第102話 猛る大地
今回の話には、地震災害を想起させる描写があります。
苦手な方はご注意ください。
昼の鐘が鳴る少しばかり前、アルヴィーは王城の門前に到着した。
(シャーロットは……まだみたいだな)
周囲を見回し、彼女の姿がないことを見て取ると、できるだけ目立たないように端に寄りながら待つことにした。幸い、黒髪というのはそう珍しい特徴でもないので、朱金の瞳を伏せて俯きがちにしていれば、意外とすんなり雑踏に溶け込むことができる。
「……きゅきゅ?」
「こら、うろうろすんな」
隙あらばうろつこうとするフラムを引っ掴んで確保しながら、待つことしばし。
「――すみません、お待たせしました」
用を済ませたシャーロットが、門から出て来て小走りに近付いて来た。
「あれ、もういいのか?」
「ええ、そもそもお弁当を持って来ただけですし。――そういえば、以前に譲っていただいた腕輪のことで、父がアルヴィーさんに是非ともよろしくと。今、あの腕輪の術式について研究分野が同じ人たちと研究しているそうです。クレメンタイン帝国時代のアイテムは貴重で、滅多に手に入るものじゃありませんから、毎日生き生きと研究してますよ」
「……何だろ、なぜか笑いながら三日くらい貫徹してる絵面が浮かんできたんだけど」
「さすがにそこまで変人じゃないですよ、うちの父は……」
「そだな、悪い」
どうやらいつの間にか、あの文化的生活不適合者集団に影響されていたらしい。アルヴィーは遠い目になった。
ともかくも、合流した二人は歩き出す。食事をするといっても、お世辞にも王都の店に詳しいとはいえないアルヴィーに選択肢はほぼなく、目指す店は一つだった。以前――まだ彼が従騎士だった頃、ルシエルと夕食を共にした店だ。そういえばあの時シャーロットの家族とも初めて顔を合わせたのだと、ふと思い出す。
――件の店は、今日も繁盛していた。だが満席というほどではなく、すぐに席を見つけることができたのは幸いだ。メイン客層が経済的余裕がある平民層ということもあって、安く質より量といった食事を求める労働者層はまずここには来ない。むしろ、ルシエルのように身分を伏せた貴族出身の騎士団関係者などがよく使うという。
今もそういった客がちらほらいるようで、アルヴィーたちが入店したのを目ざとく見つけた客の内いくらかが、驚いたような顔になる。おそらくは騎士団の人間なのだろう。こちらにとっては知らない顔だが、アルヴィーの方は騎士団でも名が知れているのだ。だがさすがにこういった場で騒がない分別は持ち合わせているようで、少し注目されただけで落ち着いた。
席に着くと、それぞれ料理をオーダー。一度しか来たことのないアルヴィーは知らなかったが、この店では二、三品ほどの料理をまとめて、昼食時にセットメニューとして出しているらしい。アルヴィーはそれと、フラムのためにサラダを注文し、シャーロットは卵料理とサラダのプレート、デザートを頼んだ。
待つことしばし、料理がテーブルに届けられる。
アルヴィーがオーダーしたセットメニューは、鶏肉のスパイスソテーと温野菜のサラダ、スープにパン。シャーロットが注文した料理はとろとろのオムレツと生野菜のサラダがワンプレートに並び、薄切りのパンとバターが付いている。デザートは果物をシロップに漬け込んだコンポート。
シャーロットはまずパンにバターを塗り、オムレツとサラダを少しずつ載せて二つに折ると、楚々とした所作で端から少しずつ食べていく。オムレツは味付けを濃くしてあって、パンとサラダでちょうど薄められるのだそうだ。
アルヴィーもソテーを切り分け、口に入れる。口の中に肉汁と旨味、スパイスの香りがじわりと広がった。温野菜は茹でたことで野菜本来の甘みが際立ち、ソテーのスパイスの風味と程良く混ざり合う。テーブルの下で待つフラムにもサラダの野菜を食べさせつつ、年齢に見合う健啖さであっという間に皿を空にした。
「――やっぱこの店、美味いなー」
「きゅっ」
満足の息をつくアルヴィーに、野菜をもしゃもしゃと食べながらフラムも応じる。小さな前足で器用に野菜を持ち、小さな口で忙しなく食べるその姿に、近くのテーブルの客も癒されたようで、心なしか空気がほんわかとしていた。
シャーロットも食事を終え、アルヴィーが会計を済ませる。二人と一匹が店を出た、その時――。
『……主殿、気を付けろ。来るぞ!』
「きゅーっ!?」
アルマヴルカンの声が響き、フラムが全身の毛を逆立ててアルヴィーの肩で騒ぐ。人外たちのただならぬ様子に、アルヴィーが身構えた時、“それ”は起きた。
――ずん、と腹に響くような震動。
そして、足元の地面が大きく波打ちながら弾けた。
「きゃ……!?」
「シャーロット!」
体勢を崩しかけたシャーロットを、反射的に抱き寄せて支える。幸い異変はすぐに収まり、ほっと息をついた。
「……大丈夫か?」
「はい……あの、ありがとうございます。もう平気ですから」
「あ……おう」
密着したままの体勢に気付き、ぱっと離れると、アルヴィーは周囲を見渡す。
(――アルマヴルカン、さっきのあれ、何だ?)
寸前に警告を寄越したアルマヴルカンに問うと、彼は唸るように、
『今、この近くで大きな力が動いた。――先日の、地精霊を使った術式の発動に似ていたな。あれよりも制御が効いていないようだが』
「何だと……!?」
すうっと頭が冷えるような感覚を覚えながら、アルヴィーは自分の館がある方を見やった。
(まさか、フォリーシュに何かあったのか……!?)
今、この王都ソーマにいる力ある地精霊は彼女のみ――そのはずだ。だが、彼女はその力も一時的に失いつつ、精神状態は安定している。
一体何が起こったのか掴めず、また異変がこれで終わった確証もないためうかつに動けずにいると、地表を黄白色の光が一直線に走って来た。あ、と思った時にはすでに、地面から飛び出して来た少女がアルヴィーの腹の辺りに飛び付く。
『アルヴィー!』
「うぐっ……! フォリーシュ、無事だったのか……」
『アルヴィー、わたし、わたし……!』
ぎゅうぎゅうとしがみ付いてくるフォリーシュにただならぬものを感じ、アルヴィーはその頭を撫でて落ち着かせながら尋ねた。
「何があった?」
『わたし……助けられなかった……!』
やっとアルヴィーから身を離したフォリーシュは、黄水晶の瞳を大きく揺らしながら顔を歪める。
「助けるって……まさか」
はっとしたアルヴィーに、フォリーシュはこくりと頷いた。
『捕まってた子たちが、暴走したの……わたしの力じゃ、とめられなかった』
絶句したアルヴィーの耳に、遠い悲鳴が聞こえた。
「何だ!? 向こうから悲鳴聞こえたぞ!?」
「もしかして……さっきの揺れで、何か被害が出たのかもしれません。向こうの方は確か、古い建物が密集していた界隈のはずです」
「っ、とにかく行ってみよう!」
シャーロットの言葉に息を呑んだアルヴィーは、フラムを胸元の運搬袋に押し込み、フォリーシュを連れたまま駆け出す。シャーロットも身体強化魔法を発動させてそれに続いた。
王都ソーマの長い一日が、ここに幕を開けた。
◇◇◇◇◇
ユーリが《夜光宮》に帰還したのは、彼が帝都を発って五日後のことだった。
彼の帰還が知らされるや、皇帝ロドルフは早速主立った重臣たちを玉座の間に集めた。ユーリからの情報をいち早く精査・共有するためだ。
ずらりと居並ぶ国の重鎮たちに、さしものユーリも圧倒――されることはもちろんなく、さっさと定位置であるロドルフの脇に位置を占めた。
「陛下ただいま」
「ああ、良く戻った。――それで、何か分かったか?」
「うん。母さんが言うには、あの陣みたいなのは、大昔にこの世界からいなくなった神様っていうのが編み出したものに似てるって。母さんが持ってる文献も借りて来たから、後で調べよう」
「ほう、水の精霊が所有する文献か。俺も見てみたいものだな」
「いいけど、陛下これ読める?」
はい、と手渡された文献は巻物だったが、書かれていたのは現在の文字とは似ても似つかぬ紋様のようなものだった。当然、誰も読めない。
「……おまえは、これが読めるのか?」
「うん、読み方母さんに習ったし。千年くらい前の古代文字だって。今の文字とはちょっと違うけど」
「ちょっと、か……」
現在の文字とは共通するところがまるでない古代文字の羅列に、ロドルフはこめかみを揉み、文献をユーリに返した。
「……残念ながら俺には読めん。これの解読を手伝ってやってくれ」
「うん、分かった」
おそらく研究者たちもこれは読めない。ユーリの知識だけが頼りである。
「しかし、この世界を去った神か……またなかなか、大それたものが出て来たじゃないか」
ロドルフはにやりと笑う。この世界――少なくともこの大陸に属する国家群に“神”という概念はない。通常、国ができるレベルの人口があれば、宗教の一つや二つできていてもおかしくないのだが、この大陸ではそういった大規模な宗教がなぜか生まれなかった。早くから体系化され、人間が使いやすいように整えられた魔法、奇跡とも思える治癒力を現実のものとしたポーション、自然界の力の管理を担った多数の精霊や幻獣種。人間が信仰を抱きそうな対象は様々に分散され、願いを叶えるための手段はそう苦労もせず手に入れることができる――それが何百年と続けば、確かに神など必要ないのかもしれなかった。
そもそも宗教というのは、人々が心の安寧を得るために求めるものだ。耐え難い苦しみや貧しい生活、あるいは命を削る病。そういったものに疲れた時、人は何かに縋りたくなる。だが、それを多少なりとも和らげるものが、現実的な手段で提供されたなら、大多数の者はそちらに縋るのではないだろうか。
(――それとも、“人が神を必要としないように”、誘導された?)
ふとそんな考えが頭をよぎって、ロドルフはぞくりと背を粟立たせた。
「……陛下?」
黙り込んだロドルフを訝しんだか、ユーリが顔を覗き込んでくる。それに何でもないと手を振り、彼は臣下たちに向き直った。
「ともあれ、現時点では得られた情報を精査するしかあるまい。すぐに掛かってくれ」
「は、承知致しましてございます」
《夜光宮》の図書館を預かる館長が、恭しく一礼する。彼は古文書の研究家でもあり、こういった文献の調査では第一人者と名高かった。しかしそんな彼をしても、精霊が所有している文献の古代文字などは守備範囲外だろう。ユーリの協力は不可欠だ。彼もそれを分かっており、ユーリにも丁寧に一礼した。
臣下たちと情報を共有し、彼らを解散させると、ロドルフは早速姿勢を崩し、足を組んで玉座の肘置きに行儀悪く肘をついた。
「しかし、古代の魔法陣か……一体どこから、そんな知識を得たのだろうな、あの陣を描いた者は。少なくともその点において、我々はその者より後れを取っている。――気に入らん。実に気に入らん」
「正体も分かんない相手に対抗意識燃やしてどうすんの、陛下。――とりあえず俺、母さんの文献の翻訳手伝いに行って来るね」
「ああ、よろしく頼む。我が国にとって、貴重な魔法知識になるからな」
ユーリを送り出し、ロドルフは一つ大きな息をつくと、玉座から立ち上がった。当初の予定ではこれほど長く座り続けるはずではなかったが、少なくとも現在の状況でこの座を弟に譲り渡すことは、まだできそうにない。
(まったく……皇帝など、やはり面倒なものだな)
胸中でそうぼやくと、ロドルフは気分転換のため、外の空気を吸うべく玉座の間を後にした。
◇◇◇◇◇
王都から転移したベアトリスが次に姿を現したのは、王都とはまた違う街の片隅だった。
(ここは……上手く転移できたのかしら)
とにかく場所を確かめようと、手掛かりを求めて歩き出す。できる限り人目に付かないよう注意を払いながらしばらく歩くと、遠くに壮麗な館が見えた。
(……あれは……あの館だわ)
見覚えのある風景に唇をわななかせ、彼女はその場に立ち尽くした。
王都のそれよりもさらに広大な城館と敷地。周囲より一段高い地盤から膝元の街を見下ろすその城館の庭には、丹精込めて育て上げられた美しい薔薇園があったことを、ベアトリスは知っている。
そこは彼女が生まれ育ち、そして家族と共に失った、かつての家だった。
立ち尽くす彼女の横を、住民らしい平民が連れ立って歩いて行く。
「――いやあ、今のご領主様になってから、生活がぐんと楽になったなあ」
「まったくだぜ。前はどれだけ働いても、片っ端から税に取られちまってたからなあ」
「前の領主ってのは、あれだろ? 反逆罪で捕まって処刑されたって奴だろ? いい気味だぜ、俺たちの稼ぎを搾り取って、ずいぶん贅沢してたって話だしよぉ」
「馬鹿なことしたもんだなあ、前の領主も。ま、そのおかげで今のご領主様が来てくだすったんだがな。今のご領主様が前の領主を逮捕して、この領地の面倒を見てくださったおかげで、取られなくていい税まで取られてるって分かったんだ。俺たちにとっては幸運だったなあ!」
「違えねえ!」
ははは、と笑いながら遠ざかっていくその後ろ姿を、ベアトリスは燃えるような瞳で睨んだ。
(領民風情が、お父様を馬鹿にして、いい気味ですって……!? お父様たちがどんな目に遭ったのか、知っていて笑っているの!?)
ベアトリスにとって父は優しく頼れる存在であり、母は穏やかで慈しみ溢れる女性だった。家庭は温かく、ベアトリスは幸せだった。それが何の上に成り立っていたものかなど、彼女には関係も興味もないことだ。貴族として生まれ育った彼女には、平民の労苦など遥か遠いところのものでしかなかった。彼女にとって大切なのは顔も知らない領民ではなく、血を分けた家族だったのだから。
(……許さないわ。お父様を馬鹿にして笑ったあの平民も、お父様たちを処刑台に送っておきながら、のうのうとこの領地を引き継いだ新しい領主も……!)
青灰色の瞳を憎しみにぎらぎらと光らせ、ベアトリスは激情のままに歩みを進め始めた。彼女はあまり街の地理に明るくはなかったが、見えている生家を目指して歩めば良いのだから迷うはずもない。そうして辿り着いた館を囲む城壁、その根元に、彼女は魔法式収納庫から取り出した精霊の剣の最後の一振りを、渾身の力を込めて突き刺した。
もちろん彼女の細腕では、そう深くまでは刺さらなかったが、剣が地面に触れてさえいれば良いのだ。後は精霊の暴走が始まれば、地中に走る地脈を巻き込んで勝手に周囲を破壊してくれる――ベアトリスは、ダンテからそう聞いていた。
(人が多く住む街の近くには、地脈も強くなるってダンテ様は仰っていたわ。なら、街の真ん中で暴走が始まれば……ここならきっと、館にも街にも被害が出る)
かつての自分の家であろうと、今はもう手の届かないものとなり、あまつさえ新しい領主の居城となった館だ。ベアトリスにとっては、多少胸は痛んでも、すでに切り捨てて構わないものとなっていた。むしろ、父の仇ともいえる新領主への復讐のためなら、生家さえ惜しくはない。
――苦しめば良いのだ。父を追い落とした新しい領主とやらも、その領主に尻尾を振る平民たちも!
歪んだ笑みを浮かべ、ベアトリスは踵を返してその場を立ち去る。剣をすべて仕込んだ後のことは、特に指示を受けてもいなかったので、どうせならこの地でその発動を見届けても良いだろう。ダンテの話では、そう時間の掛かるものでもないということだったし……。
そう考えながら足を早めた時。
ずん、とかすかな振動を感じ――そして、大きな波が足元を走り抜けていくような感覚を、ベアトリスは感じた。
(……まさか……っ!)
慄然として振り返れば、館の城壁の一部が、明らかに歪んで見えた。大きな亀裂が生き物のように走り、城壁全体がうねりながら崩れていく。亀裂は大地にも及び、一瞬にして数十メイルにも渡り地表を斬り裂いた。くすんだ黄白色の光が稲妻のように閃き、再び大地を大きく波打たせる。
「さ――支えよ、《風翼》!」
ベアトリスはとっさに魔法を使い、空へと逃れた。その足下を亀裂が走り、石畳の地面が弾けて飛礫を撒き散らす。それの直撃を受けた不幸な通行人が、痛みに苦しむ声が聞こえた。
一瞬にして惨憺たる光景に変わった眼下の街を見下ろしながら、手近な建物の屋根に下り立ったベアトリスは、動揺もあらわに呻いた。
「そんな……早過ぎるわ! 暴走までにはまだ、余裕があったはずなのに……!」
レティーシャの見立てではあと十日ほどで暴走すると、ダンテは言っていた。だからもう少し、余裕があると思っていたのだ。別にこの地がどうなろうと、それはベアトリスにとってはどうでも良い。だが、残る二振りを仕掛けてきた王都には、領地への帰還を控えた友人がいる。
(タニア……!)
まだ十日の猶予があると思っていたから、三日後に領地に戻ると言っていたティタニアに何も言わなかったのだ。だが、王都に仕掛けた二振りも同じようにすぐに暴走を始めたとしたら……。
転移用の水晶を握り締め、ベアトリスは立ち尽くした。
(どうすれば良いの? どうすれば……)
混乱と迷いに脳裏をすっかり支配された彼女は、頭上に長い影が差したのにも気付かなかった。
「――ベアトリス」
とん、と地面に下り立つ音と快い声音に、ベアトリスは息を呑んで振り返った。
「ダンテ様……」
「良くやったね。我が君も今回の仕事に満足しておられる」
なおも狂った地精霊の暴走に蹂躙される街を見下ろしながら、ダンテは穏やかに微笑んだ。
「ダンテ様……わたし、わたしのお友達が、」
「どうかした?」
甘く細められたエメラルドの瞳に、ベアトリスは言葉を失くす。そんな彼女の迷いを見透かすように、ダンテは転移水晶を握り締めた彼女の華奢な肩にそっと手を置いた。
「君が心配することはないよ。君は我が君のために必要な役目を果たしただけだ。――さあ、クレメティーラへ帰ろう。君の復讐も、すべてとは言えないけれど、これで果たせただろう?」
ダンテの言葉に、ベアトリスははっとする。
(そうだわ……わたしの目的は、ファルレアンに復讐すること。お父様やみんなを殺した、あの国と女王アレクサンドラに)
あの日聞いた鐘の音を、思い出す。
父や家族の最期を看取ることすら叶わずに、ただ王都ソーマの上空で涙するしかなかった、家族の命が絶たれたあの日。
いずれ家族の仇を討つと誓い、この胸の奥で育ててきた憎しみの炎の熱さを。
揺れていた青灰色の瞳が、すっと静まった。
(……あの日わたしは、何もかもを捨てたのよ)
ファルレアン貴族であった“ベアトリス・ヴァン・ギズレ”と、それに連なるファルレアンのものすべてを。
今の自分はクレメンタイン帝国貴族にして女帝レティーシャの臣、“ベアトリス・ルーシェ・ギズレ”なのだ。
「……分かりました、すぐに戻ります。陛下にご報告申し上げなければ。ですが、ある程度の状況は確かめてからでも?」
「もちろん」
ダンテは満足げに頷くと、ベアトリスに手を差し伸べた。わずかに頬を染めながら、彼女は細い手をダンテのそれに乗せる。
彼に引き上げられて、空飛ぶ大蛇の背に納まったベアトリスは、髪を包んだスカーフを外して、小さく頭を振る。豊かに流れる紅茶色の髪が風に踊り、解放感に大きく息をついた。
大蛇が空に舞い上がるその眼下で、大地はさらにひび割れてうねり、建物を巻き込んで崩壊していく。ベアトリスたちがついさっきまで立っていた場所も、それに巻き込まれて儚く崩れ去っていった。
遠くに目を転じれば、領主の城館も崩壊の影響を受け、一部が斜めに傾いでいた。隙間なく精緻に組み立てられた建材はぼろぼろと剥がれ落ち、傾斜に耐えかねた尖塔が崩落しながら倒れていく。空の高みからそれを見下ろし、ベアトリスは虚ろな笑い声をあげた。
「ふふ……あははは」
すべてが壊れていく。ベアトリスが幼い頃に歩いた廊下も、父に頼んで入れて貰った塔も。母と共に茶会を楽しんだテラスも、一番好きだった庭の薔薇園も。
――だがきっと、これで良かったのだ。
彼女が生まれ育った懐かしい場所は、これで彼女だけのもの。
父の仇などに、渡しはしない。
小さく笑い続けるベアトリスを乗せ、ダンテが駆る大蛇はその翼を羽ばたかせると、悠然と大空に舞い上がっていった。
◇◇◇◇◇
悲鳴があがったと思しき現場に駆け付け、アルヴィーは愕然と立ち竦んだ。
そこはどうやら、平民向けの歓楽街らしかった。らしかった、というのは、その辺一帯が見る影もなく崩落してしまっているからだ。
「――おい! 大丈夫か!?」
呆然とへたり込む女性の肩を揺すって正気付かせると、彼女は震える指を崩落した建物に向けた。
「あ……あの中に、あたしの姉さんと子供が……」
「何だって……!?」
すでに瓦礫の山としか見えないそこに駆け寄れば、確かに小さく呻き声が聞こえる。まだ生きている、とほっと息をつき、アルヴィーは服の右肩を引き破ると、右腕を戦闘形態に変えた。
「ひっ……!」
人ではあり得ない異形のものに変わっていく姿を目の当たりにして、女性が引きつった悲鳴をあげるが、とりあえずそれは無視した。呻き声が聞こえる辺りに覆い被さるように崩落した、太い木の梁を右手一本で持ち上げる。がごん、と重い音を立てて上の瓦礫が転がり落ち、急に流れ込んだ外の空気と光に、中で狭い空間に押し込められていた母子が、ぽかんとこちらを見上げた。
「大丈夫か!? 早く外に出ろ!」
「あ、足が……」
立ち上がろうとした母親が、顔を歪めてよろける。どうやら、瓦礫に足を挟まれているようだ。
手助けしようにも、梁を持ち上げていては動けない。どうしたものかと思ったら、
『アルヴィー。わたしが手伝う』
フォリーシュの手が、アルヴィーの腕に支えられた梁に伸びる。いくら精霊でも、見た目十歳そこそこの少女の手に負えるものではないと止めようとしたアルヴィーは、だが次の瞬間目を見張ることとなった。
フォリーシュの手が梁に触れた、と思ったら、そこから黄白色の淡い光が一瞬で梁全体に広がり、太く重い梁がぼろぼろと崩れていく。あっという間に梁は崩れ去り、柔らかい土のような手触りだけが残った。
「……どうなってんだ?」
『木はくさったら土にかえるでしょう。それを早くしただけ』
「ああ、そうか……地精霊って、そういうこともできるんだな」
感心しながら、アルヴィーは瓦礫を乗り越えて母子のところに行き、母親の足を挟む瓦礫を持ち上げる。彼女が這いずるようにして瓦礫から脱け出すと、彼女と子供をそれぞれ肩に担いで、怪我に障らないよう魔法障壁の足場を経由して脱出した。
母子が外で待っていた女性と抱き合って泣き出すが、そんな感動の再会を見守る暇もなく、フォリーシュがアルヴィーの腕を引いた。
『アルヴィー、あっち。あっちにいる』
「あっちにいる、って……」
『精霊がいる。力がおさえられてないの。とめないと』
そう言うが早いか、フォリーシュは駆け出して行ってしまう。
「あ、おい……!」
追おうにも、ここにはまだ救助を必要とする人々がいるかもしれない。そう思うととっさに足が動かなかったが、それを嘲笑うようにくすんだ黄白色の光が地表を走り、地面が大きく爆ぜる。飛び散る飛礫を反射的に障壁で叩き落とし、アルヴィーは後ろに跳び退った。
「……何だ、これ……!」
光が駆け抜けた跡は、大きな地割れとなって口を開けている。数十セトメルにもなるその幅は、子供ならそのまま落ちてしまいそうだ。
『地脈が乱れているな。この間のように、強制的に流れを整えられてさえいない。危険だぞ』
アルマヴルカンの声も、どこか厳しい。
「危険って、そりゃ見れば分かるけど」
大きな地割れを見ながら言えば、そうではない、と言われた。
『乱れた地脈の力が、そのまま蟠っている。力が逃げる先さえないのだ。このまま流れが淀み続ければ、下手をすればこの辺り一帯が吹き飛ぶぞ』
あっさり告げられた破滅に、息を呑んだ。
「それって……!」
『主殿はあの精霊を手伝え。大元をどうにかせねば、地脈の乱れは収束せんぞ』
「ンなこと言ったって……!」
今すぐここを放り出して行けと言われても、すぐに従えようはずもない。だがその時、救いは訪れた。
「――アルヴィーさん!」
良く通るシャーロットの声。それに重なるように、
「――こっちだ!」
「うわ、こりゃ酷い」
「要救助者は!」
近くを巡回していたのであろう、魔法騎士団の小隊が駆け付けて来た。ここぞとばかりに、アルヴィーは彼らを呼ぶ。
「こっち! 怪我人がいる!」
「え、《擬竜騎士》!? 今は休暇のはずじゃ」
いともあっさり特定されたが、考えてみれば右肩に翼が生えた人間など他にはいない。勤務シフトまで知れているのは解せないが、まあこの際そこは気にしないことにする。
「ここ頼む。俺はあっちで、大元どうにかしてくるから」
「え、あの、大元って――」
当然ながらわけが分からないでいる騎士に強引に現場を引き継ぎ、アルヴィーはフォリーシュが去った方へと駆け出した。
「アルヴィーさん! どこへ!?」
「フォリーシュが言ってた例の地精霊が、何でだか知らないけどこっちに来たらしい。その暴走でこうなった。精霊を止めないと、被害がでかくなるばっかりだ。だから止めに行く」
追いかけて来るシャーロットには、手短に事情を説明した。先ほどの騎士たちとは違って、彼女はある程度の事情を知っている。すぐに呑み込んでくれたようだった。
「……なるほど。確かに、それが最優先ですね」
「シャーロットは向こうで救助活動を――」
手伝ってくれ、と言おうとしたら、
「分かりました。じゃあわたしも、及ばずながらお手伝いします」
「――はあ!?」
素っ頓狂な声をあげるアルヴィーに、彼女はにこりと、
「自分の身を守るくらいのことはできますし、向こうにも要救助者がいないとは限りませんから。人手は多い方が良いですよね?」
「そりゃ、そうかもしんねーけど……」
「それに、現場に行けば高確率で戦闘になると思いますが、フラムちゃん連れで戦う気ですか?」
「…………」
アルヴィーは黙るしかなかった。
「……分かった。けど、その服であんまり無茶はするなよ?」
元々父に昼食を届けるだけの予定だったシャーロットは、ブラウスに膝下丈のスカート、ショートブーツという服装だった。とてもではないが、本来ならこんな場所に来るような服装ではない。
「心得てますよ」
シャーロットも頷く。身体強化魔法があるとはいえ、動きがある程度制限されてしまうこの服装で大立ち回りなどできようはずもなかった。だが、もし現場に要救助者がいた場合、応急処置を施して移動させるくらいのことはできるだろう。
(……それに、一人で放っておいたら、また無茶なことするかもしれないし)
以前、王城にクレメンタイン帝国の襲撃があった際。かつての僚友であった《擬竜兵》の少女を、アルヴィーがどうやって撃退したかを聞いた時のことを思い出して、腹の底がひやりとする。今の彼はあの時より、さらに強くなっているけれど。
それでも拭いきれない彼の危なっかしさに、シャーロットは内心ため息をつきたい気分になりながら、右肩に翼を負ったその後ろ姿を懸命に追いかけた。




