第106話 後始末
――周辺警戒、良し。警戒対象の存在、確認できず。本部周辺、異常なし。
常人を遥かに超越した視覚・聴覚をフルに使い、アルヴィーは周囲の“索敵”を終える。危惧していた相手がいないことに小さく息をつき、できる限り目立たないように本部の建物に足を踏み入れた。――といっても、服が血塗れの惨劇になっているので、まったく目立たないというのは土台無理な話だったが。
本部の建物内には、小隊規模での打ち合わせにうってつけの小部屋がある。アルヴィーが狙っているのはそこだった。右袖が破れた上に血塗れの服を着替えたくとも、まさかその辺の道端で着替えるというわけにもいかず、人目のない場所を求めていた彼は、以前《下位竜》素材をルシエルたちに渡した際に使った、その小部屋に目を付けたのだ。そのために第一二一魔法騎士小隊の面々とも別れ、一足先に本部に足を運んだのだから。
(……こんな格好ルシィに見られたら、何言われるか分かんねーもんな)
アイスブルーの瞳を冷たく光らせ、背後にブリザードを背負う姿が目に見えるようだ。アルヴィーはぶるりと身を震わせる。
幸い、替えの制服は魔法式収納庫の中に入っているので、一刻も早く着替えるべく、部屋の使用申請もすっ飛ばして小部屋に向かった。使用申請をすれば当然のことながら記録が残る。着替えに使うだけなのだから数分程度のものだし、こっそり使わせて貰おうと目論んだのだ。
「……いいか、おとなしくしてろよ」
「きゅっ」
胸元の運搬袋から顔を出すフラムに大真面目にそう言い聞かせれば、分かっているのか否か、キリッとした顔で短く鳴く。いまいち不安が残るが、まあおとなしくしていてくれることを祈ろう。
――アルヴィーにとっては幸運なことに、警戒対象の姿を見かけることもなく、空き部屋の一つに滑り込むことができた。早速、魔法式収納庫から制服一式を引っ張り出す。
もはや使い物にならない服を脱ぐと、乾いた血がぱりぱりと剥がれ落ちた。左肩と腹の辺りは、乾いた血で赤黒く染まっている。
「うわ、ひっで」
これも拭いておきたいところだが、生憎水までは持っていない。後でこっそり身体を洗うことにしよう。もう血は乾いているのだから、服に付くこともあるまい。
脱いだ服は魔法式収納庫に放り込み、アルヴィーはボトムを制服のスラックスに穿き替えると、シャツに手を掛けた。
その時。
「――ええと、確かこの部屋のはず……」
がちゃり、といきなりドアが開く。
そして止める間もなく入室して来た人物は、アルヴィーとまともに鉢合わせた。
「……!? あ、あなた、一体何を……!?」
「あ、ニーナ」
なぜか顔を真っ赤にしてあたふたするニーナ・オルコット四級騎士を、アルヴィーは素早く部屋に引き込んでドアを閉めた。もちろん他意はない。ただ単に、部屋の外で大声をあげられたくなかっただけである。
「きゃっ!?」
「悪い、ここ使うんだよな。ちょっと着替えるだけだから、見逃してくんね?」
「着替える、って……」
微妙にアルヴィーから視線を逸らしていた彼女は、だが彼の左肩と腹部、背中にまで広がる血痕に気付いて顔を青ざめさせた。
「あなた、その血――」
「ああ、ちょっとドジってさ。怪我自体はもう治ってるし、血も乾いてるから、着替えて帰ってから洗うかって」
話しながらシャツを着込み、上着を羽織る。そうすれば見た目は真人間に戻ることができた。何とかルシエルには誤魔化せそうだと息をつく。
「……そういえば、街中で地精霊が暴走したって、本部は騒ぎになってたわ。まさか――」
「あー……まあな。ちょうど近くにいたし……」
まったくぼかせていないながらも言葉を濁し、明言は避けた。
「……じゃあ、俺報告に行くから。――ニーナはここ使うんだろ?」
「え、ええ……わたしも今は休暇中だったんだけど、非常呼集を掛けられたの。これからいくつかの小隊と合同で、被害区域の復旧作業の打ち合わせをするのよ」
「そっか。大変だな」
こうなってしまっては、休暇など吹っ飛んでしまうだろう。自分も含めて。
身支度を整え、アルヴィーは部屋を出ようとする。と、ニーナに呼び止められた。
「――あ、あの!」
「うん?」
「その……あ、あまり無茶はしちゃ駄目よ! あなたはもう、一介の騎士じゃないんだから!」
びしりと指でも突き付けそうな勢いでまくし立て、ニーナはふいと視線を逸らす。アルヴィーは一瞬きょとんとしたが、心配してくれているのだろうと表情を緩める。
「ああ。ありがとな」
「…………!!」
ニーナがぼひゅ、と音がしそうな勢いで頬を染めたことには(彼女にとって)幸いなことに気付かず、アルヴィーはふと思い立って魔法式収納庫の中を掻き回した。
「そうだ、ニーナ。イズデイル三級騎士と会うことがあったら、これ渡してくんないか? 世話んなった人に渡してんだけど、俺はなかなか会う機会なくてさ。こないだは周りに人がいたから、渡すに渡せなかったし。ニーナは同じ騎士大隊だから、まだ会う機会あるだろ」
取り出したのは《下位竜》素材の一部だ。余っていた分の大部分は商業ギルドの金庫に預けてあるが、多少は魔法式収納庫に残しておいたのである。
「……え、ええ。良いわよ……」
モノがモノだけに少々引きつりながらも、ニーナはそれを受け取って自分の魔法式収納庫に仕舞った。
「ちょうど、この後の打ち合わせでイズデイル三級騎士の隊とも会うのよ。機会を見て渡しておくわ」
「そっか、助かる!」
「べ、別に……! もののついでよ」
「じゃ、俺もう行くな。悪かったな、邪魔して」
ちょっと手を上げて出て行くアルヴィーを、ニーナは複雑な表情で見送ったが、やがて頬の熱を振り払うようにぶんぶんと首を振ると、気を取り直して部屋の準備を始めたのだった。
(――よし、着替えも済ませたし、後は報告上げるだけだな)
一方のアルヴィーは小部屋を後にし、直属の上司であるジェラルドの執務室へと向かっていた。忙しく行き交う騎士たちの間を縫うように足早に歩いていると、
「――アル!」
「あれ、ルシィ」
親友の声に、アルヴィーは事前に着替えておいて良かったと安堵しながら振り返った。
……もっとも、その一瞬後には凍り付くこととなったが。
「話は聞いたよ、アル。――街の方でも、地精霊が暴走したんだってね」
細めたアイスブルーの瞳は氷山のように冷たく輝き、感じる雰囲気は冬の雪山もかくやと思われる猛吹雪。
アルヴィーの想定通り――否、それ以上に恐ろしい笑みを浮かべる親友の姿が、そこにあった。
「……え、ええと……」
「事情はシャーロットたちから聞いてるよ。ずいぶん無茶なことをしたみたいだけど」
「ああああああ」
アルヴィーは頭を抱えた。そういえば、小隊の面々への口止めを忘れていた。
「きゅーっ!」
巻き添えを食ったフラムも全身の毛を逆立て、運搬袋の中にぴゃっと潜り込む。そんなフラムをひしと抱きかかえ、アルヴィーはへらりと宥めるような笑みを浮かべた。
「……あー……けどまあ、結果的に何とかなったし……」
「僕がそれで誤魔化されるとでも?」
「……思わないです」
アルヴィーはがくりと肩を落とした。
「……あのね、アル」
深いため息をつき、ルシエルはアルヴィーの肩に手を置く。朱金の瞳を見据える双眸は、淡い色合いなのに吸い込まれるように深い。
「確かに、アルの回復力は物凄いし、滅多な怪我じゃ痕も残らずにすぐに治るんだろうけど。――でもだからって、傷を負ったこと自体がなくなるわけじゃないし、周りで見てる僕らだって、何も感じないわけじゃないんだ」
肩に置かれたルシエルの手に、ぎゅう、と力が篭もる。アルヴィーの身体強度であれば、その程度は微風に撫でられた程度にしか感じないはずなのに、なぜか痛い、と思った。
それはきっと、身体ではなく心が感じる痛みだ。
アルヴィーはそっと目を伏せる。
「うん。――ごめんな、ルシィ」
ごめん、ともう一度、胸の中だけで謝る。
――今の彼に、ルシエルやシャーロットたちの心配は、遠い。
多少この身に傷を負おうと、自身にとってかけがえのないものを失おうと、結果的に最も損失が少なくなるのならその道を選ぶべきだと――そう考える自分が、次第に大きくなってきているから。
それは人間の思考ではないと、アルヴィーは直感していた。
(……今はまだ、ルシィたちは“なくしたくないもの”に入ってる)
だが、人間ではない“自分”の思考が、冷徹なほどに不必要なものを切り捨て“最善”を追求するそれが、いつか自分の身のみならず、周囲の人々も“最善”のための代償として勘定し始めるのではないか――。
「――アル? アル!」
「……え? あ、どうした?」
「どうした、はこっちの台詞だよ。顔色が少し悪い。やっぱり怪我の影響が……」
「いや、ないよ。それはない」
思考の海に沈もうとしていた意識は、ルシエルの声によって引き戻され、アルヴィーは慌ててその考えを振り払った。
「……ちょっと、考え事してただけだ」
「そう……」
まだ少し訝しげなルシエルの視線を、アルヴィーはさり気なく躱し、進もうとしていた方向に再び足を向ける。
「……そういえば、“街の方でも”って、ルシィさっき言ってたよな。――まさか、他でも地精霊の暴走があったのか?」
歩き出しながら問うと、ルシエルは頷いた。
「そのまさかだよ。貴族街の方でも、暴走が起きた」
「え!?」
焦りと共に振り返ったアルヴィーに、ルシエルが言い添える。
「幸い、現場は空き家になった旧子爵邸だったから、人的被害っていう点では街中に比べれば大分ましだった。子爵邸といっても、ある程度の広さはあるし、近くを巡回してた小隊が早々に現場を封鎖したから、野次馬が入り込むこともなかったしね。もっと長引いていれば、周りにも被害が及んだかもしれないけど……ちょうど、イリアルテとタヴァルが居合わせたから、早めに片を付けられたと思う。――アルが譲った《竜爪》の欠片が、役に立ったよ」
「ああ……そういや、鏃にしたんだっけ。――でも、こう言っちゃ何だけど、確かに空き家で良かったな。街の方は……酷かったよ」
現場の惨状を思い出し、アルヴィーの表情が曇った。
「うん、聞いたよ。あの辺りは古い建物が多いし、住んでる人もそれなりに多いから……」
被害も相当になっただろうと、ルシエルの口も重くなった。
「……今、フォリーシュが乱れた地脈を直してくれてる。――結局、助けられたのはフォリーシュだけだった……」
悼むように、アルヴィーは目を細める。四柱の地精霊の中で、唯一生き残った彼女――それは、四人の《擬竜兵》たちの中で唯一生き延びた、自分自身と重なった。
だからだろうか。今、ただひとりで孤独な戦いに挑んでいる彼女を思うと、どこかやりきれない気分になる。
そんなアルヴィーの思いを、ルシエルも察してくれたのだろう。慰めるように、肩を軽く叩かれた。
「……彼女が戻って来たら、迎えてあげなよ。頑張ったねって、言ってあげてさ」
「うん。――そうだな」
唯一生き残った自分に、ルシエルたちがいてくれたように。
ルシエルの言葉を噛み締めるように頷いて、アルヴィーは心持ち足どりを早めた。
◇◇◇◇◇
王都レクレガンで本格的に復興が始まり、自らの館を訪れる客足も一段落したのを機に、ユフレイアは自身の領地に向けて出発した。
本来なら大舞踏会と王都の別邸の建設が済めば、さっさと北に戻る腹積もりだったのだが、前王ライネリオの予想外の襲撃のせいでずいぶん足止めを食ってしまった。自分が不在の間に溜まったであろう仕事を思い、彼女は今からげんなりする。
「……領地には戻りたいが、執務室の机の上はあまり見たくないな……」
『残念ながら俺は、そっちは手伝えないからなあ。ま、頑張りなよ』
特別に彼女の隣に陣取った護衛役のフィランは、魔動通信機越しに気楽にそう嘯き、跨った天馬の手綱を捌く。
現在ユフレイアたち一行は、空路でオルロワナ北方領へと向かっていた。さすがに飛竜ほどの速度や高度は出せないが、地形をある程度無視できるだけに、地上を行くよりは圧倒的に早い。ただし、天馬の数もある程度限られるため、彼女の護衛はあまり数を揃えられず、選び抜かれた少数精鋭となっていた。
自身も手ずから天馬の手綱を取りながら、ユフレイアは思案気に呟く。
「……やはり前王の襲撃には、クレメンタイン帝国が関わっていると見るべきか……」
『多分間違いないだろうね。――ダンテ・ケイヒルはクレメンタイン帝国最後の皇女の騎士だから』
「最後の皇女……か」
どこか物悲しい響きのその言葉を、ユフレイアは呟くように口にした。
「……どういう気分だっただろうな。自分の生まれ育った国が滅ぶのを、目の当たりにするというのは。それも、当時世界で最も魔法技術が進んだ国だったんだろう……?」
『さあ……けど、話に聞く限りじゃクレメンタイン帝国も、そんな楽園みたいな国じゃなかったみたいだし』
「……え?」
フィランが当たり前のように漏らしたその言葉に、ユフレイアは目を見開いた。
「フィラン……知っているのか?」
『俺もそう詳しいわけじゃないよ。ただ、昔から伝わってた話はいくらかあるし、ご先祖様が持ち出した文献の類もあったしね。――あの国は魔法技術はびっくりするくらい進んでたけど、社会制度はそれほどでもなかったとか、生まれ持った身分や性別で差別されたりとか、まあそういうこともあったみたいだ』
「そうなのか……あのクレメンタイン帝国でも、か」
後世ではその進んだ魔法技術文明が高く評価され、理想郷のように思われていた亡国の意外な話に、ユフレイアが驚愕の声をあげると、フィランは肩を竦める。
『そう考えると、理想の国なんて、この世のどこにもないのかもなあ』
慨嘆のようなその声は、だがある意味では真理でもあるのだろう。すべてが理想的な、楽園のような国――しかしそれはこの地上に在る限り、多分に夢物語に過ぎないのだろう。
どんな国も、礎となり担い手となるのは、不完全な人間でしかないのだから。
――けれど。
「それで良い。――それ以上良くしようのない国など、つまらないからな」
“何もかもが満たされた理想の国”と言えば聞こえは良いが、それは国として完全に停滞したと同義だ。“より良い国を”と求めた時点で、そこは“理想の国”ではなくなる。
そして彼女は、後者こそを良しとする人間だった。
「より良いものを求めて何が悪い。わたしは自分の領地を、この国を少しでも良くしたい。それは上に立つ者として、当然の欲求だろう?」
『……それを“当然”と言えちゃうとこが、姫様だよねえ』
「どういう意味だ」
『拗ねないでよ。褒めてんだからさ』
「拗ね……っ! 誰が! というか、子供扱いするな!」
思わず声を荒げたユフレイアに、フィランが返したのはあはは、とあっけらかんとした笑い声だった。
『いいじゃん。そういう国に暮らせる人は、幸せだよ。――何なら、俺が腰を落ち着けたくなるような国にしてみなよ』
剣に生き、剣に死ぬ。ひとところに留まることなく、大陸をさすらい続けることを身に刻まれた男が、その呪いにも似た生き様に逆らってでも、留まりたくなるような国にしてみせろと。
それはユフレイアにとって、この上ない挑戦だった。
「――良いだろう。受けて立つぞ、フィラン」
いっそ好戦的ですらある笑みを口元に刻み、彼女はそう宣言する。
その密やかな誓いを代弁するように、天馬が一声高く嘶いた。
◇◇◇◇◇
かしゃん、とカップを置く音に、ベアトリスはふと我に返った。
「……あ……」
「どうかしまして?」
「いえ、何でもありません、陛下」
小首を傾げるレティーシャに慌ててそう答え、ベアトリスは気を取り直した。
そう、ここは《薔薇宮》の中庭で、自分は紅茶を楽しむ主の給仕をしている。そこまで思い出し、彼女は息をついた。
(いけない……陛下の御前で、心ここにあらずなんて)
小さくかぶりを振り、ベアトリスは自分の仕事に集中することにした。
そんな彼女に、レティーシャはにっこりと微笑む。
「体調が優れないようでしたら、下がっても構いませんよ、ベアトリス」
「いえ……問題ありません」
「そうですか。それなら結構ですわ」
優雅にカップを傾け、レティーシャは残っていた紅茶を飲み干す。どこか果物のような甘い香りの、芳しい余韻を楽しむと、カップを置いて立ち上がった。どこからか吹いてきた風が、彼女の結われないままの銀髪をふわりと遊ばせる。
群青の目を満足げに細め、レティーシャは振り返った。
「――そういえば、ファルレアンでの件は報告を受けています。良くやってくれましたわ」
「は、はい、恐縮です……!」
頬をわずかに紅潮させ、ベアトリスは一礼した。その様子に、レティーシャは幼い子を見るような目で微笑む。
「ファルレアン、レクレウス、ヴィペルラート、リシュアーヌ……主立った国にはそれなりの痛手を与えました。特にファルレアンとレクレウスは、これでしばらく国内の立て直しに掛かりきりになるでしょう。ヴィペルラートとリシュアーヌにはもう少し打撃を与えても良いかもしれませんが……それは追々で構いませんわね。まずはこれで良しとしましょう」
「と、仰いますと……陛下は“その先”をお考えなのですね」
ベアトリスの問い――というよりむしろ確認に近い言葉に、レティーシャは「ええ」と頷く。しかし、次に紡がれた言葉はベアトリスの予想からは外れるものだった。
「ですがまずは、三公国の方の引き締めを図りませんと」
その言葉に、ベアトリスは目を瞬く。
「……三公国を、ですか? まさか、あの国が今さら陛下に逆らおうなんて――」
「それならそれに越したことはありませんわ。――ですが、わたくしたちが押さえたのは公国の上層部だけですもの。辺境部は他国との行き来がある分、完全な情報統制は難しいものです。そこから火種が生まれないとは言えませんわ。それに、サングリアムは特に、そろそろポーションの生産をさらに抑えようと思っていた頃ですの」
「ポーションを、ですか?」
「ええ。――あなたも知っての通り、この大陸で流通しているポーションのほとんどを、サングリアムが製造してきました。帝国が提供した設備を使って。――でも、ベアトリス。あなたは、あのポーションのレシピを、原材料を知っていて?」
「いえ……申し訳ありませんが、存じません」
貴族令嬢として生まれ育ち、掠り傷一つ負うことのないよう守られるのが当たり前だったベアトリスが、そんなことを知るわけもない。否定した彼女に頷きながら、レティーシャは話を続ける。
「そう。あなただけではない、この大陸に生きる人々のほとんどが、それを知ることなく当たり前のようにポーションを使っています。――それがどれほど異様なことか、考えもせずに」
「…………!」
指摘されて初めて、ベアトリスはそれが“異常”であることに気付いた。
立ち尽くす彼女に微笑みかけ、レティーシャは謡うように続ける。
「幸い、目標とした収入はすでに得ています。ですので、今すぐにポーション供給を中止しても、こちらはさほど困りませんの。――ポーションは立派な軍需物資でもありますし、敵対するかもしれない他国に回す必要はありませんわ」
ベアトリスは息を呑んだ。
「それは……他国と戦争をする、ということですか……!?」
「たとえば、の話ですわ」
レティーシャはそう答えたが、それが否定ではないことを、ベアトリスは気付いた。
ふふ、と涼やかな声で笑い、レティーシャはくるりと身を翻す。
「――では、わたくしは執務に戻ります。後をお願い致しますわ、ベアトリス」
「……畏まりました」
一礼するベアトリスを残し、レティーシャは建物内に戻って行く。
(――戦争……この国が……)
まだ実感のない、だがその恐ろしい響きに、カップを下げる手がかすかに震えたことに、彼女は気付かなかった。
◇◇◇◇◇
「――え? いない?」
「はい、カルヴァート大隊長及びセイラー二級魔法騎士とキルドナ三級魔法騎士は、団長閣下の命でアークランド辺境伯領に……」
「ええー、参ったな……」
ジェラルドの執務室を尋ねても返答がなかったので、通り掛かった騎士を適当に捕まえて尋ねたところ、まさかの回答が返って来て、アルヴィーは困惑しつつ頭を掻いた。直接の上官である彼が不在となると、報告は一旦副大隊長に上げ、そこからさらに上へと報告が上がることとなる。まあ、それすら飛ばして騎士団長に直で面会したこともあるが、どうも“お偉いさん”は苦手なアルヴィーだった。
「けど、何でいきなり辺境伯領に?」
首を傾げると、騎士は声をひそめて、
「……それが、アークランド辺境伯領でも地精霊の暴走らしき現象が確認されたそうでして」
「え!?」
アルヴィーは目を見張った。
「王都だけじゃなかったのか?」
「はい、王都で地精霊の暴走が報告されたすぐ後に、西方騎士団本部を介して緊急報告が……報告こそ王都での暴走から少し遅れましたが、距離を考えるとほぼ同時期に暴走が起きたと考えても良いかと」
「そっか、辺境伯領って遠いもんな」
何しろ“辺境”と名が付くだけあって、かの地はレクレウスとの国境地帯の一角だ。
ちなみに辺境に封じられている家は多くが、建国当時の国王の股肱の臣に端を発するという。考えてみれば当然の話で、王都から遠いため目が届き難く、他国との国境となるため異国の情報や産物をいち早く入手することができ、また万が一隣国が攻めて来た場合には真っ先に矢面に立たなければならない領地など、相当に信の置ける臣下にしか任せられないだろう。
だが、公爵位や侯爵位といった上級の爵位は王家の縁戚にまず与えられる(もちろん血の近さにより多少の変動はあるが)。そしてファルレアン王国黎明期の国王は、王家の権威を絶対のものにするために、そういった上級爵位の数を制限した。結果、王家と血縁のない臣下たちは、多くが伯爵位に叙せられたという。
そんな臣下たちの中でも選りすぐりの、王家が信を置けると判断した者たちが辺境の守りを任され、伯爵位の中でも一段上の立場を得るに至った。これが“辺境伯位”の由来である。
……もっとも、すべての家門がその王家からの信に応え続けてきたわけでは無論なく、いくつかの領地は主の交代を余儀なくされた。ついこの間、当主が国家反逆罪に問われ家族もろとも処刑された、ギズレ元辺境伯家のように。
嫌な名を思い出したことに顔をしかめるアルヴィーに、騎士が追加情報を与えてくれる。
「とにかく一刻を争うような状況でしたので、急遽飛竜を動かしたそうです」
「ああ……じゃあ、僕が見たのはそれか」
得心したというように頷くルシエル。子爵邸の地精霊を倒した直後、彼が空に見た小さな影――それは、アークランド辺境伯領に向かうジェラルドたちを乗せた飛竜だったのだろう。
「そっか……いつ頃戻るのかな」
「現地でアークランド辺境伯と会談の後戻られるそうですので、今しばらく時間が掛かるかと」
「あー……そうなるかあ」
飛竜で移動した経験が多いだけに、どう見積もっても数時間は上司が戻って来ないことが分かり、アルヴィーはため息をついた。
「分かった、では報告は副大隊長に上げておこう」
ルシエルが話を切り上げ、騎士と別れて目的地を副大隊長の執務室に変える。
――首尾良く報告も済ませ、二人が当面やるべきことを終えたのは、それから半時間ほど後のことだった。
「ルシィ、これからどうする?」
「さすがに、一度家に戻るよ。実は来客中だったんだ」
「そっか……俺も戻るか。暴走の影響があんまりなかったっていっても、家のみんなが気になるしさ」
ルシエルの話では、現場はアルヴィーの家から少し離れていたようだが、一応“家門の当主”としては使用人たちの安全を確かめなければならなかった。殊に、家妖精のティムドは臆病だ。強大な力をすぐ近所に感じて、怯えているかもしれない。
そういうわけで、ルシエルとも別れてアルヴィーは、早々に帰宅した。
「――みんな、無事か?」
「お帰りなさいませ、旦那様。皆、怪我もなく無事でございますが……先ほどの揺れは、一体」
「ああ、後で発表があるだろうし、今の段階じゃあんまり詳しいことは言えないんだけど……みんな無事で良かったよ」
使用人たちの無事を確認し、ひとまず怪我の痕跡を洗い流すことにする。井戸から汲んできた水を炎で温め、やっと身体の血痕を拭き取ることができた。魔法式収納庫に放り込んでいた血塗れの服も始末し、普段着に着替えてようやく一息つく。
自室に戻ると、部屋の隅で茶色い塊がぷるぷる震えていた。
「……おい、大丈夫か?」
『ひいっ!?』
そっと声をかけると、塊はお約束のように飛び上がったが、アルヴィーの姿を認めると涙をだばだばと零しながら詰め寄ってきた。
『さ、さっきのは何なんだよぅ、おいら怖ぇよぅ……』
「あー、もう大丈夫だから落ち着け、な?」
やっぱり怯えていたティムドを宥め、もう安全だと言い含めること十分。ようやく納得したティムドは、仕事に戻るべく素早く姿を消した。相変わらず、ほんの一瞬目を離しただけで姿を消す、見事な消えっぷりだ。
ようやく休息の時間を手に入れたアルヴィーは、大きく息をついてベッドに寝転がる。家でようやく運搬袋から解放されたフラムも、ベッドの上に飛び上がって主の胸の辺りによじ登ってきた。
「……おまえも、今日はお疲れ」
「きゅっ」
撫でてやると、心地良さげに目を細める。やがてそのまま丸くなってすぴすぴと寝始めたフラムに、アルヴィーもつられるように瞼が重くなってきた。
(……そういや……今日はほんとに、疲れた……)
胸の上のぬくもりに誘われるように、アルヴィーも夢の世界へと旅立つまで、さほどの時間は掛からなかった。




