ルクレティアの結婚話 「誇りある令嬢、情けない主人」 前編
辺境の小さな町、というより大きな農村であるメジハ。
その町長宅で、緩く波打った金髪と人並みはずれた美貌を持つルクレティアは、朝早くから自室で仕事にとりかかっていた。
時刻は日がのぼったばかりで、木窓を開けた室内には薄く透明な、寒々とした光が満ちている。
薄暗さを補うため、手元にランタンを置いて机に向かっていた部屋の主の耳に、控えめなノックの音が届いた。
彼女がまだ返事をしないうちに扉が開き、顔を出した使用人が目を丸くする。
「お嬢様。もう起きていらっしゃったので」
「ええ、おはよう。今朝は少し冷えたわね」
「このあたりでは、季節が下るのが早いですから。しばらくは、暖かくなるのと冷え込むのを繰り返すと思いますが……今夜からは、毛布をもう一枚ご用意しておきます」
「そうね……」
会話をしながら視線は机の上から移動せず、白鳥の羽筆を握った手も忙しく動き続けている。
業務に励む主人を見て、女中が心配そうに眉をひそめた。
「お食事はどういたしましょうか。お忙しいようでしたら、こちらにご用意いたしますが」
「いえ、私がいきます。ありがとう」
どれほど忙しかろうと、朝は食卓で家族と顔をあわせて挨拶を交わさなければならない。幼い頃からの躾けを、ルクレティアは欠かすことのない日課にしていた。
少し前、彼女はあるおぞましい生き物に取り憑かれてしまい、食事どころかしばらく部屋から一歩も出られなくなった。
彼女の祖父や家働きの者は、それで随分と心配した様子だった。
一時期はほとんど奇行じみた振る舞いまでとってしまっていた彼女が無理をしているのをみれば、家の者が不安に思うのは当然だろう。
父と母がすでに他界したルクレティアにとって、祖父はほとんど唯一の家族だった。
もう一方、父方の祖父もいまだ存命ではあるが、そちらとの関係は疎遠になっている。だからこそ、貴族の血をひくルクレティアがメジハにやってきた事情がある。
――まったく忌々しい。
彼女が呟いたのは自分自身の境遇への憤りではあったが、それは王都と比べるべくもない辺境の田舎町に身をやつしていることについてではない。
これからの人生を生きていこうと決意した、その町で彼女の評判を落とし、周囲から心配させられてしまう羽目になったことをルクレティアは歯がゆく思っていた。
その思いを抱くのと同時に脳裏に浮かぶのは二人の存在。
近くの洞窟に住む冴えない魔法使いの男と、それに付き従う不定形の生き物。
ルクレティアの胸元には彼らに従属する烙印が押されており、その誓約を差し出したのは他の何者でもなく彼女自身である。
魔物と呼ばれる存在に屈服した事実とその立場。
それらについて、彼女は決して恥じてはいなかったし、悲嘆にくれてもいなかった。負けたのだから。それでどのような辱めを受けようと、当然だと考えていた。
なにより彼女は生きていた。
生きてさえすれば、どんな逆境からでも巻き返すことはできる。
一時、敗れた相手に従属したとしても、ならば内側から篭絡し、支配してしまえばいい。
そうするだけの器量が彼女にはあったし、意志も、自らの能力に対する自負も相応に持ち合わせていた。
しかし、現時点で彼女の目論みは全く上手くいっていない。
いったい何が忌々しいかといえば、つまりそれ。
問題は彼女が辺境にいることでも、そこで魔物の僕などという立場にあることでもない。
問題なのは――彼女を従えたその魔物が、野望に燃えるのでもなければ彼女の色香に惑わされもしない。
平凡どころか並以下の野心と自信しか持たない、器量なしでしかないことだった。
「――ッ」
苛立たしさが筆に出て、字が乱れてしまう。
ルクレティアは小さく舌打ちすると、羽筆をおいて席を立った。
肩掛けを外して部屋を出る。
食卓には既に彼女の祖父が顔を見せていて、彼女を見ると小さく微笑んだ。
「ああ、おはよう。ルクレティア」
「おはようございます。お爺様」
簡単な挨拶をかわした後に、食事が始まる。
朝食の間、祖父と孫娘は特に会話をすることもなく静かだった。
黙々と進み、ルクレティアが食事を終えた頃、好々爺とした面持ちで彼女の祖父が口を開いた。
「仕事のほうはどうだ。なにか困ったことは起こってないか」
「今のところは平気ですわ。竜殺しの騒動はさすがに大事ですが、町の皆さんに助けていただいています」
「まさかこの町であんなことが起こるとはなあ」
「これからもしばらく忙しくなるかと思いますが、ご安心ください。お爺様のお仕事は、私がお手伝いします」
「お前には感謝しているよ。儂ももう年だ。一人では今回のような大きな騒ぎにはとても対処できなかっただろう。ノイエン様も、お前のことをいたく褒めてくださっておったよ」
「ありがたいことですわ」
ルクレティアは内心の感情を表に出さなかった。
彼女の祖父は頷き、
「本当に。苦労をかける……。お前の父と母さえ生きておれば」
声に粘着質の響きが雑じった。
「それもこれも、あの魔物が――」
町長を務める彼女の祖父が、メジハを襲った人狼への恨みつらみをこぼしはじめる。
それを聞くルクレティアは醒めた心地だった。
両親を殺した魔物への憎悪は彼女にもあった。しかし、それを話す祖父には違和感があった。
自分とは感情の向け方が違うのだろう。ルクレティアは思った。
祖父の想いは過去にある。
過去を懐かしむことに没頭する行為は、あるいは祖父の身体を蝕む老いのせいかもしれなかった。
それを蔑もうとは彼女は思わず、哀れみと、焦慮にも似た気分が内心に生まれた。
こうはなりたくない、と感じる。
閉じられた世界で、戻ることのない日々を想い耽る真似は御免だった。
それは決して、老いだけがもたらすものではない。
孫娘のそうした心情に気づくはずもなく、ルクレティアの祖父はふと彼女の方へと意識を戻した。
「ああ、ルクレティア。そういえば、そろそろ考えなければと思うんだが……」
「なにをでしょう。お爺様」
訊ねられた町長は、老いた顔に皺を集めて少しためらうように時間を置いてから、
「お前の結婚についてだよ。ルクレティア」
そう、目の前の孫娘に告げた。
◇
「なんだよ」
「なんでもありません」
冷ややかな声に、ルクレティアの前に座るマギが顔をしかめた。
なにか言いたげに口を開きかけ――結局、なにも言わないで閉じる。相手の態度に、今度はルクレティアが眉をひそめた。
「なんですか」
「なんでもねーよ」
睨みあう二人に険悪な気配が生まれかける。
そこへ、出された茶菓子を口に運んでいたもう一人が、場の空気を読まずにくうっと幸せそうな声をだした。
「いやぁ、これは絶品っすねぇ。なんですかこれ甘いっすよ。甘くて柔らかくてふわふわっす。あれご主人いただかないんすかそうですか、ならあっしがご主人の分まで食べてしんぜましょうそうしましょう」
「んなこと言ってないだろ。勝手に他人のもんを食うな!」
男の皿に伸ばしかけた手を叩かれて、髪も肌も白い少女が唇を尖らせる。
「渋い顔なんかしてるから、いらないのかと思うでしょうよ。そんな顔でこんな美味しいもん食べようだなんて冒涜だと思わないんすか? お菓子様に失礼ですぜ」
「食い意地にわけのわからん理屈をつけるな。甘いものなんて滅多に食えないんだ、これは持って帰る。そんなに美味いんなら、スラ子達にだって食わせてやりたいと思わないのか、お前は」
「ご主人……。ご主人は本当に、わかってないっすねぇ」
哀れむような表情で、やれやれと少女が頭を振った。
「たった一個ばかしを持って帰って、それを全員で食べ分けてご覧なさい。スラ姐にカーラさん、シィさん、ドラ子さん。最低でも四分割っす。ノミさんエリアルさん、リーザさんまで考えれば、さらに細っこくなっちゃうんですよ? そんなもん口にしたところで、満足どころか物足りなさを感じるだけ。それどころか切り分け方が大きいだの小さいだのでケンカにだってなりかねません。そんなことになればまさに不幸! 満足するのはご主人ただ一人、これ見よがしな優しさを見せつけてやったぜうへへといういやらしい自己満足だけっす」
「……なんかものすごく腹が立つな、お前。で、なにが言いたい、スケル」
スケルという名の元スケルトンの少女はぐっと拳をにぎって、
「ならば! いっそのことここで食っちまえば、菓子の存在を知らないスラ姐達は誰一人不幸になりようもないでしょう! あっしは決して自分の食い意地のために言ってるわけじゃありません。洞窟の平和と平穏を守るため、あえて涙をのんでここで処分をしておくべきではないかと言ってるんす!」
「長々と話をぶっておいて結局それかよ。なにが涙だ、唾でも飲みこんどけ」
「……菓子なら新しいものを持ってこさせます。ですから、馬鹿らしい会話はそろそろやめていただいてもよろしいですかしら」
毒気を抜かれ、やれやれとルクレティアは息を吐いた。
扉まで歩いて廊下の向こうに茶菓子の追加を命じる。すぐに女中が菓子を運んで来て、部屋から去ってから彼女は口を開いた。
「それで、今日はどのようなご用件でしょう。ご主人様」
敬慕の感情がまったくない口調に、マギが嫌そうに顔をしかめる。
「森のことだ。シィが話をつけてきてくれた。これからも、妖精族とは協調態勢をとる」
「ようございました。ジクバール様の一向はギーツへ出発されましたが、メジハにはいまだ多くの冒険者が残っています。これからメジハへやってくるという輩もいるでしょう。予想される混乱を収めるために、妖精族との連携は不可欠です」
「さっそく、シィが森で冒険者連中と遭遇したらしい。トロルの腕を持ってたらしいから、そういう依頼だったんだろうな」
「トロルの腕。……メジハに出ている依頼ではありませんわね。どこか別のギルドで受けて、こちらまで下りてきたということですか」
「だろうな。平野でトロルに会えないわけじゃないが、森のほうが確率は高い。獲物を探してるうちに迷ったらアホだが、まあそうならないってくらいには慣れてるパーティだったんだろう」
「シィさんは無事なのですか」
「リーザがついててくれたからな」
それに、と男は微妙な表情になった。
「エルフが助けてくれたらしい」
ルクレティアは片方の眉を持ち上げて、
「エルフというと、先日の。風精霊といたあのエルフですか」
「ああ。口の悪い、あの辻撃ちエルフだ。まだこのあたりにいるらしい」
「生屍竜以外にも、目的があるということですわね」
「まあ、ストロフライがあの黒竜を倒してから、どこかでそれを知って駆けつけたにしては行動が早すぎる。ドラゴンゾンビの件は行きがけの駄賃、とは違うが、偶然出くわしたってだけなのかもな」
「そのエルフがなんの為にこのあたりにいるかは、わかっているのですか?」
「教えてくれなかったそうだ。今は妖精の泉にいるみたいだが」
ルクレティアは唇に拳をあてて考え込んだが、すぐに思考を中断した。エルフの目的を考えるには材料が足りなさ過ぎていた。
「一応、気をつけておいたほうがよろしいでしょう。ご主人様とスラ子さんを狙って、このあたりに留まっている可能性もあります」
「ありえるな。実際、シィにも殺す気満々だったらしいし」
「……そこまではっきりとしていて、放置されておくおつもりなのですか」
「殺せってことか? どうだろうな。今のとこ、そんなつもりはない」
「お優しいことですわね」
皮肉めいたルクレティアの言葉に、マギは肩をすくめる。
「そうでもないさ。アレンと、ロニー。愛称だろうが、メジハのギルドにそういう名前の登録はあるか?」
「記憶にはありませんが……。外見の特徴などはおありですか」
「ああ――」
それから男の告げた風貌も、やはりルクレティアには覚えがないものだった。
彼女は祖父に代わってメジハのギルドを取り仕切る立場にある。そこに所属している冒険者の顔や名前は全て把握していた。
「やはり存じませんが、その男達がなにか。シィさんを襲った輩ですか?」
「そうだ。二人は死んで、二人がシィの魔法で意識を失ってどこかに彷徨っていった。意識を取り戻す前に森の魔物にやられただろうが、気にはなるからな。スラ子に探させてる」
「探し出してどうするおつもりです」
「聞くまでもない」
男は冷ややかに言った。
普段の態度がいくら情けなくとも、目の前の相手が人間の世界ではなく魔物側にいる存在だということをルクレティアは思い出し、小さく唇を歪めた。
彼女にとっても他人事ではなかった。彼女自身、男の側に隷属している立場である。
「もしメジハに現れることがあれば、ご報告いたします」
「そうしてくれ。二度とこっちに来ないってんなら、それでいい」
「かしこまりました」
「町の方はどうだ。竜殺しの勇者一向がいなくなって、少しは落ち着きそうか?」
「むしろ、混乱はこれからでしょう」
ルクレティアは手元に置かれたティーカップをもちあげ、音を立てずに一口してから続けた。
「竜殺しが成ったという噂は、まだようやく近隣に伝わった頃ですから。ジクバール様がギーツに到着すれば、そこからさらに人が流れてくるでしょうし」
「メジハで起きてたようなお祭り騒ぎが、余所に伝わっていくのか。そんなに大勢の人間がやってきたら、メジハがパンクしちまうんじゃないか?」
男は冗談のつもりで言ったようだったが、ルクレティアは至極真面目な表情で頷いた。
「寝るところだけでなく、食べ物や飲み物。メジハには宿もそう多くはありません。許容範囲を超えることは十分に考えられるでしょう」
「どうするんだ」
「公堂を仮の宿にあてがうことを考えていますが、最終的には町の皆さんに協力してもらうしかありませんわね。ですが、そうなれば町の人間と外の人間でトラブルが起きることが考えられます。人が増えればそれだけ治安が悪くなりますし、公堂を開放したとして、そこがスリや盗難の温床となってしまっては目があてられません」
「ギルドの連中を使うのはどうだ。暇してる奴だっているだろう」
「はい。しばらくギルドで紹介される依頼はそうした雑事が中心になるでしょう。人が来るということは儲かるということですから、支払う金銭には不足はありません」
ふむ、と腕を組んだマギが、ちらりと横を見て言った。
「カーラとスケルを、そっちの手伝いにまわすか?」
それまで会話に参加せず茶菓子をぱくついていたスケルが、ん、と顔を傾けた。
「メジハにとっても、近くの森を荒らされてほしくないのは同じです。可能であれば、近くの森を見回るような業務もギルドで回していきたいと思います。カーラやスケルさんには、そちらで助けていただけたらありがたいですわ」
「ああ、なるほど。それならどっちも動きやすいな」
ルクレティアはわざわざ言わなかったが、森の巡回業務はギルドの為にも有用なことだった。
ギルドは所属している冒険者に依頼を斡旋し、その依頼料の一部を仲介金として手に入れる。
依頼がなければ人も金も回らず、メジハのような田舎町に大きな依頼はまず降って湧くことはない。
依頼がないギルドに人は集まらない。
人のいないギルドには依頼が来ない。
そうした悪循環を失くす為に様々な便宜を図る必要があったが、それが町の人間の仕事を奪ってしまっては別の問題が起こる。
町とギルドという微妙な関係の間に立って、ルクレティアは難しい舵取りが求められていた。
「まあ、基本は外のことはこっちでやる。ルクレティア、お前には町のことを仕切ってもらうが、なにか問題があるか?」
「……いいえ、ございません」
わずかに答えるのに遅れたルクレティアを見やって、男が眉をひそめた。
「なにかあるのか?」
ルクレティアは自分の主人を見つめ返して、
「なにも問題はありませんわ、ご主人様」
はっきりと言いきった。




