皇弟は茶トラを射程距離に入れる
「ケイン……?」
思いがけない名にシアは瞠目した。
「ええ、勿論知っております。ではケインが卿にわたくしの事を頼んだという事ですの?」
「いえ」
カルセウス家の名を伏せたいと頼まれていたブロウ卿は即座に否定した。
「私が預かったのは、ケインという方からの伝言です。〝お土産をありがとう。友人がとても喜んでいた” と。これで意味は通じるでしょうか」
シアは乾パンを分けてくれないかと頼んできたレイを思い出し、「ええ」とふわりと嬉しそうに頷いた。
シアが考案した乾パンを食べ、『ちゃんと人間の食べ物になっている』と訳の分からない感想を言ってきたレイ。
そのくせその乾パンが気に入ったみたいで、他にあったらもらって帰りたいとシアに言ってきた。
レイの事を思い出すと、シアは何だか落ち着かなくなる。
くすぐったいような眩しいような笑い出したいような、そんな気持があちこちで弾けてきて、居ても立ってもいられなくなるのだ。
まるで心の中に別の自分が住んでいて、勝手に心の中を走り回っている感じだ。
我知らず笑みを零すシアを見て、父親のラヴィエ卿が不思議そうに尋ねてきた。
「シア。ケインと言うのは一体……?」
「お父様。五、六年前、わたくしが皇都のサロンに行ったと話したのを覚えておられますか?」
「サロン……? ああ、そう言えば、偶然知り合った男の子たちに連れて行ってもらったと言っていたね」
「つい先日、皇都の窮児院を訪れた時に、そのお二人と偶然再会したんです。
二人ともわたくしの事を覚えていらして、それで窮児院の面談室でしばらく三人でお話ししましたの。
そのうちの一人がケインですわ」
ああ、そういう経緯で知り合っていたのかと、ブロウ卿はようやく納得した。
何故カルセウス卿がセルシオ地方の下級貴族の令嬢を知っていたのだろうと、ブロウ卿はずっと不思議に思っていたのだ。
「もう一人の青年がレイと言って、その方に乾パンを差し上げたんです。喜んで下さったなら良かった」
「レイ……?」
一方のブロウ卿はその名を聞き咎めた。
ケイン・カルセウスが皇弟殿下の御親友であるというのは周知の事実だが、確かセルティス皇弟殿下のセカンドネームは、レイと言われるのではなかったか。
まさかな……とブロウ卿は、すぐに自分の考えを否定した。
カルセウス卿はともかく、皇弟殿下が窮児院を訪れたとしたら大騒ぎになっている筈だ。きっと別のご友人と行かれたのだろう。
「因みにそのレイと言うのはどちらの方なのかな?」
それでも一応、そう尋ねてみれば、
「わたくしはお二人の家名を知らないのです」
申し訳なさそうにシアは答えた。
「……ご家族については何かご存じか?」
シアはちょっと答えを躊躇ったが、相手が恩のあるブロウ卿であれば、答えないのは失礼だと思い直したらしい。
「あの……、余りいいお話ではないかもしれませんけれど、ご正室様の子どもではないと伺っています。
お母様がとても美しいお方で、その……愛人にされてしまったらしくて」
……皇弟殿下のお母君はパレシス帝に見初められて側妃になられた方だったな。
何だか嫌な汗がまたじんわりと滲んできたブロウ卿だった。
「では、母親の違うご兄弟がおられるとか?」
ブロウ卿の問いに、「おっしゃるとおりですわ」とシアは微笑みながら頷いた。
「お兄様が一人とお姉様が三人、それに弟妹がお一人ずついると聞いています。ああ、他にも父親の違うお姉様がいらっしゃるともお聞きしましたわ」
「随分、兄弟が多いんだね」
横に座るラヴィエ卿は苦笑していたが、その返事を聞いたブロウ卿の体からはぶわあっと汗が噴き出した。
お噂に聞く皇帝一家の家族構成に見事に当てはまっている……! そして父親の違うお姉様というのは、おそらく現皇后ヴィアトリス陛下で間違いない。
「で、そのレイ君に乾パンを差し上げたと」
何も知らないラヴィエ卿が能天気に娘に問いかけ、君呼びするなぁ! とブロウ卿は思わず心の中で突っ込んだ。
それに乾パンって何? あのクソまずい乾パンを(凡そ三十年前、騎士学校に在籍していたブロウ卿は騎士団の行軍食である乾パンの味を覚えていた)まさか皇弟殿下に食べさせたとでもいうのだろうか。
「ええ。窮児院の司祭様がお茶うけに出して下さって、レイはすっかり気に入ったようなんです。
もらって帰りたいと言われたので、侍女に持たせていた乾パンをお渡ししましたわ」
「侍女に持たせていたものって、あの失敗作の事かい?」
ちょっと困惑したようにラヴィエ卿が尋ねた。
「端が欠けていたり、焼け焦げたりして、売り物にならなかったやつだろう?」
「ええ。わたくしもそう言ったのですけど、レイは兄とかに食べさせるだけだから構わないって」
その人、多分皇帝陛下です……と、ブロウ卿は力なく心の中で呟いた。
もう、何をどう考えていいかわからない。わからないが、さっきから頻繁に出てくる『乾パン』とは何なのか、ブロウ卿は非常に気になった。
「ラヴィエ卿。その乾パンというのは、軍の行軍食でもあるあの乾パンの事で間違いはないのかね」
そう聞いてみれば、ラヴィエ卿は「その乾パンです」と嬉しそうに向き直ってきた。
「今までの乾パンは実用重視で余りに質が悪かったので、おやつ代わりにもなるような食べやすい乾パンを我が領で開発したんです。
数年前からマルセイ騎士団に卸しているのですが、どうやらその事が皇家の上の方々の耳に入ったみたいで、三大騎士団の軍食にもラヴィエの乾パンを使いたいと先日お話を頂きました。
味の事を褒めていただいたとお聞きしていますから、おそらくマルセイに卸していた乾パンを口にされたのでしょう」
……いや、多分売り物にならないクズ乾パンの方をお召し上がりになった筈だと、ブロウ卿は心に呟いた。
何か、大した話をしていないのに、ゴリゴリと心が削られた気がする。
とにかくこのラヴィエ家のご令嬢が、皇弟殿下とそのご親友のカルセウス卿から大切に思われている事だけはよくわかった。
ラヴィエ家の寄り親になってやって欲しいといきなり頼まれた時は驚いたが、要はこのオルテンシア嬢が貴族としての面子を保てるよう、力を貸してやって欲しいという事なのだろう。
取り敢えず、違約金の取り立てを頑張ってみるかなとブロウ卿は心に呟いた。
地に落ちたオルテンシア嬢の名誉をどう回復していくかについては、またカルセウス卿と相談させてもらえばいいだろう。
「そのラヴィエの乾パンとやらを、私も一度味わってみたいものですな」
ブロウ卿がそう言えば、
「では、次の機会にぜひこちらにお持ちしましょう」
とラヴィエ卿は破顔した。
「実はこのオルテンシアが開発した乾パンでしてな。ほどよい硬さで風味もあり、手軽な携帯食としても重宝すると思います」
という事で、ラヴィエ家の寄り親の件はすんなりと解決し、しばらくは様子見だなとのんびり構えていたケインである。
そのケインのところに、セルティスがまたやってきた。
「シアに会いたい」
開口一番そう言われ、ケインはちょっと無言になった。
セルシオ地方に住む下級貴族の娘と皇宮に住まわれる皇弟殿下、そこに接点は微塵もない。
「えっと、陰ながらシア嬢を守ってやって、それで満足だと思ってたんですけど」
「陰ながらだけじゃ、忘れられてしまうじゃないか。シアと会いたい。何とかしてくれ」
「……つまり、皇宮に呼び出したいって事ですか?」
「まさか。いきなり皇宮に呼び出したら、シアが怯えるだろ?
それに皇宮だと、どうしても人目がある。そうじゃなくて、どこかでこっそり会いたいんだ」
「こっそり、ですか」
また難しい事を……とケインはため息をついた。
成人皇族として様々な公の場に顔を出すようになったセルティスは、貴族社会に大きく顔が知られている。
この前、マイラ皇女を連れて三人でサロンに出かけた時も、それはもう注目を集めまくった。
流石に、プライベートを楽しまれている皇族一家に話し掛けてくるような無粋な輩はいなかったが、翌日にはサロンでの話が宮廷中を駆け巡っていた。
「この前みたいにシアが窮児院に来てくれたら人目を引かずに会えるとは思いますけど、婚約解消されたばかりの今の時期に、皇都に遊びに来る事をお父君が許すとは思えません。
私か貴方の名前を出して呼び出しますか?」
「駄目だ。それじゃあ、偶然にならない」
「は? 偶然?」
「この前みたいに思いがけない場所で再会して、どうしてこんなところに? みたいな感じがいいんだ。
不自然じゃない理由でシアにどこかに来てもらって、周囲の人間に私が皇弟だと気付かれない形で、二人きりで話がしたい」
無茶苦茶を言う皇弟殿下である。
そんなの無理だろ? とケインは即座に結論付けたが、ふと、要はセルティスの顔が周囲にわからなければ済む話かと思いついた。
顔がバレないためには何が必要か。……仮面とカツラである。
そして仮面を被っていても不自然に思われない場所と言えば、仮面舞踏会の会場だ。
ふむ、とケインは腕を組んだ。
となると、再会の場所は、毎週末にトリノ座で開かれる仮面舞踏会で決まりだろう。
トリノ座は男女がしけこむような休憩室を設けておらず、庭園に面したバルコニーが休憩スペースになっている。
未婚の女性が名前を落とさずに遊べる場として貴族の間に定着しているから、シアが行っても問題はない筈だ。
「じゃあ、トリノ座の仮面舞踏会にシアを招待しましょうか」
ケインの提案に、セルティスが弾かれたように顔を上げた。
「仮面舞踏会か。それはいい!」
予めこちらで用意した仮面をシアに贈っておけば、人ごみの中からでも比較的容易くシアを見つける事ができるだろう。
別の人間から招待状を渡してもらえれば、偶然という形でセルティスはシアに声をかける事ができる。
「ケイン、お前って天才だな!」
セルティスは満面の笑みでケインの肩をバンバン叩き、その後不意に真顔になり、「で、どうやってシアを舞踏会に誘うんだ?」と聞いてきた。
ケインはちょっと考えた。
確実にシアの手元に招待状を届け、かつ必ず出席するように仕向けなければならない。ならば思い当たる人間は一人いる。
「それはこちらで何とかします。それよりもちょっと確認しておきたいのですが」
ケインは真顔でセルティスを見た。
「ご存じだと思いますが、シア嬢はすでに十九で、しかも心無い婚約者に途方もない恥をかかされたばかりです。
本気で守る気があるのならお止めしませんが、気軽な気持ちで手を出すおつもりならば、私はこの計画から手を引きます。
殿下は一体どのような心積もりでいらっしゃるのですか」
ケインはセルティスが望む事であればできるだけ叶えたいと思っている。けれど、心が弱っている女性をこれ以上傷つける行為をすると言うのであれば、話は別だった。
ケインが何を聞きたいかがわかったのだろう。セルティスは笑みを消し、真剣な顔で友の顔を真っ直ぐに見た。
「私はシアを守りたい。初めて欲しいと思った女性で、できれば一生傍にいてくれたらと思う。
ただ、シアの心を無視して、無理やり自分に繋ぎ止めたい訳ではないんだ。
皇弟として望めばシアは逆らえなくなる。だから、ただのレイとして会ってみたい。もし次の再会でシアの心が手に入れられなかったら、シアの事はきっぱり諦める事にする」
という事で、セルティスの気持ちを確認したケインが翌日に向かったのは、皇后陛下のところだった。
どうやらセルティスはシア嬢を妻に迎えたいようだが、あれほどに家格も低く、しかも適齢期を超えた女性を皇弟妃に迎え入れるのは、どう考えても無理があった。
セルティスが失恋するならそれはそれで仕方ないが、恋が成就した時のために、相応の根回しはしておくべきだろう。
で、早速ご注進に及んだケインは、皇后からお褒めの言葉を与る事となった。
何と言っても、弟の事が可愛くて堪らないヴィアである。
姉上至上主義が高じて、一向に他の女性に目を向けようとしないセルティスを心配していたヴィアは、セルティスが恋をしたようだと報告を受け、諸手を挙げて喜んだ。
今までの経緯を順を追ってきちんと伝えた後、徐にケインがヴィアに差し出したのはシア嬢に関する分厚い報告書だった。
婚約の状況について調べてくれとセルティスに頼まれてから、シアの親族、友人関係、家系から生い立ち、家の経済状況に至るまで、ケインは事細やかにシアの周辺を調べ上げた。
何と言っても、セルティスが初めて心を動かされた女性である。あらゆる事態を想定して動いておかなければならなかった。
報告書を受け取ったヴィアは、中を開かぬまま暫くその分厚い束にじっと目を落とし、最後に目を上げてケインを真っ直ぐに見た。
「ケイン。貴方の目から見て、オルテンシア・ベル・ラヴィエはどのような女性ですか」
友としての、そして側近としての忌憚ない意見を求められているのだと知り、ケインは覚悟を決めるように大きく一つ息を吐いた。
「低いのは家格だけだと思います。人柄やマナー、貴族女性としての知識は申し分なく、困難においても前向きに物事に立ち向かおうとする気概を感じさせる女性です。
歴代の皇族妃と比べてもその資質に何ら遜色はないと私は思います」




