ロザリー・R・レジェス(4)
ゴングと同時に、相手の男が踏み込んだ。
(速い!)
ロザリーはガードに構えた腕で弾く。
筋肉のよじれる痛みにうめいた。
グローブのない野良ボクシングでは、防ぐだけ打ち込まれる。
(守っても勝てない。打て!)
ロザリーは誘いの右を打って、男のカウンターをかわしざまにボディブロー。
深追いはしない。上体を反らしてスウェーバック。避けた鼻先を男のフックがかすめていく。
「――っぶね!」
「逃げんなよカワイコちゃん!」
下がったロザリーとダンスのステップを踏むようなワンツー。流れるような動きと鋭さ。
あくまで沈めるつもりのストレートをくぐって避けながら、ロザリーは相手をにらみ続ける。
(やっぱり、こいつ素面だ!)
男の動きには一点の濁りもない。
鍛えた身体に見合った身のこなしに、迷いのない目の動き。
広い視野と遅延のない体さばき。
いずれも、酔った脳ではあり得ない鋭さだ。
(迂闊に攻め込んだら獲られる……かといって守ってばかりじゃダメだ)
真っ当なボクシングであれば、ロザリーは守りに徹する。
相手に主導権を握っている油断を仕込ませ、攻めかかる疲労を与え、決定打を取れない焦りを焚き付ける。
だがここは賭けボクシングだ。
「どうしたアマゾネス、逃げてばっかりか!? やる気がねぇならさっさと降りな! それとも手伝ってやろうか!?」
胴元がぎゃんぎゃんとやかましく叫ぶ。リングを囲むギャラリーが酒を片手に便乗して喚き散らす。
見せ場の遅い試合は、ギャラリーから水を差されかねない。試合がお流れになる可能性すらあった。
(一か八かの突進じゃ勝てねぇ)
相手は自信をもってパンチの布石を置いている。試合に慣れている。
ロザリーの背中はチェーンぎりぎりだ。
ここで突進に転じたところで、カウンターを獲られる。
(勝算をもって、獲りに行く!!)
だから。
体を沈ませ、強く前へ。
相手は落ち着いて右ジャブを打ち出す。
分かりきっている、という完璧な返し。
想定通りという油断。
ロザリーは手のひらを出して拳を受けた。止められるほど軽いパンチではない。自分の手ごと鼻をぶつけられる。
それでも半身を切って、出した足に力を込める。
殴られた体の勢いすらも、助走に変えて。
「くたばれ!」
渾身のアッパーカットが男の顎をかち上げた。
男は浮いた。
よろめくような足は空を切って、落ちると同時に崩れるようにマットに倒れる。両目が別々の方を探してくるりと回っていた。
「ハァッ……ハァッ……!」
ロザリーは膝に手をついた。
金臭い息に混じって、ばたたっ、と地面に水滴が落ちる。鼻血だ。
折れてないように祈った。治療費がまたかかる。
ギャラリーも胴元も、水を打ったように静まっていた。
ロザリーの荒い息だけが響き、荒々しく唾を飲み込み、
ロザリーが勝者の拳を突き上げる。
歓声が湧く、
――ということはなかった。
「……?」
ロザリーはギャラリーを見回した。
あるのは困惑したような顔だけだ。互いに視線を交わしている。
話が違う、というように。
嫌な予感が猛烈に背筋を這い上がる。
ロザリーはリングの隅でヘラヘラしている胴元に詰め寄った。
「おい、あたしが勝ったぞ。掛け金を払え」
「オイオイ、ここまでとは思わなかったぜミス・コング。だらしねぇ野郎どもだ。なかなかホットな試合だった! みんなももっと見たいよな?」
「はぐらかしてんじゃねぇぞ、さっさとしろ!」
胴元はロザリーに返事もしない。
それどころか、ロザリーの肩越しに視線を送った。
ギャラリーの歓声。チェーンのこすれる音。
ロザリーはゆっくりと振り返って、嫌な予感の的中を知る。
「いいねぇ、強気のレディは好きなんだ」
(アメリカ人……っ!)
下手な演技をしながら、待ってましたとばかりにアメリカ人がリングをよじ登っている。
ロザリーは胴元を振り返った。
「おい! 金を……」
「ここで特別ゲストのウィリアムズが登板だってよ! プリンセスには悪いが……こんな盛り上がってるオーディエンスに冷や水ぶっかけるような残酷なこと、俺にはできねぇや! 防衛戦、血塗れエンジェルは攻略できるか!?」
マイクに声を吹き込む胴元は、笑顔を作りながら目で嘲っていた。
ここまでされれば、認めるしかない。
初めからロザリーに払うつもりなどなかったのだ。
「くそっ」
ロザリーは胴元から手を放した。怪我をするくらいなら骨折り損のほうがマシだ。
だが、リングを飛び降りようとするロザリーを、観客が邪魔する。
諸手を振り上げ、ロザリーを押し戻す。邪魔だと怒鳴りかけて、はっとして周囲の客席を見渡した。
せっかく設えられた客席には誰も座っていない。
酒やつまみの残骸が放置されている。
「……全員、リングに集まってやがる」
おそらくは、ロザリーを逃がさないために。
観客たちの最後尾に立つ青年を見つけた。リッキーだ。
ロザリーは彼の目を見る。助けを求めて。
だが、
ロザリーと目を合わせたリッキーは、笑った。
「『友達』を何度となく殴られて、気持ちのいいやつはいねぇよ、ロザリー」
そう口が動く。
つまり。
最初から、間違っていた。
「嵌められた……!」
歓声。
背後でチェーンが擦れる音。
ロザリーは笑みを繕って振り返る。
背が高く、胸も肩も、首さえも厚い。
切れ味すら感じさせる肉体は、美術館の男神像がそのまま動き出したかのようだ。
その男が拳を作って笑う。
「ヘイ、カウガール。楽しもうぜ」
「あたしは高価いぜ、ミスター」
強がるのが精一杯だ。
胴元がおべんちゃらを並べてはやし立て、ギャラリーは躾のなってない犬のように吠え猛る。
そんな声はロザリーの耳に入ってこない。
(壁が立ってるみたいだ。いや、むしろ猛スピードで迫ってくるダンプカーの迫力か)
それだけの爆発力を人の形に固めたものが、今、目の前で立っている。
男は大きくゲップをした。青い血管がひどく目立つ白人の禿頭は、ほんのり赤い。
(酔ってるはずだ。そこを突かなきゃーー)
ゴングが鳴る。
男の肉体が膨れ上がり、
ガーン、と世界が真っ暗になった。




