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美瑠は礼から渡されたスマホを、しげしげと見つめた。
慌ててよくわからずに表示した護符が、なぜあんなに効果的だったのか、美瑠本人にもまったく謎だった。
だが、それほどに強力な護符なら、これからも礼のためになるに違いない。
そう考え、美瑠はあらためて護符を調べてみたのだが……
「安産祈願……?」
わが目を疑い何度見返してみても、解説にはそう書いてある。使用方法は「妊婦さんのお腹に貼ってください」とのことだ。
「あっ!」
画面にバッテリー残量の警告が出たかと思うと、スマホの電源がひとりでに切れてしまった。
「なんで……、さっきまで、いっぱい残ってたのに……」
どうやら本当にバッテリーが切れたらしく、何度電源ボタンを押してもスマホは沈黙したままだ。
原因は不明だが、その理由が何であれ一つだけ確かなのは、これで礼が頼るものは何もない、ということだった。
美瑠にできることもまた、頼りない兄を信じることしか残されていなかった。
ネットで『アニバトル』のサイトをチェックしていたので、礼はシオンがどんな外見なのかを知っていた。
シオンはリスやウサギのような小型の哺乳類をモチーフにしたデザインで、ゲームのキャラクターらしく、ぬいぐるみのような可愛らしさをあわせもっていた。
「シオンと……、全然、違います……」
栞が思わずつぶやくのも無理はない。
そこにいる生き物は、シオンと似たフォルムではあったが、むき出しになった牙と爪に、つり上がった目が燃えるように赤い、凶悪な外見をしていた。そして……
「栞ちゃん、シオンの尻尾は?」
「1本、です……」
そして、意思をもった蛇のように動く2本の尾が、『それ』がシオンではないことの何よりの証明だった。
猫とも猛獣とも違う、金属的な奇妙な声で吠えると、猫又はいきなり礼に襲いかかった。
「うおっ……!」
猫パンチのように繰り出してきた前足を、礼はかろうじてよけた……はずだったが、腹部に鋭い痛みを感じて顔をしかめる。
「ぐっ……!」
礼の上着が爪によって切り裂かれ、爪がかすった肌から途端に血がにじみ出る。
「栞ちゃん、下がって!」
栞に指示を出し、礼は素早く美瑠を見た。
バッテリー切れのスマホを見せ、美瑠が泣きそうな顔で首を横に振る。
部屋の中を見回してみても、女子高生である栞の部屋に武器になりそうなものは何もなかった。
「ったく……、俺は体育会系じゃないからこういうのは苦手なんだぞ」
「お兄ちゃん、何か、いい考えはあるの……?」
「フッフッフッ……」
「……?」
「なんにもない!」
無駄に堂々と礼が答える。
「そんな……」
「なんせ、こんなややこしいことになるとは思わなかったからな!」
いつもならば美瑠の突っ込みが入る場面だが、この緊迫した状況に当然そんな余裕はなく、それどころか室内の3人には絶望しか残されていないように思えた。
人間たちの会話を理解してか、猫又は笑うように大きく口を開くと、ふたたび礼に跳びかかった。
「うわっ……!」
咄嗟にガードを固めた礼を見て、栞が悲鳴にも似た声で叫んだ。
「あっ! だめーーっ!!」
そうだった……。シオンの必殺技は、相手のガードをかいくぐって……
「あ、やべ……」
猫又は目にも止まらぬ早さで軌道を変えると、礼の足元でググッと丸くなった。
次の瞬間、両前足を突きだして、カエルのように飛び上がった猫又の二つの拳が礼の顎にヒットする。
「ぐへえ!」
のけぞった姿勢のまま宙に浮く礼。
猫又は飛び上がった勢いを利用してクルンと一回転すると、全身をドリルのように回転させて落ちてくる礼に頭から突っ込んだ。
強烈な体当たりをくらい、礼の身体がくの時に曲がる。
「うぼお!」
華麗に着地した猫又とは対照的に、礼はドスンと大きな音を立てて床にダウンした。
「これが……、本物のソル・トルネード……か」
と言って、今度こそ完膚なきまでにKOされた礼はガクリと意識を失ってしまった。
「お兄ちゃんっ!」
叫ぶことしかできない美瑠の横では、目に涙をためた栞が恐怖でガタガタ震えている。
くるるるる……
すでに勝利を確信した猫又がゆっくりとした足取りで礼に近づき、鋭い牙の並んだ口を大きく開いた。
ひときわ鋭く伸びる犬歯をつたって落ちた唾液が、ポタリと礼の首筋に落ちる。
「……う、うう」
朦朧とした意識のなかで、礼がうわごとのようにつぶやいた。
それは、礼の無意識の心の叫びだった。
「みる、にげろ……、にげ……ろ……」
「お兄ちゃん……」
かすれた声でつぶやく美瑠の目に、たちまち涙があふれ出す。
だが、次の瞬間にはすでに、美瑠の目は何かを決意していた。
シャン
まるで、飛び出しかけた美瑠を制止するように、涼やかな金属音がひとつ鳴った。
◇
視点の合わないぼんやりした視界の中に、なにかが見える。
「くろい……、ぱんつ……。……ん? 黒いパンツ!」
礼の朦朧とした意識を、黒いパンツが引き戻した。
倒れている礼の頭のすぐ横に、いつのまにか黒のロングコートを着た女性が立っている。
美しい黒髪をなびかせ、氷のように冷たいまなざしで目の前の怪異を見つめながら。
位置関係上、礼からはミニスカートの中が丸見えだったが、彼女にとってそんなことはまったく問題にならないようだった。
「妖気の質が変わったのでもしやと思ったが、違ったようだな。とはいえ、このまま放っておくわけにもいかないか……」
そう言うと、黒魅沙千霧 (くろみさちぎり) はロングコートの内側から3つに折りたたまれた錫杖を取り出し、瞬時に1本の状態に戻した。
彼女の気配に気づかなかったのは礼たち3人だけではない。
猫又すらも千霧の気配に気づかなかった。いや、気づけなかった。
だが彼女が武器を取り出した瞬間からすでに猫又は彼女を敵と認識し、用心深く観察しながら襲いかかる機会をうかがっていた。
「いやあ~、お姉さん、久しぶりですねえ~。ところで、お名前聞いてませんでしたよね? ね?」
千霧のスカートの中が見えるベストポジションを保ったまま、礼が声をかける。
「その元気なら、怪我の心配はないようだな」
千霧が礼に視線を向けた瞬間を、猫又は見逃さなかった。
音も立てずに飛びかかると、その大きく裂けた口で千霧の喉元に噛みついた。……はずだった。
「無駄だ」
驚いて猫又が振り向くと、さっきまで自分がいた場所に千霧が立っていた。
「我は常に日を前にして日に仕えるが、その姿は日から見えず……。お前に私をとらえることはできん」
手玉に取られ、逆上した猫又が猛然と飛びかかる。
千霧は手にした錫杖の先で猫又の頭をトンと、軽く叩いた。
それだけだった。
次の瞬間、猫又の体を縦に走る線が現れたと思うと、バシャッという音がして、猫又は真っ二つになった。
現実世界の生き物とは違うのだろうか、それでも猫又はしばらくの間半身になった身体でもがいていたが、やがて恐ろしい断末魔とともに、その肉体はいずこかへ吸い込まれるように消えてしまった。
「すごい……、一瞬で……」
3人があっけにとられているなか、美瑠が一番に口を開いた。
栞はまだ石のように固まったままだ。
錫杖を折りたたんでコートの中にしまいながら、千霧は3人に向かって言った。
「ハンパな知識でこういうモノに手を出さないことだ。命にかかわるぞ」
「……」
初めて自分たちに向けられた千霧の言葉を、美瑠は黙って聞き入れた。
考えてみればもっともなことだ。そもそもそれは自分が兄に口を酸っぱくして言い続けたことなのだから。
でも……
「……そんなこと、ないです……」
意外な人物の意外な言葉に、美瑠は驚いて栞を見た。
「……お兄さんは、一生懸命、考えて……、自分が危険なのもかまわないで……、私の中からシオンを取り出してくれました……。お兄さんは……、ハンパじゃない、です……」
「では、あの男が3本の腕の正体を暴いたのか……」
千霧が礼を見ると、まだ床に横たわったまま、何やら考え事に没頭しているようだった。
「ふ、やるじゃないか」
それまで、決して変わることのなかった氷のような千霧の表情に、かすかにぬくもりが浮かんだ。
それは同じ女である美瑠でさえも思わずドキリとさせられるような表情だった。
「私は千霧……、黒魅沙千霧だ。お兄さんに伝えておいてくれ」
まだドギマギしている美瑠が思わず返事を忘れていると、礼が突然大声をあげた。
「よし! やっぱりこれしかねえっ!」
いきなりガバッと起き上がり、
「千霧さん! 俺と組んでこの業界でトップ獲ろうぜ!」
とまくしたてる。
サムズアップしながらニカッと笑い、渾身のアピールをした礼だったが、例によって千霧はすでに消えていた。
「美瑠! 千霧さん、どこいった?」
「え? え? そんなの、わからないよ! それより……、トップ獲るってどういうこと!?」
「スカウトだよ、スカウト! あんな上玉……いやいや、スゴ腕と手が組めりゃ……、ヒッヒッヒッ……、楽して大もうけ間違いなしだぜ! ……っと、こうしちゃいられねー。お~い、ちぎりさ~~ん!」
と叫びながら、礼は部屋を飛び出していった。
美瑠が額を押さえて深々とため息をつく。
(あの誘い文句って、才能ないヤツの典型的なセリフだよね……。ていうか、どんなことしてても名前だけはきっちり聞いてるんだから、恐ろしい……)
「とはいえ……」
美瑠はあらためて栞を見た。
栞のほうはといえば、すっかり疲れ果て、床にペタンと座り込んでいる。
「栞先輩、終わったね……」
栞がコクリとうなずく。
「ん……、そうですね……」
恐怖が去った今も、栞の胸には悲しみと愛しさだけが変わらずに残っていた。
自らのまなざしが悲しんでいるのか安堵しているのかもわからずに、栞は猫又が消えていった虚空をぼんやりと見つめていた。
「さよなら、シオン……」
登場人物
黒魅沙千霧 (くろみさちぎり) 19歳 退魔師
※以下、順次追加




