第36話 御披露目式典
息をのむような暗闇の中、私は初めて「聖女」として、観客席最後方にある演出ブースに降り立った。
舞台では、宮廷楽団のチューニングが終わり、指揮者であるダーヴィットさんが拍手の中、登場した。
そして、指揮棒が上がる。
静けさが訪れた会場に、胸が震え始めた。
左腕に意識を集中させ、魔力を宿らせる。傍にいなくても感じられる、彼との絆。
――始めよう、世界を変える音楽を。
――始めよう、世界を変える音楽を。
タクトから魔法が放たれ、キラキラと光の粒子が舞い落ちる。
客席から小さな感嘆の声が漏れた。
舞台の大きな幕が淡く揺らめき、夜空の神殿のような光景が浮かび上がる。
ヴァイオリンが主旋律を奏で、物語を紡いでいく。美しくも力強い旋律に合わせ、光の帯が観客を照らした。客席の頭上を、様々な色の波がたなびく。
上を見上げる人、光と音に身をゆだねる人。反応はさまざまだが、共通しているのは――この幕開けに、胸を高鳴らせていること。
楽団の足元にスモークが広がり、そこへ光球が差し込むと、舞台は幻想的な雲海へと姿を変える。
音楽もそれに呼応するように表情を変えていく。
打楽器は心を奮い立たせるように力強く、木管楽器は優しい旋律を重ね、チェロやコントラバスが大地のように支えていく。
やがて霧は会場全体へと広がり、たゆたう光の帯は、鋭いレーザーへと姿を変えた。
旋律に合わせて縦横無尽に走る光の筋。曲の終わりが近づくと、それは無数の光の粒となり、観客席へと降り注いだ。
――壇上の幕に映し出された神殿は、静かに夜明けを迎えていた。
静寂が訪れ、譜面をめくる音だけが場内に響く。
荘厳な始まりを受けて、観客はまだ胸の高鳴りを抑えながら舞台を見つめていた。
息を整え――高らかに明るいポップな調べが弾けた。
その瞬間、客席の頭上に現れたのは、大小さまざまなパステルカラーの光輝くバルーン。
張り詰めていた気持ちが一気に解きほぐされ、口元がほころび、笑顔が波のように広がっていく。
弾むリズムに合わせて、バルーンたちは軽やかに上下し、会場全体が思わず手拍子をしたくなるような空気に包まれた。
ふわふわと揺れる光の群れに、私の口元も自然と緩む。
(王道のアイドルソング、って感じ……何度聴いても好きだなぁ)
純情なラブソングにも聞こえるそのテンポに、私はかつて見たライブを思い出す。
歓声が響き、彼らが手を振って応える。あの熱狂ときらめきが、今、この場にも再現されているようだった。
やがてバルーンは旋律の高まりとともに蕾へと変わり、演奏のピークで大輪の花を咲かせる。
花はくるくると横回転し、音に運ばれるように舞い踊った。
薄い光の花びらは甘やかな香りを思わせ、女性たちはうっとりと天を仰ぐ。
とろりと溶けるように霧散すると、曲調はふたたび軽やかな流れへと戻っていった。
舞台背後の幕には草原が広がり、旋律をなぞるように緑色の風が吹き始める。
頬をかすめるその風は、無邪気に駆け回っていた童心の記憶を呼び起こすようで、思わず胸がくすぐったくなる。
軽やかな音のうねりに身を委ねると、緩急が重なり合い、会場の天井が青空へと変わる。
澄み渡る青と白い雲。
明るい世界を迎えた客席から、驚きと喜びの声がもれる。まぶしさに目を細めながらも、誰もが高揚を隠せない。
やがて舞台から白い鳥が現れ、風に乗って旋回した。
一羽は複数に分かれ、仲間を引き連れて蒼天をめざす。
ヴァイオリンの格調高い余韻に導かれながら、その姿はやがて光へと変わり、尾を引いて遠くへ飛んでいった。
それはまるで、希望そのものを描く光景のようだった。
胸の奥にじんわりと熱が広がり、私は目を離せなかった。
(……いよいよだ)
グッとこぶしに力を入れて、魔術士団のみんなを振り返る。
ここからが魔法演出の真骨頂。
宮廷楽団にとっても勝負の一曲だ。
オーケストラは本来、全体で一曲を演奏するため、調和のとれた響かせ方が合っている。
バラバラな高低差の楽器がまとまり、1つの楽器に聞こえるのが理想だ。
けれど、この曲は違う。各楽器が己を主張し、激しく、ダイナミックに動き出す。
だからこそ、演出について意見が割れたり、タイミングがズレたり。何度も練習を重ねてきた。
自然と足が開き、地を踏みしめる。
観客を挟んでいても、私たちは同じ覚悟で息を整え、次なる曲へ心を定めた。
タクトが鋭く振り下ろされ――音が走り出す。
ヴァイオリンの技巧を尽くした細かな旋律が疾走し、打楽器の振動が興奮を加速させる。
痺れるような高音を、オーボエが迷わぬ響きで導き、金管が応える。
まるで肌が焼けるように痛み、その圧倒的な音圧に誰もが息を呑む。ドルガスア宮廷楽団という、我が国の誇りが放つ咆哮に、観客は身じろぎすらできない。
研磨するように主旋律が高速で奏でられ、トラペットが高らかに鳴り響く。
それらがピークした瞬間、会場全体は光の粒が満ちた。
ピークを達しきったところで、緊張で張り詰めていた心がほどける。その力強いサウンドに鼓舞されるように、ゆっくりと目の色を変えていった。
けれど、魔術士団だって音に負けない力を秘めている。
ロック調のメロディーが続く中、光は渦を巻き、中央に集束し、ひとつの形を結んでいく。
そして――巨大な光竜が出現した。
悠然と場内を旋回するその姿に、どよめきと歓声が同時に沸き起こる。
神々しい竜に、畏怖と尊敬の眼差しを送り、視線を外す者はいなかった。
けれど、私の目にはもっと色鮮やかに映る。
抱きしめてくれた温もり、迷いを払う声、支えてくれる想い――彼の存在が、光そのものを強く輝かせている。
(私の竜は、もっと、もっと、まぶしいんだよ)
音が山場を見せて、旋回していた竜は拡散して消える。
しかし、曲はさらに熱を帯びて続く。
演奏の決め打ち音に合わせて、舞台と観客席の間を炎が連続して横切る。
二度、三度と繰り返されるごとに、会場全体が熱気に満ち溢れていく。男性客の胸に闘志の火が灯り、食い入るように舞台へ熱い視線を送る。
そして――呼応するように赤い光粒が立ち上がる。
音は低く沈み、嵐の前触れのように鳴動する。
そうして、力をためて――爆発した。
先ほどよりも、さらに赤みを帯びた竜が生まれる。燃え立つ炎をまとったかのように、翼を広げただけで熱風が会場を駆け抜け、人の心を攫っていく。
その誕生を寿ぐかのように、楽団は激しくも華やかな音を重ねていく。まるで、この国を守護する竜を賛美するようだ。
圧倒的な存在感に、観客は思わず立ち上がりそうになり――けれど、必死に座席を握りしめて耐える。昂ぶる感情に震えながらも、目を逸らすことはできなかった。
赤竜は音に導かれるように宮廷楽団を目指し、やがて幕に映し出された蒼穹へと舞い上がる。
やがて一筋の光となって羽ばたき、会場の誰もが声を失ったまま――ただ、その先へ想いを馳せた。
張り詰めていた緊張がふっとほどけ、大きく息を吐く。
次でいよいよ最後の演出になる。
例えるなら――そう、薄明時のような曲だ。
ロベルトさんの美しいソロパートから始まった。
先ほどまでの熱が、静かに溶け流れていくように消えていく。
穏やかな優しい響き。目を閉じて、その音だけを身体に染み込ませて、揺蕩いたいくらいだ。
少しずつ音が束になり、跳ねる音、支える音、演奏がグラデーションのように広がる。
その音の階調に合わせて、足元にスモークを焚き、客席まで伸ばす。
幕に映し出された葉が、雨粒をはじいた瞬間、オーケストラの前に光のカーテンが降りた。
薄い霧が光を抱いて揺らめき、場内は神秘の気配に包まれる。
そうして、雄大な演奏は続く。
楽器から生まれる音が光となって次々に浮かび上がる。次第に増えていく光の音。
それはやがて、会場を覆いつくすほどになり、天井は発光する。
演奏がピークに差し掛かると、光は白銀色の花びらとなって観客席へ落ちていく。
光の花びらに手を伸ばす仕草が、あちこちに見られた。けれど、手に触れた瞬間、きらめいて消える。その儚い美しさと、切なくも胸に迫る旋律に観客からは嗚咽も聞こえてきた。
一瞬だけ音が止まり、余韻を残すヴァイオリンの響きを持って、一陣の風が吹く。
花びらと共にスポットライトが私に降り――――最後の曲は締めくくられた。
私は息を整えながら、深く、深くお辞儀をする。
沈黙――それを破ったのは、ひとりの拍手だった。
鳴り響く音は、すぐに波紋のように広がり、やがて――――会場は万雷の拍手に包まれた。
「ありがとう、聖女様――!」
会場を埋め尽くす歓声と熱狂の渦。
わあぁぁっ――――と喝采の渦が天へと昇り、世界そのものが光に包まれていった。
やがて幕が閉じると、眩いシャンデリアが煌めく大広間が広がる。観客たちの昂ぶった熱は冷めやらず、そのまま舞踏会の華やぎへと流れ込んでいった――。




