第111話 樹精の女王
ここ最近のオルセルの日課は、人型合成獣の子供たちを外に連れ出すことだ。
「――あ、そっちは駄目だ。崩れかけてるから危ない」
外といっても《薔薇宮》からは出ないので、専ら中庭などが彼らの行動範囲だった。子供たちは肉体的にはともかく精神的にはまだまだ幼いので、何か事情でもない限りそう遠出はできない。
「……オルセル、こっち」
「あ、待ってよ」
子供たちの一人にいきなり手を掴まれ引っ張られて、オルセルは危うくつんのめりそうになった。オルセルを引っ張ったのは、さらさらした銀髪を短めに切り揃えた少年だ。あまり喋らないが、よくオルセルに纏わり付くので、それなりに懐かれているのだろうとは見当を付けている。
「ずるいわ、わたしも!」
と、もう一人、こちらはふわふわした髪の女の子が、少年に掴まれたのとは反対側の手を掴んできた。この二人が、特にオルセルに付いて回っている。特に少女の方は性格もはっきりとしてきて、上手く自我が育っているようだった。
それぞれが違う方向にオルセルを引っ張って行こうとするので困っていると、
「――こら、おまえら。オルセルは一人しかいないんだから、どっちかにしろ」
助け舟を出してくれたのはお目付け役よろしく付き添うゼーヴハヤルだ。腕組みをしてむすりとしかめっ面の彼は、戦闘特化として生まれた人型合成獣の子供たちが万が一にもオルセルに危害を加えないよう、用心棒を買って出ているのだった。もっとも、オルセルにしてみれば無用の心配なのだが。
「セプス、リュクス。できれば順番にしてくれないかな? セプスの方が先だったから、まずはそっちから」
オルセルの提案に、少年の方がわずかに表情を緩める。一方の少女はあからさまに不満げな顔になった。
「ずるいわ!」
「リュクスにも後で付き合うよ」
「約束よ」
やや機嫌を直した少女にほっとしつつ、オルセルは少年――セプスの顔を覗き込む。
「……それで、セプスは何か見つけたのかい?」
オルセルの問いにこくりと頷いたセプスは、オルセルを引っ張って小走りに駆け出す。
彼がオルセルを連れて来たのは、宮殿の中でもほとんど端の一角、城壁に近い場所だった。在りし日は堅牢であっただろう城壁は、百年の歳月に耐えきれず一部が崩落し、壁の向こうの景色が覗いていた。
――外の世界。
それを目にして、オルセルは小さく息を呑んだ。
「ここ、外に出られる」
セプスは表情が薄い中にもどこか嬉しげに、崩落した部分を指差す。見たところ、結界の類は張られていないようだった。オルセルにしてもそれほど魔法に詳しいわけではないが、少なくとも魔法陣やアイテムなどは周囲に見当たらない。
「ああ、そう……そうだね」
曖昧に頷きながらも、オルセルはまるで別世界のように広がる、帝都クレメティーラの様子を見つめた。
(……僕は、)
覗き見るだけでも分かる、明るく活気に満ちた街。それを長くは見ていられずに、そっと視線を逸らして繋ぎ合わせた手に目を落とす。
(もう、あんな明るい光の下には出て行けない)
地下研究施設の管理人を任され、その真の姿を知って行く内、彼はその闇に確実に染められていった。
人造人間や人型合成獣のような、倫理の枠を外れた存在を作り出す研究に、オルセルはもう深く関わってしまった。人型合成獣の子供たちが手を汚すのも黙認した。そして彼らを“人間”として誤った方向に育てようとしている。
――だから自分も、共に血と闇の中に沈まなければならないのだ。
「……どうか、した?」
窺うように自分を見上げるセプスの瞳に、オルセルははっと思考の海から浮かび上がる。何とか笑みを作って、さらさらした銀髪を撫でた。
「……僕はちょっと忙しくて、あまり街には行けそうにないんだ。――ミイカやゼルにも、教えてあげてくれるかな、ここのこと」
「ミイカは良いけど……ゼーヴハヤルは、ちょっと怖いな」
自分たちに向けられる密やかな敵意を、子供たちの方も敏感に感じているのだろう。オルセルは苦笑した。
「大丈夫だよ。ゼルはただ……ちょっと、心配が過ぎるだけだ」
“同族嫌悪”という言葉を彼は知らないが、ゼーヴハヤルが人型合成獣の子供たちを嫌うのは、彼自身とあまりにも似通っているからではないかと、オルセルは考える。
“造られた”存在であることも、戦うために生まれたという存在意義も――そして、オルセルたちへの執着も。
「いつか、仲良くなれるよ」
確信など何もない未来を語り、オルセルはもう一度、子供の頭を撫でた。
まるで、自分自身に言い聞かせるように。
◇◇◇◇◇
森を抜け、アルヴィーとフォリーシュは王都ソーマへの帰還を果たした。
ただし、行きとは違う点が一つ。
『――わあ、これが人間の街なのねえ!』
フォリーシュに抱えられた土の塊に植わった、まだ細い若木。それにちょこんと腰掛けて、人形のように小さいドライアドの少女――本人曰く“樹精の女王”――は、緑がかった金の双眸をきらきらと輝かせて、初めて目にする王都の街並みを堪能しているようだった。
「……人間の街を見たがるドライアドなんて、いるんだな……」
何ともいえない気分で、アルヴィーはそれを見やる。幼い頃から話に聞いてきたドライアドは、森に仇なせば恐ろしい報復をしてくる存在であり、森の化身にして守護者であった。人間の営みなどには興味もなく、ただ静かに樹木に宿って年月を重ねる――と思っていたのだが。
しかしそんな人間の幻想を、当の本人(本精霊?)が粉微塵にぶち壊してくれたのである。
『あら、だって一度森に植わってしまえば、樹ごと移植しない限り、もう動けないじゃない。その前に、人間の街を見ておきたいわ。わたしは好奇心が旺盛なの!』
「えええ……あー、でも何となく分かる気もする」
そんなわけで、主に彼女自身の強い希望により、精霊の森に移植される前に一度、王都ソーマを見て回ることにしたのだった。
「――で、あれが王城」
『うわぁぁぁ……!』
青空に映える白亜の城に、彼女は感激に打ち震えつつ感嘆の声をあげる。
『すごいわ! 人間はあんなに大きなものを作れるのね!』
アルヴィーからすれば、何百年何千年と生き続けてきた大木も凄いと思うのだが。まあ確かに、あれだけの規模の建造物となると壮観ではある。
そんな感じで王都の街並みを楽しみつつ、彼らは王城に帰還した。出発の時に入った王城内の森に出なかったのは、ひとえにこの王都の街見物のためだ。
一応事前連絡に《伝令》を飛ばしておいたので、ドライアドを連れ帰ったことにも別段驚かれはしなかったが(というより、もはやアルヴィーが何をやらかしてもさほど驚くには値しない、という境地かもしれない)、報告のために顔を合わせたジェラルドには嘆息された。
「……おまえはつくづく、人外に関しては引きが強いというか何というか……」
「……否定できない……」
普通の人間なら一生お目に掛かることのないような存在を、次から次へと入れ食いのように引き連れて来るアルヴィーに、もはや諦めの境地に至ったジェラルドの一言に、言われた本人も遠い目になった。遭遇率は多分、一般人の数百倍は堅いに違いない。
「……で、そっちのお嬢ちゃんが例のドライアドか」
ひょいと若木を覗き込むジェラルドに、樹精の女王の顔が見るからに輝いた。
『まあ! こっちも良い男ね! すっごく好み!』
「……そりゃどうも」
『ねえ、もう少しこの木が育ったら、この中で一緒に過ごしましょう!』
「いや、謹んで辞退させて貰う」
無論ジェラルドも、光の速さで辞退した。ドライアドによって樹木の中に引き込まれた者は、何百年経とうと年を取ることなく過ごせるというが、生憎彼には木の中に引き込まれているような暇はない。仕事は山積みなのだ。
『ええー』
「悪いが、こっちも忙しいんでな」
ドライアドの誘惑をばっさり却下し、ジェラルドは早速本題に入ることにした。
「――以前、おまえから相談のあった件だが」
「ああ、フォリーシュが落ち着くのに良さそうなとこ。どっかいいとこあった?」
「それなんだが……魔法技術研究所の薬学部の敷地はどうかと、グエン所長から提案があった」
「へ?」
意外な申し出に、アルヴィーは目を瞬かせる。
「研究所?」
「ああ。薬学部の敷地にはちょっとした森もあるし、薬草園もある。地精霊には馴染み深い環境だろう。同じ王城内で騎士団本部からもさほど遠くない。少し足を伸ばせば、顔を出すのも難しくないしな」
言われてみれば、王立魔法技術研究所薬学部の立地は、アルヴィーに懐くフォリーシュの意向を最大限汲みながらも、王国側としてもまず満足に足る場所だった。王城内であるため、万が一の時には彼女の保護が期待でき、また地精霊である彼女の存在は、敷地内で栽培している薬草類の質を上げてくれるだろう。唯一の懸念は女王アレクサンドラを寵愛する風の大精霊シルフィアとの相性だったが、そもそも精霊同士はよほどの理由がなければ諍いなど起こさないし、シルフィアはアレクサンドラが呼ばなければ王城には現れない。問題が起きる可能性は低いとの結論に達したため、薬学部敷地を第一候補としてまず打診してみることとなったのだ。
敷地の位置関係などを説明され、フォリーシュはその提案にあっさりと頷いた。
『いいわよ。ここの土地の感じも嫌いじゃないから』
「研究所の敷地だったら、俺も騎士団への行き帰りに顔出せるしな」
予想外に良い条件の土地が見つかり、アルヴィーも肩の荷が下りたといった様子だ。えへへ、と表情を綻ばせるフォリーシュと笑い合う姿は微笑ましい。滲み出る兄妹感。実年齢はおそらく逆(しかも大差)だろうが。
「……まあ、気に入って貰えれば何よりだ」
とりあえず、場所の選定にあれこれ渦巻く大人の事情があったことは、そっと口を拭って知らぬふりをするジェラルドだった。
「――それで、どうするんだ、そのドライアドのお嬢ちゃんは?」
フォリーシュの落ち着き先も決まったところで、次なる問題は樹精の女王の処遇である。だが、これには彼女自身がすでに答えを出していた。
『しばらく人間の世界を見物してから、精霊の森に落ち着くつもりよ。ここまで弱ってしまったら、“こちら”の世界では多分、力を回復しきれないわ。精霊の森である程度、力を取り戻さないと。――それでも最低百年は掛かるだろうから、あなたたちと顔を合わせるのはこれきりになるでしょうね』
「そっか……でも、そうだな。あそこは水も空気も綺麗だったし」
精霊の森の美しさを思い出し、アルヴィーは頷く。樹木の精霊であるドライアドにとっては、最高の環境だろう。
だが、樹精の女王は小さななりで器用に肩を竦めた。
『本来なら忸怩たるところよ。わたしは《神樹》に宿ったドライアドとして、《神樹の森》の管理者たるを神々から任されたのだもの。それがこの体たらくではね。まったく、我ながら不甲斐ないわ』
『それは仕方ない。ドライアドは戦闘能力はあまり高くないもの』
フォリーシュが、フォローなのか追い討ちなのかよく分からないことを付け加える。樹精の女王は渋い顔になった。
『……ほ、本来ならわたしたちは相手を呪うか、樹に巣を作った魔物や虫を使って報復するしかないんだもの! あんなにバカスカ極大級の炎の魔法を撃ち込んで来る相手なんて、いくら《神樹》に宿ったわたしといえど、荷が重いわ。相性最悪なんだもの』
魔物も虫も燃やされたし、と樹精の女王はため息をつく。
「……森を焼いたのは、確かに例の小娘だったんだな?」
鋭く目を細めたジェラルドに、アルヴィーは頷いた。
「ああ、メリエだった。――あいつ、また竜の肉を移植したみたいで、強くなってた。魔力集積器官の形も変わってたし」
「何とまあ……話に聞いた限りじゃ、相当にえげつない施術なんだろ? それを複数回か。よく生きてたもんだぜ」
「……元々、《擬竜兵》として生き残りはしてたんだから、相性は良かったんだろ」
「違いないな」
ジェラルドが肩を竦める。
「とにかく、あの小娘が出て来たとなると、《神樹の森》の一件もクレメンタイン帝国の仕業ってことだろ。一体どこまで手を伸ばす気なんだかな、あの国の女帝は」
「シアの考えることなんか、俺には全然分かんねーしな……」
アルヴィーのため息も苦々しい。
その時、アルヴィーの裡でアルマヴルカンがぼそりと言った。
『――そういえばあの娘、何か目当てがあったようだが?』
「え?」
『そのようなことを言っていただろう。覚えていないか』
アルマヴルカンの言葉に記憶を探り、確かにそのようなことを言っていたと思い当たる。
「あー、そういえば……“シアの言ってた木は燃やした”とか何とかって」
彼女としては呟いた程度だろうが、竜の血肉を取り込んだ余禄として、アルヴィーの五感、特に視覚や聴覚は飛躍的に上昇済みである。木々が焼ける音に紛れようとも、その呟きは確かに聞こえた。――今の今まで忘れかけてはいたが。
すると、樹精の女王が口を開いた。
『……多分、それは“わたし”――《神樹》だわ』
愛おしむように細い若木――《神樹》が残したわずかなよすがを撫でながら、彼女は厳しい表情になる。
『あの森に、《神樹》以外に狙われるような樹はないもの。《神樹》はその名の通り、千年前にこの世界を去った神々が残したものよ。あの樹はただの樹じゃない、特別なものなの。――そしてわたしは、あの樹に宿って樹精の女王になるために、ドライアドの中から選ばれて力を与えられた』
「それは……神ってやつに?」
『そうよ』
樹精の女王は自負を滲ませて頷いた。
『神々は、この世界に生きるものたちのためにあの樹を残した。そしてわたしは、その半身。なるべくして樹精の女王になったの』
彼女はそう言い切る。人形のように小さい身体に、女王たる誇りを漲らせて。
『……そうね。《神樹》とわたしを救った対価として、少しだけあの樹の役目を教えましょう』
樹精の女王は器用に若木の細い枝の上に立ち上がった。まあ、この若木は彼女自身でもあるわけだから、彼女にとっては容易いことなのだろう。
『まず、《神樹》についての言い伝えは知っているかしら』
「時々金色の葉が生えるってのは聞いたことがあるな。何でも、死人だろうと蘇らせる薬の原料になるそうじゃないか」
「え、そんなのマジであるのか」
即座に答えたジェラルドに、アルヴィーが驚きの表情になる。樹精の女王が頷いた。
『その通りよ。もっとも、それで蘇りの薬を作れた人間はいないけれど』
「え、何でだ?」
『決まっているわ。あの広大な《神樹の森》の最奥にある《神樹》の、一番天辺の梢にしか金の葉は茂らないのよ。しかもそれは、枝から直接摘まないと効果を保てないの』
『《神樹》は、ここのお城くらいの高さがあったと思う』
フォリーシュの補足のおかげで、アルヴィーでも《神樹》の大体の高さを割り出すことができた。その天辺までよじ登り、枝の先に茂った金色の葉を直接毟り取る。何という無茶振りだろうか。何しろ《雪華城》の中心、《天空議場》までの地上からの高さが、軽く百メイル近くあったと聞いたことがある。
そしてそもそも、《神樹の森》自体が、ファルレアンの誇る(?)魔物多発地帯、公爵領ほどの広さを持つ《魔の大森林》よりさらに広いという。登るどころか、《神樹》に辿り着く以前に力尽きそうな気しかしない。
「……それさ、実は人間に取らせる気なかったとかじゃね?」
『あら、世の摂理を覆すのよ。それくらいやってのけられて当然じゃなくて?』
樹精の女王の言葉に、アルヴィーは黙った。とても説得力がある。
『……まあ、話が逸れたわね。ともかく、《神樹》はそれだけの力ある樹よ。金の葉は手に入れられなくても、その根元にさえ辿り着ければ、《神樹》の力のいくらかは手に入れられる。そして実際、それをやった人間がいたわ』
一拍置き、彼女は“その名”を紡ぐ。
『――《黒白の魔女》』
「! それ……!」
思わず声をあげたアルヴィーに、樹精の女王も少し驚いたような目を向ける。
『あら、その年で《黒白の魔女》を知っているの?――ああ、あなたの中には火竜がいるのだものね。“古き竜”なら、知っていてもおかしくはないか……』
さすがに神々の時代から在るだけあって、彼女はすぐに理由を察したらしい。一つ息をつき、話を続ける。
『……その《黒白の魔女》は、《神樹》の樹液を使って薬を作ったの。当時は人間の世界では長く戦争が続いていて、人死にが絶えなかったから、戦争で傷を負って死にそうな人間を助けるために、その薬が広く使われたわ。そして、《黒白の魔女》は森に一番近かった村の人間に、薬の作り方と転移魔法を教えて、姿を消したそうよ。自分がいなくても、引き続いて薬を作れるように』
「《黒白の魔女》が……」
アルヴィーはいつか見た夢を思い出す。アルマヴルカンの記憶の欠片。
黒い髪と黒い瞳を持ち、白い上着を風にはためかせて、恐れる様子もなく“彼”と対峙していた女。
――世界一つだなんて、面倒なものを丸投げしていってくれたけど。いつか、後悔させてやるの。“神様”とやらをね。だから、――。
『……彼女も、哀れなものだわ。選ばれたばかりに、囚われてしまった』
「え?」
『……いえ、何でもないわ。忘れてちょうだい』
かぶりを振り、樹精の女王は話は終わりとばかりに口を閉ざした。
『――対価としては、これくらいでしょう。彼も《黒白の魔女》を知っていることだし、これ以上知りたければ他を当たるのね。千年以上存在している相手なら、大抵《黒白の魔女》は知っているわ』
現にその火竜は知っていたでしょう、とアルヴィーの方を指し示す。もっとも、彼女が本当に指し示したいのは、その裡にいるアルマヴルカンだろう。
『……それと、これはおまけだけれど』
樹精の女王はちょいちょいとアルヴィーを手招く。何だろうと思いつつも顔を寄せると、彼女は小さく囁いた。
『――それ以上火竜と混ざり合うのが怖いなら、力ある水を飲みなさい。精霊の森のものでも良いし、別のものでもいいけれど、とにかく魔力を帯びた水を。そうでなければ、火竜の力は抑えられないわ。あなたは相性が“良過ぎる”から』
「え……」
目を見張るアルヴィーに、彼女はぱちんと片目を瞑ってみせる。
『千年在り続けた樹精の女王を侮らないでちょうだい。――それに、好みの男の子が苦しむのは、見ていて忍びないわ』
アルヴィーは一瞬呆気に取られ、それから少し笑ってしまった。
――その後、ジェラルドの執務室を辞し騎士団本部を出ようとした時に、偶然第一二一魔法騎士小隊と出くわし、ルシエルやカイルを目にした樹精の女王が好みの良い男だと顔を輝かせて安定の誘いを掛け、彼らを大いにドン引きさせたのは余談である。
◇◇◇◇◇
ブーツの踵を高らかに鳴らし、メリエは両開きの扉を勢い良く開け放った。
「――帰ったわよ、シア」
「ご苦労様、メリエ」
にこりと微笑むレティーシャに小さく鼻を鳴らし、メリエは拍車を失った片足を指し示す。
「これ、もう一つちょうだい。アルヴィーに壊されちゃった」
「あら」
少し目を見開いたレティーシャは、ころころと笑う。
「まあ、相変わらずやんちゃですわね、あなたたちは」
森一つを焼き払いかけ、その大威力魔法を互いにぶっ放しつつの正面決戦を“やんちゃ”の一言で片付けた彼女は、するりと座していた玉座から立ち上がる。
「では、後で侍女にでも届けさせますわね」
「分かった。――でもさ、シア。あの《神樹》っての、燃やしちゃってほんとに良かったの?」
面倒なので事前説明はほとんど聞かなかったし、《神樹》とやらに関する知識もほとんど持ってはいないが、そんなメリエでも《神樹》が非常に貴重な木であるということくらいは覚えていた。何しろ、千年前にこの世界を去った神々とやらが残した樹木だという話なのだ。それに相応しく様々な伝説を持っているという樹木を、いともあっさり“燃やせ”と命じたレティーシャの考えが、メリエには分からない。もちろん、メリエ自身にはひたすらどうでも良いことではあるのだが、今の彼女はレティーシャとほぼ運命共同体。彼女の考え一つで、身の振り方が決まってもおかしくないのである。
メリエの問いに、レティーシャは先ほどとはまた色の違う笑みを浮かべた。
「ええ、構いませんわ。――もう、必要のないものですから」
その言葉に、メリエは首を傾げる。
「必要ない?」
「あの樹はこれまでは確かに、人間には必要なものでした。サングリアム……ひいては我が国にとっては特に」
「サングリアム?――って、ポーション作ってた国よね」
「ええ」
レティーシャは子を褒める母のように微笑んだ。
「あの樹の樹液は、ポーションの材料として必ず必要なものでした。――けれど、人間はすでに、それを捨てる時に来ていると、わたくしは思いますの」
「はあ?」
メリエは首を傾げる。
「でも、そのポーション販売で儲けてたんじゃないの、この国」
「今後必要となるであろう資金の目途は、すでに立ちましたの。そうなれば、もうポーションは必要ありませんわ」
長い銀髪を揺らして振り返り、レティーシャは謡うように続ける。
「……ねえ、メリエ。人間はもうそろそろ、新しい技術を生み出すべき時期に差し掛かっていると思いませんこと?」
「新しい技術?」
「現在この世界で広まっている技術は皆、新しくともクレメンタイン帝国時代に発明されたものですわ。つまり、技術の開発がここ百年、停滞しているということに他ならない。――わたくし、それが不愉快ですの。百年もの時間がありながら、人間は何をしていたのかと」
細められた群青の瞳の奥には、だが見逃しようもなくちらつく光がある。
メリエはそっと息を呑んだ。
(なに……これ。いつものシアじゃない)
そんな彼女に構わず、レティーシャは虚空に目を走らせる。まるで、何かを追い求めるように。
「これだけの人間が生きていて、百年の間、ほとんど何も生み出せていない。――この世界は、恵まれ過ぎているのですわ。魔法という便利な力、ポーションのような万能薬を作り出せる材料。人間が必要とするものが、おおよそ揃ってしまっている。だから、誰も何も生み出さない」
「……何で?」
「“必要がないから”ですわ」
メリエを見据え、レティーシャは嘲笑のように唇を歪める。もっとも、彼女が嗤っているのはメリエ個人にではないのだろう。
「まだ世にないものを必要とするからこそ、人は今あるものを学び、積み上げ、組み替えて、新たなものを創ろうとするのです。――それを忘れてしまった者に、存在する価値などあると思いまして?」
群青の瞳が、冷たく苛烈な光を放っている。メリエは魅入られたように動けない。
だがレティーシャ自身も、それがいわば八つ当たりに近いものであることは分かっているのだろう。その双眸の厳しさはすぐに緩んだ。
「……とはいえ、それは我がクレメンタイン帝国にも、責任の一端はありますわね。少し、技術や道具を外に出し過ぎてしまいました。あの時代には扱いきれないようなものも」
かつん、と音。レティーシャが一歩を踏み出したのだ。反射的に一歩横へ避けたメリエの傍らを、レティーシャは歩き去って行く。
「……ねえ。シアは一体、何がしたいの?」
すれ違いざまに問い掛けたのは、ほとんど無意識だ。メリエには主であり親でもある彼女が何をしたいのか、さっぱり分からない。
ただの兵器であるのなら、それでも良い。だがメリエは、それでは満足できなくなってきていた。
彼女もまた、人間であるのだから。
「――そうですわね。わたしは多分、清算がしたいのですわ」
「清算?」
「ええ……何もかもの」
去りゆくレティーシャは、それ以上を語ることはなく、扉の向こうに姿を消してしまった。
混乱するメリエを、ひとり残して。
◇◇◇◇◇
「――我が君」
背後からの声に、レティーシャは足を止めた。
「ダンテ」
「どちらへ? お供致します」
「ええ……そうですわね。特にどこへ向かっていたというわけではないのですけれど……」
珍しく言い淀む主に、ダンテは一瞬だけ窺うような眼差しを向けたが、すぐに柔和な表情に戻った。
「でしたら、塔はいかがでしょう。街の様子もご覧になれます」
「お任せしますわ」
差し伸べられた手を、彼は恭しく取ると礼儀に則りエスコートする。
――彼がレティーシャを案内したのは、《薔薇宮》の中でも高い位置にある塔の屋上だ。遠目にはクレメティーラの街の様子も望める。
吹き渡る風に髪やドレスの裾を乱されながら、それでもレティーシャの表情はどこか安心したように見えた。
「……思い出しますわね。ずっと昔にも、あなたとここでこうしていた覚えがありますわ」
「ええ。――我が君が僕を見出してくださった時も、そうでした」
ダンテのエメラルドの瞳が、記憶をなぞるように細められる。
ココアブラウンの髪を揺らしていった風は、あの日のそれに良く似ていた。
――あなた! そう、そこの茶色の髪の、あなた!
――あなた、剣は扱えて?
――あら、まだ従騎士ですの。でも、叙任はそう遠くはないのでしょう? でしたら、わたくしの騎士にしても構わないのですわね。
――はじめまして、わたくしの騎士。
今もなおありありと思い出せる、はじまりの記憶。
それだけを抱えて、ダンテはひたすらに愛剣を振るってきた。
彼女の唯一の“剣”として。
「……あの頃のわたくしは、最も生まれた環境に恵まれていて……最も不自由でした」
「はい」
「ですが、今は自由ですわ。――だからこそ、この機を逃すわけにはいかないのです」
「分かっています。もとより、僕のこの身は我が君の剣。存分にお使いください。――我が君が、本当に望まれることのために」
「ええ……」
レティーシャは翻る髪を軽く押さえ、もう片方の手をそっと差し伸べた。心得たように、ダンテは跪く。騎士の礼だ。そして差し伸べられた手をこの上なく優しく取ると、その細い指先にそっと唇を落とした。
それは遠い昔にも交わされた、姫君と騎士の密やかな誓約だった。




