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「殺す殺す殺す殺す殺す殺す……」
「うっせえっ、こん畜生っ……! んぎぎぎぎ……」
徐々に、だが確実に胸元に迫る刃を、礼は歯を食いしばって受け止めていた。その顔はすっかり紅潮し、額には青筋が浮かんでいる。四肢すべてで踏ん張り、渾身の力で押し返しているのだが、包丁はびくともしない。
現実的に考えて、自分の半分ほどの大きさの人形がこれほどの圧力を発するなどありえない。それはまさしく常識を超えた、この世ならざる力によるものだ。だが、もし一瞬でも刃を握る手が血で滑るようなことがあれば、礼の心臓は確実に貫かれる。それはまぎれもない現実だった。
『招かれざる闖入者め! なぜ祭りの邪魔をするっ!!!』
ビル内での千霧と森嶋のやり取りは、通信装置ごしにすべて聞こえている。答える者のない虚しい問いかけであったが、礼はなぜかその言葉をやり過ごすことができなった。
(なぜ……、ってか……)
視界の端で、礼たちの争いなど気にも留めず、忘我の時を愉しむ女たちが揺らめいている。彼女たちは、毒々しい照明のもとで若さあふれる瑞々しい素肌をさらけ出し、大音量の音楽にひたすら身をゆだねていた。
今宵この場に集まった、享楽に溺れる女たち……。礼は彼女たちのことが大好きだ。触れた指先をしっとりと包み込む、心地よい肌の肉感が好きだ。重量感あるたわわな丸いふくらみが好きだ。劣情に燃える、熱く火照った体が好きだ。この会場はそんな礼の大好物が喰いつくせないほど用意された、理想の楽園だった。
もし何も知らされないままだったら、礼は見たことも会ったこともないこの祭りのホストに、心からの感謝を捧げていたことだろう。
だが、そうはならなかった。
礼は知っていた。病院のベッドで眠り続ける、ミイラのようにやせ細った憐れな少女を。不安定な霊体で形作られた、冷たい張りぼての体を。そしてたった一人で、都市を丸ごと包み込む強大な呪いと戦い続けた、彼女のとてつもなく、重い想いを。
(へっ……、大した嬢ちゃんじゃねえか……)
出血の痛みもかえりみず、礼は手中の刃をさらに強い力で握りしめた。
「愚問だな、おっちゃん! この末堂礼はっ! いつでも可愛い女の子の味方なんだよっ!!!」
突如、礼の後方でバックアップ装置のモニター上をテキストがせわしく流れだし、蟲の入った容器がオレンジ色の蛍光を発し始めた。
◇
「礼……」
われ知らず、唇から小さなささやきが漏れる。
いつも子ども扱いされていた理夢にとって、耳に飛び込んできた礼の言葉はまったく思いがけないものだった。頭の中を何十もの「可愛い」という言葉が飛び回り、ほほが急速に火照っていく。いや、理夢の体は間違いなく、霊体で作られた非物理的なものだ。そこには一滴の血液も流れていないし、それどころか人体を構成する細胞すら存在しない。だが理夢は確かに、小さな胸の奥で鼓動が高まるのを感じていた。
少女の純粋な魂が引き起こした奇跡を、怒れる父の声が容赦なくかき消す。
「見よっ、闖入者どもめっ! ……これで私の勝ちだっ!!!」
勢いよくPCのキーを叩いて最後の操作を終えると、森嶋は高らかに自らの勝利を宣言した。
◇
その存在は、特設会場に設置された地上12メートルの夜間照明器具の上から、礼と人形の争いを静かに見守っていた。
(なんとも奇妙なことだ)
(某所ではこの呪いの元凶と退魔士の攻防が継続し、今しがた、元凶の策は成った)
(残された時間は9638ミリ秒。彼らにとってはごくわずかだ)
(この押し詰まった状況の中で、さして秀でたところもないあの若者が、都市の命運を握ることになるとは)
(そして、この先も……)
(手助けせねばなるまい。小さな妖に渡せるほど、軽い命ではない)
3本の足を蹴って、八咫烏は音もなく降下を開始した。矢のような速さで人形に迫ると、瞬時に鋭利な刃へと変化した初列風切羽が正確に人形の目をなぞる。
「ギャッッ!」
不快な衝撃とともに一瞬で視界を奪われ、人形は思わずのけぞった。
圧力がそれたその隙を突き、礼はすかさず包丁を横にいなした。人形の両腕をつかみ、行き場を失った勢いを利用して強引に引っ張る。
「そんなに殺したいなら、バケモン同士勝手にやってろっ!!!」
円筒形の容器のなかで荒ぶる蟲に狙いを定め、包丁を一気に、深々と突き刺す。
正中に刃を突き立てられた蟲は怒り狂い、金属的な鳴き声を上げながら、その大きな顎で人形の首にかじりついた。硬く、強靭なのこぎり状の大顎が容赦なく人形の首に食い込んでいく。
「ギッ……、ギギッ! コロスッ! コロスッ!」
乾いた音とともに首のパーツが砕かれ、人形の頭が後ろにガクンと垂れた。にもかかわらず人形は執拗に蟲の腹を包丁でえぐり続ける。刃が差し込まれるごとに、腹に開いた複数の刺し傷からドス黒い液体がぴゅーと噴き出した。
容器を満たしていた固定液が電子機器の上にぶちまけられ、幸か不幸か、バックアップ装置は森嶋によってオーバーヒート寸前まで出力を上げられていたために、数か所で回路のショートによる火花が上がった。それらは可燃性の高い固定液にたやすく引火し、人形と蟲は見る間に緑色の炎に包まれた。
両者は燃え盛る炎の中でしばらく殺し合いを続けていたが、そのうち折り重なり、黒いひと固まりとなって動かなくなった。バックアップ装置もまた、人形による最初の一撃の時点で異常をきたし、その後は高温の炎にまかれて主要な回路すべてが焼き尽くされてしまった。
「ふい~~~、どうやら終わったようだな」
えっこらせと立ち上がった礼は、負傷した掌の痛みに顔をしかめながら、通信機を通じて皆に朗報を届けた。
「こちら礼。最後のバックアップ、破壊完了だ」
一都市を丸ごと飲み込むほどの巨大な呪いは、当然、莫大なエネルギーを湯水のごとく消費する底なしの大食らいである。さらにそれが継続して作用するためには、溢れんばかりの魔力を途切れることなく与え続けなければならない。もし一度でも供給が滞れば、魔力はあっという間に枯渇し、呪いは完全に停止してしまう。そうなれば即座に再開することなど到底不可能だ。森嶋からすれば、再び数か月の準備と、途方もない量の魔力の蓄積が必要となるだろう。
つまりそれは、“祭りの終わり”を意味していた。
(これで、あのおっちゃんがどうなるか……。千霧さんひとりじゃ心配だ。さっさと戻るか)
辺りはまだ、バックアップの破壊による影響は感じられない。とりあえず千霧たちと合流するため、礼はくたくたの体に鞭打って移動を始めた。
「……ん?」
ふと礼が会場に目をやると、先ほど会った蛇の舌を持つ女が、爬虫類特有の縦長の瞳孔で、身じろぎもせずこちらを見つめていた。




