第112話 王たる女はかく語る
『はあ、幸せだわぁ……こんなに次から次へと、好みの男の子に出会えるなんて』
「そっか……そりゃ良かったな……」
うっとりと頬を染め生き生きしている樹精の女王に反比例して、アルヴィーの目は死んでいた。アンデッドよりも生気のない死にっぷりだった。
まあそれも無理のない話で、彼女はアルヴィーやジェラルドを皮切りに、帰り際に偶然出会ったルシエルやカイル、果ては通りすがりのシルヴィオやその他の騎士たちまで、とにかく顔の良い相手には一通り(“樹の中で一緒に過ごしましょう”という物騒な内容の)逆ナンの絨毯爆撃を繰り広げてくれたのだ。もちろん全敗である。
もっとも、彼女は“人のもの”には手を出さないのが信条らしく、ルシエルが婚約者持ちと聞いてからは彼に対してのアプローチはぴたりと止めた。節度ある逆ナン師だ。
(……何か、さっさと精霊の森に植樹しちまった方が、世の中が平和になる気がする……)
遠い目でそんなことを思いつつ、アルヴィーは傍らに目をやった。
「――帰んなくて良いのか、ルシィ? 俺このまま魔法技術研究所に寄るけど、あの婚約者の子に会いに行くとかさ」
「構わないよ。ティタニアはもう領地に戻ったし」
帰り際にたまたま出くわしたルシエルは、さっさと小隊に解散の号令を掛けて報告を終え、アルヴィーと連れ立って歩いていた。
「ふーん。まあ、ルシィが良いなら俺は構わないけど……そういや、領地経営の勉強の方とかどんな感じなんだ? もう始めてるんだろ?」
「そうだね、あんまり“勉強”って感じはしないね。教師役の人の教え方が上手いから。授業っていうより、客人に土産話を聞かせて貰ってるって感じ」
「へえ、良いなあ。そんな勉強だったら、俺も起きてられそうだけど」
レクレウス時代、練兵学校の座学の半分を寝て過ごしたアルヴィーは、羨ましげにため息をつく。ちなみに、従騎士時代の特別講義は無遅刻無欠席居眠りなしの皆勤だった。当時まだ和解していなかった講師役の四級騎士ニーナが、殺気にも近い緊張感を振り撒いていたので。
「ま、俺は領地とかないから、聞いてもあんまり意味なさそうだけどな」
「そうかな。これからの活躍次第では、領地の下賜もあり得るかもしれないよ」
「無理無理! 村人その一に領地経営とか求めるなよ」
アルヴィーはぶんぶんとかぶりを振った。ルシエルの母・ロエナに教わったおかげで、読み書きや簡単な計算には困らないという、辺境の小村出身の若者としては異例の教養を得たが、領地経営はさすがに次元が違う。
そんな話などしながら、彼らは王立魔法技術研究所に到着する。フォリーシュが薬学部の敷地に落ち着くことになったので、連れて行くついでにアルヴィーも一応挨拶くらいはしておこうというつもりだ。それに、ポーションの方の進捗も気になる。
薬学部周辺は、相変わらず謎の異臭が漂っていた。それに顔をしかめつつも、出入口のドアを叩く。すると、ドアではなく傍の窓が開いた。ついでにもわっと煙の塊も出て来た。
「――ぶわっ!? 何だこれ……!」
「きゅーっ!?」
一番に被害を被ったのは、至近距離でドアをノックしたアルヴィーとその肩のフラムだ。げほげほと咳込んでいると、煙の向こうから尋ね人が顔を出した。
「おや、悪いねえ。新しい薬のレシピを試してたんだよ」
薬学部主任、スーザン・キルドナは、ひひひ、と魔女のような笑みを浮かべた。
「……一応訊くけど、薬って何の」
「痛み止めの錠剤だよ」
「それで何でこんな火事場みたいな煙が出るんだ……」
痛み止めというより害虫駆除に良さそうな煙が何とか薄れると、スーザンは視線を下げてにんまりと笑う。
「……で、そっちのお嬢ちゃんが地の精霊様かい」
アルヴィーの斜め後ろで、《神樹》の苗木を抱えて立っていたフォリーシュは、警戒した猫のような顔で少し後ずさる。アルヴィーが宥めた。
「大丈夫だって。魔女みたいな見た目だけど、悪い人じゃねーから」
「失礼だね」
半眼になったスーザンだが、元よりそれほど気分を害したわけでもなかったのだろう、軽く肩を竦める。
「……まあいいさ。――落ち着き先は用意してあるよ。付いておいで」
スーザンは一旦窓の中に引っ込むと、ややあってちゃんと出入口から出て来た。先に立って歩き始める。
「――着いたよ。ここだ」
しばらく歩いて、彼女が足を止め指し示した先――そこには小さな森があった。下級貴族の屋敷ほどの広さのその森は、きちんと手入れされていることを示すように、木々は適正な間隔を置いて立ち並び、木漏れ日が地面まで届いている。根元に生えているのは薬草なのだろう、名前の書かれた小さな札が立てられてはいたが、それ以外は自然に近い姿で保たれているようだ。
「薬草の中には、露地栽培じゃ育たないものも多くてね。こうして森の中と似た環境を作ってやらないと生育できないものを、ここで育ててるのさ。管理のために人の手は入れてるが、必要最低限だよ。――どうだい、気に入ったかい?」
『うん、きれい』
フォリーシュは黄水晶の瞳をきらきらと輝かせ、とたとたと森の中に駆け込んで行った。木々の間を駆け回り、土の感触を確かめ、匂い立つような緑を味わうように目を閉じる。
『……わたし、ここ好き』
「そうかい、そりゃ良かった」
嬉しそうなフォリーシュに、スーザンも表情を緩めた。
『ちょっと、この辺りの地脈を整理しておくね』
彼女曰く、地精霊である彼女が留まることになった以上、それに適するように地脈を弄る必要があるらしい。フォリーシュは《神樹》の苗木を近くの木の根元に置き、水に飛び込むようにとぷんと地中に沈む。
そして――植物の根が伸びるように、黄白色の光が広がった。
「これは……!」
「へえ、大したもんだねえ」
初見のルシエルは驚きの声をあげるが、スーザンが感心したように目を見張るだけなのは、やはり年齢から来る経験値というものだろうか。
『――済んだよ』
ひょこん、と顔を出したフォリーシュは、地上に飛び上がるとアルヴィーの手を引いた。
『ここはもう大丈夫だから、精霊の森に行こう。《神樹》をちゃんと植えないと、このままだと弱ってしまう』
『えーっ、もうちょっとこっちにいたかったなあ』
当の樹精の女王はつまらなそうに口を尖らせるが、すぐに諦めたようだった。
『……ま、しょうがないわね。弱ってるのは本当だし』
「おや、そうは見えないがね」
見下ろすスーザンに、彼女は肩を竦める。
『《神樹》は育つのに相当な力を必要とするのよ。《神樹の森》は生育に最適な場所だったんだけど、あそこも滅茶苦茶にされたから。木や生き物がかなり焼かれてしまったから、遠からず地脈も狂ってしまうわ。――地脈というのは、生命に引かれるから』
「そうなのか?」
フォリーシュに問うと、彼女も頷いた。
『生き物の命はそこに在るだけで、少しだけど地脈を引き付けるの。人間が集まる街に地脈が集まりやすいのもそのせい。後は、大きな森なんかもそう』
「そっか……木も生き物だもんな。動物だっているだろうし」
元猟師のアルヴィーは、すぐに納得して頷いた。ルシエルも同じく村暮らしの経験がある。理解は容易かった。
「そうか……じゃあもしかして、人通りの多い街道なんかも、地脈が集まったりするのかな」
『そう』
こくりと頷いて、フォリーシュは《神樹》の苗木を抱え上げると、アルヴィーの手を引いて歩き始めた。
『行って来るね』
「あ、ルシィ悪い、俺もちょっと行って来るわ」
「ああ、構わないよ。僕は適当にこの辺りをぶらついてる」
ルシエルとスーザンに見送られて、アルヴィーはフォリーシュに連れられるままに森に入った。
しばらくすると、周囲の雰囲気が変わってくる。やがて、見慣れ始めた風景が目に飛び込んできた。
「いつ見ても綺麗だよなあ、ここ……」
『あー、この感じ! 落ち着くわぁ……』
どうやらここの空気は、樹精の女王にとっても心地良いもののようで、嬉しげに大きく伸びをしている。が、すぐにアルヴィーに向き直ってぴしりと指を突き付けてきた。
『いいこと、ここの水をちゃあんと持って帰りなさい。強い魔力を持つ水じゃないと、火竜の炎を抑えることはできないの。――それでも侵食が完全に止まるわけじゃないんだけど、ないよりはましだわ』
「……分かるのか」
『これでも炎の気配には敏感なのよ。あなたは火竜の欠片と“共存し過ぎた”。急激に焼き尽くされるんじゃなくて、ゆっくりと熔け合おうとしてる。――人間でいたいんなら、せめてこまめに水で冷やしなさい』
そう言うと、樹精の女王は自分を抱え持つフォリーシュを振り返った。
『さて、と。じゃあ、あの辺りに植えて貰えるかしら。百年も経てば、それなりには育つでしょうから、その頃にまたあっちの世界に植え替えてくれればいいわ』
「え、別にずっとここにいても良くね? 向こうでまた燃やされたらどうすんだよ」
思わずアルヴィーが突っ込んでしまうと、樹精の女王はやれやれという風にため息をつく。
『そうできるものなら、わたしだってそうしたいわよ。――でも、わたしはあの森を統べなければいけないの。それが神々から託された役目であり、女王の誇りでもあるんだから』
苗木の枝に胸を張って立つその姿は、いつか見た女王アレクサンドラの姿を彷彿とさせた。
人間と精霊という違いはあれど、彼女たちは等しく“王”だ。
その細い肩に多くのものを背負い、守るべきもののために凛として立つ。
「……凄いよなあ。王様なんだよなあ」
『そうよ! 敬いなさい!』
「うん、すごいすごい」
『真面目に!』
むくれる彼女に手を振ると、アルヴィーは魔法式収納庫から水筒を出して、大樹の根元の水晶から溢れる水を汲む。その間にフォリーシュが、指定された場所に《神樹》を植樹していた。百年後にまたフォリーシュが、《神樹の森》に植え替えるという。
『わたしも、その方が良いと思う……今あの森に戻したら、また燃やされるかもしれないし』
『百年も経てば、さすがにあの森を燃やした奴もいないでしょ。火竜の力を持って多少人間離れしたって、寿命そのものは人だもの』
人外二人がそう言うのだから、それが最善なのだろう。どの道アルヴィーも、その頃にはこの世にいないはずだ。
(……だよな? 多分)
そこはかとなく不安になって、自身の中のアルマヴルカンに問うが、眠っているのかはたまた無視されたのか、彼からの返答はなかった。
――新しく植えられた《神樹》は、元からの森に不思議と馴染み、まだ頼りない枝葉をそよがせる。水源に近いため頻繁に水遣りをする必要はなく、ここで周囲の力を取り込みながら育っていくのだ。
『……じゃあ、わたしはしばらくこの中で眠るわ。百年は目が覚めないと思うから、あなたとは多分これでお別れね』
「そっか。――じゃあな」
おそらくはもう会うこともないであろう樹精の女王に手を振って別れを告げ、アルヴィーはフォリーシュと共に人間の世界へと戻って行く。
『……さよなら。あなたが少しでも長く、人間であることを祈っているわ。――神様は、もういないけど』
彼の背中を見送り、樹精の女王は長い、だが彼女にとってはひと時の眠りの中へと落ちていった。
◇◇◇◇◇
帝都クレメティーラは、クレメンタイン帝国領を流れる大河・リューラン川中流域の畔に位置し、現在凄まじい勢いで人口と建築物の数を増しつつある。
かつてはこの街にも大陸環状貿易路が通っていたが、帝国の滅亡によってその道は閉ざされ、変わって帝国領を避ける形で、モルニェッツ公国とロワーナ公国との間に海路が結ばれた。本来、大陸環状貿易路はその名の通り、大陸内を環となって結んでいたのである。
もはや人の世では誰も見たことがない在りし日の姿――だが、その痕跡は今でも残っている。そしてクレメンタイン帝国の女帝・レティーシャは、帝都の隆盛に伴い、失われたかつての街道を再び蘇らせようとしていた。
「――いやあ、しかし凄いもんだなあ、魔動巨人ってのは!」
「人の手じゃ何年掛かるか分からんような作業が、たった何日かでできちまうんだもんなあ」
「あの銀髪金目の連中も大したもんだぜ。見る間に道を造っちまう」
街道の痕跡を辿り、障害物を取り除き、地面を踏み固め、場合によっては石畳で舗装する。魔法を用いても人間だけの作業であれば、年単位の時間が必要になるであろうその作業を、レティーシャが派遣した魔動巨人と人造人間たちはとんでもない速さでこなしていった。魔動巨人たちが障害物を押し退け、踏み固めていったその後を、人造人間たちが地魔法を使って舗装していく。人夫たちの仕事といえば、前もって街道の痕跡を見極め、目印に旗を立てておく程度のものだった。そうしておけば、魔動巨人は不思議と、その目印に沿って進んで行くのだ。
その様子を、ベアトリスは空中に佇む乗騎のヒポグリフの背から見下ろしていた。
(凄いものね……もうあんなに道が……)
背後を振り返ると、遠くクレメティーラの街並みがかすかに望める。距離はおおよそ十数ケイルというところか。作業日数が五十日そこそこということを考えれば、常識外れの進捗だった。
上空にいても聞こえる地響きは、魔動巨人の足音だ。彼らの自重によって充分に踏み固められた地面は、これからの人や馬車の往来にも陥没することはないだろう。そしてその後に続く人造人間――それも魔法に長けた“魔法特化型”と呼ばれるタイプの者たちが、地魔法を使って道を石畳で覆っていく。材料とするのは道の両脇の部分の土で、後にできた溝はそのまま、雨水が流れ込むための側溝となるのだ。この側溝と石畳のおかげで、この道は雨が降ってもぬかるむことはない。
街道建設はクレメティーラを起点に、モルニェッツの旧首都ドミニエ、及びロワーナの旧首都ラトラに向けて進められていた。二方向同時の大工事だが、魔動巨人は疲労することもなくただひたすらに目印に従って進んで行くだけだし、人造人間たちも、人間の魔法士に比べて膨大な魔力を持つよう調整され生まれてきたという存在だ。交代要員も用意され、また魔力の回復を早めるマナポーションも、潤沢に与えられていた。
魔動巨人に付き従うかのような人造人間の一団という、どことなく奇妙な隊列を眺め、ベアトリスはヒポグリフの手綱を引く。彼女の合図に従い、聡明な乗騎は翼を一つはためかせ、地上へと舞い下りていった。
「――う、うわあ、何だこりゃあ!?」
突然空から舞い下りてきたヒポグリフに、現場(特に人夫たち)は騒然となったが、ベアトリスは構わず、人造人間の一団を指揮官よろしく後ろから眺めていた、一人の青年に声をかける。
「アズーラ」
呼ばれた青年は、無表情で頭上を振り仰いだ。
「……ああ、侍女頭殿か。進捗の確認か?」
「ええ」
「それなら見ての通りだ。問題ない」
彼は他の人造人間たちに比べるとやや小柄だったが、それを感じさせないような鋭い雰囲気を纏っていた。魔法特化型の人造人間でありながら、腰には一振りの剣を帯びている。彼はダンテによる戦闘訓練でも頭一つ抜き出た実力を見せ、人造人間のリーダーとして、東方面の街道建設工事の監督に当たっていた。
人造人間は基本的に、体格や顔立ちが似通う傾向にあるが、アズーラは顔立ちはともかく、身長の方は生育が足りなかったらしい。それだけでも区別にはなるが、彼はさらに左頬に青い刺青を施していた。銀髪は短く刈り、金の双眸は鋭くベアトリスを見据える。もっとも、別に不機嫌なわけではなく、表情が薄いがゆえに目つきが鋭く見えてしまうのだろう。
「進捗は予定通りだ。事故なども今のところはない」
「そう、それなら良いわ。陛下にはそうご報告しておくわ」
ベアトリスは再びヒポグリフに合図を送る。ヒポグリフは翼を羽ばたかせて上空高く舞い上がり、《薔薇宮》を横目に今度は西へと向かう。こちらはドミニエに向けて街道を建設中だ。ベアトリスは出来上がったばかりの道に沿って飛び、魔動巨人の威容を見つけてヒポグリフを緩やかに降下させた。
「――あら、ベアトリス様。陛下へのご報告かしら?」
「ええ、エスカラータ。こちらも順調のようね」
こちらの人造人間を監督していたのは、右頬に緋色の刺青を入れた女だ。彼女は人造人間らしからぬ人間臭い仕草で、ベアトリスに微笑みかけた。
「ええ、何も問題はないわ。このまま行けば、予定通りに作業は終わるはずよ」
エスカラータは、人造人間の中でも抜きんでて、自我や感情が発達した個体だった。同じように調整されて生まれても、様々な要因で個々の成長具合には差が出るが、彼女はそれが特に顕著に出たといって良い。長い銀髪を肩に流し、“生まれ”てからまだ一年も経っていないとは思えないほど嫣然たる態度をたまに見せる彼女は、どうやら意識して大人びた振る舞いをしているようだ。
「そう。それは喜ばしいことね。――それじゃ、わたしはもう戻るわ」
西方面の進捗も確認し、ベアトリスはヒポグリフを空に舞い上がらせて、宮殿へと帰還した。
宮殿の庭に舞い下り、ヒポグリフを厩舎担当の人造人間に渡す。その足で主たるレティーシャのもとに向かい、報告を済ませた。
「――東方面、西方面、双方とも進捗は予定通りとのことです。事故などもございません」
「そう、それは重畳ですわ。ご苦労様、ベアトリス」
「とんでもございません」
労いに一層深く頭を垂れ、ベアトリスは報告を終える。
「面をお上げなさいな」
「はい」
許しを得て顔を上げると、レティーシャはにこやかに微笑んでいた。
「そういえば、ベアトリス」
「はい」
「アズーラと、エスカラータ……あの二人は、いかがでしたかしら」
「二人とも、問題なく監督の役目を果たしているようでした。アズーラはあの通りの性格ですから分かり難いところもありますが、エスカラータはまるで――」
――本当の人間のような。
そう言おうとして、ベアトリスは言葉を切る。
限りある命を持ち、話をし、笑う。
それは、“本当の”人間である自分たちと、どう違うのか――。
「――ベアトリス?」
主の声に、彼女ははっと我に返った。深く頭を下げる。
「も、申し訳ございません! 陛下の御前で……!」
「構いませんわ。――あなたが何を思ったのか、わたくしにも想像は付きます。あの子たちは本当に、人間のよう」
慈しむような眼差しでそう言って、レティーシャは群青の瞳を細める。
「アズーラも、いずれもう少し感情が表に出て来ると良いのですけれど……それも彼の個性かもしれませんわね。わたくしがわたくしであり、あなたがあなたであるように」
「……わたしが、わたしであるように……?」
「ええ。わたくしが人造人間に期待しているのも、それですわ。同じ環境下に生まれても、まったく同一に育つ人間はいません。どんな要因で、人は自らを“個”たらしめるのか……」
玉座から立ち上がり、レティーシャは雲の上を行くかのようなふわりとした足どりで、ベアトリスの眼前まで歩み寄った。長い銀糸が一拍遅れて軽やかになびくのを、彼女は夢でも見るような心持ちで見つめる。
その青灰色の瞳を、群青の深淵が覗き込んだ。
「そうして、あの子たちが人に限りなく近付いた時――彼らは“何”となるのでしょうね」
声すらなく見つめるベアトリスを、群青の眼差しが拘束する。だがそれは一瞬で、レティーシャはくるりと身を翻した。
「……もう結構ですわ、本来の仕事にお戻りなさい、ベアトリス。良くやってくれました」
「は、はい……御前失礼致します」
ベアトリスがまるで逃げるように退出してしまうと、レティーシャは小さく笑った。
(いけない、怖がらせてしまったわ。――“昔”から言われていたけど、直らないものね)
今よりずっと昔、もう戻れないあの頃。
――否。
(あの頃そのものには戻れなくても……帰らなくては)
たとえ、自分の愛するものが、すべて無くなってしまっていても。
薄暗い玉座の間に立ち尽くし、彼女は虚空を見つめる。在りし日の記憶を、そこに見るかのように――。
◇◇◇◇◇
ファルレアン女王・アレクサンドラの執務室は、居城である《雪華城》の上層階にある。
常のようにそこで執務に当たっていたアレクサンドラは、宰相ヒューバートから呈された案件に、形の良い眉をわずかに寄せた。
「――婚約……? わたしが?」
「は。今までは難しい時期でありましたがゆえに、あえて話は控えて参りましたが……これからは、そうも参りますまい」
「そうね……」
アレクサンドラは小さく息をついた。
「……確かに、王族としてこの年齢まで婚約もしていないのは、異例ではあるわね」
「ご理解いただき幸いにございます。――無論、陛下のご双肩に掛かる責務の程、我々は重々理解しておりますが……この件に関しましては、《保守派》が動き出さぬ内に手を打つべきではないかと。事は陛下だけでは収まらぬやもしれませぬゆえ」
ヒューバートはあえて名を出さなかったが、それが誰を指しているものかは、アレクサンドラには良く分かった。
「……分かっているわ。アレクシアを下手なところに降嫁させるわけにはいかない。それに、わたしがせめて婚約でもしない限り、どの道アレクシアも巻き込まれることになるわ」
「とはいえ、陛下のご婚約者――ひいては王配となられるお立場である以上、その辺の貴族の子弟を、というわけにも参りませぬ」
「傍流はもっと駄目ね。肝心な時に逃げ出すようでは、王配の地位は任せられないわ」
「ごもっともでございますな」
ばっさりと切り捨てたアレクサンドラに、ヒューバートも首肯する。王家の傍流に当たる、王位継承権を持つ高位貴族の子弟たちは、戦争の最中の王位継承から揃いも揃って逃げ出し、結果アレクサンドラにお鉢が回ってくる事態となったのだ。現在の状況を見ればそれは最善の道であったが、だからといって彼女よりも年上の男どもが軒並み尻尾を巻いて逃げ出した事実は消えない。
「《保守派》はここぞとばかりに、釣り合いの取れる年の子息を捻じ込んで来ることでしょうが……場合によっては、国外に目を向けることも、やぶさかではないかと存じます」
「そうね。王配の椅子は外交の手札になり得るわ。――その件については宰相に任せます」
「……よろしいのですか?」
「わたしに恋愛などしている暇はないわ。誰を選ぼうと同じこと。だったら、少しでも国の利益になる相手を迎えたいわ」
まだ十代半ばの少女が口にするには、あまりに悲しい言葉だった。だが、女王としては正しい答えでもある。そして彼女は、一人の少女である前に、女王であることをすでに選んでいるのだ。
ならば、ヒューバートができることはただ一つ、彼女の意に沿う相手を見つけ出すことだけだった。
そして――そこで彼は、彼女が以前気に掛けていたと思しき一人の人物を思い出す。
「……陛下。非礼を承知で一つお伺い致しますが」
「何かしら」
首を傾げるようにこちらを見上げるアレクサンドラに、ヒューバートは意を決して口を開いた。
「その……陛下は《擬竜騎士》のことはどうお考えですかな」
「え?」
きょとん、と目を瞬かせる彼女は、珍しく年相応の表情をしていた。まさしく思ってもいなかったことを訊かれた、というように。
だが、彼女が以前から彼を気に掛けていたのも確かだった。
従騎士への登用を認め、あまつさえ任命の際には意識体になってまで立ち会った。イムルーダ山の一件の後には、異例の謁見。無論、相応の理由はあったにしても、当時は平民でしかなかった彼に対して、例のない対応であったには違いなかった。
まかり間違えば不敬にも問われかねない質問だったが――アレクサンドラは一瞬の困惑から覚めると、おかしげに目を細めた。
「確かに、好ましい人柄だとは思うけれど……それは一般的な意味であって、彼はわたしにとって“そういう”対象ではないわ。彼に対しては、そうね……親近感、というのが近いかしら」
「親近感……でございますか?」
「ええ。だって――」
ペリドットグリーンの瞳を細めて、彼女は微笑む。先ほどの年相応の“少女”の顔ではなく、“女王”の顔で。
「彼は、わたしと同じだもの。――同じ、強大な存在の加護を受けた者同士」
その言葉に、ヒューバートは小さく息を呑む。
高位元素魔法士――他の魔法士とは一線を画す、強大な力を揮うことを許された者たち。
彼が、アルヴィーが現れるまで、彼女はこの国で唯一の高位元素魔法士であったのだ。
「わたしは、生まれた時から高位元素魔法士だったわ。その頃からきっと、他の人たちとは違っていた。同じ両親から生まれたアレクシアでさえ、わたしと“同じもの”にはならなかった……」
どこか遠くを見るような瞳に、ヒューバートは悟る。
多くの人間に傅かれながらも、彼女はずっと、薄布を隔てたような孤独の中にいたのだと。
「でも、それで良かったのかもしれないわ。異質で良かった。――“王”とはそういうものでしょう? 民と同じであってはならない」
民を導く者である以上、その民と同じ目線であってはならない。彼らよりももっと遠くを、彼らよりも高みから見通せなくてはならないのだ。
そのために、明らかに“異質”であると自覚できたことは、王として起つのには都合が良かった。
幸いにして彼女には、それを助けてくれる存在もいたのだから。
「陛下……」
「そんな顔をしないで。わたしにはこの玉座は合っているわ。――わたしにはきっと、普通の娘のような恋愛はできないもの。家柄や役目以前に、“そういうもの”として生まれついてしまった。でもそれは、“王”としては好都合ではなくて?」
誰か一人の“特別”を作ることなく、平等に、公平に。できうる限り多くの民を慈しむことが王の役割ならば、なるほど、彼女ほど王に相応しい人間は、この国にはいないのだろう。
誰かを愛することができない代わりに、誰もを慈しむことができるのだから。
「わたしは多分、夫となる人を愛することはできないけれど、政略結婚では珍しくもないでしょう? だから、わたしとそれなりに釣り合いが取れて、この国に利をもたらしてくれる相手ならそれで構わないの」
だからその相手を決めるところまでは任せるのだ、と。
そう言われてしまえば、ヒューバートにはそれを拝命する道しか残されていなかった。
「……畏まりました」
「よろしく頼みます、宰相」
そう言って微笑む少女は、悲しいほどに完璧な“女王”だった。
ヒューバートが所要のため執務室を後にすると、アレクサンドラは執務を中断し、席を立った。広い窓を開け放つ。
途端に、渦巻く風が彼女を包み込んだ。
『……エマ』
彼女を愛する精霊の声に、微笑む。
「大丈夫よ、シルフィア。あなたのせいだなんて思っていないわ。――人の愛し方が分からないのは、わたし自身の問題だもの。それに、王としてはその方が都合が良いのだから、構わないの」
どこまでも“王”にしかなれない彼女を、風は抱き締めるように渦巻き、そして解けていく。
――いつか、誰かを本当に愛せたら良いわね、エマ――。
かすかな声に微笑んで、アレクサンドラはぱたりと窓を閉めた。




