第123話 竜の仔
「――なるほど。ここがロワーナとやらか」
魔動巨人の肩の上で前方を見つめ、アズーラはその金の双眸をわずかに細めた。
かつては《虚無領域》と呼ばれた荒野を抜け、東方面街道整備部隊は旧ロワーナ公国の辺境部へと差し掛かっていた。まだ旧クレメンタイン帝国が健在だった頃は、ここにもそれなりに大きな街があったそうだが、現在ではその面影はない。旧帝国の滅亡と大陸環状貿易路の閉鎖により、街は急速に寂れたそうだ。基幹産業たる貿易中継地としての役割を失った街からは、多くの住人が首都ラトラや周辺の町などに流れ、今では半分以上の面積が廃墟と化した場所に、ごくわずかな人々が暮らすのみとなっている。
そして――その廃墟となった街のそこかしこに咲く、薔薇の花。
(……確か、この薔薇の香りは人間の思考を麻痺させて、廃人同様に変えていくという話だったな。我々人造人間にはほとんど効かないそうだが……もうここまで、繁殖範囲が広がっているのか)
それは、この街道整備作業に出発する前、教えられた知識だった。彼らの主が品種改良の末に創り出したその薔薇は、芳香と共に一種の麻薬のような成分を分泌し、人間の思考を徐々に鈍らせていくという恐ろしい代物だ。元は三公国の首都を制圧するために、それぞれの大公の居城に植えて来たと聞いている。
繁殖力も凄まじいという話だったが、いくら何でもこの短期間で国中に広がるわけはなく、こんな場所まで広がったのはおそらく人間の仕業だろう。この薔薇は姿形や芳香が素晴らしく、持ち帰って傍に置きたいと思った人間が、首都辺りから一部持ち帰って来たものと思われた。
アズーラは魔動巨人の肩から飛び下りると、持たされていた魔法式収納庫から、重たげに膨らんだ袋をいくつか引っ張り出した。そして人夫たちを呼び集める。
「おまえたちの仕事はここまでだ。採用時の条件通り、報酬を渡す」
人夫たちは元々、ロワーナに到着した時点で雇用を打ち切るという契約だった。そもそも彼らを雇ったのは、引き連れた人造人間たちを魔法に専念させるためであり、彼らの代わりにかつての街道の道標を探すなどという細かな雑事をさせるために過ぎない。魔物が跋扈する魔境と成り果てたクレメンタイン帝国領内では、街道の痕跡がほとんど消えていたために必要な作業であったが、ロワーナに入れば街道はまだ人々の手で維持されて残っている。ここから先、彼らの役目はないのだ。
そうして人夫たちは、充分な金額の貨幣と帝都に戻るまでに必要な食料、護身用のアイテムなどを受け取った。アズーラを始めとする人造人間たちと魔動巨人は、このまま首都ラトラを目指すので、人夫たちは自分たちだけで帝都まで戻らねばならない。そんな彼らを守るための、アイテムの支給だ。報酬の額は破格ではあったが、まともに街道を整備しようとすればこの数万倍の人手と手間暇、それに費用が掛かるので、この程度で済めばむしろ無料同然に安上がりである。
人夫たちが出来上がった街道を戻り始めると、アズーラは前方に向き直った。
「行くぞ」
短く指示を下し、彼はロワーナ側の街道に足を踏み入れる。他の人造人間たち、そして魔動巨人もそれに続いた。
――辺りはまだ明るく、時折人の姿さえ見えるというのに、誰もが一行には無関心だった。地響きを立てて歩く魔動巨人にさえ、彼らは目も向けない。薔薇の作用により、思考能力が極端に低下している証拠だった。
(騒がれないのは面倒がなくて良いがな)
一応、何かあってもすぐに対応できるように剣の柄に手を掛けてはいるが、この分なら必要はないだろう。
かつては交易の一大中継地だっただけはあって、廃墟と化した街を抜けるまでには、しばしの時間を要した。アズーラはふと思い付き、通りついでに小さな薔薇の苗をいくつか採取しておく。花を終えて零れ落ちた種から、再び芽を出しでもしたのだろうが、この薔薇は拠点制圧に有用だ。
苗を魔法式収納庫に放り込み、アズーラはさらに東へと歩みを進めるのだった。
――そしてもう一方、西方面街道整備部隊もまた、旧モルニェッツ公国との境界付近に差し掛かろうとしていた。
「やっと着いたわ。ここがモルニェッツね」
数ケイルほど先に、明らかに人口の建物の影を望み、西方面街道整備部隊の監督役である人造人間・エスカラータは後方を振り返る。文句の付けようもないほどに整備された街道に、満足げな笑みを浮かべた。
「これで、“本来の”大陸環状貿易路が開通した、ということになるのかしら」
現在の大陸環状貿易路は、モルニェッツ及びロワーナの旧首都から海岸部へと向かい、港町同士を結んで航路が定められている。しかし本来の大陸環状貿易路は、それぞれの旧首都と帝都クレメティーラを結んでいたのだ。つまり今は、旧来の道も開通したことになる。
エスカラータはモルニェッツに入る前に、人夫たちにこれまでの報酬を支払い、人造人間と魔動巨人を従えて再び歩き始めた。
(……とはいっても、ここは少し面倒なことになっているのよね、確か)
彼女が事前知識として与えられている情報によると、ここモルニェッツと隣国ヴィペルラート帝国との国境付近で、以前に帝国の意を受けた者がヴィペルラート側の守備部隊を全滅させたらしい。その一件を受けてヴィペルラート側は防衛線を下げるなどの対策を取ったが、当然のことながら未だ警戒を解いておらず、国境の警備も厳重だ。
(領地の奪還は分からなくもないけど……ずいぶんごり押しだわね)
顎に手を当て、何とも人間臭い仕草で考えるエスカラータだったが、やはり人造人間たる彼女では、人間の機微を想像するのは難しかった。知識はあっても、それを上手く使いこなせるかどうかは、何といっても経験がものを言うのだ。その点彼女はまだ、多くの経験を積んだとはいえない。
「……ま、いいか」
分からないことは早々に放り出し、彼女はためらいなくモルニェッツの地に踏み入った。
道を行く人は彼女を一顧だにすることなく、それぞれの目的地に向けてゆっくりと進んでいる。こちらにも薔薇の猛威は遠慮なく振るわれているようだった。ヴィペルラートにまで薔薇の脅威が及んでいないのは、両国が接する国境線が短く、おまけに件の襲撃のせいでヴィペルラート側が防衛線を下げて厳しく警戒しているからだ。
「問題は、その国境の警備をどうにか抜けないと、ヴィンペルンまで行けないことだけど……ま、その時にはいくら何でも援助をくれるでしょ」
楽天的に呟いて歩いていると、どこからかりぃん、とかすかな音が聞こえた。
「あら」
エスカラータは懐を探ると、小さな水晶柱を取り出す。この中には通話の魔法が封じられており、遠く離れた相手と話ができる優れものだ。今回の任務にあたり、部隊を指揮する彼女とアズーラの両名には、主たるレティーシャからこの水晶を始め、様々なアイテムが与えられていた。
「はい、こちらエスカラータ」
『ベアトリスよ。エスカラータ、あなたはもうモルニェッツに入っていて?』
「ええ、今しがた。人夫は帰しましたけれど、よろしかったかしら」
『問題ないわ。――それと、陛下よりご命令があったので伝えておくわ。東方面及び西方面の街道整備部隊は、そのまま旧公国首都まで進行し、そこで別命あるまで待機とのことよ。到着したらこちらに連絡なさい』
「畏まりました、ベアトリス様」
通話を終えると、エスカラータは水晶を懐に仕舞い、楽しげに前方を見やる。
「さあ……次は何が起こるのかしら」
呟いて、彼女は新たな目的地へと思いを馳せるのだった。
◇◇◇◇◇
騎士団本部、騎士団長たるジャイルズ・ヴァン・ラウデールの執務室。
この日ばかりはそこに、常にない客人の姿があった。
「――では、貴殿はキルドナ三級魔法騎士の素性を承知の上で、養い子とし家名を与えたと、そう証言するのだな? キルドナ女史」
ジャイルズの質問に、王立魔法技術研究所薬学部主任、スーザン・キルドナは小さく肩を竦めた。
「ええまあ、そうなりますねえ」
並の人間なら気圧されてうろたえそうな気迫をさらりと受け流す辺り、さすがに年の功だ。
「でもねえ、団長さん。あたしがセリオを拾った時は、まだこんな子供ですよ。それを騎士団に突き出すのは、さすがにねえ……あたしも年を食ったとはいえ、一応女の範疇に引っ掛かってますんでね。子供には甘くなるってもんです」
しゃあしゃあとそう嘯くスーザンだが、彼女がそんなことに絆されるほど甘い性格でないことは、残念ながら知人には周知の事実だった。何らかの利益に繋がる、あるいはよほど彼女の気を引くものがなければ、子供を拾いあまつさえ育てるようなことはするまい。
「……で、女史。本音は?」
半眼になって問うジェラルドに、スーザンは堂々と答えた。
「あんな面白そうな子供、放っておく手はないでしょう!」
「……だろうな」
ジェラルドはため息と共に短く漏らした。
「それに、人造人間だって聞いちゃあね。引き取らない手はないでしょうよ。何たって人造人間は、生まれながらに膨大な知識を持ってるっていう話ですからね」
「……ほう?」
ジャイルズが興味を示したように眉を上げた。
「して、それは事実なのか?」
「確かに、同年代の子供に比べたら大分ものを知ってる子供でしたよ。――カルヴァート隊長も、心当たりがおありじゃありませんかね」
「ああ……そういえば、よく魔法の構成を弄ったりしてたな。ただ単に、魔法に詳しいだけかと思ってたが」
「とんでもない! 今の魔法はもうほとんど弄るところなんかないくらい洗練されてるってのは、あたしでさえ知ってる話ですよ。それをまださらに改良できるんだから」
「なるほどな。言われてみればその通りか」
思い返せば、セリオは時々魔法術式の改良に取り組んでいた。この世界の魔法はすでに完成形に近いというのが定説だが、もしかしたら人造人間たちの頭の中には、それを覆す知識もあるのかもしれない。
だが残念ながら、ジェラルドのちょっとした好奇心が満たされるのは、今しばらく後のこととなるだろう。張本人たるセリオは、現在ここにはいない。彼の素性については、あの場に居合わせた人々に緘口令が敷かれ、セリオ自身は騎士団の監視下に置かれている。
「正直なとこ、騎士団でセリオを扱いかねるっていうんなら、薬学部で引き取っても構わないんですがね。ポーション製造なんて業務が増えたせいもあって、こっちは万年人手不足なんですよ」
「生憎、人手不足はこっちも同様なんだ、女史。そもそも俺はあいつが人間だろうが人外だろうが、そこは別にどうでもいいんでね。ただ、ウチの戦力を勝手に引っこ抜かれちゃ困る。移籍は当分ナシだぜ」
「おや、それは残念」
スーザンはひょいと肩を竦めた。
「ま、カルヴァート隊長は見る目がおありのようで、あたしとしても幸いですよ。あれは愛想はないけど、才はある子供ですからね」
「愛想の方はパトリシアが担当してくれるさ」
勝手に部下に仕事を割り振り、ジェラルドはジャイルズに向き直った。
「そういうわけで、セリオはこれまで通り部下として扱います。よろしいですね、閣下」
「……好きにするが良い。ただし、“面倒”はそちらで見るようにな」
「心得ていますよ」
ジェラルドは一礼した。セリオが人造人間と知って、隔意を抱く者も一定数いるだろう。彼を部下とし続けるならばそうした輩からも自分の裁量で守れと、ジャイルズは言っているのだ。
そしてもちろん、ジェラルドはそのつもりだった。自分の部下も守れないようでは、中央魔法騎士団第二大隊長の名が廃るというものである。
「では、これで失礼致します、団長閣下」
敬礼し、ジェラルドはスーザンを促して上司の執務室を辞する。部屋を後にすると、スーザンが大きく息をついて首をこきこきと鳴らした。
「……ああ、やっぱり偉いさんの前ってのは、肩が凝るもんですねえ」
「俺も一応、そこそこの地位にいるんだがな」
半眼になったジェラルドに、スーザンはからからと笑った。
「まあ、そりゃそうなんですがね。隊長さんは“こっち”寄りでしょうが」
「現場に近いことは事実だがな。――権謀術数ってのはどうにも性に合わん」
ふん、と鼻を鳴らしたジェラルドは、確かに武人の面が強い。策を弄せないこともないが、同じく手の内を探るにしても、政治よりは剣を手にしての探り合いの方が得意だ。
「……何はともあれ、カルヴァート隊長。――ご厄介をお掛けしますが、あたしの息子を、よろしくお願いしますよ」
不意に足を止めて深く一礼し、スーザンはそう言った。ジェラルドは小さく頷く。
「分かっている。厄介事も今さらだ。あれは俺の部下だ、放り出しやしないさ」
ひらりと手を振り、ジェラルドは自分の執務室に戻って行く。それを見送り、スーザンもまた自らの属する場所へと戻って行った。
◇◇◇◇◇
『――よもや、おまえがここまで来ようとはな』
「俺だってまさか、別大陸まで飛ばされるとは思わなかったよ……」
突然の来訪者こと火竜エルヴシルフトは、同じく火竜であるアルマヴルカンを余所に、優雅に岩棚に舞い下りてくる。それを出迎えながら、アルヴィーはふと首を傾げた。
「でも、よくここにいるって分かったな。俺の気配ってそんなに分かりやすい?」
すると、
『何を言っている。わたしが番や雛たちと住んでいるのは、すぐそこの火山帯だ」
まさかのご近所さんだった。
「近っか!」
『あの辺りは火の力が豊富でな。おかげで雛たちもよく育っている』
「へー、そんなに大きくなったのか?」
するとその時。
「――ぴゃあ!」
聞き覚えのある甲高い声と共に、アルヴィーと同じほどもある物体が頭上から降ってきた。
「どわっ!?――アゼルアリア?」
「ぴゃあ!」
どすん、とアルヴィーの眼前に着地して目をきらきらと輝かせているのは、かつてアルヴィーが命を救った仔竜・アゼルアリアだ。だがその姿は、最後に見た時より明らかに体長・体積共に増加していた。以前はその気になれば抱え上げられるサイズだったが、今は抱えるよりむしろ抱き着く形になりそうだ。体型も子供らしい丸さが大分抜け、幾分すらりとして成体の竜に近くなりつつある。
だが、子供特有の懐っこさは健在のようで、嬉しそうにアルヴィーに頭を擦り付けてくるのは以前と変わらない。
「でっかくなったなー」
「ぴゃ!」
元気良く返事をしたアゼルアリアは、だがふとアルヴィーの腰の辺りに首を伸ばした。何かあるのかとつられてそちらを見、例のアースウォームの魔石をベルトに挟んでいたことを思い出す。
「ああ、これか?」
「ぴゃっ!」
引っこ抜いて見せてやると、アゼルアリアの目が一段と輝き、そして。
ぱくり。
「――どわああ!?」
魔石を持つ手ごと口の中に入れられて、アルヴィーはぎょっとした。
「こら、人の手ごと食うなっての! ってかこれ、馬鹿でっかい虫の魔石だぞ!? 腹壊すぞ!?」
『魔石は単なる魔力の塊だ、別に毒など混ざってはいない』
「……いや、毒というか、それの“製造元”がちょっとアレでな……」
アルヴィーとしてはあの巨大かつ気色悪い虫から出てきたものなど、頼まれても口にしたくはないのだが、竜はその辺あまりこだわらないらしい。アルマヴルカンもアースウォームが不味いなどとのたまったくらいだし、もしかして竜というのは意外と悪食なのだろうかと、ちょっと不穏なことを考えてしまった。
だがもちろん、そういうわけもなく。
『我々竜は、自然界の魔力を取り込んで糧とする。特に雛の頃は育ち盛りで、いくら取り込んでも足らんほどだ。幸い、今の住処にしている火山帯は活動が盛んで、火の属性を帯びた魔力が膨大に湧き出すため、雛を育てるには重宝している。その魔石程度ではとても及ばんが、たまには毛色の変わった魔力も味わってみたいのだろう』
人間で言うところの甘味のようなものかと、アルヴィーはちらりと考える。
そんな彼らを余所に、アゼルアリアは嬉しそうにもごもごと魔石を舐めていたが、やがてごくりと呑み込んで「ぴゃあ!」と満足げな声をあげた。まるで飴玉を舐める子供のようだ。
そんな我が子をこちらも満足げに見やり、そしてエルヴシルフトは上空で滞空するアルマヴルカンを見上げた。
『――して、あれは何だ?』
ぴり、と空気が張り詰めた気がした。
『火竜であることは確かなのだろう。どことなく、わたしと近い力を感じる気もする。――だがあれの身体からは、妙に“作った”ような臭いがするぞ』
その言葉に、アルヴィーは息を呑む。竜の五感というのは凄まじいものらしい。
『……ふむ。さすがに同族の鼻は誤魔化せんか』
と、アルマヴルカンがふわりと舞い下りる。父とは別の力ある竜の気配が急に膨れ上がったことに、アゼルアリアは慌てて飛び上がり、エルヴシルフトの背にしがみ付いた。狭い岩棚は二頭の火竜ですでに定員オーバーになりつつある。
「こらー! いきなり下りて来んなって! っていうか岩棚崩れたらどうすんだよ!」
『さすがにこの程度では崩れまい。万が一崩れたとしても、おまえの翼とて飾りではなかろう?』
アルヴィーの抗議を鼻で笑い飛ばし、アルマヴルカンは伸ばした尻尾をくるりとアルヴィーに巻き付けた。
「おい、ちょっと!?」
『おとなしくしていろ。――事と次第によっては、ここで一戦交えることになる』
「一戦って……!」
絶句するアルヴィーを余所に、二頭の竜は静かに睨み合う。ざわり、と大気が揺らぎ、波となってびりびりと身体を打つように感じられた。知らず息を詰め、アルヴィーは竜たちを見上げる。
と――エルヴシルフトが翼を広げ、ふわりと空に舞い上がった。
『……ふん、やはり竜は竜か。生きているのか死んでいるのか分からんような有様でも、種の本能は持ち合わせていると見える』
「本能……って?」
問うアルヴィーに、エルヴシルフトはどこかおかしげな声で爆弾を落とした。
『我ら竜は、本能で雛を守るものだ。――その竜の態度、雛を連れた親竜そのものだぞ?』
「は――」
唖然とするアルヴィーと黙するアルマヴルカンを残し、エルヴシルフトはそのまま空高く飛翔する。
『――まあいい。今回はおまえの気配を感じたゆえ様子見に来ただけだ。しばらく見ない内にずいぶん竜らしくなったものだが、今のおまえなら我々の住処にも来られるだろう。気が向けば顔を出すが良い』
そう言い置くと、エルヴシルフトは翼を羽ばたかせ、火山帯の方へと飛び去って行った。
(竜から見ても竜らしいって、やっぱ俺、割と人間辞めてんのか……っていうか)
アルヴィーはもぞもぞとアルマヴルカンの尻尾から抜け出そうとしたが、意外ときっちり巻き付けられていて脱出できない。本気で締め上げられればアルヴィーの骨などひとたまりもないだろうから、それなりに手加減はしてくれているのだろうが。
「――なあ、もう大丈夫だろ! そろそろ放してくれってば!」
ぺしぺしと尻尾を叩くと、ようやく巻き付く力が緩んだので、よじ登って脱出した。
「……ったく、せっかく造った拠点で火竜が一戦とか、洒落になんないぜ。止めてくれよホント」
『どちらかといえば、仕掛けてきたのはあちらだがな』
「だからってな……てか、エルヴシルフトってアルマヴルカンにとっちゃ甥っ子ってことになるんだろ? けど分かんないもんなんだな」
『仕方あるまい。あれに見えたのは雛の頃の一度きりだ。それにそもそも、いくら竜とてよほどに近しい存在でなければ、長らく会うこともなかった相手の素性をそうはっきりと見極めることはできん。――それこそ、血を分けた親兄弟でもなければな』
「へ? そうなのか?」
ぱちくりと目を瞬かせるアルヴィーに、アルマヴルカンは笑うように喉を鳴らすと、その金の双眸を細めた。
『だが逆に言えば、近しい間柄ならばその魂が欠片となっていようとも、感じ取ることができる。――たとえば、おまえの魂の一部に、わたしの子の魂の欠片が混ざっているのが分かるようにな』
一瞬の沈黙。
そして、
「――はああああああ!?」
アルヴィーの絶叫が、荒野の静寂を貫いて響き渡った。
◇◇◇◇◇
元々、子を望んでなどいなかった。
だが、番を作ることもなく世界を流れ続け、数百年も過ぎた頃。その頃はまだ活動していた火山を縄張りとする一頭の雌の火竜に、一時だけの番となり、雛を与えてほしいと申し込まれた。添い遂げる番は不要だと言ったその雌竜はなかなかに力が強く、珍しく興が乗った彼は、その申し入れを受けたのだ。
やがて雌竜が産み落とした卵からは、一頭の雄の仔竜が孵った。
雛の誕生を見届け、アルマヴルカンは母子のもとを去った。普通の野の獣とは違い、竜は獲物を狩る必要がない。子育てに必要な魔力は火山から受け取れるので、母竜だけでも問題なく仔竜を守れると踏んだのだ。アルマヴルカンにとって、その雛は雌竜に乞われてもうけた彼女のものであって、彼のものではなかった。
そうして彼はその後百五十年ほど、この一帯を訪れることなく過ごした。
しかし――およそ百五十年後、偶然に再びその地の上空を通り掛かったアルマヴルカンに、一頭のまだ年若い火竜が喧嘩を売ってきたのだ。
それはまさしく、あの時母竜のもとに置いてきた、アルマヴルカンの子供だった。
『――わたしを親だと知ってのことか、それともただの偶然かは、今となっては分からんがな。それ以来あれは何かと、わたしに突っ掛かってくるようになった。わたしも、最初はどこの身の程知らずかと思ったものだがな。道理で、消し飛ばす気にならなんだわけだ』
苦笑のように、アルマヴルカンの声にかすかな笑みが混ざる。
『しばらくの間……大体人の年で二百ほどは、そうしてあれを適当にあしらっていたがな。――あれは人に討たれた』
ぽつりと落とされた言葉に、アルヴィーは目を伏せた。
以前、欠片の方のアルマヴルカンに、聞いたことがある。その時アルヴィーは、アルマヴルカンの抱える思いを“寂しさ”だと解釈したのだが。
(……多分、もっときつかったんだろうな……子供が、自分より先に死んじまうなんて)
自身も両親を亡くした経験のあるアルヴィーは、血を分けた存在を失う辛さを知っている。竜が仔を守ることを本能に刻まれているというなら、その苦しみは想像を絶するものだったのだろう。
『……わたしの心中を推し測るのは勝手だが、あれももう雛と呼べる年ではなくなっていた。成体になれば、自分の面倒は自分で見るものだ。あれが人に討たれたのも、あれが未熟だっただけのこと』
しかしアルヴィーの同情は、他ならぬアルマヴルカンによって木端微塵にされたが。
『そもそも、人間に討たれる竜というのは大半が、若く未熟な竜か死にかけの老竜だ。わたしは老竜というほどの年ではなかったが、生きるにも飽いていたゆえな。どちらかといえば後者に近い』
自分のことだというのにひどく客観的にそう分類し、彼は低く喉を鳴らす。
『もっとも、死んだら死んだでなかなか魂が世界に還らず、《竜玉》や身体に留まってしまっていたがな。何だかんだ言っても、わたしにも“執着”と呼ぶべきものがあったのかもしれん』
「執着って……それってやっぱ、子供のことだったのか?」
『そうかもしれんな。雛など要らぬと思っていたが、やはり自分の血を受け継ぐ者を、どこかで求めていたのかもしれん。血を未来へと繋ぐのは、生物であれば大抵が持ち合わせる本能的な欲求だ』
「そうだな……」
人間も獣も、そして幻獣も、血を繋ぎ世代を重ねて、未来へとその存在を残していく。そうした命の営みは、かつて猟師として森と共に生きたアルヴィーには身近なものだ。
それは以前にアルマヴルカンから聞いた魂の循環と共に、絶えることなく続いていくのだろう。
そしていつか、アルヴィー自身もその中に還る。
遥かなるその流れに少しだけ思いを馳せたアルヴィーは、だがアルマヴルカンの言葉に我に返った。
『……おそらく、おまえがわたしの欠片に耐えられたのは、その魂にあれの魂の欠片を持つがゆえだ』
「え?」
『他の者とは違い、同じ火竜であった魂の欠片を宿して生まれてきた分、おまえには潜在的にわたしの力に耐えうる素地があったのだろう。無論、他にも要因はあろうが、まずは下地がなければ始まらんのでな』
「……じゃあ、メリエや他の奴は、そうじゃなかったから狂ったって、そういうことなのか……?」
アルヴィーは自身の右手を見つめる。あの日、レドナの街を蹂躙した炎が、目の前にちらついた気がした。
「……なあ」
顔を上げると、金の双眸でこちらを見下ろすアルマヴルカンと目が合う。
『何だ』
「……もしかして、俺がおまえの子供の魂の欠片を持ってたから、ここに連れて来たのか?」
『そうとも言えるな。――正確には、わたしはわたしが持つ執着の源を、見極めようとしていた。あの女が言うことには、わたしのこの身体を安定させるためにも、それが必要だそうだからな』
「何だそれ!」
『戦闘当初、わたしの身体はまだ安定しきっていなかった。覚えがあるだろう』
「そういえば……」
王都ソーマでの戦闘の際、アルマヴルカンが動くたびに鱗を撒き散らしていたことを、アルヴィーは思い出した。確かダンテも、“本調子ではない”と言っていたか。
(……待てよ、俺と戦ってる時にはもう、そんなのなくなってたような……)
何だかとても思い当たる節が出てきて、おずおずと尋ねてみる。
「なあ、今んとこそんな不安定な感じしねーけど……それ、俺が何か関係してんの?」
『そのようだな。まさか、自分がこのような執着を持っていようとは、思いもよらなかったが』
「……まあ、人間だって自分のことなのに良く分かんねーって珍しくないしな。俺だってそうだよ」
つい、ぽんぽんと軽く叩いた竜の体躯は、火竜であるせいか、ほのかに温かかった。
「だから、それを見つけるために生きてんのかもしれないな、人間って」
アルヴィーの言葉に、アルマヴルカンは小さく喉を鳴らした。
『ふむ。興味をそそられる見解だ』
「そうか? 竜って何でも知ってると思ってたけど」
『我々竜とて、この世界に生きる生物の種類の一つに過ぎん。――すべてを知る者など、千年前にこの世界を去った神々くらいのものだろう』
「ふうん。神様、ねえ……」
胡散臭げにアルヴィーは鼻を鳴らし、空を見上げた。日はすでに傾き、赤みを増して地上を照らしている。
「……日が暮れるな」
呟いて、彼はまるで燃えているように紅く染まる荒野を、飽きず見つめていた。




