第120話 炎の果て
最初の記憶は、暗く広大な空間だった。
所々にぽつんと灯る青白い光、絶え間なく響く水音。彼がたゆたっていたのは冷たく四角い石の揺り籠で、生命のあたたかみなどどこにもない。
流れ込み続ける水の中、さまよった手がその縁を掴み、彼は“生まれた”。
目覚め立てで力の入らない身体を叱咤しながら起き上がり、四角い水槽からまろび出ると、這うようにして進み始める。不思議と、頭の中には様々な知識がすでにあった。現在の、生まれたままの姿ではさほど自由に動けないということも。
幸い、区画の仕切りのためか広めの布が何枚も下がっていたので、その内の一枚を毟り取って羽織った。
やがて手足に力が入り始め、二本の足で立って歩けるようになると、時折躓きながらもしっかりと歩き始める。見渡す限りただただ、同じ形をした黒い水槽がずらりと並ぶ空間は、彼に本能的な恐れを抱かせた。
彼自身そこから生まれたというのに、これほどに生命から遠い光景もないような気がして。
(……ここは、どこ)
裸足のままうろうろと歩き回っている内に、どうやら運良く出入口に辿り着いたらしい。大きな扉が、まるで出入りを拒むかのように立ちはだかっていた。押したり叩いたりしてみたが、扉は固く閉ざされたままだ。
(開かない……)
すると、どこからか足音が聞こえてきた。とっさに手近な物陰に隠れたのは、反射的な行動だ。そっと様子を窺っていると、扉が開いて一人の女が姿を現した。
銀髪に群青の瞳をしたその女は、迷いのない足取りで中に入って来ると、奥に向かって行く。開かれた扉が閉まりきらない内に、彼は駆け寄って間一髪で扉の隙間から外に転がり出た。裸足だったおかげで足音もほとんどなく、施設の中に響く水音に紛れたため、見咎められることなく脱出を果たす。
扉の外は上へと続く階段。それを上りきり、彼は目を見張った。
「――あお、い……?」
頭上に広がるのは晴れ渡った空。この色を“蒼”と呼ぶことを、彼は生まれながらに知っている。
それに魅せられるように、彼はふらふらと歩き始めた。
そこはほとんど廃墟と化した、だが未だ白く壮麗な往時の名残を留めた城だった。随所が崩れかけてもなお美しいその城館や回廊の合間を、彼は静寂の内に駆けていく。城内は奇妙に静かで、結構な距離を踏破したにも関わらず、一度も人に見つかることはなかった。
そして――彼はついに、崩れかけた城壁の隙間から、外に出ることに成功したのだ。
(……何もない)
城の外は一面の荒野。見渡す限り、まともな建造物の一つもなかった。まばらな植生、砂礫に覆われた大地は、どこか寒々しい印象を与える。
それでも彼は、ふらふらと歩き始めた。
――そして、しばらく歩いた頃。
行く手に現れた大きな影に、彼はその金の瞳を瞬かせた。
それは四足の、大きな獣だった。といっても、通常の生物ではない。それが“魔物”と呼ばれる存在であることを、彼の頭の中の知識が教える。
魔物は彼の姿を見るや、良い獲物を見つけたとばかりに唸った。後ろ脚に力が入り、今にも飛び掛かろうという体勢だ。
だが、それに対抗する術もまた、彼が持って生まれた知識の中にある。
「斬り裂け――《風刃》」
彼が生まれて初めて放った攻撃魔法は、狙い違わず魔物の脚を裂いた。
「ギャアッ!?」
突然走った痛みに魔物は悲鳴をあげ、体勢を崩す。そこを逃さず、次の魔法を叩き込んだ。
「戒めろ、《地鋭縛針》!」
一瞬の後、魔物の周囲の地面が蠢いたと思うと鋭い針となり、その身を四方から貫いた。響く断末魔の叫び。それが次第にか細くなって消えると、後には魔物の骸のみが残る。
凄惨なその光景を、だが彼は動じることもなく見つめた。
(……魔物とはいえ、生き物を殺したのに……あんまり、そういう気がしないな)
とはいえ、彼が生み出された理由を考えれば、それも無理からぬことだった。彼は人造人間という存在であり、その中でも戦闘用・魔法特化型に調整された初期型だ。目覚めたばかりの彼は、それ以外の自身の存在意義を知らず、その事実だけを受け止めた。
自分は“そういうもの”なのだ、と。
(……それより、これからどうしよう)
あの暗く冷たい地下に戻るという選択肢はない。ならばいっそ、このままどこか遠くへ行ってしまおうか。
その思い付きは、不思議と彼の胸を弾ませた。
荒れ果てた大地を裸足で踏み締め、歩き始める。
後に残ったかすかな足跡も、風に撫でられてすぐに消えた。
――そして、しばらく経ったある日。
彼は運命の出会いを果たしたのだ。
川の水で喉を潤し、自生する木の実などを口にし、幾度か魔物も倒しながら辿り着いた、広大な森。
そこには、人の気配があった。
(……誰か、いる……?)
そうして彼は、“彼女”に出会ったのだ。
「――何だい、こんなところに子供一人で。何かわけありかい?」
「…………」
どう説明すべきか考えあぐねる彼に、彼女はふむ、と唸ると、やおら彼の肩に手を置いた。
「ま、こんなとこに子供一人置き去りにするわけにもいかないしね。――坊主、行くとこがないんならあたしと来な。少なくとも、今よりはまともな暮らしをさせてやるよ」
ほれ、と差し出された手を、彼はそっと掴む。それは、彼を“人間”に生まれ変わらせる手だった。
彼の手を引いて歩き出しながら、後に彼の養い親となる初老の女は話しかけてくる。
「……そういや、あんたの名前は? は? 知らない? 妙な子供だね……じゃあ適当に付けるしかないじゃないか。家名はあたしのを使えばいいとして名前は、そうさね――」
◇◇◇◇◇
「――セリオ!」
自分を呼ぶ声に、セリオ・キルドナははっと我に返った。振り返ると、直属の上司であるジェラルドがこちらを見据えている。
だがそれよりもセリオの心を冷やしたのは、周囲の騎士や研究員たちのざわめきだった。
「――人造人間って……」
「何だ、それ。人間じゃないってことか……?」
唇を引き結ぶセリオに、佇むレティーシャは笑みを浮かべる。
「正直なところ、あなたが外の世界で無事に育っているとは、期待していませんでしたわ。当時の帝都は何もない荒野でしたし、強力な魔物もうろついておりましたもの。生まれながらに膨大な知識を持つとはいえ、身体はまだ子供でしかないあなたが、そう長いこと生き延びられるとは思いませんでしたの」
慈しむような笑みとは正反対の、酷薄な言葉。だがそれは別にセリオを傷付けようとしているわけでもなく、率直な彼女の感想なのだろう。
彼を生み出した、だが“母”とは呼べない、そんな女。
何を言うべきかとっさに掴めず、沈黙と共に彼女を見つめるセリオに、その時ジェラルドの声がかかった。
「――セリオ。今その女が言ったことは本当か?」
「……はい」
返答に、周囲の人間が再びどよめく。ジェラルドは少し考える素振りを見せ、
「そうか……まあ、それはひとまず置いてだな、」
「えっ」
「えっ」
セリオは絶句した。周囲の面々も絶句した。
「……ええと、僕が言う筋じゃないとは思いますが。そこ、ひとまず置いておけるような些細なことじゃないんじゃ……」
思わず突っ込むダンテに、ジェラルドはぎろりと目を向ける。
「喧しい! 特大の面倒事持ち込みやがった連中が抜かすな。アレに比べりゃ、セリオが人間だろうが人造人間とやらだろうが、些細なことだろうが!」
びしりと指差された先にいるのは、鎖でぐるぐる巻きにされた火竜アルマヴルカン。
「今一番差し迫ってる問題は、アレが市街地に入るのをどう阻止するかだ! ソーマの街は今よりにもよって、祝祭の真っ最中なんだぞ! そんな中にあんなもんが顔でも出してみろ、大混乱間違いなしだろうが! いっそのこと、騒ぎになる前にとっとと持って帰れ!」
「え、いや、確かにそうしたいのはやまやまなんですけど」
予想の斜め上方向に炸裂したジェラルドのキレっぷりに、ダンテも少し腰が引けた。そんな彼を余所に、ジェラルドは堂々とぶち上げる。
「大体なあ、騎士団全体はどうだか知らんが、俺の部下である以上、素性が人間かどうかなんぞどうでも良い。重要なのは仕事ができるかできねえか、だ! それ以外に判断基準なんぞあるか!」
「ええええええ」
あまりの暴論に、周囲の騎士たちが驚愕の声をあげた。セリオも叫んだ。
「……そういう問題ですの?」
レティーシャがことんと首を傾げる。あわよくば周囲の動揺を誘ってセリオに疑いの目を向けさせ、その心をじっくり離反させられれば――との思惑があったのだが、何だろう。もはや話がそういう次元ではないような。
「そもそも騎士団にはもう、順調に人間辞めてってる奴が在籍してんだよ。もう一人増えたところで、今さらだろうが」
「……順調って……」
何ともいえない表情で、順調に人間を辞めつつあるところのアルヴィーがぼやいたが、そう言う意味では確かに今さらではある。ジェラルドの傍に控えたパトリシアがため息をついた。
「……諦めなさい、セリオ。わたしとあなた以外に、隊長の無茶振りに付いて行ける部下がいると思っていて?」
「…………いえ」
止めを刺すようなパトリシアの一言に、セリオはそっとかぶりを振った。なぜだろう、周囲からどこか憐れむような視線を感じるのは。
「まあそういうわけで、セリオは俺の部下なんでそっちにはやれん。諦めろ」
「……ずいぶん度量が広くていらっしゃるのね」
「上に立つ人間には必要なことだろ?」
愛剣《オプシディア》を担ぐように構え、ジェラルドはニヤリと笑う。
「大体、子供を十年も放っといて、今になって母親でござい、なんてのは虫の良い話じゃねえか。親だなんて名乗るんなら、キッチリ育てて独り立ちさせてから名乗るんだな。生みっ放しの野生動物じゃねえんだぜ?」
「……そちらとは少々、認識の相違があるようですわね」
レティーシャはそう言い捨てて、アルマヴルカンに向き直る。
「ではそちらの仰る通り、“彼”は連れ帰らせていただきますわ」
彼女が手にした長杖を地面に突き刺す。と、瞬く間に展開される巨大かつ精緻な魔法陣。それは、セリオが扱う転移魔法の魔法陣に酷似していた。
「……でかいな」
「多分、僕が転移魔法を使う時の杖と同じように、制御補助の術式が仕込んであるんだと思います」
セリオの見解に頷き、ジェラルドは部下たちに一定の距離を置いての警戒を続けるよう指示する。アルマヴルカンを帝国側に渡すのは、長期的に見れば厄介かもしれないが、さりとてファルレアン側で鹵獲したところで、そもそも《上位竜》を収監しておけるような施設などないのだ。管理ができない以上、そんなものを王都に留めるよりは、帝国側に持って帰って貰った方がまだマシ、というのが彼の判断だった。
(……それに、連中の様子から見ると、アルマヴルカンが勝手に飛び出して来たって感じだしな。向こうも管理しきれてないんなら、持って帰らせて向こうに面倒を掛けさせるってのも有りだろ)
まともに管理下に置けない火竜など、いつぞやの暴走した精霊並みに始末に負えない。そんな鬼札を引く気は、ジェラルドにはなかった。
(まあ、あの女帝はそこんとこも考えてるのかもしれんが)
そう思いながらレティーシャに目をやる。彼女は転移魔法陣を構築し終えたところだった。
「――アルヴィー」
「……何だよ」
急に彼女から声をかけられ、アルヴィーは少々たじろぎながら返事をする。
「俺をそっちへ引き込もうったって無駄だぜ。俺はファルレアンの騎士だ」
「そして貴族――でしたかしら?」
その言葉に、アルヴィーは顔をしかめた。
「……何でだかな」
彼を貴族に引き上げたのは、国上層部の複雑な思惑と、派閥同士の駆け引きだ。自分が今までに成してきたことはそれを隠す表向きの理由でしかないと、彼自身が分かっている。だから、誇れない。
そんなアルヴィーに、レティーシャは諭すように微笑んだ。
「馴染めなくとも、それに相応しい振る舞いを心掛けるようになさい。地位が人を育てることも、ままあるのですから」
「え――」
意外な言葉にアルヴィーが目を見張るも、彼女はアルマヴルカンに向き直ってしまい、応えることはなかった。
(……今の、どういう意味だ? 何でシアがそんなこと……)
アルヴィーの疑問を置き去りに、彼女は術を稼働させるべく、最後の詠唱を紡ぐ――。
『――これで終いか?』
瞬間。
アルマヴルカンを包むように、炎が巻き上がった。
「――総員、退避! 防御魔法の展開準備だ!」
真っ先に指示を出したのはジェラルドだった。彼の指示に従い、防御魔法を得意とする魔法士を盾に、騎士団の面々は素早く後退する。
「我が君!」
炎に巻かれかけたレティーシャを、ためらわず飛び込んだダンテが抱え上げ、その場を離脱する。それを追うように、炎の舌が地面を舐めていった。
人間たちが驚愕と畏怖の眼差しで見つめる中、炎の中で巨大な影が立ち上がる。硬質な音と共に鎖が弾け飛び、地面に落ちた。
「――あれでも歯が立たない……さすが“古き竜”というところかしら」
押し寄せる熱気に目を細めながら、レティーシャは忌々しげに吐き捨てる。そんな彼女の視線の先で、アルマヴルカンは翼を広げ、再び空に舞い上がった。
「……鱗が落ちない」
その様子を見ていたダンテが、気付いたように呟く。まだ状態が安定していないアルマヴルカンは、大きな動きを取るたびに体表から鱗の剥落が見られたのだが、先ほど空中に舞い上がったアルマヴルカンに、その様子は見られなかった。
「安定したのか……?」
「そのようですわね。――やはり」
レティーシャはある一点に目をやる。そこには、右肩に負った翼を炎と同じ色に輝かせ、灼熱をものともせずに佇む後ろ姿。
『――おまえは逃げないのか』
炎の海に佇み、自分を見上げる人の子に、アルマヴルカンはそう問い掛ける。アルヴィーは答えの代わりに、膝をたわめて地を蹴った。自ら創った魔法障壁の足場に下り立ち、正面から火竜の目を見据える。
「……なあ。一体何がしたいんだよ? シアに地脈の使い方教えたり、勝手に飛び出してみたり……」
『ふん? わたしはただ、自分の気の赴くままに行動しているまでのこと。あの女に地脈を使った魔法を教えたのも、気が向いたからだ。――もっとも、あれはあれで、目的があるようだが』
地上を一瞥し、アルマヴルカンは宙を滑るようにアルヴィーに近付いて来た。首をもたげて覗き込んでくる。
「……何だよ」
『何、少し確認したまでだ。――やはりおまえには、“混ざって”いるな』
アルヴィーには理解できないことを納得したように呟き、アルマヴルカンは値踏みするようにこちらを見つめる。
『……だが、その身体ではな』
「はあ……?」
『妙な呪いが纏わり付いている。それにそもそも、弱過ぎる』
「うるせー! 竜と人間同列で考えんな! 竜に比べりゃどんな人間も弱ぇっつーの!」」
肩を怒らせるアルヴィーに、アルマヴルカンは低く喉を鳴らした。
彼の見たところ、目の前の人の子に纏わり付くのは、水と地の力を帯びた何らかの術だ。それが、体内に満ちる炎の力を抑えている。
『……その呪いは、邪魔だな』
「――――!」
アルマヴルカンが鋭く目を細め、背筋を貫いた嫌な予感に従って、アルヴィーはその場を全力で跳び離れる。次の瞬間、今までアルヴィーがいた空間を、炎の奔流が薙ぎ払った。
「――いきなり何しやがる!?」
『それがある以上、その身体は弱いままだ』
「いいんだよ、それで!――俺は人間なんだからな!」
再び襲い来る炎を、アルヴィーは《竜の障壁》で受け流し、ちらりと地上を見やる。レティーシャが構築した転移陣は、炎の海の中で未だ健在のようだった。
(何とか、あれに叩き落とせれば……!)
その転移陣に一縷の望みを見出し、アルヴィーは《竜爪》を伸ばすと、その切っ先から《竜の咆哮》を放った。
空を焼きながら駆け抜けた光の刃を躱し、アルマヴルカンは宙を泳ぐように優雅な動きで、転移陣の上空目掛けて足場を蹴ったアルヴィーを追う。
(――よし、追って来た! 後は翼が狙えれば……!)
竜の飛翔を支えるのは、大きく広げられたその翼だ。もちろん翼そのものというより、そこに展開された魔法の恩恵で空を飛ぶのだが、それを崩せばあの巨体、空など飛んでいられないはず。地力で圧倒的に劣る以上、狙うのはそこしかなかった。
そしてもう少しで、転移陣の真上に到達しようというその時――。
『……新手か?』
「え?」
アルマヴルカンが視線を巡らせ、アルヴィーもつられてそちらを見る。どうやら連絡を付けていたのだろう、増援が到着したようだった。その中に見紛いようもない親友の顔を見つけ、アルヴィーは息を呑む。
「ルシィ……!」
増援部隊はジェラルドたちと合流する。と、聴覚に優れたアルヴィーの耳に、ジェラルドの号令が聞こえた。
「――いいか、翼を狙え! 総員、撃てぇ!!」
どうやらジェラルドは、アルヴィーの動きから狙いを察したらしい。遠距離攻撃の手段を持つ者たちが、一斉に攻撃を放った。
「薙ぎ払え、《炎風鎌刃》!!」
最も眩く輝くのは、ルシエルが放った《炎風鎌刃》。熱風を纏った光の刃が空を裂き、アルマヴルカンの左の翼に直撃して朱金の炎を撒き散らす。翼を傷めるほどの威力にはなっていないようだが、アルマヴルカンがわずかに身じろいだ。
そこへ甲高い咆哮と共に飛んできたのは、一メイル近くはあろうかという長大な矢。遠距離攻撃に特化した第一三八魔法騎士小隊隊長、シルヴィオの魔法付与の矢だ。それはルシエルの攻撃をなぞるように、アルマヴルカンの左翼の付け根に吸い込まれ、鱗を貫いて突き立つ。《竜爪》の欠片を使った、《貫通》の魔法付与が施された矢だった。
『――小癪な……!』
初めて身体に傷を付けられたアルマヴルカンが、不快げに唸る。
と、今まで黙っていたアルヴィーの裡のアルマヴルカンが、鋭く警告した。
『――いかん! “あれ”はあの人間たちを狙っているぞ』
翼に矢を突き立てたまま、アルマヴルカンは大きく顎を開く。そこに膨大な炎が圧縮され、光と化して放たれる――。
「……させる――かぁぁっ!!」
まさにその瞬間、アルマヴルカンの顎の下に回り込んだアルヴィーもまた、《竜の咆哮》を撃ち放った。
『――――!』
鼻先を掠めるように放たれたそれを、アルマヴルカンは反射的に顔を背けて躱した。同時にブレスが放たれ、太い光芒が部隊から少し離れた地面に突き刺さる。爆炎が巻き起こり、騎士たちは地面に伏せたり魔法障壁を展開したりしてそれを凌いだ。
「やった……!」
ルシエルたちが危地を脱したのを見て、アルヴィーは声を弾ませる。と、
『まだだ!』
またしても警告。アルマヴルカンが再び口内にブレスを溜め始める。
「くそっ――!」
火力では圧倒的にアルヴィーが不利だ。何か足しになるものは――と周囲を見回し、そして地上のそこかしこで燃え盛る炎に目を付ける。
(元はアルマヴルカンの炎だけど……俺だってあいつの欠片を持ってる!)
右肩の翼に意識を集中。右肩がカッと熱くなり、そこから炎のような熱が体内を巡り始める。その熱が身体の中にある“何か”を焼き消していくのが、何となく分かった。おそらく、シュリヴとマナンティアルが掛けてくれた術が、炎に耐え切れず消されているのだろう。
(……ごめんな。せっかく、俺のために掛けてくれたのに)
それでも、何を置いてでも守りたいものがあるから。
「――来い!!」
アルヴィーの呼び声に、地上で燃える炎が大きく伸び上がり、彼の周囲を渦巻いて、右肩の翼に吸い込まれていく。朱金の光がさらに強くなり、それが伝わったかのように右腕の《竜爪》も紅く輝いた。
ありったけの力を右腕に集め、アルマヴルカンの正面に躍り出る。
開かれた顎から、眩いブレスが迸る――。
「《竜の咆哮》――!!」
それを切り裂くように放たれた、もうひとつの光芒。
二つのブレスはまるで引き合うようにぶつかり合い、巨大な火球となって夜空を染めた。
◇◇◇◇◇
ルシエルに騎士団からの非常呼集が掛かったのは、もう日も沈んだ頃だった。
取るものもとりあえず、とにかく身支度だけ整えて外に飛び出せば、途端に新しい《伝令》が飛んで来る。ルシエルは騎士団本部には向かわず、直接騎士団の演習場に向かえという指示だった。これはよほど急を要する事態だと気を引き締め、身体強化魔法も併用で街を駆け抜ける。
――そして同じく集められたらしい騎士たちと合流し、彼が演習場で見たのは、翼を広げて空に舞う、深紅の竜の姿だった。
「まさか……《上位竜》!?」
慄然としながら、ルシエルはジェラルド率いる隊と合流する。
「いいか、今《擬竜騎士》が、あの火竜を引き付けてる。おそらく、あの地面に構築された転移陣にどうにかして叩き落とす気だろう。俺たちは地上からそれを支援する。遠距離攻撃手段を持つ者、前へ」
(――アル!?)
ジェラルドの言葉に、ルシエルは初めて、火竜の前を翔ける朱金の小さな輝きに気付いた。
(危険過ぎる! 何とか援護しないと……!)
ルシエルは愛剣《イグネイア》を抜剣しながら、一歩進み出る。アルヴィーの《竜爪》から作られたこの剣は、遠距離攻撃と呼んで差し支えない射程で、魔法攻撃を放つことができた。同時に進み出た者たちの中に見知った顔を見つけ、思わず声をあげる。
「イリアルテ」
「ああ、久しぶり。――どうやら、これが役に立ちそうだ」
第一三八魔法騎士小隊長シルヴィオ・ヴァン・イリアルテは、身長よりも長さのある巨大な弓を小さく掲げた。
「《貫通》の矢なら、あれにも通用するかもしれない。鏃の材質は、あれの鱗と同じようなものだろう?」
シルヴィオは弓に見合った長大な矢を番え、弦を引き絞る。ルシエルも《イグネイア》を励起、魔力を注ぎ込み始めた。
視線の先で、小さな輝きが転移陣の真上に差し掛かる。
「――いいか、翼を狙え! 総員、撃てぇ!!」
ジェラルドが翳した《オプシディア》を振り下ろしたと同時――ルシエルもまた、全力で《イグネイア》を振り抜いた。
「薙ぎ払え、《炎風鎌刃》!!」
刃の軌道を写し取るように生まれた光の刃が、空を焦がして翔け上がる。
「切り拓け、《風導領域》」
シルヴィオの周囲で風が渦巻き、彼の前に一本の道を形作る。その中を目掛けて、彼は矢を射ち放った。
キュオン――と矢が放つものとは思えない鋭い音を放ち、長大なそれは狙い違わず、火竜の左の翼目掛けて大気を貫く。銀に輝くシルヴィオの“千里眼”は、自身が放った矢が火竜の翼の付け根に突き立つのを確かに見た。
「命中……!」
だが――火竜はそれに気分を害したかのように、こちらに向けて顎を開く。その奥にちらつく光に、シルヴィオの背を戦慄が貫いた。
「まずい、ブレスだ……!」
「くそっ、防御魔法を――!」
何人かの魔法騎士が慌てて防御魔法を構築し始めるが、間に合わない――!
……だが。
火竜の顎の下から突如放たれた光芒が、火竜の顔を背けさせ、吐き出されたブレスは少し離れた場所に突き刺さった。
「――アルだ……!」
身体強化魔法を起動させて地面に飛び込みながら、ルシエルは声を弾ませる。
「よし、引き続き攻撃用意……!」
ジェラルドが声を張り上げる――その時、ブレスが巻き起こした爆炎が、剥ぎ取られるように上空へと舞い上がった。
「えっ……!」
それを追う視線の先、炎は小さな人影を目掛けて収束し、そして吸い込まれた。火竜が二射目のブレスを放ち、それに呼応するようにアルヴィーも《竜の咆哮》を放つ。
火竜のブレスと、掻き集めた炎で威力を底上げした《竜の咆哮》は、互いに吸い寄せられるようにぶつかり合い、小さな太陽のごとき火球を生み出した。
――そして膨れ上がったそれは、宙にある人影をもあっさりと呑み込む。
「……アル!!」
それを見た瞬間、ルシエルは弾かれたように駆け出していた。
祈るように見上げる先、火球から人影が吐き出される。だがアルヴィーは体勢を整えることもなく、人形のように墜ちていった。まさか意識を失っているのかと、ルシエルはぞっとする。
「――支えよ、《風翼》!!」
彼を受け止めるため、ルシエルは走りながら風の補助魔法を放った。
(間に合え――!)
墜落するアルヴィーの落下速度が、魔法の効果範囲に入ったのか目に見えて遅くなる。
その時、火球を突き破って火竜が姿を見せた。火竜はアルヴィーに狙いを定めたか、真っ直ぐに突っ込んで来る。
が――それを遮るように、凛とした声が空を貫いた。
「砕け散れ、《空の墜星》!!」
火竜のさらに上方から、音もなく落下してくる岩塊。それは火竜が今にもアルヴィーを呑み込まんとしたその瞬間、火竜の背に激突した。
「――今だ!!」
セリオが吼える。ルシエルはその声に背を押されたかのように、地を蹴る足に力を込めた。
その視線の先、火竜は巨大な岩塊の重みで急激に高度を落とし、転移陣目掛けて落下していく。
伸ばした手の先、風に支えられたアルヴィーが舞い下りてくる――。
その、刹那。
火竜が首を伸ばし、攫うようにアルヴィーの身体をくわえる。
そして両者は共に、転移陣に呑み込まれその姿を消した。
「……そんな」
眼前の光景が信じられずに、ルシエルは愕然として呟く。駆けて来た勢いでよろけるように数歩、前方へつんのめってようやく足が止まった。
そこに広がるのは、輝きを失って効果を失った転移陣。踏み込んでも何も起こらない。
「――クローネル!」
呆然と立ち尽くすルシエルの背後から、追って来たジェラルドが声を投げた。彼もまた、今ここで何が起きたのかは目にしている。転移陣の傍で足を止めると、「くそっ」と小さく吐き捨てた。
「――おい、あいつらはどこへ消えた? 陣を構築したのはあんただろう。出口はどこに設定してある?」
やおら振り返り、ジェラルドは鋭く問う。そこにいつの間にか立っていたのは、ダンテに付き添われたレティーシャだ。彼女もまた、笑みを消した鋭い目で、転移陣の跡を見つめていた。
「……出口は予め、《薔薇宮》に設定しておきましたわ。アルマヴルカンが変に術式に干渉していなければ、そこに出るでしょう。――もっとも、彼には前科がありますし、わたくしたちの思う通りに動きたくないようですから、期待はしておりませんけれど」
そう言い捨てると、レティーシャは光に包まれ、ダンテと共にその場から姿を消した。
「――あら?」
騎士団からの指示に従い、祝祭に繰り出した一般市民をさり気なく誘導していたシャーロットは、突然誰かに呼ばれたような気がして振り返った。だが、別段それらしき姿も見えない。
(気のせい……かな)
振り返った方角へしばらく行くと、騎士団の演習場がある。騎士団からの情報では、そこに《上位竜》らしき存在が現れたため、全力を挙げて演習場への封じ込めを図るということだった。そこへ一般市民が間違っても足を伸ばさないよう、怪しまれずに誘導するのが、たまたま街中にいたシャーロットたちのような騎士に与えられた任務だ。ニーナとは途中で別れたが、彼女もまた同じ任務をこなしているはずだった。
――そして、その《上位竜》を迎え撃つべく駆けて行った彼もまた、今頃は自分の役目を懸命に果たしているはずだ。
(……アルヴィーさん、無事だと良いけど)
そう願いながら、仕事に戻るべく再び前に向き直った彼女の髪、彼から贈られた髪飾りの銀鎖と紫水晶がしゃらり、と物悲しげな音を奏でた。
◇◇◇◇◇
気が付けば、まったく見覚えのない場所に出ていた。
アルマヴルカンは首をもたげて周囲を見渡す。いくつもの岩山がそびえる、荒涼とした風景。先ほどまでいた場所のような、人為的に整えられた気配もない。後を追って来られないように少しばかり術式に干渉したが、どうやら成功したようだ。
とりあえず、とばかりにアルマヴルカンは翼を広げ、手近な岩棚の一つに舞い下りた。岩棚といっても竜の巨体を支えられるほどに広く、万が一多少暴れても崩落はしないだろうと思われる。
落ち着く場所を見つけると、アルマヴルカンはくわえたままだったアルヴィーを、そっと岩棚の地面に下ろした。
『……あまり良くはないな』
まだ息はあるが、超高温のブレスの暴発に至近距離で巻き込まれたアルヴィーは、重度の火傷を負っていた。とっさに魔法障壁も張ったようだが、その驚異的な炎への耐性と回復力をもってしても、まだ治りきっていないのだ。特に、頭部を庇って盾にしたのであろう右腕が酷い。ポーションがあれば治るのだが、生憎アルヴィーは今日、魔法式収納庫を持っていなかった。さすがに、格上の貴族の屋敷を訪れるのに魔法式収納庫を持って行くわけにはいかなかったのだ。もっとも、よしんば持っていたところで、アルマヴルカンの巨体では蓋すら開けられはしないのだが。
しかしこのままでは、アルヴィーは弱るばかりだ。アルマヴルカンは少し考え、そしてアルヴィーの真上に首をもたげた。
『――すでに一度死んだ身が、どれだけ使い物になるかは分からんがな』
呟いて前足の爪で、自分の身体を軽く傷付ける。そして爪に付いた血とわずかな肉片を、アルヴィーの右腕の火傷に垂らした。傷口から竜の血肉が、彼の体内に染み込んでいく。
「――――!!」
びくり、とアルヴィーの身体が大きく跳ねた。右腕が独立した生き物のように震えて跳ね回り、苦悶の声が周囲に響き渡る。
苦しむ様子に、まるでそれを守るかのごとくに尻尾でアルヴィーの周囲を囲い込み、アルマヴルカンは彼を見下ろした。
『……上手くやるがいい、我が欠片よ』
竜の血は万病に効き、口にした者に不老長寿をもたらすなどという伝承が、かつて人間たちの間に流行ったことがあった。もちろんそれは基本的には誤りだ。だがごく稀に、竜の血を我がものとして体内に上手く取り込み、常人を超えた生命力や身体能力を得た人間は実在した。
今まさに自分の懐の中で苦悶する、この人の子のように。
のたうち回るというのがぴったりの様子で苦しむ彼の肉体は、だが竜の血肉により活性化し、火傷の傷は瞬く間に癒えた。後はこの激烈な反応が落ち着くのみだが、アルマヴルカンはそれについては心配していない。アルヴィーはもう二度、同じことを潜り抜けているし、こうして傍にいれば、彼の中で暴れ回る力がだんだんと落ち着いてきているのは、手に取るように分かるからだ。
――やがてアルヴィーはことりと、落ちるように再び静かになった。呼吸はまだ荒いながらも落ち着き始め、傷もきれいに消えている。何もない荒野の夜の大気は冷えるが、火竜たるアルマヴルカンが守っているのだから、凍える心配もないだろう。
アルマヴルカンは自身も腹這いになり、休む体勢を取る。尻尾で囲い込むアルヴィーの呼吸の音と鼓動をその鋭い聴覚で聴きながら、ゆったりと目を細めた。
◇◇◇◇◇
一つの襲撃が文字通り闇夜に葬られた、その翌朝。
目を覚まし身支度を整えた、現在の主たるオフィーリアとその兄のみに、ブランとニエラは昨晩の一件を報告した。
「――そうか。良くやってくれた」
オールト侯爵家当主、ローレンスの労いに、二人の少女は頭を垂れる。彼女たちによって命拾いをしたオフィーリアは、心配そうに彼女たちを見やった。
「でも……あなたたちは大丈夫なの?」
「はい」
「わたしたち、それがお役目ですから」
跪く彼女たちは、侯爵家のメイドたちのようにお仕着せに身を包んでいた。といっても、通常のメイドたちのそれとは微妙にデザインが違う。足首の辺りまである通常のお仕着せとは違い、スカートの裾が少し短いのは、万一の時に素早く動けるようにするためだ。スカートの下にドロワーズを穿いているのも、激しい動きの時に下着が見えないようにするための身だしなみである。フードの下に隠されていた銀髪は三つ編みに結われ、そして目元を覆う薄いベール。
「……ねえ、あなたたち。そのベールは外さないの?」
オフィーリアに問われ、彼女たちは顔を伏せた。
「……申し訳ありません。これはだめなんです」
「どうして?」
きょとんと首を傾げるオフィーリアに、二人はますます縮こまる。ローレンスが妹を窘めた。
「オフィーリア。嫌がっているのだから、無理強いするものではないよ」
「はあい」
少し残念そうに、オフィーリアは追及を諦める。少女たちはもう一度、深く頭を下げた。
「――それにしても、オフィーリアの命を狙うとなると……クィンラム公の正妻の座が目当てか、それともこのオールト家への攻撃か、それがまだ分からないな」
ローレンスは難しい顔になる。
「申し訳ありません……尋問しようとしたら、自決されました」
「多分、口の中に毒を仕込んで……」
「となると、やはり本職の暗殺者だな。やれやれ、やっと血腥さも薄れてきたと思ったのに」
ローレンスが大仰にため息をついた。
「前政権の時は、国の上層部が暗殺者を抱える始末だったからね。もっともそれも、大分数が減ったようだが……」
「ナイジェル様の妻に成り代わるためにわたしを殺しても、無駄ですのにね」
オフィーリアがのんびりと、物騒なことを口にした。
「あの方は、家柄や容姿で妻を選ぶ方ではございませんもの」
「オフィーリア。滅多なことを言うものではない」
「分かっておりますわ。――でも、お兄様が案じておられるのは、“そうでない場合”のことでしょう?」
にっこりと微笑む末の妹に、ローレンスはため息をつく。
「……オフィーリア」
「えっと……どうしてですか?」
まだ腑に落ちない顔の少女たちに、オフィーリアはええとね、と説明を始める。
「あなたたち、戦後処理の時にこのオールト家が、ナイジェル様のお力添えで格段に軽い処分で済んだことは知っていて?」
「はい」
少女たちは頷く。それにはある意味彼女たち自身も、ナイジェルの手足となって関わったからだ。
「でもね、それが気に入らない方たちは意外と多いの。戦後に処断された家と縁があった家や、オールト家が凋落すればそこへ取って代われると狙っていた家ね」
「じゃあ……そういう家の人たちが、昨夜の刺客を」
「このお家を……恨んでるってことですか?」
不安げな少女たちに、オフィーリアは苦笑する。
「恨みというよりは……妬みかもしれないけれど。だって、わたしがナイジェル様と結婚することで、オールト家は貴族議会代表のクィンラム公爵家と縁続きになるのですもの。それを邪魔したい方たちは、それなりにいらっしゃると思うわ」
「そんな……」
「あら、貴族社会ではそういう足の引っ張り合いは、さほど珍しくなくてよ?」
オフィーリアは小さく肩を竦めた。
「嫉妬は女のものばかりとは限らないわ。殿方の嫉妬もそれはそれで、厄介なものよ」
妹の物言いに、今度はローレンスが苦笑した。
「……まあ、そういうことだ」
戦前は宰相として権勢を振るい、戦後処理に伴う改革の嵐も切り抜けて、今なお侯爵家としての家格を保つオールト家を、内心で疎んじている者は意外と多いのだ。それが貴族議会代表――つまり今のレクレウスで事実上最高の権力を持つクィンラム公爵家に連なるとなれば、それを阻もうとする者が現れるのもやむなしと、ローレンスは考えていた。ナイジェルもまた、彼よりよほど早くその可能性に気付いていたのだろう。だからこその、かの少女たちの派遣だ。
「クィンラム公が君たちをオフィーリアの護衛に付けてくれたのも、それに備えてのことだろう。何といっても君たちなら同性だし、侍女ということにすれば付き従える場所は、通常の護衛よりずっと多くなる。――この国では男性上位の考え方が強いのが災いして、腕の立つ女性は少なくてね」
しかも、彼女たちのようなうら若い少女ならば、怪しまれる確率はかなり低くなる。使うのも彼女たち自身が紡ぐ魔力の糸であり、武器を隠して持ち込む必要もない。身分の高い令嬢の護衛として、うってつけの存在なのだ。
「君たちには期待している。これからも妹をよろしく頼むよ」
「は、はい!」
「精一杯努めます」
少女たちは張り切って一礼した。彼女たちの本当の主は今もナイジェルだが、オフィーリアは彼の妻となる女性であり、つまりは二人が守るべき対象であることに変わりはないのだ。そしてオフィーリアを無事に守り切ることは、ナイジェルの利益にもなる。
――部屋を退出し、ブランとニエラはそそくさと廊下を歩いた。彼女たちは使用人のお仕着せを着てはいるが、表向きはクィンラム公爵家の口利きで入ったオフィーリアの侍女であって、この家の家事などには関わっていない。一応、屋敷の差配を司る執事や女中頭などの、いわば上級使用人には話が通っているが、やはりそうでない使用人の方が圧倒的に多く、従僕には声をかけられることもある。あまり顔を合わせたくはなかった。
何とか目的地である厩舎に辿り着いて、扉を閉める。大きく息をつき、二人はベールを外した。
あらわになるそっくりの顔立ち、そして金の瞳。
――暗く果てしない空間、絶え間なく響く水音。
――同じ顔をした少女たちを納めた、棺のような水槽。
――眼前に広がる荒野、下卑た男たちの笑い声。
脳裏にちらつく記憶たちを、目を閉じてやり過ごした。
「……頑張ろうね、ニエラ」
「うん。旦那様のために」
二人は目を開き、暗がりの中に浮かび上がる“それ”を見つめる。
彼女たちのもう一つの武器たる人形――それはまるで人間のように膝を立てて座り、まだ来ぬ目覚めの時を待ち続けていた。
◇◇◇◇◇
「……ん、ぅ」
降り注ぐ光に、アルヴィーはゆるゆると目を開いた。
(……ここは……?)
眼前には深紅の鱗。ぱちぱちと数度瞬きし、ようやく理解して跳ね起きる。
「――はぁぁっ!?」
アルヴィーの周囲をぐるりと取り巻くのは、鱗に覆われた長い尻尾。その元を辿れば、腹這いに寝そべる巨躯に行き着いた。
と、それがむくりと頭を起こす。
『目覚めたか。――ほう?』
アルヴィーの主観では先ほどまで死闘を演じていたはずの火竜は、どこか面白そうにその金の瞳を細めた。
『何やら妙なことになっているな』
「妙って……」
一体自分に何が起きているのか、とても不安になる言い草だ。
おそらく外見的なことであろうと見当を付け、鏡――などという洒落たものは残念ながら持ち合わせていなかったので、代わりになるものを探すことにする。よいせとばかりに尻尾を乗り越え、周囲を見回すと、ここが岩山の中途にある岩棚の一つだと分かった。そこからの景色に目を見張りつつ、朝日をきらりと反射する水溜まりを見つける。
それを覗き込み――アルヴィーは目を見張った。
「……何だ、これ……」
水鏡に映るのは、傷一つなく回復した自身の姿。
だが袖がほとんど焼け落ちたシャツの右肩からは、首元にまで広がった深紅の肌色が覗く。
そしてその右目は、火竜のそれと同じ金色をしていた――。




