第八話 現実
私達はパソコンの画面の前で愕然とした。インターネットに接続しトップページの最新ニュース一覧に並ぶのは衝撃的な見出しの数々。
「都内各地で大規模な暴動発生――死傷者多数。人が人を食べる……首都圏全域、日本国内各地で同現象確認……アメリカ、中国、ヨーロッパなど世界各地で……」
「う、嘘……世界中で同じことが起きてるっていうの?」
佐伯くんが読み上げる記事には、にわかには信じがたい事実がこれでもかという程書かれていた。――世界中で同じような悲劇が。日本全国どころかこの大学内のみでの事件だと思っていたのに。いや、このとんでもない異常事態にどこかそんな予測はしていた。受け入れたくないあまりに自分を誤魔化していたのだ。だがいざ目の前に真実として突き付けられると衝撃が大きすぎて思考が追い付かない。
私がそうしている間にもネット上の記事を読みふけっていた佐伯くんの動作が止まった。そして彼の目が私をまっすぐとらえる。
「伊東さん、……そういえばその腕はどうしたんだ?」
「え? ……あぁ、これはね、襲われてた男子学生の血が……」
あの時の光景が脳内で再生される。痛みで顔をくしゃくしゃにした男子学生。近くにいたのに助けられなかった。教授もだ。いつも睡眠時間に充てていた授業だったが、私はあの年老いた教授が好きだった。エレベーターで一緒になると「今日は暑いね」とか、こんな私にいつも話しかけてくれたのだ。
「……わかった、ありがとう。こうして無事でいるんだから無用な心配だったな」
私はよほど悲痛な顔をしていたのだろう。彼は申し訳なさそうにすると話を続けた。それにしてもなぜ彼は今突然そのことを聞いてきたのだろう。不思議に思っていると察してくれたようで彼が続けた。
「あの化け物に噛まれるなどして、唾液などやつらの体液に含まれる何らかが体内に入り脳に達すると、噛まれた人間もやつらと同じようになるそうだ。……一度死んでからな」
「死んで……生き返る?」
とても冗談を言っている風ではない佐伯くんの言葉に耳を疑った。そんな馬鹿な。それじゃああの化け物たちはまるで……。
「やつらは映画にちなんでゾンビと呼ばれているようだ。もっとも人間としての心が死ぬだけで、単純な思考をするのに必要な脳の一部と身体は死なない。むしろリミッターが外れて筋力は格段に強くなる。あと脳がほとんど機能してないから動きも緩慢。何故死人のような肌をしているのかは不明だそうだが」
……ゾンビ! 本当に現実に現れるなんて誰が想像しただろう。ゾンビが人を襲って内臓を引きずり出しぐちゃぐちゃにする映画だって、心の底では存在しないとわかっていたから楽しめた。いつかテレビで放映されていたのを見たときは、まだ小さかった誠はすっかり怯えていたが。
ゾンビの生態について頷きながら聞きながらも心は上の空だ。何か大事なことを忘れている気がして。
ふと思った。……日本中で、起きている? 誠。お母さんは無事なのだろうか? 急激に血の気が引いていくのを感じた。
私は上着のポケットから携帯電話を取り出した。弟が修学旅行のお土産で買ってくれた、鹿の全身をかたどった妙にリアルな木彫りのキーホルダーがついた携帯。震える手で着信履歴から家の番号を探し出す。――発信。
……トゥルルルル……トゥルルルル
耳に膜を張ったようにコール音がこもって聞こえる。早く、早く。コール音がいつまでも続くように感じたその時、プツッという音とともに聞こえる音がクリアになった。
『ただいま回線が非常に込み合っております。暫く経ってからおかけ直しください』
冷たい無機質な女の人の声。相手が家族の時だけに聞かせる母親の面倒くさそうだけれども温か味のある声とはかけ離れすぎていた。電話は、つながらない。次にどうするべきかはもう考えるまでもなく決まっていた。
「私、帰らなきゃ……」
居ても立ってもいられなかった。化け物たちが、ゾンビが二人を襲うところを想像するだけで心臓が爆発しそうだ。ドアノブに手をかける私を佐伯くんが引き止める。
「気持ちはわかる。でも今は動くべきじゃない」
「だって! こうしてる間も弟が、お母さんが襲われてるかもしれないのに!」
手を押し退けて無理矢理出ていこうとする私の肩を彼が強く掴み、正面に向き合わされる。
「痛っ……」
「冷静になれ。もうじきに夜になる。まっ暗闇の中家族の元に向かったって無駄だ。一時間もしないうちにやつらの餌食だろう。それに……自分一人で行ったところで何ができる? 今家族のためにできることは、安全な場所で生き延びていることを祈るだけじゃないのか?」
頭をガンと強く打ちつけられたようだった。彼の言うことはわかっている。わかってるけど。無力感に苛まれ涙が込み上げる。と、私の両肩を掴む彼の手が震えているのに気付いた。
「……すまない」
佐伯くんがそっと手を離した。その顔にはなにか悪いことをしてしまった後のような苦々しさが浮かんでいた。
「とにかく、夜は危険だ。家族のもとへ行くにしても、今は出来る限り情報を集めて明日の朝から行動しよう」
落ち着きはあるが何かをこらえているかのような声で彼が言う。佐伯くんだって家族がいるのだ――一刻も早く帰りたいはずだ。しかし彼は理性を失わず、安全かつ少しでも確実な方法をとろうとしている。それなのに私は……
「ごめっ……ごめんなさい。また私、何も考えずに感情に任せて……」
「…………」
佐伯くんは何も言わず、私の頭にぽんとその大きな手を置いた。優しさが心に染みて、自然と頬を涙が伝う。それからしばらくの間私も佐伯くんも何も喋ることなく、ゆっくりと時間だけ過ぎた。
どのくらい時間が経ったのだろう。壁に背を預け何も考えずにぼんやりしていると、彼が話を切り出した。
「伊東さんは、どこに住んでいるんだ?」
「……西東京市だよ」
「そうか、結構遠いな……」
ここではっとした。家まで家族に会いに行くのは難しい。公共の交通機関が機能している可能性は限りなく低いからだ。途中で自転車を拾ったり他に移動手段が見つからない限り、家まで歩いて向かわなければならない。それも一人で。目的地が一緒ならば佐伯くんと一緒に行動できるかもしれないが、そんな都合のいい展開は期待できない。死の危険が蔓延している今、他人につきあう余裕など誰にもないのだ。
家族の無事を一刻も早く確認したい。電話で連絡がとれなければ直接家に行きたい。しかし、一人で行く自信はない。せっかく得た心強い存在、佐伯くんと離れたくもない。
佐伯くんはこれからどうするつもりなのか。聞くのは怖いがおそるおそる口を開いた。
「……あのっ」
「しっ、静かに」
驚いて口をつぐむ。何事かと耳を澄ますと、扉の向こうから廊下を歩く足音がかすかに聞こえてくる。
「……! ゾンビ?」
「いや、違うと思う。やつらはあんな俊敏な動きはできそうにない。……まぁどちらにしても見逃すわけにはいかないな」
佐伯くんは竹刀を手に取り扉に向かう。私も心配になり着いていくことにした。
万が一ゾンビだった時のことを考え、音を立てないよう慎重に扉を開く。そっと廊下に出ると、大きめのスポーツバッグを担いで出口へ向かう男子学生の姿が目に入った。
「待て!」
佐伯くんが彼を呼び止める。リズミカルに歩いていた男子学生はピタッと動きを止め、ゆっくりと振り返った。逆立った色素の薄い金髪に――いや銀髪というのだろうか――日に焼けた褐色の肌。シャツは胸元を大きくはだけ、シルバーのアクセサリーが鈍く光っている。大抵日本人がすると無理のある格好だが、彫りの深い顔立ちのこの男にはよく似合っていた。
――生存者だ。全身にぴんと張りつめていた緊張が抜け、安堵感を覚えた。生きているというだけで見ず知らずの人の存在がこれほどまでに大きく感じるだなんて。
「ん? 誰だあんたら」
訝しげな顔をして彼が尋ねる。ギョロリとつり上がった目はどこか危なっかしい光をたたえ、まるで獲物を狙う猛獣のようだ。
「俺は佐伯義嵩、こっちは伊東皐月さん。見ての通りここの学生だ。君も学生のようだが、ずっとここにいたのか?」
「……ああ。いたぜ、ずっと。地下の施設で日課のトレーニングしてたんだが、まぁ人気ないしな、ここ。他に利用者がいたのは予想外だったか?」
いまだ警戒を緩めない佐伯くんに、彼は肩を竦めてニヤリと笑うと言葉を続けた。
「おっと、自分は名乗ってなかったな。俺は須藤……須藤英雄だ。一応よろしく言っておこう。……で、佐伯さんだっけ? あんたらはこんな人気のないオンボロ施設で何してたんだ?」
意地悪そうな笑みを浮かべ軽い調子でペラペラ話すこの須藤と名乗る男子学生は、どうやら外の様子を何も知らないようだ。地下にいたそうだから音が聞こえないのも不思議ではない。
「……悪いがまずは一通りこちらの質問に答えてもらいたい。ここには今君の他に人はいないのか?」
「おいおい、こっちの質問は無視かよ。……まあいいけどよ。安心しろ、あんたら以外に見てないぜ。おまけに変な音も声も聞こえちゃいねぇよ。この部屋の防音設備にはこれからも頼っていいんじゃねぇか?」
この人は私達を見て何か勘違いをしているようだ――彼の意地の悪い物言いに頬がカーっと熱くなるのを感じた。何か反論しなくちゃと佐伯くんの様子を伺うと、半ば呆れたように眉間に皺を寄せている。
「君は本当に何も知らないようだな」
「……あ? 何を知らねぇって? あんたらがここで逢引きしてたことぐらいは見りゃわかるが」
本当に今外で何が起きているかわかっていないらしい。須藤くんは片眉を上げ、何が言いたいんだ? と言いたげな顔をしている。
「来てくれ。今何が起きているか教えるから」
「ったく何なんだよ。俺これからバイトだからお暇するぜ、じゃあな」
須藤くんは面倒くさそうなやつらにつかまっちまったと言わんばかりにくるりと背を向けた。
「だめだよ! 本当に危ないんだから!」
そのまま歩き出そうとする彼に、私は咄嗟に声を張り上げていた。黙りこくっていた女の方がいきなり大きな声を出したのに驚いたらしい、振り返ったその顔は大きく目を見開いていた。
「あぁっ? 一体なんなんだ……あんたら本当意味わかんねぇよ」
「見ず知らずの俺たちにこう付きまとわれて迷惑だと思うが、少し話を聞いてほしい。君自身に関わることだ」
「はぁ……じゃあ一分だけだぜ」
お手上げだ、と両手を力なく投げ出す。何も知らない須藤くんからはまだ私たちがいた日常が感じられた。……それももうすぐ失われることになるのだろうけれども。私達は怪訝な視線を向ける彼をとりあえずさっきの部屋に連れて行くことにした。




