第107話 復興の兆し
王都ソーマの空を、三騎の飛竜が風を切り横切って行く。
「――到着しました!」
「ああ、ご苦労」
声を張り上げる騎手に、ジェラルドは鷹揚に頷く。国境から約三時間。空を飛ぶためほぼ最短の進路を取れるとはいえ、相当な強行軍だ。出動した飛竜はよく休ませてやらねばなるまい。
城内に設けられた飛竜用の発着場に、三騎の飛竜が舞い下りると、飛竜の管理を専門とする飛竜科中隊の隊員たちが早速駆け寄ってくる。飛竜科とはその名の通り、飛竜の管理・運用を専門とする兵科で、騎士団が運用する飛竜はすべてこの飛竜科の所属となっていた。ちなみにその飛竜科は魔法騎士団第一大隊の管轄となる。
一般に騎士小隊が十数名、魔法騎士小隊が七~八名ほどの人員で構成されるのに対し、飛竜科中隊は全体で数百名ほどの規模となり、飛竜一頭につき交代要員も含め、二十名ほどの班が専属で管理・運用を担当する形を取っていた。それに加え、数年ごとにイムルーダ山で捕獲される幼竜の養育を専門とする人員も在籍する。表舞台で華々しく活躍することこそないが、騎士団の活動になくてはならない部隊だ。
長旅を終えた飛竜を飛竜科中隊に託し、ジェラルドたちは真っ直ぐに、騎士団長の執務室に向かった。
「――魔法騎士団第二大隊長ジェラルド・ヴァン・カルヴァート、及び部下二名。只今帰還致しました」
「うむ。アークランド辺境伯の方から報告は受けている。良くやってくれた」
ジェラルドの帰還報告に、騎士団長ジャイルズは満足そうに頷く。
――王都に続きアークランド辺境伯領でも地精霊の暴走が起きたとの報告が入った時、彼は内心で頭を抱えた。騎士団が抱える最高戦力たる《擬竜騎士》は、市街地で地精霊を抑えているという報告がすでに入っていたため、動かそうにも動かせなかったのだ。結果、本来なら滅多に前線に出るような階級ではないジェラルドが、その実力を買われて部下共々足を伸ばすこととなったのだった。
「は、恐れ入ります。――この分ですと、王都の方の暴走も収拾が付いたのですか」
「ああ、何とかな。対応できる者がたまたま近くに居合わせてくれたおかげで助かった。現在は、魔法技術研究所の方で遺留品の解析を急いでいる」
「遺留品?」
「地精霊が出現した現場からはいずれも、かなり傷んではいたが剣が見つかった。おそらくは儀礼用のものだろうということだが、地精霊を呼ぶ、あるいは封じる媒介として使われていた可能性は高い」
「ああ、それは確かに……ですが、残っていたということは」
「うむ、おそらく直接黒幕に繋がるような手掛かりは出て来はすまい。――だが、一つ気になる証言があってな」
「と、仰いますと?」
尋ねるジェラルドに、ジャイルズは眉を寄せた。
「これはクローネル二級魔法騎士からの報告なのだが……彼の婚約者である令嬢が、王都でギズレ家の娘と会ったというのだ」
その言葉に、ジェラルドの表情も鋭いものとなった。
「ギズレ家……確か、娘一人だけが騎士団の追跡を逃れて、現在も行方不明だったはずですが」
「ああ、その娘だろう。令嬢はその娘と親しい友人だったそうで、少し話もしたと証言した。それによると、ギズレ家の娘は現在、どこかに仕えているらしきことを口にしたそうだ。そして、令嬢が領地に戻る日取りをやけに気にしていたらしい」
「日取りを?」
「ああ、絶対に領地に戻るのを遅らせてくれるなとな。――そして、この一件だ。加えて彼女は、この国を恨んでいてもおかしくはない立場にある」
「なるほど。つまり……」
ジェラルドの双眸が鋭く輝く。
「今回の事件、彼女が何らかの鍵を握っている可能性がある……」
「その通りだ」
ジャイルズが頷く。
「アークランド辺境伯領の方では、これといった目撃情報はまだ出ていないが、聞き込めば何か分かるかもしれん」
「なるほど。ではそちらは、西方騎士団に任せましょう」
そう話を切り上げ、ジェラルドは報告を終えて部下共々退室した。
廊下を足早に、自身の執務室に向けて歩きながら、かっちりと閉めていた制服の襟元を緩める。
「……この制服も、悪くはないんだが、首元が鬱陶しいのが玉に瑕か」
「それは隊長含め、一部の人だけだと思いますよ」
ジェラルドの慨嘆を、セリオがばっさり切り捨てた。実際、大多数の騎士団員は、きちんと制服を着込んでいるのだ。
「別に良いだろうが。服務規程には襟元閉めろなんて書いてねえんだから」
それは当然の常識だからあえて明文化されるほどではないということでは、とセリオはちらりと思ったが、賢明にも口には出さなかった。代わりに口に出したのは別のことだ。
「……それはそうと、意外な名前が上がりましたね」
「ああ、まさかここでギズレ家が出てくるとはな。意外としつこいな、あの家も」
「ですが、令嬢一人でこれだけの期間隠れおおせたとも思えませんし……やはり、どこかから支援を受けたか、あるいは早々に拾い上げられたかと見るべきですね」
思案気なパトリシアに、ジェラルドも頷く。
「だろうな。ことによると、館を脱出した直後には、もう国外に出ていたのかもしれん。じゃなきゃ、騎士団の捜査網がとんだザルだったことになっちまうからな。笑えねえぞ」
ギズレ元辺境伯及びその家族の捕縛に際し、騎士団は唯一逃げ延びた娘を捜し出すため、領内はおろか近隣の領地、果ては国境地帯まで念入りに捜索した。だがいかに犯罪者追跡のためとはいえ、おいそれと国外まで捜索には出られない。彼女はおそらく、その隙を突いて捜査網を掻い潜ったのであろうと思われた。
「といっても、それまで典型的な深窓のご令嬢だった娘が、いきなりそんな知恵や手管を身に付けられるわけもないからな。“誰か”が絡んでた可能性は高い。――それが元々か、それとも偶然かはともかく」
「父であるギズレ元辺境伯の背後にはレクレウスがいましたが、おそらくその線は可能性が低いでしょうね」
「多分な。戦時中ならまだしも、敗戦後に娘を匿う理由がない。レクレウスが噛んでたんなら、身柄を交渉材料にしてくるくらいはやるぜ、あの貴族議会の代表殿は」
アルヴィーに付き添って顔を合わせた貴族議会代表、ナイジェル・アラド・クィンラム公爵を思い出し、ジェラルドはそう言い切った。実際彼ならば、そんな絶好の手札を遊ばせるはずがない。最大限に有効活用して、少しでも自国に有利な条件に持ち込もうとしただろう。
宙を睨み、ジェラルドは唸るように呟いた。
「やっぱり、クレメンタイン帝国か……?」
レクレガンでクレメンタイン帝国関係者と遭遇し、地精霊を使った術式は帝国に在る“本体”が伝えたものだと火竜アルマヴルカンが断じた以上、今回の地精霊暴走にも帝国が絡んでいるのはまず間違いないと、ジェラルドは睨んでいた。術式に使われた地精霊が暴走寸前である可能性が高いというのは、アルヴィーからも報告が上がっている。暴走寸前の地精霊などというものが他にもいたら堪ったものではないので、おそらくはその地精霊を何らかの手段でファルレアン国内に移動させたのだろう。
「陛下の風精霊曰く、術式の基点はレクレガンと三公国の首都だからな。レクレガンはともかく、三公国は帝国に取り込まれてる。帝国領と言えなくもないわけだ」
「“自国領内”で精霊が暴走するのを防ぎ、なおかつ我が国にもダメージを与える……というわけですか」
パトリシアは苦々しげにぼやいた。
「こちらは良い迷惑ですが」
「だが、向こうとしちゃ悪くない案だったんだろうぜ。実際、ファルレアンはこれでしばらくは動けん。ったく、ただでさえ《保守派》の連中がうるさいってのに」
ため息をついて頭を掻き、ジェラルドは部下たちを振り返る。
「――ま、そういう権力闘争は政治家の仕事だ。俺たちは騎士としての仕事を果たすぞ」
「はい」
「了解です」
頷く部下たちを満足げに見やり、ジェラルドは前方に向き直るとひとりごちた。
「……さて、ここからどう動くかな、あちらさんは」
◇◇◇◇◇
そこは、広大な空間だった。
レティーシャは靴音を響かせながら、ゆっくりと歩みを進める。やがて立ち止まり、眼前の“それ”を見上げた。
「――御機嫌はいかがかしら?」
群青の双眸の先、そこに在ったのは小山のような影だった。深紅の鱗を持つ体表は、影が呼吸や身じろぎをするたびにわずかにうねり、背に畳まれた翼は広げれば、同じく深紅の皮膜で空を覆うだろう。頭部の一対の角は柘榴石のようにきらめき、レティーシャを見下ろす双眸は燃え盛る炎のごとき金色。
だが、そこに揺らめくのは紛れもない不快感だった。
『……どういうつもりだ』
唸るように吐き出された声に、レティーシャは微笑みながら問い返す。
「どういうつもり、とは?」
すると、影――火竜の周囲に炎が舞った。
『なぜこうして、“わたし”を蘇らせたのかと訊いている』
炯々と輝き、それ自体がまるで炎のように燃え上がる金の双眸を、レティーシャは恐れる様子もなく見上げた。口元に笑みを刻んだまま。
熱風に長い銀髪をなびかせ、彼女は目を細める。
「せっかく今一度、肉体を得ましたのに……ご不満でしたかしら」
『我が肉体はすでに滅びた。今さらどう扱われようと興味もない……だが、貴様は“何”をした。あのままであればやがてわが魂は、幾千もの欠片となってこの世界に還ったものを』
「そのままこの世界に還るだけなど、勿体無いとは思いませんの?」
うっそりと、レティーシャは笑う。
「千年を生きたその経験と知識、すべて抱え込んだまま、世界に還ると?」
『それが我らの在り様だ。人間ごときに口出しされる謂れはない』
「あら、つれないこと」
火竜の不機嫌を示すように強まった熱風を、レティーシャは自身の周囲に結界を張ることで受け流す。ただそれだけで、人間などあっという間に燃え尽きてしまうほどの熱量は、彼女の傍をすり抜けるのみで彼女自身に触れることはできない。
周囲で燃え盛る炎に一欠片の恐怖も示さず、レティーシャは嫣然と火竜を見据える。
「ですが、それではわたくしの“目的”が叶いませんの。――勝手ながら、お付き合いいただきますわ」
彼女の笑みが、種類を変える。ただ微笑むだけのものから、凍るような冷たいものに。
「元はと言えば、こちらの方こそ巻き込まれた身。わたくしはただ、わたくしが当然得られたはずのものを取り戻すために、動いているだけのことですわ。――ご不満がおありなら、無責任にこの世界を捨てた神々とやらに仰ってくださいませね」
『ふん……やはり貴様か。確か以前に一度、見えたことがあったな』
「あら、覚えていてくださったとは、光栄ですわ」
『あの時とはずいぶん面変わりしたようだが』
「それは致し方ありませんわね。あなたがた竜とは違って、人間はそう長いこと姿を保ってはいられませんの」
レティーシャは自分の頬に指を滑らせる。張りのある滑らかな白磁の肌。竜にとっては瞬きするような短い時間で、失われてしまうそれ。
彼女は幾度もそれを手に入れ、そして失ってきた。
「……本当に、もどかしいことですけれど」
ぽつりと声を落とし、彼女は視線を落とした。
足下に散らばる、深紅の鱗。それは、この火竜の身体がまだ“安定”していないことを雄弁に示していた。
(――やはり、まだ足りない)
レクレウスから奪って来た、火竜アルマヴルカンの血肉と《竜玉》。血肉の方は《擬竜兵》を生み出すための研究で多少目減りしていたが、レティーシャにはそれを補うための技術があった。それを使ってアルマヴルカンの肉体を“創り直し”、《竜玉》をその体内に埋め込むことで“アルマヴルカン”を蘇生させたのだ。
理論上、それは成功した――はずだった。
(体組織の培養補充は、取り立てて問題もなかった……“生きた”組織を使って元の体組織を組み直していったのだから、一度“死んだ”部分も再び活性化したはず。死後すぐに時間を止めた状態で保存されていたから、劣化もそれほど進んでいなかったし、竜の強力な回復力であれば細胞の蘇生は充分に可能。魂の定着も《竜玉》の埋め込みでなされている……なのに、まだ状態が安定しない)
理論に沿って考えれば、起こり得ない事態。だがレティーシャには、なぜそれが起こったのか分かるような気がした。
「……後は、あなたが求めているものをもう一つ、手に入れなければなりませんわね」
『わたしが求めるもの、だと?』
「あら、ご自分でお気付きではありませんの? ですがこれは、わたくしの経験談でしてよ。――どれだけの技術の粋を注ぎ込んでも、この世に何か執着するものがなければ、魂は舞い戻っては来られませんの。あなたの場合は《竜玉》という入れ物がありましたけれど……それでも、ただそれだけでは肉体との結び付きが弱いようですわね」
メリエの例を見ても明らかだ。彼女は“アルヴィー”という執着があればこそ、あれほどの力強さで再びこの世に舞い戻って来たのだから。
人と竜。生物としてはまったく異質なもの同士であっても、その心ひとつで強くも弱くもなる存在であることは、等しく同じなのだろう。
「あなたにもあるのでしょう? 手に入れ、傍に置きたいと思うものが」
レティーシャの微笑みに、だが“アルマヴルカン”は小さく唸っただけだった。
『……くだらぬ』
「ふふ、自分では気付かなくとも、実は渇望している――などということは、珍しくもありませんのよ?」
軽やかな笑い声に、火竜は気分を害したのだろう、唸り声をあげて黙った。そのまま無視を決め込む態勢の“彼”に、レティーシャは再び小さく笑う。
「何にしても、あなたの状態が安定しませんと、こちらとしても困りますし。手に入れるのならば助力は惜しみませんわ。それでは、御機嫌よう」
流麗に一礼し、レティーシャは補助具もなしに術式を編み上げる。転移の術式だ。眩い光と共にその姿は掻き消え、次の瞬間宮殿の庭に現れる。
先ほどの熱風とは違う、爽やかですらある微風に銀髪を揺らし、彼女は空を仰いだ。
(アルマヴルカンが安定すれば、すべての準備が整う……だけど、焦って失敗すれば何もかもが水の泡になってしまう。慎重に事を運ばないと……)
逸る気持ちを抑えながら、レティーシャは遥かな蒼穹を睨むように見つめた。
――まるで、かつてその向こうに去った神々を見据えるがごとくに。
◇◇◇◇◇
地精霊の暴走から一夜明け、王都の被害状況も大分明らかになってきていた。
貴族街の方は、現場が空き家の旧子爵邸ということもあり、建物はともかく人命という点では被害はほぼなかった。運悪く隣り合っていた家がいくらか、巻き添えを食って塀や壁が崩れ、使用人が怪我をしたということはあったが、幸いにも命に関わるような重篤な怪我人は出ずに済んだ。そもそも貴族の家というのは敷地が広い。被害は隣近所の数家に留まり、復旧についても何とか目途が立っている。
しかし、市街地の方はそうもいかなかった。
現場となったのは、古い建物が密集する裏路地。しかも歓楽街近くということで、昼頃になっても寝ているような昼夜逆転の生活を送る住人が多かったことも災いした。建物の倒壊に巻き込まれた住民が多く、現在も騎士団による救助活動が続いている。
そんな中、アルヴィーは財務副大臣にしてルシエルの実父、ジュリアス・ヴァン・クローネルから呼び出しを受けた。
「――疲れているところを済まないな、急な呼び出しで。まあ、掛けたまえ」
「あ、はい。失礼します……」
相変わらず執務室で大量の書類を捌きながら、ジュリアスはアルヴィーに席を勧める。一応ソファの方には行ったが、部屋の主がバリバリ仕事をしている横で座っていても良いものかと迷っていたら、ジュリアスの方で一区切り付けてくれたようで、ペンを走らせる音が止んだ。そのまま席を立ち、アルヴィーと向かい合うように腰を下ろす。
予め用意を整えていたのだろう、すぐに文官が持って来てくれた紅茶で喉を潤しつつ、ジュリアスは切り出した。
「このたびの一件、現場で尽力した君は知っていることだろうが、特に市街地で看過すべからざる被害が出た」
「……はい」
アルヴィーは視線を落とす。もちろん、彼が駆け付けた時点ですでにかなりの被害が出ていたし、事が起きたその時に現場にいなかった時点で、アルヴィーにできたことなどあまりない。それでも、まだできたことはなかったか――そんな思いが胸をよぎることは止められなかった。
「そしてほぼ同時期、アークランド辺境伯領でも地精霊の暴走により被害が出た。こちらは領主館に被害が集中しているが、どちらにせよ国による支援が必要となるだろう。そこでだ」
カップを置き、ジュリアスはアルヴィーを見据えた。
「君が以前に引き上げた財宝……君が権利を放棄するというなら、それを復興の財源に充てたいと考えている」
意外な言葉に、アルヴィーは目を瞬かせた。
「あれを……ですか?」
「不服かね?」
「いや、そうじゃないんですけど……この間は、あれを外交の方で使うみたいな話をされたと思って」
「あの時はそのつもりだったがね。さすがにこれだけの被害となると、すでに決まった予算を組み直して充分な財源を確保するのも難しい。だが、あの財宝に関してはまだ確たる使途を決めていなかったので、すぐに動かせるのだよ。――無論、君の希望も考慮しよう。国内外の収奪品を問わず、まずは本来の持ち主、あるいはその縁者への返還を打診する。だが、七十年の間に絶えている家もあるかもしれないし、条件が折り合わない場合もあるのでね。その場合はオークションという形で売却し、復興財源に充てる」
「ああ……それなら、お任せします」
まず本来受け継ぐべきであった相手に返還を試み、その結果返還が叶わなかったならば、それはもう仕方がないとアルヴィーとしても納得できる。その上で復興に使われるのならば、こちらとしても言うことはない。頷き、彼は財宝に関する手続きの諸々を、ジュリアスに全権委任することを決めた。
「そう言って貰えると、こちらとしても有難い」
表情を緩め、ジュリアスも再びカップを取り上げる。透き通った宝玉のような色と芳香を楽しみ、優雅にカップを傾けた。さすがに生粋の貴族、ただ紅茶を嗜むだけのその仕草が、何とも様になっている。
そんな優雅さにはまだまだ程遠いアルヴィーは、ちびちびと紅茶を含みながらふと、彼に相談しようとしていたことを思い出した。
「……そういえば、一つお伺いしようと思ってたんですが」
「何だね?」
「……航路関係で未だに物を贈ってくる人、あれ、どうにかなりませんか……」
以前にジュリアスから渡された、沿岸部各地の領主たちからの“心付け”は、執事のルーカスの知恵を借りながら何とか非礼にならないように返品した。――のだが、それでも未だ、彼ら曰くの“心付け”を贈ってくる人間がぱらぱらと出て来るのだ。
「航路なんか、使いたきゃ勝手に使ってくれていいのに……」
げんなりとため息をつくアルヴィーに、ジュリアスは小さく笑う。
「仕方あるまい。――彼らは今まで、そういったものでしか他人を動かしてはこなかったのだろうからな」
目に見える高価なものを、あるいは金を、実利を。
利害で他人と結び付く者たちは、それ以外での関わりの持ち方を知らない。
所詮人間は、自らの持つ物差しでしか他人を測れないのだ。
「親しく付き合う必要はまったくないが、そういった者の名前は覚えておくと良い。そういう人間でも、使える局面というのはあるものでね」
「…………はあ」
うわあ、と内心ドン引きしながら、アルヴィーはジュリアスの言葉に頷いた。要するに、その程度の連中でも利用できる面はあるので、名前を覚えておいていざという時は良いように使え、ということだ。貴族って怖い、と自分もその一員であることは棚に放り上げて慄く。
ともあれ、用件は済んだのでアルヴィーは財務副大臣執務室を辞した。
本日のアルヴィーの予定は、本来なら休暇中である。護衛任務終了後に与えられた休暇はまだ消化しきっていない上、昨日は暴走した地精霊と戦闘。はっきり言って過剰労働もいいところだ。それを鑑み、騎士団の方から休むよう指示があった。周りが救助や復旧作業で駆け回っている時に休むのは気が引けるが、上からそう言われてしまえば仕方ない。
そそくさと自宅に戻り、出迎えたルーカスに尋ねる。
「あのさ、ちょっと訊きたいんだけど。航路関係で俺に来てた品物、あれ、送り主とか控えてる?」
「無論でございます。お名前はもちろんご住所からお贈りいただいた品まで、もれなくすべて記録してございますが……どなたか気になる方でも?」
「いや、控えてるなら良いんだ……そういうの覚えといた方が良いって、ルシィの親父さん――クローネル伯爵に言われてさ」
「なるほど。確かにそういった情報は、後々どのような形で役立つか分からないものでございますしね」
眼鏡をくい、と直しながら納得の面持ちのルーカスに、本日二度目の戦慄を覚えたアルヴィーだった。貴族社会怖い。
「……とにかく、まだちらほら贈ってきてる人いるし、対応の方よろしく……」
「畏まりました。万事抜かりなく手配致します」
キリッとした顔で一礼する彼に任せておけば、心配は要らないだろう。アルヴィーは頷き、着替えるために自室に向かおうとした。
と、
「旦那様、申し訳ございません。少々お待ちを」
ルーカスに呼び止められ、困惑して立ち止まる。
「どうした?」
アルヴィーの知る限り、彼は用が済めばさっさと自分の仕事に戻る。こうして用事が済んだ後に呼び止めるなど、まずないことだった。
何かまずいことでもしでかしただろうか、と不安を覚えながらアルヴィーは振り返る。
だが幸い、彼の危惧は外れた。
「実は、旦那様がお戻りになる少し前に、馬車を発注した工房から使いが参りまして。――昨日の揺れで工房にも多少被害が出ましたそうで、当家に納入するはずだった馬車にも傷が付いてしまったために、部品を組み直して改めて納入させていただきたい、とのことでございました。ただ、そうなると納入が予定よりも遅れるそうで、何卒ご容赦いただきたい、と……」
「傷? 組み直さなきゃいけないようなでかい傷なのか?」
「何でも、工房の屋根の一部が落ちて、それがたまたま、当家が注文した馬車に当たってしまったとのことでございます」
「あちゃー……そりゃ運が悪かったな」
アルヴィーの記憶では、工房は地精霊暴走事件の現場からはやや離れているが、地面の揺れは伝わったのだろう。古い建物であれば屋根が落ちてもおかしくはない。
「そういや、工房の人は大丈夫だったのか?」
「ええ……はい、幸い怪我人などは出なかったそうですが。ただ、馬車の納入が遅れるのは確実かと」
「? 別に馬車なんか、多少納入が遅れたって死にゃしないだろ?」
いやに納入の遅れが強調されると思いながら、アルヴィーは首を捻る。と、ルーカスが小さく息をついた。
「……旦那様。本来、貴族の家に品を納入する場合、納期が早まるのは基本的に問題ございませんが、遅れるのは問題なのでございます」
「え、そうなのか?」
「はい。そもそも店や工房に品を注文するというのは、“必要であるから”でございます。その“必要な時”に品が間に合わないというのは、注文を受けた側にとっては死活問題にもなり得るのですよ。下手をすれば、注文主に恥をかかせることにもなりかねません」
「あー……なるほど」
言われてみればその通りだと、アルヴィーは納得して頷く。だが、次の瞬間ぶったまげた。
「ですので、注文の納期に間に合わなければ最悪、店を取り潰されることも」
「ちょっと待て!?」
いきなり物騒な話になった。
「いやいやいや、ちょっと遅れたからってそこまで!?」
「さほど珍しくもない話でございますよ? 特に注文主が貴族であれば、体面に傷を付けられることはこれ以上ない屈辱でございます。それが店側の不手際となれば、それこそ店を取り潰されても文句は言えない失態なのです」
「ええー……」
貴族社会の恐ろしさに、アルヴィー本日三度目の戦慄。
「いや、でもさ……今回のこれはあれだろ、不可抗力ってやつだろ。さすがにそれで遅れたから工房取り潰しとか、そりゃねーわ……」
「では、納入が遅れることは不問に付されるということでよろしゅうございますか」
「良いっていうか、そもそもそんな急ぐもんでもないだろ。――ああ、まあ、御者とか馬とか押さえてるんだっけ? それ考えたら、早いに越したことはないけどさ。仕事の予定ズレちまうわけだし」
商業ギルドの方で、御者と馬を押さえて貰っているので、できるだけ早く本契約を交わして雇い入れてやらなければならない。まあ最悪、契約自体は予定通り交わして、御者と馬は一足先に迎え入れても良いわけだが。何しろ厩舎も完備だから、起居する場所には困らないのだ。
それをそのままルーカスに言うと、何ともいえない顔でため息をつかれた。
「……旦那様がそれでよろしいのなら、わたしの方から申し上げることはございませんが。――工房の者たちも喜ぶでしょう。気の短い貴族の方であれば、何か罰を与えていてもおかしくない事態ですので」
「不問ってのは、不服か?」
アルヴィーがそう言うと、ルーカスはどこか嬉しそうに、
「いえ。――それでこそ、旦那様らしくいらっしゃるかと」
どうやら彼も大分、アルヴィーの性格を掴みつつあるようだった。
「そりゃ良かった。――そういや、この近所の家とかも、被害に遭ったとことかあるんだよな。見舞いとかするもんかな?」
「それが無難でございましょう。すぐに手配致します」
「うん、よろしく」
近所付き合いもルーカスに丸投げし、アルヴィーは今度こそ、着替えのために自室に引き揚げていった。
……後日、馬車の納入時に工房の職人たちに崇め奉る勢いで感謝され、大いに困惑することとなるのだが、それはまだ知る由もない話である。




