第8話 月明かり
お風呂を済ませたあと、これから眠ろうかと思ったときだった。
――――ふいに、薄明竜に会いたくなった。
今日はずっと話していたせいで、夕食のときも何となく気になって仕方がなかった。塔のなかは、寒くないのか、お腹は減っていたりしないか――寂しくない、のか。
薄明竜にしてみれば、どれも取るに足らないことかもしれないけれど、自分だったらきっと耐えきれないと思った。ずっと檻に閉じこめられて、それこそ何百年もあの中で過ごしている。
――――それなのに、今日は傍にきてくれた。
人間なんて心底嫌いなのかもしれない。けれど、気まぐれを起こして、私のところに来てくれたのは、やっぱり感謝すべきことなのかもしれない。
(……なんて、単に私が会いたいだけなのかもしれない)
理由や理屈なんてどうでもよくて、単純に優しくされたことが嬉しかったんだ。
それに、つい熱をいれて話したことも謝りたかった。
思い返すだけで、いたたまれなくなる。なんで、あんなにしゃべってしまったんだろう。今まで、お母さんぐらいしか、あそこまで長時間話すことなんてなかった。
特にライブのことは、どうしても話すことに抵抗がある。ファンが多ければ多いほど、限られた空間で、彼らを見ることは難しい。だからこそ、誰かに伝えるときは慎重になってしまいがちだ。
けれど、この世界には、ライブもなければ、彼らもいない。
だからこそ、気兼ねなく口が緩んでしまったのかもしれない。
きっと、私の言葉なんて全然、何を言ってるのかわからなかったに違いない。けれど、寄り添ってくれる温かさが伝わってきた、それだけで十分だ。
塔へと続く扉に手をかける。
雨はいつの間にか上がって、月明かりが塔の中を照らしていた。
「――――ッ!」
その美しさに息をのむ。
世界中、どこを探しても、こんなに綺麗で眩しい生き物は、他にいない気がした。
スポットライト代わりに降り注ぐ光が、純白に輝くベールを薄明竜にまとわせる。鱗一つ一つが、キラキラと瞬く様は、まるで夜空の星を集めたスパンコールみたいだ。
それでいて、大きな羽の皮膜部分は、丁寧になめした革のように艶やかな光沢を放つ。その滑らかさと鱗の煌めきが、見事な対比をなしていた。
獰猛さの象徴でもあるツノや爪も、月光の下では神秘を宿している。
あまりにも神々しい存在に魅了されて、一歩足を踏み入れる。すると、竜が弾かれたように巨体を大きく揺らして、私の方をみた。
「こ、こんばんは。薄明竜」
寝ていたところに急に私が来たらびっくりするか。
心臓がドキドキして、耳のなかまで鼓動が響く。驚かせたのなら、申し訳ないと思いつつも、一歩、二歩と竜の元へ歩み寄る。
「その、今日のお礼が言いたくて」
格子の前にたどり着いて、上を見上げる。
竜も私だとわかったからなのか、ゆっくりと近寄ってきてくれた。そして、長い首を揺らして、私の目線が合う高さまで頭を下ろしてくれる。
そんなささやかな仕草が嬉しくて、じんわりとした熱が胸のあたりから全身に広がる。
蒼玉の瞳には私が写っていて、ちゃんと耳を傾けてくれていることが伝わってくる。
「あの……今日はごめんね、でも、ありがとう。話を聞いてくれて、嬉しかった」
自分にできる、とびっきりの笑顔で薄明竜にお礼を言う。
今の自分に返せるものなんて何もなくて、出来ることといったら、これぐらいだった。
力もなければ、会話もできない。
そんな自分が聖女だなんて――薄明竜を制するだなんて、あまりにもおこがましい。
もっとちゃんとした人が呼ばれるべきだった。バカみたいにアイドルのライブの話しかしない人間よりも、清楚で、可憐で、この美しい竜の傍らにいても遜色のない人だったら良かった。
それなのに、私が呼ばれてしまった。
謝罪の言葉をもっと伝えるべきじゃないかと思った。
けれど、託された以上は、それを言うのも違うのではないかと口をつむぐ。
私にだって出来ることがあると、呼ばれた意味を見出したかった。
見上げると、大きな青い瞳が波紋を描く。
まるで、すべてを受け止めてくれるような深い、深い、海。
こんなにも美しい存在が傍にいてくれる――今はそれだけで、胸がいっぱいだった。
「――――っ、ふっ、うっ…………うっ」
気が付けば、涙があとからあとから溢れてきた。
お礼を言って「また、明日からもよろしくね」とそれだけを言いにきただけなのに、どうして私はこんなにも弱いのか。こんな、みっともない姿を見ても、竜は脆弱な人間としか思わないはずだ。
泣いたって、意味なんてないのに、どこか張りつめていた気持ちを竜が優しく溶かしていく。
――――カシャン
何か金属が外れ落ちたような音がした。
私の涙と引き換えに、何かが“壊れた”ようにも聞こえた。
その音は、竜の塔に響きわたり、反響は次第に小さくなって消える。
いったい何が、と思って、目をこすってみれば、ぼやけた視界いっぱいにあったはずの、竜の姿が消えていた。
その代わり同じ場所には、別の何かが立っていた。
「…………そんなに、寂しい、のか」
ふってきたのは低く優しい声だった。
見上げれば、紺碧色の瞳が優しく微笑む。
艶やかな白銀色の長髪は、薄明竜と同じで、整った顔立ちは紛れもなく竜のように強くしなやかだ。
「……泣くな」
格子の隙間から腕が伸び、大きな手がそっと開かれる。
けれど、戸惑うように一度ためらい、やがて太く節くれ立った指先が、私の頬をかすめた。
まるでマッチの火がつくように、初めて触れられた感覚が、身体に熱を灯す。初めてこの世界で誰かに触れられた。怖いはずなのに、ただただ温かい。
呆然とする私に対して、彼は困ったような顔を浮かべるが、やがて「……傍にいる」と肩をすくめて小さく笑った。
「うぅっ、あぁ……」
涙が溢れて止まらない。
ぐずぐずと鼻をすすって、やがて耐えきれなくなってしゃがみこむ。
すると、目の前の彼は苦笑しながら、ぎこちなく指先で頭を撫でてくれた。
それはまるでガラス細工に触れるように――けれど、ちゃんと心を込めて頭を柔らかく包んでくれる。
――――傍にいる、と伝えてくれた小さな熱が、私のなかに灯がともる。
貴方の為に、この世界に呼ばれた。
ようやくその意味が、わかってきたのかもしれない。




