第五章
未来の異能力で戻ってきたのは由緒の事故未遂のその後の時間。
場所は由緒の家、彼女の部屋。時間的に言えば、冬子が事故を起こしてから一時間経つか経たないかと言った頃だ。歴史的に見れば、少し前には要が要と共闘して、《傷持ち》五人と乱戦を繰り広げた直後。その間の、要以外のことへ視点を向けて想像する。
現実的な話で言えば、事故の後処理が終わったところだろう。その間、要達は由緒の部屋にいる事になっている。あの事故は色々と慌しかったが、その中で幾つか当たり前の事もしたのだ。
まず冬子の安全の確保。事故の衝撃で気を失った彼女は病院に送られた。結深はそれに付き添っている。彼女が行く前に少しだけ話をして、由緒のことにも触れた。
由緒には要達がついている。後から様子を見て病院に向かうと話してある。念のためと言う事で未来から事情を聞かされた透目が家に残っているはずだ。彼と合流すれば問題なく日常の皮を被れる。
事故の細かな事後処理は『Para Dogs』がどうにかしてくれると未来が言っていた。だからそちらの聴取などは後回しだ。一時間もあったのだからその間に透目が話を合わせてくれているはずだ。
彼には裏方の部分で随分と世話になっている。派手では無いし、一緒に時間を旅したわけでもないが、大人である彼の助けがあるからこそ、非日常を追い掛けてこうして戻ってこられたのだ。
色々総合すれば、そろそろ要達が病院に向かってもいい頃。何よりここからは透目の異能力に頼る事になるのだ。
「で、問題は透目さんに楽とこの騒動の事をどう説明するかだな」
「わたしが預かります。事件の犯人はわたし達の時間からやってきた人で、その人は捕まえて未来に送り返した。先輩とわたしは明日見先輩達と協力するためにやってきた。後は協力して時空間事件の事後処理をするだけ……。これでどうにかなりませんか?」
要の疑問に答えた加々美の声に頭の中で辻褄を合わせる。
犯人は捕まえた。その犯人は未来がいた時代より未来の人物で、その人を捕まえ送り返すために加々美と楽がやってきた。……問題ない。
二人が未来達の協力者である証明……『Para Dogs』としての証明証や『捕縛杖』の提示でどうにかなる。
これまで正体を明かせなかった理由……犯人の虚を吐く為。これで大丈夫だ。
「……あぁ、問題ないな。矛盾もない。嘘は、まぁこの際は仕方ないか。楽を犯人にする訳にもいかないからな」
何よりの幸いは、透目が楽の事を知らないこと。だからこそ彼の存在を好きに語れるのだ。
「…………別にいいけれど、未来に帰ったらあたし本当の事をお父さんに話すよ?」
「そこは未来の仕事だろ?」
「……他人事だと思って…………」
「最悪未来の俺にどうにかしてもらえばいい話だ。違うか?」
きっとこの騒動における最終手段。計画を実行したのが楽の時代の要でも、未来の時代の要もこの歴史再現は計画をしていたはず。証拠はと言うならば、楽を追い掛けて向かった未来で、過去の要に気付いてそれを見逃してくれた彼の存在だ。
『Para Dogs』の建物のロビーで一緒にコーヒーを飲んだ老人。彼が未来の要なのは分かりきったこと。彼が暇潰しにと話をしてくれたからこそ、要のあの時代での言動が全て肯定されるのだ。それはつまり、あの瞬間にあの出来事が起こる事を知っている事に他ならない。
────だからこそ、今理由が見つかった。
「未来、楽。俺の記憶は消さなくていい」
「え…………?」
「……根拠は?」
理由、ではなく、根拠と聞いた楽。その言葉に、やっぱり彼は全て知っていたのだと恨み節を心の内で送っておく。
「未来ももう気付いてるだろ。これは時空間事件なんかじゃない。ただの歴史再現だ。それを指示したのは未来の俺だ」
「それは……」
「再現しろ、なんて、それを経験するか知ってないと言えないだろ」
そう、知っているからこそ、楽にあの小説が届く。
この歴史再現をノンフィクションにしたような、歴史再現の台本。あれは、この過去を知らなければ書けない話だ。
そして何より、由緒に『パラドックス・プレゼント』をするためには、ここで起きた事を覚えていないと成り立たない。
彼女に半世紀越しの贈り物をするために未来と透目を送り込み、楽と加々美を巻き込んで再現する。そしてその根底には、異能力を知っていなければ不可能と言う前提があるのだ。
ここまで条件が揃えば、今更覆しようがない。全ては未来の要の仕組んだ茶番だ。
「それに由緒にだけ全てを背負わせるなんて事できるかよ。そうでなくとも振り回された被害者なのに、俺だけが忘れて彼女の理解者になれなければ、その事に自分を責めるのは由緒自身だ」
「よー君……」
聞こえのいい理由なのも理解している。けれどそれ以上に、今語った言葉が要の本心だ。
由緒に全てを押し付けて一人になんてできない。何より彼女がするべき後悔の原因は、《傷持ち》たる要の責任だ。
「母さんと冬子さんから今回の記憶を消せば、知ってるのは俺と由緒だけ。由緒の異能力にも理解者が必要だ。それこそ、『Para Dogs』が出来るまでな」
「っ…………!!」
確信する様に告げれば肩を揺らした未来に笑う。
今更しなくてもいい答え合わせだ。未来の要は、『Para Dogs』の局長だった。経過した年月から考えても、初代であり、創設者。大衆向けには異能力者の保護と人権確保などと謳うのだろうが、その本質は呆れるくらいに独りよがり────ただ大切な、幼馴染のためだ。
それを、今後爆発的に増えるだろう異能力者の管理と重ねて一つ事を成すのだ。無能力者である要が上に立つ事で、異能力者の管理と言う名目も意味を持つ。
……あぁ、もう一つ言及するのならば。要のいるこの時代周辺が、異能力者が現れ始める時代だ。だから今の時代に『Para Dogs』は無い。
もしもっと自惚れてもいいのなら、由緒が最初の異能力であればいい。
誰よりも彼女の傍で、誰よりも彼女の味方で。要は他の誰でもない、由緒の為に──己の為に未来を作るのだ。
「これが記憶を消さない根拠にして理由だ」
どうでもいい事を更に言うのであれば。要が『Para Dogs』を作るのならば、その名付け親と言う事になるのだろう。
随分と前……未来とであった頃にその名前を聞いた時。武力としてのパラベラム弾と、時空間を守護するパラドックスと、厳罰の犬と言う三つを掛け合わせたその名前に趣味がいいと笑った事もあったが、知らずの内に己のセンスを絶賛していたらしいと。……いや、別にそういうつもりは無かったのだけれども。
と言うか異能力に関する事柄は基本未来から聞いたものばかりだ。だから未来がここに来て要に伝え、それを覚えていた要が未来で使用して、孫である彼女が過去の要に伝えて……というループを生み出すのだ。そういう意味では、要にそれを伝えた未来こそが何よりの犯人だ……と、責任を押し付けておく。
「……あぁー、これは仕方ないですね」
「……? 何の話だ?」
「いえ、なんでもないですよ。ね、明日見先輩っ」
「っ! う、うるさいっ!」
「…………よー君の浮気者……」
と、そんな事を考えていたところ、呆れたように零した加々美。その声に楽が疑問符を浮かべて、次いだ加々美の声にこちらを呆けるように見つめていた未来が顔を赤くする。結果由緒に詰られたのは要。
なんだか理不尽な言葉のリレーに、けれどもしかしての想像が追いついて要も恥ずかしくなる。
話を逆に辿っていけばわかる事だ。
要を批難するという事は、由緒が要に対して何かを思っているということ。それはどうやら未来の赤面に理由があるらしく、その理由について加々美は心当たりがある様子。
最後に要が今し方見せた、未来が語ってきた全てを受け入れ、そうして導き出した理論と。しばらく前に自嘲するように零していた未来のやりきれない心情と。そしてまるで嫉妬のような由緒の浮気者の一言を混ぜ合わせれば、味の調った答えと言う名の料理が出来上がる。その料理の味が分からないほど、要は鈍感では無いつもりだ。
「……ほんっと、ままならない…………」
顔を逸らして拗ねるように呟く未来。
それと一言一句違わない言葉を、要はしばらく前に聞いてきたばかりだ。
まぁこれ以上の詮索は未来の名誉の為に控えておくとしよう。
「…………えっと、だったら直ぐにお父さんと合流してもいいよね」
「そうだな。今更無駄な時間を使っても意味ないし。これ以上間延びしたところで面倒が増えるのもごめんだ」
これまでの時空間事件──歴史再現が楽しかったのは事実だが、それを更にひっくり返すような真実が出てきたところでまたかとなるのが要の正直なところだ。
物語の定石とも言うべき理屈を覆すどんでん返し。しかしそれを多用されてしまえば新鮮味も無くなり何でもありになってしまう。なにより、現実で次々に変化していっては、ついて行く事もできない。
物語のように鮮烈で慌しい出来事ではあるけれど、これは紛れもなく要達にとっての現実なのだ。そういう他人事に大変だと思える事を背負いたくは無いだろうと。
「ふふっ、それじゃ行こっか」
嫉妬のような何かから戻ってきた由緒が笑って、それから立ち上がる。
「にしてもなんだかいろいろあった気がするねぇ……」
「由緒っちは殆ど何もしてないだろ?」
「あ、ひっどーい。っていうかそもそもがく君の所為じゃないの?」
「どちらかと言うとお兄ちゃんの所為な気が」
「明日見先輩の言う通りですね」
「無能力者の分際で一体俺が何したってんだ」
他愛ない。どこかにあるような友人同士の付き合い、会話。こんな事にならなければ有り触れた景色としてありえたかもしれない時間。
理想に憧れる兎の少女と。大和撫子の皮を被った破天荒な幼馴染と。クールな趣味はモえているらしい友人と。そんな彼を慕う小さな埒外と。
そして人間になりたいだけの何かの要と。
友人付き合いとしてはこれ以上無いほどに騒がしく楽しい関係は、けれどそれぞれに抱えた隔たりが全てを交わらせはしない。
こんな事が無くても、人と人は完全には分かり合えない。そんな分かり合えない中で、どうにか紡いだ関係に共感と居心地の良さを覚えているだけだ。
それでもこの繋がりを否定し難いほどに、今要は人間らしくいられているだろうと客観視する。そう考えるくらいには、今ここにある現実はとても特別だ。
思い通りにならない事に、しかし楽しいと思える程ままならない。その点で言えば未来と同じだ。
他愛ない会話の裏で、意味のない事をつらつらと考えながら、そうしてようやく自分の家へと戻ってくる。門扉を抜け、庭のギンモクセイの木を横に玄関の扉を開く。聞き慣れた音、手に馴染み過ぎた感触と重さに中へと入れば、音を聞いて居間からやってきた透目が出迎える。
この時代の彼と顔を合わせるのも久しい。
「思ったより早かったな」
「そうかな。……うん、こっちは殆ど片付いたから合流しようと思って」
「そうか」
未来が交わす言葉。その最中でちらりと向いた視線は楽と加々美へ。けれど慌てることなく、先ほど決めた通りに景色を動かす。
「改めまして、観音楽です。俺も『Para Dogs』の一員で、お二人を手助けするためにやってきました」
「同じく稲生加々美です」
礼儀正しく何かの仮面を被った二人に、それからどうでもいい事を考える。
それが偶然なのか、それとも歴史の修正力染みた必然なのかは、既に要には分からない。けれど二人がこうして挨拶をする場があって、それに合わせるように、二人に降りかかる制限は未来の『時空間移動』のものだ。だから自己紹介でも不自然なく自分の名前を言える。
今この瞬間までを誰かが予想したとは思えない。何せ二人の立場を利用するこれは、未来の異能力で移動した後に立てた策だ。
意図しなくとも、歴史はどこか都合よく運ばれている。それが歴史が一つであることの証明なのか、神の見えざる手なのかは、既に曖昧で関係のない事なのかもしれない。
そうして誰の考えをも越えて紡がれる今と言う未来に、やっぱり歴史は変えられるのでは無いだろうかとさえ思えて来る。
そもそも、歴史の全てが辻褄合わせで、再現で。そうして無駄なものなんてないのなら、時間の逆接も、世界五分前仮説も……そして未来や過去と言う概念でさえ存在しなくて構わない。
そう考えてしまえるから今があって、きっと誰の所為でもなく、世界は回っていくのだと。
「ノート部屋に置いて来る」
自己紹介やら、未来と透目の間での情報の共有やら、少しばかり時間が掛かりそうだと考えてノートパソコンと共に自分の部屋に向かう。
歩き慣れた我が家。廊下に出て、階段をのぼり、扉を開く。たったそれだけのいつも通りに、けれど懐かしさを覚えるのは仕方の無いことだろうか。
こんなに長く家を出ていた事もない。だからまぁ、寂しさと一緒に込み上げてくるものも当然だ。
全く、なんだか随分と遠くまで来た気がしながら。
久しぶりの自分の部屋を見渡して、それから足りなかった最後のピースを机の上に嵌める。今から思えば随分昔に感じた違和感。こうして終わってみればなんて事のない時の流れにそんなものかと納得しながら。
そうして元の場所に戻ったノートパソコンを見下ろして、不意に向いたクローゼットへの視点で思い出す。
服を、殆ど着っぱなしだった。
途中服飾店に寄った際に替えを色々揃えはしたが、流れる時は要を待ってくれなくて、着替えようもなかった時間も存在した。
そんな事に気付いて、無性に着替えを急かされているように思いながら。中から上下一式を取り出して、今着ているものを脱ぎ始める。
「よー君……? ひゃうっ」
「どわっ! びっくりした……」
と、上を全て脱いだところで、ノックも無しに扉を開いたのは由緒。幼馴染故の無遠慮さで果たした、立場が逆な気がする衝撃に何よりも先に扉が閉まる。
「ご、ごめんっ。少し話がしたくて。着替え中だったんだね……」
「いや、いいけど。……下にいなくていいのか?」
「なんだか話をしてたけど、私には殆ど関係ないから。だから一言言って抜けてきちゃった」
扉越しにくぐもった声が交わされる。
直ぐそこに由緒がいると思うと気恥ずかしく感じるのは、要が彼女の事を意識しているからだろうか。
もう既に、認めるほか無いほどに。要は彼女の事が好きで、大切だ。
幼馴染としてずっと過ごしてきて、今以上の触れ合いだってしてきただろう間柄なのに。ままならない感情と言うのはどうにも自分でさえ持て余してしまうと。
そんな事を考えながら手早く着替えて由緒を呼ぶ。
「もういいぞ」
「う、うん。失礼する、ね?」
距離を計るような前置きと共に部屋を覗き込んできた由緒が、それから後ろ手に扉を閉めてはにかむ。
「あ、私も着替えておけばよかった……」
けれどそんな緊張も一瞬で、いつも通りに零れた由緒らしい音に思わず笑みを落とす。
確かに、意識をしている相手の前だから気にするのはわかる。要が至った着替えの動機だって、渦巻く色々な感情の中にそういった物がないとは言えない。それくらいには、由緒はやっぱり特別だ。
「なら今から行って来るか?」
「……ん~ん、いーや」
笑って首を傾げる由緒。仕草に長く波打つ黒い髪が揺れて、こちらを見つめる青み掛かった瞳に思わず胸が跳ねる。
今更ながらに、由緒は美人だ。言動こそ破天荒ではあるけれど、それ以上に彼女は整っている。
大和撫子のような優しい雰囲気と、女性らしい丸みと。清楚と言っていいくらいには涼やかなワンピースがよく似合っていて。艶かしささえ覗かせる白い首筋は女性らしい線だ。
改めて、要の幼馴染は美人だ。
そんな彼女が、何かを確かめるように口を開く。
「……本物、だよね……?」
「…………あぁ、そうだな」
そこに意味があるだろうか。そう思うくらいには自然で、そして意味の詰まった言葉に要も心の内を曝け出す。
全てが、本物だ。時間も、空間も、歴史も、要も、由緒も。
一つだって偽りは無い。
由緒が笑って、足を出す。静かな足音と共に距離を詰めてきた彼女は、それから横を通り過ぎて後ろのベッドへとダイブした。
「おはっ、ひっさしぶりぃ」
「…………お前の部屋じゃないんだぞ?」
「知ってるよー」
……もしかして気恥ずかしいのはハードルが高かったか? 今までまともにそういう話をして来なかった弊害だろうか。それとも要の本の読みすぎか?
僅かに積もった感情を胸の奥に置いて、それからベッドの淵に腰掛ける。背後で由緒が転がる気配。
「なんだか安心するねぇ」
「落ち着いては無いだろ? 服に皺ができるぞ?」
「なにそれえっち」
今の何処にそんな要素があっただろうか。
相変わらず話の通じない気がする幼馴染に小さく溜め息を吐けば、それからマーキングを終えたらしい由緒が天井を見上げながら呟く。
「私ね、嬉しかったんだぁ」
「何が」
「うーんと、ぜんぶ」
脈絡が息をしない、要領を得ない唐突な言葉に思わずくすりと笑う。それもまた由緒らしい答えだ。
「ぜんぶ、だけどね。一番新しいのだとよー君が記憶を消さないでって言ったことかな」
「……あれは俺のためだからな」
「そうだね。もちろん私だって忘れたくないよ。みくちゃんの事も、がく君の事も大好きだもんっ」
嫌いになれるはずなんてない。ドジしたり素直でなかったり……。けれどそんなのは沢山あるうちの一つで、彼女達を判断する要因でしかない。
なによりこれは、要の為の歴史再現で、由緒の為の歴史再現だ。
分かっていて尚、そうして手を貸してくれた事に感謝こそすれ、恨みなど本気であるはずもない。
それは要も、由緒だって同じだ。『パラドックス・プレゼント』の事は知らないけれども、きっと由緒はどこかで気付いている。だからこそ、彼女達の事が大好きなのだ。
「そしてそれ以上にね、私の事を心配してくれるよー君の事が大好きなんだぁ」
そうして、頬を染めた彼女は何処までも嬉しそうに呟く。
「よー君は?」
「……あぁ、好きだよ」
「気持ちこもってなぁい、やりなおしぃ!」
分かっていて文句を垂れる由緒。
確かに彼女の事は好きだ。唯一無二に、異性として好意を抱いている。
けれど同時に、彼女は幼馴染であって。今まで重ねてきた関係が感情と理性を鬩ぎ合わせて中々まともに前を向けない。
男のツンデレなんて、需要は無いのだろうけれども。これは要の偽りない気持ちなのだから仕方のないことだろうと。
恥じらいのない好意は好きじゃない。……これは前に由緒が言っていた持論だったか。
使い古された返答をするのなら、恋は下心で愛は真心だ、なんてて言えるのだけれども。
そうして何かの型に嵌める事が間違いだと、この気持ちが教えてくれる。
「それを言うなら由緒だって安売りしすぎだ」
「貞操観念の薄い女を女としては見れない……?」
前に由緒に向けた言葉を突き返されて答えに詰まる。そんな反応に彼女は肩を揺らして、寝返りを打つようにこちらに向けて寝転がった由緒が紡ぐ。
「馬鹿だねぇ、よー君は。安売りセールス中に買っとかないと損するよ?」
「俺は価値あるものとして由緒の事を選びたいんだ」
「うっわぁ、恥ずかしい台詞っ。よくそんなの真顔で言えるね。漫画じゃないんだよ?」
「漫画じゃないから、だろ?」
「……うん」
と、今度は由緒が返答に困って。何かを求めるように、ベッドの上に置いた手を優しく手繰り寄せられた。
「…………いつ振りかな、よー君の手を握るの」
「六十年振りだな」
「何それっ」
温かく柔らかい手のひらの感触。本当に、意識をして握ったのはいつ振りだろうかと無粋に記憶を旅し始めたところで、部屋に扉を叩く音が響く。
「なに?」
「あたしだよ。話がついたから呼びに来たの」
「ん、分かった」
気を遣ったのか、扉を開けないままに話をする未来に、待たせるのも悪いと立ち上がる。
と、握っていた手に力を入れて由緒を引っ張り上げれば、されるがまま立ち上がった彼女がそのまま要の胸にまで急接近して────触れるか触れないかの啄みを唇に残した。
直ぐに離れた由緒は、それからしてやったりと言う風に笑みを浮かべて歩き出す。
「…………お前なぁ……」
「えっへへぇ……」
言葉が見つからないままに小さく零せばこれ以上無いほどに甘く笑う由緒。それからどうにかいつも通りを取り戻しつつ扉を開けると、扉の前に立っていた未来が楽しそうに笑っていた。
「……お邪魔だった?」
「…………楽より性格悪いな、未来」
「おじいちゃん譲りですぅ」
……未来の俺よ、教育方針を何処で間違えた。いや、教育と言うのならそれは透目の責任だろうか。
呆れて反論も見つからずに溜め息を吐けば、未来と由緒が顔を見合わせて肩を揺らす。それはまるで、仲のいい姉妹のような光景だった。
それから少しだけ面子を入れ替えて結深と冬子のいる病院へと向かう。
入れ替えは、透目と加々美だ。彼がこちらに加わるのは予定通りで、加々美は自分で増やした歴史再現のためだ。後ついでに、冬子が起こした事故の処理の根回しと、この歴史再現の事を連絡してくるとも言っていた。そちら側の事は要にはどうしようもない。全て彼女に任せるとしよう。
まぁ結深の目の前に加々美が現れるのもそれはそれで少し面倒になるのだ。
あまり考えないようにしていた事だが、未来も、そして加々美も。その見た目は日本人どころか人間離れした色彩の持ち主だ。加々美は今由緒の『時間遡行』を宿しているから、未来と並べれば赤と白の色彩を放つ。ウィッグだと言い張れば通せないこともないが、蟠る疑念は避けられない。加々美に至ってはまだ12歳の女の子だ。学力こそ義務教育を修めているらしいが、それが言い訳として意味を成すほどこの時代の常識は甘くない。
未来だって身長が低い分更に小さく見られることもあるだろう。そんな子供とも言うべき二人が異色な雰囲気を撒き散らしていれば注目を集めるのは仕方のない事。
それを回避するためにも加々美は席を外したのだろう。
異能力そのものだけではない。それ以外が及ぼす影響と言うのは言葉になり難く渦巻くものだ。
要が『Para Dogs』を目指すのならば、その辺りの事もよく考えなければ、要の知る未来には辿り着けないのだと今から色々な課題を脳裏に列挙しながら……。
そうして辿り着いた病院で。受付で部屋番号を聞いて病室へと向かう。
因みに未来は前に身に着けていたキャスケット帽に髪を上手くしまって奇異の視線を回避していた。どうでもいいけれど、髪型一つで受ける印象が変わるのは不思議な事だ。
いつものツーサイドアップは既に要の中で未来らしさとして定着していて、子供っぽいと笑う未来の時折見せる愛嬌などに似合っているとは思う。けれどそれを取ってストレートロングになれば、どこか妖艶ささえ纏って蠱惑的な魅力を持つのも既に経験したこと。加えて今みたいにショートヘアに見えるような髪型は、快活な少年っぽさが前に出てきて親しみやすささえ感じる。それも今、彼女がパンツルックなのも理由の一つなのだろうが……なににせよ見た目の印象とは意外と髪型に左右されるのかもしれないと考えながら。…………それとも単に要個人が髪型を意識しすぎているだけなのだろうか。由緒に言わせれば髪フェチとでも茶化してくれるのだろうけれども。
そんな懸念の色々も『変装服』一つで解決はしてしまうのだが、そうなると未来の外見が別人になってしまうし、結深を驚かせてしまう事になる。そう言った話し合いの結果、『変装服』ではなくこうした変装紛いのごまかしに落ち着いたのだ。要個人としては、美人は得だという納得に落ち着いている。
「……どうかした?」
「あ、いや。なんでもない」
と、どうやら知らずの内に未来の事を見つめていたらしい。そう言えば前に未来に指摘されたが、考え事をする時に一点を見つめる癖があるらしいと。その所為で勘違いされたのだろう。
「みくちゃん、やっぱり気をつけた方がいいよ?」
「……そうですね」
「やめてくれよ」
もしかして由緒なりの嫉妬だろうか? だったらせめて要を直接責めて欲しいところだ。未来まで巻き込んで自分の味方を増やすのはやめていただきたい。
そんなやり取りをしていると辿り着いた病室。その部屋番号を改めて見つめて、それから視線を楽へと向ける。
「…………偶然だ」
「そうであって助かったよ」
そこは元々楽がいた病室。誰かのいたずらと言う話が脳裏を過ぎったが、少なくとも楽の手によるものではなかったらしい。
こんな小さな事に疑ってしまう当たり、要も大概だとは思うのだが……。
思いつつ扉をノックして中に入れば、ベッドから上半身を上げた冬子と、その隣で椅子に腰掛ける結深の姿を見つけて安堵した。
「……お母さんっ、無事?」
「えぇ、先生が言うには何処もおかしくはないそうよ。ただ事故の衝撃で、そのあたりの記憶が少し曖昧になっているけれど。由緒こそ大丈夫? 怪我とかしてないかしら?」
「うん。よー君が助けてくれたから」
「そう、よかったわ……」
由緒によく似た笑みを浮かべる冬子。互いの心配も当然。それだけで、やっぱり二人は親子なのだと再確認する。
「要も大丈夫? 由緒ちゃんを助けるために無茶をしたんでしょう?」
「無茶って程じゃないよ。危なかったから助けようと思って、少し地面転がっただけ」
結深の心配も当然の権利。
その裏でいろいろあったりはしたけれど、その瞬間だけ語ればなんだか拍子抜けしてしまうのは仕方のないことか。
動画から静止画を取り出したら変に見えるというそれだ。深く考えるだけ無駄な話。現実なんて結果があればこそだ。
「そう、無事ならいいの……」
親の心子知らず。そうでなくとも父親のいない不完全な家族だ。心配は必要以上か。
「お母さんは今日は病院?」
「えぇ、検査入院をして、明日には家に帰れると思うわ」
「あ、着替え……うん。後で持って来るね」
傍らで由緒と冬子が当たり前の会話を交わす。
現実なんて有り触れている。その光景を何処か遠くの出来事のように眺めながら、そうして未来によって耳打ちする。
「二人の記憶、ここで消すのがいいんじゃないか?」
「……そうだね」
透目の『記憶操作』は、触れるだけで記憶を書き換えられる。その代償に、透目自身は記憶を少し失うが、しかしこればかりは仕方ない。
未来や透目はそもそもこの時代の人間ではないのだ。その存在を彼女達の記憶から消す事も立派な歴史再現のひとつ。
それに楽の『催眠暗示』も同時に書き換えられるはずだ。
冬子に掛かっている『催眠暗示』は事故の際に逆位相で消している。結深に掛かっているものはそもそも楽に関する記憶だけだ。その『催眠暗示』で騒動を起こしたわけではない。
まぁそれを利用されて彼女は一度時空間旅行をしているわけだが、眠っている間の事だから覚えて居ないはずだ。
それらの記憶の補完も含め、彼の異能力が辻褄合わせには丁度いい。
元はと言えば、未来が解決してその記憶の処理を透目が行う。そういう計画で動いていたはずなのだ。だからこれは、当初の流れに戻すだけ。
「けど、本当にいいの?」
「何が?」
「お父さんが記憶を書き換えられるのは一度に二人。それも一度使うと三日間は使えない。二人を優先させれば、お兄ちゃんの記憶を消さない事になるんだよ?」
「それに関してはあの時言った通りだ。逆に、俺が記憶を維持してないと不都合な事も起こる」
この歴史再現を計画した未来の要がその証拠。そこから逆算すれば、ここで幾ら問答しようと行き着く先は決まっている。
「それに奥の手として加々美もいる」
それは当然方便だが。最悪彼女の『能力転写』で透目の『記憶操作』を宿して使用すれば、二人以上の記憶をこの場で書き換える事は可能だ。
更に言及するならば、制限までをも完璧に映す『能力転写』なら、加々美自身の記憶が消えることもない筈だ。『記憶操作』の制限は、透目の記憶が消えると紙に書かれていたはずだ。ならば少なくとも、加々美の記憶は消えない。
問題は、加々美が使用をした際に、オリジナルである透目の記憶に影響が出るかも知れないと言う点だ。
『音叉』が離れていても制限を共有していた。それを考えれば元が同じ異能力である『能力転写』の制限がそもそもの持ち主に影響を及ぼす可能性も捨てきれない。
この辺りの事はきっと加々美自身が知っているはずだが、生憎と今ここに彼女はいない。
「へりくつばっかり……」
諦めのような非難を聞きつつ顔を向ければ、未来は透目に向けて頷く。
となれば後は透目がやりやすいように二人の興味を引くだけだ。
考えて、それから未来に視線を向ければ、仕方ないとばかりに協力を首肯してくれた。
「あ、そうだ。飲み物でも買ってこようか」
「検査入院でしたら飲食は大丈夫ですか?」
「えぇ、十八時までなら好きにしていいらしいわよ」
「わたし──」
「いつものな」
こんな時でさえ変わらない由緒に先周りをすれば、唇を尖らせて面白くなさそうにする彼女。阿吽の呼吸とも言うべきやり取りに、病室が華やぐ。
その間に、静かに歩み寄った透目が二人の後ろからゆっくりと頭へと手を伸ばし。そうして異能力を行使する。
目に見える形での発露は無い。異能力は魔法のように魔方陣が出現するわけではないのだ。ただそこに結果だけが現れる。
けれどだからこそ、周りの目を引くこともなく静かに事を成す事が出来る。もし異能力の出が目に見えるのだったら、話はもう少しややこしくなっていたのかもしれないと。
考えていると、頭に手を乗せられた二人が意識を失うように脱力する。冬子はベッドへ、結深は直ぐ傍にいた楽が肩を掴んで倒れるのを止めた。
見れば寝息を立て始めた二人に小さく安堵をする。
「記憶を弄るって事は脳に直接干渉するって事だからね。少しやり方を変えれば眠らせる事もできるよ。もちろん一時的なものだけれどね。でもだからかな、中にはお父さんの異能力を『生体感応』と何かの複合能力じゃないかっていう人もいるんだけど」
「未来のもそんな話があったな。けど、そうか……触れられる距離まで近づけば無力化も出来るんだな」
これまでもそうして犯人を捕まえてきたりしたのだろうか。
だと言うのなら、いいコンビなのかもしれないと。未来の異能力や見た目に注意を引かせて、その後ろから透目が確保する。縁の下の力持ち、などと彼の事を思っていたが、どうやら彼が本命である場合も存在するようだと。
と言うかそちらの方が相手を傷つけなくて穏便だ。その気になれば要を容易に組み敷く、ともすれば未来以上に接近戦を極めた人。彼の本気の一端をその身で味わったからこそ、彼もまた『Para Dogs』の一員なのだと強く感じる。
こんな人たちの上に立つのかと考えると少しだけ気が遠くなるが……要は要なりに演技をし続ければいいだけのことだろう。
未来とそんな話をしている間に、透目の手が二人の頭から離れる。
「終わりですか?」
「あぁ。次に目を覚ました時には既に彼の事も、それから私達の事も忘れている」
「記憶は大丈夫ですか?」
「心配は嬉しいが……もう慣れてしまったよ。少なくとも、今君と会話できている以上この場限りは問題ないはずだ」
制限は目に見えるものではない。特に透目のそれは彼自身の記憶が代償だ。慣れた、と言うのはきっと要を安心させる為の方便なのだろう。
だったらこれ以上追求するのも彼に悪い。彼のお陰で日常に戻る事が出来るのだ。今はただ、感謝をしておこう。お礼は未来で。
「しかし本当によかったのか? 未来から話は聞いているが、君の記憶は……」
「大丈夫です。由緒を一人にも出来ませんから」
記憶を司る彼からしてみれば要はイレギュラーだ。これまでそうしてきた前例には当て嵌まらない。彼の心配もよく分かる。
「もし必要だったら、また三日後に来て記憶だけ消して帰ればいいんじゃない?」
「…………そうだな」
この話をした際には批難をしていた未来だが、今はどうやら要の味方をしてくれるらしい。彼女の言葉に透目も頷く。
もっと言えば、今いるこの時代でホテルにでも篭もって三日過ごし、異能力が回復してから記憶を消して未来に帰る事だって可能なのだ。ただそうすれば、その分だけ彼の記憶も消えてしまう。
けれど未来の要の存在がある以上、既に疑ってはいない。これは正しい選択だ。
「で、この場合『催眠暗示』や後催眠暗示はどうなるんだ?」
「……一つ誤解してるようだから言うけどな。結深さんの『催眠暗示』はもう解いてあるぞ。前に『催眠暗示』を掛けたかって質問された時は掛けたって答えたけどな。解いたかって聞かれてないだろ?」
「今更そんな言葉遊びすんなよ……」
記憶を遡る限り、楽が結深に最後に接触したのは迷子の過去に向かう際。あの時に結深の記憶を頼りに『音叉』で由緒を利用し過去へ。そこで要たちが彼女を取り返し、未来に送り返した。
となると、結深と一緒に移動して、要が結深を取り戻すその間に、楽はもう必要ないからと『催眠暗示』を解除していたのだろう。
「それじゃあここで逆位相は必要ないんだな?」
「そう言う事だ。後催眠暗示は前に言ったな? 『催眠暗示』を軸としてるからそれが消えてるなら例えトリガーが引かれても再現され辛いって」
これまでの事を聞く限り、結深の後催眠暗示は由緒と同じ……『スタン銃』の銃口を見ることだ。普通に暮らしていれば銃を向けられる機会などそうありはしない。心配しなくてもいいはずだ。
「分かった。で、次だな」
「記憶を変えて君たちはここに来ていない事になっている。私がいるのも不自然だ。まずは移動だ」
結深と冬子の視点では再婚もなく、由緒を轢きそうになったと言う記憶もないはず。ただ日常を過ごしていた結深と、自損事故を起こした冬子と言うわけだ。この二人についてはこれで終わり。
後残っているのは全て時空間移動が必要な再現ばかりだ。それらを終えてここに戻ってくる。それで、この歴史再現もおしまいだ。
「どれからやる?」
「……クラスメイトの『催眠暗示』解除だな。『音叉』か加々美の力があれば可能だ」
「待つのも面倒だろ。『音叉』でいいんじゃないか?」
楽の声にポケットを探って『音叉』を取り出す。これにも随分と振り回されたと懐かしささえ感じる。
「だったら《傷持ち》の方も一緒にやってきたら? 一々戻って来るのも面倒でしょ?」
「そうするか。服は?」
「持ってきてるよ。ヘルメットもある」
提げた紙袋を見せてくる未来。だったら直ぐにでも行くとしようか。
「あぁ、後な要。過去の前に廃ビルでもう一悶着な」
「ん……あぁ、そうか。悪い、その後の《傷持ち》の印象が強くて忘れてた」
「過去の俺を頼む」
「頷きたくねぇなぁ、その言葉」
肩を竦めれば、笑う楽。
今度こそ、本当に楽の為に《傷持ち》として振舞うのだ。全てを知っているからこそ、意味を持つ言動と言う物がある。
話しながら病院の外までやってきて少しだけ離れると、その身を見慣れた黒尽くめに覆う。視界をフルフェイスヘルメットで狭め、喉に『小型変声機』。『音叉』と『スタン銃』と『捕縛杖』を携えて、正義の黒尽くめの完成だ。
「歴史を守る人の格好に見えないね」
「こんな格好で正義の味方だなんて、後にも先にも俺だけだろうよ」
まるっきり不審者のままノイズ交じりに笑えば、それから『音叉』で由緒の頭を小突く。
「また少し、力を貸してくれ」
「うん」
「要の方で『音叉』を叩けば由緒っちに合図を送れる。受信用とは言え繋がってる事に変わりは無い。リンクしてればその異能力を介して『音叉』の先の人物に連絡が取れる」
「鳴らせば由緒が分かるって事か。なら俺が合図を出したら異能力を使ってくれ」
「分かった。待ってるね」
健気に笑う由緒。過去の見識を混乱させるのは変わらないこと。けれどこちらに側に立てば何故だかそれも必要なことだと許容できてしまう。
全ては心の持ちよう、見え方一つのこと。それでも180度違って見えるのは不思議な気分だ。
全てに肯定をされながら背中を押されて。そうして過去の記憶へと遡る。
《傷持ち》としての要が再現されていないのは二箇所。楽を一度追い詰めた廃ビルと、迷子の過去の途中で共闘をしたときだ。
面倒はどちらも同じだと覚悟を固めれば、鳴り響いたラの音階に心地よさを感じつつ……。
そうしてふと、脳裏を過ぎった事が一つ。
ブースターを、忘れた。
* * *
今でも後悔をする。もっとやり方があっただろうと。こんなに面倒にする必要が何処にあったのだと。
俺だって、振り回された側だ。彼の思惑に、自分のやりたい事を紛れ込ませただけの自己満足だ。
だから心のどこかで、本来の要の目的をどうでもいいと思っていた節があった。
彼が俺相手に任務を任せてくれた事は光栄だと思う。しかし彼とはまともに話をした事すらなかったのだ。それでいて抜擢されたのだから、疑念を抱くなと言う方が難しい話だろうと。
歴史としては正しいこと。どうなるかも分かっているけれど、いいように使われている感覚。
だから最初こそ彼からの勅命だと胸を張れていたけれども、途中からはどうでも良い事に成り下がっていた。
けれど蓋を開けて、現実に過去と向き合ってみれば、未来の不確定さに……そこに潜む五感に全てを狂わされた。
夏で暑いし、お陰で飲食は美味しいし。喧騒は煩くて、目まぐるしいほどの景色は左の脇腹に痛いでは済まされない傷跡を抉ってくれた。
確かに、全てを知ったならある程度は諦められる。変わらないものだと納得すれば、そういう楽しみ方も出来る。
だが、文字では……想像では分からないことと言うのが、確かにあるのだ。
何せ世界は一人の力では動いていないから。一人の力も必要としていないから。
想像だけのその場所に、自分という存在はまだいないから。
だからこそ味わって、そうして愚かにも気づいてしまった。
歴史が変わらないからと、それがなんだというのだろうか。たった一つしかない歴史が、けれど自分にとって一体どれほどの影響力があるというのだろうか。自分が歴史に、どれ程の影響力があるというのだろうか。
未来の要程度に大きな事を成せば歴史の教科書にも載るのかもしれないが、それだけの偉業を一体幾らの人が出来るというのだろうか。
歴史に、未来に、そして過去に……そんな一点に左右されるなんて馬鹿らしい話だ。ましてや他人の都合に振り回されるなんて、そう思ってしまうことこそが何よりも愚かだろう。
だったらと、気付いてしまったからには止まらなかった。
誰かの為だとか、利用だとか。そんなのは相手に勝手に考えさせておけばいい。俺はただ、俺にしかできない事を俺のやり方で成し遂げればいい。
そんなちっぽけな覚悟に、どうやらこんな身を好いてくれているらしい加々美が付き合ってくれた。
彼女を巻き込むのは少しだけ戸惑ったけれども……それも彼女自身の覚悟だと気付いてしまえば気にはならなくなった。
そうやって協力のような何かをしながら、要には分からない俺なりの『パラドックス・プレゼント』を準備した。
もちろん、彼が知らないのはその具体的なものだけ。過去の要と手を取った今、彼は俺の思惑にも気付いている。ただそれは、気付いているだけで具体的な事を知らないはずだ。
一度、宝石店の事でばれそうになったけれども、その後の代替案は口にはしていない。だから彼も知らないはずだ。
当然、五十年越しに積もった彼のそれには敵わない。俺のは精々、二年ちょっとの感謝だ。
けれどそれに差があるとは思わない。年月ではないし、物でもない。気持ちなんていう不確かなものであるはずは全くない。だったら何なのかと言われたら、答えに困るのだけれども。
そもそもそうして何かの型に嵌めること自体が間違っている気がするのだ。
何より俺自身がそうしたい。その覚悟があって、準備があって、努力がある。誰かのためより自分のため。そんな自分本位の何が悪い。
そんな風に正当化と詭弁を振り回してやりたい事を押し付ける。
誰のための物語かなんて、どうでもいい。きっと誰が主人公になったって、この歴史は紡がれる。それを客観的に見た場合、今回は要が中心だというだけだ。その客観的とは、一体誰の主観だろうか。
「ねぇがく君」
「何だ?」
「私、がく君と友達になりたいな」
「男女の間に友情があると思うか?」
「知ってるよっ。だからこそ、もう少し仲良くなりたかったなって」
彼女は、一体どうしてそこまで優しくいられるのだろうか。天使かな?
そんなに焦らなくとも、半世紀後にまた会うから。その時は俺の過去を頼むと。
過去のために未来を変えて。
兎な彼女が好きらしい物語の一節を借りつつ、胸の奥で嬉しく炎を燃やす。
『パラドックス・プレゼント』。気取ったその名前は、一体誰が誰に宛てたものなのだろうか。
願わくば、この矛盾なき贈り物の一つに俺の思いも含まれている事を。
そう思ってしまうくらいには、要の事を本気で嫌いになれない自分が嫌になるっ。
* * *
がく君と……みんなと仲良くなりたいのは本当だ。
一期一会なんて言葉もあれば、袖振り合うも多少の縁なんて言葉もある。後の方は、前によー君がご高説垂れてくれた気もするけれど……ま、いいや。…………あ、多少じゃなくて多生だっけか。
何にせよ、出会いがあれば別れがあって。別れの為に思い出を紡ぐ事を私は厭いたくは無い。
今回の難しい話に巻き込まれた中で、私が気付いた事も確かにあるのだ。
過去は嘘を吐かない。
良い事も、悪い事も。全部が正しい事なんだって。
許されるべき事で、許されもしない事なんだって。
だったら最後をいい思い出にするために、楽しい事ばっかりを選んで、やりたい事で振り回して。そうやって自分が納得できる何かを見つける方が幾らかポジティブで面白いのだ。
……なんて、よー君に言わせれば私は考え無しって事になるのかな。
でも、それでも。私は私が信じたものを最後まで信じ切れない嘘吐きにはなりたくないから。だから目の前の楽しい事だけを追い続ける馬鹿でいい。
そんな私を、私より賢いよー君が支えてくれたら……きっとそれ以上に嬉しい事なんてないはずだから。
考えながら、何気なく唇を人差し指で撫でて。まだそこに残っている気がする温かさに恥ずかしさを隠すように笑み零す。
「……由緒さん、嬉しそうですね?」
「そっかなぁ? だったら多分それはみくちゃんのお陰かなぁ」
「あたしですか?」
「うんっ」
感謝はしてもしきれない。そもそもこんな事になった原因は、なんて意味もない事を言い始めれば、その一端は彼女達にもあるのかもしれないけれど。
しかしながらみくちゃん達がいたからこそ、今わたしがこうしていられるんだと思うから。
異能力、なんていう。意味も分からない力に目覚めて。けどよー君とみくちゃんがいたから、私は自分を見失わないでいられたんだと思う。
それはきっと幸福な事なのだ。
そう思えるのは、私の中に誰かさんの後悔があるから。
偶然だったのかは分からない。それを聞こうとも思わない。
ただこの記憶は、がく君が抱いている感情だ。
私に『催眠暗示』を使うことへの自己嫌悪。自分の過去に対する恐怖。手を取ってくれる者のいない、一人の孤独。
断片的なそれをこうだって決め付けるのはがく君に失礼かもしれない。
けれどそれががく君の経験が語ることなら、私は恵まれていたのだと場違いにも嬉しくなってしまう。
そして何より、がく君が私の事を心配してくれているのが、嫌になるほど伝わって来るから。だから彼の心配に答えるためにも、私は幸せで恵まれていなくてはいけないのだ。
よー君のように曲がった演技をするつもりは無いけれど。それが何より私の事を案じてくれるがく君への感謝になると信じているから。
……えっと、何だっけ…………。過去のために未来を変えて、だっけ。
『パラドックス・プレゼント』。みくちゃんが好きだって言ってたお話。
難しい話は別にして。やっぱり良い事は沢山あった方がいいよねって事。
魚の小骨が喉に刺さったようなバッドエンドとか。誰も救われない全滅や崩壊だとか。そういうのを否定するわけじゃないけれど。物語の中でくらい都合のいい夢を見てもいい筈だ。それと同じようなハッピーエンドが、現実にもあればとても嬉しいはずだ。
だから私は、よー君や他の誰に言われようとも、きっと、ずっと、これ以上無いくらいに幸せな物語ってのを夢見続けるんだと思う。
それを子供だとか、楽観的だとか…………笑いたければ笑えばいい。
少なくとも、そうやって誰かを貶してる人よりは、私は楽しく生きているはずだから。そう信じている自分が好きだから。
だから当然のように、私はよー君の事も信じてる。
都合のいいハッピーエンド。私がいつの間にか好きになっていた幼馴染は、それを運んできてくれる私の主人公なんだって。
* * *
少なくともあたしのお陰なんて事はないだろう。理由や責任と言い替えるならば受け止めてもいい。
それくらいにはあたしのして来た事は現実を壊している。
歴史の番人と言われ、異能力の強権と揶揄され。
それでもあたしは必要なことだからと割り切って歴史を守ってきた。
けれど今回の事でよく分かった。あたしがしているのは探偵ではない。警察でもない。ただの無意識の悪意だ。
歴史の修正力なんて、そんなのは歴史が決めること。異能力の制限と言う形であたしを襲うだけだ。
その行為は、正義感を持つ者からすれば正しく見えるのかもしれない。けれど巻き込まれた側からすれば、あたしが事件を引き寄せているのと同じだ。
それは、探偵がやってくるから事件が起こるが如く。事件と解決と言う因果関係を逆転させたそれは、あたしが認められない事実だ。
お兄ちゃんの話を全て鵜呑みにするなら、歴史によって全ては最初から決まっている。事件が起こる事も、解決する事も……あたしが干渉したって変わるものではない。だからこそ歴史は一つしかありえない。
だったらあたしが動かなければ、事件は事件として認識されず、事件が起きないのだから解決もされない。
馬鹿な考えだとは思う。思考の迷路に落ちているだけだ。
考えれば考えるほどに自分と言う存在の意義を見失っていく。
だからこそ、あたしのお陰で何かを得られたなんて、そんな事はありえない。
そして何より、こんな事で悩んでいる自分が馬鹿らしい。
歴史なんて形のないものに振り回されて、一体何になるというのだろうか。
…………考えるだけ馬鹿になる。そんな結論に至って、小さく頭を振った。
悩んだって仕方がない。自分を見失ってそれでどうなる。
だったら自分らしく自分の好きなものを盲目に追いかけている方が幾らか建設的な馬鹿だ。
そういう意味ではあたしは由緒さんに憧れている。誰かを信じられて、誰かを信じている自分を信じられて。
そんな彼女が尊敬以上の気持ちで大好きなのだ。
今回の事できっと一番愚かなあたしは、何も得る事がなく────あぁ、いや、違うか。
もし盲目に自分のことしか考えなくてもいいのなら。彼に貰った髪留めと愚かにも抱いてしまった恋心に胸を痛めることくらいはできるか。
使命を忘れてたった一人の女の子として。憐れに叶わない棘だらけの想いを転がし続ければその痛みに自分を見つけられる。
その最後に、諦めとして彼には好きな人がいて。それでもあたしは彼が好きなのだと胸を張れる。
……いや、そうしてこちらに振り向かない真っ直ぐな彼に恋をしているのだろうか。まるで人魚姫のように儚く淡い。あたしは、兎ではなく魚であったらしい。
ほんっと、ままならない。
けれどそうして諦められるくらいには、ようやく気持ちの整理も付いてきたのだろう。
それはきっと、未来の彼を知っているから。あんな景色を見せられたから。
今更を、一つ。要さんと由緒さんは、あたしのおじいちゃんとおばあちゃんだ。
そんな二人の間に入って困らせるなんて、あたしには出来ない。
全くもって馬鹿らしいと、ようやくあたしはあたしを笑える。
だからと言ってそう簡単に捨てられないのだろう。きっとあたしは、彼の事をハードルにしながらこれからを生きていく。それくらいには、彼があたしにとって魅力的過ぎたのだ。他人にどう言われようとそれだけは譲らない。
……こんな事を面と向かって言ったら、彼はどんな顔をしてくれるだろうか? 若さに振り回されてくれればいいのに。
そんな風に破滅的な事も考えつつ、同時に諦めのような何かで思いを巡らせる。
結局、全ては彼が彼女にしたかった贈り物の話。詳しい事は別として、時空間さえ跨いで過去の自分に演出させた半世紀越しのサプライズ。夢見る少女としては、ロマンチックだと憧れるところだろうか。まるで物語の中のようだ。
今のあたしからしてみれば、他人事に身内のお祝い。そこに殆ど時間の概念はなく、苦労といえるほどの努力も感じない。終わった後の結果論。
しかし要さん……お兄ちゃんにしてみればここから先は地獄のような忍耐の時間だ。
半世紀越しに贈り物をする。時を跨ぐことのできない人生と言う名の歴史に沿って、彼は言葉通りに半世紀を過ごさなければならない。
どんな未来になるかを知りながら、どうすればいいかを探りながら。今ここで起きた事を何度も何度も思い返しつつ、半世紀後の、更にその先を想像し続ける。
一体どんな精神力がそれを支え続けるというのだろう。あたしには想像もつかない。出来ることなら、今ここで隣の由緒さんに全てを打ち明けてしまいたい。
もどかしい。遠く、険しく、曖昧な。そんな未来に酩酊すら及ばない。
あたしは、五十年後の自分を想像できない。
きっと誰だってそうだ。明日どうなっているかさえも分からないのに、そんな未来のことをどうして描けるというのだろうか。
だからこそ未来は白紙で、何者にでもなれるなどと謳われるのだろう。
そんなわけも分からないほどに遠い未来。その結末だけを知って、そこに向かって直向に歩き続ける。
それはまるで、壁に向かって正座をし続けるような苦行。いつ終わるとも知れない……けれど終わりが確かにある事を知りながらその時を待ち続ける我慢。そうしてようやく成し遂げるプレゼント────面壁九年の贈り物。
あぁ、ままならない。少しでも彼の力になりたい。
この身を焦がす唯一つの思いが逸る気持ちを行動に昇華させる。
だからあたしは、この騒動を追い駆け続けてきたのだろう。
時空間を越えて彼から貰った贈り物を、今度はあたしが彼に贈るために。
過去のために未来を変えて────
有り触れた一節の様に胸の内でそう願えば、何処にも存在しない物語が紡がれる。
これは、彼の物語であり、彼女の物語であり…………そして何より、あたしの物語だ。




