕跡を。大分古い術式だな』
「……さっぱり分かんねーんだけど」
アルヴィーがぽつりと呟きながら見やる先、地面に焼き付いたように残る線。それは複雑に絡み合って精緻な紋様を描き、ここで“何か”があったことを如実に物語っていた。
「……やっぱ、いないな」
そして、待たせていたアルマヴルカン(本体)の姿はどこにもなかった。
――“回収すべきものはすべて回収したし”――。
「……そういうこと、なのか?」
ダンテが口にした“回収”。アルヴィーはてっきり、魔動巨人に関してのみそう言ったものだと思っていたのだが。
(アルマヴルカンもあっちに連れてかれたんだとしたら……)
考え込んだアルヴィーは、アルマヴルカンの声にふと我に返った。
『主殿』
「あ、ああ。何だ?」
『おそらくわたしの本体は、例の連中に連れ去られたのだろう。ひとまず、それについては置いておくが良い。どの道、今さらどうしようもない』
「……そりゃそうだけどさ」
『連中にとって“わたし”は、まだ利用価値のある存在のようだからな。すぐにどうこうされるようなことはあるまい。それに、こちらに付いて来られたところで扱いには困っただろう』
「おまえが自分の本体に辛辣過ぎて、俺ちょっとびっくりだよ」
『そもそもわたしは一度死んだ身。今の“生”はいわば余禄に過ぎん』
他ならぬ自分のことだというのに、アルマヴルカンは驚きの塩対応だった。
『それより、こちらはこちらで問題ができた。主殿、ここから本国までどう戻る気だ』
「……あ」
指摘されて、アルヴィーもその問題に気付く。
彼らが現在ここにいるのは、本来ファルレアンへと長距離転移しようとしていたのを、アルマヴルカン(本体)が勝手に弄ったからだ。そしてその張本人(竜)がいなくなった今、残されたのは大陸規模の迷子と化したアルヴィーだけ。
「……俺、どうやって帰ろう……」
アルヴィーは頭を抱える。まあ最終手段として、自前の翼で飛んで帰るという手もあるのだが、何せ距離があるので帰り着くまでに時間が掛かりそうだ。
「まさか、リシュアーヌに飛竜借りるなんてわけにもいかないしなあ……」
陸路は自分で飛んで帰るよりもさらに時間が掛かるし、転移陣は制御できる自信がない。そもそも陣を敷いたのもアルマヴルカンだ。
「……なあ、アルマヴルカン。向こうの大陸で作った転移陣ってさ、こっちでも作れるか?」
一度だけ使うのなら、陣を刻む必要もない。魔力のみで陣を敷き、ファルレアン側の出口の陣に繋がれば良い。むしろ今回の場合は、陣が後に残らない方が都合が良いのだ。制御はアルマヴルカンに丸投げする必要はあるが、もはやいい感じに人間を辞めつつあるのだから、多少“入れ替わった”ところで今さらだろう。
『無論、可能だが……主殿、少しは自分で覚えたらどうだ』
「……俺にそんな頭を期待するな……」
『…………』
呆れたような沈黙が胸に痛い。
『……まあ、主殿に任せておいて、出られなくなっても事だからな』
「……え、何それ」
『制御に失敗すれば、どこにも出られずに時空の狭間をさまようことになるな。とはいえ、そんなところに落ち込めば自我もそう長くは保てんらしい。すぐに何も分からなくなるだろうから、苦しむのもほんの一時だ』
「いやいやいや、それ何にも解決になんないからな!?」
恐ろしい注釈にガクブルしつつも、基本方針は新しく転移陣を敷いて、それを使ってファルレアンに戻ることに決定した。
「よし、じゃあすぐに――」
ぐきゅるるる。
勢い込んだアルヴィーの台詞は、盛大に鳴り響いた彼自身の腹の虫によってぶち切られた。
「……悪い、腹減ったからちょっと腹ごしらえしてからな」
幸い、水と食料はある。アルヴィーは手近な木の根元に陣取り、自家製燻製肉と水で小腹を満たした。燻製は少し煙のえぐみが残っていたが、肉の旨味も濃くなっていてそこそこ食べられる。大分余ったが、ファルレアンに帰れば魔法式収納庫が使えるので、非常食として持ち歩けば良い。――さすがに、未知の大陸の謎生物の燻製肉を、他人に勧めるほど楽観的にはなれなかったが。地道に自分だけで消費することにしよう。
――そうして腹ごしらえも済ませて、いよいよ転移陣の構築に取り掛かる。
「アルマヴルカン、頼む」
『ふん、仕方あるまい』
アルヴィーが目を閉じ、そして開けば、朱金の左目も右目と同じく黄金に輝く。アルヴィーの身体を借りたアルマヴルカンが右手を差し伸べれば、その手の中に生まれた炎が渦巻いて伸び上がり、眼前の地面を舐めて魔法陣を形作り始めた。
朱金の炎で描かれた転移陣は、地中に広がる地脈の力を受けてさらに輝き始める。そして、空間が“繋がった”あの独特の空気の変化を、アルヴィーは再び感じた。
(……お)
『繋がったな。おそらくだが』
(だから、そういうこと言うなって……!)
失敗すれば時空の狭間で永遠の迷子という恐ろしい話をうっかり思い出して戦慄したが、現在アルヴィーの身体を動かしているのはアルマヴルカンである。アルヴィーのためらいなど欠片も斟酌せず、いともあっさりと転移陣に足を踏み入れた。
湧き起こる光。
やがて――光が消えたそこには、何も残っていなかった。
◇◇◇◇◇
『――あ』
ぴくりと、フォリーシュが顔を上げて黄水晶の瞳を瞬かせる。
彼女はぴょんと地中から飛び出すと、自らの宿る地である小さな森を飛び出した。
たたた、と王立魔法技術研究所内を駆ける少女の姿は、所内ではもはや見慣れたものだ。まだせいぜい十代前半にしか見えない彼女は、研究所内――特に薬学部では密かなマスコット的存在になっている。
だがそんなことは彼女自身の知る由もないことなので、特段愛想を振り撒くでもなく、フォリーシュは研究所の敷地を出た。
きょろきょろと周囲を見回しながら、彼女がやって来たのは騎士団本部だ。こちらではフォリーシュの素性もさほど広くは知られておらず、なぜこんなところに子供が紛れ込んで来たのかという目もちらほら見受けられる。
だが幸い、そういった目の持ち主が彼女に声をかけるより前に、彼女の方が目当ての人物を見つけ出した。
『――いた。アルヴィーの友達』
「うわ!?」
どし、と背中から突進されて、ルシエルは思わず驚きの声をあげた。
「君は……研究所にいる地精霊の?」
『そう』
こくりと頷くフォリーシュ。一度、アルヴィーと連れ立って彼女の森を訪れたことがあるため、彼女も“アルヴィーの友人”としてルシエルを知っていた。だから、“それ”を感じた彼女は、彼を捜してここに来たのだ。
「どうかしたのかい?」
尋ねるルシエルに、フォリーシュは端的に告げる。
『地脈から反応があった。――多分、地脈の力を使って何かの魔法が発動したの』
その言葉に、ルシエルははっとする。
「……まさか、転移陣!」
『反応はまだ続いてる。迎えに行く?』
「もちろん」
ルシエルはフォリーシュを伴い、足早に騎士団本部を出た。幸い、用はすべて済ませて、後は帰宅するのみという状態だったから話は早い。
『わたしが連れて行った方が早いね。こっち』
フォリーシュがルシエルの手を引いて、研究所へと戻って行く。彼女は森を通じて空間を繋げることができるので、その力を使って研究所内の小さな森と、転移陣がある騎士団演習場近くの森を繋げてしまうつもりだ。
『今日は距離が短いから、ちょっと近道するね』
「近道?」
『アルヴィーと行った時は行き先が遠かったから、ちゃんと道を通って行ったけど。今日はそんなに遠くないから、近道できるの』
二人して森に入り、足早に歩いて行けば、やがて前方が開けてくる。森を出ればそこは、確かにルシエルも見覚えのある、騎士団の演習場だった。
「すごいな……本当に、こんな短時間で移動できるのか」
これも一種の転移だ。感心しきりのルシエルだったが、気を取り直して本来の目的を果たすことにした。
「――こっちだ」
今度はルシエルが先に立って、転移陣のある方へと向かう。
歩きながら、フォリーシュに尋ねた。
「……でも、どうして僕にこのことを知らせてくれたんだい?」
『だってあなた、アルヴィーの友達でしょ。連れて行ったら、アルヴィーが喜ぶと思ったから』
彼女の返答は簡潔だった。
「そうか。ありがとう」
相変わらずやたらと人外に好かれる親友だ。いっそ清々しいまでの返答に、ルシエルも笑うしかない。
そうこうしながら辿り着いた転移陣は、確かに脈打つように輝いていた。辺りの研究員たちも、いきなりの急展開に蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。
そして――転移陣の光が一際強くなり、やがて消える。その後に立っていた姿に、ルシエルは堪らず呼びかけた。
「――アル!!」
「……え、ルシィ!?」
ぱちり、と目を瞬かせたアルヴィーが素っ頓狂な声をあげる。さらに騒ぎになった研究員たちを掻き分け、ルシエルは転移陣に駆け寄った。
「アル――」
そして、気付く。
「ルシィ、何でここに――」
言いかけたアルヴィーの腕を掴んで、ルシエルは低く問うた。
「アル。――その目は、なに」
炎を透かした琥珀のような朱金だったはずの、彼の瞳。
しかし今は、その内の片方が火竜と同じ黄金に染まっていた。
「あ……あー、これな」
それなのに、ルシエルの内心の焦りなど知らぬげに、アルヴィーは苦笑する。
「別大陸に転移して、目が覚めた時にはもうこうなってたんだよ。――俺もそう詳しくは聞いてないけど、アルマヴルカンの本体の方が、死にかけてた俺を助けるために、自分の血と肉を俺に追加で移植したらしい」
「…………!」
絶句するルシエルの隣で、フォリーシュもまた、息を呑んでアルヴィーを見ていた。
(……今までよりずっと、火の力が強い)
ただでさえ強まっていた炎の力が、今や溢れんばかりに彼の中に満ちている。そしてその力の総量も、今までとは比べ物にならない。
そうしたことが見て取れてしまう彼女は、だから理解せざるを得なかった。
(――アルヴィーはもう、“人間”から外れ始めてる)
彼はあんなに、“人間”でいたいと願っていたのに。
「――《擬竜騎士》が帰還した! 研究所に連絡を!」
「さっきの転移陣の発動、データ取れたか!?」
「しかし、良く無事で――」
喧騒の中、ルシエルは親友の腕を引いてその輪から抜け出す。
「お、おい、良いのかよ……」
「アルはまず、身支度をちゃんとしないと。それで、騎士団に帰還報告。――それから、検査も受けないと」
「あー……まあ、そりゃそうか……」
吞気に頭など掻いている親友に、ルシエルは鋭く振り返った。
「アルは吞気過ぎるんだよ!――今、自分がどういう状況なのか……」
「分かってるよ」
静かな声に、ルシエルは息を呑む。アルヴィーは波のない湖面のように凪いだ瞳で、親友を見返した。
「俺がどうなってるかなんて分かってるよ。自分のことなんだからさ。――でも、なっちまったもんはしょうがない。それに、そうでもしなきゃ俺は、死んでたかもしれないんだ」
「それは……」
「生きるために人間辞めるか、人間でいるために死ぬかなら――俺は、生きる方を選ぶよ」
迷いのない声。彼はもう選んでいるのだ。
そう悟って、ルシエルは唇を引き結ぶ。アルヴィーの腕を引く手に力がこもったが、彼にとってそれは幼子の力と大差ないのだろう。それをいいことに、ルシエルはさらに力を込めて、親友の腕を強く握った。
――あの時、自分の手が彼に届いていたら。
きっと彼はまだ、人間に近い場所に立っていられた――。
「……なあ、ルシィ。泣くなよ」
「泣いてないよ。もう子供じゃないんだ」
あの小さな村にいた頃の、アルヴィーに守られていたばかりの子供では、もうない。
……だから、どれだけ自分の無力に絶望しようとも、涙を流して泣くわけにはいかないのだ。
自分の腕を掴む手の、震えんばかりの力の強さに、アルヴィーはそっと目を伏せる。
(……ごめんな、ルシィ)
泣けない彼の、無言の慟哭。
その背に負わせてしまった後悔の重さを、アルヴィーは多分知っている。
けれど、それを解き放つことができる言葉を、彼はまだ持たなかった。
どちらも無言のまま、彼らは歩いて行く。
幼い頃のように手を引き引かれ、だがあの頃にはもう決して戻れないことを、彼らはすでに知っていた。




