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デーモンデバイスの崩壊により室内は肉片の山とパスタのようにもつれたコード、崩れた電子機器が散らばり、足の踏み場もなかった。壁や天井には先ほどまでの激しい戦闘の痕跡がそこらじゅうに刻まれている。
台風でも通り過ぎたようなフロアの中央で爛々と目を光らせて待つ魔物の前に、浴衣姿の小柄な少女が遠慮がちに歩み出た。
飛び出さんばかりに見開かれた目が、食い入るように理夢の顔を見つめる。
森嶋の心はすでにまともではなかった。
ほんの2,3時間前、娘の誘拐を理由に突然このビルに呼び出され、あの女退魔士と接触してから後、彼の脳裡をあらゆる感情が去来していった。興奮し、消耗し、絶望から喜びへ、またその逆へと、精神はジェットコースターのように激しく揺さぶられ続けた。
ここへ至るまでの凄まじい感情の氾濫に、脳はとっくに処理能力の限界を超え、まともな思考もできないほど千々に乱れていた。
だが、それもほんの数刻前までのことだ。
「間違いでは……、ないのか……?」
森嶋の心は一瞬にして目の前の少女に奪われた。少女の顔は、病床に横たわる見慣れた娘の寝顔と確かに同じであり、同時に、全く別物でもあった。
おとなしい性格で、少し臆病なところもあった愛娘は、眼差しからすっかり幼さが抜けている。顔だちもまた第2次性徴を経て女性らしさを帯び、さらに美しくなっていた。その神々しいほどの変化は、人の親があまねく享受すべき『成長』という名の神秘だった。15歳の少女のみがもつ完璧な美にしばらく言葉を失っていた森嶋は、やっとのことで我に返った。
「理夢、なんだな……?」
恐る恐る発した森嶋の問いかけに、少女がこくんとうなずく。
ただそれだけのことで、全身に稲妻のような衝撃が走る。6年間眠り続け、その間、一切の問いかけもあらゆる治療にも応ずることのなかった娘が、初めて反応を返したのだ。しかも! 彼女は肯定した! 自分は『森嶋理夢』であると認めたのだ!
それは彼が人生のすべてをかけて求めた瞬間だった。何度も夢に見ては目覚めにかき消されてきた幻ではない。目の前にいる少女が現実の存在であることを認識すると、森嶋の目から、鼻から、口からも、灼けるように熱い感情があふれ出た。
今宵の混沌極まるるつぼのような感情も。
心に厚くこびりついた、積年のドス黒い澱も。
歓喜の怒涛がすべてを飲み込み、きれいに洗い流していく。
一般的に言えば、だが、それは長年の別離の末に再会を果たした家族の、感動的な光景だった。
理夢もまた、そうであってほしいと強く願っていた。
「なぜ、だ……」
幸福な時間がひとしきり過ぎ去ると、森嶋にとっても当然の疑問がむくむくと湧いてくる。忘れもしない、彼が知っているほうの理夢はまさに先ほど病院で確保されたばかりではないか。
「お前は今、病院にいるはずだろう。ではその身体は一体……」
青い腕が音もなく理夢に近づく。先ほどの凶暴な戦闘など嘘のように優しく身体を抱えると、うやうやしく森嶋の目の前へと運んだ。掌はそのまま理夢の全身を包み込み、検査装置となって霊体で形作られた理夢の肉体を詳細に分析する。
「これは……」
「……」
「ははは……。そうか……、そうか……っ!」
森嶋の目は、すでに研究者のそれに入れ替わっていた。無遠慮に手を伸ばし、理夢のほほに触れて直接感触を確かめる。思わず身を硬くした娘のことなど、彼は気にも留めなかった。指先にあるのは子供のころと同じシミひとつないきめ細かな肌。だがそれは、死人とも思えるような冷たさだった。
「……素晴らしい」
ぽつりとつぶやいた父の瞳に狂気が宿っていくのを見て、理夢の口から悲痛な吐息が漏れ出た。ほほに触れたこの手も、もはや見知らぬ他人の手としか感じられなかった。
「答えは、肉体を捨てることだったのだ……。ははは! すごいぞ理夢、さすが私の娘だ!」
人でもない、霊でもない、まったく新たな生命の形を目の当たりにし、森嶋は激しく興奮した。この成果をもとに今後研究を続けていけば、ゆくゆくは人が死を超越する可能性すら出てくるかもしれない。
「決めたぞっ!! 次はお前の母親だ!」
「ッ!!!」
「なに、私に任せておけ、必ず呼び出してやる! いいか、理夢。またみんなで暮らせるんだ! この新しい肉体で、完全なる家族としてっ! 素晴らしい! まったく素晴らしぃぃっ!!」
「母親」という言葉に、理夢の胸がにわかにざわつく。うつむいていた顔をさっと上げ、理夢は森嶋を見た。
またしても、森嶋は泣いていた。
長きにわたり、十分すぎるほどの孤独と絶望を味わってきた森嶋は、娘に起こった奇跡に酔いしれ、更なる「希望」に必死ですがろうとしていた。そんな父の心情を、理夢は今なら理解することができる。ただ、そんな父の姿が辛かった。いびつに歪み、狂気に汚染された愛情を見るのが、ただただ苦しかった。
「わかるぞっ。その身体は腹も空かぬし、眠ることもないのだろう? そのためには、エネルギーさえあればいい! この街の……、いや! 世界中の人間から集めればよいのだ! そうすれば、私たちはずっと一緒だ……。老いることもなく、永遠に……」
「やめて」
「何?」
「そんなことは、この街のだれも望んでいない」
「ふふ……、理夢よ、他人のことを思いやるとは、優しいところも母親に似たのだなあ……。だが、今の自分を見ろ! お前がこうやって目覚めることができたのは、この私のおかげなんだぞ? 子は黙って親の言うことを聞いていればよいのだ。そうすれば必ず! お前を世界一幸せな子供にしてやる!」
「違う……。そんなのは、ちが……」
「もちろん、お前にも少しは協力してもらおう。その身体について、さらに詳細に調べねばならんからな。これもみな、家族のために必要なことなのだ。協力してくれるな? 理夢よ」
胸中の悲しみはさらに色濃い絶望へと変わっていく。理夢は思わず目を伏せた。やはりこの人は壊れてしまっている。このままでは何も変わらない。この人はまた、自分の個人的な欲望のために利用するのだ。より多くの人々の生活を、より多くの人々の人生を。
「……だめ」
(私が欲しかったのは、これじゃない)
理夢の短い人生の中で、そして永い眠りから無理やり目覚めさせられた時にも、常に彼女の心にあったのは、母と、父と、幼い理夢の、笑顔あふれる家族の光景だった。この街にかけられた呪いを止め、再び取り戻したかったのは、理夢の中でまぶしく輝いているあの幸せな記憶だ。なぜなら……
(それが母親の願いだから)
自分が仮初の命を授かり、この時、この場に出現させられた理由を、理夢はずっと考え続けていた。
「今、やっとわかった。私のするべきことが」
理夢は自身が扱うことのできる、唯一にして最後の魔術を発動させた。肉体を構成するエーテル体を一斉に魔力へと変換し、何もない空間に魔方陣を作り上げていく。その魔方陣は、森嶋にとってもなじみのあるデザインだった。
(こっ、これは……)
この黒魔術は理夢がこれまで研究に研究を重ねて編み出した独自のアレンジにより、簡易版として改良されたものだ。それに、必要な材料はすべてここに揃っている。大量の魔力は理夢の肉体自体が高密度の貯蔵庫になっているし、肉体の材料となるべきパーツも……。
「理夢、お前は何を……、いや……、だれを……」
フロアのドアを蹴破り、礼が飛び込んでくるのが見えた。
室内の光景に驚いている礼の顔を見ると、理夢の中にあった不安や恐怖はふっとかき消えた。森嶋もまた、突然の乱入者に気をそらされている。
最後のひと絞りまで、残らずすべての魔力を魔方陣に注ぎ終えると、理夢はゆっくりと森嶋に向き直った。
「お父さんから、出ていけ」
刹那。森嶋の腹を、猛禽のような爪をもつ魔物の腕が後方から貫く。
腹部を突き破った腕の手中には、グレーターデーモンの頭部が握られていた。
と、意識を失っていたと思われていたグレーターデーモンがにわかに憎悪の表情に染まり、理解不能な魔界の言語をまくし立てる。
だがそれもわずかのことだった。魔物の手はグレーターデーモンの頭部を全力で握り締め、ぐぐと更なる力が込められた瞬間、頭部は目玉や脳漿をまき散らし、粉々に握りつぶされた。
内部的にどのような神経的接続があったのかは不明だが、グレーターデーモンの頭部が破壊されると同時に森嶋は気を失い、傍らに浮かんでいた青い腕も溶けるように消失していった。
その場にばったりと倒れこんだ森嶋の腹からは、一滴の血も出ていないようだ。
「クヒヒ。こいつにも恨みはあるっちゃーあるが、姐さんに免じて見逃してやるよ」
「お前は……」
礼とともに駆け付けた千霧は、床に横たわる森嶋の後ろで、胡坐をかいて座っている祭鬼の姿をみとめた。こちらへの敵意はない、どころか、その目には親し気なものを感じる。
「おいっ! 嬢ちゃん、大丈夫かっ!?」
千霧の横から飛び出した礼が、青い腕から解放されて、まだ足元のおぼつかない理夢を慌てて抱きかかえた。
「そのガキにはわかってたみてーだな。この男がおかしくなったのは、あいつが原因だったってのがよー」
「なるほど……、さすがはグレーターデーモンといったところか。一介の人間に支配されるほど、生易しい存在ではないようだな」
「……お父さんは、今まで、ずっと苦しんできた。それが、あの悪魔と一緒になってから、少しずつ変わっていった。あいつはお父さんの心が弱っているのを利用して、だんだんと、お父さんの中に入り込もうとしてたんだと思う」
「なるほどね。だから嬢ちゃんは追い出すための方法をずっと考えてたんだな。あのおっちゃんから、逃げ出さずに」
「うん」
不意に、ぽんぽんと頭を優しくたたかれ、理夢は驚いて礼を見上げた。
「すげーな、大したもんだぜ」
理夢のほっぺたの中で、何かが爆発した。内側から火傷をしそうなほどの火照りを感じながら、あわあわと理夢が混乱していると、先ほど礼が蹴破って開け放たれたままのドアから美瑠が飛び込んできた。
「みんな大丈夫っ!!?」
「おお、美瑠。安心しな。今回の依頼も、これにてすべて完了だ」
礼はニカっと笑い、片手で美瑠にサムズアップしてみせた。
次回、エピローグです。




