ⅤSマッドウルフ
血に飢えた魔物対鎧すら装備していない少女。強さの差は一目瞭然。
だけど家族を守るために、ナタリーはやるしかないのだ。
「来いよ! クソ犬が!」
「ウオー!」
一人一匹が同時に動き出す。
ナタリーはアンナを巻き込まないように自らマッドウルフの方へ走る。マッドウルフもそんなナタリーを迎え撃つ。
ナタリーが繰り出すのは彼女の今にできる一番の打撃技、崩拳。
だけどその崩拳はミスであった。震脚と全体重を乗せたパンチが合わさることで大ダメージを与える崩拳、未熟なナタリーがそれを使うと体を硬直させることとなる。
素早いマッドウルフに当たるのは有り得ないに等しい。
一人一匹は交差する。マッドウルフは全くの無傷だが、ナタリーの右腕には大きな血痕が刻まれた。
「ぐばっ!」
人が素手で獣に勝てないのには理由がある。
獣の体のあらゆる部位には武器が隠れていて、今の場合だとマッドウルフの爪。
あの一瞬でマッドウルフは拳を躱し、ついでに爪を軽く振り下ろした。
獣には人間が反応できないほどの俊敏性を持っている。
そして軽い一撃でもか弱い人間の体に大ダメージを与えることができる。
だから人は素手で獣に勝てない。
とある日本の武術家曰く、「もし檻の中で人と猫が闘うことになったら、人間は日本刀を持って初めて猫と対等になる」と。
「イタッ! イタイッ!」
ナタリーは痛みに慣れているが、それは打撃に対しての話だ。
皮膚が鋭いものにここまで引きちぎられるのは初めての体験で、タフネスに自信がある彼女でも思わず涙目になってしまった。
だけど彼女は諦めなかった、大切な妹を守るために。
「こっちだクソ犬ッ!」
マッドウルフを誘導し空き地の外周へ走る。
外周にはもちろん樹が生えていて、ナタリーは背中を樹に密着して構えた。
人は素手で獣に勝てないのは、パワーのみでゴリ押ししようとする場合の話だ。
一般的な武術、特にボクシングなどではコーナーに追い込まれることを危険視しているが、この場合だとちょっと違う。
全身を駆使して攻撃するマッドウルフは人間のような精密な動作ができない。だからコーナーに逃げてもタコ殴りされるデメリットがない、むしろ攻撃方位を正面のみに限定することで相手の動きは見切りやすくなる。
彼女は体を左右に大きく振り、ボクシングではウィービングと呼ばれる動きを取る。そうすることで上半身を当て難くし、相手の動きにも合わせやすくなる。
マッドウルフは彼女の方へ飛びかかる。
「ガオー!」
「しゃあっ!」
体を大きく斜めに傾けて、マッドウルフの攻撃を躱した。相手の頭は樹にぶつかって、全身が勢い良く横へ飛んだ。
マッドウルフは反撃するチャンスを与えずに、すぐに立ち直ってもう一度攻める。
だけど冷静に観察していたナタリーに躱される。
このやり取りが何度も繰り返され、マッドウルフは樹に数回頭をぶつけた。
彼女は相手の単細胞に感謝しかなかった。
もしマッドウルフが飛びかかる以外の攻撃を選んでいたら、ナタリー程度なんて容易く殺せるのに。
「ガルルルルル!」
マッドウルフは今度体勢を低くしてダッシュする。
どうやら上半身に当てられないことに気づいて下半身を攻めようとした。
だけどそれもナタリーの計算のうちである。
「ガオー!」
相手は脚に向けて嚙みかかる。
「見えてんだよっ!」
見切ったナタリーはその頭を掴んで、その顎にティーカオ(相手の頭や肩を掴んで膝蹴りをかますムエタイの技)を決めた。
体重を乗せた挟み撃ちは相手の顎を砕き、舌を引きちぎる……とはならなかった。
マッドウルフはまるでなにごこもなかったかのように推進して、ナタリーを押し倒した。
「なにっ⁉」
理由は単純。ナタリーが弱すぎた。
パワーが足りないせいで相手に技を耐えられて、逆に攻める隙を与えてしまった。
マッドウルフは足でナタリーの腹を踏みつけて、首を嚙みつけようとする。
「あがっ! 野郎……!」
腹の痛みに耐えて、ナタリーは必死にマッドウルフの頭を押さえつける。
マウントポジションが取られた。しかもアース・ドールの時とカウンターをする隙がない。
たとえ脱出できたとしても、彼女になにができる?
パワーが足りない、スピードが足りない、策も通じない。
その牙に嚙み殺されるのは時間の問題だ。
「クソッ! クソッ! どうすればいいんだよ!」
彼女の体力はかなり消耗されている。もう万事休した。
「もう、無理なのか……?」
ナタリー自身も諦めかけた。
「姉様ぁぁぁぁぁ! 負けないでぇぇぇぇぇっ!!」
「!」
その時、アンナの泣き声が混じった応援が聞こえた。
心もとない、か弱い少女からの応援だけだが。
それだけで充分だ。
「クソが……」
「ガルㇽ⁉」
「アンナを泣かせんじゃねえええええええええええ!!」
マッドウルフに向かって、それとも自分に向かってる言葉なのか、ナタリー自身もわからなかった。
だけどその怒りのおかけで、彼女は自分の中にある火事場のクソ力を振り絞れた。
腹に食い込んだ爪を無視して無理矢理体を動かし、マッドウルフを横へ押し付ける。
マッドウルフの力が僅かに緩めた隙に、ナタリーはその背中に登る。
確かに彼女にはパワーも、スピードもない。
だけど、
「僕にはまだ根性があるんだあああああ!」
ナタリーはマッドウルフの首を裸絞めで絞める。
師曰く、リア・ネイキッド・チョークとは根性の絞め技である。
コツがわかれば誰でもできるシンプルな絞め技。しかも使い手は後ろに隠れているから、極められたらそれを技術で解くことができない。
現代でもライオン殺しと呼ばれるほど信頼されている。
だけどそんな技にも弱点がある、それは使い手の体ががら空きになることだ。
肘打ちなり、嚙みつきなり、敵の攻撃を浴びせられることとなる。
それらを全部堪えないと相手を倒せない、だから根性の絞め技なのだ。
今だってそうだ。
マッドウルフはナタリーを背負って走り出した。
石なり、樹なり、マッドウルフはそれらに向かって背中をぶつける。
もちろんナタリーはその衝撃をもろ受けることとなった。
「はうっ! くはっ! あがっ!」
痛い、死ぬほど痛いけど。
「死んでも離すもんか!!」
だけど彼女のパワーはやはり足りない。マッドウルフの首を完全に圧迫できないせいで暴れ回りが止まらない。
「くはっ! くはっ! くはっ!」
ナタリーの口から血が飛び出る。このままだとマッドウルフが失神する前に彼女が先に倒れてしまう。
意識も薄くなって行く中、彼女の本能だけが激しく燃えていた。
自分の体がどうなってもいい、ここでやつを絞め落とせることができるなら死んでもいい。
だから、
「力をくれええええええええええええええ!!」
意識が消えかけることで体のリミットが効かないせいか、それとも本能からの決断からか。
瞬間、ナタリーの体がスパークした。
雷魔法の暴発だ。
もちろん彼女はマッドウルフを倒すほどの電撃が出せない、マッドウルフが電撃を感知したのかすら怪しい。
だけどその僅かな電撃が彼女の腕を刺激し、筋肉を激しく収縮させた結果マッドウルフの首を強く圧迫できた。
「堕ちろおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
マッドウルフの動きが段々と遅くなり、やがて倒れた。
絞め殺されたのだ、ナタリーの渾身の裸絞めによって。
「勝った……? 勝ったか……?」
相手の死を確認して、ナタリーは震えた。
「僕は、魔物を、倒した」
その事実が彼女の脳を衝撃し、やがて、
「はははははははは!!」
彼女は笑い始めた。




