ロザリー・R・レジェス(1)
「ごぼぁ!」
情けない悲鳴をあげて、大男がひっくり返った。
ロザリーは手を開いてまた握る。顎骨を捉える手応えの残る拳を構えた。
気の滅入る路地裏には生ゴミの腐った臭いが立ち込める。赤道に近い南国は、日差しが強すぎて影が濃い。
薄暗い路地裏で、小麦色の肌をした赤毛の少女は強く笑う。
「あぶねぇなぁ。殴られるときに悲鳴なんて上げたら舌噛んじまうぞ、ベイビー?」
「ロザリーてめぇ……」
倒れた男が呻きながら腰に手を伸ばす。
その肩を別の青年が押さえた。
「ムキになんのやめようぜ、筋肉ゴリラに暴れたって仕方ねぇ」
「だっれが筋肉ゴリラだコラァ!」
ガッと中指を突き立てるロザリー。細身で引き締まった肢体はゴリラよりむしろ豹に近い。
浅黒い肌をした長身黒髪の色男は厚い唇を緩ませる。
「先にビール飲みてぇ。今日も暑いだろ、ロザリーの相手なんかしてらんねぇ」
「ぐ……お前なぁ、どっちの味方なんだよ」
諭された男は文句を言いながらも、しぶしぶ丸め込まれることを承諾した。
男に肩を貸しながらロザリーを盗み見た色男は、ウィンクを飛ばす。
口をへの字に曲げ、ロザリーは腰に両手をつける。
ーーあんなでも、助けられた。
殴られた報復に、ナイフを取り出そうとしていたのだ。
「負けはしないけど。怪我をしないで済むかは分かんないし、どっちも引き下がれなくなる」
ケンカはごめんだ。
必要とあればやるが、そうでないなら堪ったもんじゃない。
路地裏から出たロザリーに少女が飛び付いた。
「ロザリー! 大丈夫? 怪我はない?」
「おいおい、こんなところでどうしたんだマイエンジェル、愛しき妹。怪我なんてないよ。あんな連中に負けるわけないだろ?」
「ロザリー姉は無茶ばっかり」
「無茶じゃねぇーよ、勝算があるからやってんだ。あれ? さっきの白人のねーちゃんは?」
「ホテルに帰ってもらったよ」
野太い声に振り返る。
でぶを警官の制服に詰め込んだオッサンがゆさゆさと歩いてきた。
「このお転婆め。人助けしてる場合じゃなかろうが」
「なんのことだよ?」
引ったくられたバッグを警官に突っ返しながら訊ねる。
恭しく受け取った警官は、苦々しい声を絞った。
「マリアが、お前の母が……」
血の気が失せた。
§
「ママ!」
すだれを破る勢いで庵に飛び込む。
草の匂いが強い茅葺き屋根の小屋には、兄弟が勢揃いしていた。
忙しいはずの長兄までいる。仕事を抜けて駆けつけたのか、ワイシャツ姿のままだ。
彼らが囲む寝台には、母がいた。
ロザリーは母の手にすがりつく。
「ママ……!」
「あぁ、私の天使。そんな顔をしないで。ママは大丈夫。いつもの発作が出ただけだから」
いつもの、だって? それがどんなに致命的なことなのか、知らないほど子どもではない。
ロザリーは泣きわめくのをこらえて母の手を強く握る。
「ママ……」
「大丈夫よロザリー。お医者様がすぐ良くしてくださるわ」
そんなわけがないことは、兄弟の誰もが知っていた。
「ロザリー、ちょっと」
「兄様」
兄はロザリーに目配せを加えて庵を出た。
母の手を名残惜しくほどき、ロザリーは兄を追って寝室を出る。
表に出てすぐには、兄はいなかった。
離れたヤシの木陰で煙草に火をつけている。映画の大都市で見かけるようなホワイトカラーのスーツ姿は田舎の村に浮いていた。
ーーあんな嗜好品……。
よぎりかけた八つ当たりは思考の底に封じた。いつもは吸わない。彼も節約している。つらいのはロザリーだけじゃない。
「兄様」
「強がるなら徹底してくれ」
開口一番それだった。
「ケンカばかりするくせに、繊細な性根はそのままだ。優しいのは美徳だよ。でもそれで、母さんに心配させてどうする」
「ごめんなさい……」
路地裏では口汚い罵倒がいくらでも出てくるロザリーも、兄のまえではしおらしくこうべを垂れるしかない。
兄は煙草を吸って、吐き出した。
「すまない。こんな話がしたいわけじゃなかった」
「ママのこと、だよね」
聞くまでもない。
兄は煙草を吸う。吸う振りをして、口元を隠す。
「薬が尽きたそうだ」
「えっ?」
「今回は持ち直したが、次に発作が出たら分からない。街の大きな病院で治療してもらわないと、もう」
「じゃあ早く連れていこうよ!」
「金がないんだ!!」
日差しは強く、水分が気化するジリジリとした音が聞こえそうだ。遠くでセミが鳴いている。
破裂したような叱声の余韻が、熱で溶けるように薄れていく。
兄は噛み潰した煙草を携帯灰皿に押し込んだ。
「金がないんだ。一回や二回、診てもらうくらいならできる。でも治療となると……とても足りない」
「兄様」
泣きそうな心を、歯を食い縛って飲み下す。
「あたしもっと働くよ! 掃除婦でも井戸掘りでも、なんでも、なんでもやる! それで……」
ロザリーの言葉が続かなかったのは、
兄の目が優しかったからだ。
「それで足りるなら、とっくに頼んでいる」
絶句する。
事実が重たい。
両手を、顔をあげることができないほどに。
「お前は女だ。この国じゃ、女の労働は安く買い叩かれる。金が足りないから、はした金でも飛び付くって、分かっているんだ」
兄の声は感情を押し潰すように平らだった。
貧しいこの国で、プログラミングの外注を請ける外資系企業に就いて平均水準から並外れた収入を持つ彼だからこそ。心底からの嫌悪がこびりついている。
「無用な無理をするくらいなら、ロザリー。お前は家族を見てやってくれ。これまでと同じように」
「でも兄様……あたしだって兄様の力になりたい……ママを助けたいんだ」
「じゅうぶん力になってくれている。頼りにしているよ、ロザリー。今伝えたかったのは、母さんの現状と、お前を頼りにしてるってことさ。……母さんのところへお帰り」
「兄様は?」
「仕事に戻るよ。無理言って抜けてきたからね。挽回しないと」
兄は気丈に握りこぶしをつくって見せる。
ロザリーよりも非力そうなその腕で、家族の命を支えている。
その重さがどうしようもなく、ロザリーの心を苛む。




