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背中を走る鋭い痛みが脳へと伝達された時、千霧の頭をよぎった思考は「早すぎる」だった。
無防備な頭部に相応の霊力を込めて放たれた一撃は、常人なら少なくとも1時間は意識を取り戻さないはずである。
だが、森嶋が昏倒してからまだ30分ほどしか経っていない。
それは半分の時間で覚醒した、ということではなく、とうの昔に意識を取り戻し襲撃のチャンスをうかがっていたことを意味していた。
(“化物”め……!)
緊急避難で大きく前方へ飛びのき、態勢を整えつつ傷の程度をあらためる。
背中の傷はかなり深い。出血がひどく裂傷は骨まで達しているところもあるようだ。
(この状態で、あれを相手にするのか……)
身構えた千霧の視線の先、今しがた自分が立っていたところに、天井から巨大な青い腕がぶら下がっていた。
腕は何もない天井からいきなり生えているようにも見えたが、正確にはビルの屋上にいるこの腕の持ち主から、天井を透過して階下のこの部屋に伸びていた。
青い腕はまさに剛腕と呼ぶにふさわしい威容だった。一抱えほどもある鋼のような筋肉は弾けそうなほどみっしり締まっており、凶悪な膂力を秘めていることをうかがわせた。
節くれだった指の先から伸びる黒い爪を伝って、真っ赤な血が数滴、滴り落ちている。
千霧の背中を切り裂いたのは爪だった。形も、大きさも、太古の肉食恐竜の牙そのものだったが、硬質で鋭利な質感は磨き上げた黒曜石を思わせた。
その手がゆったりと持ち上がり、天井の建材をやすやすとえぐり取ると、握った掌の中で粉砕する。
ぽっかりと開いた穴から、青い腕を横に伴った森嶋が、人が立つのに十分な大きさの掌に載って降りてきた。
「……!」
いつもの森嶋と異なる異様な姿を見て、千霧は思わず息をのんだ。
常に白衣に身を包んでいた森嶋の衣服の前がはだけ、腹部があらわになっている。
そこには顔があった。
人ではない。それは魔物の顔だった。
「上位悪魔……。まさか、人間が悪魔を取り込んだだと……?」
「厳密には少し違う。これは取り外し可能な機能の一つに過ぎん。そうだな、今風に言えば“インストール”したのだよ。悪魔の知識と、能力をな」
青い腕が岩のような拳を突き出してその力を誇示する。どうやら剛腕はグレーターデーモンの肩から先を実体化したものらしい。
腹に埋め込まれた魔物はとうの昔に自我を失っているらしく、ぼんやりと口と目を開いたまま仮面のように固まっていた。
「化物め……」
先ほどはうちに押し込めていた言葉が、思わず口を突いてこぼれ出た。
森嶋が独自に生み出した、科学と超常の融合知識は確かに卓抜している。
だが、だからといって摩利支の幹部クラスに匹敵するグレーターデーモンを、このように利用するなど容易にできるはずがないのだ。
祭鬼と同様、この不運な悪魔がどのような経緯で森嶋の手に落ちたのかは知る由もないが、千霧の目に映るこの姿はそのまま、森嶋の常識離れした執念と狂気を物語っていた。
とはいえ、期せずして千霧たちは森嶋の魔力に関する膨大な知識と、超常の力の源を知ることとなった。だが問題はそこではない。
理夢にとって、そして礼たちにとって一つだけ幸運だったのは、千霧を交渉役に立てたことである。
この畳みかけるような異常事態に瀕してなお、千霧は自分のすべきことを見失わなかった。
「これは一体どういうことだ! われわれはお前の言うバックアップを確かに破壊したはずだ!」
もぞもぞと蠢いていた室内の肉片たちは、自らの行き先を理解したのか次第に思い思いの方向へと移動を始めていた。
「その通り。あれは嘘ではない。私は間違いなくお前たちにバックアップの在り処を教えた」
「ならばなぜ……!」
「一つだけ」
不精な森嶋の替わりに、青い腕が節くれだった人差し指を一本、千霧に立てて見せた。
「お前たちはもう一つだけ聞くべきだったのだ。それで全部か、と」




