第109話 いのちは巡る
ほんの一時間足らずで、アルヴィーが王都からアークランド辺境伯領へと移動した事実は、騎士団を始め王国上層部に驚きをもって受け入れられた。
「――なるほど、地精霊の力を借りて、ですか……アークランド辺境伯領の方には、確かに到着しているのですね?」
「左様、辺境伯家より西方騎士団本部を通じて、騎士団本部に連絡が入っております。しかし、王都を出発してからわずか一時間足らずで……」
感嘆の声を漏らす騎士団長ジャイルズに、王立魔法技術研究所所長サミュエル・ヴァン・グエンの熱い眼差しが注がれる。飛竜を急がせても数時間かかる距離を、地精霊の力で一時間ほどで移動したということに、彼はいたく関心を持ったようであった。
「さすがに精霊というところですか。一時間ほど掛かっているということは、転移ともまた少し違うのかもしれませんが……しかし、人間でも安全に使えるような転移術式を確立するのに、それが何か手掛かりになるかもしれませんな」
「なるほど。では、《擬竜騎士》が戻れば、研究所の方に行かせることと致しましょう」
「ああ、そうしていただけると有難いですね」
ジャイルズの言葉に、サミュエルは顔を輝かせる。
「……ともあれ、アークランド辺境伯領については《擬竜騎士》――というより、彼に懐いたというその地精霊に任せるよりありますまい。地精霊の暴走を鎮圧しても、その影響が残ったままではよろしくありませぬゆえ」
「ええ、それが良いわ。わたしたちは復興のために動きましょう」
女王アレクサンドラの落ち着いた声に、閣僚たちは居住まいを正す。彼女の意を受けて、財務大臣が手元の資料を読み上げた。
「では、復興予算について大まかな試算を出しましたので申し上げます。必要と思われる予算はおよそ一億八千万ディーナ。これは建物の再建等に魔法を併用することを想定した工事費用、被害を受けた近隣店舗等への補償、及び被災者の治療費補助や遺族への見舞金などを総合した金額となります。財源に関しましては、先だって《擬竜騎士》が海底から引き揚げました財宝を売却し、これに充てたいと考えております。件の財宝は未だ扱いが宙に浮いておりますし、権利を持つ《擬竜騎士》にも、すでに了解は取ってあります」
「その財宝については、国内外の持ち主に返還の打診をしておったのでは?」
「は。本来ならば対価として幾許かの外交的譲歩を引き出す予定でありましたが、事ここに至りましては復興を優先すべきかと。ただ、《擬竜騎士》の意向もありまして、返還交渉自体は続けております。それが不調に終われば、我が国のものとして売却し、その収益を復興費用の一部として充当することとなります」
財務大臣の報告を補足するように、外務大臣も発言する。宰相ヒューバート・ヴァン・ディルアーグは頷いた。
「うむ、良かろう。――それにしても、《擬竜騎士》には借りができてばかりだな」
ヒューバートは嘆息したが、実を言えばアルヴィー本人にしても、自分の手に余るような財宝など管理しろと言われても困るところだったので、彼にとってはちょうど良い話だったのだ。余人は知る由もないが。
と、ジャイルズが思い付いたように口を開いた。
「――その《擬竜騎士》より、一つ相談を受けておりますが、よろしいですかな」
「ほう?」
閣僚たちが一斉にジャイルズに注目した。“あの”《擬竜騎士》の手にも余る相談ごととは一体何ぞや、という、好奇心半分警戒半分、といった視線だ。
その内の後者を打ち消すべく、ジャイルズは苦笑しつつ手を振った。
「いや、そう心配なさることではありませんが。――ただ、件の地精霊が、まだ自らの守護する地を決めておらぬそうでしてな。どこか良い場所はないかと、探しておるそうなのです。まあ、早まって決めずにこちらに相談を持ち掛けてくれたのは、幸いでしたな」
「何と……!」
しかしその内容は、閣僚たちを驚愕させるに充分なものであったが。
「では上手くすれば、精霊がこの王都の守護に付くかもしれぬということか……!」
「やはりここは、王城を守護して貰うべきでは……」
「いやしかし、陛下が風の大精霊殿のご寵愛を受けておられるのだ。精霊同士が反目するようなことにでもなれば……」
閣僚たちが低い声で囁き合う。落ち着きのないざわめきは、だがすぐに静まることとなった。
「――落ち着きなさい」
かつん、と。
アレクサンドラが長杖を軽く床に打ち付けただけの音は、だが思いのほか良く通り、閣僚たちの浮付いたざわめきを一瞬で掻き消した。
「その件、当の精霊は何と?」
「は、やはり《擬竜騎士》の近くにいたがっているように見受けられました。まるで、親鳥に着いて歩く雛鳥ですな」
見た目は大変微笑ましいものだった。もっとも、両者の持つ力を考えれば、呑気に笑ってばかりもいられなくなるのだが。
「そう。――ならばやはり、彼に近い場所を用意すべきかしら」
「しかし、まさか男爵邸の庭というわけにも参りますまい。あの辺りは下級貴族の屋敷が多いですからな。有事の際にはやはり、王家を始め高位の貴族の安全が図られるのが望ましいかと……」
「それはその通りですな」
閣僚たちが再びざわめき始める。と、その中からすい、と挙がった手があった。
「――実は一ヶ所、最適と思われる場所があるのですが」
手を挙げたサミュエルは、自信ありげにその丸眼鏡を輝かせる。
「最適な場所、とな?」
「はい。先ほど挙がりました条件を、ほぼすべて満たせる場所が」
「何と」
ヒューバートが目を見張り、アレクサンドラも興味を引かれたように促す。
「それはどこなの?」
問いに、サミュエルは慇懃に一礼し、口を開いた。
「それは――」
◇◇◇◇◇
地脈の修復は、フォリーシュの見立て通り、ほぼ一昼夜で終了した。
『――終わったよ』
ひょこん、といきなり地面から顔を出したフォリーシュに、復旧作業のため忙しく行き来する人夫たちがわっと飛び退く。そんな中、唐突な登場にも慣れてきたアルヴィーはひらりと手を振って彼女を迎えた。
「おー、ありがとな、フォリーシュ」
『……何してるの?』
しゅるりと地上に脱け出し、彼女は首を傾げる。
「ん? いや、ちょっと森に行ってみたら、良い鹿が獲れたんだよ」
アルヴィーは現在、領主館の庭の一角を借り、立派な鹿の解体作業の真っ最中だった。
――ことの始まりは、起床して朝の鍛錬も一通り終え、手持ち無沙汰になったアルヴィーが、近くの森に向かったからだった。当初はフラムを遊ばせるためと、自身の気分転換のために行ったのだが、そこで堂々たる角を持つ大きな牡鹿と遭遇したのだ。
もちろん、人間の姿を見るなり、鹿は回れ右して逃げ出したのだが、そこでついかつての猟師の血が沸き立ってしまった。手近な小石を素早く拾い上げ、右手のスナップを利かせて鹿目掛けて投擲し――。
「一発で仕留められたから状態も良いしさ。肉は人夫の人たちに振舞えばいいし、皮とか角も何かに使えるだろ」
見事一撃で仕留めた鹿を担いで宿に帰還したアルヴィーに、グラディスは何ともいえない微妙な顔になったが、どうせなら解体したいと言う彼に館の庭の一隅を貸してくれたのだ。内臓の類は埋めてしまえば良いし、毛皮は領内の職人に処理して貰えば、衣服なり何なりに使えるだろう。
「――よっし、こんなもんか」
何しろ元猟師、獲物の解体は朝飯前だ。しばらく騎士だの貴族だのやっていたので少々勘が鈍ってはいたが、それを取り戻せば後は手慣れたものである。
肉は食べやすいよう切り分けて貰うため料理人に渡し、角と毛皮は街に下りて職人に処理及び加工を依頼した。といっても、アルヴィー自身は今日にもここを離れてしまうので、受け取るのは辺境伯家の人間だが。毛皮はコートの生地として使えるように処理を頼み、角は細工物として加工して貰うようにしているので、良いように使ってくれるだろう。
「これで良し、と。後は骨とか内臓を、庭に埋めちまえば庭木の養分になるだろうしな。無駄にしちまうのは良くない」
『……そうなの?』
ことんと首を傾げるフォリーシュの頭を、軽く撫でる。
「他の生き物の命を奪って、俺たちは生きてる。だから、奪った命を無駄にしちゃいけないんだ。村で猟師やってる時に、そう教えて貰った。――そうすれば、その命はまた他の命を生かして、巡っていくことになる、って」
『ふうん』
フォリーシュの黄水晶の瞳が、ぱちりと瞬いた。
『ちょっと解釈は違うけど、人間にも魂の循環は分かるのね』
「……何だそれ?」
『わたしたち精霊や幻獣種もそうだけど、死ねば魂はたくさんの欠片になって、この世界そのものに還るのよ。それから、また新しく“何か”の一部になって生まれるの。もちろん、その時にはそれ以前の記憶なんてないんだけど。精霊も、“形”を失えば自然の一部に還る、それと同じことよ』
「……それって、竜もそうなのか?」
尋ねると、彼の裡に在る火竜は“是”と返した。
『――我々《上位竜》は、《竜玉》に魂が残るゆえ、肉体が滅んでも幾許かの猶予はあるがな。ただ、わたしの場合はもう、主殿の魂と混ざりかけている。おそらく、主殿が命を終える時にもろともに、ということになろう』
「そっか……」
『なに、我ら竜もいずれ世界に還り、また別の存在の一部として生まれ変わる。それが多少早まっただけのようなものだ』
「……それはちょっと違わないか……?」
何となくコメントに困りながらも、アルヴィーは自身の胸に手を当てる。今こうして生きている自分の中には、遥か昔に生きた“誰か”の魂の欠片が、それぞれ混ざり込んでいるということなのだろう。そして、かつて命を落としたアルヴィーの両親も、もしかしたらこの世界の“誰か”の一部となって、新たに生まれているかもしれない。
「……でも、すごいな。それって」
巡り巡る命の軌跡に対するアルヴィーの感動を、しかし悠久の時を生きた竜は容赦なくぶち壊す。
『まあ、いずれ誰しも通る道だ。さほど特別なことではない』
「……おまえなあ……俺の感動を返せ!」
がくりと項垂れたアルヴィーに、フォリーシュが不思議そうに再び首を傾げた。
『アルヴィー、どうかしたの?』
「……いや、何でもないよ」
ため息をついて手を振り、気を取り直して宿への道を歩む。
「……なあ、そういうのってさ。ほんとにみんな、生まれ変わる前の記憶って全部なくなっちまうのかな」
『千々の欠片になってしまう以上、我ら竜種のようによほど強い力を持っていない限り、記憶そのものを保持できなくなるのでな。人間程度の力では、まず記憶を保つのは無理だろう。――もっとも、外部からの強力な干渉を受けた場合は、その限りではないが』
「干渉?」
『たとえば、強い力を持つ存在が特別な加護を授けたり、あるいは呪ったりした場合だ。そういったものを受けた魂は状態が固定されてしまい、死しても魂が欠片とならず世界に還ることができなくなる。いわゆるアンデッドは、これに近い状態だな。ただしアンデッドはその固定の力が弱いため、外部からの刺激で容易く崩される。いつぞやの砦の時のようにな』
アルヴィーは、ポルトーア砦の一件を思い出した。
「ああ……それで。でも、加護ってのは? 俺たちが受けてるのとは違うのか?」
『主殿やあの風の娘が受けたような加護は、魔力などに補助を与えるものであって、魂を縛るものではない。死ねばいずれ世界に還るのは、他の人間と変わらん。所詮、自然の摂理に反することはできんということだ。何らかの触媒を使うことで、多少はその状態を引き延ばせても、せいぜいその程度』
そう言って、アルマヴルカンは気のない口調で付け加えた。
『遥か昔にこの世界を去った神々であれば、話は別かもしれんがな。――どの道、この神なき世界では、意味のない仮定だ』
(……神なき世界、か)
アルヴィーはもちろん、神がどんなものなのかなど知らない。そんなものがいなくとも、この世界は問題なく存続しているし、人々も大過なく生きている。
(いてもいなくても、あんまり今となっちゃ関係なさそうだけど……自分の世界放り出して、どこ行っちまったんだろうなあ、その神様とやらは)
もちろん、その問いに答えられるものなど、この世界のどこにもいなかった。
◇◇◇◇◇
ユフレイアが“その一報”を耳にしたのは、ファルレアンで地精霊の暴走が起きた、まさにその頃だった。
『――ユフィ、たいへん!』
『ここからは大分遠いが、地脈がずいぶん変動しておる。何か起こったぞ』
『気を付けろ、友よ』
地の妖精族がにわかに騒ぎ始め、彼女は急いで貴族議会代表にして情報管理の第一人者、ナイジェルに連絡を取った。彼も妖精族からの警告という事実を重く見て、国内はもとより周辺諸国にも密偵を送り込んだ。
そしてその内の一人が、レクレウスからも程近いアークランド辺境伯領での、地精霊の暴走事件の情報を掴んで来たのだった。
「地精霊の暴走か……そんなことがあり得るのか?」
通信用マジックアイテムたる鏡越しに、ユフレイアはナイジェルに問う。彼は鏡面の向こうで苦笑した。
『確かに、わたしもそのような事例は初めて聞き及びましたが……そもそも我々人間がこの大陸に占める領域など、実はそう大した広さではありません。あくまでも地図の上で境界線を引かれて領地が定まっているだけで、実際には人跡未踏という地は数え切れませんのでね。そこで事が起きていれば、我々には伺い知りようもないでしょう。今回は現場が街中であったゆえに、人の目に付きやすかっただけに過ぎません』
「ふむ。そんなものか」
確かに、言われてみればそうなのかもしれない。
『――ともあれ今回の一件、ファルレアンも無傷では済みますまい。多少なりとも復興に手を取られる』
「それはそうだろうな。臣下の領地が被害に遭ったとなれば、国が支援をしないわけにはいくまい。何なら、こちらも支援を表明して恩を売っておくか?」
『なるほど、悪くないご意見です。――あちらが受け入れるかはともかくとして』
「……だろうな」
ユフレイアは小さく肩を竦めた。
「ほぼ決着が付きかけていたとはいえ、戦時中にオークションを敢行してのけた国だ。外に弱みは見せまい。謝意くらいは示すだろうが、実際の復興は自国内で片を付けてしまうだろうさ。近隣諸国に舐められないよう、国力を見せ付けるためにもな」
『公がファルレアン国王であってもそうなさる、と』
「卿がそうであっても、だろう?」
ユフレイアの問いに、ナイジェルは黙して微笑んだ。だがその沈黙こそが“是”と告げている。
「……まあ、これはファルレアンが取り組むべき問題だ。我が国に被害がないのなら、とりあえずは良しとするさ」
『左様ですな。正直、他国の問題に首を突っ込んでいる場合ではありませんので』
身も蓋もない言葉であるが、どうしようもなく真実であった。
「――それで、どうだ。例の魔動巨人、それから王都近くで見つかった巨大魔法陣の方は、何か分かったか?」
目下のところ、現在レクレウスの上層部で最優先課題とされているのが、ユフレイアが口にしたその二点だ。前者は何者かにそそのかされた前王ライネリオが王都レクレガンを襲撃した折、ファルレアンの《擬竜騎士》によって撃破されたものであり、戦闘後レクレウス軍によって極秘裏に回収されたものだった。《擬竜騎士》が一撃で倒してくれたおかげで損傷が少なく、大いに解析の余地が残っている。後者はレクレガン郊外で見つかったもので、これも現在解析が進められていた。
もちろん、講和の際結ばれた条約によって、レクレウス側の軍備増強は一定期間制限されているが、“ばれなければ良い”のだ。
しかしこれに関して、ナイジェルの返答はあまりはかばかしいとはいえなかった。
『まことに面目次第もないところです……魔導研究所の総力を挙げて調査していますが、なかなか捗りませんな。以前に、研究者のほとんどが殺害された一件が、未だ尾を引いております』
「そうか……そういえば、魔導研究所を襲撃した犯人も、まだ分かっていないのだったな」
レクレウスが誇る魔法研究の最先端施設、魔導研究所は、だが戦時中に何者かの襲撃に遭い、その所属研究員のほとんどが殺害されていた。当時施設内にいた人間は全滅、生き残ったのは偶然所用で研究所を離れていた者か、非番で出勤していなかった者だけという徹底ぶりだ。夜間のことで目撃情報もなく、事件は未だ解決の糸口すら掴めていない状態だった。
もちろん、国の最重要研究施設をそんな状態のままにしておくわけにはいかなかったので、現場の調査が終わってすぐ、国中の魔法研究施設から人員を引き抜き、一応の体裁は整えた。といっても、すぐに穴が埋まるわけではない。現在の研究員たちも良くやってはいるのだが、やはりまだレベルの差は否めなかった。
『あの一件で、我が国の魔動巨人研究の権威である研究者も、被害者の列に名を連ねてしまいましたのでね。彼が存命であれば、少なくとも魔動巨人に関しては、何か進展があったのかもしれませんが……』
「卿らしくもないな。仮定の話など」
『わたしは常に何通りかの事態を想定して動くようにしておりますよ。そうでなければ、臨機応変に対応ができませんのでね』
「なるほど」
彼らしい言いように、ユフレイアはつい笑ってしまった。だが、すぐにその表情を引き締める。
「ともあれ、それらから少しでも、我が国の利になることを得られればな。――わたしたちは、未来のために力を蓄えなくてはならない」
『仰る通りです』
今は戦争に敗れ、敗者たる立場と不自由な境遇に甘んじているが――いずれは。
言葉にしないその思いを、鏡越しに共有し、二人はどちらからともなく、共犯者の笑みを浮かべる。
『……ああ、そういえば』
と、ナイジェルが何かを思い出したように声をあげた。
「何だ?」
『この間、ファルレアンの方から書簡が参りまして。公には直接の関係はございませんが』
「ファルレアンから? また何か条件でも突き付けてきたか?」
わずかに目をすがめたユフレイアに、ナイジェルはかぶりを振る。
『いえ。――ファルレアンが“霧の海域”で島を発見し、それを新たな領土として宣言したことは、ご記憶のことと存じますが』
「ああ。まさかあんなところに島があろうとはな。霧も綺麗に晴れたというし、これでファルレアンは大陸沿いの航路を得たわけだ」
『それに関しましては我が国にも利がないわけではありませんので、良しと致しましょう。――実はその島の沿岸で、かつて沈没した海賊船が積んでいたという財宝が、この度引き揚げられたそうでして。ファルレアンの騎士団に残されていた事件記録から、その内の一部に我が国の貴族から奪われたものも含まれていることが分かったそうで、該当する品の返還の打診が来ております。もっとも、あの国が無条件で返還するとは思えませんが』
「それは確実に、何らかの対価は求められるだろうな。受けるのか?」
『それが、本来の持ち主であった家は、強硬派に属しておりましたので、取り潰しになっているのですよ』
「ああ……そういうことか」
戦後処理に際して、強硬派に属する多くの家が断絶の憂き目を見た。件の家はその中の一家門であったのだろう。かつては海賊に財物を奪われ、挙句の果てに家門断絶とは悲惨な話だが、少なくとも家門断絶については当主の才覚の問題であるので、ユフレイアはさして同情もしなかった。単に、それらの家の当主に時流を見極める目がなく、貴族としての矜持も悪い方向にしか持ち合わせていなかっただけの話なのだから。
「参考までに訊くが、返還を打診されている品というのは?」
『それが、公のようなうら若いご婦人に対しては少々申し上げ難いのですが……純金製の裸婦像が数点とのことで』
「……それは、何か交換条件を呑んでまで返還を望むべき品なのだろうか……」
『…………』
貴族議会代表ともあろう男が、死んだ魚のような目になった。自分も多分同じような目をしているのだろうと、ユフレイアはげんなりしながら思う。
『……では、この品については返還は希望しないということで』
「それが良いだろうな。正直、何かのマジックアイテムでも混ざっていれば、一考の余地はあっただろうが」
実のところ、ここオルロワナ北方領には、金を始めとする貴金属の鉱脈がそれこそ縦横無尽に走っている。返還に際し何らかの条件を出されるであろうことを考えれば、純金像などこちらにはあまり魅力的な品とは映らなかった。それこそ、クレメンタイン帝国時代のマジックアイテムででもあれば、話はまったく違っただろうが。
(……まあ、そんな品であれば、そもそも返還交渉などしてくるはずはないか)
胸中でそうひとりごち、ユフレイアは話を切り上げることにした。
「……それでは、わたしはこの辺で失礼させて貰う。まだ仕事が山積みだ」
『ははは、こちらも同様です。まったく、この椅子に座ってみてつくづく実感致しました。上に立つ者に第一に必要なものは、決裁のサインを記すための強靭な利き手であると』
「至言だな、クィンラム公」
しかつめらしく、ユフレイアは頷いた。そして、思い出したように付け加える。
「そうそう。――結婚式はいつ頃になりそうだ、クィンラム公? もちろん、万事繰り合わせて出席させていただこう」
『それは有難く存じます。彼女のお父上の喪が明けましたら、すぐにでも。いずれ招待状を差し上げますので、是非』
ナイジェルの婚約者であるオールト侯爵家令嬢、オフィーリア・マイア・オールトには、ユフレイアも《大舞踏会》で一度顔を合わせていた。一見儚げな美少女でありながら、なかなか才気煥発な令嬢だと好印象を抱いた覚えがある。彼女であれば、クィンラム家の女主人という役目も不足なくこなせることだろう。少々年の差はあるが、貴族社会ではままある程度でしかない。
非礼にならない程度に簡素な挨拶を交わし、鏡での通信を終えると、ユフレイアは人を呼び、鏡を片付けさせた。自身は執務室に戻り、再び机の上の決裁待ち書類に取り組み始める。
(……結婚、か)
いずれは自分も避けては通れないであろうその単語を、ユフレイアはとりあえず頭の片隅に押し退け、もうすっかり慣れた決裁のサインを、書類の所定欄に刻み始めた。
◇◇◇◇◇
《虚無領域》――否、現在は“クレメンタイン帝国領”となった地、その南端。レクレガン王国と“旧”サングリアム公国との間をほぼ覆い尽くす、想像を絶するほど広大な樹海。
そこは《神樹の森》と呼ばれていた。
ごくわずかな例外を除き、人間の侵入を決して許さない恐るべき森は、だが遠目から見ると緑したたる美しい森だ。鮮やかな新緑と深い緑が入り混じり、風が吹けば波打つように梢を揺らして、きらめくような風紋を描く。
そんな森の上空に、メリエはいた。
「――あーん、もう! 風が鬱陶しい!」
上空の風になびく髪を押さえ、彼女は口を尖らせる。八つ当たりのように宙に踵を打ち付ければ、光の波紋が小さく閃いた。
「ったく……こんなとこじゃ、肩慣らしにもなりやしないっての!」
ぶつくさと文句を零す彼女の背後、奇声と共に舞い上がった影がある。獅子の頭と身体に蝙蝠の翼、毒針を持つ尾は蠍のような魔物、マンティコアだ。それは牙を剥いた口の端から涎を滴らせ、華奢な少女に食い付こうと――。
「……《竜の咆哮》!」
しかし次の瞬間、振り向きざまにメリエが放った一撃に、マンティコアは半身を消し飛ばされて絶命した。
「ふん、ここの魔物もあの程度かあ」
墜落していくマンティコアには目もくれず、メリエは左腕を振り翳す。
そして、一閃。
緑の森を、眩い炎が一筋の線となって駆け抜ける。
一瞬の後――それは爆発にも似た勢いで燃え上がり、森の一角を赤々と染めた。
「《神樹》ってのを燃やせって、シアは言ってたけど……どこにあるか分かんないし、森ごと燃やしちゃえば確実よね!」
燃え上がる森から吹き上げる熱風に、髪と上着を大きくはためかせながら、彼女は眼下の森を菫色の双眸で睥睨する。
《神樹の森》の名の由来ともなった、森の中心部にあるという《神樹》を燃やす――それが、メリエに与えられた任務だった。
レティーシャからの説明を、メリエは半分近く聞き流していたが、それによれば《神樹》というのは文字通り、かつてこの世界を去った神々が残した大樹だという。時折黄金の葉を茂らせ、それは死者をも蘇らせる奇跡の妙薬の原料として、お伽噺にも登場するほど有名だ。
だがメリエにはさほど興味もない代物だった。
(だってそんなものなくたって、あたしは生き返った)
ならば、なくともさほど困らない。少なくとも彼女は。
メリエは再び左腕を振り抜く。迸った光芒が森を奔り、新たな炎の道を形作った。眼下の森がにわかに騒がしくなり、鳥や飛行能力を持つ魔物たちが湧き出るように飛び出してくる。
「――あははははは!!」
甲高い笑い声をあげながら、メリエはそれらを《竜の咆哮》で薙ぎ払った。
「気持ちいいなあ! やっぱ、思いっきり何もかも燃やせるって最高!」
《竜の咆哮》が森を斬り裂き、爆炎を噴き上げる。瑞々しい木々をあっという間に炎が蹂躙し、逃げ惑う獣や魔物たちの悲鳴が森に満ちた。立ち昇る煙が森を覆い、樹海を白く雲海のように変えていく。
と――その遥か彼方、未だ静かな緑に覆われた一角、かすかに瞬く金色を、メリエの常人離れした視力がほんの一瞬だけ捉えた。
(……そういえば、例の《神樹》っていうの、金色の葉っぱが生えるんだっけ?)
菫の双眸が、にやりと歪んだ。
「――見ぃーつけた、っと!」
メリエは最後の置き土産とばかりに左腕を振るい、新たに巻き起こった爆炎を背に空を蹴った。
◇◇◇◇◇
やるべきことをすべて終えたアルヴィーは、グラディスを始めとする館の人々に見送られ、フォリーシュに連れられて森に入った。行きにも使った“道”を通って、王都に帰るのだ。
「きゅっ」
ちょこんと肩に乗っかるフラムの機嫌がいつにもまして良いのは、やはり本来は森に住むカーバンクルの性なのだろうか。大きな緑色の瞳をきらきらと輝かせ、長い尻尾も楽しげに揺れている。
しばらく歩くと、鳥の鳴き交わす声も聞こえなくなり、周囲の空気も何となく変わった。
やがて、あの花畑と大樹のところに出る。
「……ここは、いつも天気が良いんだな」
空を仰ぎ、アルヴィーは呟く。ここに来るのは三度目だが、いつも空は抜けるように蒼く、木漏れ日が大樹の根元の湧き水をきらめかせていた。気温も暑くも寒くもなく、ちょうど春真っ盛りといったところか。
『そうよ? だって、一番綺麗な時なんだもの』
フォリーシュにはさして疑問でもないようで、満開の花畑に駆け寄ってくるくると回り始める。まあ通常の世界ともまた違う空間のようだから、深く考えても仕方がないか、とアルヴィーも疑問を彼方へと放り投げた。
「きゅきゅーっ」
「あ、こら」
と、フラムは飼い主の肩から勢い良く飛び下り、大樹の根元の湧き水に一直線に駆けて行く。よほど気に入ったのだろう。アルヴィーも少し水分が欲しくなったので、フォリーシュに伺いを立ててみる。
「なあフォリーシュ、水筒にここの水ちょっと貰っていいかー?」
『いいよー』
というわけで、水筒に湧き水を汲み、ついでに喉も潤した。水筒は魔法式収納庫に仕舞う。
「……けど、これほんとどうなってんだろな。何で木の根元に水晶なんか……」
指先でつついてみるが、冷たく硬い手応えが返るばかりだ。
と――花畑で戯れていたフォリーシュが、はっと顔を上げた。
『……何か、来る』
彼女がある方角を振り返る。つられてアルヴィーもそちらに目をやると、ざわり、と周囲の森が揺れた気がした。
(……何だ……?)
どことなく不穏な空気に、急いで水を飲むフラムを掬い上げ、念のために胸元の運搬袋に詰め込んだ。肩に乗せていては、万が一戦闘にでもなった時に落としてしまう。
「きゅっ!? きゅーっ!」
じたばた暴れるフラムには悪いが、しばし我慢して貰うことにして、アルヴィーは右腕を戦闘形態にする。
――そして、彼らの前に“それ”は現れた。
森の中から染み出すように、人影が近付いて来る。それは、女性の姿をしていた。しかしアルヴィーの視力は、“彼女”の焼け爛れた肌や髪、杖にした木の枝を支えによろけるようにしてようやく歩く、その惨憺たる様子をはっきりと見てしまう。
「っ、大変だ……!」
慌てて駆け寄ろうとした時――彼女もまた、アルヴィーに気付いたのか足を止めた。その顔が紛れもない恐怖に歪む。
『――ひっ……! ほ、炎……あの炎と同じ……!』
震える声でそう言った彼女は、アルヴィーを押し留めるように両手を突き出す。
『っ、こ、来ないで――!!』
そして、次の瞬間。
彼女の握り締めた枝がうねり、多頭竜の首のように枝分かれしたと思うと、喰らい付くようにアルヴィーに襲い掛かった――。




