10 新たな臣下
「じゃあ、夢幻の世界を解除するわね」
フェリアが、ちゅっ、と空中に投げキスをした。
唇からハート形をした魔力の塊が飛び出し、弾ける。
ぐごぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおんっ!
次の瞬間、世界が揺らいだ。
「っ……!」
一瞬の、浮遊感。
そして酩酊感にも似た感覚が走り──、
「戻った……のか?」
目の前の景色は何も変わらない。
だが、感覚的に何かが違う。
そう、圧倒的なまでの現実感が周囲に漂っていた。
こうして見ると、今までいたのは夢の中の世界なんだと実感する。
「ええ、ここはもう現実の魔界よ」
薄桃色の長い髪をかき上げ、告げるフェリア。
「みんな、目覚めたわ」
「じゃあ全員、元通りなんだな?」
確認する俺。
「大丈夫大丈夫。夢魔姫の名にかけて保証するわよ、魔王様」
言って、フェリアが俺にしなだれかかる。
さっきから、やたらとボディタッチが多い。
「……魔界に大きな混乱はないようです、魔王様」
ステラが報告した。
どうやら千里眼で魔界を見回したようだ。
「そうか、よかった」
「まったく。大勢の魔族を巻きこみすぎだぞ、フェリア」
ステラが憤然とつぶやいた。
「ごめんね~。あたしにも夢幻の世界を制御できなかったのよ。ほら、あたしって繊細だし」
「どこが繊細だ」
「ひどいわねぇ」
フェリアはにっこり笑って、ますます俺に体を寄せる。
「勇者たちとの戦いで刻まれた恐怖はまだ残ってるのよ。魔王様、あたしを癒してくださらない?」
むちっとした体が密着した。
豊かな胸の弾力が押しつけられていて、興奮で体が熱くなる。
「……ちょっとくっつきすぎじゃないか?」
ちょっとドギマギしてしまう。
十代の若者でもあるまいし、と思うものの、やはり照れくさかった。
あらためて見ると、フェリアは本当に美人だ。
周囲に白いもやがかかったように見えるほどの、まさしく輝く美貌──。
「新しい魔王様に親愛と敬意を示しているだけよ?」
ふふっ、と笑ったフェリアの吐息が、俺の首筋をくすぐった。
ぞくり、と肌が粟立つ。
さっきから、その……下半身にやたらと血流が集まっている感じがあった。
有り体に言うとムラムラしていた。
「この感じ……お前、『チャーム』を使っているな!」
ステラが叫んだ。
「よりによって魔王様を魔法で誘惑するとは何事だ!」
「あ、バレちゃった? さすがにステラにはごまかしが効かないわね」
悪戯っぽくぺろりと舌を出すフェリア。
『チャーム』──サキュバスが得意とする魅了の魔法か。
フェリアを見て妙にドギマギしてしまったのは、そのせいらしい。
……もしかしたら、『チャーム』に関係なく、素でドギマギしていた部分もあるかもしれないが。
一方のステラは仏頂面だ。
「あたしはサキュバスだもの。男を惑わせるのは生態みたいなものよ」
「そういう問題じゃない」
「真面目ねぇ。そんなことだから、いつまで経っても生娘なのよ」
「し、処女で悪いか」
ステラがわずかにたじろぎ、
「そういうお前だって、経験豊富を装っているだけで──」
「ふふ、なんのことかしら?」
怒るステラと微笑むフェリアが対峙する。
「前の魔王様は女だから誘惑しなかったんだけど、今度はアプローチしちゃおっかな? しちゃおっかな?」
フェリアの視線がステラから俺に移った。
全身にねっとり絡みつくような視線だ。
見つめられているだけで、肌がゾワゾワする。
また『チャーム』を使ってないか、これ?
「お妃にしてほしい──なんて贅沢は言わないから、愛妾の一人に加えてくださいな、魔王様?」
「フェリア、いいかげんにしろ。魔王様がお困りだ」
「そう? むしろ喜んでるんじゃないかしら」
フェリアがステラを見つめる。
「あんた、さっきからヤキモチ焼いてるだけでしょ」
「なっ……!?」
ステラが言葉を詰まらせた。
あれ、なんだか顔が赤いぞ、ステラ?
「わ、私は、その、魔王様への忠義心で言っているにすぎん!」
「照れちゃって初心ねぇ。男を落とすテクニック、あたしが色々教えてあげよっか? 魔王様もイチコロよ」
「ま、魔王様も……!? 本当か……っ?」
いや、なんでそこで食いつくんだ、ステラ。
「魔王様が、私を……」
「サキュバスはすべての恋する乙女の味方。後でレクチャーしてあげるわ」
「お前、もしかして本当はいいやつか?」
ステラはフェリアをまじまじと見つめた。
「あーら、今ごろ気づいたの?」
「フェリア、私が全面的に悪かった」
なんで懐柔されてるんだよ、ステラ。
「──と、まあ冗談はこれくらいにしておいて」
「じ、冗談だと!?」
笑うフェリアに、ステラがすごい形相で叫んだ。
「魔王様を落とすテクニック……冗談だったのか……っ?」
いや、そこは冗談でもいいだろ、別に。
※
「勇者ライル・ライアードに刑を言い渡す」
ライルは法廷の中央でうなだれ、裁判官の言葉を聞いている。
魔王にかけられた魔法によって、彼は勇者ギルドで自身が魔界で行ったことを自白した。
その罪に対する判決が、今日下されるのだ。
「ぐ……うう……ぅぅぅ……っ」
激痛が体中を間断なく駆け巡っていた。
師匠だったフリードから呪いをかけられて以来、この痛みに慣れる日はない。
夜も眠れず、慢性的な睡眠不足が続いていた。
歩くだけでも難儀し、言葉を発するだけでも痛みが走り、日常生活を送るのも困難なほどだ。
(くそ……フリードめ……許さない……許さない……!)
心の中で、ひたすらに呪詛を吐き出す。
それしか、できない。
それ以外に、何もできない。
「仲間であり師でもあったフリード・ラッツへの裏切り」
「結果的に魔界を攻略する好機を失い、新たな魔王を生誕させる発端を作ったこと」
「すべてが、勇者としてはあるまじき下劣な行為である」
「決して許されることではない」
聴衆から非難の声が飛ぶ。
罵声が飛ぶ。
怒号が飛ぶ。
そこには勇者に対する敬意など一片もなかった。
ライルは屈辱に全身を震わせた。
「ただし、これまでの勇者としての功績は素晴らしく、死罪だけは免れるものとする」
「よって、ライル・ライアードを懲役千七百年の刑と処す。また奇蹟兵装の所有権永久剥奪、ならびに勇者名簿からの除名、ならびに──」
判決が、遠く聞こえてきた。
王城の最下層にある牢には、窓すらない。
目に入るのは剥き出しの岩の壁と鉄格子だけだ。
「師匠を裏切って、手柄を独り占めしようとしたんだってよ」
「最低だな、こいつ」
見回りの牢番たちが、ライルの前で立ち止まり、笑った。
「けど、腕は確かだったんだろ?」
「智天使級の奇蹟兵装使いだってよ。まあ、四天聖剣様がいれば、こんな奴がいなくても大丈夫さ」
「そうそう、四天聖剣様といえば、いま大聖堂で修業してるって話だ」
「へえ」
「遠からず、第二次の魔界侵攻作戦が行われる予定で、そこに加わるかもしれないんだとよ」
「本当か! あの人たちが行ってくれるなら、魔王なんて敵じゃねーな」
「いや、新しい魔王ってのは相当強いらしい。噂じゃ伝説の『始まりの魔王』すら凌ぐとか……」
彼らの雑談を、ライルは聞くでもなく聞いていた。
(僕は……一生このままなのか……)
何者にもなれず、毎日を牢で過ごし、痛みに苛まれ続けて。
勇名は地に堕ち、罪人として歴史に名が残り。
(希望はもう……ないんだ……)
残りの人生は、絶望と空虚さに支配されるのだ──。








