第101話 王都にて、ふたり
社交時期が終わったとはいえ、ファルレアン王国王都・ソーマは国一番の大都市であり、その人口たるや相当なものだ。特に王城を囲むように広がる街は、王都随一の繁華街といっても過言ではない。あまりの人通りの多さに、地方の領地から初めて出て来た商人や旅行者が“今日は何かの祭りか”と勘違いするのは、もはや一種のお約束である。
そんな人出の中を、ひっそりと進む人影があった。
華奢な体躯に地味なブラウスと長いスカートを纏い、彼女は伏し目がちに人の間を縫う。大きなスカーフで髪の大部分を隠していたが、わずかに零れた一筋の髪は紅茶色をしていた。
彼女は街の一角、人通りのあまりない路地にするりと滑り込む。そこはいわゆる歓楽街だった。夕方からは華やかに賑わい始める界隈だが、昼下がりの今はむしろ王都のどこよりも人目に付き難い。
うらぶれた感のある路地にはややそぐわない、どこか上品な挙措もこの時間帯では見咎められることなく、彼女は少し足早に足を進める。程なく彼女は、ちょっとした広場に行き当たった。
そこにはこの辺りの住民たちが共同で使う井戸がある。彼女はさり気なく井戸に近付くと、ブラウスの袖からちらりと腕輪を覗かせた。地味な服装にはそぐわない美麗な腕輪に手を翳す。と、はめ込まれた宝石部分から、質量をまるで無視して細長いものがしゅるりと出現した。
細い手に握られたそれは、一振りの剣。ただし鞘はなく、刃は毀れひびだらけで、柄にも大小のひびが見られた。刃には呪句と思しき文字が彫られ、さらに護符のようなものを取り付けた銀の鎖が巻き付けられている。
彼女はずしりと重いそれを、切っ先を下にして捧げ持ち、そして手を離した。剣は吸い込まれるように、井戸の中へと落ちていく。
――水音、そして硬く鈍い音。
覗き込んでみると、井戸の水深はさほどなく、剣は井戸の底に突き刺さっていた。それを確かめ、彼女は満足したように頷き踵を返す。
振り返ることなく路地を後にしたその姿は、すぐに大通りの人ごみに呑み込まれた。
◇◇◇◇◇
ごとん、と眼前に置かれたものたちに、ベアトリスはきょとりと目を瞬かせた。
「……あの、ダンテ様。これは……?」
それは三振りの剣だった。といっても刃毀れが酷く、柄にもひびが縦横に走っている。とても実用に耐えるものではないだろう。もちろんベアトリスも、剣に関してはずぶの素人である。まともな状態でも扱える気がしない。しかもその剣からはどことなく、不気味な気配が漂ってくるのだ。
一体何事かと思った彼女に、ダンテは柔らかく微笑みながらそっと囁いた。
「――今もまだ、ファルレアンに復讐したいと思っているかい?」
ひゅ、と思わず息を呑んだ。
「僕たちもあれこれ動いてきたけど、ファルレアンはなかなか隙がなくてね。今のところはファルレアンの独り勝ちってところで話が進んでる。だけどそれじゃ面白くないだろう? ああ、これは我が君も同じご意見だ」
「わ……わたし、は」
思いがけない話に、上手く言葉が出て来ない――が、ベアトリスの心はすでに決まっていた。
「わたしに――わたしに、お任せいただけるのですか!」
青灰色の瞳がぎらぎらと、淑女らしからぬ光を放つ。ダンテはひっそりと笑った。
この《薔薇宮》での穏やかな時間が雪のように降り積もり、自分の中の復讐の火が弱まってしまうと彼女は嘆いていたが、とんでもない。その身の裡の炎はこうして少し煽ってやるだけで、こんなにも苛烈に燃え上がるのだから。
「もちろん。むしろ、君にこそ相応しい役目だと、我が君も仰せだ」
その言葉に、ベアトリスの頬がさっと紅潮した。
「喜んでお受け致します!」
「君ならそう言ってくれると思ってたよ」
ダンテは満足げに、ベアトリスに微笑みかける。甘く細められるエメラルドの双眸に、ベアトリスはさらに顔を赤らめて目を逸らした。
「そ、それで……わたしはどうすればよろしいのでしょうか」
「そう難しいことじゃないよ。――この剣を、ファルレアン国内に仕掛けてくれればいい」
「この剣を……ですか?」
ベアトリスはまじまじと剣を見つめたが、今にも砕けそうなほどにボロボロなのと、そこはかとなく不気味なことを除けば、特にこれといって注意を払うような点もなさそうだった。彼女の疑問は織り込み済みだったのか、ダンテは頷いた。
「そう。――この剣には精霊が封じられてるんだ。今は狂って暴走する一歩手前の状態で、この鎖のおかげで何とか抑え込めてる。でもそれもそう長くは保たない。我が君のお見立てでは、せいぜいあと十日ほどだろうとのことだった」
「精霊……」
剣を見つめ小さく呟くベアトリス。元々彼女は、そういった方面にはあまり明るくない。だがそう聞けば、この剣から感じる不気味な雰囲気にもようやく納得が行った。
「さっきも言った通り、君はこの剣をファルレアン国内に仕掛けて来てくれれば良い。場所は君に任せる。こちらとしては、ファルレアンが少しばかり痛手を負えば良いだけだから、場所に関してはさほどこだわっていない。まあ、より大人数を巻き込めればそれに越したことはない、というところかな」
「はい……承りましたわ」
ベアトリスは高鳴る鼓動を鎮めるように、胸に手を当てる。待ち焦がれていた時が、ついに来たのだ。
(ようやく、お父様やお母様、皆の仇を討てる……!)
辺境伯であった父が反逆罪に問われ、家族もろとも処刑されたあの日から――唯一難を逃れたベアトリスは固く誓ったのだ。
いつかきっと、家族の仇を討ち、その無念を晴らすと。
やっとその時が巡ってきたのだ。
女王アレクサンドラ自身を害することは無理でも、その威信に傷を付けることはできる。女王の膝元である王都で大きな被害が出れば、非難の声は免れまい。
ベアトリスは興奮のあまり手が震えそうになるのを抑えながら、剣に手を伸ばした――。
(……王都の方は二本もあれば良いわ。後は……)
ダンテから託された剣の内二本を王都に仕掛け、ベアトリスは残る一本を魔法式収納庫に残したまま思案していた。
彼から聞いた話によると、剣に封じた地精霊はもう限界が近いらしく、そう遠からず発狂して暴走を始めるだろうということだった。そうなれば、周囲を巻き込み大災害を引き起こすだろうとも。
そんな剣を王都の真ん中に仕込めば、暴走が始まった時の被害は想像を絶することになるだろう。だが、ベアトリスにとってそれは、むしろ喜びでしかなかった。
――苦しめば良い。嘆き、悲しみ、絶望すれば良い。
わたしの家族も、そうして命を奪われたのだから。
わたしから家族を、すべてを奪ったあの女王を戴く国など、滅んでも構わない――!
胸を焦がす炎のような激情に心地良く身を委ね、ベアトリスはうっそりと微笑んだ。
辺境に領地を持つ家に生まれた彼女は、王都ソーマを訪れた回数はそう多くなかったが、大まかな地理は何とか覚えている。といっても彼女は、先ほど剣を井戸に投げ込んで来た辺りが歓楽街であることまでは知らなかった。ただ単に、人気のない場所を探しただけに過ぎない。もう一本は、貴族街の一角、空き家となった屋敷の庭に仕込んだ。下級貴族の屋敷の中には、財政上の理由から家を維持しきれなくなり、手放された屋敷がいくつもあることを、彼女は知っていた。
(空き家とはいえ貴族の屋敷の敷地内なら、事前に見つかる可能性は低いわ。それに、街の方にも仕掛けて来た。最悪、どちらか片方でも暴走を始めれば、被害は出る……)
もはやファルレアンは彼女にとって祖国ではない。家族を、大切なものすべてを奪い去った“敵国”でしかないのだ。
ようやく巡ってきた復讐の機会に、ベアトリスは心を浮き立たせながら、久しぶりに貴族街を歩いた。
――いつぶりだろう。ここに足を踏み入れたのは。
彼女の生家、ギズレ辺境伯家もかつては、ここに屋敷を持っていた。ベアトリスもよくそこを訪れており、社交時期には輝月夜にも出席したものだ。音楽と令嬢たちの笑いさざめく声が響き合う、あの輝くような華やかな空間を思い出し、ベアトリスは唇を噛み締めた。
両親に伴われ、無邪気に舞踏会を楽しんでいたあの頃はまだ、知らなかったのだ。
いずれすべてを奪われる時が来ることなど――。
思い出に浸りながらも、無意識に進めていた足が、ふと止まった。
(……ここは……)
見覚えのある館。王都周辺で採れる美しい白色の石材をふんだんに使い、要所に配されたいくつもの丈高い尖塔が印象的な壮麗たる館は、かつてのギズレ辺境伯邸に間違いなかった。門扉は閉ざされていたが、堂々とした門構え、門扉の格子の隙間から見える館も、広々とした庭も思い出の中のままだ。ただ、色とりどりの花が咲き乱れていたはずの庭は、手入れがされていないのか少し荒れていた。門を守る門番の姿もないということは、この館もまた、主を失ってそのままなのだろう。
ふと自分が、この国ではまだ追われる身であろうことを思い出し、ベアトリスはそっと周囲を見渡す。だが騎士らしい姿はなく、ほっと息をついた。おそらく国内はすでに捜索され、もはや国内にはいないものと結論付けられたのだろう。まさか、ベアトリスが王都の真ん中に舞い戻って来るなどとは、思いもしていないに違いない。
(……でも、長く留まるのは危険ね。女王アレクサンドラには、風の精霊が味方しているし……)
もちろん、風の下位精霊がベアトリスのことなど詳しく知るはずがないので、告げ口される可能性は低いだろう。だが、旧ギズレ辺境伯邸の前に長々と留まっていた女がいる、という情報が伝わる可能性がないとはいえない。万が一にも怪しまれるわけにはいかないのだ。
かつて暮らした家にそっと別れを告げ、ベアトリスは再び歩き始めた。
今の彼女はどこかの屋敷に勤める使用人のような風体だ。普通に歩いている限り、見咎められるようなこともあるまい。以前であればこんな姿に身をやつすなど考えもしなかったが、一度どん底にまで落ちた身だ。あの時のことを思えば、服装くらいもうどうということもなかった。
長いスカートの裾を優雅に捌きながら、ベアトリスはこの場を後にしようとする。数軒ほど離れた別の館の前を通り掛かった時だった。
「――きゃっ!?」
突然強い風が吹き、館の敷地内から何かが飛んでくる。それは繊細なレースで編み上げられたリボンだった。品から見て、貴族令嬢が髪を飾るためのものだろう。
それを拾い上げたことに、さしたる目的や意味はなかった。ただ、かつては自分も同じようなものを持っていたので、つい懐かしくなって拾ったに過ぎない。
(……塀の柵にでも、結んでおけば良いかしら)
とはいえ、拾ったまま突っ立っているわけにもいかないので、手近な塀の鉄柵に結び付けておくことにする。門番に渡すことも考えたが、できるだけ人と顔を合わせたくない。それに、これがこの家の令嬢のものなら、さほど間を置かずに使用人が探しに来るだろうから、見つからずに雨曝しになることもないだろう。
ベアトリスは細い指でリボンを鉄柵に結び付けた。まだ少し残る風に、白いレースがひらひらとなびく。
解けないであろうことを確かめ、館に背を向け歩き出そうとした。
と、
「――ねえ、お待ちになって。これは、あなたが拾ってくださったの?」
背後からかけられた声に、ベアトリスは足を止めた。
可愛らしく弾む声が、嬉しそうな様子を隠そうともせずに伝えてくる。
「良かった! このリボンは大事な方からいただいたものなの。こちらへ来てくださらない? お礼が言いたいわ」
その声につい振り返ってしまったのは、聞き覚えがあったものだったから。同じ時期に社交界にデビューし、父親同士はお世辞にも親しいとはいえなかったのに、なぜか気が合ったかつての――。
まさか、と小さく呟く声が聞こえた。
「……ベアト……?」
「ええ、お久しぶりね、タニア」
黄緑色の瞳を見開いてこちらを凝視してくるかつての友人――ティタニア・ヴァン・メルファーレンに、ベアトリスは小さく微笑んでみせた。
◇◇◇◇◇
長期任務の後の休暇を満喫するため、アルヴィーはこの日、街に出ていた。
元々が平民の出である。私服もまだまだ一般庶民的なものが多く、それを着込み、目立つ右手に手袋をはめて雑踏に紛れれば、見事に人ごみに溶け込むことができた。そもそも、平民から貴族になったということでアルヴィーの名前はそこそこ知れたが、顔まで知っているのは騎士団関係者や商業ギルド、よく顔を出す店の店主など、ごく一部に限られている。
そんなわけで、特にお忍びだと気を使う必要すらなく、アルヴィーは普通に街中を歩いていた。
「――きゅっ、きゅーっ」
「あ、こら、暴れんな。踏み潰されても知んねーぞ」
首から下げた袋から出ようと、ぱたぱた前足をばたつかせるフラムを窘めつつ、さてどこへ行こうかと思案するアルヴィー。出掛けてくると言い置いて出て来たは良いが、かといって差し迫ってやるべきこともなかった。
(制服とかも、気が付いたらルーカスが発注してくれてるしなあ……日用品はホリーが揃えてくれるし)
食料品などもどうやら定期的に届けてくれるように、ルーカスがいつの間にか手配していたらしい。貴族の家の使用人としては当然の仕事であるのだろうが、そんなわけで家のことでアルヴィーがしなければならない仕事はほぼなかった。強いて言えば、貴族の家門の当主の重要な仕事の一つは社交だが、それは国から控えるように指示が出ている。騎士団での仕事と貴族年金で、散財しなければ生活に困ることのない収入も確保できているし、栄誉爵であるから統治すべき領地はない。
(……あれ。考えてみたら、騎士団の仕事以外本っ気で何もやることないぞ、俺……)
今さらながらに思い当たって、アルヴィーはがくりと項垂れた。生活に困る心配がないのは有難いが、何というか、空しい。
考えてみれば今まで、脇目も振らず前だけを見て、生きてきた気がする。もちろんそれが悪いと思ってはいないし、間違っていたとも思わない。ただこういうふとした時に、時間を持て余してしまう自分に気付くのだ。
(村でなら、森に狩りにでも出られたけどな……)
だが辺境の村ならいざ知らず、王都周辺の森は大体王家か、他の有力貴族の土地だ。もちろん、そんなところに勝手に入り込んで狩りでもしようものなら大問題である。
はあ、とため息などつきつつ、アルヴィーは眼前の街並みを眺める。王都は広く、アルヴィーがまだ知らない界隈も多い。この際そういったところを回ってみようかと、一歩踏み出す。
「――あら。アルヴィーさん?」
そこへ声をかけられ、アルヴィーはそちらに顔を向けた。
「シャーロット」
「お一人でお出掛けですか?」
貴族になったのに、という意の込められた問いに、小さく肩を竦める。
「こっちの方が気楽だしな。――シャーロットは?」
「わたしはこれを父に届けに。今、魔法技術研究所の方で講義を持っているので」
「講義? シャーロットの親父さんが?」
「ええ、魔法技術研究所では年に数回、外部講師を招いて研究員向けの特別講義を開いているんです。今回は父が、その外部講師に当たったんだそうで」
シャーロットの説明によると、王立魔法技術研究所では、より新しく高度な知識を学ぶ場として、年に数回の特別講義を開催しているという。講師として招かれるのは、研究所と提携して研究を進めている学者であり、シャーロットの父もクレメンタイン帝国時代の魔法技術研究者として、外部講師に選ばれたのだそうだ。ここ最近、クレメンタイン帝国が再興を宣言し、またファルレアンにも帝国由来の技術がもたらされたため、俄然帝国時代の魔法技術が注目されることになったのだろう。
「じゃあそれ、講義の資料か何か?」
シャーロットが片手に下げたバスケットを指して問えば、
「これはお弁当ですよ。講義がお昼を跨いでしまうので」
「あ、そうなのか……」
「向こうでも食事は出るそうなんですけど、何ていうか、その……」
シャーロットは言い淀んで視線をうろうろさせていたが、やがて諦めたように、
「……うちの両親、結婚して結構な年が経つのに未だお熱いところがありまして……外の食事より、母の料理が好きなんですよね、うちの父……」
「ああ……なるほどなあ。何ていうか、俺も覚えがあるわ、その微妙な気分……」
両親が仲睦まじいのは良いことだが、その間に挟まれた子供としては非常に微妙というか、いたたまれない気分になることが往々にしてあるものだ。アルヴィーの場合、父は早くに他界してしまったが、それでも幼いながらに、両親の相思相愛ぶりに微妙な気分になった記憶は多い。
二人して乾いた笑いを浮かべ、そしてため息をついた。
「……まあそういうわけで、今から届けに行くんですよ。できるだけ出来立てをと、母に渡されまして」
「ふーん……」
研究所には何度も行っているのでそこそこ馴染みがあるが、そんな講義など行っていたとは知らなかった。
「けどあそこの人たち、ただでさえ頭良いんだろうに、これ以上勉強したいのか……」
「頭が良いから、より勉強したいんじゃないんですかね。わたしにはちょっと理解できませんけど」
「俺も」
アルヴィーは遠い目になった。レクレウス軍だった頃、練兵学校の座学を半分寝て過ごしていた身には、別世界の話のように思える。
「……あ、じゃあ、わたしはこれで……」
「ん、ああ。引き留めて悪かったな」
「いえ。それでは」
会釈して、シャーロットが歩いて行く。アルヴィーはついそれを呼び止めた。
「あ、あのさあ」
「……はい?」
振り返った彼女に、軽く頭など掻きながら持ち掛ける。
「その……それ届けたらさ、ちょっと出掛けないか?」
きょとん、と薄紫の双眸を瞬かせ、シャーロットは小首を傾げる。
「わたしと、ですか?」
「うん。――いや、用があるんだったらいいんだけど」
ごにょごにょと明後日の方を見ながら言うアルヴィーに、シャーロットがくすりと笑った。
「いえ、特にこの後に用はありませんから。――じゃあ、お昼でもご一緒しましょうか。どこかで待ち合わせます?」
「あ、ああ。えーと……じゃあ昼に、王城の門の前で」
「分かりました。では」
今度こそ別れ、シャーロットを見送ったアルヴィーは、昼まで時間を潰すべく、自分も街へと歩き始める。
「――あらやだ、初々しいわねえ。あたしもあんな時代があったわー」
「若いっていいわねえ」
一部始終を見ていたどこかのおばさまたちが、微笑ましくて仕方ないという顔でそう盛り上がっていたことなど、無論知る由もなかった。
◇◇◇◇◇
扉をノックする音に、ルシエルは本に集中させていた意識をふと呼び戻した。
「何だ?」
「失礼致します、ルシエル様。よろしゅうございますでしょうか」
「ああ、構わないが」
入室の許しを得て、扉を開けたのはクローネル家の執事・セドリックだ。彼は隙のない完璧な所作で入室すると、流れるように一礼した。
「お寛ぎのところ失礼致します。“先生”がいらっしゃいました」
「そうか。通してくれ」
「畏まりました」
再び一礼し、セドリックが退室する。ルシエルは読んでいた本を本棚に片付けると、客人を迎えるため自室を出た。
一階に下りると、物珍しげに広間を見渡していた五十がらみの紳士が、帽子を取って慇懃に一礼した。
「お初にお目に掛かります。本日より領地経営に関しての講師を務めさせていただきます、イザード・ヴァン・サングスターと申します」
「ルシエル・ヴァン・クローネルだ。領地経営に関してはまったくの素人だが、お手柔らかに頼む」
ルシエルの言葉に、イザードは柔らかい色合いの灰色の瞳を細めた。
「ご謙遜を。騎士学校の魔法騎士科を首席でご卒業なさった才子と伺っておりますよ」
ゆったりした喋り方は、おそらく生来のものなのだろう。だが、クローネル伯爵領で辣腕を振るう代官のサダルが、ルシエルの教師役にと選び抜いて寄越して来た部下である。その能力までもがゆったりとしているはずはない。
彼を地階まで案内しながら、ルシエルは尋ねた。
「イザード卿も、文官貴族の家の出で?」
「左様でございます。幸いなことに生家の方は、長年国務副大臣閣下の秘書官のお役目をいただいておりますが、わたしは次男でございまして。いつまでも実家で部屋住みというわけにも参りませんので、こうして文官として他家にご奉公致しております次第です。ご当家には、五年ほど前に召し抱えていただきました」
彼のように家を継げない下級貴族出身者は、自力で身を立てるしかないのでこうして他家の文官になることが多い。一応学問はきちんと身に着けているので、一定以上の能力が保証されている可能性も高く、領主にとっても魅力的なのだ。ついでに言えば、彼らは往々にして多忙であり、また新たに家を興すほどの経済的余裕はないことが多いため、生涯独身を貫く者が結構な割合でいる。
「それと、わたしのことはどうぞ、イザードと呼び捨ててくださいませ。“卿”などと呼ばれますと、何やらむず痒い思いが致しましてな」
「そうか。なら、そうさせて貰おう」
親子ほどの年齢差があるが、これも身分の壁というものであろう。すでに慣れたことであったため、ルシエルは頷き一つでそれを受け入れた。
「――では、僭越ながら講義を始めさせていただきます」
地階の一室。かつては主の子女に教育を施す場であったその部屋には、使用人たちによって予め、座り心地の良さそうな肘掛け椅子がいくつか設えられていた。そこにそれぞれ腰を下ろし、領地経営のための講義が始まる。といっても、傍に従僕が控え、頃合いを見計らって息抜きのために紅茶や茶菓子を供してくれるので、勉強というよりは博識な客人に話を聞くといった態勢に近かった。イザードの語り口もあいまって、講義は事前に想像したものとは違い穏やかな時間となる。
「まず、ご領内の状態についてお話し致しましょう。クローネル伯爵領はイル=シュメイラ街道の要所の一つに当たり、国内の領地の中でも立地は非常によろしい。ご領主が経済に明るいお方ゆえに、領民に過度な税を課しておられないのもよろしいですな。ただし、あまり緩め過ぎると今度は領民の怠惰に繋がりかねませんので、加減を見極めることが肝要でございます。主な産業は農業及び交易。これは街道沿いの領地の大部分に共通する産業ですが、手堅く見えて実はそうでもございません。両方とも、外部要因により不安定になりやすい産業でございますので、その点はお心に留め置いていただきとう存じます」
「外部要因……さしずめ天候不順や戦争辺りか?」
「左様でございます。前者は農業、後者は交易に大きな影響を及ぼします。まあ、戦争に関しましては負の影響ばかりではなく、物流を活発化させる側面もございますので、一概に申し上げるわけにも参りませんが」
講義はこのような状態で進み、内心少し身構えていたルシエルに肩透かしを食わせたが、変に詰め込まれるよりはよほど頭に入りやすいのも確かだった。サダルの人選は確かだったらしい。
途中、乾いた喉を紅茶で潤しつつ、二時間ほどで講義は終わった。
「――では、本日はここまでと致しましょう。次回は、実際の帳簿をご覧いただきます。といっても、数十年前のものを複写した、写しでございますが。歴史と帳簿を照らし合わせてみれば、意外な関連が見えて面白うございますよ」
「そうか。楽しみだな」
「それでは、わたしは部屋の方に下がらせていただきます」
イザードは一礼し、部屋を後にした。彼にはこの部屋の続き間である一室が与えられ、住み込みでルシエルの教育に当たることとなる。
一般に、貴族の子女は教育機関に入学する前に、家庭教師によってある程度の教育が施され、彼らは館の一角に起居のための部屋を与えられた。クローネル邸も例外ではなく、こうして専用の部屋が地階の一角に設けられている。クローネル家の子息たちはもうとうに学業を終え、部屋は空き部屋となっていたのだが、この度ルシエルが領地経営のための教育を受けるにあたって、再び役目を果たすこととなったのだった。講義の間に部屋にはイザードの荷物が運び込まれ、居住するに足る状態にまで整えられていることだろう。
ルシエルも部屋を出て、上階に戻る。地階は基本的に使用人たちの領域であり、主やその家族はあまり足を踏み入れることはない。
(せっかくの休暇だし、今の内に受けられるだけ講義を受けておくか。休暇が明けたら、纏まった時間を取るのも難しくなるだろうからな)
親友が聞いたら盛大に顔をしかめそうな勤勉なことを考えながら、ルシエルは明日からの予定を頭の中で確認し始めるのだった。
◇◇◇◇◇
貴族の邸宅には往々にして、大きなガラス窓を持つ温室が存在する。本来のその土地の気候では育たない、温暖な地方の花や果物を育てたり、冬の寒い時期に夫人や令嬢たちが外でお茶会を楽しむのに利用されるのだ。
メルファーレン伯爵邸にも、小ぶりながら温室が存在した。
白い柱に大きな窓。屋根には天窓も設けられ、温室内は珍しい草木や花で溢れていた。花の香りと果実の香りが入り混じった甘い匂いは、だが不快さを感じさせない程度にほのかに漂う。
メイドに紅茶と茶菓子を用意させ、母屋に戻るよう言い付けると、ティタニアは温室を出て周囲を見回して人目のないことを入念に確認し、塀の外にいる本来は招かれざる来訪者をそっと手招いた。
「……今よ、ベアト」
それに応え、ベアトリスは風の補助魔法を使い、ふわりと塀を飛び越えた。ティタニアは目を丸くする。
「ベアト、すごいわね。いつそんな魔法を?」
「色々あったの。――それよりも、本当に構わなくて? わたしがどういう理由で追われているのか、あなたも知らないわけではないのでしょう?」
「それは……そうだけど。でも、せっかくまた会えたのですもの」
ティタニアの返答に、ベアトリスは呆れたように嘆息した。
「本当に……あなたって娘は」
ともかくも、人目に付かないよう急いで温室に入る。ティタニアが人払いをしているため、少なくとも一時間は誰もこの温室には近寄らないだろう。少女たちがしばし旧交を温めるには、充分な時間だった。
瀟洒な椅子に腰を下ろし、二人は無言でカップを傾ける。口火を切ったのはティタニアだった。
「……今、どうしているの?」
ギズレ家はベアトリスを除き、全員が断罪されてこの世を去った。たった一人残された友人の行方も杳として知れず、当時ティタニアは密かに嘆き悲しんだものだ。ところが、その友人がひょっこりと目の前に現れたのだから、その安否を訊きたくなるのは当然のことといえた。
ベアトリスはどう答えたものかと迷ったが、こうして危険を冒してまで自分を招き入れた友人への敬意として、構わない部分だけは包み隠さず述べようと決めた。
「……心配しないで。今は安全なところにいるわ」
「そう。良かった……」
息をつくティタニアに、ベアトリスは苦笑する。ファルレアン国内では反逆罪で追われる身の自分をこうして邸内に招き入れた時点で、ばれればティタニアもただでは済まないことを、彼女は本当に分かっているのだろうか。
だが、彼女のそういうやや呑気な部分に、心が休まるのもまた事実だった。
「わたし、お仕えするべき方と出会えたの。素晴らしい方よ」
「まあ、そんなに素敵な方なの?」
「言っておくけど、殿方ではなくてよ。――ねえ、タニア」
カップをソーサーに置き、ベアトリスは目を細める。それは、かつて彼女が辺境伯令嬢であった頃の、無邪気な表情に似ていた。
「何かしら?」
「あなた、王都に移り住んでいるの?」
「いいえ。社交時期になったから、舞踏会のために出て来ただけよ。実は、もう三日もしたら領地に戻ることになっているの」
「そう……なら、良いわ」
ベアトリスはそっと息をつく。それは、王都に仕掛けた罠の発動に、ティタニアが巻き込まれる可能性は低いと知った安堵の息だ。
「……それはそうと、お父様の領地が今どうなっているか、知っていて?」
その問いに、ティタニアは少し困ったような表情になったが、
「……もう、新しいご領主様が決まって、領地の名前も変わったと聞いているわ。今度のご領主様は、女性の方だそうよ。確か、アークランド辺境伯と仰ったわ」
「アークランド……」
ベアトリスはその名を呟くと、立ち上がった。
「ありがとう。わたし、そろそろ戻らないと……」
「ベアト」
いつになくはっきりと愛称を呼ばれて、ベアトリスは友人を見やる。ティタニアの表情は、どこか悲しげな微笑みだった。
「……タニア?」
「ううん、何でもないの。ただ……」
一瞬言い淀み、そして彼女は言葉を継いだ。
「あなたの戻る国は、もうここではないのね。――新しい居場所を、見つけられたのね」
その言葉に、ベアトリスは虚を突かれたが、小さく頷いた。
「……そうね。ここはもう、わたしの国ではないわ。――わたしからすべてを奪った、敵」
「……え?」
とっさに意味を掴みかねたティタニアの前で、ベアトリスは転移用の水晶を取り出した。もはやここに戻って来ることはないのだから、構うまい。
「タニア。あなたのためにも、今日のことは口外してはだめよ。――それと、領地に戻る日取りは遅らせないで。絶対よ」
「待って、ベアト。それはどういう――」
「さよなら」
ベアトリスの唇が別れの言葉を紡ぐ――次の瞬間光が弾け、ティタニアは思わず顔を庇って目を閉じた。
「ねえベアト、待って……!」
やがて光が消え、ティタニアが再び目を開いた時――ベアトリスの姿は忽然と消えていた。
「……え? ベアト……?」
まるで幻のように消え失せてしまった友人に、ティタニアは呆然と呟く。
テーブルの上の二客のカップだけが、彼女の残したよすがだった。




