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理夢には最初、その少女が分離した自らの肉体であるとわからなかった。
交通事故にあったのは9歳のときである。そこで記憶が止まったままの彼女が15歳に成長した自分を認識できないのは当然だった。
だが肉体と魂をつなぐ生命の結びつきが、強く彼女を引きつけた。一刻も早くここを立ち去りたいと思いながら、理夢はなぜかその場を動けなかった。
混乱と恐怖の極みの中、恐る恐る少女の裸体に触れてみる。
「あっ……!!」
肉体との接触を通して、理夢の頭の中に膨大な情報が一気に流れ込む。それは彼女が眠っていた6年の間に耳で、鼻で、肌で感じ取った、肉体に蓄えられた記憶だった。
◇
「おお、理夢……可愛そうに」
最初の記憶は、昏睡状態に陥った理夢をあわれむ森嶋重四郎の声だった。
「……パパがすぐに起こしてあげるよ」
そして最愛の娘を深い眠りの淵から救い上げようと、森嶋は人生のすべてを捧げて奔走することになる。
「理夢、ここを出よう。もっといい病院があるんだ」
「お早う、気分はどうだい?」
「こんな田舎では話しにならん! 東京だ、東京へ……」
「また、引っ越しだよ」
「京都に著名な医者がいてね」
「誕生日おめでとう、理夢」
「ここも、ここも、ここもダメか……」
「理夢、私たちはドイツに行くんだ……」
「次は……」
…
「どうして……、目覚めてくれないんだ」
際限なく繰り返される希望と絶望の輪廻をさまよいながら、森嶋の言動は次第に正気を失っていった。
「役立たずどもめ! これ以上任せておけるものか!」「誕生日おめでとう、理夢」「久しぶりだね、理夢。なに、新しい研究で忙しくてね」「お医者さんに頼るのはやめたんだ」「仕事はやめてきた。これからはずっと一緒だよ」「出ていけっ! 貴様ら残らず、ここから……!」「もう少し……」「誕生日おめでとう、理夢」「フフフ……、この術式さえ解読できれば」「生け贄が必要だ……」「理夢、私を一人にしないで……」「生け贄……」「もう少し、あともう少しだ……」
◇
理夢にはまだこれらの記憶の意味は理解できなかった。まるでそれが6年の時間を飛び越えた代償であるかのように、否応なく注ぎ込まれる膨大な情報を、身じろぎもできずただ浴びせられ続けた。
「う……、うむ……」
男の声とともに、視界の端で何かが動いた。
瞬時に全身が粟立つ。理夢は急ぎ周囲を見回し、部屋のすみに追いやられていたソファの陰に、風のように飛び込んだ。
リビングの壁にもたれて寝ていた森嶋が、つらそうなうめき声をあげて立ち上がった。
不眠不休の黒魔術の研究と儀式の準備のために、森嶋の脳は活動限界時間をとっくに越えていた。今夜執行された覚醒の儀式は、実に12の行程を4時間かけて行う。ひとしきりの行程を終え結果を待ちわびる森嶋は、不意にめまいを感じてへたりこむと、たちまち気を失うように眠りに落ちたのだった。
自分が寝落ちしていたと覚った森嶋は、儀式の結果を見届けるため転がるようにリビング中央の魔方陣にかけよった。
「さあっ! 理夢、起きろ! 起きるんだっ! 今度の黒魔術は完璧なはずだ! お前はこれで、完全に目覚めるのだ! 理夢、起きろ! 起きろっ!」
(あれは、だれ……?)
ソファの陰から森嶋を盗み見ていた理夢は恐怖に体を震わせた。
耐えがたいほどの孤独と絶望は森嶋を蝕み、6年という歳月以上に彼を変貌させていた。
あれは父ではない……。
そう、父は誰かに乗っ取られたのだ。
あれは、父の服を着て、父の声で話す、何か、別の何か……。
(こわい……、こわい……)
丸々と見開いた理夢のつぶらな瞳から、はらはらと涙がこぼれ落ちた。
理夢が恐怖したのは森嶋の狂気ではなく、優しかった父の、大好きだった父の変容だった。
「……」
森嶋は目玉が飛び出さんばかりに目をみはり、魔方陣内の少女の様子をうかがっていた。
5分待ち、10分待ち、灯された蝋燭のほとんどが消えても、少女に変化はなかった。
丸めた背を小さく揺らし、彼は笑い始めた。泣き声とも笑い声ともつかぬ声だった。
「ク、クク……。また、ダメか……。これだけの知識を集め、これだけの努力を積み重ねても、お前は目覚めないというのか……。だが!」
横たわる理夢の寝顔に食いつかんばかりの勢いで詰め寄る。
「私はあきらめんぞ! いつか必ずっ! 必ず……、お前を……」
丹念に準備を重ねた黒魔術の儀式の失敗は、森嶋をさらなる愛と狂気の奈落へ追い込んでいく。
しばらくの間理夢の裸体を見下ろしていた森嶋は、荒い足取りで部屋を出て行った。
森嶋の足に当たったユメの頭部が軽い音をたてて転がり、ソファの陰に隠れていた理夢の目の前で、舌を出して止まった。
〔残酷描写〕 は10話とこの11話だけ、のはずです……




