第121話 魔境
アルヴィーが“火竜アルマヴルカン”と共に行方不明になったという報告は、ファルレアン上層部に衝撃を与えた。
彼が行方不明になったのはこれが初めてではないが、その当時はまだ、彼は高位元素魔法士ではあろうとも、身分的には平民であり、騎士団所属の騎士の一人に過ぎなかった。しかし今は違う。領地なしの男爵位とはいえ、爵位を持つれっきとした貴族なのだ。それが竜との戦闘の末に行方不明となれば、与える影響は以前の比ではなかった。
「――《擬竜騎士》は、まだ見つからぬか」
「は、残念ながら。現在、全力を挙げて捜索しておりますが……」
騎士団長ジャイルズ・ヴァン・ラウデールの報告に、宰相ヒューバート・ヴァン・ディルアーグは渋い顔になる。
「国内で見つかれば、まだ良いのじゃが……問題は、国外に出ておった場合じゃな。国外ではさすがに、思うようには動けぬであろう」
「は。念のため、国外に派遣している諜報部隊にも連絡を取っている最中であります」
騎士団は諜報活動の一環として、独自に編成した諜報部隊を他国に放っている。レクレウスとの戦争の末期には、《擬竜兵》の存在を掴むなどの手柄を挙げた部隊だ。国としてももちろん各国に諜報員を放ってはいるのだが、国に属する騎士団とはいえ、常に国と利害が一致するとは限らない。独自の情報源を欲するのは当然のことであり、国としても黙認している。
「現場に残された転移陣は、現在魔法技術研究所が総力を挙げて調査・解析に当たっております」
「うむ」
ヒューバートが重々しく頷く。その後ろで、玉座に座した女王アレクサンドラ・エマイユ・ヴァン・ファルレアンは、ふと顔を上げた。同時に、閉め切られたはずの室内に緩やかに渦巻く風。
「――シルフィア?」
彼女がその名を呟くと、風はやおら強まり、凝ったその中に人の姿を形作った。
薄緑と金が混ざり合った長い髪、顔の両側を飾る蜂蜜色の羽。輝石と羽をあしらった若草色のドレスの裾と長い髪をなびかせ、彼女はアレクサンドラの眼前に舞い下りる。
だがその表情は、常になく真剣なものだった。
「シルフィア、なぜ?」
『少し厄介なことになったからよ』
通常彼女は、アレクサンドラが求めなければ他の人間の前に姿を現すことはほとんどない。それを崩したことへのアレクサンドラの問いに、彼女を寵愛する風の大精霊シルフィアは言葉少なに答える。
「厄介なこと……?」
『ええ』
彼女はその白く細い手をひらりと翻した。小さく風が巻き起こり、それが世界へと広がっていく。
「今のは?」
『風の精霊たちに情報を集めさせているわ。――あの子、よりにもよってとんでもないところへ飛んだみたい』
「彼の居場所が分かるの?」
アレクサンドラの言葉に、閣僚たちがざわめく。だがシルフィアは顔をしかめた。
『……居場所は分かるわ。でも人間がどうこうできる場所じゃないの。――まったく、あの火竜、まさかわざとあそこへ飛んだんじゃないでしょうね』
ぶつくさと愚痴めいたことを零しながら、シルフィアは閣僚たちに向き直る。
『あの子を捜させているのなら、早々に打ち切りなさい。どの道無駄になるわ』
「無駄、とおっしゃると?」
窺うように問うヒューバートに、シルフィアはばさり、と長い髪を掻き上げた。
『あの子は今、この大陸にはいないわ。――海を挟んだずっと南方、人間が知らないもう一つの大陸。彼はそこにいるのよ』
彼女の言葉に、場は一際大きなざわめきに包まれた。
「も、もう一つの大陸とは……! ほ、本当にそんなものが存在するというのですか!」
興奮気味に身を乗り出すのは、王立魔法技術研究所所長のサミュエル・ヴァン・グエンだ。彼の専門は魔法や錬金術だが、そもそも学者というのは多分に好奇心旺盛な人種である。未知の大陸などという単語に、心躍らないわけがなかった。
だが、人間にとっては未知であっても、精霊――特にシルフィアを筆頭とする風の精霊たちにとっては、件の大陸は行こうと思えば行ける場所でしかない。彼女は小首を傾げた。
『本当よ? もっとも、物凄く遠いけど。今の人間の技術じゃ、行くことは難しいでしょうね』
「で、では、《擬竜騎士》は……!」
帰還不可能という最悪の事態を想像してしまい、閣僚たちが青ざめる。その様子に、シルフィアはころころと笑った。
『他の人間ならともかく、あの子ならどうとでもなるでしょ。精霊や竜を手懐けてるんですもの。王城にいる地精霊だってそうでしょう?』
「た、確かに」
一例を挙げれば、現在魔法技術研究所薬学部所有の森に住む地の高位精霊・フォリーシュは、空間を操作することができる。森と森でなければ空間を繋げることはできないらしいが、それでも人間にはできない芸当には違いない。
少し安堵の色が滲んだ空気を、その時アレクサンドラの声が引き締める。
「――彼の今の居場所や状況は分かるかしら? シルフィア」
『ああ、ちょっと待ってね。精霊を集めるわ』
シルフィアがぱちんと指を鳴らすと、途端に彼女の周囲に巻き起こる風。激しくはためく髪とドレスを押さえながら、アレクサンドラはその旋風の中にいるシルフィアを見つめる。
ややあって、渦巻く風は唐突に霧散した。
『――分かったわ。今は大陸南部の荒野の辺りにいるみたいね。火山帯の近くで、そこは火竜が結構棲み付いてるから、下位精霊じゃあまり詳しくは調べられなかったみたいだけど。少なくとも、怪我なんかをしている様子はないみたいよ』
「火竜……ですと」
『あの大陸は人間がいなくて、幻獣と魔物しかいないのよね。ま、あの子ならその辺の魔物なんかに後れは取らないでしょ』
またしても不安しか感じないシルフィアの情報に、閣僚たちの顔色が悪くなる。アレクサンドラは少し考えたが、
「……彼に連絡は取れるかしら?」
『そうね、高位精霊なら伝言くらいは届けられるわ。中位以下だと、あの辺りの火竜の気配に負けて近寄れないのよ。で、何を伝えれば良いの?』
「いえ――今はまだいいわ。必要な時に連絡が取れることが分かれば、それで。ただ、引き続き彼の様子を探れるかしら?」
『なら、少し距離を置いて様子を見させるわね。あまり近過ぎると、火竜を刺激するかもしれないから。でも、その程度で構わないの?』
「ええ」
頷くアレクサンドラに、シルフィアは首を傾げたが、
『――ま、いいわ。ひとまず今回はここまでね。また呼んでちょうだいね、わたしのエマ』
一つウィンクを残し、シルフィアの姿は風に掻き消える。基本的に彼女たち風の精霊は自由気ままだ。
名残である風も消えてしまうと、閣僚たちの間にややほっとした空気が流れた。自国の女王を寵愛していると分かっていても、やはり大精霊の一角たる存在を目の当たりにして、緊張せずにいられるわけもない。いくら身分や地位が高かろうと、精霊にとっては等しくただの人間に過ぎないのだ。
「……何ともはや、壮大な話になりましたな」
ジャイルズが大きく息をついた。アルヴィーの無事が確認できたのは喜ばしいことではあるが、その所在が人間の力では辿り着けない別大陸となると、手放しには喜べない。
「しかし、我々では如何ともし難いところにいるとなると……」
「やはり、精霊殿に力を借り受けるしか……」
ざわめく閣僚たちを諌めるように、アレクサンドラの声が凛と響く。
「――静まりなさい」
途端に沈黙が下りた。
「ひとまず、《擬竜騎士》については風の精霊たちに任せましょう。――グエン所長」
「は」
「長距離転移陣の実証実験は、すぐに再開できるかしら」
「は――ただし、陣の稼働に必要な魔石などの補充に、二日ほどいただきたく存じます。また、クレメンタイン帝国の者が残して行った陣の痕跡も確保できておりますので、そちらも解析することができれば、さらに術式の精度は向上するものと思われますが……すぐにと仰るのであればやはり、実験に供した陣をそのまま使うことになろうかと」
「そう……では、早速取り掛かってちょうだい」
「はっ」
名指しされたサミュエルは恭しく頭を垂れる。ヒューバートが驚愕の滲む声で主に問うた。
「陛下……よもや、転移陣をお使いになるおつもりですか」
「火竜は実験用の転移陣を利用して王都に現れ、《擬竜騎士》は転移陣を通じて別大陸へ転移した。なら、同じ要領でこちらへ戻って来ることも、できるとは思わなくて?」
「し、しかし……! それには、あちらでも対の陣を描かねばならぬのでは?」
「それは風の精霊に伝えて貰うわ」
高位精霊ならば、転移陣を記憶してアルヴィーに伝えることもできるだろう。アレクサンドラにとっては、さほどの問題ではない。
「出来うる限り、彼の不在を他国に悟られることのないように。防諜は徹底させてちょうだい」
「はっ」
女王の命を、臣下たちは謹んで承る。何となくそれで会合もお開きという雰囲気になり、ヒューバートによって切り上げられた。閣僚たちが各々持ち場に戻り、アレクサンドラ自身も執務に戻ろうとするのに付き添い、ヒューバートも議場を後にする。
執務室に戻り、他者の耳がなくなったのを確かめると、ヒューバートは口を開いた。
「……陛下。少しよろしいですかな」
「何かしら」
少女には不似合いなほどに大きな執務机を前に、アレクサンドラはヒューバートに目をやる。そんな彼女に、彼はわずかに目を伏せて告げた。
「以前に申し上げました、陛下のご婚約の件ですが――実は、ヴィペルラートより弟皇子をという打診が、内々に参っております」
その言葉に、アレクサンドラはペリドットグリーンの瞳を細めた。
「……ヴィペルラート?」
「左様にございます。現皇帝であらせられるロドルフ陛下には複数の弟君がおられますが、その内のお一人が年の釣り合いも常識の範囲内であり、いかがであろうかと」
「そうね……レクレウスとの関係を考えれば、ヴィペルラートの帝室と姻戚関係を結べるのは悪くはないわ」
何しろレクレウスとは、ついこの間まで戦争をしていた間柄だ。停戦条約を結んだとはいえ、両者の関係は問題なく良好とは言い難い。特にレクレウス側は虎視眈々と、ファルレアンが握る手綱から逃れてやろうと機を窺っているに違いないのだ。
だが、レクレウスを挟んだもう一つの大国・ヴィペルラートと誼が結べるならば、その事実でレクレウスを牽制することができる。いわゆる遠交近攻という状態だ。
「ヴィペルラートは旧来の領土拡大路線を改め、国内に注力し始めておりますが、その分国外への示威は鈍りますな。加えて、レクレウスでは貴族議会なるものが台頭し、首尾良く国内を纏めつつあるとのこと。あちらにとっても、レクレウスを牽制し我が国との結び付きを得るために、帝位継承者を一人婿入りさせるだけの価値はあると踏んだのでございましょう」
ヒューバートの言葉に、アレクサンドラは頷く。
「良いでしょう。考えてみるわ。けれど、他にも申し込みは来ているのでしょう? 結婚など一度しか切れない札だもの、慎重に相手を見極めなくてはね。――でもどの道、今回の一件が片付いてからの話だけど」
「……左様でございますな」
まだ十代も半ばの少女がそこまで割り切った考えであることに、何ともいえず複雑な思いを抱きながらも、ヒューバートは一礼するしかなかった。だが彼の立場では、彼女に自由な恋愛などさせてはやれない。
孫のような年の少女に国というとてつもない重荷を負わせる罪悪感を味わいながら、彼は女王の執務室を後にするのだった。
◇◇◇◇◇
「――よっ、と……」
荒野に佇む岩山の一つ、その頂に下り立ち、アルヴィーは眼下を望む。見渡す限りの荒涼たる風景に、ため息をついた。
「……参ったなあ……どこだよここ」
地平線が見えるほどに広大な大地に、点々と佇む岩山。ふと、以前に訪れたイムルーダ山の山頂を思い出した。そこにあった飛竜の繁殖地に、雰囲気がどことなく似ている。もっとも、ここで繁殖活動を行う飛竜はいないだろうが。
(……あれじゃなあ……)
アルヴィーが見やった先――シルヴィオの“千里眼”でも見えないであろう遥か彼方、連なる山々。いくつかの山は景気良く、あるいは細々と噴煙を立ち昇らせ、その周囲をいくつもの影が飛び回っている。
そこは未だ火山活動が盛んな火山帯であり、火竜たちの住処なのだ。
(この程度の距離じゃ、竜にとってはほんの近所みたいなもんだろうしなあ……)
飛竜どころか、《下位竜》でもここには住めまい。しかも火山帯に棲むのは大体が、子育て中の竜らしい。そんな場所の近所に棲み着くなど、自殺行為もいいところだ。
『――何をしている?』
と、いきなり下から伸び上がってきた深紅の影に、アルヴィーはため息をついた。
「……位置確認だよ」
『ほう? 闇雲に逃げ出すほど愚かではないようだな』
「こんなとこで何の準備もなく逃げ出せるかよ。その辺で干涸らびて死ぬのがオチだろ」
肩を竦め、アルヴィーは山頂から飛び下りる。十数メイルも下にある岩棚に、猫のように身軽に着地。そのままそこに腰を落とす。
(……っつっても、ここ拠点にしてても周りなーんもないもんなあ……せめて森でもありゃ、獣の一頭でも狩れそうだけど)
森もなければ川の一筋もないこんな荒野では、人間など早晩飢えと渇きで死ぬしかない。
(……まあ、今の俺が“人間”に当て嵌まるかっていえば、どうだかなって話だけど)
右肩に目をやり、アルヴィーは自嘲するように胸中で呟いた。
腕に留まらず、ほとんど首元にまで侵食してきた深紅の肌色。そして金に色を変えた右目。それはこの身がより深く――もう人外との境も危ういほどに、火竜に侵食された証だ。
目を凝らせば、以前よりずっと遠くまで見渡せる。操れる炎はさらに大きくなり、そして。
「……何か、さらに派手になったよなあ」
右腕を戦闘形態に変化させると、右肩に形成される翼。今まででさえほのかに朱金の光を内包していたそれは、時折ちらちらと炎まで纏うようになった。一体何の得があるというのか。
はあ、とため息をつき、アルヴィーは遠い地平線の彼方を見やる。
(とにかく、ソーマに戻んねーと。――けど、そもそもここがどこだか分かんねーんだよなあ)
イムルーダ山と雰囲気は似ているが、あの辺りではないだろう。ディルアーグ公爵領内に、火山帯などは確かなかったと記憶している。かといって他の領内にも詳しいというわけではないので、ならばどこかと問われるとお手上げなのだが。何しろ親友たるルシエルが将来統べるであろうクローネル伯爵領でさえ、街道を素通りしただけという体たらくだ。
少しでも手掛かりを得ようと辺りの景色を眺めていると、巨大な影が頭上から覗き込んできた。
『何か面白いものでもあるのか』
「見りゃ分かるだろ、なんっにもねーよ。ここがどこだかも分かりやしない」
投げやりに荒野の風景を指し示せば、さもありなん、という返事が返ってきた。
『だろうな。ここはそもそも、人間たちが住まう大陸とは別の大陸だ。見覚えがないのも道理だろう』
「…………は?」
数秒の沈黙。そして、
「――はああああああ!?」
アルヴィーは絶叫した。
「別の大陸って、何だよそれ!? 転移陣ってそんな長距離飛べんのかよ!?」
『地脈の力も流用して、わたしが術式に干渉した。本来はあの大陸のどこかに繋がっていたようだがな。みすみすあの人間どものもとに戻るのもつまらん。少し梃子摺らせてやれば良い』
アルマヴルカンの言葉に、アルヴィーは眉を寄せる。
「……シアの味方だったんじゃ、ないのか?」
『なぜわたしが、人間の味方などせねばならん』
即答だった。
『そもそもわたしがあの人間のもとにいたのは、《竜玉》と血肉をあの人間に持ち去られたからに過ぎん。――もっとも、あれらを“人間”と呼んで良いものかは怪しいがな。それはおまえも知っての通りだろう』
「……そりゃあ、まあ、な」
アルヴィーは目を泳がせる。
レティーシャは初め、“シア・ノルリッツ”と名乗りレクレウス側の研究員として、《擬竜兵計画》に携わっていた。その時の彼女の容姿は、四十代ほどの女性。人間がそう簡単に十も二十も若返れるわけがないので、彼女も何らかの形で“人間”とは違う部分を持っているのだろう。
(メリエだって、暴走の後身体が塵みたいに崩れたってルシィたちが言ってたのに、生き返ってピンピンしてるし……もしかしたらシアも、同じ方法で)
そう思い付いた時、遠い咆哮のようなものが聞こえた。
「……ん?」
視線を巡らせると、――数百メイルばかり離れたところの地面が、爆発でもしたかのように弾け飛んでいる。そして、次第に近付く微細な振動。しかし何も見えないが、と訝しく思っていると。
『――主殿、地上……いや、地中か』
「へ?」
アルヴィーの中にいる方のアルマヴルカンから、警告。ほぼ同時――地面を突き破って姿を現したのは、岩のように硬質な表皮を持ち頭部に幾重にも生えた牙をギチギチと鳴らす、目測で十メイルは超えようかという巨大な虫!
「ぎゃああああああ!?」
そのまま岩山を這い登って来そうな迫力満点のグロテスクな巨大虫に、アルヴィーは思わず絶叫した。その声を聞き付けたわけでもないだろうが、巨大虫はキシャア、と威嚇のような声をあげながら大きく身をくねらせる。よく見ると呆れたことに、巨大虫の身体はまだかなりの部分が地中に埋まっていた。地上に出ている分だけで十メイル超えなら、全長は――と考え、アルヴィーはぶんぶんと首を振る。深く考えない方が心の安寧のためになる気がする、切実に。
「何だあれ……」
まるで水揚げされたての魚のように、地上でびったんびったんと元気良く跳ね回る巨大虫を、アルヴィーがげんなりと見下ろしていると、アルマヴルカン――こちらは実体持ちの方だ――が答えを寄越した。
『あれはアースウォームだな。こういった荒野の地中に住む魔物だ。地中で待ち伏せして獲物を狙う。あの分なら、地上に出ている部分の三、四倍の体長があるだろう。まあ図体が大きい分、奴らは大味だ』
「食ったのかよ!?」
なぜか付け加えられた味についての注釈に、さすがに突っ込んでしまうアルヴィー。かつてワーム(翼と手足を持たない竜の亜種)を目の前に「これ、食えねーかな」とのたまった彼でさえ、あの活きの良い巨大虫を食べようとは思えなかった。というか全身全霊を懸けて遠慮したい。
どっか行ってくんねーかな、とアルヴィーが半眼で見下ろす地上、未だびったんびったんしていたアースウォームは、だがおもむろに動きを止めた。さすがに疲れたのだろうかと思ったその時、アースウォームは一度もぞりと身動きし――。
次の瞬間、地面が爆発した。
そして鞭のように大きくしなる、アースウォームの長大な体躯。
それはすべてを薙ぎ払うかのごとくに力強く岩山に激突し、風雨に耐え抜いてきた頑強な岩の一部を爆砕した。
「どわああああ!?」
冗談抜きに岩山が揺れ、アルヴィーはとっさに岩棚を蹴って宙に逃れる。するとそれを待っていたかのように、アースウォームは牙の生えた口を蠢かせ大きく身をもたげた。しかしアルヴィーが魔法障壁の足場で空中に留まったため、空振りして再び地面を抉るに留まる。
「……おい、あいつもしかして、俺のこと食おうとしてんの?」
『そのようだな。奴らは魔力を感知して獲物の居場所を見つけ出しているようだが、大方おまえのことを竜の雛か何かと勘違いしているのだろう。――否、あながち勘違いでもないかもしれんがな』
「は? 何だよそれ」
着実に人間を辞めつつあるアルヴィーだが、いくら何でも竜として生まれた覚えはない。だがともかく、あの気色悪い馬鹿でかい虫が自分のことを(文字通り食事的な意味で)美味しくいただこうとしているのは確かであり、そしてこちとら残念ながら、虫に食われてやるほど博愛精神を持ち合わせてはいない。
ならば、やることは一つである。
アルヴィーはわざと足場を消し、自由落下に身を任せる。見たところ目に相当する器官はないようだが、アースウォームはどうやってかそれを察知したようで、再び大きく身をくねらせて、牙が並ぶ口で喰らい付いてこようとした。
円形にずらりと並んだ牙が不気味に蠢きながら、宙を舞う獲物を待ち受ける――。
「――《竜の咆哮》!」
そのど真ん中を狙い、アルヴィーは全力で《竜の咆哮》を撃ち込んだ。
放たれた光芒は大気を焼き、狙い違わずアースウォームの口の真ん中を貫く――とほぼ同時、圧縮された膨大な炎の熱の余波が、一瞬にしてアースウォームの頭部を焼き尽くし、灰に変える。そしてその身体が膨張し、炎を噴き上げながら弾け飛んだ。
まさしく爆裂といって良い有様で、全長の三分の一ほどを消し飛ばされたアースウォームが、地響きを立てて地に横たわる。反動で一度大きくバウンドしたが、それきりもう動く様子はなかった。
「……倒した、か?」
《竜の咆哮》を放つ直前に再構築した足場から、恐る恐る地上の様子を窺いながら、アルヴィーは息をつく。気を付けながら地上に下り、足先でアースウォームをつついてみたが、さすがに頭を含め全体の三分の一を消し飛ばされた上に燃やされては、その強靭さと生命力をもってしても生きてはいられなかったようだ。現在進行形で景気良く燃えている辺りから目を逸らしつつ、アルヴィーはしげしげと、その巨大な体躯を眺めた。
「……いくら食料がないっつっても、これは食いたくないよなー……お?」
ごつごつとした表皮に、何かが淡く光ったように見えて、アルヴィーは目を瞬く。よくよく目を凝らすと、アースウォームの胴体の中ほどに、不明瞭な光が見えた。
「……何だこれ」
『それはこのアースウォームの魔石だな。魔石はいわば魔力の塊だ。“わたし”の侵食が目にまで影響したことで、強い魔力を光として視認することが可能になった』
アルヴィーの中で、アルマヴルカン(欠片)が答える。少し眉をひそめたが、すでに火竜の血肉を追加で取り込んでしまっている以上、それによってもたらされる変容は甘受しなければならない。
「魔石か……何か役に立つかもしれないし、取っとくかな」
右腕の《竜爪》を伸ばす。赤熱する深紅の剣身に炎を纏わせれば、天を衝かんばかりに長く鋭い灼熱の刃となった。それを一息に振り下ろす。
さくり、と。
炎剣はアースウォームの身を容易く斬り裂き、下の地面をも溶岩のように融解させた。
「うわ」
その威力に慄きつつ、位置をずらしてもう一ヶ所焼き斬ると、斬り抜いた部分を蹴り出す。丸太を切り出すようにごろりと転がり出たそこには、肉に埋もれて魔石が顔を覗かせていた。
引っ張り出してみると、大人の手を広げたほどの大きさの、平べったい魔石だ。以前のクラーケンのものより少し大きいだろうか。
「……あ。持ってくにしても、魔法式収納庫ないんだっけ……今さらながら、有難みが身に沁みるよなあ……」
普段当たり前のように使っていたアイテムの便利さを改めて噛み締めつつ、とりあえずスラックスのベルトにそれを挟んでおく。
「さて、と……これからどうすっかな」
見上げた先、ついさっきまでいた岩棚は、岩山の根元が大きく叩き壊されて少々不安定になっているので、もう戻らない方が良いだろう。休んでいる間に崩壊でもされたら目も当てられない。
「……とりあえず、どっか別のとこ探すか。できれば、あいつを撒ければいいんだけど……」
頭上を仰げば、先ほど岩山が攻撃を受けた時に飛び立っていたアルマヴルカン(本体)は、悠然と空を舞いながらアルヴィーを見下ろしていた。竜の表情などよく分からないが、あれは面白がっている顔だ、と何となく分かるのは、その欠片を体内に持つせいだろうか。
ため息一つついて、アルマヴルカン(本体)については諦めることにした。なぜか今までこちらに危害を加えても来ないし、しばらく放っておいても大丈夫だろう。
ひとまずの目的地を別の岩山に定め、アルヴィーは歩き出す。それを追うように翼を翻し、アルマヴルカンは上空でひとりごちた。
『――これがあの女の言うところの“執着”か? どうにも理解できんが……いや、そもそもそれはそういうものか』
自身の中に巣食う“それ”の分析は早々に諦め、アルマヴルカンは当面の興味の対象である人の子を追って空を翔け始めた。
◇◇◇◇◇
《薔薇宮》の一角、帝都を望める塔の上に、レティーシャはひとり立っていた。
比喩ではなく日ごとに広がって行く街並みを眺めつつ、彼女はその群青の双眸をすがめる。
「……子供というのは本当に、こちらの思い通りにはならないものですわね。――ねえ、メリエ?」
「何だ。気付いてたの」
ぴょん、と胸壁の向こうから、メリエが屋上へと飛び込んできた。今の彼女は空を駆ける術を得ているので、驚くには当たらない。
「で? シアはお供も連れないで、こんなとこで何してんの?」
そのまま胸壁に腰を掛け、メリエはむしろ楽しげに問う。少しでもバランスを崩せば背中から地上へと真っ逆さまだが、彼女にその恐怖は感じられない。
「誰しも一人で思索に耽りたい時はありますのよ。わたくしにも、ダンテにも」
「あたしはうだうだ考えるより、《竜の咆哮》でも一発ぶっ放せばそれで終わりだと思うけど。シアは理屈っぽ過ぎるのよ」
「ふふ、それは仕方ありませんわね。――研究に身を捧げた者が悩み思考することを止めてしまえば、もはや存在する意味もない」
「……相変わらず、シアの言ってることはよく分かんない」
肩を竦め、メリエはひょいと胸壁の内側に飛び下りる。
「でも子供がどうこうなんて、研究と何か関係あんの?」
「わたくしに一般的な定義による子供はおりませんけれど……研究によって生まれた子供たちは等しくわたくしの子。アルヴィーも、そしてセリオもその中の一人ですわ。――でも彼らは、わたくしを拒絶する」
「あー……まーねー。それは分かんなくはないけど。っていうか、子供って普通に親の言うこと聞かないもんじゃない? 何でもかんでもハイハイって聞く子供って、それ人形と何が違うの?」
ずけずけと言うメリエに、レティーシャは苦笑した。
「……確かに、一理ありますわね」
「大体シアは、何でもかんでも結果を求め過ぎだと思うのよね。――あたし難しいことはよく分かんないんだけどさ、世の中って全部が全部、はっきりした結果が出るものじゃなくない?」
小首を傾げるメリエに、レティーシャは小さく微笑み、帝都の街並みに視線を移す。
「――それはとうに承知の上ですわ。わたくしが今まさに取り組んでいる計画も、労力に見合う結果が出るかどうかなど分からない……でも、もう足を止めるわけにはいかないのです。すでに支払われた“対価”のために」
そう呟くと、レティーシャはメリエを残し、塔の中に消えていく。明るい外から薄暗い中に下りていくのは、まるで牢獄にでも下って行くようで、彼女は小さく笑った。
(……ある意味その通りね。わたしの為してきたことは、見方を変えれば牢獄なんて生易しいほどの罪。――だけど、今さら手を引いたりできない。せめて、この手に何かを掴まなければ)
薄暗い中に浮かぶ、自身の白い手をしばし見つめ、彼女はそれを握り締めると、ゆっくりと階段を下りて行った。




