第110話 交わる炎
槍の穂先のように鋭く尖った枝先が、生き物のようにうねりながら凄まじい勢いで迫る。
反射的に炎で迎え撃とうとしたアルヴィーの耳を、その時フォリーシュの声が打った。
『――ダメ! 炎を使わないで!』
「はあ!?」
とりあえず《竜の障壁》で攻撃をいなし、右腕を戦闘形態に。《竜爪》を伸ばして、再び襲い掛かってくる枝の攻撃を牽制する。
と――両者の間に土の壁がそそり立ち、うねる枝を絡め取るように封じ込めた。
「フォリーシュ、何なんだあの……人、じゃなさそうだけど」
『多分、ドライアド』
「ドライアド?」
地中から浮かび上がるように隣に並んだフォリーシュに尋ねれば、即座に答えが返ってくる。アルヴィーも名前くらいは聞いたことがあった。何しろ、森のすぐ側で生まれ育ったのだ。
「確か、木に宿る精霊だっけ?」
『そう。でも、わたしたちみたいな元素の精霊とは違って、一度木に宿ればその木と同化して運命を共にするから、宿る木を切り倒されたりしたら死んでしまう』
「え、じゃあ――」
アルヴィーはまじまじとドライアドを見やる。
「あのドライアド、何で木から離れて大丈夫なんだ?」
『きっと、持ってる枝は元々宿ってた木の一部。――でも、このまま力を使い続けたら、危ないと思う』
フォリーシュが痛ましげに目を細め、一歩進み出た。
『ねえ、あなた、落ち着いて、周りを良く見て。ここは――』
だが。
『来ないで! いやあああ!!』
ドライアドは酷く錯乱しており、フォリーシュの声も耳に届いていないようだった。握り締めた枝を振り回せば、土壁に戒められた枝先が激しく蠢き、脱け出そうともがく。
『だめ! それ以上力を使わないで! あなたが保たない!』
フォリーシュが諌めるも、ドライアドの狂乱はおさまらない。そしてついに、
『――あ゛ぁあああああ!!』
絶叫。土壁が弾け飛び、自由を取り戻した枝先が勢い余って大地を打つ。それはそのまま蛇のように地を這い、アルヴィーとフォリーシュに襲い掛かった。
「やべっ」
慌てて翼に魔力を集め、フォリーシュを引っ掴んで宙に身を躍らせる。それでもなお追い縋ってくる枝先を躱しながら、アルヴィーは目を見張った。
「――何だ、あれ……!?」
傷付いたドライアドは、今や自らが操る枝と半ば同化しようとしていた。下半身はすでに樹木と化して根を張り、うねる枝が地面を叩く。そしてひとしきり暴れた枝は鞭のように大きくしなると、その鋭い穂先が空中のアルヴィーたちに殺到した。
「――っと!」
空中に創った魔法障壁の足場を恃みに、それらの攻撃を紙一重で躱していると、ドライアドの華奢な身体がびくりと大きく震える。
『……あ、ああ』
そして――彼女は老木のように一気に萎み。
その身は枯れ木となって急速に風化し、塵となって崩れ去った。
「……おい……何だよこれ」
地面に下り立ち、恐る恐る近付いてみる。朽ち果てた樹木と成り果てたドライアドに、フォリーシュは悲しげに目を伏せた。
『……力を使い果たしてしまったの。自分の存在を保つための力まで、攻撃に使って……宿った枝と一緒に、朽ちてしまった』
「何で、そこまで……」
そっと触れてみた、ドライアドであった“もの”は、かさかさと乾いた、どこか虚ろな手触りだった。本当に、何も残っていないただの抜け殻。
――それはかつて見た、そしてルシエルから聞いたレクレウス時代の僚友の“最期”を、アルヴィーに思い起こさせた。
(……マクセルや……メリエみたいだ)
そっと手を引き、後ずさる。ドライアドが異常なまでに、炎に怯えていたことを思い出したからだ。
「そういえば。――“あの炎と同じ”って言ってたな」
アルヴィーと同じ炎を持つ者。
彼はそんな相手を、一人しか知らない。
『……多分このドライアドは、《神樹の森》から来たんだと思う』
フォリーシュの呟きに、アルヴィーは彼女を見やった。
「《神樹の森》? 確か、大陸の真ん中辺りにある、馬鹿でかい森だったよな」
『そう。――このドライアドは、自分が宿った木を離れてもまだ、生きていられた。力のある高位のドライアドでないと、それは無理なの。《神樹の森》になら、そんな高位のドライアドもいるから』
「じゃあ……そこで今、何か起きてるってことだな」
力ある、高位のドライアドですら命からがら逃げ出す、“何か”。それが吉事だとは、アルヴィーにはとても思えない。
『“道”は繋げられるわ。《神樹の森》なら、地脈を辿らなくてもすぐに分かる』
フォリーシュの言葉に、アルヴィーは頷いた。
「――行こう」
嫌な予感がする。
今、そこで起きている“何か”を止めないと、もっと悪いことが起きる――そんな予感が。
『こっちよ』
フォリーシュに手を引かれるまま、アルヴィーは足を早めて木立の中に分け入っていった。
◇◇◇◇◇
少しずつ復興が進む王都ソーマの街中を、第一二一魔法騎士小隊は今日も巡回していた。
「――大分建物なんかも戻ってきましたね」
「再建に地魔法を使っているし、普通に建てるより格段に早いからな」
通常、被害があったような裏路地の建物にまでは、地魔法を使うことは少ない。魔法の使い手の力を借りるには、相応の対価が必要となるからだ。貴族や富裕な平民であれば、ふんだんに地魔法の恩恵を受けられるし、富裕とまではいかなくとも暮らしに困らない程度の収入があれば、重要な部分を地魔法で補強するくらいのことはできる。
だが、それよりもなお貧しい、ほとんどその日暮らしのような人間が住民の大半を占める裏路地の建物には、その恩恵は及んでいなかった。元からあった建物に住人たちが好き勝手に付け加えていった、お世辞にも頑丈とはいえない建物が多く、今回の一件で大きな被害を受けた建物の大半も、そういった脆弱な建物だったのだ。
だが、住処から追い立てられた人々を長くそのままにしておくのも、主に治安の面でよろしくない。収容場所にも限りがある。そんなわけで、国は早々に街の再建に乗り出し、地魔法も惜しみなく使って早期の竣工を目指しているのだ。魔法を使った場合の作業効率は、人力のみでの建築を優に数倍は上回る。以前より少しだけ整った街並みが出来上がるのも、そう遠い未来ではないだろう。
ルシエルたち第一二一魔法騎士小隊を始めとする騎士団・魔法騎士団の各小隊は、地精霊暴走事件後、以前にも増して街の治安維持に力を入れていた。大規模な災害の後はどうしても、治安が悪化しがちだ。それに、今回の一件はいわば、騎士団の目をすり抜けて引き起こされた事態でもある。
「……にしても、ギズレ家ねえ……そういや娘がまだ見つからないって、ちらっと話聞いたっけなあ」
カイルのそれが、騎士団の大部分の認識そのものだった。彼女の捜索を課せられた一部の隊以外では、ギズレ家というのはすでに滅び去った家でしかない。騎士ですらない一般の国民たちは、もうそんな家があったことすら忘れかけているだろう。
だが、その残滓が確かに蠢いていたことを、こうしてまざまざと見せつけられた。
(今回の一件、何らかの形でギズレ家の娘が関わっているはずだ……でなければ、一度安全圏に逃げ延びた彼女が、危険を冒してまでこの国に戻って来るわけがない)
ティタニアの証言を、ルシエルは疑っていなかった。彼女は王国貴族の娘として、果たすべき役目を果たしてくれたのだ。
その彼女はもうすでに、父の領地へと戻っている。幸いメルファーレン邸にも大した被害はなく、後片付けなどの雑事は使用人たちに任せて、彼女たちは予定通りメルファーレン伯爵領へと帰って行った。もちろん、有力な情報を提供したティタニアに咎めなどあるはずもなく――淑女らしからぬ危険を冒すものではないと注意はされたが――父である伯爵もほっと胸を撫で下ろしたという。
「そういえば、現場からは遺留品が出たそうですが……」
「ああ、儀礼用の剣だそうだ。今、魔法技術研究所の方で調べているらしい」
地精霊が消えた後、その場から見つかった剣は、かなり傷んではいたが見事な細工の、相当に貴重と思われるものだった。もちろん、現場に残して行った以上、大した手掛かりが出て来るとも思えないが、まったく何もないよりはましである。
――そんなことを話しながら大過なく巡回を終え、小隊の面々は騎士団本部に戻った。
報告のためにルシエルはシャーロットを伴って、上司たるジェラルドの執務室に向かおうとしたが、その途中、見慣れない一団とすれ違う。その内の一人に、シャーロットが短い驚愕の声をあげた。
「――お父さん!?」
「やあ、シャーロット。巡回は終わったのかい、ご苦労様。――いつも娘がお世話になっております」
相変わらず浮世離れした感のあるシャーロットの父・リチャードは、娘を労った後、ルシエルにも丁重に挨拶を述べた。
「それにしてもお父さん、どうして騎士団本部に……また引ったくりですか?」
「いやいや、今日はれっきとした捜査協力ですよ」
「捜査協力?」
「さすがに詳細は、こんなところでは口に出せませんけれどね。――では、わたしはこれで」
リチャードは連れの面々に促され、彼らと共に去って行った。大分よれていたが、白衣を羽織っている人間がいたので、おそらくは魔法技術研究所の研究員辺りだろう。
とりあえず、ジェラルドの執務室に向かい、任務完了の報告を終えると、尋ねてみた。
「――ところで、来る時に魔法技術研究所の研究員らしい一団とすれ違ったんですが」
「ああ、あれか。いや、実は例の遺留品、手掛かりが見つかってな」
「手掛かり?」
「ああ。――調べてる内に、何だか似たようなものを見た覚えがあるとか言い出した人間がいたらしくてな。何でも、自分が持ってるクレメンタイン帝国時代のマジックアイテムと、文字なんかの意匠が似てるって話で、実際に比べてみりゃ確かに共通点が多い、ってわけだ」
「そうですか……」
そういえば、アルヴィーがシャーロットの父に、マジックアイテムの腕輪を譲っていたと、ルシエルは思い当たった。
「まあ、レクレガンの件からこっち、状況証拠としては充分に、“クレメンタイン帝国”がクロなんだがな。物的証拠もあるに越したことはない、ってわけだ」
「なるほど。了解しました」
納得し、二人はジェラルドの執務室を退出した。
シャーロットとも別れて家路に着きながら、ルシエルはふと足を止めて遥か北の方角の空を眺める。
(……クレメンタイン帝国、か……一体何がしたいんだろうな、あの国は)
もちろん、答えなど返ろうはずもなく、彼は小さく肩を竦めて再び歩き始めた。
◇◇◇◇◇
木立を抜けた途端に、強烈な熱風が襲い掛かってきた。
「――うわ! 何だ!?」
反射的に腕で顔を庇う。もっとも、この程度ならアルヴィーにとっては、少し風が強い程度のものだ。フォリーシュも高位精霊である以上、炎の影響はほとんど受けない。
だがそれでも、眼前で渦巻く炎を避け、アルヴィーはフォリーシュを連れ早々に上空へと退避した。
次の瞬間、眼下の光景に息を呑む。
「――何だ、これ……!」
見渡す限りの広大な樹海を、炎が侵食しつつある。瑞々しく命に溢れた木々は、灼熱にその水分を奪われ、容赦なく焼き尽くされて、その範囲が見る間に広がっていくのだ。
そして――。
「――あははははは!!」
吹き上げる熱風に長い髪をはためかせ、狂ったように笑いながら炎を撒き散らすその姿に、アルヴィーは反射的に叫んでいた。
「止めろ、メリエ!」
瞬間――狂笑がぴたりと止まり、彼女はゆっくりと振り返る。歪んだその笑みに、とろけるような甘さが混ざった。
「……あは。まさかこんなところで会えるなんて!」
輝くような狂気の笑みと共に、彼女はためらうことなく《竜の咆哮》を撃ち放つ。挨拶代わりと言わんばかりのその一撃を、アルヴィーは障壁を張って凌いだ。そして、気付く。
(――威力が前より上がってる……?)
『ふむ、そのようだな。さてはまた、“わたし”の肉片を新たに埋め込んだか』
アルマヴルカンの言葉に、アルヴィーは慄然とした。
「まさか……あんなこと、またやったのかよ……!」
「あれ? もう気が付いたんだ?」
漏れ聞いたその驚愕の声を、メリエはあっさりと肯定する。
「そうだよ。――だってさ……そうしないとアルヴィーに勝てないじゃない!」
菫色の双眸を爛々と輝かせ、彼女は空を蹴る。小さな光の波紋を残し、左腕に《竜爪》を伸ばして、メリエはアルヴィーに斬り掛かった。
「ちっ――!」
アルヴィーも同じく《竜爪》で迎え撃つ。激しく打ち合わされた二振りの竜鱗の剣が、りん、と戦いにそぐわぬ美しい音色を奏でた。
拮抗は一瞬、双方弾けるように後方に跳ぶ。自身の剣を舐めるように見つめ、メリエは満足げに目を細めた。
「……ねえ、ほら。今度は傷も入らないよ。あたし、前より強くなったんだから!」
前回、アルヴィーの《竜爪》によって簡単に斬り折られた彼女の剣は、だが今回は毀れることなく、艶やかに炎の光を照り返す。
宙で対峙する二人を捉えんとするように、炎と白煙が渦巻いて立ち昇る。フォリーシュが気遣わしげに地上を見下ろした。
『……アルヴィー、わたし、地上をどうにかするわ。このままじゃ、森が全部燃えてしまう』
「でも……どうにかなるのか?」
『土で壁を作るの。火を止められるわ』
「……そうだな、頼む。あとこいつも」
「きゅっ!?」
アルヴィーは胸元から袋ごとフラムを引っ張り出すと、フォリーシュに預ける。彼女は頷いた。
『分かった。この子はわたしが守る』
フラムを抱きかかえたまま、フォリーシュはためらいなく宙へと身を躍らせる。下は炎の海だが、彼女は高位精霊。どうとでもなるだろう。
メリエは手を出さず、笑みを浮かべたままそれを眺めていた。
「もういいよね? じゃあ――行くよっ!」
言うが早いか飛んでくる《竜の咆哮》。魔法障壁の足場を蹴って辛くも躱す。
(……とりあえず、メリエの目をこっちに……!)
万が一にも、地上のフォリーシュたちに手出しをされるわけにはいかないのだ。アルヴィーも《竜爪》を振るい、《竜の咆哮》で空を薙ぐ。メリエは《竜の障壁》でそれを受け止め、空中に爆炎の華が咲いた。
「――あははっ! やっぱ、アルヴィーと戦うのが一番楽しいなあ!!」
左腕が翳され、振り下ろされる。同時に跳んだアルヴィーの右腕を掠めるように、《竜の咆哮》が大気を焼いた。本来の標的を失った一撃は地上に直撃し、新たな炎を噴き上げる。
(そっか、上空を取らないと――)
逸れた攻撃が地上に降り注げば、何かの拍子にフォリーシュたちに当たらないとも限らない。アルヴィーは足場を蹴り、さらに上空へ。メリエも両目をぎらつかせながら、それを追った。
矢継ぎ早に放たれる《竜の咆哮》を《竜の障壁》で打ち消しながら、遥か空の高みへ。そしてアルヴィーはそこで反転し、《竜爪》を輝かせながらメリエに斬り掛かった。
玲瓏たる音が空に響き渡る。高らかに打ち合わされた二振りの紅い刃は、互いに触発されたようにさらに赤熱し、火の粉のような光をはらはらと零した。
「――ちっ!」
「あは、これでも保つんだ! やっぱ、もっかい手術受けて良かったあ!」
顔をしかめて跳び退るアルヴィーを、メリエが再び追う。それを待ち受けたように、アルヴィーも逆に彼女に向けて空を蹴り、振り抜かれた《竜爪》を受け流した。同時にさらに踏み込み、肩口から押し退ける形でメリエを突き飛ばす。
「きゃあ!」
体勢を崩した彼女に、《竜爪》で斬り付ける。
「、っ――!」
とっさに跳び離れた彼女の長い髪の端を、赤熱した刃が掠め、ヂッ、とかすかな音と焦げ臭さ。メリエの眉が一瞬寄ったが、何かを口にする前に畳み掛ける。翻して再び振り下ろした刃を、メリエは《竜爪》を盾にして受けた。ぎりぎりと軋むような音を立てて刃が噛み合い、双方の足が止まる。
(――やっぱり、以前とは違う……《竜爪》の強度が上がってる。それに、剣での戦い方もこなれてきてるな)
メリエは着実に、以前よりも力を付けていた。《竜の咆哮》に頼りきりだった頃に比べ、剣できちんとこちらの攻撃を捌いている。おそらく、彼女に剣を手解きしているのはあのダンテという剣士だろう。
《竜爪》に力を込め、その反動で後方に跳び離れながら、アルヴィーは乱れかけた息を整える。
(フォリーシュたちがいるから、地上に叩き落とすわけにもいかねーし……けどこうして延々空中でどつき合ってても仕方ない。何とかしないと……)
ひゅう、と息を吐き、大きく吸い込む。燃え盛る地上から吹き上げる熱風が混ざった空気が、肺の中を熱く撫でた。常人であればそれだけで火傷を負うが、炎に高い耐性を持つアルヴィーは、その程度では息苦しくなることさえない。
そんな彼を眺めながら、メリエはぺろり、と唇を舐める。
「ねえ、アルヴィー。いい加減こっちに来なよ。シアだって、アルヴィーのことは大事にしてくれるよ」
「何回も言ってるだろ。俺は俺の意思で、ファルレアンの騎士になった。これからも、それを曲げる気はない」
「んもー、アルヴィーってばそういうとこホント頑固だよね!――ま、それならそれであたしが、アルヴィーに勝てばいいんだし」
にこり、と彼女は笑って。
「もしやり過ぎても、シアが生き返らせてくれるからさ。――思いっきり行くよ!!」
メリエが左腕を振り翳す。反射的に横に跳んだアルヴィーが、一瞬前までいた空間を貫く《竜の咆哮》。その軌跡を辿るように、アルヴィーは空を駆ける。
左下から右上へ、斬り上げる一撃。だがメリエがとっさに張った《竜の障壁》に阻まれ、朱金の輝きを撒き散らした。
「――あははっ! もっと思いっきりやってよ、アルヴィー!」
高らかな狂笑を響かせ、メリエは左腕を振り抜く。今度はアルヴィーが《竜の障壁》でそれを受け止め、膨れ上がった爆炎を斬り裂くように突っ切ると、メリエに斬り掛かった。
りん、と咆哮する二振りの刃。互いの力が拮抗し、双方の動きが止まる。
『――主殿』
(何だよ、今取り込み中だ!)
『地上の炎を使え。あれだけ燃え盛っているのだ、使い放題だろう』
(……あ!)
そういえばそうだと、今さらながらに思い至り、アルヴィーは右肩に意識を少しだけ割く。五枚の翅に常に燻る朱金の輝きが強まって、それに呼び寄せられるように眼下の炎の海の一角から、渦を巻いた炎が大きく伸び上がった。
それは瞬く間にアルヴィーに届き、守るようにその周囲を巡る。
「――――っ!」
反射的に飛び退いたメリエに、炎がその舌を伸ばす。彼女が防御のために《竜の障壁》を展開し――その瞬間、アルヴィーは吼えた。
「――来い!!」
その命に従い、炎が一陣の竜巻となって天を衝く。それは一瞬でアルヴィーたちのところまで到達し、二人を包み込んだ。
「……っ、この!」
炎への耐性は高いが、この炎は自分の支配下にはない。メリエは即座に離脱しようとした。
その時――炎を突き破り、眼前にまで肉薄したアルヴィーが《竜爪》を振るう!
――きん、とかすかな音。
深紅の刃のその切っ先が、とっさに躱したメリエの踵、マジックアイテムたる拍車に辛うじて届き、その細い金属の輪を断ち切っていた。
「わっ!?」
飛び退いた先で片足が足場を失い、メリエは空中で大きく体勢を崩す。眼下に舞い落ちていく拍車のなれの果てを忌々しげに見やり、彼女は長い髪を苛立ち紛れに払った。
「……なるほどね。さっすが。足を封じられたかあ」
もう片足の拍車は残っているので、とりあえず空中に留まることはできる。だが、片足だけでアルヴィーの攻撃を躱すことはできまい。
メリエはちらりと、ある方向に目をやった。
(……一応、《神樹》ってのも燃やしたはずだけど。《竜の咆哮》撃ち込んだもんね)
それさえ果たせば、任された仕事はひとまず終わりだ。アルヴィーを連れ帰れないのは惜しいが、ここで彼に倒されるわけにもいかない。
だが、彼女がこっそりと転移用のマジックアイテムを取り出そうとした時――。
どくん、と脈打つように一度、赤々と燃える炎に重なるように、黄白色の光が地面を満たす。
そして次の瞬間――燃え盛る炎からまだ燃えていない木々を守るように、土の壁がそこかしこからそそり立った。
「――やった!」
アルヴィーは快哉を叫ぶ。フォリーシュが自分の仕事を果たしたのだ。
土の壁はまるで迷路のごとくそそり立ち、見る間にその範囲を増やしていく。おそらく森の下を走る地脈も利用しているのだろう。かなりの面積の森が燃えたが、土の壁は炎を封じ込めるように次々と生まれ、その延焼を見事に食い止めつつあった。
それを眼下に、メリエは転移用水晶を取り出す。
「……ま、別にいいよ。シアの言ってた木はちゃんと燃やしたし。――次は捕まえるよ、アルヴィー」
挑むような菫色の眼差しを掻き消して、光が彼女を呑み込む。それが消えた後の虚空を見つめ、アルヴィーは息をついた。
「……最近色々鈍ってたな。鍛え直さないと」
『少々鍛え直したところで、どうなるものでもあるまいがな。それこそ、あの娘のようにもう一度、“わたし”の血肉を受け入れるしか』
「できるか。物はシアが持ってんだぞ」
もう一度施術を受けるなら、それこそメリエ辺りに捕まるしか手がない。アルヴィーはとりあえずそのことは頭から放り出すことにした。もちろん、メリエに関しては後で騎士団に報告しなければならないが。
また小言を言われそうだとため息をつきつつ、地上に舞い戻る。この辺りは先ほど、アルヴィーが炎を上空に呼び寄せたので地上は鎮火しているが、他の部分ではまだ火の手が猛威を振るっていた。フォリーシュが防壁を作ってくれたので、放っておいてもその内鎮火はするだろうが、近い部分は炎を呼び寄せて早めに鎮火した方が良いか――そう思った時。
「――――!?」
突然、目の前が“ブレた”。
(何だ、これ――!)
視界が目まぐるしく入れ替わる。アルヴィー本来のもの、そしてそこに重なるようにちらつく、木の根のごとく絡み合って広がる黄白色の光が映り込んだ光景――。
「ぐ……っ」
くらりと眩暈のような感覚を覚え、片膝をつく。一度きつく目を閉じて開くと、もう黄白色の光は見えなかった。ただ焼け焦げた地面が広がり、ところどころ煙が上がっている。
「今のは……」
そう呟いた時、地表を黄白色の光が走って来た。
『アルヴィー! 大変!』
「うおっ」
水面を突き破る魚よろしく飛び出して来たフォリーシュを、アルヴィーは辛くも避けた。普段であれば受け止められただろうが、今は調子を崩していた上、受け止めるのがおそらく顔面であっただろうゆえに。
「どうした、フォリーシュ」
『とにかく大変なの! すぐに来て!』
「あ、おい――」
アルヴィーの手を引いて駆け出そうとする彼女を、アルヴィーは何とか止めた。せっかく翼も出しているのだ、飛んだ方が速い。
「どっちだ」
『あっち!』
「了解」
彼女が指差す方目掛け、地面を蹴る。上空高く翔け上がると、アルヴィーは久々に重力に身を任せる直滑降スタイルで、フォリーシュが指し示した方向へと向かった。
◇◇◇◇◇
『――ここよ』
「ああ」
フォリーシュが指示した地点で、足場を展開して“着地”。そのままいくつかの足場を経由しながら、地上へと飛び下りる。
その一帯も、メリエの生み出した炎に焼かれたようだった。黒焦げになった木が何本も倒れ、半ば土に埋もれている。フォリーシュの仕業だろう。火を消すのに、土に埋めるのは理に適っている。
だが――その中心に鎮座する“それ”に、アルヴィーは思わずぽかんと口を開けて見上げてしまった。
「これ……木か?」
周囲の木々など比べ物にならない、堂々たる幹周りのその木は、しかしやはり猛火の洗礼を受け、酷く損傷していた。幹は周囲の木々と同じく焼け焦げ、枝葉に至っては跡形もない。痛ましく思ってそれを見上げていると、フォリーシュがアルヴィーの袖を引いた。
『こっち』
「え?」
根元を指差され、つられて見下ろす。そこには不自然なまでにそぐわない、土の塊があった。大木の根元からひょこりと顔でも出しているような形のその塊を、フォリーシュがつんと指先でつつくと、それはあっという間に崩れて地面に溶ける。
その後に残ったものに、アルヴィーは目を見張った。
「……生きてるのか、この木」
それは、根元から慎ましやかに生えた枝のように細い木。まだ熱が残る空気に頼りなげに揺れるそれに、フォリーシュは慈しむように触れる。
『……わたしが見つけた時、大元の木の方はもう燃えていたの。でも、こっちはまだ無事だった。だから、土で覆って燃えないようにしたの』
そのおかげでこの小さな命は、猛火から守られて生き延びたのだ。
『できれば、精霊の森に連れて行ってあげたいの』
「そっか。そうだよな……」
あの森は、アルヴィーでも分かるほどに濃い緑に溢れていた。辛うじて生き残ったこの若木――というにも頼りないこの小さな木は、ここではおそらく生きられまい。あの森に移植するというのは、良い案に思われた。
「……けど、移植以前に今にも萎れそうだよな、これ……あ」
せめて水でも、と思ったところで、アルヴィーは魔法式収納庫に突っ込んだ水筒の存在を思い出した。早速引っ張り出す。
「これ、あそこの水だから、ちょっとは効かねーかな」
蓋を開けて水筒を傾け、少しばかり水を木の根元に滴らせる――。
『――ああ、水! 精霊の森の水だわ! 助かった……!』
だが水が木の根元を潤した、その瞬間。
声と共に、長い緑色の髪をした人形のように小さい少女が、唐突にその場に姿を現したのだ。
「うわあ!?」
いきなり湧いて出た少女に、アルヴィーも仰天した。それでも取り落としかけた水筒をとっさにキャッチして、水をほとんど零さなかったのはさすがの反射神経だ。
少女はきょろきょろと周囲を見回し、アルヴィー……というかその手の中の水筒に目を留めると、必死に手を伸ばした。
『水! まだ全然足りないの、もっと!』
「え、あ、おう」
勢いに押されるように、水筒の水をありったけ木の根元に撒くと、少女はそれを堪能するように心地良さげに目を閉じた。
『んー……! ああ、生き返るわー……』
「そ、そっか……そりゃ良かった……」
とりあえず役目を終えた水筒は魔法式収納庫に仕舞う。
文字通りの命の水に、少女はひとまず満足したようで、再び目を開いた。緑がかった金色のその瞳が、アルヴィーをまじまじと見つめる。
……そして、その表情がさっと引きつった。
『……ひっ! も、もしかして火竜……!?』
「あー……欠片だけどな」
『欠片……?』
気を取り直したように、少女は再びアルヴィーを見つめ、やがて息をついた。
『……確かに、大部分は人間ね。――さっき森を焼いた炎にも似てるけど、微妙に違うわ。あの炎は少し濁っているけど、あなたの炎は澄んでいる』
「そんなこと、分かるのか?」
『……さすがに、焼かれればね』
彼女は切なげに、焼け焦げた大木を見上げた。
『……あなたは、この木のドライアドなの?』
フォリーシュの問いに、彼女は頷く。地面に波打つほど長い髪が、さらりと揺れた。
『ええ。――でも、わたしが宿っていた木はもう、燃えてしまったわ。今宿っているのは、この木が落とした種から生えた、新しい木よ。存在としては別個だけれど、とても近しいものだから、何とか乗り移れた。こんななりじゃ、力はほとんど出せないけど……』
「そっか……けど、生きてて良かったな」
なまじ、ついさっき悲惨な末路を辿ったドライアドを見たばかりだ。しみじみと、アルヴィーは少女を見やった。
『そうね……あら、そういえばあなた、よく見ると』
頷いた少女は、改めてアルヴィーをまじまじと見上げ、やおらその金の瞳を輝かせた。
『まあ! 結構良いじゃない! 好みだわ!』
「…………は?」
ぽかんと呟いたアルヴィーの傍で、フォリーシュが思い出したように呟く。
『……そういえば、ドライアドはすごく面食い』
「えっ」
『ああん、もう! 木が燃えてなければ、木の中に引き込んで一緒に過ごせたのに!』
「ちょっ、怖ぇよ!?」
ずざっとドン引くアルヴィーに代わって、フォリーシュが少女の前に屈み込む。
『ねえ、あなたは高位のドライアドなの?』
『もちろんよ!』
少女は胸を張り、自慢げに声を張り上げた。
『わたしはこの《神樹》に宿るドライアド、樹精の女王よ! 神々からこの森を任された、《神樹の森》の女王なんだから! 敬いなさい!』
と。




