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カーラの家出 「狼少女と老婆のお茶会」 後編

 半ば強引に決まった宿泊だったので、着替えも何も用意しているはずがない。


「これを使いな。古いやつだから、見てくれはよくないけどね」


 食事の後にカーラが渡されたのはリリアーヌのお古の衣服で、長く箪笥の奥に眠っていた匂いが染み付いていたが、まだ十分に実用に耐えられる裁縫のしっかりしたものだった。


「使えそうなら持って帰ればいい。虫が食ってるかもしれないけど、端切れくらいにはなるだろうよ」

「でも、これ。リリアーヌが大切にしてたものじゃないの?」


 よほど手入れがしっかりとされていたと見えて、裏にひっくり返しても傷んでいる形跡がない。この衣装に対する思い入れが窺えたからこそのカーラの疑問に、リリアーヌは笑って、


「別にそんなんじゃないさ。孫でもできたときのお下がりにってとっといて、そのまますっかり忘れちまってただけだよ」


 そう言われて、カーラは反応に迷ってしまう。


 町に一人で住む老婆の家族事情について彼女は知らなかった。

 深く立ち入って聞いてしまってもいいのか悩む表情を見て、それを察したリリアーヌが肩をすくめる。


「孫どころか、子どもだってもう残ってやしないからね。気にしないでいいんだよ」


 気にするなと言われてどんな答えを返せばいいのかわからず、


「ありがとう」


 カーラはただ頭をさげた。

 不器用な反応に、老婆が微笑ましそうに顔を崩す。


「さて。悪いけど年寄りは床に入るのが早くてね。久しぶりに酒なんて飲んじまったから、もう眠くてしょうがないんだ」

「おやすみなさい。毛布だけ貸してもらえる?」


 どこかそのあたりで丸まって休もうと考えていたカーラに、リリアーヌは顔を皺くちゃにして、


「なにいってんだい。お客を床なんかで寝させるわけがないだろう」

「え、でも」


 カーラが見渡した室内には、一人用のベッド以外に身体を横たえられそうな長椅子も見当たらなかった。


「一緒に寝ればいいじゃないか。別にひどい寝相ってわけじゃあないだろう」

「……多分」


 自分の寝相なんて知りようがない。

 知るためには一緒に眠ってくれる相手の存在が必要で、その相手はカーラにとって一人しか思い浮かばず、もしかすると自分は狂暴化以外でも迷惑をかけていたかもしれないという可能性にそこで思い至って顔を赤らめた。


 そのカーラの表情の変化が意味するものを手に取るような達観さで、リリアーヌは眠たげなあくびを打った。


「気になるんなら、明日どんなだったか教えてあげるさ。さ、寝よう」


 反論する言葉を持たず、カーラは老婆のあとについていった。

 生活部屋の窓際に置かれたベッドは、確かに二人が並んでも不足ないほど横幅に余裕がある。さっさと寝台に入り込んだリリアーヌに続こうとしたカーラの動きが止まった。


 こんなふうに他の誰かと眠ることはカーラにはほとんど経験がない。

 覚えているのは彼女が故郷で過ごしていた頃。


 カーラの家は貧しく、子どもの数だけが多かった。

 もちろん、ベッドなどという代物が一人一人にあるはずもなく、子どもたちは毛布に丸まって床に眠った。


 家には隙間風が吹き、冬になると毛布一枚ではとても眠れはしない。少しでも暖を求めて、家族全員で寄り添うことになる。

 毛布をとりあい、幼い兄弟がそれで喧嘩をして、働いて疲れている両親にはそれを咎める元気が残っていなかった。


 だから、そんなときに諌めるのは長女のカーラで、左右に兄弟姉妹達を抱いて眠る。――薄い毛布の中で、兄弟達の呼気が温かかった。


 誰かと近くで眠ることは、幸せなことだとカーラは思う。


 それは自分の存在が許されるということだ。

 襲われない。奪われない。

 そう心から信用できる相手とでなければ、安心して眠ることなんて出来やしない。


(だから。マスターとは、そんな風にできてるはずだって思ってた)


 カーラの顔が歪む。

 自分が彼を襲ってしまっていたということがショックだった。


 信じて、敬愛しているはずなのに。


 ――結局、自分は獣と変わらない。


 そして、そのことを相手から知らされていなかったということが、何よりみじめだった。


 きっとそれは自分を思ってくれてのことだろう。


 だけど、哀れまれるのは嫌だった。

 他の誰でもない。あの人からだけは。


「どうしたんだい」


 ベッドに入るのをためらっているカーラに、重たげなまぶたの老婆が問いかけた。


「……やっぱり、ボク。こっちで寝る」


 泣きそうな表情で、狼の血をひく少女は言った。

 それを聞いたリリアーヌはやれやれと深いため息をついて、


「――ほれ」


 老人と思えない軽快な動きで身を起こし、カーラの手をとると、そのままベッドにひきずりこんだ。


「わっ」

「ほーら、あったかい」


 強引に抱きしめる老婆の身体と、ふんわりとしたシーツからは日向の匂い。その匂いが懐かしい記憶を呼び起こして、カーラの涙腺が意図せずに緩んだ。


 食事で少しだけ飲まされた果実酒がいけなかったのかもしれない。きっとそうだ。

 盛り上がった涙はすぐに限界を迎え、頬からあふれて滑り落ちた。


「おやおや、これじゃあたしがいじめてるみたいじゃないか」

「違う、よ。そうじゃなくて」


 懸命に嗚咽をこらえて応えるカーラの頬を撫でて、優しい魔女の顔をした老婆が笑う。


「泣きたいなら泣けばいいさね。老人の耳は遠いから、わめかれたって別にうるさくないよ」

「いやだ。ボク、強くなるん、だから」

「泣き虫のまま強くなりゃあいいのさ」


 あっさりと切り返す。老婆に口で勝つことはできそうになかった。

 優しい言葉をかけられて、さらに込みあがる感情をとうとう抑えきれなくなり、カーラは老婆の身体に顔を埋めた。


「ヤだ。……絶対、泣かないように。強くなる」

「強情だねえ。ほれ、なかに入りな」


 幼子をあやすように導かれ、カーラは布団のなかにもぐりこんだ。

 一時の感情は少しだけ落ち着き、今度は気恥ずかしさで顔をあげられない。


「……リリアーヌ」

「なんだい」 

「眠らないの?」

「眠るとも。夜泣きしてる子が寝入ってからね」


 子ども扱いだが、実際にそれ以上の年の差が二人にはある。老婆の身体にしがみつくようにしたカーラは老婆の匂いに懐かしいものを感じていた。

 それは大昔に亡くなった祖母の匂いであり、近しく祖母のもとにいった祖父の匂いであり。父や母、兄弟達の香りだった。


「――おばあちゃん」


 過去の記憶が誘った呟きに、ぎょっとしたようにリリアーヌが少女を見る。

 その頬が微妙に緩んだまま固まっていて、それが照れているのだと少ししてからカーラは気づいた。


「なんだい、いきなり」

「ごめんなさい。なんとなく、懐かしくって」

「こんなに大きな孫がいたなんて知らなかったよ」


 鼻を鳴らしながら、決して嫌な風ではなかったから、カーラはついくすりと笑って、


「今晩だけ、そう呼んでいい?」

「好きにしな」


 そっけない返事。

 カーラはありがとう、と呟いて、少し枯れた匂いのする老婆に寄り添った。


「ね。おばあちゃん」

「なんだいもう。くすぐったいねえ」

「子守唄、聞きたい」

「……わがままな孫を持っちまったもんだ。しょうがないね。どんな話がいいんだい」


 遠い昔、実際の祖母にそうしたように、カーラは甘えた声で言った。 


「おばあちゃんの若い頃のこと」 

「やれやれ――」


 息をつき、ゆっくりと御伽話を諳んじるように老婆は語りだす。

 それから紡がれたものは大陸を股にかけて冒険に、恋に生きた一人の女盗賊の話だった。


 ◇


 翌朝。


 まだ夜明けの来ない時間、いつものようにリリアーヌは目を覚ました。

 普段と違うのは片側に重みがあったことで、顔を向けると赤子のように丸まって少女が眠っている。


 すうすうと眠る穏やかな寝顔をしばらくの間見つめてから、皺のたるんだ口元が笑う。

 昨夜、祖母呼ばわりをされたことを思い出したのだった。


 嫌な気分ではなかった。

 彼女には孫がいないから、そういう呼ばれ方をするのは実は初めてのことだった。――婆呼ばわりする不届きな客ならいるが。


 まあ、悪くはないねと思いながら、関節のきしむ身体をだましだまし身を起こす。

 彼女は既に町でも最高齢に近い。若い頃の俊敏さどころか、もはや満足に走ることすら叶わない。


 別に老いは忌々しいものではなかった。

 生まれ落ちた瞬間から人は老いるのだ。


 若い頃には相当な無茶もやってきたリリアーヌは、だからこそ今の不自由を楽しんでいる。

 すぐに不満を訴える筋肉も、少し冷え込むだけで軋みだす骨も。それらを誤魔化しながら付き合っていくのもまた面白いものだ。


 それでも確かに、最近は面倒なことが多くなってきてはいた。

 重いものを持つのに苦労するし、ふとした物事を思い出せないこともある。自分の人生に終わりが近いことを彼女は自覚していて、その終焉をぎりぎりまで楽しむつもりだった。


(生きてりゃ、面白いことだってあるからね)


 早世した夫、幼くして病死してしまった息子。ついぞ持ちえなかった孫を、一晩限りとはいえ持つことだってできるのだから。


 まだ起きる気配のない少女を残し、部屋を出る。

 何十年と過ごしてきた室内は、灯りをつけずとも暗いまま進むことが難しくなかった。


 水桶をとり、まだ昨日の汲み置きが半ば残ったそれを持ち上げて、新しく組みかえてこようと店の外に出て。

 すぐそこに、なにか黒いものがうずくまっていた。


「……あ、」


 人の気配に顔を持ち上げた、その黒い物体が何ごとかを言う前に老婆は桶のなかに残った水をそれに向かってぶちまけた。


「なにしやがる!」


 貧相な衣服に身を包んだ男が声を荒げる。


「おや、人間だったのかい」

「絶対! 気づいてたろ! 俺だって確認してからやっただろうがっ!」

「うるさいねえ。まだ早朝なんだから静かにおしよ」


 ぐ、と押し黙ったのは、町の外に住む件の男マギだった。

 まだ若い、さえない顔つきの男を見て、それから昨夜のカーラを思い出して、リリアーヌはぎらりと鋭い眼差しで眼前の男を射抜いた。


 男はたったそれだけでびくりと身をすくませる。

 まったく胆力がない、その情けない態度を無性に忌々しく思いながら、


「ほれ」


 空になった桶を突きつけた。


「……なんだよ」

「あんたにぶっかけたせいで、空になっちまったじゃないか。井戸から汲んできておくれ」

「なんで水をかけられた俺がそんなことせにゃならんのだ!」


 しごく真っ当な意見に、リリアーヌは表情をぴくりともせずに聞き流して、


「いいからさっさといきなってんだよ。女一人泣かせたんだ、そのくらいの罰があたって当然だろう」


 暗にカーラの存在を認めた発言に、その意図に気づいた男がほっと表情をやわらげた。


「カーラ、来たんだな。昨日はここに泊まってたのか?」


 リリアーヌは答えず黙って睨みつけて、またびくりとした男が不満たらたらといった感じに井戸に向かっていく。

 八つ当たりに石ころを蹴飛ばし、飛ばされた石が何かにぶつかって大きな音を立てた。ぎょっとして、誰かに咎められないよう小走りで逃げ去っていく後ろ姿がなんとも情けない。


「……あんな男のどこがいいんだかね」


 リリアーヌは呻いた。

 例えどれほど長く生きても真理に及ばないものもあり、男と女の、特に他人のそれなどはまさにそういった類で違いなかった。



 町の中央にある共同井戸から男が戻ってくる。

 汲んだ水の重さによろけながら歩いてくる様子は頼りなく、


「なんだい。へっぴり腰だねぇ」

「三回も。往復させて、言うことか……!」


 老婆の呆れ声に、男は怨嗟の表情で唸りをあげた。


「あたしゃ、毎日それをやってんだよ。こんな婆に力仕事で負けて悔しくないのかい」

「うるさい。これでも最近、身体を鍛えてんだよ……っ」

「どうせ三日も続かないんだろ」

「ふはははは。昨日で既に連続四日目だ、この愚か婆め!」

「威張れるような日数かい」

「うっせ。……あー、疲れた」


 ふらふらと桶を運び終えた男がその場に倒れこむ。

 重い水桶を持っての往復は、単純だが重労働である。加えて男は元からかなりの疲労が溜まっていたようで、店の前でうずくまっていたのを見た限り、昨晩はろくに眠ってもいないようだった。


 その時間、眠らずに男が何をしていたか。

 それを思えば老婆の腹立たしい気持ちも少しは収まるというもので、


「なにやってんだい。さっさと中に入りな。そんなところでいつまでも寝っ転がってたら風邪をひくよ」


 言いながら、リリアーヌはぎりぎりまで水の張った桶を軽々と持ち上げた。


「人をびしょ濡れにしたヤツの台詞じゃねえぞ……」


 ぐったりと疲れきった声で男が立ち上がる。


 残り少ない体力を使い果たして亡者のような男を店の中にいれ、老婆は奥に戻って着替えを取ってきた。

 途中でベッドの様子を伺うと、しっかりとした寝息が聞こえてきていた。


「ほれ」


 店に戻り、タオルと一緒に濡れ鼠に向かって投げつける。


「床が濡れちまうから、はやく着替えな」

「だから。あんたがやったんだってーの」


 文句を言いながら、のろのろと着替えた男の格好を見て一瞬、リリアーヌが過去を幻視した気分を味わったのは、その衣装が老婆の亡くなった夫の身につけていたものだったからだ。


「ちょっとでかいな。うわ、虫喰ってるぞ」

「あんたがひょろいんだよ。何十年も前のなんだ、文句言うんじゃないよ」

「……旦那さんのか」


 色々とさえない男だが、決して勘は悪くない。

 神妙な面持ちになりかける相手にリリアーヌはふんと鼻を鳴らして、


「あんたより百倍いい男が着てた服さ。ありがたく思いな」

「へいへい。そうでしょうとも」


 軽口のやりとりで湿っぽい気配を追い出した。


「カーラは?」

「奥で寝てるよ」

「そっか」


 所在を確認できたことにほっと息を吐く。

 男の表情に連絡をとらずに外泊した少女を怒る気配はなかったが、しかしそれだけでは老婆は満足しなかった。


「泣かせたね」


 わざとぞんざいな視線をつくって問うと、男は渋面になる。


「……そうらしい」

「らしい? 他人事みたいに言うじゃないか」

「そんなんじゃないさ。あんたこそ、他人事だろうが」


 口をとがらせる男に、老婆は平然と答える。


「あたしゃ、今だけあの子の祖母やってんだ。孫娘が泣かされたらナイフ持って相手の家に怒鳴りこむくらいの気概はあるつもりだよ」

「おっかねえばあさんだな」


 嫌そうに頭を振って、男ははあっとため息を吐いた。


「そんなつもりはなかったんだよ」

「つもりで泣かせたなら、今ごろあんたは三枚におろされてるところさ」

「だから怖えって」

「なんで泣かせたか。わかってんのかい」

「……実は、よくわかってない」


 そんなことだと思った。老婆は嘆息をして、


「なら。とっとと帰りな。勢いだけで場当たり的に来られても迷惑さ」

「なんで婆さんに命令されなきゃいけないんだよ」

「ここはあたしの店で、今のあたしがあの子の祖母だからだよ。それとも強制的に追い出されたいかい」

「へ。やってみろ――」


 男の口が閉じる前に、リリアーヌは近くのテーブルから短剣をつまみ、投てきした。


 最小動作で投げられた刃が、男の頬をかすめて後ろの壁に突き刺さる。

 さあっと、男の顔から血の気がひいた。


「次はあてるよ」


 冷酷に宣言する。

 間違いなく本気の雰囲気で告げた台詞に、男がごくりと喉を鳴らして、


「……やってみろ、クソ婆」


 震える声で言った。


 へえ、とリリアーヌは口元を歪める。


「いい度胸じゃないか」

「それが、カーラを泣かせたことの仕打ちだってんなら――ナイフの一本や二本、受けてやるよ。そのかわり、投げたらさっさとどけ、邪魔すんな。俺は、カーラに会いに来たんだ」


 両腕で不恰好に、急所だけは守ろうとしながら男が言う。

 ナイフを持ったリリアーヌは、相手に悟られない程度に眉を持ち上げた。


 この男、こんな風に啖呵を切ってくるような性格だっただろうか。


 もっと貧弱で腰砕けの印象だった。今もほとんど腰はひけてしまって、投げナイフにぶるぶると震えてはいるけれども。

 弱々しい態度はそのまま、表情に何かの違いが見て取れるような気がして、


「あんたは、カーラをどうしたいんだい」


 その何かを確かめる目的で、老婆は訊ねた。 


「町で嫌われてる可哀想な女の子を拾って。初心な相手に気まぐれで親切心をちらつかせて、悦に入ってんのかい。それで相手を侍らせて満足してるのかね」


 男は顔中を一杯にしかめさせた。


「なんだそれ。そんな風に見えるのかよ」

「そんな風にしか思えないさ。あんた、カーラの他にも女を囲ってるそうじゃないか」

「はああ?」 


 すっとんきょうな声。


「おや、違うのかい」

「当たり前だろ! いや、待てよ。いやいや、でも――」


 はっと思い当たるように眉をしかめる男に、半眼でナイフを構えてみせて、


「やっぱり一本くらい、腕にでも食らっといたほうがよさそうだね」

「待て待て! やっぱり違う、女を囲うなんてそんな真似、俺にできるわけないだろ!」


 そう言われれば確かに納得するしかない。リリアーヌは振りかぶったナイフを下ろした。

 胸を撫で下ろした男が、鋭いままの老婆の視線に気づいて首を振る。


「……別にどうしたいとか、そんなのはない」

「何も考えなしかい」

「悪意のある解釈しかしねえな。そうじゃなくて」


 がりがりと頭をかいて、


「――一人は嫌だろ」


 呟くように言った。


「誰だって、一人って寂しいだろ。笑ったり、バカやったりする誰かがいたほうが嬉しいじゃないか。だから」

「だから、同情で拾ってやったって?」

「違うって言ってんだろうが。いい加減、あんたもしつこいな」


 苛とした口調で睨みつけて、


「……俺がそうだから。カーラだって同じに思えたんだ。一人ぼっちで、寂しくて。弱くて。俺が勝手にそう思っただけだけどな。そういう弱い奴同士が一緒にいて何か悪いのか?」

「ようするに、似たもの同士で傷の舐めあいかい」

「舐めあって悪いかよ」


 男は堂々と言い放った。


「勘違いするなよ。舐めあってそれだけって言ってるわけじゃない。お互いに弱いなあって笑いあって、それから一緒に狩りにでてやるさ。ずっと巣にひきこもってたいなんて言ってない。弱っちくて、一人じゃないから、出来ることだってあるはずだろ」 


 男の言葉をリリアーヌは黙って聞いた。


「俺とカーラは、似たもの同士だ。……多分」


 その表情を見る。

 嘘を言っている気配ではなかった。誤魔化しているわけでも、言葉を繕っているわけでもない。


 男はあまりに明け透けだった。


 未成熟で、余裕のない言い分。

 とても女を囲み、玩んで利用できる器量ではない。


 ――まるでガキじゃないか。いい年して。


 老婆は呆れ、同時に奇妙な納得もしている。

 少なくとも、カーラがいいように扱われているということはなさそうだと確信した。


 もし仮に、この男の周囲にカーラが言ったように複数の女がいたとしたら――それは男の側に理由があるのではない。女達の方にこそ、その意味も理由も存在するのだろう。


 ならば問題ない。 

 ただ女達にだけ意味や理由があるなら、それがなくなった時に女達は自然と去っていくだけだ。


 カーラとてその例外ではない。このさえない風貌の男が、女達を惹きつける意味を持ち続けていれば、話は別だろうが。

 そして、そこまでは老婆の関与するところではなかった。


「ちっちゃい男だね」

「……ほっとけ」


 男は十分に自覚のある表情だった。


 リリアーヌは薄く笑う。

 自覚さえしていれば許されるわけではないことまで、わざわざ教えてやりはしない。


 そんなものはそのときになってわかればいいことだ。彼女が優しくしてやろうと思えるのは女孫に対してだけで、男に対してまでそうしてやるつもりはなかった。


「まあいいよ」

「納得したか?」

「ギリで及第ってとこだね」

「偉そうに……」


 不平顔で睨みつけてくる孫のような年頃の相手に、ひょいと肩をすくめる。


「んじゃ、お帰り願おうか」

「おい。話が違うだろっ」

「あんたも気が利かない男だね」


 リリアーヌは呆れた顔で言った。


「女には色々と準備ってものがあるだろう。それとも、寝起きの顔を見ようってのかい」


 ぐ、と言葉に詰まる男に、


「心配しないでもすぐに顔を見せるはずさ。わかったら町の連中が起きだしてくる前に帰りな。あんたも、面倒ごとにはなりたくないだろ」


 それでもなお渋る相手を無理やりに店の外に追い返して、リリアーヌは息を吐いて奥の部屋に向かった。


 ベッドの上では、カーラが身を起こして老婆を見ている。


「聞こえてたかい」


 わざと半開けにしていた扉を閉め、リリアーヌは言った。


 こくりとカーラが頷く。

 頭に可愛らしい寝癖をつけた少女は少し唇を噛みしめていて、話を盗み聞きのような形で耳にしてしまったことを悔いているようだった。


「ありゃ馬鹿だね。いい年して女の扱いも知らない、ダメ男だよ」

「そんな――」


 即座にカーラが何か言い返そうとするのを押し留めて、


「まあ。悪いやつじゃないかもしれないけどね。カーラ、だからあんたも、あんなのを好きになったんだろ」


 少女の頬がぱっと薄桃色に染まる。

 その初々しい反応に眩しそうに目を細め、


「なら、自分がやらなきゃいけないこともわかるだろうさ」


 リリアーヌは穏やかに告げた。


「あのダメ男は、あんたと一緒にいたいそうだ。一緒に語って、一緒に笑って、一緒に泣いて。ケンカもするし、誤解だってある。元はただの他人さ、どこまでいってもわかりあえるわきゃない。そんなのに人間がどうとか魔物がどうとか関係ないさね。隠し事もされるし、騙されることだってある。それでも一緒にいたいなら。――そりゃもう、それでもぶつかりあって、話すしかない」


 老婆の視線が泳いだ先に、一個の写真立てへと行き着く。

 そこに飾られている若かりし自分達の肖像を見ながら、その頃の面影を残す表情で微笑んだ。


「そんなもんさ。それでも……誰かと一緒にいるっていうのは確かにね、いいもんだよ」

「……うん」


 頷いて、下を向き。勢いよく顔を上げた少女が、


「ボク、いってくるっ」


 リリアーヌはにっこりとした。


「いっといで」


 慌ててベッドから起き、ばたばたと着替えて寝癖をつけたまま駆け出す様子を、やれやれと眺める。


「あのね、」


 部屋から出ていく前にカーラが振り返った。


「また、遊びに来てもいい? ――おばあちゃん」


 自分が呼ばれることがあるとは思ってもいなかった台詞を、去り際に使った少女の優しさを感じ取り、一人きりの家に残される老婆は苦笑交じりに笑った。


「いつでもおいで。今度は、あのバカ男と一緒にね」

「うんっ」


 闊達な少女が駆けていく。


 もはや姿も見えない相手を追いかけて、一瞬でも我慢できないといった軽快な足取りを呆れながら見送って。

 リリアーヌは柄にもないことをした自分を哂うように皺くちゃの顔を歪めた。


 テーブルに置かれた写真立ての中の人物が老婆を見つめている。


「……なにさ。なんか文句でもあるってのかい」


 写真は答えない。

 時を封じられた彼女の夫は、隣に彼女自身を抱えて男臭い笑みを浮かべている。


 その頃を思い出し、いつしかそれを見て過去を思い出すしかしていなかった自分に気づいて、リリアーヌはため息をついた。


「あんたも知らなかっただろ。なんとあたしにね、孫がいたよ」


 そっと手にとり、埃を払って卓に戻す。


「たまにこんなことがあるから、長生きするってのは面白いね。このあたしに孫だってさ。その孫から、男のことで相談されたりなんてしてさ」


 くつくつと笑い、満ち足りた表情で老婆は椅子に深く腰掛けた。


 ひどく満足した気分だった。


 これまでも、決してなにか不満があったわけではない。

 ただ、信じられないほどに充足した若かりし頃の残り火を、今ではひっそりと消化して過ごすような気持ちではいたかもしれない。


 彼女に、容赦なく押し寄せる老いに逆らうつもりはなかった。

 抗うつもりも、嘆くことも。

 もはや自分はいつ死ぬかわからない。それでいい。


 ただ、もしかすれば――孫夫婦のような二人が、店の扉を押してやってくる日がそれに間に合うことがあるのかもしれない。

 そんな日々を想像して、心躍ることが喜ばしい。



 目を閉じた。

 穏やかで静かな気配の室内に、まだわずかに残滓が漂っている。


 可愛らしい孫娘と、情けない孫息子。


 どちらも未熟で、だからこそ可能性に溢れた若い生命がかき乱していった空気の名残を惜しむように。

 老婆はしばらくの間、椅子に座って目を閉じたままその余韻を楽しんでいた。



                                         狼少女と老婆のお茶会 おわり


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