第9話 翌朝は晴れて
翌朝は、昨日の雨を払拭するような快晴だった。
いつも通り、ロレッタさんが運んでくれた朝食をとり、竜の塔へ向かう。けれど、扉に手をかけたところで、ふと迷いがよぎる。昨夜の姿が脳裏に蘇ったからだ。
――――夢、じゃないよね。
泣きじゃくる私を慰めてくれたのは、紛れもなく薄明竜だ。
けれど、人型になるなんて、一言も聞いていなかった。
(だって、あんなイケメンになるなんて知らなかったよ!)
もし初めから教えてくれていたら、あんなふうに泣いたりしなかった……かもしれない。
それこそ、昨晩はベッドに戻ったあと、恥ずかしさのあまり穴を掘って入りたくなったくらいだ。
けれど、ロレッタさんがいる以上、竜の塔へ行かないという選択肢はない。
もしかしたら、昨夜の出来事は本当に夢だったのかもしれない。寂しさが生んだ願望の塊――そう思う方が、まだ救いがある。
(……うん、きっとそうだ。そうじゃないと困る)
小さく息を整え、覚悟を決めて、ゆっくりと扉を開く。
朝の光に照らされて、穏やかに眠る竜の姿があった。
(なぁんだ、やっぱり、夢だったんだ)
安堵のような気持ちと――ほんの少しだけ、胸を掠める寂しさ。
けれど、昨日よりも竜の存在が近くに感じられる。不思議だけれど、たしかに「間合いに入ることを許された」ような感覚があった。
「おはよう、薄明竜」
そっと挨拶をして、椅子を定位置まで運ぶ。
けれど、いつもと違うのは、竜がゆっくりと顔を上げて、身体を起こし、私の方へと歩み寄ってきたことだった。
ふふ、と笑みがこぼれてしまう。
嬉しさで胸がむず痒くなる。こんなふうに心を許してくれるなんて、思ってもみなかった。
けれど、それでも気になってしまう。
――あれが、本当に夢だったのかどうかを。
「薄明竜……あの、昨日のは……夢、じゃないよね?」
おそるおそる問いかけると、竜は何も言わず、静かに目を伏せる。
そして次の瞬間、光がふわりと舞い、その輝きの中から人の姿が現れた。
美しい青年が、困ったように笑いながら手をのばしてくる。
ぎこちなく頭に触れる指先は、昨夜と同じ、確かなぬくもりが宿っていた。
ボッと顔から湯気が出そうになって、慌てて視線を落とす。
ただでさえ男性に免疫がないのに、アイドルを超えるような顔を真正面から見るなんて、とても無理だ。
真っ赤になっている私に「……ハルカ?」と名前を呼ばれただけで、心臓が跳ねるように鳴る。
「えっと、その……人の姿になれるって、知らなかったから……ちょっと緊張しちゃって」
「…………そうか」
「でも、これでお話できるね。嬉しいな」
「そうだな」
顔を見上げると、柔らかな表情を浮かべる薄明竜が眩しくて、竜の姿に戻ってくれないかな、と一瞬だけ思う。
けれど、こうして話ができるようになったことは、聖女としてだいぶ進歩したような気がする。それに、ずっと話し相手がいなかった分、こうして誰かと話せるようになって楽しくなってきた。
「ところで、こうして話せるのって聖女の力なの?」
「いや、おそらくはマルタエルが召喚術式に組み込んだ、術式の力による一端なのだろう」
「そうなんだ……」
ということは、初代聖女のおかげなのか。
聖女の力と言われればそうかもしれないけれど、厳密にはちょっと違うような気がする。
「でも、元から人になれたの?」
アンブローズおじいちゃんからの説明にはなかったような気がする。昨日の″カシャン″という鎖が外れたような音は、まるで魔法が解けたみたいな雰囲気だった。
いつも寝ていたから、ちゃんとは確認できていなかったけれど、竜には足枷のような物がついていた気がした。
「――それは、あれが外れたからだな」
チラリと薄明竜が奥に目線を送ると、太い足枷が落ちていた。
「あ、外れたんだ。――――大丈夫なのかな」
少なくとも、大暴れをしていた竜を封じていた枷が外れたということは、いま彼をとどめておけるのは、この檻だけということになる。気まぐれを起こされて、また昔みたいになってしまったら、今の私にできることなんて何一つ無い。
「心配するな。契約は生きている」
この国を守護する意志がある、と聞いて、私はほっと胸をなで下ろした。
穏やかに私に話しかけてくれる様子からも、薄明竜が暴れるような気配は見受けられない。
その名に「竜」と付くだけで獰猛な印象を持っていたけれど、一方で、非常に頭が良いという話を聞いたこともある。彼もまた、その印象に違わない存在なのだろう。
「ところで、ハルカ。いつも携帯している本はどうした?」
「えっ、あっ!」
そう言われて初めて、私はいつもの“読書タイムセット”を持ってきていないことに気づいた。
いつもなら、竜のそばで静かにページをめくっているはずだったのに。
でも、今日は“話ができるかもしれない”と思ったら、嬉しくなって、すっかり忘れてしまっていたのだ。
頭のいい薄明竜のことだ。私が本を持ってきていないことに、すぐに気づいたはず。
そして、そこから「今日は話す気だったのか」と察してしまうかもしれない。
けれど、人型でいることは、もしかしたら想像以上に大きな負担なのではないか。
(……だって、ずっと寝ていたし)
そんな“低燃費”の彼が、突然変身して長く起きているのは、きっと疲れるに違いない。
竜を疲れさせたくはないけれど、でももう少しだけ話していたい。
そんな相反する気持ちに、私は「その……」と小さく口ごもった。
ピチチチ。
ちょうどそのとき、小鳥が塔の小窓を横切っていく。
顔を上げれば、昨日の雨が嘘のように晴れた、どこまでも広がる青空。
「さ、散歩! 散歩に行こうと思ってたから、持ってこなかったの!」
思わず声が大きくなって、少し慌ててしまう。
でも、このままおしゃべりが続いたら、竜を疲れさせてしまいそうだから。
ほんの少し、外の空気を吸ってこよう。そんな逃げるような決意が、口から飛び出した。
竜も驚いたように片眉をあげたが、「それなら、行ってくるといい」と扉の方を見る。
あっさりと頷かれてしまうと、これ以上ここにいても仕方がないように思えて、少しだけ後ろ髪を引かれるような気持ちで椅子を持ち上げた。
けれど、持ち上げた手をそっと下ろして、もう一度だけ、竜の方を見る。
「……夕方くらいに、また来てもいい?」
夕方まで眠っていれば、少しは体力も回復しているかもしれない。
そうすれば、また短い時間でもいいから、話ができる――そんな淡い期待を込めて。
竜は「あぁ」と短く頷いてくれた。
その返事が嬉しくて、飛び跳ねそうになる気持ちを必死に押さえながら、「ありがとう」ともう一度小さく告げる。
そして、また来るつもりで、椅子はそのままにしておいた。
塔を後にして外に出ると、朝の空気がひんやりと頬を撫でた。
空はどこまでも澄みわたり、雨に濡れたあとの緑の葉が、きらきらと陽の光に透けて輝いている。
――――さて、どこに行こうか。
庭園にしようか、訓練所にしようか。
それとも……少しだけ、城内を散策してみようか。
そんな思いが胸の奥からふわりと浮かび上がってくる。
そのときだった。
どこからか、かすかに音が聞こえてきた。
風に乗って流れてくる、細い糸のような、繊細で澄んだ――ヴァイオリンの旋律。
私は、思わず足を止めて、その音に耳をすませた。




