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あれは娘の理夢に散々ねだられた末に、妻と森嶋の二人がとうとう根負けして買い与えた犬だった。
理夢が交通事故により植物状態となってからも、森嶋は犬を手元に置いて世話を続けた。いつか娘が目覚めたときに、母がいないことへの慰めになると考えたからだ。当初こそ、その犬を娘の友人として大事に扱っていたが、幾度も夢破れ狂気が森嶋の心を侵食していくうちに、疎ましくなり、ついには人に渡して金で世話をさせるようになっていた(3か月前、黒魔術の儀式を執行するにあたり、強引に取り返したが)。
妻の命と娘の明日を奪った、あの忌まわしい事故からすでに6年が経つ。絶望という名の檻に囚われた森嶋には、娘が嬉しそうに犬の名を呼ぶ声さえも、はるか遠い忘却の彼方になっていた。
~~「ユメ、私たちも、すぐに別の会場へ……!」~~「残りの5カ所はやはりすべて特設会場だ。詳しい場所はユメに!」
(あの犬の名前は……、ユメ……、だ)
森嶋はここにきて、ようやく目の前の少女と娘の飼い犬の名が同じだと気づいた。だが、違和感を覚えたのはここだけではない。
~~「招かれざる闖入者め! なぜ祭りの邪魔をするっ!!!」~~「……」
(ここだ)
本来ならば当たり前に見過ごしていた場面だが、瞬間記憶のおかげで、そこにかろうじて記録されていたかすかな音声を認めることができた。森嶋は初め、ノイズのようなレベルのこの声を気にも留めていなかった。だが、それは心の深奥から森嶋に呼びかけ続けていた。そして、森嶋の鼓膜に貼り付いた微細な音の欠片は、消えることなくくすぶり続け、森嶋を憎悪の淵から引き戻した。それは、ひたすらに娘との再会を願い続けた、父親としての執念だった。
動画編集さながらに、記録された映像から該当のシーンをピンポイントで切り抜く。そこから少女の姿のみをトリミングし、音声に周波数を絞って最大まで増幅する。加工された映像を再生すると、森嶋の脳内にあどけない少女の声が響いた。
~~「礼……」
(この声……、この声だ……! 間違いなく、面影が……)
少女の声と過去の記憶が結びついた瞬間、脳内細胞を電流が駆け巡り、心拍数が急上昇する。にわかには受け入れがたい“事実の可能性”に身体は打ち震え、締め付けられるような息苦しさにヒューヒューと喉が鳴った。これで二つ。なぜ……、この二つの違和感を抱えた少女が、娘の嫌いな狐の面で、顔を隠しているのか……。
「そこの、」
森嶋は、小刻みに震える指で理夢を指さした。
「狐の面の子供……。もう一度、声を聴かせろっ……!」
「……!」
尋常ではない様子の森嶋に突然指をさされ、理夢はぎくりとした。今、「もう一度」と言った。正体を明かさぬために森嶋の前では声を出さないようにしていたが、先ほど、思わず発したつぶやきを聞かれてしまったのか。
森嶋の絡みつくような視線がお面ののぞき穴から侵入し、理夢の大きな瞳にべったりと貼り付いた。理夢は覚悟せざるをえなかった。この視線からは、決して逃れられないことをよく知っていたから。
戦慄する理夢の前に、千霧が当然のように割り込み、森嶋の視線を断つ。
「……」
森嶋は、もはや何も言わなかった。初期からこの戦場を掌握し、森嶋の行く手を阻んできた女退魔士が、またもや自分の前に立ちはだかるのは当然のことだ。
森嶋は懐から小さなケースを取り出した。中に収納されていた注射器を手に取ると、今度こそ、鋭利な先端を腹部に張り付いたグレーターデーモンの前頭部に突き刺し、白色の蛍光液を残らず注入した。
(あれは、何だ……?)
注射の効果を探る間も与えず、青い腕が先ほどの数倍の早さで千霧をぶん殴った。拳は千霧の防御姿勢などお構いなしに根こそぎ吹き飛ばし、弾丸のような勢いで彼女を後方の壁に叩きつけた。
(あ……)
意識が明滅し、荒海の中のように視界が揺れている。頭部から流れ出た血がどろりと額を伝うのを感じる。
(何を、された……?)
いや、何もされていない。青い腕はさっきと同じように、ただ殴っただけだ。だが、威力が段違いに増している。
千霧は今夜の戦いにおいて、森嶋が考えるほどすべてをコントロールしてきたわけではない。科学と魔力、そのいずれも習熟しているのが森嶋の強さだ。その二つを巧みに融合する能力こそ森嶋だけがもつ個性であり、恐るべき脅威なのだ。それゆえに千霧は細心の注意を払い、もてる力のすべてを駆使することで、何とかここまでたどり着くことができた。なのに……、ここにきてそんな都合の良い、そんなでたらめなアイテムを、この状況で出してくるのか……。あまりの理不尽に、千霧はなかば呆れながら森嶋を見やった。
森嶋の目は赫く光り、燃えたぎる体内から湧き出た呼気が、煙のように口から漏れ出ている。腹部のグレーターデーモンの額には浮き出た血管が脈打ちながら走り、顔全体が、縦横に早回しのように動いているため、残像で常にブレて見える。
(……あれは、強制的に出力を上げる類の薬か。持続時間はそれほど長くないだろうが、オーバーヒートを待っていては、こちらがもたないな……)
千霧は手元の錫杖に目を落とした。先ほどの一撃を防御した反動で、錫杖は真ん中からきれいに折れていた。両足にはもうほとんど力が入らない。下半分になった錫杖を捨て去り、壁に手をつきながらやっとのことで立ち上がる。千霧を心配し、駆け寄ろうとする理夢を千霧は手で制した。
「大丈夫だ」
いや、さすがにこの状況でそれは無理がある。首を振り、なお駆け寄ろうとする理夢に予想外の言葉が投げかけられる。
「……好きだったのだろう?」
立ちのぼる粉塵と流血にまみれても、なお陰ることのない美貌が理夢に問いかけた。追いつめられているとは、到底思えないような涼しげな目を向けられて、理夢は思わず息をのんだ。
「森嶋という人物は……、悪人ではない。これだけの力と呪いを駆使しながら、この街の住民を決して不幸にすることはなかった。多くのものを利用はしたが、彼は、必死だっただけだ。……ただ、家族のために」
(千霧……)
この親子のややこしく歪んだ関係を修復するのは千霧の役目ではない。なぜなら、そういう話はてんで苦手であり、とてもじゃないがお役に立てそうもないからだ。だが、荒事ならばこちらの領分である。理夢が父親と顔を合わせるにしろ、少なくとも森嶋の方を無力化しておかなければならないだろうし、それができるのは千霧だけなのだ。たとえ、このような状況からでも。
「マハーヴァ……」
極限まで追い詰められ、千霧もまた奥の手を披露する以外に選択肢はなかった。肉体強化の術・『金剛』の真言をとなえつつ、高速で術式を展開する。
(結局はこちらも同じような手を打つしかないが……、あとはどちらの方が長持ちするか、我慢くらべだな)
「イローナ」
体内を還流する霊力のギアが切り替わり、肉体が活性化するにつれ、千霧の肉体は内側から発光し始めた。
「バザラダート……」
脊柱7カ所のチャクラから錬成されたエネルギーがほとばしり、奔流となって細胞のすみずみまでいきわたる。金色に輝く髪の1本1本が波打ち、千霧の全身はまばゆい光彩を放ち始めた。千霧が術式を完成させるための最後の真言を唱えようとしたその時、面が床に落ちる音を聞いた。
理夢の手が、千霧の腕にそっと触れる。
「私は大丈夫。千霧は下がっていて」
極限の緊張から、すっかり青ざめた顔をこわばらせて、それでも理夢は笑いかけた。ひとり狂刃の雨に身をさらし、自分たちをここまで導いてくれた女退魔士に、ありったけの感謝を込めて。
驚く千霧をそのままに、おずおずと森嶋の前に歩み出る。
千霧は傷つけなかった。戦闘のプロである千霧がその気になれば、破壊に徹することを厭わなければ、森嶋はたやすく無力化されていたかもしれない。でも千霧はそうしなかった。父親が、悪人ではないからと。
『そもそも、なんでこの祭りを止める必要があるんだ? そのお祭り好きの森嶋ってヤローだって、暗い世の中を明るく楽しくチェンジしましょうって考えてる、いいヤツかもしれねえじゃねえか』
(礼も……)
『なんだか、すごいね……。私たち月光市の市民全員で、森嶋さんの呪いを作り上げてるなんて……』
(美瑠も……)
誰も父を責めなかった。娘である私にあたらなかった。この人たちがいたから、私は私のままでいることができた。今までより、ずっと強くなれた。今はもう、
素顔の理夢は、もう、父親と向き合える。




