第115話 竜の戯れ
銀砂のような輝きが散りばめられた岩肌の一角、ぽっかりと開いた穴から射し込む陽光が、地底湖の水面をきらめかせる。照らし出された水は蒼く澄み、水底に映し出された水面の複雑な模様を余すところなく映し出した。
そんな光景をぼんやりと眺め、アルヴィーは右手を眼前に翳す。人のものからはかけ離れた深紅の肌と黒い爪を持つ、異形のそれ。
――もし万が一のことがあったら、その時は……右腕は、取り戻せないと思っておいた方が良い――。
シュリヴの宣告が、脳裏をよぎった。
だがそれを聞いてもアルヴィーの心は、不思議なほどに凪いでいる。
(……そういや前にも、アルマヴルカンが似たようなこと言ってたっけ)
右腕は貰い受けたと、確かにそう言ってはいなかったか。
(それにどの道――あの時、暴走する前に斬り落とすつもりだった)
今はもう遥か以前のことに思える、レドナでの戦い。ルシエルと再会し、刃を交えたあの後に、自身の暴走の兆候を感じ取ったアルヴィーは、その前に原因となるであろう右腕を捨てるつもりだった。他の《擬竜兵》たちのように、理性も人格も吹き飛ばしたような暴走状態に陥るくらいなら――ただ一人、誰よりも大切な親友を害するくらいなら、その前にと。
結局のところ、そうなる前にアルマヴルカンを従えられたため、右腕は今でも斬り落とされずにくっついているわけだが。
『……アルヴィー』
くい、と左手を引かれ見下ろすと、フォリーシュが気遣わしげにこちらを見上げている。
「ん、どうした?」
『あのね……』
彼女は少し逡巡したようだったが、やがて意を決したようにその黄水晶の瞳を光らせた。
『アルヴィーが良いなら、わたしの加護をあげる』
きょとんと、アルヴィーはその朱金の瞳を瞬かせた。
「……え?」
『地は水ほど火との相性は悪くないけど、火を弱めることもできるの。今のアルヴィーの中で火の力が強過ぎるのも、火竜の影響が強まってる理由だと思う。だから、地の力も強めてバランスが取れれば……あの子が言ってた通り、アルヴィーが元々地属性の素質があったなら、地精霊の加護は余計に効くはずだから』
「あー……そっか」
そういえば以前、アルマヴルカンにもそんなことを言われた記憶があった。元々は地属性の素養があったため、火属性に塗り替えられた後も地属性魔法が使えるのだろうと。――もっとも、使える地魔法は《重力陣》一択だが。
『ね。そうしよう』
フォリーシュが縋るように左手を握り締めるが――アルヴィーはそっとかぶりを振った。
「……いや。加護は要らない」
『何で!?』
双眸を信じられないという風に見開く彼女の頭を撫でて、アルヴィーは瞳を柔らかく細める。
「際限のない力は要らない。――俺はできる限り、人間でいたいんだ」
自分の分というものをわきまえなければならないと、在りし日の母は言った。
過ぎた欲はいずれ、自分の身を滅ぼすことになるのだからと。
同じように、人の身に過ぎた力は、やがて災いを招いてしまうのだろう。
だから、アルヴィーはそれを望まない。
「……俺はさ。正直今でさえ、自分の身の丈には合わないくらいの力だって思ってるよ。だけど、この力は捨てられない。俺がそれを手に入れるために、とんでもない数の人が犠牲になった」
《擬竜兵計画》の被験者となり、竜の力を手に入れることが叶わず命を落とした人々――その上に、成功体の存在はある。もちろん彼が望んだわけではないが、その事実は動かせない。だから、それを背負った上でこの力を揮うことを決めた。奪うためではなく、守るために。
「けど、何かを手に入れるためには、対価が要るものだって、俺は思ってる。多分その対価が、これなんだ」
かつて死んでいった人々は、この力の対価にはなり得ない。それはアルヴィー自身が支払ったものではないからだ。彼が支払ったものはあの命懸けの施術であり、そして熔け合いゆく魂なのだろう。
だから、アルヴィーは今を受け入れる。もちろん、進行をできる限り遅らせるに越したことはないが、この状態は本来支払うべき代償であるのだろうから。
『……分かった。でも、必要になったらちゃんと言ってね?』
アルヴィーが譲る気はないと察したのだろう、フォリーシュは諦めたようにそう言った。
「ああ」
『約束だよ』
念を押すように左手をきゅっと握って、フォリーシュは離れていった。
『――ふふ、そなたも隅に置けぬの』
「うお!?」
そこへいきなり声をかけられ、アルヴィーは飛び上がらんばかりに驚いた。
「何だ……マナンティアルか」
『あの娘の話、悪い話ではなかろうに。――まあ、今の状態なればそなたが一方的に喰われるようなことにはなるまいが、それでも完全に熔け合うてしまえば、今のそなたではおれぬぞえ? それも分かった上でのことか』
「ああ。――自分で選んだことの結果なら、俺は受け入れるよ。俺の故郷では、誰だってそうしてきた」
自分で選び取り、その結果まですべて引き受ける。あの小さな村では、誰もがそうして生きていた。
『まあ、すでに心を決めておるものを、傍からどうこう言うのも無粋ゆえな。妾はもう口は出さぬ』
「ありがとう」
再びふふ、と笑って、マナンティアルは湖に細波を起こす。風もない中、水面だけが波立つのはどこか不思議な光景だった。
『……人の生は、妾にとってはこの波と同じようなもの。似たように見えても、同じものは一つとしてない』
「そうだな」
『だが、時折酷く美しい波が立つことがある。――そなたの生き方は、それに似ている』
マナンティアルの静かな声は、静まり返った水面のようだ。それは深く静かに、身体の中に染み通っていく。
『人の命は我らにとってはほんの一瞬の波。だが……それが少しでも長く在れば良いと、初めて思うたわ』
ぱしゃん、と一際大きな波が立ち、そして湖面は見る間に、鏡のように静かになっていった。
「……マナンティアル?」
『忠告とでも思えば良い。そなたの在り様はもう定まってしまっておるが、それにしても好んで業を背負い過ぎる。そなたが背負おうと背負うまいと、死人にはもはや何の関係もなかろう』
「元が猟師なんでね。命を無駄にしちゃいけないってのは、叩き込まれてるんだ」
『ふむ。我らにはない考え方だの。いちいち死んだものに意味を見出しても始まるまいに』
こればかりは種族の違いというものだろう。アルヴィーもそれを責める気はなかった。
岸の縁、ぎりぎりのところに立って水中を覗き込むと、薄青く輝く水に揺蕩う、竜の全身骨格が見える。その胸の辺りで煌々と光る、水色の《竜玉》。恐ろしいほどに澄み切った水の世界には、だが小魚一匹さえ見つけられない。
「……そういや前も思ったけど、ここって何で魚いねーの?」
『妾がここに腰を据えた時にはまだ、幾許かの数はいたがの。妾の骸が溶け込んで魔力が強くなり過ぎたのと、外から他の魚が入れなくなったゆえの自然淘汰か、あっという間に死に絶えた。皮肉なことに、妾がここに在るせいか、水が澱むことはなかったがの。――今はあそこに大穴が開いたゆえ、精霊に頼んで時折雨を降らせて貰うておる。そなたがせっかく美しいと言うてくれた湖、干上がらせたくはないからの』
「え、そんなことできるのか」
『周りの銀鉱脈に妾やシュリヴの魔力が染み込んでおるゆえ、ここの水には濃い魔力が宿っておるしの。ま、あと百年や二百年は固いわ』
「そっか……ありがとな、正直助かる」
礼を言いながら、その情報を頭の中に書き留める。魔法技術研究所の面々が狂喜乱舞するだろう。国産ポーションの生産に当たって、この湖の水は必要不可欠なのだ。
『構わぬよ。――ところでアルヴィーよ、少しばかり海に出てみぬか』
「海に? 何で?」
いきなりの提案に首を傾げるアルヴィーだったが、次の瞬間マナンティアルが告げたことに顔付きを引き締めた。
『今しがた、ふと思い付いたのじゃがな。そなたのその状態、この湖と似ておるのではないか。つまり、強過ぎる魔力が他の生命を淘汰したという可能性じゃ。そなたの中に在る膨大な魔力が適正に発散しきれていないことで、火竜との融合が促進されておるのではないかの』
心当たりは――あった。
(そういやここんとこ、全力で戦うことってほとんどなかった……)
元々アルヴィーたちは、単騎で敵の拠点、あるいは本拠を制圧できるよう、そして軍隊規模の敵を相手取れるように“設計”されている。その性能を十全に発揮すれば、中心都市クラスの街を焼き払うくらいは容易にできるほどの能力を、本来持たされているのだ。
だが、ファルレアンの騎士となってからは、少なくとも純粋な戦闘という意味で、彼が全力を出せる機会はほぼなかった。
『その仮説が正しければ、全力で戦闘をしてみることで、融合の進行を押し留めることができるやもしれん』
「でも、全力で戦闘っつったって……まさかこの島でそんな無茶できねーし」
『だから海に出ると言うておろうが。妾もこの頃、少々退屈しておっての。少し遊んでくれても良かろう?』
楽しげなマナンティアルの声に、アルヴィーも何となく気が乗って、言われた通りに浜辺に向かう。
今日は風が穏やかなせいか、砂浜に打ち寄せる波もさほど高くなかった。波で濡れるぎりぎりのところまで来て、アルヴィーは足を止める。
すると、周辺の海面が蒼く輝いた。
『――主殿、来るぞ。どうやらあの水竜、ずいぶんと悪乗りしているようだ』
「え?」
アルマヴルカンの警告に、アルヴィーがきょとんと目を瞬いた時。
ざん、と一際大きな波音が響き、海水が塊となってアルヴィーに襲い掛かってくる。
「どわ!?」
慌てて後方に跳び退り、間一髪、海に引きずり込まれることは免れた。だが、それにほっとしている暇などない。
『――では、ひとつ遊んでやろうぞ』
アルヴィーは、呆然と見上げた。
巻き上げられた海水によって形作られた文字通りの水の竜――在りし日のマナンティアル自身の姿を模したのであろう、優美かつ巨大な水の像が海面から浮かび上がる、その光景を。
◇◇◇◇◇
ポロン、と光が零れるような音色が弾け、消える。
軽く目を閉じ聞き入っていたナイジェルは、ゆっくりと目を開いた。
「……見事なものだね、オフィーリア」
「ありがとうございます」
うふふ、と嬉しげに微笑み、黒髪の少女は自分の身の丈ほどもありそうな竪琴の弦から指を離した。すぐに専属の使用人が傅き、竪琴の手入れを始める。オフィーリアは座していた演奏用の椅子から立ち上がると、優雅な足取りでナイジェルに近付き、その隣にぽすんと腰を下ろした。
――彼女が婚約者としてクィンラム邸を訪れるのは、もう片手の指では足らない回数に上る。彼女の父が(対外的には)死去したことになっているため、その喪が明けるまで結婚式を挙げられないが、喪が明ければすぐに式を挙げられるよう、すでに両家は動き始めている。特に花嫁の婚礼用のドレスなど、縫い上がるまでに一年以上掛かるのも珍しくはないのだ。
レクレウスでは、貴族の婚礼は原則として夫側の邸宅で行われるのが通例であり、ナイジェルもそれに倣うつもりだった。すでに内装の準備も始めている。結婚式に相応しい調度品というものもあるからだ。すでに彫刻や絵画を発注してあるし、絨毯や壁紙などを替えなければならない場所もある。結婚式に向けて忙しくなるのは、何も花嫁側に限ったことではないのだった。
「式の時も、一曲弾いてくれるかい?」
「もちろんですわ!」
嬉しげに瞳を輝かせ、オフィーリアはふと窓の方を見やった。大きく開かれ、カーテンも開けられた窓からは、敷地内にある小さな家が辛うじて見て取れる。彼女の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
(――よもや再び、オフィーリアの演奏を聴けようとはの)
その家の窓辺、一人の男が目元を覆う仮面の下、笑みを浮かべながらその妙なる調べに耳を傾けていた。かつてロドヴィック・フラン・オールトと名乗り、現在はモルトとしてこのクィンラム家の食客として遇されている彼は、たった今愛する末娘の竪琴の演奏を聴けるという幸運に恵まれたばかりだ。
そして、その幸運に与ったのは彼だけではなかった。
「うわぁ、きれい……」
うっとりとそう呟くのは、ナイジェルに仕える《人形遣い》の少女たち、ブランとニエラだ。彼女たちは最近よく、モルトの住居であるこのコテージを訪れていた。彼女たちはナイジェルの部下ではあるがクィンラム家の使用人というわけではなく、少々特殊な立ち位置であるらしいので、事情を知るモルトのところは息抜きができて良いのだろう。主であるナイジェルが別段咎め立てもしないため、モルトも少女たちの来訪を黙認している。
それに、彼女たちは先のレクレガン襲撃の際、末娘のオフィーリアの危地を救った恩人でもあるのだ。
そんなことを思い返していた彼は、少女たちが自分をじっと見ているのに気が付いた。
「……どうかしたかね?」
問えば、彼女たちはどこか複雑そうな顔で、母屋が建つ方を見やる。
「……モルト様は、オフィーリア様に会いに行かなくていいんですか?」
「娘さん、なんでしょ?」
「ああ……」
ゆったりと笑み、モルトはかぶりを振った。
「儂はもう、表向きは死んだ身であるのでな。元より、家族とは二度と会えぬ覚悟でクィンラム公の話に乗ったのだ。その結果、家が大きな咎めもなく続いただけで僥倖というもの。――それにそもそも、娘というのはいつか他家に嫁ぐものだ。そうなれば実の親といえど、会う機会はあまりなくなる。貴族の結婚というのは、里帰りも意のままにはならぬものでな。その点儂は、嫁いだ後の娘をこうして近くで見守れる。世の父親よりはよほど幸せだ」
「ふうん……」
「そんなものなのかなあ」
少女たちはいまいち納得しかねる顔だが、これはもう貴族と平民の感覚の違いというしかない。貴族の結婚というのは平民のそれよりも重く、一度嫁げば婚家の人間になるという意識が、平民より強いのだ。嫁いだ娘が実家に戻る機会など離縁されるか、もしくは親が重病か他界するか、というくらいしかない。平民のように、子供が生まれるから人手を得るため実家に里帰り、などということは、貴族の間ではまずなかった。
「ま、後は妻が迎えに来てくれるのを待つのみ、というところかな」
妻はもうすでに亡いが、彼はあえてその言葉を使った。家同士の結び付きという側面が強く、時に当人同士の想いがまったく通わない貴族の結婚にあって、彼と妻は互いを慈しみ愛し合うことができた、幸福な二人だ。彼女が眠る領地の墓地も守ることができ、気掛かりだった末娘も嫁ぎ先が決まって、もう思い残すことはない。
(……後はこの国が少しでも、良い方向に進んでくれれば……)
残る仕事は、この国の代表たるナイジェルを上手く導くことくらいだ。王家はもはや飾りとなり果て、国を動かすのは実質貴族議会――そしてその代表たるナイジェルとなりつつある。長く王家に仕えた身としては複雑な気分でもあるが、それでも自分の選択が間違っていたとは思わなかった。
「……さて。もうそろそろクィンラム公のところに戻らなければならぬのではないか?」
「あ、はい」
少女たちは慌てて居住まいを正す。そんな彼女たちに、モルトは棚から書面の束を取り出して渡した。
「戻りついでに、これをクィンラム公に渡してくれぬか。今後の国策の素案と留意点を纏めてある。渡してくれれば公の方で分かるだろう」
「はい、分かりました」
少女たちは恐る恐るそれを受け取り、母屋の方へと戻って行く。モルトはそれを見送り、窓辺の椅子に座を占めて読みかけだった本を取り出すと、そのページをめくり始めた。
――自邸に戻るオフィーリアを見送ったナイジェルは、戻って来た少女たちから書面を受け取ると、すぐさま書斎に入ってチェックを入れ始めた。
「ふむ、なるほど……さすが、長く国政に携わって来られただけはある。あくまでも国を上に置きつつ、地方の機嫌の取り方が上手い。後は、予算の振り分け方次第か……まあこれは、議会で案が通ればの話になるが」
貴族議会は――実情がナイジェルの一人舞台だとしても――建前上は、議会の議員たちによる合議制だ。国の政策一つ取っても、原則として議会に案を出し、了承されることが必要となる。よほどの異常事態が起こればその限りではないが、今のところナイジェルが議会代表の強権を発動させるような事態にはなっていなかった。
書面を丁寧に読み込んでいくナイジェルの傍ら、ブランとニエラは良く分からないながらもぼやく。
「何だか、手間が掛かるんですね」
「もういっそ、旦那様が全部決めちゃえばいいのに」
「それでは議会を立ち上げた意味がなくなるだろう。以前の王家の専横とも変わらなくなるしな。――わたしが貴族議会を立ち上げた目的は、有能な下級貴族の掘り起こしだ。身分のせいで貴重な人材が埋もれるなど、国にとっては大きな損失だからな。従前の王政は、昔からの家格と権威を重視した結果、あのような体たらくになった。わたしはその轍を踏むつもりはない」
実際、貴族議会には爵位の上下を問わず、公爵位から男爵位までの貴族が議員として名を連ねている。彼らは議場においては同等の発言権を有し、家格に囚われず議論を交わすことが許されていた。
一通り素案にチェックを入れてしまうと、ナイジェルは少女たちに向き直る。
「――そうだ、おまえたち」
「はい!」
「お仕事ですか?」
勢い込む少女たちにナイジェルは小さく笑い、かねてから考えていたことを口にした。
「おまえたち二人には、今の仕事から離れ、オフィーリアの護衛をして貰いたい」
「……え」
少女たちの顔から表情が消え失せ、そして口元がくしゃりと歪んだ。
「わ、わたしたちもう、旦那様のお役には立てませんか……?」
この世の終わりといった風情の彼女たちに、ナイジェルは苦笑する。
「そうではない。――クィンラム家当主の妻という立場は、色々と危ないことも多くてね。早い話が、敵対する貴族に狙われることがあるんだ。ここだけの話、わたしの母も何度か危ない橋を渡ったことがある。オフィーリアは貴族の令嬢にしてはなかなか肝が据わっているが、さすがに彼女に武器を手にして立ち回りをしろというのは酷な話だ。そこで彼女の身を守る者が必要になってくるが……そんな重要な役目を、その辺の者には任せられまい」
「……そのお役目を、わたしたちに?」
「そういうことだ。おまえたちは人形があればもちろん、なくとも戦えるが、見た目はあくまでも年頃の娘にしか見えない。それに、オフィーリアもおまえたちのことを気に入っている」
実際、オフィーリアは数歳ほど年下の彼女たちのことを、妹のように見ている節があった。今日のように婚約者として館を訪れた際、二人がいないと少し残念そうな顔を見せる。
「もちろんオフィーリアの側付きとなる以上、侍女としての立ち居振る舞いを学んで貰わなければならないが、さほど難しいことでもないだろう」
「は、はい。――でも……」
少女たちの顔が、ベール越しにも分かるくらいに暗く沈む。互いに励まし合うように手を握り合い、彼女たちは声を絞り出した。
「でも、わたしたちは……わたしたちみたいな者が、」
「わたしたちは……」
人間のなりそこない、なのに。
ぽつんと落とされた囁きのような一言に、ナイジェルは眉を寄せる。
「……おまえたちの出自を無理に話す必要はないし……もし話したところで、オフィーリアはさして気にもしないだろう。彼女はわたしに似たところがある。どこまでも実利主義だよ、彼女は」
たおやかな貴族令嬢である見た目を裏切り、オフィーリアには時折ひどくシビアな面があった。音楽を愛し自由に竪琴を爪弾き、無邪気にナイジェルを慕う砂糖菓子のような甘さと、舞踏会や茶会で微笑みの仮面を被り、周囲の貴族を冷徹なまでに値踏みする冷ややかさ。相反する性質をごく自然に併せ持つ彼女は、確かにクィンラム家当主の妻に相応しかった。
そんな彼女であれば、この少女たちの出自など些細なことと捨て置き、その実力だけを見てくれるだろう。それは、ナイジェルが未来の妻を高く評価している部分でもあった。
そもそも、ナイジェルに心酔して従っている彼女たちは、彼からの命令であれば謹んで受ける以外の選択肢が存在しない。ナイジェル自身の護衛は、暗殺者上がりのイグナシオとクリフに引き継ぎ、彼女たちはオフィーリアの護衛として付くことが決定した。
「――旦那様はああ仰ったけど……大丈夫かな」
「わたしたち、こんななのにね……」
ナイジェルの執務室を辞し、館の庭に植わった木の陰で、二人の少女は不安げに囁き合った。他者の前では決して外さないベールを上げ、互いの金色をした目を見交わす。
「……でも、旦那様のご命令だもの、やらなきゃ」
「オフィーリア様は、旦那様の大切な人だから」
縋るように互いの手を握り合い、息をつく。
彼女たちの秘密が明かされるまでには、今しばらくの時間が必要だった。
◇◇◇◇◇
爆発するような勢いで、砂浜に撃ち込まれた水の塊が弾けた。
「――やべ、マナンティアル、マジだぞあれ」
『だから言っただろう、あれは悪乗りしていると』
右腕を戦闘形態にし、砂浜を冗談のような身軽さで駆け巡りながら、アルヴィーとアルマヴルカンはさして益のないことを言い合う。それを断ち切るかのように、マナンティアル――の虚像――から撃ち込まれる水のブレスを模した水塊。
『逃げ回っておるばかりでは、魔力の発散はできぬぞえ? 遠慮せずに攻撃するが良い』
ずどん、と景気の良い音と共に、アルヴィーを捉え損ねた水塊が砂浜もろとも爆散。ころころと響く楽しげな笑い声に、アルヴィーも遠慮をかなぐり捨てる。
「そうかよ、なら――《竜の咆哮》!!」
久しぶりに威力を絞らず放った光芒が、水の竜を豪快にぶった斬る。激しく巻き起こった水蒸気が水の竜を覆い隠すが、それが風に流された後には、優美な姿を保ったままの水の竜が変わりなく宙に浮いていた。
『ふふふ、可愛らしい攻撃じゃの』
水の竜がその翼を翻せば、周囲に無数の水の珠が浮かび上がる。とはいえ、その大きさは一つ一つが人間など簡単に呑み込んでしまうほどだ。
それが弾かれたように、アルヴィーに殺到してくる。
「《竜の障壁》!」
常ならば魔法障壁の足場で回避するところだが、今回はあえて正面から受けた。全力の《竜の障壁》。展開した魔法障壁に水の塊が次々とぶつかり、飛沫と衝撃を撒き散らしながら破裂していく。障壁越しだというのに、踏ん張っていなければ押し退けられそうだ。
(実体のない虚像でこれかよ!? さっすが《上位竜》、死んでても半端ねえ……!)
しかもマナンティアルの本体たる《竜玉》は、島の地底湖に沈んだままである。遠隔操作でもこれだけの力を揮えるとは、死したるとはいえ《上位竜》の面目躍如というところか。
怒涛の水攻めを何とか凌ぎ切り、今度はアルヴィーから仕掛ける。右手に伸ばした《竜爪》に炎を纏わせ、形作る炎の大剣。マナンティアルも再び水を操り、アルヴィー目掛けて矢継ぎ早に撃ち込んでくるが、それを炎の剣で捌き、あるいは紙一重で躱して水の竜に肉薄する。
「行っ……けぇっ!!」
長く伸びた炎の剣が、撃ち込まれる水の塊ごと、水の竜を真っ二つに斬った。その軌跡から巻き起こる、朱金の炎。形を再生しようとする水と阻止しようとする炎がせめぎ合い、雲のごとき濃密な水蒸気を巻き起こす。
そこでアルヴィーは創った足場を蹴り、空中高く舞い上がった。
(マナンティアルがどうやって“見”てるかは分かんねーけど)
《竜爪》の切っ先を水蒸気の塊に向け、《竜の咆哮》を連続して撃ち込む。光芒は目標に突き刺さり、さらにはそれを突き抜けて海底の地面にまで達した。爆音と共に派手な水柱が上がる。
(――やったか!?)
……が。
『ふむ。その調子でどんどん発散するが良い。妾もこうして“遊ぶ”のは久しぶりゆえ、存分に楽しませて貰おうぞ』
砂浜全体を覆うほどに巻き起こった水蒸気を貫き、一条の竜巻がアルヴィー目掛けて伸びた。アルヴィーも《竜の咆哮》で迎え撃つ。光にまで圧縮された炎と水がぶつかり合い、新たな水蒸気を噴き上げた。
「ちぃっ」
《竜の障壁》を展開、追撃に備える。予感は的中し、襲い掛かってきた第二撃が、不可視の障壁を揺るがさんばかりに叩いた。
その脇をすり抜けるように、アルヴィーは空中を駆けると、炎を纏った《竜爪》で竜巻を斬り下げながら海面を目指す。巻き起こる水蒸気を引き連れ、砂浜を覆う即席の雲の中に飛び込んだ。おぼろげに見える水の竜が、その顎を大きく開く。
そのど真ん中を、アルヴィーが放った《竜の咆哮》が貫いた。
水の竜の頭部が消し飛び、優美な姿が歪に欠ける。それを逃さず肉薄すると、胴体に向けて《竜の咆哮》を連射。竜の身体が大きく膨れ上がり、そして弾けた。
「よしっ――!」
しかし、次の瞬間。
ざぶん、と海面から飛び出したのは、人一人を充分に呑み込める大きさの水球。
それはアルヴィーにぶつかると彼を呑み込み、海面でぼよんと跳ねて砂浜に到達すると、そこでぱちんと弾けた。
「――ぷはっ」
砂浜に座り込んで大きく息を吸い込み、犬のようにぶるぶる頭を振っていると、笑いを含んだ声が届く。
『このくらいで良かろう。どうじゃ』
「あー……確かにスッキリした感じはするけど」
遊びとはいえ、久しぶりに力を抑えなかった戦闘だ。今まではほとんどの場合、現場が街中だったり、相手が一撃で沈むような敵だったりしたため、なかなか全力が出せなかったのだが、それは思った以上に力を余らせていたようだった。
「でもやっぱ、《上位竜》相手だと遊ばれる程度かあ」
『妾は千年を生きておるゆえな。気に入りとはいえ、人間の子供には負けられぬわ』
マナンティアルの声も楽しげだ。普段は半分寝ているとはいえ、こんな孤島にずっといたのでは、退屈にもなるだろう。
ずぶ濡れになった服を炎で乾かし――たら塩で真っ白になりそうなので、贅沢ではあるが地底湖の水で軽く洗わせて貰おうと思いながら、移動するべく立ち上がる。
その時。
『……ねえ。何か面白いことやってたみたいじゃない? 僕も入れてよ』
いつの間に来ていたのか、シュリヴが尊大に腕組みなどして立っていた。しかし妙に不機嫌な気配を感じる。
そこで、アルヴィーははたと気付いた。
戦闘の余波を食らってボコボコの砂浜。
《竜の咆哮》の流れ弾(?)で被弾した海底の地面。
島の周囲の海はマナンティアルの支配下だが、陸地と海底の大地はシュリヴの縄張りだ。
「……あのさ、もしかしてこの辺ボコボコにしたの……怒ってるか?」
『やだなー、そんなことないよ。ただ、僕も久々に戦ってみたいんだよねー』
「怒ってんじゃん……!」
――その後。
およそ一時間程度に渡って、島を舞台に派手な模擬戦闘が繰り広げられたのだった。




