八津沙希(2)
お腹までべったりと赤く濡れた母の足取りは浮ついているが、苦しげではない。
「おしまいよ。おしまいなのよ、なにもかも……」
「そうだね」
沙希は笑いたい気持ちになった。
自分より二十年以上も長生きしている人間が、寝ぼけた結論に飛びついている。
もう踏み外してしまった道に固執して、あるはずの道から自ら飛び降りてしまったのだ。
おしまい? そうだろう。
彼女自身の手で終わらせたのだ。
「更生って日本語もあるんだけど。知ってる? おかーさん」
「……なにを、言っているの。沙希?」
母は今さらのように沙希を見て、唖然とした。
「どうして、お母さんになにも言わないの」
「えー。ちゃんと喋ってるじゃん」
「そうじゃないわ」
愕然と首を振って、沙希を見る。
得体の知れないものを見るような目で。
「どうしてお父さんを刺した私に、なにも言わないの……?」
なにを言ってるんだろう? と沙希は首を傾げた。尋ねることなど何もない。
どうして殺したのーって?
守ってくれる人がいなくなった逆恨みだ。
なんでこんなことーって?
自分が苦しい目に遭うのが嫌だからだ。
現実の痛みは家族に押しつけて、自分は「自責の念」とかなんとかいう苦しい気分だけ味わって、お茶を濁せるつもりでいる。
運がよければ、自分が死ぬまで自暴自棄が持続するかもしれない。
だがこの憔悴ぶりを見れば、自分の生存本能をねじ伏せるという大仕事を成し遂げることはないだろう。
沙希は母に声をかけた。優しく、まるで他人に親切にするように。
「罪を償うつもりがあるなら、警察まで付き合うよ。交番は役割が違うから警察署ね? 電話して来てもらおっか?」
「わからないわ」
「調べればすぐ分かるよ。最悪、110でも許してくれると思う」
「どうして、沙希は落ち着いているの……なにを考えてるの、あなた……」
あ、そっちか。
そんな顔で沙希は母を見る。
彼女は両手で包丁を握って肩を震わせていた。
「どうしてお母さんを……実の母を! そんな目で見るの!!」
「そんなって、ひどいな。この目に産んだのはおかーさんだよ?」
目つき悪いかな? と目じりを撫で、玄関の鏡を覗き込む。
その態度に母は怖気づいて足を引き、
「あ、ああ」
震える膝に体勢を崩したかのように、
「ああ、ああああああ!」
身体ごと沙希に突っ込んでいく。
「うわ、まじか」
沙希は傘立てからビニール傘を引き抜いて母に向けた。
だが母は先端に怯むどころか、目を血走らせてつかみかかってくる。
「化け物、ばけもの!! 沙希を、沙希を返して!!」
「あ、っぎゃ!」
肩をつかまれ、沙希は後頭部をドアに打ちつける。足が滑って倒れた。
ぐらぐら揺れる脳と視界に歯を食いしばって、目を開く。
馬乗りになった母が包丁を振り上げている。
「くっ……そ!」
体を跳ね起こす。
包丁を握る腕の内側に肘を入れて押しのけた――力が足りない。
背中が火傷したように痛みが走る。自覚なく悲鳴が喉から溢れていた。
「化け物はどっちだ……!」
沙希は膝で母を蹴り上げて転がした。
傘立てを引き倒し、包丁を握る右腕を押し潰す。
「あうぁっ! がああっ!!」
母は興奮のあまり痛みを感じていないようだった。傘立てごとのしかかる沙希を振り払おうと、包丁を捨てて傘立てを握る。
その瞬間、沙希は包丁をかすめ取った。
「痛い! もうっ」
振り落とされて転ぶ。
傘立てを押しのけた母に一拍遅れて立ち上がり、
「沙希を、私の沙希を返して!!」
「お前のじゃない!!」
沙希は両手を左腰に添えて支え、身体ごとぶち当たった。
おげぇ、とカエルの潰れるような悲鳴。
硬いプラスチックを刺したような重い手ごたえに手首が軋む。それでもきつく包丁を握りしめて離さなかった。
押し込む。
ひねる。
ねじり込む。
「あ……ああ……え……?」
沙希の耳元を嗚咽がくすぐる。
目をきつく閉じて沙希は無視した。
熱い血潮でぬらぬらと指が滑る。歯を食いしばって刺し込み続けた。
母の腰から力が抜けて、靴箱からずり落ちるように座り込む。
肩で抑え込んでいた沙希はようやく、母から体を離して立ち上がった。
「私は、私だ。私だけのものだ。おかあさんのものじゃない」
荒く大きな息を吐いて、沙希はつぶやく。
「だから、一緒には死ねない」
母はなにも言わず、唇を震わせて、沙希を見上げている。
ふっと息を吐いて瞬きした。
「……あれ?」
自分の手を目の前まで上げて、まじまじと見つめる。
震えている。
もう一度大きく息を吐く。ぶるぶると気管が震えていた。
「これが……これがアドレナリンか」
沙希は静かに感動した。体の興奮が制御できない。
母に視線を戻す。
目を開けて虚空をぼんやりと見上げる彼女の瞳孔は開いている。沙希は母の首筋に指を添えて、顔に這わせた。呼吸も脈も感じられないほど弱い。
脾臓を刺した。
血管が密集した重要臓器だ。急激な失血に体が耐えきれないだろう。
「驚いたな」
母の脈を計ったその指で、自分の頬をつねる。
痛みがぼわっと遠い。
まるで夢の中のようだ。
「さすがに、親の死には動揺するのか。私も」
沙希は思い出したように家にあがった。
リビングで倒れているはずの父の容態を確認しに行く。
電話の子機を取って救急ダイヤルにかけながら。
もう黄昏の残滓さえ、夜に沈んで消えている。




